中野学校と「皇統護持工作」作戦

 東京・上野にある寛永寺。私も何度もお参りに行ったことがありますが、あまりにもの伽藍の狭さにがっかりしたものでした。

 正式名称は、東叡山寛永寺。天台宗の別格大本山で、最澄が創建した天台宗の総本山「比叡山」延暦寺の東にあるので、東叡山と名付けられ、徳川将軍家の菩提寺でもあります。

 しかし、がっかりしたのは、単なる自分自身の勉強不足のせいでした。本来、江戸時代の寛永寺は、今の上野公園の敷地がすっぽり入る超巨大な敷地だったのです。幕末の戊辰戦争、ここで、大村益次郎を中心とした新政府軍が、寛永寺に籠った幕府方の彰義隊を粉砕し(上野戦争)、焼土と化しましたが、明治6年に、日本初の恩賜公園として整備されたのは皆様ご案内の通りです。

 話はここからです。

 江戸時代、この東叡山主として、皇室から迎えることになります。1647年(正保4年)、後水尾天皇の第3皇子守澄法親王が入山し、1655年(明暦元年)に「輪王寺宮」と号し、それ以降、代々の輪王寺宮が寛永寺住職となるのです。

 先ほどの上野戦争では、彰義隊が、「最後の輪王寺宮」と言われる北白川宮能久(よしひさ)親王(1847~1895年)を「東武皇帝」として擁立し、京都の明治天皇に対抗しようとした動きがあったというのです。勿論、それは実現しなかったわけですが、もし、仮に、実現していたら、室町時代の「南北朝時代」のように、「東西朝時代」のようなお二人の天皇が存立していた可能性もあり得たのです。

 話はこれで終わりません。

ノンフィクション作家の斎藤充功氏が最近、自身の40年間の著作物を一冊にまとめて上梓された「陸軍中野学校全史」(論創社、2021年9月1日初版)を今読んでいるのですが、これまで歴史の表に出て来なかった驚愕的な事実が色々と出てきます。この「輪王寺宮」関係もその一つです。

 中野学校は、皆さん御存知の通り、諜報、防諜、調略、盗聴、盗撮、暗号解読、何でもありの情報将校を育成した名高い養成学校です。明治維新からわずか77年めに当たる1945年、大日本帝国は、米軍を中心とした連合国軍に惨敗して崩壊します。その際、日本は、「国体護持」などを条件にポツダム宣言を受け入れました。

 国体護持とは、天皇制の維持ということです。しかし、戦後のどさくで、占領軍であるGHQが、この条件を守ってくれるかどうか分かりません。そこで、中野学校の情報将校の生き残り組たちが、「皇統護持工作」なるものを計画するのです。

 簡潔に記すと、中野学校出身の広瀬栄一中佐らが、北白川の若宮殿下を新潟県六日町に隠匿し、万が一、昭和天皇が廃されたら、代わりに皇統を護持させるという作戦です。この北白川の若宮殿下とは、道久(みちひさ)王(当時、学習院初等科に通う8歳)のことで、「最後の輪王寺宮」こと北白川宮能久親王の曾孫に当たる人です。この作戦を計画した広瀬中佐は、道久王の父永久(ながひさ)王と陸士(43期)で同期だった関係で、北白川家に信頼されていました。ちなみに、永久王は、この時すでに、演習中の航空機事故で30歳の若さで殉職されておりました。また、永久王の母君である房子内親王は、明治天皇の第七皇女で、昭和天皇の叔母に当たる血筋です。

 結局、この 「皇統護持工作」 作戦は、成り行き上、日本に亡命していたビルマの首相バー・モウの隠匿作戦と並行して行われたりして、関係者が事前に逮捕され、また、マッカーサーも天皇と会見するなど国体護持の方向性を示したため、誰にも知られることなく歴史の闇の彼方に消えていきました。

 この本には、他にも色々な工作活動が出てきます。陸軍中野学校には「黙して語らず」という遺訓があるだけに、取材も大変だったことでしょう。627ページもある大著です。この数週間は、 斎藤充功著「陸軍中野学校全史」(論創社)に没頭しそうです。

 

本当は凄かった田沼意次

 以前にも書きましたが、皇居から銀座を通って、築地に向かう道路を「みゆき通り」と言います。明治帝が、当時築地にあった海軍兵学校を視察するため、お通りになったので「御幸通り」と付けられました。

 銀座から築地に向かう際、途中で大きな道路に突き当たります。昭和通りです。関東大震災で壊滅的な被害を受けた帝都東京を復興する一環として当時の後藤新平東京市長の鶴の一声で整備されました。一説では、道路の下には大震災の瓦礫や〇〇などが埋められたと言われています。

 いやはや、本日はそんな話ではありませんでした。

 本日は、銀座から築地に向かって昭和通りを渡ったところに、目下建設されている高層ビルの話をしたいのです。

 もう2年以上工事を続けていますが、やっと外装が出来て、現在は内部工事をやっているところです。かなりのノッポビルですが、ホテルのようです。上の写真でお分かりのように、「頂上」に「GRAND BACH」と書かれています。日本語にすると「グランド・バッハ」ホテルということになるのでしょうか。

 実は、私自身、毎日のように、出勤で、この「グランド・バッハ」ホテル前を通るのですが、ここを通るたびに、苦笑せざるを得ません。今や、バッハと言えば、あの大作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハのことではなく、国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長のことを誰でも思い浮かべるからです。そして、バッハ会長と言えば、今や、「ぼったくり男爵」の異名の方が、有名になってしまっております。

ホテル・グランド・バッハ

◇「賄賂」と「ぼったくり」のハーモニー

 私が苦笑せざるを得ないのは、このグランド・バッハの敷地は、江戸時代、あの賄賂政治で名高い老中田沼意次の屋敷跡だったからです。「賄賂」と「ぼったくり」という妙な符合の一致に、苦笑せざるを得ないじゃありませんか。

 田沼意次と言えば、悪徳政治家の代名詞みたいなもので、もう悪玉の大親分のように歴史の教科書で習いますが、最近では、随分、見直されているようです。そもそも、田沼意次が悪の権化に仕立てられたのは、彼の失脚後に寛政の改革を進めた松平定信らを中心とした反田沼派の保守層による儒教的批判に基づいた評価だといいます。つまり、田沼に限らず、慣例として、大方が賄賂によって政治が動いていたということです。まあ、その度合いが、田沼意次は飛び抜けていたということなのでしょう。幕末の井伊直弼大老は有名ですが、井伊家は田沼意次への賄賂で大老職を買ったと言われています。田沼の父意行(もとゆき)は紀州藩の足軽から旗本に取り立てられた人物で、小姓だった田沼意次自身も出世のために、大奥や奥女中らにもかなり賄賂を贈っていたようです。

 今、再評価されている田沼意次の政策の特長は、幕府の財政危機を再建するために、緊縮財政策を見直して、重商主義を採用したところにあります。教科書の復習になりますが、問屋、株仲間の育成を強化したり,さらに貨幣の増鋳、長崎での貿易奨励、下総印旛沼の開拓などです。

 それまで、幕府は農民ばかりに年貢を納めさせて「税」を収奪していましたが、田沼意次が株仲間を育成させることによって、初めて、商工業者からも「税」を取ることを生み出したといいます。これまで、商人は税を払っていなかったんですね。これは幕府にとって大変な功績であり、日本史上、画期的なことでした。封建主義から資本主義への萌芽が見られたと言ってもいいかもしれません。

ホテル・グランド・バッハ 前にある東京都中央区教育委員会の碑

 で、この辺りは、田沼意次の時代は「木挽町」(こびきちょう=江戸城普請の際、大工らを住まわせた)という地名でした。田沼が老中として改革の先頭に立っていた時の田沼邸は、神田の上屋敷にありましたが、この木挽町の田沼屋敷は、下屋敷で、天明6年(1786年)、彼が68歳で失脚した以降に住んだ、というか、蟄居したところでした。

 悪評高い田沼時代ですが、実は、文化の華が開いた時期でもありました。前野良沢、杉田玄白らによって「解体新書」が翻訳されたり、エレキテルの平賀源内が活躍したりしました。田沼自身も、絵師を手厚く保護し、この木挽町の屋敷の一角に狩野派の屋敷を建て、画塾を開かせたのです。江戸奥絵師狩野派は四家ありますが、最も栄えたのはこの「木挽町狩野家」で、明治になっても、近代日本画壇に大きな貢献をした狩野芳崖や橋本雅邦らを輩出しています。(東京都中央区教育委員会)

鳥取県と岡山県との関係は?=「鳥取県産 紅ずわい蟹重」を味わう

I’m stuck.

 ちょっと、行き詰ってしまったので、新企画を考えました。誰も傷つかない、のんべんだらりと、まったりとした企画が良いに決まってます(笑)。

 東京・銀座周辺には、全国道府県が、郷土の名産を集めたアンテナショップを構えているのは皆さん御案内の通りです。そこでは、結構、地元料理を出すショップもあり、2階にレストランなんかがあったりします。そうだ!新企画「郷土料理巡り」はどうだろう? ーなあんだ、結局、「銀座ランチ」と同じじゃないか!(笑)。まあ、台湾、ロシア、タイ、ヴェトナム、インドネシア…と世界各国料理巡りもそろそろ飽きてきたので、愛国心を燃やして、全国各地の郷土料理にチェレンジしてみますか…。

 ということで、早速、昨日は、下調べも何もせずに、銀座1丁目にある「銀座の金沢」に出掛けてみました。そしたら、残念ながら、緊急事態宣言のため、食堂は休業でした。しかし、後で調べてみたら、加賀前田藩の本格的な郷土料理を提供するお店らしく、ランチ会席4200円でした。

 恐らく、銀座周辺で、最も客入りが良いアンテナショップは、有楽町の駅前「交通会館」にある「北海道どさんこプラザ」だと思います。私もよく利用しますが、残念ながら、ここにはレストランがありません。アイスクリームを食べることができるぐらいです。

 銀座5丁目にある「銀座熊本館」には、2階に「ASOBI・Bar」と呼ばれるレストランというより、食堂コーナーのようなeatery があり、いつぞや、そこで「真鯛の漬け丼」(1000円)を食したことがありました。驚くほど風変りではなく、まあ、「こんなものか」といった感じでしたが。

とっとり・おかやま新橋館・ももてなし家「鳥取県産 紅ずわい蟹重」1680円

 本日は、新橋駅銀座口の目の前にある「とっとり・おかやま新橋館」に行って来ました。この2階にあるレストラン「ももてなし家」が提供するランチ 「鳥取県産 紅ずわい蟹重」(1680円 )を是が非でも食してみたかったからでした。値段は二の次です(笑)。

 その前に、鳥取県と岡山県が何で、一緒になってアンテナショップを出しているのか、御存知ですよね? えっ? 知らない? 駄目ですねえ。もう少し、歴史を勉強しなければ…。両県は「親戚」だからです。えっ?これでも分からない?

 話が長くなるので、手短にしますと、江戸時代、鳥取藩も岡山藩も、池田氏が代々藩主を務める従兄弟、縁戚関係だったのです。キーパースンは池田輝政です。あの姫路城(国宝)を改築した初代播磨姫路藩主として知られます。

 輝政は、もともと、父池田恒興以来、織田信長と豊臣秀吉に仕えた重臣でしたが、徳川家康の娘督姫を娶ったり、石田三成と不仲だったりしたこともあり、関ケ原の戦いでは、家康方の東軍に付き、論功行賞で、15万石の三河吉田城から52万石の播磨へ加増転封されます。 

 鳥取藩には、恒興の三男で輝政の弟に当たる長吉が6万石の城主となりますが、その後、鳥取藩主には輝政の孫光政が継ぎます。

 一方、岡山(藩)は、関ケ原の前は、西軍の宇喜多秀家が治めていましたが、敗れたため八丈島に島流し。代わって初代藩主に就いたのが、西軍を裏切って東軍に勝利を齎した小早川秀秋です。しかし、「大谷刑部の祟り」とも言われ、わずか2年で病死。代わって、31.5万石の岡山藩主となったのが池田輝政の二男忠継でした。続いて三男忠雄が就きます。しかし、忠雄亡き後、三代目の家督を継いだ光仲(輝政の孫)は、この時わずか3歳で、山陽の要衝である岡山藩を治めるには荷が重いと幕府は判断し、寛永9年(1632年)、鳥取藩主の光政を岡山藩主とし、幼い光仲を鳥取藩主としたのです。つまり、池田氏同士で国替えをしたわけですが、光仲の子孫は「鳥取池田家」と呼ばれ、明治維新まで鳥取藩主を務め、光政の子孫は「池田家宗家」と呼ばれ、明治まで岡山藩主を務めたわけです。

とっとり・おかやま新橋館・ももてなし家「鳥取県産 紅ずわい蟹重」1680円

 やっぱり、長くなってしまいましたが、これで、鳥取と岡山の関係がお分かりになったと思います。

 ああ、そう言えば、郷土料理の新企画の話でした。

  とっとり・おかやま新橋館の2階「ももてなし家」で食したランチ「鳥取県産 紅ずわい蟹重」は、御飯が少なかった、というのが第一感想です(笑)。知らなかったのですが、ズワイガニは、鳥取県が 全国で一番水揚げ高が多いらしいのですが、旬は、秋から冬にかけてということなので、真夏は、身が小ぶりの感じがしました。

 でも、大変美味しゅう御座いました。

 メニューを見たら、岡山名産の「白桃のパフェ」があり、注文しようとしましたが、値段が 「鳥取県産 紅ずわい蟹重」 と同じ1680円。うーん、さすがに諦めました(笑)。

 1階の売り場には、岡山名産の美味しそうな大振りな葡萄もありましたが、一房5000円也。いつか、迷わずに買えるご身分になりたいものです。

大田区役所物語=桃源社の佐佐木吉之助さん

 「日乗」と銘打っておきながら、毎日書けない日もあります。モノを書くことは職業病なので、苦は通り越しているのですが、「何を書いても無駄」といった虚無感に苛まれたりして、筆が進まない日があるのです。昨日もそうでした。ごめんちゃい、としか言うしかありません。

 本日も題材があまり浮かばないので、単なる雑感ですー。

 先日、東京・大田区の蒲田に行った話をこのブログで書きました。JR蒲田駅東口に隣接する超一等地に「大田区役所」があったので、昨日、出勤した際、蒲田生まれの蒲田育ちの会社の同僚O氏に「凄い所に区役所あるね」と話したところ、「ああ、あそこはもともと、トウゲン社が建てた高級マンションだったんですよ」と言うではありませんか。

 えっ?何?トーゲン社?漢字はどう書くの?という話から始まって、よくよく取材したところ、トーゲン社とは、あの「バブル紳士」と悪名を轟かせた佐佐木吉之助(1932~2011年)が創立した不動産会社「桃源社」のことでした。ああ、聞いたことがある!

 バブルがはじけた1990年代後半に住専問題が国会でも取り上げられ、この佐々木吉之助さんも国会で証人喚問されて、メディアを賑わしたものです。が、今やすっかり忘れ去られ、若い人はほとんど知らないことでしょう。この人、今は簡単に調べられますが、もともと慶応大学医学部を出た医師だったんですね。1971年に不動産会社を設立して、いわゆる地上げで巨万の富を築いて「バブル紳士」の一人として目されましたが、バブル崩壊の上、偽証罪で逮捕されたりして、晩年は最悪だったようです。

 O氏によると、この蒲田駅前超一等地の桃源社の物件処理問題は、紆余曲折の末、区役所になったというのです。内部は改装されて、かつて、高級マンションのプールがあったところは、何と「埋め立てられ」て、今や、区議会場になっているというのです。だから、議員の座席も横長になっていて、変な議事場になっているといいます。へー、ですね。知らなかった。

 大田区役所は、以前は、大森駅から歩いて15分以上の不便な所にあったらしいので、「バブルの置き土産」とはいえ、今や大田区民は恵まれていますね。ちなみに、大田区とは、戦前の大森区と蒲田区が合併して、「大田」区となったのでした。蒲田の駅近は、新宿の歌舞伎町のような怪しげなごちゃごちゃした繁華街でしたが、私の生誕地なので(笑)、また、いつか行ってみたいと思います。

有楽町「ロイヤルホスト」黒和牛ハンバーグ定食・ドリンクバー付1694円 緊急事態宣言下なのに店内満員。期待していなかったのに、実に美味かった。

  話は変わって、先日、テレビで、かつての名画である「麗しのサブリナ」(1954年、ビリー・ワイルダー監督)を初めて観ました。何てことはない、映画でしかあり得ないシンデレラストーリーでしたけど、オードリー・ヘプバーン主演の「ローマの休日」(1953年、ウイリアム・ワイラー監督)に続く大ヒット作でした。まだ、白黒でしたが、映画黄金時代の作品です。相手役は、あの「カサブランカ」のハンフリー・ボガード(ボギー)です。

 ヘプバーンもボギーも、今でも名優として名を残していますが、調べてみたら、意外にも若くして亡くなっていたので驚いてしまいました。 オードリー・ヘプバーン (1929~93年)は63歳、 ハンフリー・ボガード (1899~1957年)は何と57歳で亡くなっているのです。「えーー!!」です。「人生100年時代」と言われる現代からみれば、まだまだ、本当にお若い。そう言えば、私の大好きなビートルズのジョン・レノンは40歳、ジョージ・ハリスンも58歳で亡くなっていましたね。

 「長生きは三文の徳」「無事是名馬」…色んな駄作が思い浮かびますが、何も功績も業績もなくたって、長生きできるだけで、それでいいじゃないか。有名にならなくても、人に馬鹿にされても、路傍に咲く月見草でも、ただ、生きているだけで、それでいいじゃないか。

 まあ、そんなことを考えてしまいました。

菅原道真は善人ではなかったのか?=歴史に学ぶ

  「努力しないで出世する方法」「10万円から3億円に増やす超簡単投資術」「誰それの金言 箴言 」ー。世の中には、成功物語で溢れかえっています。しかし、残念ながら、ヒトは、他人の成功譚から自分自身の成功や教訓を引き出すことは至難の技です。結局、ヒトは、他人の失敗や挫折からしか、学ぶことができないのです。

 歴史も同じです。大抵の歴史は、勝者側から描かれるので、敗者の「言い分」は闇の中に消えてしまいます。だからこそ、歴史から学ぶには、敗者の敗因を分析して、その轍を踏まないようにすることこそが、為政者だけでなく、一般庶民にも言えることだと思います。

 そんな折、「歴史人」(ABCアーク)9月号が「おとなの歴史学び直し企画 70人の英雄に学ぶ『失敗』と『教訓』 『しくじり』の日本史」を特集してくれています。「えっ?また、『歴史人』ですか?」なんて言わないでくださいね。これこそ、実に面白くて為になる教訓本なのです。別に「歴史人」から宣伝費をもらっているわけではありませんが(笑)、お勧めです。

 特に、10ページでは、「歪められた 消された敗者の『史料』を読み解く」と題して、歴史学者の渡邊大門氏が、史料とは何か、解説してくれています。大別すると、史料には、古文書や日記などの「一次史料」と、後世になって編纂された家譜、軍記物語などの「二次史料」があります。確かに一次史料の方が価値が高いとはいえ、写しの場合、何かの意図で創作されたり、嘘が書かれたりして鵜呑みにできないことがあるといいます。

 二次史料には「正史」と「稗史(はいし)」があり、正史には、「日本書紀」「続日本紀」など奈良・平安時代に編纂された6種の勅撰国史書があり、鎌倉幕府には「吾妻鏡」(作者不明)、室町幕府には「後鑑(のちかがみ」、江戸幕府には「徳川実記」があります。ちなみに、この「徳川実記」を執筆したのは、あの維新後に幕臣から操觚之士(そうこのし=ジャーナリスト)に転じた成島柳北の祖父成島司直(もとなお)です。また、「後鑑」を執筆したのが、成島柳北の父である成島良譲(りょうじょう、稼堂)です。江戸幕府将軍お抱えの奥儒者だった成島家、恐るべしです。成島司直は、天保12年(1841年)、その功績を賞せられて「御広敷御用人格五百石」に叙せられています。これで、ますます、私自身は、成島柳北研究には力が入ります。

 一方、稗史とは、もともと中国で稗官が民間から集めた記録などでまとめた歴史書のことです。虚実入り交じり、玉石混交です。概して、勝者は自らの正当性を誇示し、敗者を貶めがちで、その逆に、敗者側が残した二次史料には、勝者の不当を訴えるとともに、汚名返上、名誉挽回を期そうとします。

 これらは、過去に起きた歴史だけではなく、現在進行形で起きている、例えば、シリア、ソマリア、イエメン内戦、中国共産党政権によるウイグル、チベット、香港支配、ミャンマー・クーデター、アフガニスタンでのタリバン政権樹立などにも言えるでしょう。善悪や正義の論理ではなく、勝ち負けの論理ということです。

 さて、まだ、全部読んではいませんが、前半で面白かったのは、菅原道真です。我々が教えられてきたのは、道真は右大臣にまで上り詰めたのに、政敵である左大臣の藤原時平によって、「醍醐天皇を廃して斉世(ときよ)親王を皇位に就けようと諮っている」などと根も葉もない讒言(ざんげん)によって、大宰府に左遷され、京に戻れることなく、その地で没し、いつしか怨霊となり、京で天変地異や疫病が流行ることになった。そこで、道真を祀る天満宮がつくられ、「学問の神様」として多くの民衆の信仰を集めた…といったものです。

 ところが、実際の菅原道真さんという人は、「文章(もんじょう)博士」という本来なら学者の役職ながら、かなり政治的野心が満々の人だったらしく、娘衍子(えんし)を宇多天皇の女御とし、さらに、娘寧子(ねいし)を、宇多天皇の第三皇子である斉世親王に嫁がせるなどして、天皇の外戚として地位を獲得しようとした形跡があるというのです。

 となると、確かに権力闘争の一環だったとはいえ、藤原時平の「讒言」は全く根拠のない暴言ではなかったのかもしれません。宇多上皇から譲位された醍醐天皇も内心穏やかではなかったはずです。菅原道真が宇多上皇に進言して、道真の娘婿に当たる斉世親王を皇太子にし、そのうち、醍醐天皇自身の地位が危ぶまれると思ったのかもしれません。

 つまり、「醍醐天皇と藤原時平」対「宇多上皇と菅原道真と斉世親王」との権力闘争という構図です。

後世に描かれる藤原時平は、人形浄瑠璃や歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」などに描かれるように憎々しい悪党の策略家で「赤っ面」です。まあ、歌舞伎などの創作は特に勧善懲悪で描かれていますから、しょうがないのですが、藤原時平は、一方的に悪人だったという認識は改めなければいけませんね。

 既に「藤原時平=悪人」「菅原道真=善人、学問の神様」という図式が脳内に刷り込まれてしまっていて、その認識を改めるのは大変です。だからこそ、固定概念に固まっていてはいけません。何歳になっても歴史は学び直さなければいけない、と私は特に思っています。

女塚神社と池上本門寺を参拝=東京・蒲田

 夏休みです。コロナ感染拡大で、日蓮宗の総本山、山梨県の身延山久遠寺の宿坊の予約をキャンセルしたため、昨日は、日蓮聖人入滅の地である東京・池上本門寺にお参りに行きました。

 いつでも行けると思ってましたから、ご無沙汰してしまいましたが、多分、45年ぶりぐらいの再訪だったと思います。ですから、力道山のお墓以外ほとんど覚えていませんでした(苦笑)。

女塚神社

 実は、池上本門寺にほど近い東京・蒲田は私の生まれた所です。

 今では、東京都大田区西蒲田〇丁目となっていますが、当時は東京都大田区女塚という地名でした。今は、影も形もないようですが、そこの女塚病院で生まれました。

女塚神社

 その「女塚」という地名には、私自身、昔から引っ掛かっておりました。若い頃は、「女難の相」があるのではないかと真剣に悩んだものでした(苦笑)。

 そしたら、会社の同僚で地元・蒲田生まれで蒲田育ちのOさんから、「女塚神社に碑がありますよ」と教えてくれたので、まず、最初に女塚神社に向かったのです。

 いやあ、蒲田は大都会ですね(笑)。緊急事態宣言下の平日だというのに、人も多く、飲食店も多く、道も複雑で、結構、迷いながら、やっと辿りつきました。

女塚古墳の由緒

 そしたら、上の写真の碑の通り、ちゃんと由来が書いてありました。

 要するに、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の子義興は、足利尊氏が没した半年後の正平13年(1358年)、挙兵しますが、尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と関東管領の畠山国清の謀りごとで、竹澤右京亮によって、多摩川の矢口の渡しで騙し討ちされます。

 この新田義興の憤死の際、侍女の少将局が忠節を尽くして共に害したため、村民が憐れんで、この地に侍従神として祀って崇敬し、それ以来、女塚と呼ばれたというのです。

 この少将局は、竹澤右京亮が義興を謀殺するために送り込んだ「女スパイ」という説もありますが、殉職したので、結果的には忠節を尽くした立派な侍女ということになるのでしょう。

 いずれにせよ、こういう経緯があったとは知りませんでした。新田一族と関係があったんですね。やはり、知識は大切です。今年5月、群馬県太田市の金山城跡を訪れた際、新田義貞を祀った新田神社をお参りしたことを思い出しましたが、何か御縁を感じました。

 女塚神社から池上本門寺を目指しました。

 地図で見たら、何となく近い感じがしましたが、歩いたら道に迷い、30分以上掛かりました。あまりにも暑くて、途中で公園のベンチで一休みしました。

池上本門寺・九十六階段

 池上本門寺で待ち受けていたのは、この96段にも上る階段でした。

 戦国武将加藤清正が寄進したものだそうです。

 詳しくは、上の説明看板をお読みください。

 加藤清正は、秀吉恩顧の大名ながら、関ケ原では家康の東軍につき、加増されて肥後熊本の51万石の大大名となります。築城の名人でもあり、天下普請の名古屋城でも活躍しましたね。

 清正は日蓮宗の信仰に篤く、池上本門寺には母親病気平癒などでかなり寄進したようです。目下、境内には清正公堂と呼ばれる三重塔を再建しているようで募金もしていました。

池上本門寺・山門 奥が本堂

 実に立派な山門です。新し過ぎるので、勿論、山門も、本堂も、アメリカ軍による空襲で焼失したので、再建されたものです。

 奥に写っているのが本堂ですが、後から気が付いたら、本堂の写真を撮ってくるのを忘れていました!ぼさっとしてますね。

疫病除け御守り1000円

 本堂では、新型コロナの疫病退散のお守りがあったので、皆様を代表して早速買い求めました。

 これで、来年にはコロナも収束すると思います。非科学的ですが、信じるしかない!

池上本門寺・五重塔

 池上本門寺を参拝する目的の一つが、この五重塔でした。

 幸運にも、ここだけは戦災を免れたらしく、関東一古い五重塔として、重要文化財に指定されています。

 二代将軍徳川秀忠の病気平癒のために建てられたそうなので、もう400年も前の建造物ということになります。


池上本門寺・力道山の墓

 勿論、力道山のお墓もお参りしました。

 何も知らない子ども時代の私のヒーローでしたね。1963年12月、東京・赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、住吉一家系の村田勝志組員と口論と格闘の末、刺され、この傷が元で1週間後に39歳の若さで亡くなります。そんな若かったの?です。

 力道山は、ナイトクラブに新聞記者も引き連れていて、その中の一人、スポーツニッポンのベテラン記者だった寺田さんから、私は1981年、東京・原宿の日本体育協会の記者クラブでご一緒だったので、当時の話を聞いたものです。力道山は、刺された後、席に戻ってきて、周囲の新聞記者に「やくざに刺された」と言ったか、ステージに上がって、「皆さん、このクラブにはやくざがいるから気を付けてください」とマイクで叫んだか、どっちだったか、色んな本を読んでいるうちに、ごっちゃになって分からなくなってしまいましたが、多分、後者だったと思います(苦笑)。

 とにかく、力道山は、自分の体力を過信せず、その日のうちにしっかり手術を受けていれば、生命だけは助かっていたと思います。

池上本門寺・山門で迅雨

 さて、帰ろうとしたところ、急に大雨が降って、動けなくなりました。

 えっ?雨? 天気予報は「晴れ」のはずだったのに…。傘がない!

 バケツの水をひっくり返したような尋常ではない雨量です。しばらく、山門で雨宿りさせてもらうことにしました。

池上・元祖葛餅「池田屋」

 50分ぐらい雨宿りしたでしょうか。小降りになったので、本門寺に一番近い、老舗の久寿餅屋さん「池田屋」に飛び込みました。

 池上には、江戸時代から創業している老舗の久寿餅屋さんが、「浅野屋」(1752年創業)、「藤乃屋」(1696年創業の「相模屋」を引き継ぐ)、「池田屋」(元禄年間創業)の三軒もあり、時間があれば、何処かに入るつもりでしたが、大雨で予定が狂ってしまい、ここで昼食をとることにしました。

池上・元祖久寿餅「池田屋」ミニ膳880円

 はい、これが、「池田屋」のミニ膳です。あんみつとアイスクリームもついて、大変贅沢でしたが、やはり、ランチというより、デザートでしたね(笑)。

 帰りは、東急池上線に乗って、蒲田にまで戻り、そこで、名物の羽根つき餃子を食べようかと思ったら、駅に近い「歓迎」に行ったら、大雨のせいで雨宿りをしたので、ランチの時間が過ぎてしまっていました。そこで、お店の人に教えてもらったチェーン店の「惣菜店」で生餃子を買いましたが、しまった、これでは即、帰宅しなくてはならなくなり、餃子はお家で食べました。

 皮がモチモチして、餡も野菜たっぷりで旨い! これなら、宇都宮餃子と浜松餃子に対抗できますね。

 蒲田の羽根つきギョウザの元祖は「你好」ですが、緊急事態宣言のため、休業していて行けずに残念でした。ここは、盛んに新聞やテレビで紹介されているので、御存知だと思いますが、満洲の残留孤児だった八木功さんが、日本に引き揚げて1983年に開店したお店で、他に八木さんのきょうだいが開店した「歓迎」「春香園」など数店あります。コロナが終息したら、御一緒に、焼きたての餃子とビールでいきたいもんですね。

関ケ原の合戦で何故、西軍は負けたのか?

 本来ですと、今頃は夏休みで、温泉宿でゆっくりしていたことでしょうが、コロナ感染拡大のため、宿泊旅行はキャンセルしたことは、以前、このブログで書いた通りです。

 となると、やることは、他になし。書斎に積読状態になっている本を手当たり次第に読むしかありません。てな調子で、「歴史道」(朝日新聞出版)16号「関ケ原合戦 東西70将の決断!」を読了しました。

 関ケ原関連書の「決定版」とまで言えないかもしれませんが、少なくとも、最新歴史研究の成果がこの1冊に網羅されています。関ケ原の戦いとは、言うまでもなく、慶長5年(1600年)9月15日午前8時(もしくは10時の説も)に開戦し、わずか半日で東軍の徳川家康が勝利を収めた天下分け目の戦いのことです。通説では東軍7万4000兵に対して、西軍は8万4000兵。それなのに、何故、石田三成の西軍が敗退したのか?ー小早川秀秋の裏切り、吉川広家・毛利秀元や島津義弘の日和見のような不戦が帰趨を決める決定打になったと言われ、私も色んな本を読んでそう納得してきました。

 でも、この本を読んで感じた「決定打」は、五大老の一人で西軍の総大将になった毛利輝元のせいだったことが分かりました。毛利輝元は、総大将という最高司令官なのに、合戦が始まっても、大坂城から一歩も出ることがなく、まるで安全地帯で様子見している感じで、「変な総大将だなあ」と以前から思っていましたが、合戦の前日に徳川方(本多忠勝と井伊直政の連署)から起請文が吉川広家(毛利輝元の従兄弟)らに送られ、輝元もこれを受け入れて、家康と和睦し、東軍に寝返っていたんですね。これでは、毛利方が動かないはずでした。

 いくら、「幻の城」玉城を築城し、西軍が豊臣秀頼を迎える画策があったとしても、総大将が寝返ってしまえば、負けるに決まってます。西軍で頑張ったのは、石田三成と島左近、大谷吉継、小西行長、そして、毛利方の和睦を知らされていなかった安国寺恵瓊ぐらいでした。残りの有力大名は、日和見か、黒田長政を始めとした徳川方から調略されて寝返ったわけですから、結果は火を見るよりも明らかでした。

 本当に「なあんだ」という感じでした。

 でも、図解、写真付きのこの本は、本当に分かりやすい。合戦当日の東西70武将の参戦の顛末が表になっていますが、徳川家康は251万石の武蔵江戸城主で58歳。一方の石田三成は21万石の近江佐和山城主で40歳。最初から格が違っていたことが一目瞭然です。それに老獪な家康は、早くから豊臣家恩顧の大名と自分の娘や養女を政略結婚させて、自分の味方に付ける策略を着実に進めていました。福島正則、加藤清正、前田利長、黒田長政、山内一豊といった秀吉子飼いの諸大名が、何故、西軍ではなく、徳川方の東軍に付いたのか、よく分かりました。

 北政所や淀君が、はっきりと西軍に肩入れせず、旗幟鮮明にしなかったことも西軍の敗因でした。関ケ原の合戦から15年後の大坂の陣で、豊臣家は滅びるわけですから、慶長4年での判断の間違いが元で、豊臣家は滅びるべきして滅びたと言えるでしょう。

 いずれにせよ、この本には、誤植もありますが、日本史上最大の合戦の経緯が学べる必読書でしょう。

エリート教育の是非=牟田口廉也とジョン・フォン・ノイマンを巡って

 昨日は、このブログで、インパール作戦の最高司令官・牟田口廉也中将のことを書きましたが、彼がいくら「部下のせいで失敗した」と自説を主張しようと、9万2000人もの将兵をビルマの山岳地帯に置き去りにして、自分だけ一人で飛行機で逃げ帰ったのは歴史的事実です。

 彼は、この作戦で2万3000人もの将兵が戦死(主に餓死)したというのに、一切責任を取りませんでしたし、陸軍上層部も彼に責任を問わず、帰国後は陸軍予科士官学校長に栄転させています。

 日本人は、戦前も戦中も戦後も、トップは自分の責任を取らないし、責任を問われないということが、日本のお家芸であり、伝統であるという良い見本をみせてくれています。(となると、コロナ感染拡大について、菅首相が責任を取ることはないことは、容易に分かります。)

 戦前戦中は、今では考えられないほどの階級社会であり、エリート階級とそれ以外の庶民では天と地の違いがありました。将軍が雲の上の神さまなら、一兵卒は将棋の駒どころか、奴隷以下です。将軍ともなると、中には兵隊の人命など虫けら以下、と考えていたことでしょう。だから、インパール作戦のような無謀な作戦が立案できるのです。

 牟田口廉也は、何十倍もの競争率を勝ち抜いて、陸軍士官学校~陸軍大学を出たエリート中のエリートです。恐らく幼年時代は、「神童」と周囲から褒められたことでしょう。超秀才です。しかし、学業成績が良いとか偏差値が高いといったエリート教育だけでは、国家を破滅させるほど弊害があることが、牟田口の例を見ても実証されています。

 先日、面白い記事を読みました。西垣通東大名誉教授が書いた「天才ノイマンの悪魔的価値観」です(8月11日付毎日新聞夕刊)。ノイマンとは原爆を開発したマンハッタン計画に参加した天才科学者ジョン・フォン・ノイマン(1903~57年)のことで、その驚嘆すべき業績は、原爆だけではなく、人工知能など現代情報通信技術にまで広く及んでいます。ただ、ノイマンの思想にあるのは、徹底した科学優先主義と犠牲を顧みない非人道主義で、普通人の苦悩には無関心だったというのです。この下りを読んで、牟田口のことをすぐ思い起こしました。牟田口も成績優秀の秀才だったことでしょうが、犠牲を顧みない非人道主義者で、一兵卒の苦悩には無関心だったということです。

 つまり、頭の良さと人格、思いやり、優しさ、品性とは一致しない、ということを私は言いたいのです。天才に限って、不幸だったり、浪費僻や性格が悪かったりします(笑)。

銀座・「金目」本マグロ握りランチ1000円

 フランスのマクロン大統領も、最近、エリート教育の弊害に目覚めたらしく、自分の出身校でもあり、超エリート教育校で高級官僚の養成機関として知られる国立行政学院(ENA)の廃止を今年4月に表明しました。

 でも、私はエリート教育の反対者ではありません。試験で良い成績さえ取れば、たとえ貧乏な家庭に生まれようが、爵位がなく、卑しい家系であろうと(注=差別用語なのですが、あえて)、上流国民に這い上がれるからです。人間生まれながらにして不平等であり、親を選んで生まれてくることはできません。本人の努力で、しかも、試験で、チャンスをもらえるなら利用しない手はありません。

 ただ、エリートは何でも優遇されますから、本人が気が付かないうちに傲岸不遜となり、他人の犠牲はやむ得ないという思想になることでしょう。軍人とは言っても、高級官僚ですから、自分自身は、最前線に出ることなく、血の雨も見ることはなく、安全地帯にいて、飲食の心配をすることもないからです。

ですから、エリート教育だけではなく、落ちこぼれた人への敗者復活の機会や場所の提供、セイフティネットの充実と福祉事業も必要です。何よりも、傲慢なエリートたちの所業をチェックする機関とその人材育成も大切でしょう。となると、江戸時代の目付役のようなものも必要でしょうが、批判精神を持ったジャーナリスト、操觚之士の出番です。ジャーナリズムがその国の民度を表すというのは、正鵠を得ているのではないでしょうか。

戦争ものが少なくなった8月のテレビ界

 8月は終戦記念日の月ですので、メディアは戦争ものの企画が増えますが、新聞はともかく、テレビは民放も国営放送も以前と比べると格段と戦争特集番組やドラマが減りましたね。テレビは所詮、広告媒体であり、エンタメ中心ということなんでしょうか?

私が子どもの頃、「あゝ、同期の桜」という特攻隊のドラマをやっていました。陸軍に一兵卒として志願して辛うじて生還した父親は、ドラマを見ながらポロポロと涙を流していたのを思い出します。調べたら、1967年にNET(現テレビ朝日)で4月から半年間続いたドラマでした。当時はまだ戦争体験者の方が多かったせいか、視聴率も高かったことでしょう。

 正直言いますと、私の子どもの頃、「自分が大人になったら、徴兵でとられて戦争に行くんだろうなあ」とビクビクしながら育ちました。戦争第2世代ではありますが、まだ両親や周囲から生々しい体験談を聞いていたので、戦争は身近に感じていました。

 あれから半世紀以上の年月が経ち、「戦争を知らない子供たち」の子供たちの世代になったので、時代が変わったということなのでしょうが、決して忘れてはならないことです。私は少なくとも、太平洋戦争で亡くなった英霊のお蔭で、今の平和があるという有難みを感じながら生きています。そして、あの戦争は何だったのか、今でも考え、勉強しなければならないと思っています。

銀座・晴海通り

 「歴史人」8月号「日米開戦80年目の真実」特集「なぜ太平洋戦争を回避できなかったのか?」を読むと、戦争というのは、かなり「属人的」で、現場の司令官によって、180度全く違うことを痛感しました。

 太平洋ではないので、敢て、GHQが禁止した「大東亜戦争」と書きますが、この大東亜戦争の中で、最も醜悪で、無為無策で、無謀だった戦争を一つだけ挙げよと言われれば、私は迷わずビルマの「インパール作戦」(1944年3月8日~7月3日)を挙げます。最高司令官は牟田口廉也中将(1888~1966年)。佐賀県出身。陸士22期。この人、日中戦争のきかっけをつくった盧溝橋事件で、支那駐屯歩兵第一連隊長で、戦火を開いた責任者で「俺が始めたこの戦争を、俺が終わらせる」と周囲の参謀の大反対を押し切ってインパール作戦を立案し実行します。

 無謀で無策だったのは、2000メートル級の山岳地帯を進軍するというのに、十分な補給や後方支援も考えず、前近代的な精神論だけで、部下を前線に送り込んだことです。それでいて、自分だけは後方の安全地帯で高みの見物をし、戦況が悪くなるとさらに後方に下がり、最後は、戦闘というより飢餓で亡くなった将兵たちがつくる「白骨街道」の上空を飛行機で逃げ帰った最悪の人物でした。9万2000人動員した作戦の戦死者は2万3000人。その張本人・牟田口廉也は、陸軍上層部から責任を問われることはなく、戦後ものうのうと生き残り続けました。しかも、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と自説を曲げずに77歳の生涯を終えました。

 この牟田口の言う「無能の部下」というのは、第31師団の佐藤幸徳中将と第15師団の山内正文中将と第33師団の柳田元三中将のことも含まれるでしょう。この3人の師団長は、武器や弾薬も、水や食糧の補給もなく戦闘継続が不可能なことから、作戦中止や撤退したりしたため、牟田口から現場で師団長の職を更迭されました。特に、 第31師団の佐藤幸徳中将(陸士25期)は牟田口の作戦に反対して無断で撤退しましたが、お蔭で、彼が率いた多くの将兵の生命は救われることになりました。

 ただし、無断撤退は、抗命罪に当たります。軍法会議では不起訴にはなりましたが、戦後長らく「インパール作戦の失敗は戦意の低い佐藤ら3人の師団長が共謀して招いたもの」とされてきました。しかし、 日米開戦から80年経った現代の人権擁護主義でいけば、佐藤中将の行為は賛美されるべきでしょう。

銀座・昭和通り

 とにかく、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」といった軍人勅諭でがんじがらめになっていた帝国陸海軍でしたから、ガタルカナル島(百武晴吉中将、1万9200人戦死)、アッツ島(山崎保代大佐、2630人戦死)、サイパン島(南雲忠一中将、4万1000人戦死)、硫黄島(栗林忠道中将、1万8000人戦死)…と「玉砕」の悲劇を生みました。ところが、司令官の判断で玉砕の道を選ばなかった戦闘もありました。キスカ島の木村昌福(まさとみ)少将です。彼は、玉砕ではなく撤退を選び、守備隊員5200人の生命を救います。でも、恐らく当時は非難されたか、非国民扱いされたことでしょう。

 日米開戦80年となった現代の常識から見れば、木村少将の撤退は賛美されるべきものです。何と言っても、指揮官の判断によって、何万人もの将兵の生死が分かれます。極めて属人的なものです。山本五十六東条英機だけでなく、この木村昌福も教科書で教えてもらいたい人物です。

◇フィリピン決戦で43万人が戦死

 ところで、太平洋戦争で、日本軍の被害が甚大だったのは、フィリピン決戦でした。レイテ沖の戦い、ルソン島の戦い等で、実に43万人もの将兵が戦死しました。首都マニラの市街戦では、10万人もの市民が犠牲になったといいます。植民地解放を謳った正義の「大東亜戦争史観」で言えば、フィリピンはアメリカの植民地でしたから、帝国陸海軍は、東南アジアの中で最も戦力を導入したせいかもしれません。

 レイテ沖海戦では、私の大叔父高田茂期も戦死しました。新宿ムーランルージュの座付き台本作家だったと話に聞いています。牟田口廉也のように戦後も生き延びることができたら、後に名を残すほど活躍したかもしれないと思うと悲憤慷慨したくなりますよ。

幕末に新聞を創刊した代表的人物9人

  奥武則著「幕末明治 新聞ことはじめ」(朝日新聞出版、2016年12月25日初版、1650円)を読了しました。

 幕末、維新前後に新聞というこれまでになかった媒体(メディア)を我が国で創始した9人の物語です。ジョセフ・ヒコ、アルバート・W・ハンサード、ジョン・レディ・ブラック…。私自身は、40年以上もメディア業界で禄を食みながら彼らの名前さえ知りませんでした。もしくは、いつぞや日本新聞協会の横浜ニュースパークに見学に行ったというのに、すっかり忘れていました(苦笑)。不明を恥じるしかありません。登場する9人の中で、辛うじて、存じ上げているのは柳河春三(「中外新聞」)、岸田吟香(「東京日日新聞」)、成島柳北(「朝野新聞」)、福地源一郎(桜痴)(「東京日日新聞」)…でしたが、池田長発(ながおき)は知りませんでした。

 9人以外で章立てしていない重要人物も欠けていましたね。明治3年に日本で最初に創刊された日刊邦字紙「横浜新聞」の子安峻(こやすたかし)、明治5年、「郵便報知新聞」を創刊した前島密と編集主任を務めた栗本鋤雲、明治15年に「時事新報」を創刊した福澤諭吉らです。でも、まあ、これはあら探しに過ぎないでしょう。ここまで調べ上げた著者の力量に感服するしかありません

 著者の奥氏(1947~)は、毎日新聞社学芸部長などを歴任し、一面コラム「余禄」も執筆されていましたが、公募で法政大学教授に採用され、「大衆新聞と国民国家」「露探」など多くの書を著した方でした。私自身の関心興味範囲が重なるので他にも読んでみたいと思いました。

 この本の「あとがき」で、奥氏の早大政経学部時代のゼミの師で、58歳の若さで亡くなった政治思想史研究家藤原保信先生のことに触れていましたが、この藤原ゼミからは、森まみゆ、原武史といった今第一線で活躍する学者や作家を多くを輩出していたことを知りました。藤原氏は名伯楽だったんですね。

 あらあら、こんなことを書いているうちにこの本の内容について、まだ一言も触れていませんでしたね(笑)。実は、全員といっていいくらい、この本に登場する新聞創始者たちは波乱万丈の人生で、一言では紹介しきれないのです。

◇日本の新聞の父、ジョセフ・ヒコ

 例えば、横浜で「海外新聞」を発刊し「日本における新聞の父」と呼ばれるジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)は、13歳になった嘉永3年(1850)に炊事係として乗船した船が暴風雨で遠州灘で遭難し、米商船に助けられ、米国ではボルチモアの銀行家に庇護されて同地のミッションスクールで教育を受け、安政5年(1858年)に神奈川の米領事館通訳として帰国を果たします。

 ジョセフ・ヒコはその後、再び米国に戻るなどして紆余曲折の人生行路を歩んだ末、元治元年(1864年)、「海外新聞」の前身である「新聞誌」を横浜で創刊します。これは現物が残っていないので実際にどんな新聞だったのか今では分かりませんが、この新聞に協力したのが、岸田吟香と本間潜蔵です。

 岸田吟香は天保4年(1833年)、美作国の酒造を営む旧家(現岡山県美咲町)に生まれ、江戸の昌平黌で学び、28歳にして三河挙母(ころも)藩の儒官に採用されるも数カ月で脱藩し、その後は左官の手伝いや湯屋の三助など型破りな生活をした後、これまた紆余曲折の末、東京日日新聞(現毎日新聞)の主筆(台湾出兵取材で日本初の従軍記者に)になった人です。(庶民が読んでも分かりやすく、自分のことを「おいら」と書いたりしました)岸田吟香の四男は、「麗子像」で有名なあの岸田劉生です。岸田吟香の墓は東京・谷中墓地にあり、私も一度お参りしたことがあります。

 本間潜蔵(のちに清雄)は天保14年(1843年)、掛川藩の藩医の家(現静岡県菊川市)に生まれ、海外渡航を夢見て英語を学ぶために、横浜に来て、(恐らく)ヘボン塾(ヘボンは、米宣教師、医師で、日本初の和英辞典「和英語林集成」を岸田吟香の助力で編纂。明治学院を創設。ヘボン式ローマ字で有名)で岸田吟香と知り合い、ジョセフ・ヒコが外国新聞を翻訳・口述したものを筆記して日本語の文章の体裁に整えたりします。彼は、徳川昭武のパリ万国博派遣の随行団の一員に選ばれ、海外渡航の夢を果たします(となると、渋沢栄一とも面識を持ったはず)。維新後は外務省に入り、オーストリア代理公使などを歴任します。

お城ではなく、自宅近くにある個人住宅です。大豪邸です。

 でしょ? 9人全員を取り上げていては、キリがないので、最後にジョン・レディ・ブラックだけを取り上げます。この人も波乱万丈の人生を歩んだ人で、スコットランドの資産家に生まれ、ロンドンで教育を受けるも15歳でドロップアウトし、仲買人になり、28歳でオーストラリアに移住し、輸出入業・保険代理店業を営み、一時成功するものの、破産して廃業し、シドニーを拠点に何と、歌手として活動します。その後、歌手としてインド、中国で公演活動し、1864年には横浜にも足を延ばします。その横浜で、「ジャパン・ヘラルド」を1861年に創刊した アルバート・W・ハンサード と知り合い、2人は意気投合し、ブラックも歌手から新聞人へと転身します。「ジャパン・ガゼット」「ファーイースト」などの英字紙を創刊し、明治5年にはついに念願の日本語新聞「日新真事誌」を創刊します。ブラックは、日本も英国と同じような立憲君主の議会政治をするべきだという思想の持ち主で、明治7年1月には、板垣退助らの「民選議院設立建白書」をスクープ掲載します。

 日新真事誌は、結局、反政府的姿勢が明治政府に睨まれ、新聞紙条例と讒謗律でブラックは追放され、ブラック去った後は政府寄りの論調に変わったことから読者の支持を失い、廃刊を余儀なくされます。なお、明治の一時期、大人気を誇った落語家「快楽亭ブラック」はブラックと妻エリザベスとの長男ヘンリーでした。

 この本には書かれていませんでしたが、日新真事誌の本社は、今の東京・銀座4丁目の和光にありました。日新真事誌廃刊の後、成島柳北の朝野新聞社が本社を建て、その後、服部時計店が本社を構えるわけです。ちなみに、銀座4丁目の現在の三愛の場所には東京曙新聞社、三越の場所は、中央新聞社、日産ショールームのある銀座プレイスには毎日新聞社(「東京日日新聞」ではなく、沼間守一の「横浜毎日新聞」の後身)がありました。

 明治時代、文明開化の象徴的な街だった銀座は、実に新聞社のメッカだったのです。