「善通寺俘虜収容所」ハンドブック

NPO法人インテリジェンス研究所特別研究委員の名倉有一氏から「『「善通寺俘虜収容所」ハンドブック』が別添の通りできあがり、善通寺市立図書館と国会図書館に寄贈・納本しました。」との御連絡がありました。

 これがそのハンドブックですが、お読みできるかどうか…。(どなたか、ワードプレスへのPDFの貼っ付け方御存知の方、御教えください)

 このハンドブックには、「協力者」として小生の名前(諱)まで出て来ますので、宣伝に近いご報告でした(笑)。

 名倉氏は、先の大戦中の通信傍受関係に御興味を持つ市井の研究家ですが、その情熱は玄人はだしです。

メダルかじった、はなおかじった

 何と言っても、オリンピックは番外編の方が面白いのです(笑)。

 名古屋市の河村たかし市長が8月4日に表敬訪問した五輪選手の金メダルをかじったことで、国内外で批判が高まり、市長は謝罪しましたが、海外では「市長が新型コロナウイルス対策を訴えるボードの前で、マスクを外してメダルをかんだ」(ロイター通信)と、皮肉を込めて報じられ、世界に大恥を晒しました。

 金メダルをかじられたのは、ソフトボール日本代表で、名古屋市出身の後藤希友選手で、同選手が所属するトヨタ自動車までもが抗議声明を発表する事態に発展しました。

 しかし、東京五輪組織委は「メダル製造で瑕疵(かし)があった場合のみ無償で交換対応するが、それ以外は対象外です」とし、たとえ、河村市長の歯形が付いたとしても、交換しないからねえーといった意味を込めて?、わざわざ声明を発表するほどです。ウイルス感染も心配なのになあ…。

 河村市長は「宝物を汚す行為で配慮が足りなかった。後藤選手には申し訳なかった」と陳謝しましたが、こんな市長を選んだのも名古屋市民ですからね。恐らく、この陳謝で、一件落着で終わることでしょうけど、河村さんが公費ではなく、自腹で弁償してあげれば一番スッキリすると思います。組織委は、有償なら交換してくれるんでしょ?

築地料亭「わのふ」ランチ「親子丼」1000円

 「メダルかじった」市長、と聞いて、「はなおかじった」先生を思い出しました。花岡実太と書きます。1966年に放送されたドラマ「忍者ハットリくん」に出演していた強烈な個性の先生で、よく、同僚の先生や生徒から「鼻をかじった」先生と呼ばれるので、いつも「鼻をかじった、ではにゃく、わたすは、花岡実太だ」と、東北のズーズー弁で反論するのがお決まりのパターンでした。

  「忍者ハットリくん」 は藤子不二雄原作の漫画を実写版ドラマとしてNET(今のテレビ朝日)系で放送されたものでしたが、私は子どもだったので、よく見たものですが、内容については、この「はなおかじった」先生のことしか覚えていません(笑)。

 今は便利な時代で、すぐ検索することができ、この花岡実太先生役を演じていたのは、谷村昌彦(1927~2000年)という俳優で、山形市出身だったんですね。喜劇役者としてスタートしましたが、時代劇からヤクザ映画まで幅広く出演していました。夏目雅子主演の「鬼龍院花子の生涯」や黒澤明監督の遺作「まあだだよ」にも出ていたこともすっかり忘れていました。

 谷村昌彦さんは、恐らく、もう若い人は誰も知らず、すっかり忘れ去られた俳優さんなんでしょうけど、昔の俳優さん、特に脇役の方は、今より遥かに個性的で強烈な印象を残したものでした。悪役の上田吉二郎なんか、いつも子分たちに「ムハハハハ、馬鹿野郎、早くやっちまえ」とハッパをかけて主役を食っていましたし、「悪魔くん」のメフィスト役などに出ていた吉田義夫なんか、本当にアクが強そうだった。.品川隆二は、近衛十四郎(松方弘樹、目黒祐樹の父)の「素浪人 月影兵庫」の焼津の半次役で滑稽な印象がありますが、その前に出ていた「忍びの者」では、石川五右衛門役をやったりして本当に怖かった。。。

 その点、今の主役級の俳優さんは、誰とは言えませんけど、偉大な俳優の二世、三世ばかりで、残念ながら、コマーシャルばかり出ているせいか、宣伝マンに見えて、魅力に欠けますね。雷に当たったような痺れるほどカリスマ性があった俳優は松田優作辺りが最後かなあ、と思っています。

 

「出版と権力」との関係をもっと知るべき

 魚住昭著「出版と権力 講談社と野間家の110年」(講談社、3850円)をやっと読了しました。読後感は爽快とまではいきませんでしたが、日本を代表する日本一の出版社を通して、誰も知らなかった日本の近現代の裏面史が描かれていました。

 講談社の内部に詳しい事情通から聞いた話によりますと、このような社外秘の文章を、わざわざ部外者の作家に見せて、ノンフィクションを書いてもらったのは、段々、講談社の社内も世代が変わって、昔の事情を知らなくなった若い人が増えてきたため、是非とも若い社員には、創業当時からの講談社の裏事情まで知ってもらいたいという上層幹部の信念によるものだったそうです。

 確かに、どこの大手企業にもある「社史」など、つまらなくて社員でさえ誰も読みませんからね(苦笑)。

 この本が少し勿体ぶったような書き方をするのはそのせいだったのかあ、と意地悪な言い方ですが、納得しました。

銀座「アナム」Bランチカレー980円

 渓流斎ブログでこの本を取り上げるのはこれが3回目なので、今回は後半のことに絞って書きます。後半の主人公は何と言っても、「中興の祖」と言われた四代目社長の野間省一です。この人は、もともと野間家の人間ではなく、夭折した二代目社長恒(ひさし=野間清治・左衛夫妻の息子)の妻だった登喜子(皇族出身)の婿養子として野間家に入った人でした。旧姓高木省一。子どもの頃から神童とうたわれ、旧制静岡高校から東京帝大法学部に入り、卒業後は、大蔵省か内務省に入省してもおかしくなかったのに、南満州鉄道に入社します。省一が、満鉄に入社したのは、後に「新幹線の父」と呼ばれた十河信二の影響が大きかったからだといわれます。省一が旧制静高から帝大に入学する際に、援助を受けたのが静岡を代表する物流会社「鈴与」でしたが、その六代目社長鈴木与平と鉄道省官僚の十河と親しく、その縁で省一は十河と面識があったからだといいます。

 省一の満鉄時代の活躍(哈爾浜鉄道局総務課資料係長秋山炭六らとのソ連情報分析)はスパイ映画にでもなりそうな話ですが、その辺りは長くなるので、本書を読んでください(笑)。

 とにかく、省一は野間家に入り、社長になりますが、戦中に軍部と協力した「戦犯容疑」から戦後、会社から一時追放されます。が、組合の反対を押し切って、社長に返り咲き、創業者の「忠君愛国思想」路線から脱皮して、文芸から美術全集や科学書の「ブルーバックス」に至るまで、総合出版社に育て上げます。

 講談社は、多くの関連会社を持ち、それらは、本社がある地名から「音羽グループ」と呼ばれています。その一つに光文社(カッパ・ブックスや「女性自身」「フラッシュ」などを発行)がありますが、同社は戦時中に陸軍と共同で雑誌「征旗」などを出版していた日本報道社が起源だったとはこの本で知りました。

 もう一つ、キングレコードがあります。戦前、100万部もの大発行部数を誇った大衆誌「キング」から命名されたものでしょうが、この「キング」も戦時中は、敵性用語だから不謹慎だと、当局ではなく、大衆読者からの抗議によって、雑誌名を「富士」と改名を余儀なくされます。加藤陽子著「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(新潮社)みたいな話ですね。

 雑誌「キング」が「富士」に改名しますから、キングレコードも「富士音盤」と改名します。この西宮工場を、さらに「富士航空」と改名して、レコードではなく、航空機部品を生産していたといいます。まさに、出版の世界だけでなく、軍需産業として講談社は戦争に協力していたことが分かります。

北西酒造「村上大介」

 この本は3850円と高めですから、残念ながら、よほどの通か、粋な人しか買わないことでしょう。今は長い「出版不況」のトンネルの中にいますからね。同書によると、雑誌の売り上げがピークだったのは1997年で、実倍額が全国で1兆5644億円でしたが、2018年は5930億円。22年間で売り上げが3分の1近く落ち込んだことになります。(書籍は、雑誌ほど落ち込みが酷くはないものの、1996年の1兆0931億円がピークで、2018年は6991億円にダウン)

 これでは、日販、トーハンといった大手取次会社が赤字を出したり、街の本屋さんが次々と消えてなくなっていくはずです(アマゾンの影響が大きい)。

 でも、通や粋な人だけではなく、本書を読んで色々知ってもらいたいことが沢山あります。戦後の占領軍GHQによる検閲は苛烈で、まさに酷いものでしたが、戦時中の軍部による検閲と顧問団名目の大目付派遣と、顧問料名義の賄賂、たかりの酷かったことです。これでは、米軍を非難すらできなくなります。前回、その陸軍の鈴木庫三中佐の戦後の変わり身の早さのことを書きましたが、日本人だけを、特別に、殊更賛美する人にはこの本を読んでもらいたいと思いました。

再びスペインについて考えたこと

銀座「スペイン グルメテリア イ ボデガ スペイン・クラブ」

突然、個人的なことながら、渓流斎は本名ではなく雅号であります。当然、御存知のことと思われますけど…(笑)。

 実は私には、他にも雅号がたくさんありまして、これまで、「激流斎」「濁流斎」「蛇幕斎」「面読斎」「丼句斎」等々、色々使って耳目を驚かせてきたことがありました。でも、もういい年ですから、なるべく、ネガティブなことはやめよう、もっとポジティブに行こうと、あるきっかけが御座いまして、決意致しました。

昨日入った銀座・ドイツ料理店「ローマーヤー」本日のランチ:シュニッツェル1100円

 ですから、上記のようなマイナスなイメージの雅号は使うのはやめることに致しました。でも、「清流斎」「渓谿堂主人」といった雅号は、少しは清廉な感じがしますので、これからも使っていこうかと存じまする。

 そうでなくても、このブログでは、さんざん世迷言を書き立てて来ましたからね(苦笑)。せめて、これからは「明るく前向きに」生きていきたいものです。

銀座「スペイン グルメテリア イ ボデガ スペイン・クラブ」パエリア・ランチの前菜サラダとスープ

 とは言っても、毎日、ブログを書くことは修行僧の滝修行のように厳しいものです。書くネタに困れば、すぐ「銀座ランチ」に逃げ込みます。本日もそうなりますので、お許しをー。

 「孤独のグルメ」の井之頭五郎さんのように、とにかく、あてどもなく銀座をフラフラ歩いて見つけたのが、このスペイン料理店です。「スペイン・グルメテリア・イ・ ボデガ・スペイン・クラブ」というのが正式名称のようですが、覚えられませんでした(笑)。でも、知る人ぞ知る有名店のようですね。常時300種以上のワインを用意しているといいます。調度品など見ても、スペイン辺りから取り寄せてきたようで、この店に入れば、スペイン気分に浸れます。

 そういう私も、2018年9月にスペイン旅行を決行したことがあるので、3年前のことが本当に懐かしくなりました。

 その3年前にこのブログで書いた同じようなことをまた茲で書いてしまいますが、このスペイン旅行を決行するまで、実は、私はスペインは好きになれませんでした。ピサロ、コルテスといったスペイン人が中南米のインカ、アステカ帝国を滅ぼし、現地の人たちを虐殺し、良いイメージがなかったからでした。

銀座「スペイン グルメテリア イ ボデガ スペイン・クラブ」パエリア・ランチ1100円

 しかし、スペインに行くと、これらの考え方は少し変わりました。インカ帝国を征服したピサロも、アステカ帝国を滅ぼしたコルテスも、スペイン中央部のエストレマドゥーラ州出身で、ピサロは同州トルヒージョ生まれ、コルテスは同州メデジン生まれ。私も3年前にバスでこのエストレマドゥーラ州を通りましたが、赤土がはだけた不毛地帯で、こんなところでは、米も麦も野菜も何も育たない所であることが一目瞭然で分かりました。(何と、ここで、1960年代~70年代にジュリアーノ・ジェンマ主演などのマカロニ・ウエスタンが撮影されたそうです。ここを西部劇の荒野に見立てるにはピッタリな土地です)

 つまり、ピサロもコルテスたちも肥沃な大地を求めて、やむに已まれず、海外に飛躍したことが現場を見て初めて分かりました。(理由は何であれ、現地民を虐殺して征服する正当性は全くありませんが)

◇ 「英国の常識」は「世界の常識」

 もう一つ、極東に住む我々が、スペインに良くないイメージができてしまったのは、16世紀に世界の制海権を巡ってスペインと対立していた大英帝国が、殊更、スペイン人の残虐さや不当性を世界に発信し続けて来た影響もあるようです。1588年に英国がスペイン・フェリペ二世の無敵艦隊を破って、英国が世界の制海権を握ると、余計に、この「英国の常識」が「世界の常識」になったのです。北米大陸を「制服」してインディアンを虐殺した英国も、本来ならスペインを批判できないはずですが…。

 スペインは16世紀で、絶頂から一気に衰退期に入ってしまいました。だから、戦国時代に「植民地化」を狙って、あれだけ日本に来ていたスペイン人も江戸時代になると、途絶えてしまい、代わって新興国のオランダが進出してくるわけです。

 まあ、そんなことを一人で考えながら、ランチをしていました。スペイン料理が好きになったのも、3年前にスペイン旅行した際に、現地で本場のスペイン料理を食べたからでした。特に、軽食やおつまみになるタパスやピンチョスは、パンの上に魚介類、チーズ、肉など色んなものを載せるヴァリエーションがあり、日本人の口にも合い、気に入ってしまいました。

 意外と知られていませんが、スペイン・バスク地方のサンセバスチャンにはミシュランの三ツ星レストランが何十軒もあるようです。バスクと言えば、独立運動が盛んで、紛争が続くマイナスイメージがあったのですが、グルメ都市だったとは!死ぬ前にいつか行きたいなあ~、と思ってます。

講談社創立者野間清治の父は上総飯野藩士だった

 本日は、ついに東京五輪開会式。やっちまうんですね。(もうソフトボールやサッカー等の予選は始まってますが)

 疫病下のオリンピアード

 後世の歴史家は、2021年の東京五輪をそう名付けることでしょう。既に、東京都内のコロナウイルス感染者が2000人近くに迫り、オリンピック大会関係者も22日現在、78人の感染者が確認されたと公式発表されていますから、今から中止してもいいぐらいなんですけどね。とにかく、歴史上始まって以来、盛り上がりに全く欠けるシラケ五輪です。

 さて、私事ながら、4連休なので、東京都内の博物館にでも行きたいところですが、緊急事態宣言が出されているので、家でじっと本を読んでいます。

浦和・「中村家」 うな重特上4800円

 今読んでいるのは、いつぞやも、このブログで、私の自宅の書斎の机の上には未読の本が「積読状態」になっていることを白状しましたが、その中の1冊です。魚住昭著「出版と権力 講談社と野間家の110年」(講談社、2021年2月15日初版)という本です。2018年から20年にかけて、講談社ウエブサイト「現代ビジネス」に連載されたものを、大幅に改稿して単行本化したもので、私自身もネット連載中の記事は拝読させて頂き、その「面白さ」は既に、痛感しておりました。

 著者の魚住氏は共同通信出身のノンフィクション作家です。私は若い駆け出し記者の頃、共同通信の人には目の敵にされ、意地悪されたり、取材妨害されたりし、また、人海戦術で他社を潰そうとする態度があからさまだったので、今でも共同は、大嫌いな会社なのですが、魚住氏とは接点がなく、著書を通してですが、その取材力には感服しております。

 「出版と権力」は、日本一の出版社、講談社を創立した野間清治の一代記ですが、サブタイトルにあるように、清治の後を継いだ二代目恒(ひさし)から六代目の佐和子社長辺りまでの110年間を総覧しているようです。講談社という一つの出版メディアを主人公に、当時の政治的社会的背景から風俗、流行に至るまで、時代の最先端の空気を他社より先んじてリードする出版人の裏の苦労話も書かれているようです。

 まあ、近現代史の裏のエピソードが満載ですから、面白くないわけないでしょう。

 何しろ、注を入れて669ページという事典のような大著です。ネットで読んだとはいえ、単行本の方は、まだ、最初の方しか読んでいませんが、一番興味を持ったのは、創業者野間清治の先祖の話です。明治11年(1878年)生まれの清治の父好雄は、上総飯野藩(現千葉県富津市)の藩士の三男だったんですね。

◇保科正之の御縁で飯野藩と会津藩は縁戚関係

 飯野藩は慶安元年(1648年)、保科正貞が立藩し、代々保科家が藩主を務めました。家康の孫に当たる正之が、保科家に養子に入ったため、保科家は一時廃嫡になりましたが、その保科正之は会津松平家を興したため、保科正貞が飯野藩を立藩できたわけです。ということは、会津藩と飯野藩は縁戚関係ということで、幕末は、飯野藩も、奥羽越列強同盟の会津藩に馳せ参じて、戊辰戦争で官軍と戦うことになるのです。

 野間清治の父好雄の長兄銀次郎は、飯野藩士19人と脱藩して遊撃隊を結成して官軍と戦いますが、官軍に蹴散らされ、その責任を問われた銀次郎は、飯野藩家老とともに切腹したといいます。

 また、野間清治の母の文(ふみ)は、飯野藩武術指南役・森要蔵の長女で、清治の父好雄は、森要蔵の内弟子だったので、妻の文は師の娘に当たります。森要蔵は、もともとは江戸詰め肥後細川藩士の六男で、北辰一刀流の千葉周作に師事し、神田お玉が池の千葉道場の四天王の一人と称されました。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」などにも登場する剣客です。その森要蔵も三男寅雄(文の弟)ら門弟28人を連れて、会津藩の応援に駆け付けますが、壮絶な最期を遂げます。

 明治の新聞人は、福沢諭吉(「時事新報」)、成島柳北(「朝野新聞」)、栗本鋤雲(「郵便報知新聞」)らもともと幕臣や佐幕派が多かったのですが、野間清治のように雑誌、出版人も佐幕派の血を引いていたとは、感慨深い話でした。

 

「天地間無用の人」の幕臣時代=成島柳北

 「われ歴世鴻恩を受けし主君に、骸骨を乞ひ、病懶(びょうらん)の極、真に天地間無用の人となれり。故に世間有用の事を為すを好まず」

 成島柳北(なるしま・りゅうほく=1837~1884年)の「濹上隠士伝」の有名な一節です。「天地間無用の人」とはあまりにも激烈な言葉です。幕末、第十三代将軍徳川家茂、十四代家茂に直に四書五経等を講じる「侍講」という重職に就く幕臣だった成島柳北は、維新後、和泉橋通りの屋敷からも逐われ、隠居の身となります。まだ朝野新聞社長として活躍する前の話です。(ちなみに朝野新聞社は、東京・銀座4丁目、今、服部時計店「和光」が建っているところにありました。)

 明治の反骨ジャーナリスト成島柳北について、今では知る人も少ないでしょう。彼の次兄(大目付森泰次郎)の孫が俳優の森繁久弥だということぐらいなら御存知かもしれません。私は、彼の幕臣時代の活動について、全く知らなかったのですが、古書店で手に入れた前田愛著「成島柳北」(朝日新聞社、1976年6月15日初版)でその概要を知ることができました。この本、漢文をそのまんま引用だけしている箇所があまりにも多いので、意味を解釈するのが困難で、難しいったらありゃしない(笑)。私も1970年代の大学生ではありましたが、当時、そんな漢籍の素養があった学生は多くはいなかったと記憶しています。訳文がないので、この本はスラスラ読めません。

中津藩中屋敷跡に建つ立教学院発祥地の碑

 でも読み進めていくうちに漢文の文語体は何とも言えない快楽になり、まさに江戸時代の日本人と会話している気分にさせてくれます。意味が分からなければ、漢和辞典で調べればいいだけの話でした。

 「天地間無用の人」は成島柳北が発明した言葉だと思っていたのですが、どうやら先人の寺門静軒(1796~1868年)が「江戸繁盛記」の冒頭で書いて自称した「無用之人」を踏襲したようです。寺門静軒は水戸藩士の庶子として生まれたため、結局、水戸藩に仕官できず、自らを「無用之人」と称して、儒学者として生涯を過ごした人です。代表作「江戸繁盛記」は評判を呼びますが、天保の改革で悪名高い鳥居耀蔵によって「風紀を乱す」との理由で、絶版にさせられ、寺門静軒自身も江戸市中から追放処分を受けます。

 時は幕末。浅薄な尊王攘夷思想にかぶれた勤王の志士たちが血生臭い闘争に明け暮れていたイメージが強かったでのすが、成島柳北ら文人墨客グループは、隅田川に舟を泛べて漢詩を詠い、楼閣に登って芸妓と戯れます(「柳橋新誌」)。そんなヤワなことをしているから、佐幕派は薩長の田舎侍に敗れたのだ、とだけは言われたくないですねえ(笑)。漢籍と芸事は武士の嗜みであり、江戸文化の華でもありました。そんな文人成島柳北も、小栗上野介(1827~68年)や栗本鋤雲(1822~97年)を中心に幕府が導入したフランス式軍隊の騎兵頭に指名されたりします。

東京・築地

 その前に、成島柳北が属した文人墨客サロンの中心人物は、代々将軍の侍医を務める桂川甫周でした。桂川甫周といえば、前野良沢、杉田玄白による「解体新書」の翻訳作業に従事した蘭方医として有名ですが、あれは18世紀後半の明和の時代ですから合わない…。こちらは四代目(1751~1809年)でした。成島柳北の友人の同姓同名の方は、七代目(1826~1881年)でした。七代目甫周も蘭学者でもあったので、江戸時代最大のオランダ語辞書「和蘭字彙」を完成させます。ちなみに、安政年間になると蘭学に代わって英学が台頭し、洋書調所から「英和対訳袖珍辞書」が文久2年に出版されますが、この辞典の訳語の60%が「和蘭字彙」からの借用だったといいます。

 漢詩人大沼枕山(1818~91年)を通して、漢学者大槻磐渓(1801~78年)、書家中沢雪城(1810~66年)、儒者春田九皐(はるた・きゅうこう、1812~62年、浜松藩士)、儒学者鷲津毅堂(1825~82年、永井荷風の外祖父)らと交遊を持っていた成島柳北は、11歳年長の桂川甫周のサロンで、語学の天才柳河春三(やながわ・しゅんさん、1832~70年、尾張藩出身の洋学者)や神田孝平(1830~98年、洋学者、長野県令)、宇都宮三郎(1834~1902年、尾張藩士、洋学者、化学者)らと知り合うことになります。もう一人、忘れてはならないのは福沢諭吉で、彼が咸臨丸の遣米使節に参加できたのは、桂川甫周の推薦だったといいます。

 もっとも、福沢諭吉の方は、舟遊びや芸妓に傾倒する成島柳北らとは一線を画していたようで、桂川甫周の次女、今泉みねは明治になって80歳を過ぎて、「福沢さんは、どうも遊び仲間とはちがふように私の頭に残っています。始終ふところは本でいっぱいにふくらんでいました」と回想しています。(「名ごりの夢」)

 さすが福沢諭吉、緒方洪庵の大坂適塾の塾頭を務めたぐらいですから、かなりの勉強家だったのですね。その福沢諭吉が幕末に大坂から江戸に出て、最初に行ったのが、中津藩上屋敷。何と今の銀座にあったのですね。汐留に近い今の銀座8丁目14~21辺りで、鰻の竹葉亭本店や近く取り壊されると言われる中銀カプセルタワービルなどがあります。何か碑でもあるかと私も歩き回って探しましたが、見つけられませんでした。

中津藩江戸中屋敷

 でも、上屋敷に着いた福沢諭吉は「中屋敷に行くように」と指示されます。中津藩の中屋敷は今の築地の聖路加国際病院がすっぽり入ってしまう広大な屋敷で、福沢諭吉はここで、最初は蘭学の塾を開きます。それが、横浜に行って異人と会話してもオランダ語がさっぱり通じないことから、英語の勉学に変えていくのです。勿論、ここが慶応義塾の発祥地となります。ここから桂川甫周の屋敷と近かったため、福沢諭吉は、本を借りるためなどで桂川邸を行き来していたわけです。

中津藩中屋敷跡に建つ立教女学院発祥地の碑

 明治から昭和にかけて活躍した作家の永井荷風(1879~1959年)は、外祖父鷲津毅堂も交際していた成島柳北(の死後)に私淑し、「柳北先史の柳橋新誌につきて」などの作品を発表し、柳北若き頃の日記「硯北日録」などを注釈復刻しようとしたりしました。荷風ほど江戸の戯作文学に憧憬の念を持った人はいないぐらいですから、江戸文学の血脈は、寺門静軒~成島柳北~永井荷風と受け継がれている気がしました。

法然上人を悪しざまに言う日蓮

 ちょっと酷い言い方なんで聞いてくださいな。

 その人は、名前は出せませんけど、こんなことを言うのです。「歴史学者は、日本史は室町時代から学ぶべし、と述べております。史実として学ぶには、室町以前は資料が乏しい故です。渓流斎翁は、安直に相変わらず信仰の如く『歴史人』を紹介されておられますが、鎌倉時代は、古代同様に、イメージを膨らませて語るしか無いのですよ。」

 「室町時代から学べ」と言った歴史学者は誰なんでしょ? 自分の得意な専門分野だから言ってるだけでしょう。江戸時代を知るには戦国時代を知らなければならないし、戦国時代を知るには鎌倉時代を知らなければならないし、そもそも古代史を知らなければ、「この国のかたち」が分かるわけがありませんよ。安直な人間と決めつけられようとも。

築地・料亭「わのふ」刺身(イナダ)定食1000円 料亭にしては安い!

 ーーと前置きを書きましたが、鎌倉時代を勉強し直して本当に良かったと思っています。先日から読み始めた佐藤賢一著「日蓮」(新潮社)は、思っていた以上に難解で、仏教用語や思想の知識がなければ全く歯が立たず、同時に鎌倉時代の制度や歴代執権、連署らの名前や、弟子を含めた膨大な人物相関図が分からなければ、さっぱり理解できないからです。

 直木賞作家佐藤賢一氏(1968~)については、大変失礼ながら、著作をほとんど読んだことがないのですが、東北大学大学院で仏文学を専攻し、「小説フランス革命」や「ナポレオン」などフランス関係の小説を多く発表されていることぐらいは知っておりました。そんな人が、何で、日本人の、しかも、宗教者の日蓮を取り上げるのかー?専門外で大丈夫なのかしらー?といった興味本位で、この本を手に取ったわけです。

 そしたら、繰り返しになりますが、極めて難解で、当然のことながら、かなり仏教を勉強されている方だということがよく分かりました。「法華経」は勿論のこと、「金光明経」「大集経」「仁王経」「薬師経」、それに、法然の「選択本願念仏集」、日蓮の「立正安国論」…とかなりの経典や仏教書等を読み込んでおられると思われます。

 平安末から鎌倉時代にかけて、戦乱と天変地異と疫病が流行して、世の中が不安定だったせいか、不思議なくらい史上稀にみるほど多くの新興宗教が勃興します。法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、そして日蓮の日蓮宗などです。この中で、日蓮は「遅れて来た」教祖だったこともあり、既成宗派を激烈に批判します。それは「四箇格言(しかかくげん)」と呼ばれ、「念仏無間の業、禅天魔の所為、真言亡国の悪法、律宗国賊の妄説」の四つを指します。

 つまり、専修念仏の浄土宗などを信仰すると、無間地獄に堕ちる。臨済、曹洞宗などの禅宗は、天魔の所業である。真言宗は生国不明の架空の仏で無縁の主である大日如来を立てることから亡国の法である。律宗は、戒律を説いて清浄を装いながら、人を惑わし、国を亡ぼす国賊であるー。といった具合です。

 この本は、まだ前半しか読んでいませんが、特に日蓮の批判の対象になったのが、浄土宗でした。日蓮は、法然房源空が、源空が、と呼び捨てですからねえ。念仏なんかするから、天変地異が起きるのだ。浄土宗なんか、浄土三部経しか認めず、他の経を棄て、西方にいる阿弥陀如来だけを崇めて、東方におわす薬師如来だけでなく、釈迦や菩薩すら否定し、極楽浄土に行くことしか説かない。何で現世で、即身成仏しようとしないのか。それには法華経を信じて「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えるしかない、と一般衆生だけでなく、時の権力者たちに主張します。(最明寺殿こと五代執権北条時頼に「立正安国論」を提出)

銀座・魚金「マグロ寿司」ランチ1000円

 私は、日蓮(1222~1282年)については、亡父の影響で大変興味があり、惹かれますが、法然上人(1133~1212年)は、日本歴史上の人物の中で最も尊敬する人の一人なので、あまり悪しざまに扱われると抗弁したくなります。が、これは佐藤氏の創作ですから、実際に日蓮が発言した言葉とは違うと思われます。しかし、日蓮は、実際に鎌倉の松葉が谷の草庵を浄土宗僧侶や念仏者たちによって襲撃されて焼き討ちに遭ったりしているので、浄土宗を敵視したことは間違いありません。この本は、小説とはいえ、ほぼ史実に沿ったことが描かれていると思われます。

 ただ、小説だから軽い読み物だと思ったら大間違いです。恐らく、事前に大学院レベルの知識を詰め込んでおかないと、理解できないと思います。老婆心ながら。

NHK朝ドラ「おかえりモネ」の宮城県登米市から徳永直まで一気に連想される長い長い物語

釈悪道老師から、いきなりメールが来ました。

 「読み人おらず」の浅薄で不実な駄文を長々綴ることは、老い先が永くない渓流斎翁が為すことではありませぬ。近く、渓流斎翁を逆上させるお便りを差し上げましょう。お楽しみに!

 ナヌー!? です。

 読み人知らず、なら聞いたことありますが、読み人おらず、とは言い得て妙…などと感心している場合か! 何度読み返しても、ここまで他人を陥れて冒涜できる人は、世にも稀で、一種の天賦の才能です。間違いなく極楽浄土へは行けないでしょう。残念…。

銀座「築地のさかな屋」アジフライ定食1000円

 さて、渓流斎ブログのアクセス・カウントを見てみたら、49万アクセスを超え、記念になる50万アクセスまでもうすぐではありませんか!このブログを開始したのは2005年3月ですが、新しく独立して、このサイトを立ち上げたのは2017年9月です。ほぼ4年で、区切りの良い50万アクセスに到達することができるようです。これもこれも、釈悪道以外の読者の皆様のお蔭です。御礼申し上げます。

「おかえりモネ」

 また、さて、ですが、満洲研究家の松岡將氏から、意外な話と要望等がここ最近、次々と寄せられてきました。

 最初は、5月17日から始まったNHK朝の連続テレビ小説「おかえりモネ」を時間があったらご覧ください、といった簡単なものでした。

 ドラマは、宮城県気仙沼市の離島で育った主人公百音(もね=清原果耶)が、高校卒業後、内陸部の登米市にある祖父の知人宅に下宿して、森林組合で働き始め、難関の気象予報士を目指すといった話です。

 何で?と思ったら、舞台になっている登米市が松岡氏の御縁のある故郷だというのです。

 松岡氏は、御母堂の実家の北海道で生まれ、幼少期は満洲(中国東北部)で過ごし苦労して引き揚げてきた方ですが、父親の祖先は、仙台伊達藩の支藩である登米藩士で、代々、祐筆(文書や記録を司る職)を務めていた家柄だったというのです。この御尊父を始め、旧登米伊達藩士松岡家の子弟5人は登米高等尋常小学校を卒業されたというのです。(ドラマを見ていては分かりませんが、登米市は今でもかなり教育熱心な城下町だそうです)

 当然ながら、松岡氏は、登米市の祖母や伯母たちが話していた「登米弁」を、ドラマで俳優たちが、どんな具合に話すか楽しみだという話でした。

 しかし、話はそれで終わらなかったのです!

 私自身、かつては登米市は行ったことも聞いたこともない未知の土地でした。上の写真のバッジは、市の観光課からマスコミに配られた宣伝拡販財用のバッジではありますが(現地で売っていると思われます)、このバッジがなければ、「とめし」とは読めませんでした(苦笑)。

 それが、いきなりですが、登米市は、「太陽のない街」などで知られるプロレタリア作家徳永直(1899〜1958年)と御縁があり、登米を舞台にした「妻よねむれ」「日本人サトウ」などの小説を書いているというのです。

 徳永直の「太陽のない街」は文学史の教科書に必ず載るほど有名で、日本人なら知らない人はいないはず。そんな大作家は熊本出身ですが、(最初の)妻がこの登米出身だったというのです。

◇「妻よねむれ」

 そこで、松岡氏から「二の矢」が放たれ、「是非、徳永直の『妻よねむれ』を古本で御購入されたし。私は涙なしには読めませんでした」といった要望が飛び込んできました。

 「妻よねむれ」は昭和22年の作品で、当時はベストセラーになったようです。ネットで探してみたら、アマゾンの古書で4万円以上もしました。こりゃ無理、ということで、地元の図書館で探したらすぐ見つかり、すぐ借りることができ、今、一生懸命、読んでいるところなのです。

 確かに涙なしでは読めない大変な名作です。

 徳永直が大正13年(1924年)に結婚した最初の妻は、登米町出身の看護婦佐藤トシヲでした。彼女は「私生児」として生まれ、7歳で母親を亡くし、極貧の中で祖母に育てられます。小学校を3年で中退して9歳から奉公を始め、子守りをしたり、糸工場で働いたりして勉学どころではありません。それでも、東京で看護婦の仕事を斡旋してくる所を紹介してもらい、夜に看護婦学校に通って資格を取って、やっと一人前の生活ができる仕事にありつけます。しかし、関東大震災で罹災し、命からがら故郷登米に戻ったときに、「お見合い」で徳永直と結婚することになったのです。

 結婚しても、植字工の夫は労働争議による失業の繰り返しで貧乏は相変わらず。夫婦喧嘩も絶えませんでしたが、トシヲは昭和20年6月、夫と4人の子どもを残して病気で40歳の若さで亡くなってしまいます。「妻よねむれ」は、徳永直が21年に及ぶトシヲとの夫婦生活を愛惜を込めて追悼して描いた小説で、松岡氏もよく御存知の登米市の乾物問屋「菊文」(小説では「竹文」)や、知人や親戚も登場するというのです。トシヲは、かなりの美人さんだったらしく、三女の徳永街子(小説では町子、1935〜2004年)は女優になり、映画「ひめゆりの塔」などに出演しました。また、長男徳永光一(小説では幸一、1927〜2016年)は、岩手大学農学部農業土木工学教授を務めました。

 また、「妻よねむれ」では、徳永直の親しい友人だった作家の小林多喜二がK.T、中野重治がN.Sとイニシャルで登場します。

◇徳永直の妻

 話はそれで終わったと思ったら、松岡氏から「第三の矢」が放たれました。松岡氏は、徳永直の二番目の妻になった女性の身元を歴史探偵のように調べ始めたのです。 

 そしたら、複雑怪奇そのもの。徳永直は2回結婚したという説や3回、いや4回結婚したのではないかといった説など色々あり、本によって年譜に書かれている女性の名前がそれぞれ違っていたりして「何だか、よく分からない」。

 ある説では、徳永直が再婚した相手は、「二十四の瞳」などで知られる壷井栄の実妹で、わずか2カ月で破綻したといいます。となると、探索している女性は三番目の妻ということになるのかー?それとも人違いなのか? 他にも結婚した女性がいたのか?

 小説家というものは、凡人にはない業(ごう)を持って生まれた者ですから一筋縄ではいきません。

 まだ、途中経過なので、この話はどう展開するのか、まだ分かりません。

鎌倉時代は難しい…=何だぁ、京都との連立政権だったとは!

 日本史の中で、鎌倉時代とは何か、一番、解釈が難しいと思っています。貴族社会と武家社会の端境期で、三つ巴、四つ巴の争い。何だかよく分からないのです。私自身の知識が半世紀以上昔の高校生レベルぐらいしかない、というのも要因かもしれませんが、歴史学者の間でも、侃侃諤諤の論争が展開されているようです。(武士の定義も、「在地領主」と考える関東中心の図式と、京都で生まれた殺人を職能とする「軍事貴族」と考える関西発の図式があるそうです=倉本一宏氏)

 第一、源頼朝による鎌倉幕府の成立が、1192年だということは自明の理だ、と私なんか思っていて、語呂合わせて「イイクニ作ろう鎌倉幕府」と覚えていたら、

(1)治承4年(1180年)12月=鎌倉殿と御家人の主従関係が組織的に整えられた。

(2)寿永2年(1183年)10月=頼朝の軍事組織による東国の実効支配を朝廷が公認。

(3)文治元年(1185年)11月=守護・地頭の設置が朝廷に認可された。

(4)建久元年(1190年)11月=頼朝が右近衛大将(うこんのえたいしょう)に任官。

(5)建久3年(1192年)7月=頼朝が征夷大将軍に任官。

 と、成立年に関しては、こんなにも「諸説」があるのです。

 驚くべきことには、もう鎌倉時代という時代区分の言い方は実態に沿っていないと主張する学者も出てきて、2003年の吉川弘文館版「日本の時代史」では、「京・鎌倉の王権」と表記するほどです。つまり、鎌倉時代は、江戸時代のように京都の朝廷の権力が衰えていたわけではなく、京都と鎌倉で政権は並立していたという解釈です。

 源頼朝が、鎌倉に幕府を開く前後に、平家との戦いだけでなく、同じ身内の源氏の叔父やら実弟らとの間で権力闘争や粛清があったりしますが、京都や北陸では木曽(源)義仲(頼朝の従兄弟)が実効支配していたり、朝廷は後白河法皇が実権を手放さず、譲位後も34年間も院政を敷いたりしておりました。

◇「歴史人」7月号「源頼朝と鎌倉幕府の真実」特集

 といったことが、「歴史人」7月号「源頼朝と鎌倉幕府の真実」特集に皆書かれています(笑)。この雑誌一冊読むだけで、鎌倉史に関する考え方がまるっきり変わります。「今まで勉強してきた鎌倉史は一体、何だったのか?」といった感じです。

 登場する人間関係が色々と複層しているので、家系図や年表で確認したりすると、この雑誌を読み通すのに、恐らく1カ月掛かると思います。私もこの1冊だけを読んでいたわけではありませんが、1カ月経ってもまだ読み終わりません。仕事から帰宅した夜に1日4ページ読むのが精いっぱいだからです。この中で、一番、目から鱗が落ちるように理解できたのが、近藤成一東大名誉教授の書かれた「日本初の武家政権『鎌倉幕府』のすべて」(58~59ページ)です。

 それによると、1180年に頼朝が鎌倉に拠点を定めた時点では、頼朝は朝廷から見れば依然として反逆者であり、頼朝の勢力圏は東国に限られていました。西国は、安徳天皇を擁する平家(平宗盛)の勢力圏に属し、北陸道は木曽義仲、東北は藤原秀衡の勢力圏に属していました。(…)その後、このような群雄割拠している状況で、東国における荘園、国衙領の支配を立て直すのに、朝廷は頼朝の権力を必要としたというのです。「鎌倉時代」と呼ばれてきたこの時代を鎌倉の政権と京都の政権が共存し相互規定的関係にあった時代だと定義し直すと、この時代の始まりは、鎌倉幕府と朝廷との共存関係が成立した寿永2年(1183年)と考えるのが適当であろう。

 へー、そういうことだったのですか。…となりますと、鎌倉時代は今風に言えば、

1183年、鎌倉・京都連立政権成立

 といった感じでしょうか。

紫陽花

 来年のNHKの大河ドラマは「鎌倉殿の13人」(三谷幸喜脚本)が放送される予定ですが、この本は、この番組を見る前の「予習」になります。

 鎌倉殿13人とは、源頼朝の死後、二代将軍頼家ではなく、頼朝の御家人ら13人が合議制で支配した機関のメンバーのことですが、凄まじい内部での権力闘争で、最後は執権になった北条氏が他のライバルを粛清して権力を独占していったことは皆さま、御案内の通りです。

 13人のメンバーの中で、まず、北条時政(初代執権)と北条義時(二代執権、頼朝の妻政子の弟でドラマの主人公、鎌倉に覚園寺を創建)は実の親子。元朝廷の官人だった中原親能大江広元(政所初代別当、長州毛利氏の始祖とも言われていますが、この本では全く触れず)は兄弟で、侍所の別当和田義盛三浦義澄の甥。また、安達盛長の甥が、公文所寄人足立遠元といった感じで、13人は結構、縁戚関係が濃厚だったことを遅ればせながら、勉強させて頂きました。

 また、鎌倉殿13人の一人で、頼朝の乳母だった比企尼(びくに)の養子となった比企能員(ひき・よしかず)は、二代将軍源頼家の岳父(比企の娘若狭局が頼家に嫁ぐ)となったお蔭で、権勢を振るうことになりますが、北条時政の謀略で滅ぼされます。比企一族の広大な邸宅の敷地跡は、私も昨年訪れたことがあり、「今では日蓮宗の妙法寺になっている」と昨年2020年9月22日付の渓流斎ブログ「鎌倉日蓮宗寺院巡り=本覚寺、妙本寺、常栄寺、妙法寺、安国論寺、長勝寺、龍口寺」に書いたことがありました。比企一族の権力がどれほど膨大だったのか、その敷地の広さだけで大いに想像することができました。

【追記】

 三重県津市に「伊勢平氏発祥の地」の碑があるそうです。ここは、平清盛の父忠盛が生まれた場所だということです。刀根先生は行かれたことがあるんでしょうか?

黒人差別が激しかった1960年代の米最南部が舞台の青春物語=山本悦夫著「ホーニドハウス」

 山本悦夫著「ホーニドハウス」(インターナショナルセイア社、2021年5月31日初版、1980円)を読了しました。

 この本は、今年4月21日付のこの渓流斎ブログで取り上げましたので、少し重複するかもしれませんが、読後感は、なかなか良かったでした。(何しろ、著者の山本氏は、この小説について、5万部の売り上げを目指していますからね。)

 事件が起きるようで起きないようで、やはり何かが起き、恋の成就がうまくいくようで、いかないようで…。要するに先が読めないというか、これから先どうなってしまうのか、いわゆる一つのサスペンスのような推理小説として読んでもいいような作品でした。

 いやはや、どっち付かずな書き方で大変失礼致しましたが、80歳代後半の方が書かれたとはとても思えない、瑞々しい青春物語になっています。作品は、1965年、米最南部フロリダ州の大学町が舞台になっています。この年に米軍によるベトナム北爆が始まり、米国内では依然として黒人への人種差別が激しく、黒人が入れる店と白人が入れる店とは別々で、黒人暴動や公民権運動が広がった時代でした。

 著者の山本氏をそのまま反映した主人公の太郎は、そんな時代の最中に米フロリダ大学経済学部大学院に留学し、そこで知り合った韓国やタイやインドネシアからの国費留学生や現地の白人や黒人らとの交流が描かれます。著者の記憶力には脱帽です。

 主人公太郎が下宿したホーニドハウスとは、haunted house(お化け屋敷)のことですから、「ホーンテッドハウス」の間違いかと思ったら、ディープサウス(米最南部)では、ホーニドハウスと発音するらしいですね。私も一度、フロリダ州オーランド経由で大型客船に乗って、バハマなど周遊(クルージング)する取材旅行に行ったことがありますが(何という贅沢!)、オーランドのホテルの受付の女性の南部なまりの発音が独特で、さっぱり聞き取ることができなかったことを思い出しました。

 第一、オーランドは、「オーランド」とは発音せず、「オラーーンド」と発音していましたからね。通じないはずです(笑)。

 さて、物語には一癖も二癖もありそうな人が登場します。ホーニドハウスの隣人だったジョンは印刷会社に勤めながら、自宅ではダンテの地獄図のような絵を描くアーチストで、室内を真っ赤に装飾する変わった人物で、性的マイノリティー。結局、彼には振り回される日々を送ることになります。

 ホーニドハウスは、黒人居住区と白人居住区の境目辺りにあり、近くにある黒人専用の酒場に思い切って入った太郎は、そこで黒人女性のジンと知り合います。その前に白人のマーサーと一度だけデートをしますが、マーサーは大学のホームカミングのクイーンに推薦されるほどの金髪美人で、太郎は、とても自分に釣り合うわけがないと自ら引いてしまいます。

 同じ大学に通う白人のフレッドは、日本人の太郎に親近感を持って自宅のパーティーに招待してくれ、美大生である従妹のリリーを紹介してくれますが、彼女は足が悪く杖がなければ歩けません。リリーは性格も良く素晴らしい女性ですが、太郎は、日本に恋人がいるし、このままだとフロリダの田舎で一生住み続けることになり、それは本意ではありません。それでも、フレッドは、何かと機会をつくって、しきりにリリーを太郎とくっつけようとします。

 まあ、主人公の本職は勉学ですが、その合間に出掛けた酒場で、黒人から「ビールをおごれ」とナイフで脅されたり、逆にマックという親切な男にバーベキューパーティーに招待され、黒人たちから歓待されたりします。

 最後はどうなるのか、ここでは触れられませんが、読み終わった後、この作品を映画化したら面白いじゃないかなあ、と思いました。フィクションとはいえ、ほぼ実際に体験したことが書かれ、貴重な同時代人の証言になっていますから。