古代史が書き換えられるアイアンロード=そして、デマ情報に騙されるな

 「世界史の概念が根底から覆されるよ」と言いながら、会社の同僚川本君が貸してくれたDVDは、今年1月に放送されたNHKスペシャル「アイアンロード~知られざる古代文明の道~」を録画したものでした。

 「随分、大袈裟だな」と半信半疑でしばらく放っておいて、時間が空いた週末に見てみると、これは吃驚。宇宙考古学と呼ばれる人工衛星からの探索で、ユーラシア大陸のアルタイ地域に鉄器文明で栄えたスキタイ人の古代遺跡や50以上の古墳が次々と見つかり、確かに、歴史的大発見!異様に興奮してしまいました。これでは古代史が変わります。

 人類が初めて鉄を生産する技術を獲得したのは、今のトルコのアナトリアに王国を建てたヒッタイト人です。紀元前17世紀前半にムルシリ1世が、バビロン第1王朝を滅ぼして古王国を樹立します。でも、最近になってその遥か昔の紀元前23世紀頃のカマン・カレホユック遺跡から世界最古の人工鉄(直径3センチ)が発掘されたのです。(中近東文化センター考古学研究所・大村幸弘所長ら)

 紀元前23世紀ですよ!今は紀元21世紀ですから、イエス・キリストの時代が随分、つい最近のことのように思えてきます。

 ヒッタイト王国は、鉄を武器に大国エジプト(ラムセス2世)と対等に戦って世界初の平和条約を結んだりしますが、隣国アッシリアなどの勢いに押され、紀元前12世紀に世界史から忽然と消えてしまいます。その後の鉄器文明は、前10世紀にコーカサス地方(ウクライナ・ビルスクヒルフォート遺跡)、前8世紀にはユーラシア・アルタイ地域に伝わり、スキタイ人が広大な領土を持った王国を築いていたことが最近になって遺跡発掘から分かりました。(愛媛大学アジア古代産業考古学研究センター長・村上恭通教授ら)これでは、古代史を書き換えるしかありませんね。

 スキタイ人は文字を持たなかったため、謎の民族で、同時代のギリシャの文献から「敵の血を飲む野蛮人」という扱いでしたが、実は高度な製鉄技術を持ち、短剣のほか、鉄で加工した黄金のネックレスなどもつくることができ、35キロの城壁に囲まれたアテネの4倍もの広大な首都を持った文明国だったことが、発掘調査から分かりました。

 スキタイ人は、馬の口の中に嵌める「鉄のはみ」を発明して、野生馬を自由に御すことによって、長距離の「移動革命」を成し遂げ、広大な領地を広げ、騎馬軍団で、ギリシャやペルシャ帝国を撃退しました。(スキタイ人はイラン系遊牧民という説があり、ペルシャ帝国はイランですから、今後の民族的研究も俟たれます)

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 このスキタイ人の製鉄技術を受け継いだのが、モンゴル地方の遊牧民だった匈奴です。匈奴の侵攻に度々悩まされた秦など古代中国は、万里の長城を築きます。中国の史書では、敵の匈奴は、野蛮で狂暴で悪者扱いですが、実は、高度の製鉄技術を持った文明国で、特に、鎧を打ち抜くほど強力な「鉄の矢じり」を発明して、匈奴の単于(ぜんう=君主)冒頓(ぼくとつ)は、漢の高祖劉邦を苦しめます(紀元前200年の白登山の戦い)。

 ヒッタイト人からコーカサス~アルタイのスキタイ人、そしてモンゴルの匈奴、さらに南下して中国の漢(特に、鉄が農具に使われ農業革命を起こす)にも伝わった製鉄技術は「アイアン・ロード」と命名されます。今のトルコから最後は日本列島(弥生時代)にまで到達するわけです。あのシルクロードより遥かに古いのです。

 いやあ、凄いドキュメンタリーでした。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 さて、話は少しだけ変わります(笑)。新型コロナウイルスの感染は、ついに世界的な大流行(パンデミック)になりましたが、3月13日付読売新聞に掲載された「世界動かしてきた感染症 『パンデミック』も運んだ交易」と題した山崎貴史編集委員の記事は実に興味深く拝読させて頂きました。

 特に、「感染症は人の移動や交易の活発化で拡大した」という世界史的分析は秀逸でした。例えば、グローバリズムは今に始まったわけではなく、5~8世紀は、シルクロードを経由して交易が国境を越えて大いに盛んとなり、その間にインドが起源とみられる天然痘が西は中東、欧州へ、東は日本にまで拡大します。この記事には詳しく書かれていませんでしたが、当時の日本の奈良時代、「古事記」「日本書紀」を編纂した中心人物と目され、絶大な権力を誇っていた藤原鎌足の次男不比等も、その子ども藤原四兄弟(武智麻呂=南家、房前=北家、宇合=式家、麻呂=京家 )も若くして病で亡くなっています。それは、天然痘だった説が有力です。ですから、私なんか「そうだったのか!」と相槌を打ってしまいました。

 また、14世紀には、欧州では人口の3分の1が死亡し、黒死病と恐れられたペストが大流行します。これは、中央アジアが発生源と言われ、モンゴル帝国が西へ拡大する中、伝わったと言われています。領土拡大の帝国主義と病気拡散はセットだったことが分かります。この黒死病による人口減で、欧州は農奴が急減し、中世の封建的身分制度が崩壊し、ペストを防げなかった教会の権威も失墜し、人々の意識に「国家」の概念が生まれ、近代的な主権国家の誕生に結び付くという分析も、目から鱗が落ちるようでした。つまり、パンデミックが社会を変革したのですからね。

 その点、現在のパンデミックは、貧富の格差拡大など社会の矛盾の現れなのかもしれません。果たして、この現在のパンデミックが、世界を変えるほどの社会変革をもたらすのか? 私自身は、デマ情報に惑わされず、パニックにならず、世界史的視野で、大いに注目していきたいと思っています。

出雲王朝の興亡=記紀神話は史実に近いのでは?

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

(昨日のつづき)

梅原猛著「葬られた王朝」の出雲の物語は続きます。

 スサノオと兄弟神から命を奪われるほどの煉獄を克服して、再生した(文字通り、何度も死んで甦った)オオクニヌシは、めでたく出雲という大国の王を継承します。オオクニヌシはそれだけでは満足せず、越の国を征服しに行きます。 越の国とは、古代北陸地方の国名で、北陸道の越前(福井県)から越中(富山県)を経て、越後(新潟県)に至る広大な領域で、古志、高志とも書かれました。 ここでは、呪力を持つと言われる翡翠(ひすい)が採れ、三種の神器の一つである勾玉などになりました。「越は、縄文時代以来、大いに栄えていたに違いない。…出雲は長い間、越の支配を免れなかった」と梅原氏も書きます。となると、越の被支配国だった出雲が、逆に越を征服したことになりますね。

 出雲による越の征服は、古事記では、一種の恋物語として描かれています。

 すなわち、八千矛神(やちほこのかみ)、すなわち大国主神が、越の国の沼河比売(ぬなかわひめ)に求婚して結ばれるという話です。二人の間に生まれた子どもが、「国譲り」の際に最後まで抵抗して、ついに諏訪に追いやられ、諏訪神社の祭神となったタケミナカタだったといいます。(103ページなど)

 越を征服して日本海側に広大な王国を築き上げたオオクニヌシは、今度はヤマト征服を目論みます。ところが、出雲がヤマトとどのように戦ったか、「古事記」にも「日本書紀」に書かれていないので分からないといいます。

 しかし、その戦いは幾多の困難があったにせよ、オオクニヌシの大勝利に終わったことはほぼ間違いないと思われる。関西周辺の地域には、オオクニヌシおよび彼の子たちを祀る神社や「出雲」の名前を伝える場所がはなはだ多い。例えば、オオクニヌシと同神といわれるオオモノヌシを祀った大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)、オオクニヌシの子コトシロヌシを祀った河俣神社(奈良県橿原=かしはら=市)、同じく子アヂスキヤカヒコネを祀った高鴨(たかかも)神社(奈良県御所=ごせ=市)など、ヤマトにある古社はほとんど出雲系の神を祀った神社であると言ってよかろう。また、京都、すなわち山城の亀岡には出雲大神宮という神社があり、それは実に丹波国の一之宮の神として信仰されてきた。…そういえば、京都には出雲路というところもある。…こう考えると、古くはヤマトも山城も出雲族の支配下にあり、この地に多くの出雲人が住んでいたとみるのが最も自然であろう。(110ページなど)

 そうでしたか。(ただし、記紀には書かれていないので、あくまでも、梅原氏の説です)

出雲大社

 オオクニヌシはこのように広大になった出雲王国を、朝鮮から渡来してきたといわれるスクナヒコナとともに治めることにします。スクナヒコナは、最先端の医療技術と酒の醸造法などを日本に伝えたといいます。スクナヒコナは、国造りが一段落したところで何処ともなく去っていきます。その時を同じくして、国造りを手助けをする神が現れます。その神はオオモノヌシといいました。あれっ?さっきの話では、オオモノヌシはオオクニヌシの同神ではなかったでしたっけ?

 日本書記では、オオクニヌシがオオモノヌシに「あなたは誰か」と尋ねると、オオモノヌシは「私はあなたの幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま)である」と答えたといいます。「私の魂とあなたの魂は同じである。あなたの最も美しい魂のみを持っている」という意味なのだそうです。同神とはそういうことでしたか。

  ということで、出雲王国はオオクニヌシの下で大きな繁栄を遂げます。しかし、次第に崩壊の道に進みます。その理由については記紀には記されていませんが、梅原氏は、オオクニヌシにはたくさんの子どもがいたので、後継者争いを巡る内部分裂が原因だったのではないかと推測しています。

 この内乱につけこまれて、最後は「国譲り」の形で、出雲はヤマトに征服されたということなんでしょう。

 私は2017年12月11日付の渓流斎ブログで「『出雲を原郷とする人たち』には驚きの連続」と題して、出雲の不思議を色々と書き連ねています。そのうちのいくつかを少し表現を変えて再録しますとー。

なぜ、これほどの文化が出雲に栄えたのかといいますと、天皇族の大和の文化が百済から瀬戸内海を通ってきたのに対して、新羅や高句麗を通して日本海ルートで出雲に入ってくる文化があったからだといいます。

◇武蔵国には出雲伊波比神社と出雲乃伊波比神社の2社が

 武蔵国には、出雲から最も離れた所に、二つの出雲系直轄とも言うべき神社が今でもあるといいます。それは、入間郡(埼玉県毛呂山町)の出雲伊波比(いわい)神社と男衾郡(埼玉県寄居町)の出雲乃伊波比神社の2社です。

また、武蔵国の東部にも出雲系の神社が多く、それは氷川神社、久伊豆神社、鷲宮神社群だといいます。埼玉県神社庁によりますと、氷川神社は284社(埼玉県204社、東京都77社、神奈川県3社)、久伊豆神社は54社(全て埼玉県)、鷲宮神社は100社(埼玉県60社、東京40社)に上るといいます。

◇氷川は出雲の斐伊川が由来

この中で、私が特に取り上げたいと思う神社は、足立郡式内氷川神社です。この神社について、文政11年(1828年)の「新編武蔵国風土記稿」には「出雲国氷の川上に鎮座せる杵築大社をうつし祀りし故、氷川神社の神号を賜れり」と記されています。この「氷の川」は古事記で「肥河」(ひのかは)、日本書紀では「簸川」(ひかは)とも書かれた斐伊川のことで、これが氷川神社の社名の由来になったといいます。なるほど。これで、やっと長年の疑問が氷解しました。

大国主命

以上、再録しました。出雲から諏訪に逃れたオオクニヌシの子のタケミナカタが祭神として諏訪神社に祀られたことを梅原氏の本で教えられましたが、このほか、武蔵国まで逃れた出雲の人たちもいたということになります。

 その一方で、梅原氏の説では、出雲が内乱でヤマトに征服される前の最盛期に、強大な出雲王国の方がヤマトを征服していた。その証拠に、大和の各地には出雲系の古社がある、というわけです。

 うーん、どうも、神話は、全くでたらめのフィクションではなく、史実に近いことを書いていたことになりますね。

古代出雲の謎を解く=梅原猛著「葬られた王朝」

WST  National Gallery Copyright par Duc deMatsuoqua

 大手出版社に勤務する大河内先生から、本が送られてきました。本は1000円以上もする高価なカラー写真付きの文庫本です。大河内先生は、新書を担当する編集者なので、おかしい?

 今から1カ月以上前の話。新年会で同席した大河内氏が、酔った勢いなのか、急に「渓流斎さん、本をお送りしますから、名刺をください」と言うではありませんか。てっきり、自分が担当しているどなたか偉い先生の新書で、書評用にマスコミ等に配布する余った「献本」かと思い、楽しみにしていました。

 しかし、待てど暮らせど送って来ません。会社に送るというので、紛れ込んでしまうことが多いので、一応、彼に「『届いたのに挨拶がない』と言われるのは心外なので、もし、お送りしていなかったら、もう送らなくて結構ですよ」とメールしたのでした。

 そしたら、彼から追って連絡があり、「まだ送ってません。これからお送りします」と言うのです。あまり、恩に着せられても困るので(笑)、「それなら結構です」と丁重にお断りしたのですが、結局、大河内先生は、社員割引とはいいながらも、実費で購入して、自分の担当外である文庫本を送ってくださったのです。後で倍返しで請求されそうですねえ(笑)。

 その文庫本が、これ、平成24年11月1日に発行された梅原猛著「葬られた王朝ー古代出雲の謎を解く」(新潮文庫)でした。あら、大手出版社名がバレてしまいましたね。それでは、大河内先生のお名前は仮名とさせていただきましょう。

 何でこの本なのか?しかも新刊でもない。わざわざ、社員割引とはいえ、買って頂いて送ってくださる価値がある本なのか?「お前は教養がないから、もっと勉強しろ」との叱咤激励なのか?-それこそ謎です。

 幸い、この本は未読だったこと。恐らく、小生が古代史、特に出雲の歴史に興味があること等を忖度して、大河内氏は送ってくださったと思います。倍返しはともかく、有難く拝読させて頂くことにしました。

 そしたら、めっちゃ面白い。めたらやったら面白いのです。もともと、「学界の異端児」と言われた梅原猛氏の著作には興味があり、何冊か読んだことがあります。以前、梅原氏が書いた「歴史上、日本が生んだ最大の思想家は法然だ」という一文を読んだことがきっかけで、法然に興味を持ち、日本の浄土教思想を勉強するようになったことも告白しておきます。梅原氏のおかげです。

 随分、前置きが長くなりました(笑)。少し引用させて頂きます。

・「古事記」を素直に読む限り、アマテラスを開祖とするヤマト王朝の前に、スサノオを開祖とする出雲王朝が、この日本に君臨していたと考えねばならない。(34ページ)

・「古事記」では、阿波の国は、「粟(あわ)の国」と書かれている。…日本は、稲作農業以前に粟、稗(ひえ)、黍(きび)、麦、小豆、大豆などの雑穀農業が行われていたと思われるが、徳島県、すなわち阿波は、この雑穀農業のうち粟農業が日本で最初に行われた国ではなかろうか。また、(黍農業が行われた)岡山県、すなわち吉備も、出雲王朝の権力が及ぶところであった。(43ページ)

・スサノオがヤマタノオロチを斬った刀は「韓鋤(からさい)の剣」であるという。韓鋤の剣とは韓国(からくに)から伝来した小刀のことを指す。その韓鋤の剣でヤマタノオロチを斬ったとすれば、スサノオ自身も韓国から来たと考えるのが自然であろう。(48ページ)

 いやあ、凄い大胆な推理ですね。いや、推理なんて言ったらいけないのかもしれません。ただ、私自身の勉強不足で定かではありませんが、これらは、古代史家からは定説として認められていないかもしれません。もう8年以上前に出版された本ですが、学会では無視されたのか、論争になったという記憶もありません。私が知らないだけなのでしょうが…。

 確かに、出雲の国は、大陸や半島との交流・貿易が盛んで一足先に文明が進歩した所だったのでしょう。別の本で読んだのですが、出雲は、タタール人から伝えられた製鉄法で鉄器を生産し、農業や船つくり、そして巨大な神殿づくりが発展した国でもありました。それがオオクニヌシの時代になって「国譲り」の形で、大和朝廷に併合されてしまうのが神話ですが、これは史実に近いのではないでしょうか。

田路舜哉、津田久…住友商事をつくった人たち

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

こんにちは 大分の三浦先生です。

 この3月1日から、日本経済新聞の最終面の名物「私の履歴書」で、段ボールの最大手レンゴーの会長兼社長の大坪清氏(1939~)の武勇伝が連載されています。賢い渓流斎さんのことですから、既にお読みになっていることでしょう。

本日(3月6日)も名前が出て来ますが、大坪氏の入社試験で面接した住友商事の社長だった「津田久」という方は、大変面白い人物です。連載の前回に書いてありましたが、住友商事は、財閥の商社の中でも後発で、戦後の昭和20年11月に「日本建設産業」の名称でスタートしました。知らなかったでしょ?当時は「十大商社の9番目」。住友金属(現日本製鉄)関係との取引が際立つ「鉄鋼商社」とも言われていました。それを総合商社として大きく成長させたのが津田久です。

 もう一人、 摂津板紙の創業者である 「増田義雄」 も出てきますが、彼も大変喧嘩早く、今のITか何かの青年実業家なんかと違って、アクが強く、新聞・雑誌記者たちがその逸話を取り上げるだけで、下手な文章でも、輝き出すような取材対象です(笑)。

 津田久も、その前の社長で事実上の住商を創業した「田路舜哉(とうじ・しゅんや)」も東京帝大出身で、卒業後、住友本社に入り、戦後の住友グループの事業拡大に尽力があった逸材です。

 田路は、「ケンカ、とうじ」と言われたり、名刀のように切れるので「村正」と言われたり、まあ、凄いあだ名がついた面白い逸材です。

住友グループの原点の別子銅山に関連して、「別子三羽烏」など綽名もついていたそうで、それだけ、個性のある人物が数多いたわけですね。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

田路の上司で、田路を可愛がった「鷲尾勘解治(わしお・かげじ)」は、住友本社の大幹部で、別子銅山の最高責任者だったのに、住友本社と対立して、住友を去ります。鷲尾は「鉱夫の気持ちが分かるには自分も鉱夫にならないとダメだ」と自ら鉱夫になって懸命に働き、同時に別子銅山の鉱脈の将来性も見通し、次の事業展開も考えていたそうです。

 田路もそうした気風の継承者で、叙勲も固辞しています。まあ、皆さん、信念と気骨のある人ばかりですね。そういう残影に多少でも接した大坪氏だけに、「私の履歴書」には人間味のある逸話が多く出てくるのです(笑)

 えっ?大坪清も増田義雄も津田久も田路舜哉も鷲尾勘解治も初めて聞く名前ですか?ああたのことですから、すぐ、ごっちゃになって、津田清とか、大坪義雄とか、言い出すことでしょう(笑)

 政界も財界も官界も文学界も、人物の逸話が面白いのです。「こんな人がいたんだ」「こういう人たちのお蔭で今の我々がいるのだ」などと、歴史から学ばなければいけません。渓流斎さんも、政治家や財界人を毛嫌いせずにジャンルを超えて知らなければなりませんよ。

日本共産党と社会党がソ連から資金援助を受けていた話=名越健郎著「秘密資金の戦後政党史」

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua 

(渓流斎ブログ3月3日付「冷戦期、自民党は米国からお金をもらい、社会党と共産党はソ連からお金をもらっていた」のつづき)

 名越健郎著「秘密資金の戦後政党史」(新潮選書)の前半は、冷戦時代、自民党が米国からたんまりとお金をもらっていた、という話でしたが、後半は、日本共産党と社会党がソ連から資金援助と便宜供与を受けていたという話です。公文書から具体的に書かれています。

 共産党の場合はこうです。

 ソ連共産党による秘密基金に関する「特別ファイル」の全ての記録は確認できなかったが、判明しただけでも、1951年に10万ドル、55年25万ドル、58年に5万ドル、59年に5万ドル、61年に10万ドル、62年に15万ドル、63年に15万ドルーと少なくても7年で計85万ドルが供与された。この期間の85万ドルは、現在の貨幣価値では30億円以上に匹敵すると思われる。(176~177ページ)

 社会党の場合は、1950年代は中国から60年代からソ連から「友好商社方式」と呼ばれる迂回融資の形で、お金をもらっていました。

 原彬久元東京国際大学教授の著した「戦後史のなかの日本社会党」(中公新書)によると、社会党の浅沼稲次郎委員長の「米帝国主義は日中両国人民の共通の敵」(1959年3月の訪中の際)発言を前後して、中国は日本に「友好商社」を設け、これを通じて中国産の漆、食料品等のいわゆる「配慮物資」を流し、この友好商社の利益の一部を社会党の派閥・個人に還流していったことは、周知の事実であるといいます。(236ページ)

 その後、社会党は、資金援助を中国からソ連に切り替えます。そのきっかけは、1961年のソ連ミコヤン副首相の訪日だったといいます。歴史的な中ソ対立の最中、同副首相は、社会党の河上丈太郎委員長に対し、「日本共産党が中国共産党に接近したので、ソ連共産党は社会党との関係を深めたい」と正式に申し入れ、本格化したといいます。これを受けて、64年7月に成田知巳書記長を団長とする第3次訪ソ団がフルシチョフ首相らと会談し、貿易面の全面協力などを含む共同声明を発表します。(242ページなど)

 これによって、優遇された社会党系商社がソ連との貿易で利益を得て、その一部を社会党に還元していくシステムが確立したわけです。(社会党がソ連寄りになったのは、共産党が60年代から「自主独立路線」を提唱してソ連から離れたことや、70年代に「日中両国の共通の敵」だった米国が中国に接近したことが要因になっています)

 著者は「ソ連がチェコスロバキアの自由化運動『プラハの春』を戦車で鎮圧した1968年のチェコ事件は、ソ連型社会主義への失望を高めたが、社会党左派の理論的指導者、向坂逸郎や岩井章総評事務局長らはソ連の行動を公然と擁護した」と書き、暗に、社会党系は、ソ連からお金をもらっているから批判できなかった、ことを示唆しています。

 嗚呼、公開された公文書によると、自民党は少なくとも1964年まで米国からたんまりとお金をもらって、ズブズブの関係。そんな大企業中心の金権政治に嫌気をさして、共産党と社会党にユートピア世界建設の夢を託していた大衆も、見事、裏切られていたわけですね。ソ連から利益供与を受けた党が全権を掌握すれば、日本はソ連の衛星国になっていたことでしょう。

 別に今さらカマトトぶるわけではありませんが、こんなんでは政治不信、と同時に人間不信になってしまいます。

冷戦期、自民党は米国からお金をもらい、社会党と共産党はソ連からお金をもらっていた=名越健郎著「秘密資金の戦後政党史」

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 まさに「政治とカネ」の疑獄に焦点を当てた名越健郎著「秘密資金の戦後政党史」(新潮選書、2019年12月20日初版)を今、読んでいます。先日読んだ室伏哲郎著「実録 日本汚職史」(ちくま文庫、1988年2月23日初版) の続編みたいな感じです。

 室伏氏の本が明治以来の日本の政界の「伝統」である贈収賄事件のことを扱っているのに対して、名越氏の本は、副題に「米露公文書に刻まれた『依存』の系譜」とあるように、もっと国際的視野から「政治とカネ」の問題にアプローチしています。

 著者の名越氏は、時事通信社のモスクワ、ワシントンなどの特派員、外信部長などを歴任した後、現在、拓殖大学教授です。小生の大学と会社の先輩に当たり、よく存じ上げている方なので、この本を取り上げるのは依怙贔屓かもしれません(笑)。しかし、この本は力作です。米国とロシアの公文書館で公開史料を探訪した労作です。驚くべき事実が描かれています。このブログをお読みの全ての皆様にお薦めします。

 著者は序章でこう書いています(引用文は入れ替えなどあり)。

 1990年代以降、米国の情報公開や91年のソ連邦崩壊に伴う文書公開により、冷戦期に活動した日本の主要5政党のうち、公明党を除く自民、民社、社会、共産の4党が外国から非合法に資金を導入していたことが判明した。

 通常、個人や企業、団体が政治家や政党に寄付する場合、何らかの見返りを期待するケースが多い。外国の組織が日本の政党に政治資金を提供する場合、当事国の戦略や思惑も絡んで国家の主権や安全保障を危うくするリスクを伴う。

 もう序章でこの本の結論を書いているようなものです。この後、いつ、誰が、どの政党が、どれくらいの金額をもらっているのか、示唆するような形で暴いています。これらは、マッカーサー駐日大使(マッカーサー最高司令官の甥)から国務省への公文書や米アリゾナ大学のマイケル・シャラー教授ら研究者の著書などを引用して書かれているのですから、信憑性は高いのです。

 例えば、米CIAの対日秘密工作として自民党などへの資金援助の総額は分からないとしながらも、マイケル・シャラー教授の「『日米関係』とは何だったのか」(草思社、市川洋一訳、2004年)を引用して、1958年頃から少なくとも10年間続いた援助額は、毎年200万ドル(7億2000万円)から1000万ドル(36億円)に上ったとしています。

 ただし、「昭和の妖怪」と言われ、CIAとの繋がりが濃厚で、日米安保条約の締結に命を懸けた元首相の岸信介(安倍首相の祖父)に関するCIAなど情報機関が作成した個人ファイルは、いまだに、ほとんど「不開示」のため、具体的な数字が出てこないのが実情だといいます。

 とはいえ、岸信介は、マッカーサー大使と極秘に頻繁に会っていたほか、岸の実弟で、岸政権の蔵相だった佐藤栄作(後の首相)が米国に露骨に資金支援を求めたり、佐藤が資金受領を自民党幹事長だった川島正次郎に任せたことなどが公文書に具体的に実名で出てきます。

一方、旧ソ連から社会党、共産党に流れたとされる秘密援助も毎年変化しますが、その中で、ソ連を中心とする東側から1955年に日本共産党に提供された資金は25万ドル(9000万円)とソ連共産党公文書に記載されているとし、「CIAの支援額とは桁が違っている」と著者は書いています。

 まあ、随分、生々しいお話だこと! 情報公開した米国とソ連の英断も讃えたくなります。公文書を改ざんしたり、破棄したり、シュレッダーにかけたりするどこかの国とえらい違いですね。

 私は若い頃から政治家には不信感を抱いて生きておりましたが、これでは、右翼も左翼も、みんな売国奴じゃありませんか。自民党(そして、社会党右派から分裂した民社党も)は米国からお金をもらい、社会党と共産党はソ連からお金をもらい、政権維持や票集めの道具に使っていたわけですからね。となると、お金をもらっている日本の政党は、米国やソ連の傀儡に他ならなくなります。

 今は露骨な資金援助はないでしょうが、何か別の形で援助が来ているのではないかと私は疑っています。こんなんでは、自主独立国家と世界に胸を張ることはできませんよね?それとも、国際世論はとっくに、日本は米国の属国だと思っているのでしょうか?

 「そんなことはない」と、日本の政治家の皆さんには率先して訴えてもらいたいです。

笑うしかない明治から現在に至る贈収賄疑惑の数々=室伏哲郎著「実録 日本汚職史」

WST National Gallery Copyright par Duc deMatsuoqua

 室伏哲郎著「実録 日本汚職史」(ちくま文庫、1988年2月23日初版)を読了すると、かなりの無力感に苛まれてしまい、落ち込みます。明治の近代化から始まった政治家と政商財閥との贈収賄汚職疑惑を総覧したノンフィクションです。今さら読むなんて遅すぎますが、古典的名著です。個人的に知らなかったことが多かったです。著者の室伏氏(1930~2009年)は「構造汚職」の造語を発案した作家としても知られています。

 この本を読むと、歴史上「偉人」と教え込まれた明治の元勲たちも、500以上の会社を設立して日本の資本主義を切り開いた貢献者・渋沢栄一も、早稲田大学を創設した大隈重信も、皆、みんな、汚職の疑惑まみれで、自分は何の歴史を学んできたのか、と疑心暗鬼になってしまいます。

 著者は第1章でこう書きます。

 クーデターによって政権を握った明治政府は、国民のどの階層にもしっかりした支持も基盤も持たなかった。だから、為政者たちは…天皇を神に祭り上げて…、国民を遮二無二「富国強兵」に追い立てたのである。「殖産興業」も彼らの合言葉であった。

 天皇制政府の産業奨励、資本主義の育成というのは、中央政府の吸い上げた富を少数の利権屋に与え、利権屋・財閥と政府高官が私腹を肥やすことであった。いわゆる政商型資本主義である。

 この後、著者は、明治5年の「山城屋事件」から昭和61年の撚糸工連汚職に至るまで、「これでもか」「これでもか」といった感じで疑惑汚職を並べて解説してくれます。

 私が知らなかった疑獄事件に、明治6年に明るみに出た「三谷屋事件」があります。三谷屋は、長州閥の陸軍に食い込んで暴利を貪った政商で、山縣有朋の妾の小遣いまで出していたといわれます。それが、三谷屋の手代・伊沢弥七が内緒でやった水油の思惑買いが大暴落して、莫大な借金を抱えてしまいます。三谷屋の失脚を狙った三井系商社による投げ売りが原因と言われています。

 落ち目の三谷家は、政府高官の入れ智慧に従って、日本橋、室町、京橋など市内目抜きの地所53カ所全てを見積もって5万円で三井組に提供することになります。ただし「10年後には全ての地所を無条件で返却する」という返り証文を付けてでした。

 ところが、10年経って三谷家が三井組から地所を返却してもらおうとしたところ、返り証文が見つからない。当時、三谷家の当主がまだ若いという理由で、返り証文を預かっていた姉婿の三谷斧三郎が放蕩の末に金に困り、それに付け込んだ三井組が密かにその返り証文を二束三文で買い取ったらしいのです。

 ということで、三谷家の「身から出た錆」とはいえ、世が世なら、今頃、銀座1丁目や日本橋の超・超一等地は、三井不動産ではなく、三谷財閥が開発していたことになります。となると、GHQ占領下時代に室町の三井ビルを根城に権勢を振るって「室町将軍」と呼ばれた政界の黒幕三浦義一氏も、三井財閥ではなく、三谷財閥を相手にしていたのかもしれません(笑)。

 このほか、面白かったのは(と、やけ気味に書きましょう)、出版社が県知事に賄賂を贈って教科書を採用してもらうように働きかけた明治35年の「教科書事件」、大正時代の売春汚職「松島遊郭疑獄」、放蕩の挙句に借金まみれになった元官僚が、桂太郎首相の娘婿の肩書を利用して内閣賞勲局総裁になり、賄賂を取って勲章を乱発した「売勲事件」(昭和3年)などを取り上げています。

 しかし、疑惑ですから、ほとんどの政治家や高級官僚は捕まらないで有耶無耶になってしまうんですよね。

 著者の室伏氏も書いています。

 三面記事を派手に賑わせる強盗、殺人、かっぱらい、あるいはつまみ食いなどという下層階級の犯罪は厳しく取り締まりを受けるが、中高所得層のホワイトカラー犯罪は厳格な摘発訴追を免れているーいわゆる資本主義社会における階級司法の弊害である。

 そうなんですよ。時の最高権力者が自分たちに都合の良い人間を最高検検事総長に選んだりすれば、汚職疑惑の摘発なんて世の中からなくなり、曖昧になるわけです。

 文庫の解説を書いた筑紫哲也氏も「本書を通読して驚かされるのは、恐ろしく似たような権力犯罪が明治以来現在まで繰り返されていることである。このことは、税金をいいように食い尽くされてきた納税者が、そのことに鈍感または寛容であり続けてきたことが連動している」とまで指摘しています。

 人間は歴史から何も学ばないし、同じ間違い、同じ罪を犯し続けます。まあ、笑うしかありませんね。悲劇というより、喜劇ですよ。

(引用文の一部で漢字に改めている箇所があります)

土浦城郭内の浄真寺に高野長英の墓

 真冬だというのに気温15度。しかも花粉症患者にとっては大の苦手の風もない。

 ということで、2月24日(月)の祝日(天皇誕生日振替休日)は、新型コロナウイルスの影響で「不要不急の外出は控えよ」との国家からの通達も、ものかは。

 思い切って、久しぶりにお城巡りに出かけてきました。

創業140年超の老舗蕎麦「吾妻庵本店」

 目指すは、「続 日本の名城百選」に選ばれている常陸国にある土浦城。都心のJR上野駅から常磐線で土浦駅までちょうど1時間。そこから歩いて15分ほどで、土浦城に到着します。 石垣もなく、土塁に囲まれた平城ですから高低差もなく、 まさに初心者の中の初心者向きの城歩きです。

 生まれて初めて、JR常磐線の土浦駅を降りましたが、駅近には有名、無名の予備校や進学塾が軒を連ねていました。

 土浦には茨城県下一の進学校土浦第一高等学校(旧制土浦中学)がありますからね。どうやら、土浦は教育産業が一番盛んではないかと私なんか睨みました(笑)。

 駅に昼過ぎに着いたら、観光案内所は閉まってました。正午から午後1時まで「昼休み」だとか。しょうがないので、ラックにあった市内案内地図を無断で拝借致しました!

吾妻庵の「天ざる」1650円。ビール中瓶700円。〆て2350円!

 その地図に載っていたわけではありませんが、ちょうど昼時だったので、中城通りにある140年を超える老舗蕎麦「吾妻庵本店」に行ってみました。何をさしおいても地元名産が優先です(笑)。今から140年前というと、明治13年になりますね。

 滅多に来ることはないので思い切って注文したのが、天ざる。1650円とちょっと東京・銀座並みの値段でしたが、清水の舞台を飛び降りてみました。ま、蕎麦は随分コシがあり、天ぷらは海老がそのまま入っていて、値段なりの旨さでした。

 城歩きのため、栄養をつけなければならないので、ビールも注文したら、中瓶で700円。後で請求書を見て吃驚でした。でも、禁足令が出ているのにも関わらず、土浦の地元経済に貢献できて誇らしく感じました(笑)。

 吾妻庵がある中城通りは、城下町の面影が色濃く残った蔵の街でした。訪れた価値はありました。蔵は店舗や資料館になっていましたが、その中に「土浦ツェッペリン伯号展示館」がありました。昭和4年(1929年)に、あの飛行船ツェッペリン号が世界一周の旅の途中、ここ霞ケ浦に立ち寄ったというのです。知りませんでしたね。

私はレッド・ツェッペリンなら詳しいのですが、「へー」と思ってしまいました。

土浦城址の東櫓(復元)

 中城通りから5、6分で、土浦城址に着きました。いつもながら、遠くから櫓が見えた時、感動で打ち震えました。大袈裟ですね。たとえ、それが後世の復元だとしても、何か、興奮しちゃうんですね。

 土浦城は、永享年間(1429~41年)に、小田城主の小田氏の被官、今泉三郎が築城したのが始まりだと言われ、この後、城主は色々変わっていますので、ご興味のある方は、上の写真の看板をお読みください。

 この辺りの中世は、小田城が中心で、土浦城は、その支城だったわけです。

 小田城は、南北朝時代に、戦乱から逃れて船で常陸国に渡った北畠親房が「神皇正統記」を執筆した城としても有名なので、今度行ってみようかと思っています。

西櫓(復元)

 看板には「織豊期に、結城秀康の支配下に入った」とありますね。結城秀康は、徳川家康の次男ですから、土浦城はかなり重要視されていたことが分かります。江戸時代に入り、三代将軍家光に仕えて若年寄に栄進した土屋数直の流れを汲む土屋家が、明治維新まで200年も土浦藩主を務めました。

譜代九万五千石ですから、結構、家格は高かったですね。

 西櫓の近くに建つ土浦市民博物館(105円)にも行きましたが、土屋家は、かつては武田信玄の家臣でもあったらしく、遠く甲斐国に飛び地(領地)を持ち、寺社仏閣を甲斐に創建していました。

  また、土浦は、水戸街道の日本橋と水戸の中継地であることから、宿場町としても大いに栄えました。

東櫓(復元)

 ここが本丸跡ですが、碑を探すのに少し苦労しました。

 土浦城址は現在、亀城(かめしろ、ではなく、きじょう)公園になっていますが、大変失礼な言い方ですが、本当に狭い。猫の額ほど、と言えば、怒られるでしょうが、それほど狭い。

 思わず、「これだけ~?」と叫んでしまいました(笑)。

 上の看板の地図でお分かりの通り、本丸と二の丸だけが現在でも残されて、亀城公園になったわけです。「これだけ~」のはずです。

 周囲は今、住宅やら裁判所なんかになっています。

 土浦城のシンボルになっているのが、上の写真の「太鼓櫓門」です。慶安年間に朽木氏の時代に建てられたと言われています。これだけは現存の遺物らしいですね。

 二階に「時」を知らせる太鼓があったとか。

浄真寺

 先ほどの土浦城郭の地図でも描かれていますが、本丸の北北西にあるのが浄土宗の浄真寺です。城主だった松平信一が慶長6年(1601年)に菩提寺として創建しました。それで、寺には葵の御紋があるわけでした。

 この浄真寺にある説明文を読んで初めて知ったのですが、この寺には、「蛮社の獄」で追われて、江戸青山百人町で捕縛の際に絶命したという蘭学者の高野長英の墓があるんですね。えっ?何で?高野長英は、仙台藩の水沢出身だったはず…。

 境内には誰もいなかったので、結局、場所は分かりませんでしたが、後で、調べたら 、日本橋の薬問屋「神崎屋」を営む片岡家が高野長英の遺体を引き取り、この寺の片岡家の墓地に埋葬したといわれています。片岡家の主人は、水沢出身で、高野長英の養父の知人だったそうです。医者を志して18歳で上京した高野長英は、薬問屋の「神崎屋」でお世話になっていました。

 高野家ではなく、片岡家の墓を探せばよかったんですね。また行く機会があれば、今度こそ探し当ててみせます。

 墓地の奥には、土浦城の土塁が残っておりました。

(市立博物館の見学を入れても所要時間は2時間ほどでした)

新型コロナウイルスの影響で例年になく少ない=京都・醍醐寺で「五大力尊仁王会」

Copyright par Kyoraque-sensei

こんにちは、京洛先生です。

Copyright par Kyoraque-sensei

 新型肺炎が広がり、この調子では2020年は「東京五輪」ではなく、「新型コロナウイルス」の年として後世に伝えられますね。「まだ、東京五輪は先の話だ」と思っている人が多いでしょうが、開催の最終決定権は国際オリンピック委員会(IOC)ですから、土壇場で何が起こるか分かりませんね。

 またその時は日本のマスコミは右往左往、後付け「講釈」をして、あれこれ誤魔化すのは目に見えます(笑)。

Copyright par Kyoraque-sensei

トランプ大統領ではないですが、誰でも先の見通しは、はっきり分らないのですから、「マスコミは嘘ばかりだ!」と言うのは確かにそうです。米国民が、それを感じて同大統領を誕生させたのです(笑)。

 また、そう思っている人が米国だけでなく世界中で多く存在していて、それを追跡、検証する既存マスコミが皆無なのが現実です。

Copyright par Kyoraque-sensei

 それはさておき、昨日23日(日)は世界遺産「醍醐寺」(京都市伏見区)で、庶民から「五大力さん」と親しまれている「五大力尊仁王会」が開催されたので、行って来ました。そのスナップをお送りします。

Copyright par Kyoraque-sensei

 最近、熱心に仏教の歴史を勉強されている渓流斎さんなら詳しいと思いますが、平安初期、真言宗の僧侶、聖宝(しょうぼう)が開祖した醍醐寺ですが、この「五大力尊仁王会」は不動明王など五大明王(ほかに降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)の力によって、無病息災、国家、家庭の平和、幸せを祈願する、醍醐寺の最大の行事です。

Copyright par Kyoraque-sensei  迫力ある写真ですね!

 毎年、10万人を超える参拝者が訪れますが、新型肺炎の影響と、中国人など外国人の観光客激減もあって、去年に比べて参拝者は少なかったですね。

そのせいで、混雑せず参拝はスムース、境内もゆっくり歩けて快適でした。

Copyright par Kyoraque-sensei

本堂前の特設舞台での大きな紅白の二段重ねの鏡餅を持ち上げる「持ち上げ力奉納」もやっていましたが、新型肺炎の影響もあり、参加者が例年より少なく鏡餅の持ち上げの最長時間は男性(重さ150キロ)は5分58秒、女性(重さ90キロ)6分40秒でした。

Copyright par Kyoraque-sensei

それにしても、京都でも、どこもかしこも「新型肺炎」の影響が出ていました。

以上 おしまい。

明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 新型コロナウイルスの影響で、さらに自粛ムードが広がり、世間では3連休だというのに身動きできない状況です。

 新型コロナウイルスに緊急対応した医師や看護師に対して、「バイ菌」扱いしたり、いじめをしたりする事案が各地で頻発しているらしく、日ごろ、「日本民族は礼儀正しく優秀だ」「日本人は素晴らしい」と歓呼している人も、知らないふりをして声を潜めています。

 さりはさりとて、今から44年前の1976年2月に起きたロッキード事件関係の本を読んでいたら、ロッキード社から秘密工作費21億円を受け取ったとして脱税などで起訴された児玉誉士夫氏の東京都世田谷区の住所が番地まで出ていました。

 たまたまその近くの豪邸にお住まいの深沢令夫人と面識があるので、「散歩のついでに、旧児玉邸が現在どうなっているか調べてください」と探訪要請したところ、快く引き受けてくださいました。

 令夫人のことですから、「写真を撮影するのは憚れました」ということで、残念ながら、現場写真はありませんが、どうやら、現在は高級マンションになっているとのことでした。確か、ロッキード事件発覚後の翌月に、児玉邸にセスナ機が自爆特攻した事件があり、2階の1部が損傷しただけだったので、大豪邸だったのでしょう。やはり、跡の敷地に高級マンションが建つほど広大な敷地だったんですね。

 そんな話を大分にお住まいの物知りの三浦先生に話したところ、「児玉さんの御子息は、何をされたかご存知ですか? 赤坂方面の放送局の重役まで務められましたよ。それより、あの石原莞爾の孫はその放送局の会長までやってますよ。作家の息子とはレベルが違います。世の中の人は何も知らないでしょうけどね」と仰るではありませんか。

 あらま。私も「世の中の人」ですから、何も知りませんでした。調べてみたら、フィクサー児玉誉士夫氏の御子息である児玉守弘氏は、TBSの常務取締役や関連会社の役員を務めた後、日音の相談役になったとか。満州事変を画策した石原莞爾の孫の石原俊爾(としちか)氏はTBSの社長~会長を歴任されてますね。

作家の息子とは、昨年、フジテレビの社長に就任した遠藤周作の御子息遠藤龍之介氏のことでしょうかねえ?

 最後に今日はこれだけは書いておきたい。「桜を見る会」事件のことです。

 報道に接する限り、桜を見る会の招待者は、特別な功績や功労がなくても、安倍首相の後援会の関係者ならフリーパスで、内閣府もチェックせずにそのまま通っていたことが明らかになりました。これでは、国民の税金を首相が「私物化」したことになります。花見会も高級ホテルでの前夜祭も、やりたければ個人のポケットマネーでやれば、納税者から誰も文句は出ないはずです。

 自分の選挙民を優遇すれば、「偉い先生」として、国会議員に当選するのは当たり前です。しかも、脱法的な手段で国民の代表として居座るなら言語道断で、民主主義の危機です。

  明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

 これは、浄土真宗の開祖親鸞が9歳のときに出家する際に読んだ歌とされます。

 飛躍して読めば、今の「桜を見る会」の騒動に一石投げかけるようにも読めます。

 恐らく、時の最高権力者はこの歌のことはご存知のことでしょうが、「驕れる者久しからず」ことを肝に銘じてもらいたいものです。