🎬小津作品を観たくなります=平山周吉著「小津安二郎」

 今、話題になっている平山周吉著「小津安二郎」(新潮社)を読んでいます。同時並行で他の本も沢山読んでいますので、乱読です。

 巨匠小津安二郎(1903~63年)に関しては、様々な多くの書籍がこれまで出版され、いわば出尽くされた感じでしたが、それでもなお、この本では今までとは違った視点で描かれている(山中貞雄監督との関係や、円覚寺の墓石にかかれた「無」の揮毫は本人の遺志ではなかったことなど)ということで、多くの書評でも取り上げられ、脚光を浴びています。また、今年はちょうど小津没後60年の節目の年ということもあります。

 没後60年が何故、節目の年かと言いますと、小津監督自身、今ではとても若い60歳で亡くなっているからです。晩年の写真を見ると、80歳ぐらいに見えますが、まだ60歳だったとは驚きです。あれから60年経ったということで、今年は小津生誕120年ということにもなります。

 著者の平山周吉氏は、いつぞやこの渓流斎ブログで何度も取り上げたあの「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社)の著者でもあります。文芸誌の編集長も務めた経歴の持ち主で、古今東西の古書を渉猟して調査研究する手法は、この本でも遺憾なく発揮されています。

 でも、正直言わせてもらいますと、異様にマニアックで、重箱の隅の隅まで突っついている感じがなきにしもあらずで、逆に言えば、マニアックだからこそ出版物として通用するといった感想を抱いてしまいました。

 とは言っても、私は小津安二郎が嫌いなわけではありません。彼がこよなく愛して通った東京・上野のとんかつ屋「蓬莱屋」には今でも通っているぐらいですからね(笑)。世界の映画人やファン投票で、代表作「東京物語」が何度も世界第1位に輝き、私も「東京物語」だけは、10回ぐらいはテレビやビデオで見ています。1953年公開ですから、劇場では見ていませんが。。。(遺作となった小津作品は「秋刀魚の味」ですら1962年公開ですから、小津作品を封切で映画館にまで足を運んで観たのは戦前生まれか、私の親の世代ぐらいではないでしょうか。)

 でも、この本を読んでみて、私自身は、小津作品をほとんど観ていないことが分かり、観ていないと何が書かれているのか分からないので、慌ててDVDを購入して観たりしています。

 早速、観たのは、1949年度のキネマ旬報の1位に輝いた「晩春」と、遺作になった62年の「秋刀魚の味」です。そしたら、あれ?です。何という既視感!

 男やもめの初老の父と年頃の娘がいて、老父は娘が行き遅れ(差別用語で、行かず後家)にならないか心配しています。娘はお父さん大好きで、いつまでも身の回りの世話をしてあげたい。老父は、痛し痒しで、それでは困る。結局、周囲からの縁談を進めて、最後は娘のいなくなった家で、老父は寂しく感慨深気な表情でラストシーンとなる。。。

 「晩春」「秋刀魚の味」ともに、この老父(とはいっても56~57歳)役が笠智衆。行き遅れになりそうな娘(とはいっても、まだ24歳)役は、「晩春」では原節子、「秋刀魚の味」では岩下志麻です。両作品とも、結婚相手は最後まで登場せず、名前だけ。自宅での花嫁衣裳姿は出てきますが、式や披露宴の場面はなし。うーん、同じようなストーリーといいますか、「晩春」から13年目にして、ワンパターンと言いますか、歌舞伎の様式美のような同じ物語が展開されます。それで、デジャヴュ(既視感)を味わってしまったわけです。

 特に老父役の笠智衆(もう40代から老人役を演じていた!)は、意識しているのか、あの独特のゆったりとした台詞の棒読み状態の中で、いぶし銀のような深い、深い味わいを醸し出しています。(「そおかあ、そうじゃったかなあ~」は夢にまで出てきます。)

 小津作品のほとんどがホームドラマと言えば、ホームドラマです。特別な悪人は登場せず(嫌な奴は登場します=笑)、露骨な煽情的な場面もなく、何処の家庭でも抱えそうな身近な問題をテーマにしています。どちらかと言えば、お涙頂戴劇か? 共同脚本を担当した野田高梧の台詞回しは、至って自然で、フィクションではなく、いかにも現実に有り得そうな錯覚に観る者を陥れますが、実生活では、最後まで独身を貫いて家庭を持たなかった小津が、何故ここまでホームドラマに拘ったのか不思議です。この本はまだ半分しか読んでいないので、最後の方に出てくるかもしれませんが、原節子との噂の真相も書いていることでしょう。

  ああ見えてファッション好きで、全く同じ色と柄の服を何着も揃えているとか、酒好きで知られ、行きつけの店は今でも「聖地」になっているとか。 ーこのように、小津安二郎という人が映画監督の枠を超えて、人間的に魅力があったからこそ、世界中の人から愛され、特にヴィム・ヴェンダース監督を始め、超一流のプロの映画人にも愛されたのではないかと私は思っています。日本的な、あまりにも日本人的な小津作品が、海外に通じるのも、人間の感情の機微に普遍性があるからでしょう。

 ところで、「秋刀魚の味」で、どこの場面でも秋刀魚が登場せず、少なくとも、何のキーポイントにもなっていないので、何でだろうと思って、この本の当該箇所を読んでみましたら、著者の平山氏は「『秋刀魚の味』は鱧(はも)と軍艦マーチの映画だ」なぞと書いておられました。恐らく、そう言われても、「秋刀魚の味」を御覧になっていない方は、よく分からないかもしれませんけど、確かにそうでした。そして、「秋刀魚の歌」で一躍有名になった詩人の佐藤春夫とその親友の谷崎潤一郎について触れ、文学少年だった小津安二郎は、二人の作品を全集などで読んでいるはずで、かなりの影響を受けていることも書いておりました。

 先ほど、この本について、「異様にマニアックだ」などと失礼なことを書いてしまいましたが、このように、ここまで各作品の細部について、解明してくれれば、確かに、「小津安二郎伝 完全版」と呼んでも相応しい本かもしれません。

 【追記】

 (1)著者の平山周吉の名前は、小津安二郎の代表作「東京物語」で笠智衆が演じた主役の平山周吉から取られたといいます。それだけでも、筆者は熱烈な小津ファンだということが分かります。

 (2)「秋刀魚の味」では、やたらとサッポロビールとサントリーのトリスバーが出てきます。「提携(タイアップ)商品広告」と断定してもいいでしょう。「ローアングル撮影」など小津安二郎を神格化するファンが多いですが、私は神格化まではしたくありませんね。ただ、小津作品は、歴史的遺産になることは確かです。映画を観ていて、パソコンやスマホどころかテレビもなかった時代。冷蔵庫も電話も普通の家庭にはなかった時代を思い出させます。文化人類学的価値もありますよ。

「絶滅種は復活しない」と「アルゼンチンの由来」

 相変わらず、といいますか、いまだに、まだダーウィンの「種の起源」(下、渡辺政隆訳、光文社古典新訳文庫)を読んでいます。

 この中で、「いったん絶滅した種は二度と出現しない」とか「一つのグループが、いったん完全に消滅すると、二度と復活しない。世代の連鎖が途切れてしまうからである」(174~175ページ)といった記述にぶつかり、ハッとしてしまいました。

 そっかあー。当たり前のことですけど、映画「ジュラシック・パーク」などでは、絶滅したはずの恐竜が「復活」したりしましたが、あれはあくまでもフィクションの世界だったんですね。ダーウイン先生に言わせれば、絶滅した恐竜は二度と出現しないし、同じように我々、ホモ・サピエンスの人類に最も近いデニソワ人もネアンデルタール人も絶滅したので、もう二度と出現しない、ということなのでしょう。

 そうなると生物に課せられた「生き延びること」と「生き残ること」は、最大最高の使命であり、最大の目的であり意味であることが再認識されます。(この後、ダーウインは、何百キロも離れた大陸や群島で、ある同じ植物が群生するのは、鳥や魚や動物たちが食べた果実や種子が嗉嚢(そのう)などに残り、遠距離で運ばれ、動物が死骸になっても、中に入っていた種子が長らく発芽能力を維持していることを実験で証明したりしております。)

◇絶滅危惧種を救え

 環境庁が発表している「レッドデータブック」をチラッと拝見しますと、既に「絶滅」した種としてニホンオオカミやニホンカワウソなどがあり、ラッコやジュゴンは「絶滅危惧」で、房総半島のホンドザルや紀伊山地のカモシカなどは「絶滅のおそれ」に分類されています。

 絶滅したニホンオオカミなどは二度と復活しないということになり、人魚姫のモデルになったとも言われるジュゴンなどの危惧種も絶滅したら、二度とその姿を見ることができなくなります。それらは人間の責任と言うべきか、それとも、生存闘争の末の「自然淘汰」と言うべきなのか? 少なくとも絶滅の恐れがある動物や植物たちは「人口問題なんかより、同じ地球に住んでいるんだから、俺たちの生存権をもっと大事にしてくれよ」と主張することでしょう。

 そんなことを考えながら、「種の起源」を読み進めています。

 話はガラリと変わって、先日、化学の元素記号を眺めていたら、ヘリウムheliumはHe、マグネシウムmagnesiumはMgなどと分かりやすいのに、何で金はgold なのにAu、銀はsilver なのにAgなんだろう、と思ったら、ラテン語だったんですね(実は知ってましたが=笑)。

 金は、ラテン語でaurum、銀はargentum。ですから、金の元素記号はAu、銀はAgとなるわけです。この銀のargentum(フランス語の銀は、argent でした!)は、どうも南米のアルゼンチンと関係があるのかな、と思って調べたら、やはり、アルゼンチンという国は、このラテン語の銀から取ったんですね。侵略したスペイン人が銀の鉱山を発掘したからでしょう。ついでながら、アルゼンチンとウルグアイを流れる有名なラプラタ川がありますが、スペイン語で、ラは冠詞、プラタは銀という意味なんですね。

 この年にして何ーも知らなかった、と恥じた次第です。

 アメリカの地名の由来は、イタリアの探検家アメリゴ・ベスプッチから取られたことは知っておりましたが、それ以外の北米、中南米の国々の地名の由来はほとんど知りませんでした。そこで、調べたところー。

カナダ=先住民の「村」「村落」を意味する「カナカ」が元になったという。

メキシコ=アステカ族の守護神メヒクトリ(「神に選ばれし者」の意味)にちなんで呼んだメヒコに由来する。

キューバ=先住民の「クーバ」(中心地の意味)の英語読み。

エクアドル=スペイン語で「赤道」の意味。

ブラジル=貴重な赤い染料が取れる「パウ・ブラジル」の木から。

ボリビア=ボリビア独立の功労者シモン・ボリバルに因む。

 まだまだ沢山ありますが、取り敢えず、この辺で(笑)。

1%の富裕層のための新自由主義=ナオミ・クライン「ショック・ドクトリン」を「100分de名著」が取り上げています

 目下、NHKのEテレで放送中の「100分de名著」の第130回「『ショック・ドクトリン』ナオミ・クライン」は頗る面白いので、皆さんと共有したいと思いました。6月12日(月)に第2回が放送されますが、同日に第1回の再放送もあり、見逃した方は、最初から見ることが出来ます。

 実は、私自身はこの名著を読んだことがなかったので、全く期待していなかったのですが、何となく見始めたら、すっかりハマってしまったのです。

 「ショック・ドクトリン」はユダヤ系カナダ人のジャーナリスト、ナオミ・クラインが2007年9月に発表したノンフィクションです。一言でいえば、シカゴ大学の教授でユダヤ系経済学者のミルトン・フリードマンが提唱した「新自由主義」に対するアンチテーゼで、彼女はフリードマンの経済政策を「惨事便乗型資本主義」と批判しているのです。

 番組の解説者として出演しているジャーナリストの堤未果氏によると、ショック・ドクトリンのショックとは、戦争やパンデミック、自然災害、テロといったことを指し、大衆がこのようなショックで正常な判断を失っている間隙を縫って、新自由主義者たちが次々と表向きは都合の良いように見せかけながら、自分たちだけが利益になるような政策を誘導していくことだといいます。一言でいえば、「火事場泥棒」ということで、実に分かりやすい表現だと思いました。

 新自由主義たちが為政者たちに「市場原理こそ全てだ」と言いくるめて、まずは①「規制緩和」に誘導させ、続いて、公共事業を次々と②「民営化」させる。最終的には③「社会福祉の制限」が目的となります。当然、貧富の格差は拡大しますね。堤氏によると、民間企業なら利潤があげられなければ、簡単に逃げられるが、公共団体は、綻びが出たからといって撤退できないといいます。つまり、例えば、2007年に財政破綻した北海道の夕張市は、撤退することが出来ず、国の管理下で借金を返済し、結果的に若者が離散して超高齢化と人口減少という現実があります。そうかと言えば、ハゲタカのようなファンドが、企業を乗っ取り、甘い蜜を吸いつくしてから、高額な金額で転売して逃げ去る構図と似ています。

 私は昔から、誰が世の中を動かしていて、誰が額に汗水たらさずに儲けて楽をしているのか、といった「世の中のからくり」について興味があり、ずっと知りたかったので、この本には目を見開かせられます。

 「ショック・ドクトリン」では、1973年、米CIAの工作員の力を借りてアジェンデ社会主義政権をクーデターで倒したチリのピノチェト将軍による独裁を振り返っています。ピノチェトは、1万3500人の市民を拘束し、数千人に拷問をかけて「ショック」を与え、1950代にシカゴ大学に留学してフリードマンから薫陶を受けた「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれた経済学者らに経済政策の指揮を執らせ、国営企業を次々と民営化して外国企業=つまりは米国=を参入させます。その結果、1974年のチリのインフレ率は375%に上り、パンの価格が高騰し、安い輸入品のお蔭で国内の企業が低迷し、失業率も増大します。

 その一方で、富裕層の収入は、アジェンデ政権時と比べて83%も増大したというのです。

 このほか、「英国病」と呼ばれて景気低迷していた1980年代の英国。サッチャー政権も支持率が25%と低迷していましたが、サッチャー首相は、フォークランド紛争という「ショック」を利用して、事業を民営化して景気回復を図り、支持率を59%に伸ばしたといいます。その一方、富裕層に対しては優遇政策を取ったといいますから、フリードマン流の新自由主義です。

 番組では、堤氏は「日本にもシカゴ・ボーイズ(フリードマンの影響を受けた経済学者や政治家)はいます」とキッパリ言ってましたが、具体的にどなたなのかは口を噤んで、言いませんでした。ズルいですねえ。まあ、誰かは想像はつきますが(笑)。

 でも、穿った言い方をすれば、政治の世界は「善か悪」とか「正しいか、間違っているのか」の世界ではなく、結局は、「強いか、弱いか」の世界です。民主主義なら、数が多いか、少ないかの世界です。権力を握った者=恐らく富裕層=が好き勝手な政策をできるわけです。

 だって、フリードマンの新自由主義は、1%の富裕層にとっては、救世主のような正しい善の政策になるわけですからね。

 思えば、日本人は、自分が貧困層だという自覚が全くないから、多くの人が富裕層を優遇する政党に投票しているわけで、勉強が足りないといいますか、自業自得になっているわけですよ。

研究者生活も裕福でなければ続かない?=ダーウィン「種の起源」を読みながら

 チャールズ・ダーウィン(1809~82年)の名著「種の起源」(1859年)の渡辺政隆氏による古典新訳(光文社文庫、2009年9月20日初版)を3月に購入(2021年6月20日第13刷)しましたが、色々と御座いまして、途中で中断し、法華経や密教などの仏教書を優先して読んでおりました。

 先日、仏教書に関しては一区切りを付けましたので、今再読しております。(何か日本語が変?)「種の起源」といえば、超有名な古典です。ちょっと身構えて読み始めたのですが、拍子抜けするほど常識的な当たり前のことが書かれているのです。

 と、いけしゃあしゃあと言えるのは、実は、我々がダーウィンから見て150年後の未来人だからなのです。 「生存競争」(この本では「生存闘争」)、「適者生存」、「自然淘汰」、「用不用説」…。現代社会では、極めて常識になっておりますが、ダーウィンが生きていた当時は、極めて異様な危険思想だったようです。特に、いまだにキリスト教会勢力が権勢を誇っていた当時は、天地やヒトは「神が創造したもうた」ことが真実で常識であり、進化などという世迷言はあり得なかったのです。高貴で叡智に富んだ人類があの野蛮な猿から進化したなど、当時の人々にはとても受け入れがたい「不都合な真実」だったのです。それに、21世紀の現代でさえも、キリスト教原理主義者の人々は、いまだに進化論を受け入れていませんからね。

 1960年代後半、極東の島国の中学生だった私は、生存競争や自然淘汰などについて理科の授業で習ったと思います。考えてみれば、「種の起源」が出版されてまだ100年しか経っていなかったのに、極東国では既に常識として教えられました。特に、使わなかったらなくなってしまうという「用不用」説に関しては、先生が「人間の尻尾だって、昔はあったのに、今はないだろう?尻尾の跡はあるけど」といった例を出されたことを覚えています。

 ついでに、「頭だって、使わないとバカになるぞ」と脅された気がしますが、それは、理科の先生ではなかったかもしれません(笑)。

 最初に、この本は「拍子抜けするほど常識的な当たり前のことが書かれている」と記述しましたが、そのせいか、読むのがしんどくない、と言えばウソになります。それに、翻訳者の渡辺氏の方針で、註釈もしくは訳注は、最小限に留めた、ということですので、例えば、「マディラ島の甲虫は、ウォラストン氏が観察したように風が吹き止んで日が差すまで隠れていることが多い」(238ページ)と書かれていても、「あれ? マディラ島って何処にある島だろう?」とか「ウォラストン氏って前に少し出てきたかもしれないけど、誰だっけ?」となってしまうのです。そんな細かいことに拘らず、どんどん読み進んでいけば、それで済んでしまう話ではありますが。

 私は変わった人間なのか、本書(文庫本上巻)で一番興味深く読んだのは、ダーウィンの文章ではなく、訳者の渡辺氏が巻末に書いた「本書を読むために」という解説でした。駄目ですね(笑)。私自身、ダーウィンについて知っていたことは、この「種の起源」と、若き頃、ビーグル号に乗船して、特に南米の知られざる動植物の標本を収集して、「ビーグル号航海記」などの本を出版したことぐらいで、ダーウィンの人となりについてはほとんど知らなかったので、「へー、そうだったの!?」と驚いてしまったわけです。つまるところ、英国人ダーウィンは、あの世界的に有名な陶磁器メーカー「ウエッジウッド」の創業者の孫に当たり、父親も開業医というかなり裕福な家庭に生まれ育ち、生涯、仕事をしなくても自分の好きな研究に没頭する余裕があったということでした。

 22歳でビーグル号に乗船できたのも、父親から500万円もの支度金を融通してもらったからでした。

 昨今、我が国では、世襲政治の弊害が叫ばれ、バカ息子が首相官邸でどんちゃん騒ぎパーティーを開いても、何のお咎めなしですが、我が国の学者の世界もやはり、世襲の趣がなきにしもあらずです。ある程度、裕福でなければ研究生活が続かないことをダーウィン先生は教えてくれているような気がします。

 目下視聴率ナンバーワンのNHK連続テレビ小説「らんまん」は、植物学者・牧野富太郎の人生をモデルにしたドラマですが、牧野も土佐の酒蔵の跡取りの息子という資産家出身で、生活費を稼ぐ必要もなく、子どものように天真「らんまん」に自分の好きな植物研究に没頭しています。

 牧野富太郎とダーウィンが重なって見えるのは私だけではないと思います。

【追記】

 あらまあ驚きです。このブログを書いた5月29日の夜になって、極東国の首相が、御令息の首相秘書官(政務担当)の職を更迭しました。まさか、首相はこのブログをお読みになったわけではないでしょうが、「バカ息子にお咎めなし」と書いたことはお詫びして訂正します。「御令息を解任」の誤りでした。

NHK「映像の世紀 バタフライエフェクト」の「独ソ戦 地獄の戦場」は必見です

 先日見たNHKの「映像の世紀 バタフライエフェクト」の「独ソ戦 地獄の戦場」は、かなり衝撃的な内容で、頭にこびりついてなかなか離れてくれません。(5月31日に再放送があるようですから、お見逃しの方はどうぞ)

 1941年6月から45年5月にかけて、ヒトラー率いるナチス・ドイツとスターリン率いる共産主義国ソ連との全面戦争で、両軍(民間人も含めて)合わせて3000万人以上の死者を出したという人類史上最悪・最大の戦争です。最初に仕掛けたのはドイツでしたが、復讐が復讐を呼ぶ殺戮・殲滅合戦となり、反転攻勢したソ連が、逆にドイツ軍の捕虜を虐殺したりして、想像もつかない程の犠牲者を生みました。(嗚呼、だからソ連軍はシベリア抑留した日本人捕虜を奴隷以下に扱っても平気だったんですね。日露戦争の復讐です!)

 「この世の地獄だった」という生存者の証言もありましたが、まさに、地獄はあの世にあるのではなく、この世にあると思わせました。

 諸説ありますが、第二次世界大戦では、ソ連(1939年の総人口1億8879万人)は、民間人も含めて2700万人が戦病死したと言われ、ドイツ(同6930万人)では800万人以上が犠牲となったと推計されています。日本(同約7138万人)は310万人の戦病死者が推計され、日本全国津々浦々、何処の家庭でも犠牲者を出していたので、あまりにも多過ぎると思っていましたが、独ソ戦を含め、戦場になった欧州での犠牲者の数は、日本人が想像も出来ないぐらい桁違いです。

牧野富太郎先生に何の花か聞きたい

 スターリンは、19世紀のナポレオン戦争の「祖国戦争」になぞらえて、特に独ソ戦を「大祖国戦争」と銘打ちました。勝利を収めたソ連ですが、その陰には2700万人の莫大な死者の犠牲があったということになります。そのソ連の血を引くロシアのプーチン大統領がウクライナ戦争を仕掛けたということは、この大祖国戦争の延長で思考しなければなりません。つまり、今のウクライナ戦争は、独ソ戦争に抜きにしては語れないということです。プーチンも演説の中で、ウクライナのことを「ネオナチ」と呼んだり、大祖国戦争のことを持ち出したりしていますから。

 ということは、ロシア人は2700万人だろうが、考えられないほどの大量の犠牲者を出しても戦争を完遂する民族であるということです。イデオロギーだろうが、領土的野心だろうが、正義だろうが、名目は何でも良いのです。「戦争犯罪」何のその。勝てば官軍、勝てば責任なんか問われない免罪符です。そして、この分だと、戦争は短期間で終わらず、あと数年は続きそうだということです。

 プーチン大統領をウクライナ侵略に駆り立てた独ソ戦から引き出せる教訓は、やはり、全人類がもう一度、学び直すべきです。その点、この番組は最適です。

出来れば全部観たい=山本勉監修「運慶✕仏像の旅」

 山本勉監修「運慶✕仏像の旅」(JTBパブリッシング、2017年9月1日初版)は、もう直ぐ読了しますが、旅行の際には携帯して参照したい本です。

 この本を読んで、全国にある運慶作の仏像を全て、とまでは言わなくても、出来るだけ多く拝観したい誘惑に駆られてしまいました。私が現地で実物を観たのは、東大寺南大門の金剛力士立像と高野山金剛峰寺の八大童子立像ぐらいで、後はふだんは非公開だったりして、東京国立博物館などの特別展で、無著・世親菩薩立像(興福寺)や重源上人坐像(東大寺)などを拝観させて頂いたぐらいです。何と言っても、運慶20代のデビュー作と言われる奈良・円成寺の大日如来坐像(迂生が新橋の奈良県物産館で購入したあのモデル像です=下の写真)の実物には、まだお目にかかったことはありません。

 焼き物の世界で「備前に始まり、備前で終わる」と言われたりするように、彫刻の世界では「運慶に始まり、運慶で終わる」と言っても過言ではないんじゃないでしょうか。いや、彫刻の世界ではなく、日本の美術史上と言っても良いかもしれません。私自身は「印象派」を大学の卒論に選んだせいか、泰西美術については、かなり海外の美術館巡りもして観てきましたが、年を取ると日本に回帰してしまい、北斎、光琳、若冲、等伯、雪舟の方が技巧的に優れ、日本人の感性に合うことを認識するようになりました。さらに、平面画よりも立体の方が凄いと思うようになり、その天才と抜群の知名度から究極的には仏師運慶が日本美術を代表するナンバーワンではないかと思うようになったのです。

 この本は、何と言っても写真が凄い迫力です。写真提供として「文化庁」や「奈良県立博物館」などのクレジットもありますが、仏像の鼻先の数センチから接写したような、土門拳ばりのアップ写真もあり、圧倒されます。また、この本は、仏像研究の権威である山本勉先生の「監修」となっており、実際に寺院を参拝する監修者の山本勉氏の御尊顔が何度も登場されております。

 仏教美術の研究は21世紀になっても着実に進歩を遂げ、神奈川県称名寺光明院の大威徳明王像は1998年に体内から取り出された納入文書が2007年に開封され、初めて運慶作と判明されたことをこの本で知りました。先に少し触れた東大寺を再興した重源上人坐像も銘記も史料もないので、快慶作など諸説ありましたが、山本氏は「無著・世親像の作風の共通を見て、作者は運慶説が有力」としてます。

 そして、何よりも、新興宗教団体「真如苑」が2008年3月に、米ニューヨークで行われたオークションで、約14億円で落札した大日如来坐像(半蔵門ミュージアム)が、栃木県足利市の樺崎寺(廃寺)に安置されていた運慶作ではないかと推定されました。この像をX線撮影すると体内に五輪塔などが埋め込まれていることが分かり、足利市光徳寺蔵の運慶作大日如来像との共通点も見られ、重要文化財に指定されました。運慶作はほぼ間違いないことでしょう。これも、運慶作と推定する論文を発表した山本勉氏の功績のようです。その後、山本氏は、この像を所蔵する半蔵門ミュージアムの館長になられました。

 その一方で、京都・高山寺に移した運慶作の廬舎那(るしゃな)仏像や賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)像、鎌倉の源実朝持仏堂の釈迦如来像、大蔵薬師堂(北条義時が創建した覚園寺)の薬師如来像、北条政子発願の勝長寿院五仏堂の五大尊像などは、残念ながら現存していないといいます。

 先に、私は「運慶は日本美術史上ナンバーワンだ」と書きましたが、実際は、運慶一人だけで制作した仏像は少なく、運慶の父康慶を始祖とする奈良仏師の慶派(同僚の快慶や子息の湛慶、康勝ら)による共同制作が多いのです。運慶は、勿論、自ら鑿(のみ)を手にしますが、職人をまとめたり指示したりする棟梁か、依頼者と折衝する総合プロデューサーの役割を担っていたと思われます。鎌倉時代になり、時の権力者の源頼朝や北条時政、政子、和田義盛らからの依頼による仏像制作も多くなります。この本の71ページに京都・六波羅蜜寺の運慶坐像(伝湛慶作)の写真が掲載され、私も初めて運慶さんの御尊顔に接しましたが、河童みたいな顔で(失礼!)、妥協はしない意志の強さと自負心が表れていますが、何処か計算高い如才のない面も見え隠れします。人間的な、あまりにも人間的な…。

 ということで、余計に運慶が好きになり、800年経っても現存する運慶作の仏像を求めていつか巡礼したいと思います。

仏像は太ったり痩せたりしていた?=山本勉著「完本 仏像のひみつ」

 山本勉著「完本 仏像のひみつ」(朝日出版社、2021年5月31日初版)を読了しました。「完本」と銘打っているので、大いに期待して読んだのですが、どうもお子ちゃま向けに書かれていました。お子ちゃま向けということで、筆者は、神のことを「カミ」、漆を「ウルシ」、渡来仏のことを「トライ仏」と明記しますが、よっぽどカタカナが好きなのか、カタカナで書けば易しく書かれたと思い込んでいるのか、そのどちらかなのでしょう。しかし、残念ながら、実に読みにくい。善光寺のことを「ゼンコージ」などと書かれると、「馬鹿にしてんのか?」と、さすがに頭に来てしまいます。

 仏像の種類として「如来」「菩薩」「明王」「天」の階層(筆者は「ソシキ」と書いてます!)があることなど基礎的なことは全て網羅されておりますが、筆者は東京芸大出身ということもあってか、仏像の技法や製法等の解説に重きを置いている感じです。「金銅像」「塑像」のほか、「脱活乾漆造り」「木心乾漆造り」「寄木造り」「割矧ぎ造り」などです。川口澄子さんのイラストもしっかり描かれているので分かりやすいです。

上野・東博「東福寺」展 釈迦如来坐像

 この本で面白かったのは、仏像もその時代、その時代の流行があり、年代によって太ったり、痩せたりしているという史実でした。飛鳥時代の7世紀は、例えば法隆寺の百済観音像に象徴されるように、薄っぺらい痩せ型で、奈良時代の8世紀は少しだけ横に長い楕円形、それが9世紀の平安時代になるとまん丸型となり、平安時代後期の11世紀になると、寄木造りを発明した定朝の影響で、また横にすごく長い楕円形になり、12世紀後半の鎌倉時代となると、今度は縦に少し長い楕円形に変化します。

 恐らく、仏像学者は、仏像の形から何世紀ごろの製作か、推量するんでしょうね。

 もう一つ、仏像を製作した人のことを、日本だけ「仏師」として認知されているようですが、仏像に仏師が自分の名前を台底などに墨で銘記するようになったのは、平安後期から鎌倉時代に活躍した運慶からだと言われているようです。勿論、飛鳥時代の渡来人の子孫である鞍作止利(法隆寺の釈迦三尊像など)や平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像を造った定朝といった名前は残っており、特に有名ですが、ほとんどの仏師は知られていないようです。ただし、運慶さん前後になると、名前が明記されていなくても、仏像の耳の形を見れば、製作者が推定されるそうです。耳を見れば、これは運慶作、これは快慶作、これは康慶作とそれぞれ特徴があるので特定できます。

 仏像をお参りしている人の中で、一風変わって、特に耳ばかり見ている人は、仏像学者に間違いない、かもしれません(笑)。

【追記】同月同日

 と、書いたところ、著者の山本勉氏から直々にSNSでツイートがありました!(恐らく正真正銘の御本人だと思われます)

 ご紹介ありがとうございます。子ども向けの文体やカタカナ多用でご不快をあたえたとのこと、申しわけありません。巻末「仏像のひみつ最終顚末」に記したように、もともと子ども向けの展覧会からできあがった本ですので、文体や表記は展覧会でのそれらを継承していることをご理解いただけると光栄です

 吃驚です。小生も返信しました。

 ありま〜すびましぇん! 読まれてしまいました! まさか、ご本人の目に留まるとは想像もしてなかったもので…。でも、ごめんなさい。訂正しません。ゼンコージでは、やはり、子どもも馬鹿にしている感じです。幼い時こそ難しい漢字に親しむべきだという信念を持ってますもので。ただ、並行して読ませて頂いている「運慶✕仏像の旅」は最高です。大人向きのせいか?(笑)引き続き、感想文を書かさせていただきます!

東久留米市上の原は海軍大和田通信隊跡だったとは!

 大型連休の最終日(5月7日)、ちょっと必要に迫られて、東久留米の実家に久しぶりに行って来ました。

 この日は時間的に余裕があったので、昔住んでいた上の原の団地街に寄って来ました。ここも10年ぶりぐらいでしょうか。懐かしい、非常に懐かしい。異様に懐かしい。とは言っても、私が東久留米に棲んでいたのは1963年から84までの21年間です。最初に来た時から60年も経ってしまったので、すっかり様変わりしてしまいました。仕方ないですよね。半世紀以上の年月が経ってしまったわけですから。当時、ニューファミリーを引き連れてこのニュータウンに全国から集まって来た人たちの殆どが、30歳代の働き盛りでした。60年も経てばほとんどの大人たちは鬼籍に入り、子どもたちは老人になってしまいました。かつて、この東久留米市上の原の広大な敷地には、公務員住宅と日本住宅公団の団地が66棟ぐらいありましたが、今では殆ど取り壊されてなくなってしまいました。高層マンションに様変わりした団地も何戸かありますが、昔の面影は全くありません。

東久留米上の原

 何と言っても私が卒業した母校東久留米第四小学校は2012年3月末で閉校してしまいましたからね。(ジャニーズのTOKIOの国分太一さんも同校出身で、後輩に当たります)

 ただし、天文台のある東中学校はかろうじて残っております!

東久留米市上の原「海軍大和田通信隊跡」

 先程、東久留米市の上の原の広大な敷地に66棟の団地があったことを書きましたが、何と、もともとこの広大な敷地は、戦時中、外国無線を傍受する帝国海軍の「大和田通信隊」基地だったというので、大変驚いてしまいました。

 上の写真が東久留米市教育委員会が設置した看板です。設置場所は、西友ストアーの近くにある狭い運動公園前で、私も子どもの頃、ここで、よく草野球をしたものでした。公園の近くには団地集会所がありました。また、この今ある西友ストアーは大きく再建されたもので、昔は、団地商店街というその中の一画にありました。この西友ストアーの家電売り場にあったカレーテレビ(確か、家には白黒テレビしかなかった!)で、私は、アポロ11号に乗船した人類初の月着陸をカラー生中継で見たのでした。1969年7月20日のことで、この日は日曜日だったので、学校を休んだわけではありません(笑)。

 おっと、「海軍大和田通信隊跡」のでした。看板には「東京都北多摩郡清瀬村下清戸、同久留米村神山に及ぶ本隊、清瀬村中清戸の副受信所の3町村にまたがる広大な面積を有し、(中略)戦後、久留米村の用地の大部分は国有地となり、昭和37年(1962)に日本住宅公団の大規模な『東久留米団地』が建設されました。また、久留米村の通信施設の一部は米軍の「大和田通信所」の基地となり、その後、昭和38年から昭和52年まで運輸省航空交通管制本部として利用されました。…」と書いてあるではありませんか!

 大戦時の通信傍受研究の大家である名倉有一さんがこの看板を見れば、恐らく、嬉しくて涎が出ることでしょうが(笑)、私自身は、自分の個人史の中にドンピシャリと当てはまるので武者震いしてしまいました。私の亡くなった父親は運輸省の航空管制官で、36歳の時に、埼玉県のジョンソン基地勤務からこの東久留米(当時は東京都北多摩郡久留米町)の地にやって来たわけでした。昭和38年から昭和51年ぐらいまで、この運輸省航空交通管制本部で勤務しておりました(航空管制本部は所沢に移転。父もこの後、釧路空港、所沢、成田空港…など転勤ばかりでしたが)

 そして、上に書かれている米軍の大和田通信所(埼玉県新座市)は、現在もいまだに米軍によって運用されて健在のようですが、私が子どもの頃、この敷地内に「外人プール」があり、米軍関係者だけでなく、我が家を含む日本人の公務員の子弟も利用できました。(入場券は木の札で、その木札を海水パンツに身に付けました!)深さが2メートルぐらいもある25メートルプールで、私は何度もプールの水を飲みながら、ここで泳ぎをマスターしました(小学校にプールがなかった!)。覚えているのは、プールサイドではいつも米軍用のラジオFEN(現AFN)が掛かっていて、ここでクリームの「ホワイトルーム」やドアーズの「ハートに火をつけて」などの最新ヒット曲を耳にして、洋楽ロックがすっかり好きになってしまったことです。

 大和田通信所も運輸省航空管制本部も東久留米団地も、もともとは海軍の広大な通信基地跡だったとは!…これで全部繋がり、何故、我々が外人プールを利用できたのかも、全ての謎が解けました。

東久留米市上の原 天然温泉「スパジアム ジャポン」

 さて、60年も経てば、かつて走り回って、住み慣れた土地も「異国」です。今の東久留米市上の原は、天然温泉が湧き出たということで、随分な賑わい様です。

 バスの東久留米団地駅終点近くで、コロシアムのような異様な建物があったので、何かと思ったら、それが、例の噂の天然温泉でした。かつては、同級生が住んでいた47号棟とか48号棟などの団地があった前の林の公園があった辺りだと思われます。数歩歩けば埼玉県新座市との県境です。そんなこと、今の人たちは何も知らないだろうなあ、としみじみとした思いで辺りを散策しました。

 団地の南大通り商店街も歩きましたが、玩具屋さんの「グリム」とか、喫茶店の「白樺」とかお店の殆どがなくなってしまい、悲しくなりましたが、団地の先の埼玉県新座市にあった「西堀商店街」の床屋さん「バーバー(ヘアサロン)くるめ」はまだ健在だったので驚いてしまいました。恐らく、後を継いだ二代目か三代目でしょう。この商店街には山崎パン店があり、同級生の高橋君の実家でしたけど、今は跡形もなく消えて住宅になっていました。彼はどうしているのかなあ?

 そう言えば、東久留米駅前から東久留米団地西友ストアー前まで西武バスに乗ったら、料金は180円でした。昔は、つまり昭和38年頃は、駅から団地までのバス代は、大人が10円、子供が5円だったことをはっきり覚えています。ということは、60年間で物価は18倍になったということになります。当時、映画も池袋の文芸座なら100円で見られましたが、今の新文芸座は1700円ですか…17倍ですね。…大体合ってますね(笑)。

頭をかじられたら痛そう=「恐竜博2023」

 大型連休の合間の5月2日(火)の仕事帰り、東京・上野の国立科学博物館で開催中の「恐竜博2023」を観に行って参りました。

 入場料(一般・大学生)が2200円とはちょっと高いなあ、と思いつつ、やはり、化石とはいえ、実物を観たいという誘惑に抗しきれず、思い切ってネットの時間指定で購入しました。入場券はネット販売が最優先で、連休中はどの日も午前や午後は完売で夕方の5時以降しか空いておらず、それなら、ということで仕事帰りに行くことにしたのでした。

 結果的に、鑑賞時間も30分程度で終わってしまい、やはり「入場料は高かった」(いつまで言ってんねん?)ですが、あれだけの化石を掘り当てて、復元して、遠く海外から東京まで莫大な保険をかけて運搬して来た恐竜もあったことでしょうから、「しょうがないかなあ」と言った気持ちで慰めました。

 会場内は、写真撮影がOKで、上の写真は、絶滅した恐竜の系統の子孫が鳥のカワセミに繋がっていると明示されたパネルがあったので思わず撮ってしまいました。

 上の写真は初期の恐竜で、推定全長1.2メートルといいますから、小ちゃい、小ちゃい。アントニオ猪木なら勝てそうです。

 ヘスペロサウルスは、ステゴサウルス科で、推定全長4.5メートル。もう人類の手に負えません。

 これは、ズールとゴルゴサウルスだと思われます。結局、高い図録を買わなかったので、自信がありません(苦笑)。

 これは間違いなくズールですね。全長6メートル、体重25トンらしいですが、実物とはお会いしたくありません。

このデカさには魂消ます。

 これは、ティラノサウルス・レックス「タイソン」。世界初公開らしいです。名前から掃除機か、ボクシング選手かと思いましたが、こちらは最強の肉食獣と言われただけあって、迫力満点です。

 全長11.2メートルと書いてありますが、デカい、デカい。これだけ観るために会場に足を運ぶ価値はあります。

 こちらも同じティラノサウルス・レックスの「スコッティ」。こちらもティッシュかと思ったら…くどいですね、もうやめておきましょう(笑)。

 Tレックスの「タイソン」と「スコッティ」。二人合わせてヤンマーだ、と意味不明のことを書きますけど、頭をガブリとかじられたら、痛そうです。

 御同輩の皆様、とにかく、恐竜時代(2億3000万年前~6600万年前の中生代=三畳紀、ジュラ紀、白亜紀)に生まれて来なくてよかったです。

 地球46億年。ホモ・サピエンスの登場はわずか20万年前。書記された人類の歴史時代はわずか5000年前からです。1億6000万年以上繁栄した恐竜を侮るなかれ。

「歴史人」読者プレゼントにまたまた当選=「冠位十二階マグネット」

 「歴史人」読者プレゼントにまたまた当選してしまいました。一体、これで何度目なのでしょうか? 確かに、この雑誌は毎月のように購入して葉書を出しておりますが、当選の確立は何十万分の一のはずです。

 こわ~~~

 何故なら、私自身、決してくじ運が強い人間ではないからです。

 「厳選な抽選な結果」と書かれていますので、その通りだったのかもしれません。葉書に「今月号は、珍しく誤字脱字や誤植が少なかったですねえ」と書いてしまったので、口封じのための当選だったのかなあ、と勘繰りたくなりました(失礼致しました=笑)。

 当選したのは、「冠位十二階マグネット」です。聖徳太子が603年に制定した日本で最初の冠位で、「徳、仁、礼、信、義、智」の6徳目をそれぞれ大小の二つに分けて十二階としたものです。

 実は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子には冠位がなかったそうです。「特別枠」で冠位を授ける側だったからだそうです(勿論、推古天皇や摂政の聖徳太子にも冠位はありません)。

 その一方で、第2回遣隋使派遣の代表だった小野妹子は、帰国後、その功績から、上から5番目の「大礼」から最も高い「大徳」に昇進したといいます。

 私も「歴史人」の読者プレゼントには、これで12回ぐらいは当選しているのではないかと思います。ということは、冠位が一番下の「小智」からトップの「大徳」に昇進したような気分です(笑)。

 「歴史人」の編集部、注文部、広告部、発行人の皆様、本当に有難う御座いました。