忠臣蔵は面白い!

12月14日の討ち入りは過ぎてしまいましたが、「サライ」12月20号の「忠臣蔵を旅する」特集は本当に面白かったです。討ち入りは元禄15年(1702年)12月14日。300年以上も昔なのに、文楽で取り上げられ、歌舞伎で取り上げられ、映画で取り上げられ、小説で取り上げられ、テレビで取り上げられ…。こんなに日本人が忠臣蔵が好きなのは何故なのか、興味深いところです。以前は、忠臣蔵はあまりにも取り上げられるので、食傷気味だったのですが、この雑誌を読んで、今まで知っているようで知らないことだらけだということを悟りました。

忠臣蔵には、史実とはかけ離れた芝居や脚色の世界では、陰謀あり、妬みあり、恋愛あり、何と言っても大願成就ありで、人物関係も複雑に入り組んでおり、語っても語っても語りつくせないところに魅力があるのでしょう。

何しろ、真実は分からないことだらけなのです。なぜ、浅野内匠頭長矩が松の廊下で刃傷事件を起こしたのか、真相は何もわかっていないのです。吉良上野介義央は、本当に悪者だったのか?以前、彼の領地だった愛知県播豆(はず)郡吉良町に行ったことがあるのですが、そこでは、吉良の殿様は、水害防止の堰堤を築いたりして、「名君」として知られていました。

こう書いてきて、漢字は読めましたか?浅野内匠頭長矩は、かろうじて「あさの・たくみのかみ・ながのり」は読めましたが、吉良上野介(きら・こうずけのすけ)の義央は一般的には「よしなか」と読みますが、地元吉良町では「よしひさ」と読むんだそうです。日本語は難しい。

大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)良雄にしても「よしかつ」とうろ覚えしていたのですが、「よしたか」とルビが振ってありました。

大石内蔵助が集めた討ち入りのメンバーは最初は120人ほどいたのですが、次々と脱落して、最後に参加したのは47人。このうち、吉田忠左衛門の足軽だった寺坂吉右衛門が引き揚げる途中で行方不明になっているんですね。「途中で逃亡したという説と広島に差し置かれた浅野大学(内匠頭の弟)への使者だったという弁護説があるが、真相は闇の中」(山本博文・東大史料編纂所教授)なんだそうです。

たまたま並行して読んでいる海野弘「秘密結社の日本史」(平凡社新書)にも秘密結社としての赤穂浪士のことが出てきます。

吉田忠左衛門は、大石内蔵助の参謀格で、軍学者近藤源八に兵法を学び、内蔵助の指令で江戸に出て、急進派の堀部安兵衛を説得し、新麹町に兵学者田口一真として道場を開き、同志の誓詞、神文の前書きなども作成したそうです。重要人物でした。

浅野内匠頭が吉良上野介を切りつけた原因については、朝廷の勅使の接待役になった内匠頭に礼儀作法を教えなかった吉良に対する恨みがあったという説が有力ですが、なぜ、吉良がいやがらせしたかについては、海野さんの著書によると、赤穂藩が賄賂を出さなかったという説から男色事件までさまざまあるようです。(男色事件とは内匠頭は男色趣味でも知られ、比々谷右近という小姓をかわいがっていたが、吉良がこの少年に惚れて譲ってほしいと頼んだが断られたという)

製塩をめぐる争い説は、製塩で莫大な裏金を作っていた赤穂の技術を吉良が聞き出そうとしたが、内匠頭は秘密だから断ったという話。(この説は、「サライ」では、吉良町内には塩田があったが、それは他領で吉良家の収入とは関係なかったので、否定されています)

さらに、すごい陰謀説は、南北朝の対立があるというものです。北朝派の将軍綱吉と南朝派の水戸黄門が対立しており、吉良は北朝派、浅野は南朝派だったというのです。「仮名手本忠臣蔵」では、南北朝時代の太平記に時代設定しているのは、南北朝の葛藤があったからという穿った意見もあるそうです。

奥が深いでしょう?

「信長の棺」の作家加藤廣さんもこの忠臣蔵に取り組んでおり、来年から週刊誌で連載が始まるようです。

楽しみですね。

おんばひがさ

 

 

 

私の勤める会社で、早期退職勧告がありました。いわゆる「肩たたき」ではなく、志願制です。目の玉が飛び出るくらい割り増しの退職金が出ます。先週、急にそのお知らせが回ってきました。

 

 

応募は12月17日から来年1月15日まで。先着20人!募集人員に達し次第、締め切り。

 

 

 

さすがに今回は考えましたね。私の信頼する何人かの人にも相談に乗ってもらいました。

 

最初に相談したのは、私淑する業界の先輩の調布先生です。結論的には、ニンジンをぶら下げて煽動しているだけだから「踏みとどまった方がいい」というものでした。残念ながら、このメールのデータは例の携帯水没事件で消滅してしまいました。

 

次に相談したのは、会社の先輩で占術師になったF師です。同師には、今年の春先にもみてもらったのですが、ちょっと岐路だと思いましたものですから、改めて相談に行ったのです。見立ては、こちらが勝手に解釈するれば、辞めても辞めなくても「何とも言えないが、どちらでも成功する」というものでした。

 

 

 

アメリカに住む親友のI君にもメールで相談しました。非常に厳しい見解ながら、かなり的確なアドバイスでした。

 

最後は、実際に「肩たたき」にあった銀行員だった兄に相談しました。こちらも「経験者は語る」談話で、説得力がありました。

 

で、どうなったのか?

 

皆さんにはあまり関心がないかもしれませんが、私の心は定まったとはいえ、ほんの少しだけ揺れていました。まあ、来年1月15日まで引き伸ばしてみようという魂胆もありました。

 

応募初日の17日の夜、調布先生にお呼ばれされて、新宿の有名な焼き鳥屋「ぼるが」まで飲みに行きました。そこには、某女子高の生活指導部長さんと漫画の原作者として有名な倉科遼先生の事務所の社長さんもいらっしゃいました。そこで、あまり個人的な話はできなかったのですが、調布先生から「あなたは、『おんばひがさ』ですから、よく考えた方がいいですよ」と再びアドバイスしてもらいました。

おんばひがさ?

 

聞いたことがない言葉でした。何しろ、調布先生の祖父は江戸時代生まれですし、博学多才の先生は言葉の魔術師です。

「おんばひがさ」とは「乳母日傘」と書きます。広辞苑によると、「乳母に抱かれて日傘をさしかけられなどして大事に育てられること」とありました。

うーん、抗弁できませんね。昨今のウオーキング・プアの実態を見てみると、世間の荒波は想像を絶するほど過酷なものがあります。その荒波にもまれていないことは確かです。

で、結果はどうなったのか?

うろちょろ迷っているうちに、わずか1日で「募集定員」に達し、締め切られておりました。

10年周期

 

 

 

ジョン・レノンの話をしていたら、「10年周期」のことを思い出しました。

 

人間、それぞれ、転機があり、その人によって、3年おきだの、5年おきだのと決まっているそうなのです。ジョンの場合は「10年周期」です。1940年に生まれ、1960年、リバプールの美大生だった時、ミュージッシャンとしてプロになる決意をし、自分のバンドに「ビートルズ」という名前を付けます。70年は、その世界的に有名になったバンドが解散。そして、80年には暗殺されます。

 

 

 

何を隠そう。私も高名なSさんから「あなたもジョン・レノンと同じ『10年周期』ですよ」と言われたことがあります。振り返って見ると、確かにその通りでした。このブログは不特定多数向けのメディアなので、茲にあまり個人情報を披瀝できないのが残念なのですが、確かに1980年、90年、2000年と仕事が変わっています。

 

そう言えば、このブログを始めたのが2005年でした。その10年前の1995年は初めてインターネットを始めた年でした。マッキントッシュのノートパソコンを初めて買いました。その10年前の1985年は、初めてワープロを買った年でした。まだワードプロセッサーと言っていた頃です。よく覚えています。エプソンの「ワードバンク」というワープロでした。ディスプレイがホントに小さく、わずか、5行くらいしか提示されなかったと思います。今から思うと玩具みたいなツールでした。それでも10万円以上したかもしれません。

 

人生の転機が私の場合、10年おきだとすると、運勢は12年周期のようです。これは、私の尊敬するH師が見立ててくださいました。12年周期というと干支です。私の場合、そのピークは「子歳」です。来年はその子歳なので、大いに楽しみです。12年前の1996年はあまり大きなことがあったと思い出すことは少ないのですが、その12年前の1984年はロサンゼルス五輪のあった年で、本当に色んな良いことがあり、思い出深い年でした。確かに運がいい年でした。当時は若く、それが当たり前だと思っていましたが…。

 

H師は「来年は素晴らしい年になりますよ。あなたの人生の最大の年かもしれません」と予言してくださいました。「その前年から序々に良くなってきますよ」とおっしゃっていましたが、その通り、今年から本当にやっと運が向いてきました。運に恵まれて、物事がうまく運んでくれているのです。まさに、「雌伏12年」という感じです。この12年間、本当に碌な事がなく、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」といった苦難の人生でしたが、やっと雪が解けて、運が上向いている感じなんです。

 

それはすごく実感しています。バンザーイといった感じです。この12年、人生を辞めたくなるほどの苦悩の連続でしたが、途中で諦めなくて本当によかったと思います。

チャプリンと5・15事件


 いわゆる「5・15事件」は、昭和7年(1932年)の5月15日、時の犬養毅政権に不満を持つ陸海軍の青年将校が「昭和維新」断行を目指して、首相、政友会本部、日銀、警視庁などを襲撃した事件ですが、当時、たまたま来日していた喜劇王チャプリンも危うく難に巻き込まれるところだった、という話は有名です。


 当日の首相の歓迎会には出席せず、相撲観戦に行ったおかげで、難を逃れたというのが「定説」でした。


 


 が、どうやら、チャプリンそのものも、標的の対象だったようですね。日本チャプリン協会の大野裕之会長の書いた「チャプリン暗殺 5・15事件で誰よりも狙われた男」(メディアファクトリー)にその詳細が描かれているようですが、私はまだ読んでいません。


 


 当時、チャプリンの秘書を務めていた日本人の高野虎市氏が、チャプリン来日1ヶ月前から事前に訪日して日程を調整し、不穏な空気を察知し、元陸軍少将の作家、櫻井忠温(ただよし)氏に相談。櫻井氏の手紙には「最近の日本は騒がしいので、お気をつけてください。お早めに日本に来られたほうがいいと思います。東京でまず宮城に行くように」といった手紙が残っています。


 


これによって、5月14日に神戸港に到着したチャプリンは、京都・大阪には寄らずに東京に直行し、その夜、ホテルに行く前に、まず二重橋に立ち寄り、高野の指示で皇居で一礼したそうなのです。


 


 首相のレセプションをドタキャンしたのも、難を避けるため「計画的」だったのかもしれません。


 


 日本人秘書の機転がなければ、あのチャップリンも大事件に巻き込まれていたのかもしれないのですね。


 


 


 


 

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「帝国海軍vs米国海軍」


 


  文芸春秋11月号の「帝国海軍vs米国海軍 日本はなぜ米国に勝てないのか」を読んで驚いてしまいました。このブログでも何回か取り上げましたが、同誌が特集した「昭和の陸軍」(6月号)、「昭和の海軍」(8月号)に続く第3弾の座談会です。


 私は昭和初期の歴史に興味があるので、本当に食い入るように読んでしまいました。


 座談会の出席者はおなじみの、半藤一利、福田和也、秦郁彦、戸高一成、江畑謙介、鎌田伸一の各氏です。本当に「オタク」じゃないかと思えるくらい、彼らは細かい事歴に精通していますね。本当に頭が下がります。


 


 私が驚いてしまった、と書いたのは、ミッドウエー海戦のことです。あれで雌雄が決して、日本の敗戦が決まったようなものなので、私は、最初から日本は勝ち目がなく、随分、無謀なことをやったものだ、とばかり思っていたのですが、座談会の列席者によると、戦う前は、どちらが勝つか分からず、むしろ、日本軍の方が圧倒的に優勢だったというのです。


 ミッドウェー海戦を指揮したスプルーアンス氏も後年、秦氏に対して「私はラッキーだった」と非常に謙虚に述べたというのです。当時の日本海軍の第一航空艦隊は世界最強と言われ、パイロットの練度、士気、航空機の性能などからして、この評価は妥当だったというのです。


 要するに、戦う前は、兵力も戦闘能力もアメリカ側が劣勢だったらしいのです。


 


 この話には驚いてしまいました。歴史にイフがなく、結果的に日本側の失態で負けてしまったわけですから、今から何を言っても始まらないのですが、「随分、無謀なことをやっていた」という考えだけは改めなければならないと思いました。おっと、「君は随分、右翼の軍国主義者に変貌したね」と言われそうですが、もし、あの時代に私が生まれていたとしたら、小林多喜二や三木清にはなれなかったと思います。


イデオロギーや主義では生きてはいませんから。

ワニブックス、池辺三山、有馬記念とは

我ながら、こう飽きもせず、毎日書き続けるものだと思います。今日の新聞広告で、佐野眞一著「枢密院議長の日記」(講談社現代新書)のコピーで「大正期、激動の宮中におそるべき”記録魔”がいた」とあります。明治・大正・昭和の三代の天皇に仕えた倉富勇三郎の日記らしいのですが、「超一級史料」ということで、読んでみたくなりました。

最近読んだ本や雑誌の中で意外だったことを備忘録としてメモ書きします。

●ワニブックス

青春出版社の岩瀬順三氏が、光文社の神吉晴夫氏が生み出して大成功したカッパブックスに対抗して創刊した。その理由が「河童を餌にするのはワニだから」

●池辺三山の朝日退社

陸羯南が創刊した「日本」(正岡子規も記者だった)の記者だった池辺三山は、東京朝日新聞社に入社し、主筆として活躍。東京帝大講師だった夏目漱石を1907年4月、朝日新聞に招聘。その三山は、漱石の弟子森田草平が平塚雷鳥との愛人関係を赤裸々に描いた「煤煙」を紙上に掲載するかどうかを巡って、その背徳性を批判する大阪通信部長の弓削田精一(秋江)と衝突し、1911年11月に退社。

●世が世なら

1954年に「終身未決囚」で直木賞を受賞した有馬頼義(ありま・よりちか)は、旧久留米藩主、伯爵有馬頼寧(ありま・よりやす)の三男。頼寧は、1930年に未遂に終わった「桜会」が起こそうとした軍事クーデター「三月事件」の黒幕というか主犯格だった。このクーデターは、参謀本部の橋本欣五郎中佐ら将校100人以上が、国家改造と満蒙問題解決のために密かに結成した「桜会」が、時の浜口雄幸内閣を打倒し、現職の陸軍大臣宇垣一成を首班とする軍部独裁政権を樹立しようとするクーデター計画。頼寧が、大日本正義団総裁の酒井栄蔵を唆して軍部を動かした。

頼寧は、近衛文麿首相のブレーンの「昭和研究会」のメンバーで、農林大臣などを歴任し、日本中央競馬会理事長時代に競馬の「有馬記念」を創設。

作家の有馬頼義は、西荻窪駅から数分のプール付きの豪華な邸によく若い作家を集めて「石の会」を主宰していた。1972年5月、川端康成がガス自殺したことに衝撃を受けて、自分も追うようにガス自殺を図ったが、一命を取り留める。自殺未遂の後、広大な邸宅に住むことなく、自宅近くの狭いアパートで、精神病院入院中に知り合った若い女性と同棲した。

ヤメ検、昭和初期の若きエリート…

 ちょっとピンボケ


 インド象さんに奨められて「現代」10月号を読みましたが、なかなか読み応えがあってよかったですよ。750円の価値がありました。


 


 一番面白かったのが、やはりノンフィクションライターの森功氏の「ヤメ検ー司法に巣喰う生態系の研究」です。


公安庁元長官のヤメ検弁護士の緒方重威(しげたか=73)氏が、朝鮮総連の不動産売却にからんで詐欺事件として逮捕されましたが、緒方氏のような功なり名を遂げた、お金にも不自由をしていないように見える超エリートが、何で、こんな馬鹿げた事件を起こしたのか、一般庶民はさっぱり分からなかったのですが、事件の背後に潜むどす黒い闇が、この記事を読んで何となく分かるような気になりました。


 やはり、あれとあれだったんですね。


 


 非常に興味深かったのが、緒方氏の父親が、満州国最高検の思想検事として、戦時中に諜報活動家として名を知らしめた緒方浩弁護士で、公安調査庁の生みの親だったということです。


 


 緒方氏は、東京・六本木にあるTSKビルの再開発に乗り出すことが、最初に触れられますが、このビルはプロレスラーの力道山の盟友だった町井久之氏こと鄭建永氏が会長を務めた広域暴力団「東声会」が建設したビルだったということも明らかにされています。東声会は、あの政界フィクサーと恐れられた田中清弦氏を襲撃した団体としても知られています。


 このほか、NHKの人気キャスターだった宮崎緑さんの元夫だった椿康雄弁護士や、今年二月に大物華僑・葉剣英を自称して投資詐欺事件で逮捕された畑隆氏らも登場します。役者がそろった感じです。今回が第一回ですので、次回も楽しみです。


 


 佐藤優氏が、沖縄密約を証言した外務省元アメリカ局長の吉野文六氏の半生に迫った「国家の嘘」も面白かったです。吉野氏は旧制松本高校から東京帝国大学法学部に進み、大学3年で、高等文官試験の行政科、司法科、外交科のすべてに合格した超エリートだったのです。今で言えば、財務省官僚にも、裁判官にも、外交官にもなれるわけです。


 


 この論文を読んでいると、昭和初期の若きエリートたちのたたずまいが如実にわかりますね。当時、マルクス、社会主義が流行し、旧制弘前高校出身の太宰治(1909-1948)などは、組織に入って地下活動を展開し、後に転向する経験をしますが、吉野氏(1919-)は非常に理想的というより、現実主義的なところがあって、カント、ヘーゲル、ニーチェらドイツ観念論やマルクス主義関係の書物ではなく、アダム・スミス、ジョン・スチュアート・ミルら英国経験論やアメリカのプログマティズムの書物に惹かれていたというのです。高校生、とは言っても今の大学の教養課程に当たるのですが、その分際で、旧制高校の連中は、このような書物をすらすら読んでいたのですからね。今の学生は、くだらない民放のお笑い番組を見て、ガハハと笑っているか、ゲームや携帯にはまっているだけでしょう。


 


 明治期に創設された第一高等学校から第八高等学校までは、「ナンバースクール」(一高:東京、二高:仙台、三高:京都、四高:金沢、五高:熊本、六高:岡山、七高:鹿児島、八高:名古屋)と呼ばれ、多数の政財官学界に人材を輩出し、他の旧制高校から区別されていたということも興味深かったです。ナンバースクールの連中に入る連中は、いぎたない野心の塊のような印象も受けました。


 

水木しげる「総員玉砕せよ!」

 

妖怪漫画の水木しげるさん(85)の自伝的戦記漫画「総員玉砕せよ!」を脚色したドラマ(西岡琢也作、香川照之主演)が、昨晩、NHKスペシャルで放送されました。よく知られているように、水木さんは、数少ない激戦区ラバウル戦線の生き残りです。左腕を失って帰還しました。

 

今だから、当時の軍幹部の無謀、無自覚、無責任、無定見は非難できますが、その渦中にいた当事者の庶民は何も抗弁も反抗もできず、玉砕という名の狂的な方法で殺害されたのに等しいことが分かりました。特に、最後に出てくる陸士出身の木戸参謀(榎木孝明)は、「司令部に報告義務がある」と言って逃げてしまうところなど、100パーセント、水木さんが見た事実だと思います。

 

木戸参謀は、部下を無意味に玉砕させておいて、自分だけは戦後もぬくぬくと生き延びたことでしょう。日本人はトップに立つ人間ほど卑怯なのですが、その典型なものを見せ付けられました。

 

水木さんは、10日付の東京新聞でインタビューに応えていました。戦記ものを書くのは、戦死した戦友たちが描かせるのかなあ、と言っています。「戦死した連中のことを考えるとわけがわからんですよ。何にも悪いことしていないのに、殺されるわけですからね。かわいそうだ」と語っています。

 

これ以外で、水木さんは大変貴重なことを言っています。

「好きなことをばく進してこそ人生です。カネがもうかるから嫌いなことでもするというのには、水木サンは我慢できないですねえ。人は我慢しているようですけどね。見ていられない。気の毒で。嫌いなことをやるのは馬鹿ですよ。…嫌いなことをするのは、私からみると意志が弱いように見えるねえ。自分の方針を貫かない。従順であったり。特に優等生に多いですよ、従順なのがね。世間が『こうしなくては』って言うとそっちの方向に行くって人が案外多い。好きなことにばく進する勇気とか、努力が少ない。私から見ると、必ず成し遂げるというのがない。命がけになれば選べることですよ。それをやらずに文句ばっか言っている」

 

最後に水木さんは、18歳ぐらいの時、生き方を真似ようと10人ぐらいの人からゲーテを選んだというのです。そのおかげで、ゲーテは水木さんの模範となり、幸せをつかんだといいます。戦場にもエッカーマン著「ゲーテとの対話」(岩波文庫、上中下3冊)を持って行き、暗記するくらい読み、ボロボロになった本を持ち帰ったそうです。

戦略爆撃

 勝毎花火


 


 真夏。今日は広島原爆記念日です。


 終戦記念日も近いということで、恒例の戦争ものの企画がマスメディアで取り上げられています。いいことでだと思います。


新聞の記事などによると、「戦略爆撃」と称して無辜の市民まで無差別に大量殺戮をした嚆矢が、ピカソの絵で有名になったゲルニカだったそうです。


1937年  スペイン・ゲルニカ   犠牲者 約2000人


1938年  中国・重慶              約2万人


1945年  ドイツ・ドレスデン         3万人~15万人


……


日本への大規模な空襲として、以下の記録がありました。


<o:p>1945年3月10日 東京    死者 約8万8,000人</o:p>


<o:p>1945年3月13日 大阪    死者  3,987人</o:p>


<o:p>1945年3月19日 名古屋   死者   826人</o:p>


<o:p>1945年5月29日 横浜    死者  3,789人</o:p>


<o:p>1945年6月 5日 神戸    死者   3,184人</o:p>


<o:p>1945年8月 6日 広島原爆 死者  約14万人 </o:p>


<o:p>1945年8月 9日 長崎原爆 死者約 7万3,884人</o:p>


<o:p></o:p> 


<o:p> 1937年の南京大虐殺が取り上げられていませんね。私は、否定説には与しませんが、その犠牲者の数については、いまだによく分かりません。ネット上では、かなり詳しく論争が展開されていますので、そちらをご参照ください。</o:p>


<o:p> 犠牲になった方々のためにも、先の大戦は何だったのかという論争が必要だと思います。まだまだ語り尽くされていません。</o:p>


 

「昭和の海軍 エリート集団の栄光と失墜」

 軽井沢


 


 文藝春秋8月号で「昭和の海軍 エリート集団の栄光と失墜」を特集しています。6月号の「昭和の陸軍 日本型組織の失敗」に次ぐ第2弾です。座談会の形で、出席者は、半藤一利(作家)、秦郁彦(日大講師)、戸高一成(海軍史研究家)、福田和也(慶大教授)、平間洋一(元海将補)の5氏です。実によく微に入り細に入り調べつくしたものだと感心してしまいました。


 


 前回の陸軍に比べて、登場人物が少ないのですが、それもそのはず、太平洋戦争終結時の数字を試算すると、残存兵力と死没者を合わせて、陸軍は680万人、海軍は290万人だったそうです。陸軍と海軍では、2倍以上の開きがあったのです。


 


 日本の陸軍の原点は、高杉晋作の奇兵隊で、その後、山縣有朋、児玉源太郎、桂太郎、田中義一と長州閥がリードし、海軍は西郷従道で、以下、山本権兵衛、東郷平八郎と薩摩閥が続く…。成る程なあ、と思いました。一読して、人間、過去の栄光や成功からは教訓を学ぶことはできないと再認識しました。


 


 「成功体験の驕りと呪縛」がズルズルと、身内から錆びが生じて、愚かな負け戦と分かっていながら、国民を戦争に引き込んでいったのです。


 


 海軍は、大正十年(1921年)の軍縮問題で、軍縮の「条約派」(加藤友三郎海軍大臣)と軍備拡大・対米強硬論の「艦隊派」(加藤寛治中将)に分裂して、激しい内部抗争が生じます。結局、艦隊派の背後に、日露戦争のヒーローだった「軍神」東郷平八郎と、伏見宮博恭(ひろやす)王(連合艦隊「三笠」の分隊長)らがいたため、艦隊派の勝利で、太平洋戦争に突き進みます。


 


 特に、伏見宮は、陸軍の参謀総長に当たる軍令部総長に就任し、人事面などで都合の良い人間のみを抜擢します。昭和8年(1933年)から9年にかけて、大角岑生(おおすみ・みねお)海相の時に、加藤友三郎(7期)の薫陶を受けた「条約派」だった山梨勝之進(25期)と軍務局長の堀悌吉(32期)らが追放されます。堀は、山本五十六と海軍兵学校の同期で、海軍始まって以来の英才と謳われたといいます。結局、この人事が決定的になります。


 


 伏見宮は、昭和十六年四月まで軍令部のトップに君臨しますが、あと1年総長の座にとどまっていたら、開戦の責任を問われて戦犯になっていたはず。そうなると、皇室の責任と天皇制の存続の是非にも波及したかもしれない、と秦氏は言います。


 


 


 昭和十四年に日独伊三国同盟締結に反対した米内光正海相、山本五十六次官、井上成美軍務局長を「良識派三羽ガラス」と言われています。しかし、福田氏は「海軍善玉論でよく語られているように、『米内は常に非戦論だった』『海軍は常に平和的解決を望んだ』というわけではない」と断言しています。昭和十四年二月、「海の満洲事変」と呼ばれる海南島の占領を、海相だった米内はかなり強引に推し進めた(平間氏)そうです。


 


 


 結局、海軍のエリートと言っても、官僚なのです。東京の安全地帯で作戦会議を開いて、指図していたに過ぎません。死ぬのはいつも庶民の兵隊さんです。だから、敵の暗号解読で、搭乗した飛行機が撃墜されて戦死した山本五十六がヒーローになるのかもしれません。