書くよりも語った方が偉い?

外山滋比古さんの話の続き

外山さんはこんなことも言ってます。

「自分が思ったことを書いた文章でも、思ったままを書くことはできない。思ったことの70%ぐらい書ければいい。本当はしゃべる方が自分の考えに近いのではないか。昔はものを書くことが一番、頭が活動するかと思ったけど、そんなことはない。しゃべった方が遥かに頭の回転は速くなります」

これと同じようなようなことを80年以上昔に言った人がいます。彼はこう言います。

「人を説得しうるのは、書かれた言葉によるよりも、話された言葉によるものであり、この世の偉大な運動はいずれも、偉大な文筆家にではなく、偉大な演説家にその進展のおかげをこうむっている、ということを私は知っている」

これを書いた人は誰?

アドルフ・ヒットラーでした。

環境ジャーナリスト村田さんの話を聞く

 

昨日は、プレスセンターで開催された「おつな寿司セミナー」に参加しました。ゲストは、環境ジャーナリストの村田佳壽子さん。

色々お話をうかがっていると、結局、環境問題は、人間問題に行き着いて、人間が生きている限り、食物を動植物から搾取し、空気を吐いて、大気に二酸化炭素を撒き散らすわけですから、どんな奇麗事を言っても、始まらないという感想を持ってしまいました。

「不都合な真実」でアカデミー賞とノーベル平和賞を受賞したアル・ゴア元米副大統領だって、大変大変、高邁な精神をお持ちながら、ご自宅の大豪邸では、年間3万ドル(350万円)もの電気・ガス代を消費していたことが判明したように、人間さまは、皆さん「自分だけは特別」だと思っていますからね。

ですから、このまま、人類は破滅に向かっていくのでしょうか?

村田さんのお話によると、今、盛んに話題になっている「地球温暖化」の問題より以上に、「人口問題」や「食料・水問題」「エネルギー問題」の方がもっと深刻だということです。

1985年に全世界の食糧生産高がピークに達し、年々減少し、現在の食糧生産では57億人分しか養うことができない。現在の世界の人口は68億人ですから、11億人が餓死するという計算になるそうです。お金があっても、食糧が買えない時代になるというのです。

世界の68億人の人口のうち、28億人が先進国に暮らしていますが、世界の80%が途上国に暮らし、絶対貧困と言われる1日百円以下で暮らしている人が世界に8億人から10億人いるということです。世界人口が「静止人口」と言われる80億人を突破すると、人類は破滅すると言うのです。2050年には、世界の人口は90億人に達するという予測もあります。

皆さんは生きているので大変ですね。

日本は、現在食糧自給率は39%と言われています。つまり、70%以上、食糧は輸入に依存しているのです。

それなのに、全体の40%を賞味期限切れや売れ残りなどを理由に廃棄されているというのです。

資源についても、石油の場合、1990年と比べ、消費伸び率が0%なら645年、2%なら133年、5%なら70年持つと言われていたのですが、現在、中国だけで11%の伸びなのだそうです。そうなると、あと10年、いや5年ぐらいしか持たないのかもしれません。それ以前に2015年になると、石油価格は高騰して、もう使えないという専門家の予測もあります。何しろ、デビアスのダイヤモンド鉱山は、今年2008年いっぱいで掘りつくしてしまうという予測もあるくらいですから。

うーん、何か絶望的な話ばかりですね。村田さんの話ですと、もっと、市民が意識を持って、環境問題に取り組む代表を政界に送り込んで、改革しなければならないということになります。政治に無関心で現状の30%ぐらいしか投票率がないと現状の大企業などをバックにした既成の政党出身の代表しか政治家になれないというのです。

個人個人でできることは、なるべく車を使わず、エレベーターやエスカレーターにも乗らず、レジ袋を断って「マイバッグ」を用意し、とにかく省エネに配慮するということなのですが、もし、日本人100万人が実行するとCO2を6%削減できるそうです。

結局、環境問題ではなく、人間問題、もっと言えば、「人間、いかに生きるべきか」という哲学問題に行き着くのではないでしょうか。そういう思いを強くしました。

2・26事件はやはりすごい事件でした


 


今日は、2・26事件の日。昭和11年、1936年のことですから、72年前のことです。70歳代後半以上の方にとっては、つい昨日のような出来事だったでしょう。


 


先日、毎日新聞の岩見隆夫氏のコラム「近聞遠見」に麻生太郎元外務大臣と「2・26事件」の因縁について書かれていました。


 


麻生氏といえば、吉田茂の孫として有名ですが、明治の元勲・大久保利通の次男、牧野伸顕伯爵のひ孫でもあったんですね。私は知りませんでした。


 


牧野伯爵は、湯河原の光風荘で静養中に青年将校・河野陸軍大尉らに襲撃されました。護衛官の皆川巡査が命を張って応戦したおかげで、牧野伯爵一家は、逃げることができ、生き延びることができました。そこには、麻生元外務大臣の母親に当たる伯爵の孫の和子さんもいたのです。もしものことが起きていたら、麻生氏はこの世に存在しなかったわけです。


 


そりゃあ、麻生氏にとっては、2・26事件は他人事ではありませんよね。光風荘の入り口に、麻生氏が揮毫した「史跡 二・二六事件 光風荘 麻生太郎書」という石柱が建っているそうです。


 


先日、この2・26事件を題材にした工藤美代子著「昭和維新の朝」を読んだばかりだったので、私も、何か、非常に興味を持ってこの記事を読みました。


 

「昭和維新の朝」

公開日;2008年2月25日

作家の加藤廣さんが「必読の書」だというので、読み始めたら面白すぎて、途中で何度、落涙したか分かりませんでした。

 

2・26事件を扱った工藤美代子さんの「昭和維新の朝」(日本経済新聞社)です。先日、やっと読了しました。

奇しくも、明日は「2・26事件」です。今からでも遅くはないので、是非この本を読んでみてください。

私は戦後民主主義教育を受けたので、「2・26」イコール「悪」という印象を受けてきました。血迷った青年将校たちの自分勝手な革命ごっこといった程度の認識が大半を占めていました。昭和天皇も彼らを「反乱軍」と決め付け、民間人である北一輝、西田税らも処刑されました。

しかし、なぜゆえに、彼ら青年将校たちが「昭和維新」を敢行しなければならなかったのか。そこまでに至る経緯を無視しては、何も語れません。この本にはそのあたりの経緯が実に事細かく描かれているのです。

正直、私は歌人の斎藤史さんのことは知っていましたが、この本の主人公である斎藤瀏氏のことは知りませんでした。日露戦争で活躍し、昭和3年の「済南事件」で「責任」を取らされて退役予備将校となった軍人で歌人としても名をなした人でした。

歴史というのは、その勝者、敗者から描き方が全く違ってしまうものなのですね。特に、この済南事件は、日本人のある学者でさえ「大した事件ではない」と見てきたような風に書いていますが、当事者である斎藤瀏氏にとっては、軍人として、誠意をもって、国際法の範囲で対処してきたので、忸怩たる思いがあったことでしょう。そのあたりの無念さを工藤さんは見事に代弁しています。

私は、「2・26事件」関係の本は、以前、学術書を読もうとして、あまりにも人物関係の複雑についていけず、途中で挫折した経験があります。(今は大分予備知識も増えたので読めますが)

でも、この、工藤さんの本は人間が、大河小説のように生き生きと描かれ、学術書では「悪人」のように描かれていた栗原安秀などは非常に魅力的に描かれていました。この本で、やっと、青年将校たちの「気持ち」が少しは分かった気がしました。

キューバのカストロ氏の引退は何を意味するのか?


 


 キューバのカストロ氏が19日に国家評議会議長と軍最高司令官の職からの引退を表明しました。


 一昨年から病気療養中だった同氏は81歳。


 1959年のキューバ革命以来、約半世紀にわたって独裁的指導者として君臨してきましたが、ついに城を明け渡すことになったのです。ついにその時が来たのですね。


 しかし、共産党中央委員会第一書記と閣僚評議会議長(首相)の職については、どうするのか言及していなかったので、専門家によると、小平のように院政を引くのではないかという観測があります。


 


 私は2000年6月に、キューバ音楽の「ブエナヴィスタ・ソシャル・クラブ」に憧れて、ハバナに行ったことがありました。驚きました。社会主義とは名ばかりで、ストリートチルドレンが街にあふれ、観光客とみると、物乞いに寄ってきました。黒人(恐らく奴隷の子孫とネイティブ)と白人(スペイン系)との差別が依然として濃厚で、現地で知り合ったカルロス君は黒人で、ハバナ市外からの移動は厳しく取り締まられるというのです。彼は、ヘミングウエイの「老人と海」の舞台になった海岸にまで、案内してくれたのですが、「警察に見つかると捕まる」と言って、タクシーから出てこなかったのです。


ひどく失望したことを覚えています。

 カストロと言えば、とてつもなく大柄な人だそうですね。キューバ革命後、日本人の民間人として割合早くカストロに会ったという元船員の話によると、手が異様に大きく、日本人の小さな手では握っても手が回らず、万力のような力だったというのです。「あれだけ、デカくなければ、革命なんかできないんだなあ」と言うのが、その元船員の感想です。


 

 カストロ氏は、若い頃は一流の野球選手で、米大リーグからもスカウトがあったらしいです。


 「もし、カストロが大リーグに行っていたら、キューバ革命なんか起きなかったのに…」というのが米国人や亡命キューバ人の間で流行っているジョークだそうです。

江戸城跡散策


 


またまた写真と本文が全く合っていないので、クレームがつきそうですが、先日、東京駅から和田倉門、桔梗門、本丸跡あたりを散策しました。都心の雑踏の中で、唯一「江戸」を感じる場所で、と同時の徳川の権力の膨大さを感じる所です。ほんの少し歩いただけで、疲れちゃいましたからね。

あの壮大な石垣を積んだ職人や作業に借り出された労働者たちはどれくらいいただろうかと考えただけで、目が回りそうです。和田倉門にしろ、桔梗門にしろ、そこには番兵というか門番が居て、人生のすべてをそこで費やして終わったんだろうなあ、と思うと、我々現代人は旅行や住居の移動の自由があって幸せだなあ、と感じました。

なぜ、散策したのかと申しますと、法政大学の田中優子教授が、江戸城のことを東京新聞(2007年12月15日)に書いていたからです。


換骨奪胎して引用するとー。

『見どころは天守閣だろう。天守閣は高さ44メートル、地下1階、地上5階の高層ビルだった。1657年に明暦の大火で焼けてしまうと、もう不要だということになって再建しなかったのは偉い。


城は戦争のためにあるのだから、不戦の体制を作り上げた江戸幕府にとって、天守閣はなるほど不要なのである。


また、明暦の大火前から江戸幕府は森林伐採の制限を打ち出し、1666年には「山川掟」を発令する。大規模開発、土木工事の時代がついに終わったのだった。天守閣を再建しなかったのは、そのような方針転換も関係している。日本の環境対策の始まりであった。


不戦と環境、それが江戸城跡を歩く時のキーワードだろう。間違っても「天守閣を再建すべき」などと思わないことだ。』


 


私なんぞは、戊辰戦争のあおりとゴタゴタで天守閣は消失したと思っていましたからね。大いに恥じながら、歴史を学ばなければいけないと再確認して歩いていたのです。


 

リクリス ユナイテッドアローズ

この道半世紀以上…


 


 先日乗ったタクシーの運転手さんは、かなり年配だったので、「お仕事はもう何年くらいなさっているのですか?」と尋ねたら、「もう半世紀以上です。昭和十年生まれです」と言うではありませんか。驚いてしまいました。


 


今年73歳ということになります。まだまだ現役で頑張っておられるのです。館野さん(仮名)が、タクシーの運転手になったのは、昭和31年5月からというのです。今年で54年目です。


 「当時は、車は配給制で、ダットサン、今の日産車しかなかったですよ。商用車がほとんどで、自家用車を持っている人は、相当なお金持ちか、芸能人やスポーツ選手くらいでしたからね。道路は空いていましたよ」


 


 館野さんが、惜しいと思うのは、昔の江戸時代から続いていた地名が「行政改革」の名の下で、次々となくなっていったことだそうです。


 


 今の「西新橋1丁目の交差点だって、昔は田村町って言ってたんですからね。あの、忠臣蔵の浅野内匠頭が切腹した田村右京大夫の屋敷があったからです。神谷町辺りも、今、虎ノ門とか言ってるけど、虎ノ門なんて地名じゃなかった。江戸城の門だったんですよ。昔は西久保巴町とか葺出町とか言っていた。今、神谷町駅近くに葺出ビルなんてやっとその名残だけが残っている」


 


 「麻布だって、今の麻布十番とか有栖川宮公園あたりの元麻布だけが、そう言われていただけで、西麻布だのは、後からとって付けた名前です。箪笥町とか言っていた。箪笥職人が住んでいたんでしょうな」


 


 「あたしゃ、浅草の生まれですが、すっかり寂れてしまった。なぜか分かりますか?今のJRAの馬券売り場が建っている所、あすこは弁天池があったんです。池を埋め立てから、寂れたんですよ。人間は、水を求めて集まってくるんです。動物と一緒です。銀座だって、数寄屋橋だの三原橋だの、川があった名残の地名がついているくらいです。新宿の歌舞伎町なんか、最初から水がないところに繁華街を作るから無法地帯みたいになっちまうんです」


 


 館野さんの話は面白かったのですが、目的地に着いてしまいました。


もっと聞きたかったですね。

モノ・マガジン オンライン

神保町讃歌 


 


 こんなに年の瀬なのに、小生のブログにアクセスして頂くなんて、どうも有難うございます。


 


 昨日は、神保町に行って来ました。東京で私の一番好きな所です。できれば、住んでしまいたいくらいです。昔は、仕事関係で週に2回は通っていたのですが、最近は年に数回。北海道に転勤している間は、3年間一度も行かなかったですね。ですから、戻ってきた時、その変わりようには驚きました。高層マンションもできていました。


 


 喫茶店の「さぼうる」、安い天麩羅屋「いもや」、ラーメン「さぶちゃん」、ビアホール「ランチョン」は健在でしたが、私の隠れ家として使っていた白山通りを奥に入った「李白」という渋い喫茶店は、名前が変わっていましたね。


 


 出版不況の波は古書店には大打撃のようで、ちょっと寂れてしまった感じは残念でしたが、それでも、好事家はいるもので、道端でバッタリ、十年ぶりくらいに知人に会い、「お互い変な所で会わなくてよかったですね」と挨拶したくらいでした。


 


 神保町の古書店街と行っても、私のよく行くのは新刊書の「三省堂」とか「東京堂」「書泉グランデ」などですが、新刊ではもう手に入らない文献は、古書店を覗きます。今は、靖国通り沿いに「本と街の案内所」ができて、目当ての本が簡単に探せるので、本当に便利になりました。


 


 神保町の交差点から九段下に向かって、靖国通り沿いに「日本特価書籍」という本屋さんがあります。ここは、新刊本なのに、定価の1割から2割引きで売っているので、絶対にお奨めです。「本と街の案内所」でただでもらった「神田古書店地図帖」によると、この店は古本屋さんかと思ったら、ちゃんと新刊本店のジャンルに収まっていました。何で安いのか分かりません。先日、来年は私にとっていい年なので、暦に従って行動しようと目論んで、生まれて初めて来年の「高島暦」を自宅近くの本屋で2000円で買ったのですが、ここでは同じものが1600円で売っていました。チェースト!です。


 


 ここで、面白い本を見つけました。吉川弘文館から出ている「日本史必携」と「近代史必携」です。前者が6300円で後者が4700円(プラス税)でしたが、1割引で売っていました。前者には、系図から、日本の度量衡、官職の制度と名前、貨幣…、後者には、内閣、政党変遷、軍事官僚機関の全変遷など本当に「隠れ史料」が何でも載っているのです。涎が出てきてしまいた。(嘘です)しかし、2冊買うのはちょっと高くて躊躇してしまいました。


 


 そしたら、その近くの歴史書専門の「南海堂書店」に入ったら、「近代史必携」が古本ながら、3500円で売っていたのです。今年5月の初版本で、新品同様でした。すごい掘り出し物に感激してすぐ買ってしまいました。


 

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「謎手本 忠臣蔵」


 


 「週刊新潮」で、加藤廣さんの「謎手本 忠臣蔵」が始まりましたね。楽しみにしていたので、早速買い求めました。


 


 いやあ、第一回から予想に違わず、重厚な話から始まりました。我々は忠臣蔵の粗筋も結末も分かっているのに、何が起きるか分からないような、ミステリー小説を読んでいる感じです。


 


 今年夏に加藤さんお会いした時、「これまで誰も書いていない忠臣蔵を書きます」と言ったきり、後は教えてくれませんでしたが、やはり、その通りでした。


 


 いきなり、五代将軍徳川綱吉の側用人だった柳沢吉保が登場するのです。(私事ながら、学生時代に近くの駒込で「六義園」という立派な日本庭園があり、よくデートコースとして利用させてもらいましたが、確かここは、吉保の邸宅か別荘跡だったはずで、とても近くしく感じた人でした。)


 


 そう言えば、赤穂事件、いわゆる討ち入りは、「時は元禄十五年(1702年)」と、講談でも有名なフレーズで始まります。そう、将軍綱吉の元禄時代なのです。


 


 元禄時代の同時代人を思いつくままに言えば、俳人の松尾芭蕉、戯作者・井原西鶴、和算の関孝和、大和絵の土佐光起、国文学者の契沖、そして忘れてならないのは人形浄瑠璃、歌舞伎作家の近松門左衛門、琳派の俵屋宗達、尾形光琳、浮世絵の菱川師宣、歌舞伎役者の初代市川団十郎ら錚々たる文化人がおりました。いわゆる「元禄文化」が花開いた時期ですね。


 将軍綱吉は、「生類憐れみの令」を出して「お犬公方」として有名ですし、今の財務大臣というか日銀総裁に当たる役職に任命した荻原重秀は、財政窮乏の対策として、悪貨を鋳造してインフレになったということでも知られています。


 


 加藤さんの小説は、これら政治経済を背景ではなく、全面的に主役にして筆を進めていくのではないでしょうか?私としては先に挙げた元禄文化人をどこかに取り上げてもらいたいのですが…。


 


 元禄文化人に思いを馳せているうちに、「週刊新潮」に書かれている他の記事がつまらなくてしょうがなかったです。生意気な言い方をすれば、読むに値しない、というか。内実は、書かれていることについて興味がなくなったせいかもしれません。芸能人のゴシップにしても、最近テレビを見ないせいか、その芸能人そのものを知らないせいもあります。

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比較日本人論 


 


 某有名(笑)語学塾で知り合った数人の方と最近、どういうわけか頻繁にメールのやり取りをしています。同じ目標に向かって、自分自身と闘ってきた同士なので、お互いどこか「戦友」のような親しみを感じています。


 


 そんな中で、頂いた飯田さん(仮名)のメールは、非常に面白かったので、ご本人に許可を頂き、「お断り掲載」をさせて頂くことになりました。最近、ネタが尽きているもので、無理にご承諾いただきました。飯田さん、有難うございました。


 


 以下そのままコピペします。面白いですよ!


 


 私はこのごろ比較文化論に再度目覚めて、それに該当するような本を見つけたら買っては読んでいます。本といっても古本です。いま月に14、5日ほど神保町の会社でバイトをやっていますが、ご承知のように神保町は古本の街、いろいろな本を物色するにはとても適した地なのです。


 その中に、ルイス・フロイスの「ヨーロッパ文化と日本文化」(岩波文庫、青459-1)があります。フロイスは、これもご承知のように、信長に接触したポルトガル生まれのイエズス会の宣教師です。面白い比較を2,3紹介してみましょう。450年前の日本人の行動、所作が記されており、現在の我々のそれと寸分も違わないことがわかり、非常に興味をそそられます。


 


 

「われわれの間では人を訪れる者は何も持っていかないのがふつうである。日本では訪問の時、たいていいつも何か携えて行かなければならない。」

 

 

 

「ヨーロッパでは言葉の明瞭であることを求め、曖昧な言葉を避ける。日本では曖昧な言葉が一番優れた言葉で、もっとも重んぜられている。」これに対して訳注者の岡田章雄氏は「日本では敬語を尊重し、当時は最も複雑な敬語法の発達した時代である。その敬語は直接明確な言い方を避けて、特に間接的で断定しない表現をとったことを指している。」と解説している。

 

 

 

「われわれは怒りの感情を大いに表すし、また短慮をあまり抑制しない。彼らは特異の方法でそれを抑える。そしてきわめて中庸を得、思慮深い。」これに対し岡田氏は「喜怒を色に現さないという儒教的、封建的な道徳観によるものであろう。」と述べている。

 

 

 

 これは昔の比較日本人論ですが、現代の比較日本人論も、日本文化と日本人の思考、行動を知る上で大いに役立ちます。

 

 

 いかがでしたか?フロイスを読みたくなったでしょう?

 

 

 

 

 さてさて、昨日書いたことの続きですが、読み返してみると、どうも、帯広市役所の人が勝手にM野さんに私の住所を教えてしまったかのように読めないことはないのですが、それは決してありませんでした。

 事前にちゃんと、ご連絡があり、「読者の人が熱心にあなたに連絡をとりたがっていますが、どうしますか。別にお断りしてもいいですけど」と市役所の方から電話がありました。

 私は「どうぞ、お伝えしてもいいですよ」と承諾したのでした。

 個人情報がうるさい昨今、私の愛する帯広市役所が、そんな勝手な振る舞いをするわけではありませんので、どうぞ、誤解のないよう宜しくお願い申し上げます。

 

 

 

 

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