柏崎地震その後

 京都・祇園「小森」

 

大地震の被害に遭った柏崎の加納さんから電話を戴きました。まさに、報道の通りの大惨事で、水道はやっと通じたものの、ガスはまだで、おかげで火が使えず、いまだに柏崎小学校で避難生活が続いているということでした。火が使えないということは、食事(料理)とお風呂に困るということです。

 

加納さんは、柏崎の駅前通りの商店街で、古書店を営んでいます。五年前にご主人を亡くされましたが、ご主人は、非常に真面目で慎重な方だったので、家は鉄骨に建て替えておりました。おかげで、震度6強の激震に辛うじて耐えることができましたが、商品である本が滅茶苦茶になってしまいました。

 

加納さんによると、宮城県からボランティアの方が来てくださって、乱雑になった本を片付けるのを手伝ってくれたそうです。加納さんは、本当に有り難い、と話していました。

 

加納さんのご主人は、いわゆる地元の郷土史家で、生田万(いくた・よろず)の研究家でした。上州館林藩士だった生田万(1801-37)は、平田篤胤門下の国学者で、天保の飢饉の際、大坂の大塩平八郎の乱に刺激されて、柏崎で、乱を起こして死んだ人です。そう言えば、大塩平八郎の乱を平定したのは、渡辺崋山の友人、鷹見泉石でしたね。世に言う「生田万の乱」については、私も詳細は知りません。もっと加納さんのご主人というより、私から見れば、友人だった加納君のお父さんに話しを聞いておけばよかったなあと思っています。

 

ほとんど柏崎に暮らしていた加納さんは、70歳代だと思いますが、「こんな大きな地震は初めて」と話していました。よっぽど、ひどかったのだと思います。まずは、無事であったことに一安心しましたが、色々とこれからも大変だと思いますので、事あるごとに連絡を取っていこうと思っています。

長嶋さんのオーラ

 帯広動物園

日経新聞の「私の履歴書」で、読売巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄氏が7月から連載されています。私も面白く拝読しています。長嶋ファンにとっては、もう方々で読んだことがある「自明の理」なのかもしれませんが、私としては初めて知ることばかりで、「なるほど」と毎回、感心してしまいます。

 

長嶋の現役時代を知っている人は、今ではもう40歳を過ぎていることでしょう。私も、子供時代、長嶋はヒーローであり、スーパースターでした。しかし、この連載を読むと、当たり前なのですが、長嶋とて偶然の天才ではなく、彼なりに相当努力して、チャンスをつかんだ人だということが分かりました。プロとして、華があったのも、わざと華になるようにパフォーマンスしていたということも明かしています。二男二女の末っ子として生まれ、父親が千葉県印旛郡臼井町(現佐倉市)の収入役を務めた真面目で律儀な人で、長嶋が立教大学在学中に急死してしまう。つまり、彼の巨人での活躍を知らないまま亡くなってしまうことなど、知りませんでしたね。

 

私は、仕事の関係で、たくさんの有名人に会う機会がありますが、これまで会った人でオーラを見た(感じたではなく)人は三人います。そのうちの一人が長嶋さんでした。もう20年くらい昔の話ですが、その後光のまぶしさに目を細めてしまったくらいです。

 

賄賂

 帯広動物園

お中元の季節ですね。

私は、基本的に中元も歳暮も賄賂だと思っています。ですから、親しい人には贈りません。いや、親しくない人にもあまり贈りません。一応、サラリーマンなのですが、会社に入って20年以上、贈ったことがありませんでした。

 

それが、あることがきっかけで、贈ることになったのです。Xさんからのアドバイスでした。「贈ってごらんなさい。その人の意外な一面が分かって面白いですよ」というのです。

 

それで、試してみました。黙って受け取る人。贈られたら、すかさず贈り返してくる人。「もう、こういうことはやめてください」という人。本当にさまざまでした。しかも、そういうことを言いそうな人が、黙って受け取り、どう見ても悪っぽい人が意外と潔癖で、「こんなことやめようよ」と言ってきたりしました。

確かに意外な一面が分かりました。

加藤廣著「秀吉の枷」(日本経済新聞社)には、羽柴秀吉の桁違いの「お歳暮」のことが事細かに明らかにされています。もちろん、贈答先は織田信長です。

天正九年十二月二十二日のことです。

信長への献上品は、御太刀一振、銀子一千枚、御小袖百、鞍置物十疋、播州杉原紙三百束、なめし革二百枚、明石干し鯛一千枚、クモだこ三千連。これに織田家の女房衆に進呈する小袖が二百点。(中略)これらが秀吉の安土城外の外屋敷を出発して安土城に向かったのが夜明けである。(中略)しかし、先頭が門をくぐったのに、末尾の荷駄はまだ秀吉の外屋敷を出ていなかった。これだけでも秀吉の歳暮戦略は天下に鳴り響いた。

やはり、百戦錬磨の歴史上の人物は桁違いです。

大勢順応主義 

 上士幌町


 


加藤周一著「日本文化における時間と空間」(岩波書店)をやっと読み終えました。


 


 私なりに会得した同書を貫くキーワードは「大勢順応主義」だと思います。日本人は、過去は「水に流し」、「長いものは巻かれろ」精神で、面従復背で、「尊王攘夷」なら「尊王攘夷」、「開国」なら「開国」で「ええじゃないか」と唯々諾々と従ってきたというのです。先の戦争でも、結局、大衆までもが「米英撃滅」「八紘一宇」精神に邁進し、焼夷弾が降ろうが、原爆が投下されようが、竹槍で抗戦しようとしました。


 


 1936年、陸軍の「皇道派」による軍事クーデターの失敗を巧みに利用した「統制派」が、盧溝橋、上海、南京と中国との戦争拡大に突入します。この大勢に抵抗したのは、1936年に「粛軍演説」を行い、1940年に対中国攻撃を批判して衆議院から除名された斎藤隆夫ただ一人だったのですが、今、この斎藤の名前を知っている人は果たしているでしょうか。


 


戦後は戦後で、「平和主義」「保護貿易」が大勢を占めたかと思えば、今度は「市場開放」、「規制緩和」が大勢となります。集団の成立の行動様式に現れた現在中心主義が跋扈するのです。


 


 加藤氏は、「これらは日本文化の固有のものではない」と断りながら、結論的にこう述べます。


 


日本人は「過去を忘れ、失策を思い煩わず、現在の大勢に従って急場をしのぐ伝統文化があると思わざるを得ない」


 


 今、政界(自民党安倍政権)で、官界(社会保険庁)で、財界(コムスン)で、社会(温泉施設爆破事件、牛ミンチ偽装)で、起きている無責任の体質は、皮肉にも、これら日本人の伝統文化が如実に現れているのかもしれません。


 


 


 

安倍政権に反対宣言

 帯広

 

今日はちょっと、微妙な政治的な問題を考えます。

 

月刊「現代」7月号で、立花隆氏が「私の護憲論」を発表しています。東京新聞の「大波小波」でも取り上げられていたので、是非読まなければならないと思っていました。

最近、盛んに安倍首相が「戦後レジームからの脱却」を口を酸っぱくして発言していますが、立花氏はそのアンチテーゼとして論考を進めています。副題が「戦後レジーム否定論への徹底抗戦宣言」となっています。この論文は次号にも続きますが、今回の論点、つまり立花氏が一番言いたかったことは、以下のことだと思います。(換骨奪胎しています)

 

「政治とは、一国の社会が全体として持つ経済的、資源的、人的リソース(資源)をどう配分していくかを決定するプロセスのことである。戦前の日本は、全予算の半分が軍事的リソースに投入されていった。しかし、戦後はその軍の崩壊によって、リソースはすべて民生に注入することができるようになった。アメリカは、軍産複合なくして発展してこなかった。しかし、日本は軍産複合体を存在させずに経済発展を遂げたという意味で日本の成長モデルは世界に誇れるのではないか。それは、『戦争放棄』の憲法第9条の戦後レジームがあったからこそ可能なのだ」

 

立花氏は、この論考を進めるにあたって、日本国憲法の成立の過程を検証します。GHQにより「押し付けられた」というのが定説になっていますが、それでも、日本人の手によって、国民投票する機会もあったし、国会で審議する機会もあった。それなのに、当時の為政者たちが、唯々諾々と敗戦国として受け入れた。これでは「押し付けられた」という歴史的事実が一人歩きして、今後禍根を残すので、国民投票に諮るべきだと主張したのはただ一人、東大学長だった南原繁だけだったということを明らかにしています。

 

戦後レジームを云々するには、「ポツダム宣言」を知らなければならない、と立花氏はズバリ指摘してますが、本当に勉強になりましたね。面白かったのは、日本人は終戦記念日は8月15日だと思っているのですが、それは、国内向けにポツダム宣言を受諾する天皇の玉音放送があった日だけで、依然、諸外国では、15日以降も激戦が続いていた。国際法の本当の終戦は、9月2日で、戦艦ミズーリ号で日本が降伏文書に署名した日である、ということも説明され、私なんかも「なるほどなあ」と思いました。

 

今朝の朝日新聞の朝刊で、評論家の岸田秀氏も「安倍改憲は『自主』なのか 米に隷属する現状直視を」というタイトルで寄稿していました。要するに「日本は戦争に負けて、アメリカに隷属する属国になった。だから、改憲といっても事実上、米国の許容範囲内でしかできない。今の9条の歯止めをはずせば、自衛隊員はアメリカが勝手に決めた戦争で世界のどこかの最前線に送られる消耗品になりかねない」と指摘しているのです。

 

北方領土はなぜ返還されずに、ロシアの「占領」のまま続いているのか。返還する気がさらさらないプーチン大統領の理由は明快です。「第2次世界大戦の結果、ロシア人の血を犠牲にして獲得したからだ」。これは、日本がもし、先の戦争に勝っていたか、負けを宣言しなかったら、日本が朝鮮も台湾も満洲もそのまま日本の領土として保持していた時に使う同じような理由づけでしょう。領土というのは、戦争の産物だという歴史的事実を再認識させられるのです。

 

6月10日付の東京新聞の一面トップで「日本兵遺骨 51体集中」というタイトルで「インドネシア・ニューギニア島北西部のビアク島で、旧日本軍兵士の遺骨が大量に野ざらしになっているのが、確認された」事実を報道しています。ビアク島では、日本側は陸海軍計約1万2800人のうち1万2000人以上が戦死したといわれます。そのほとんどが60年以上経っても、「帰還」を果たすことができず、遺骨が野ざらしになっているというのです。インドネシア領西部は治安状況などを理由に、戦後20余年しかたっていないのに「遺骨収集は概ね終了した」と、日本の国家は終結宣言してしまうのです。海外で没した旧日本軍兵士は約240万人いますが、このうち約124万柱しか帰還を果たしていないというのです。私が興味を持つフィリピンのレイテ島の激戦では、約8万人が戦死(生存率3%)しましたが、帰還した遺骨は1万5千柱のみなのです。

 

何と言う冷たい国家なのでしょうか。仕方なく徴兵で戦場に送られた兵士が飢えで喘いで死に瀕している時に、好きで偉ぶりたくて軍人になった将校連中は、そそくさとチャーター便で帰国しているのです。何が靖国神社だと思ってしまいますね。戦後もぬくぬくと生き抜いた偉い軍人だけを祭っているのではないかと疑りたくなります。

 

ピラミッド社会の日本人の心因性などそう変わるものではありません。戦争になれば、日本人は国家の名の下でまた同じようなことをするのです。だから、私は、改憲をして戦争国家に逆戻りさせようとする安倍晋三を全く信用できないのです。

彷徨えるウイグル人

 根津

 

昨日は、久しぶりにおつなセミナーに参加しました。ゲストは、中国近現代史と日中関係がご専門の水谷尚子さん。テーマは「彷徨えるウイグル人~東トルキスタン独立運動・人権運動組織と主要活動家」でした。

 

このテーマに関しては、私は全く門外漢で、こんなに多難な流血事件が中国の新疆ウイグル地区であったことを知りませんでした。日本では、この方面の専門家が少なく、ほとんど報道されることがないからかもしれません。「チベット問題」に関しては、ダライ・ラマのような精神的支柱がいたり、ハリウッド俳優のリチャード・ギアらが独立運動に関心を持っているので、かなりの頻度で報道され、世界中でも注目されていますが、「ウイグルの独立問題」については、ほとんどの日本人は知らないのではないでしょうか。

 

水谷さんは、この問題を月刊誌「諸君」(文藝春秋)で何度も取り上げ、今後も、何回か執筆される予定です。この問題の最も信頼のおける専門家の一人であると言っていいでしょう。

 

彼女の不満は、東トルキスタン(ウイグル人は自分の国をそう呼ぶ)に関連する記事や論考が、レベルが低く、直接取材しないで、インターネットで流れている「偽の情報」を丸写しにしているケースが多いということです。人名さえまともに表記できていないというのです。例えば、天安門事件で有名になった学生運動のリーダーであるウー・アル・カイシはウイグル人ですが、その名前は中国読みで、本来は「ウルケシ」と表記するのが正しいそうです。

 

もともと、遊牧民だったウイグル人は、国家を形成する観念が低く、18世紀に清朝の乾隆帝の時代に征服されて、中国の領土になったのが始まり。1933年に東トルキスタンイスラム共和国、44年に東トルキスタン共和国として独立するものの、短命に終わってしまいます。49年に同共和国の首脳陣が「飛行機事故」で死亡(実際は、ソ連のスターリンの指示でモスクワKGB刑務所で殺害されたという説が有力)してから、亡命政府設立さえ不可能になり、結局、中国共産党軍による侵攻で、55年の新疆ウイグル自治区の設置に至ります。これ以降、90年のバレン郷事件、97年のイリ事件など独立運動が展開されます。

 

ウイグル人は現在、800万人ほどいると言われています。その新疆ウイグル自治区には、北京政府の意向で、漢民族の移殖が始まり、1950年に約30万人だった漢民族の人口は、99年に687万人に膨れ上がり、政府公共機関の要職は漢人によって占められ、肥沃な土地は、ウイグル人は追い出されて、漢人が居座ってしまったという話です。しかも、同化政策によって、ウイグル語が禁止され、教育も中国語だけになったようです。

 

もともと、ウイグル人は、コーカサス系で、顔立ちもインド・ヨーロッパ系に近く、中国とは言葉も文化も風習も全く違います。また彼らはゆるやかなイスラム教を信奉しています。今まで、バラバラだった独立運動も2004年になって、やっと「世界ウイグル会議」(総本部=ミュンヘン)が設立されましたが、参加しているのも独立運動派の8割で、前途多難なようです。

 

私も、これからはもう少し、この「ウイグル問題」について関心を持とうと思いました。

真渓涙骨

 根津神社

 

ブログは、毎日書き続けていくことは、時にシンドイものがあります。見知らぬ不特定多数の人に向かって書くことは、勇気がいることですし、あまり、裏道の話も書けませんし、困ってしまう日もあります。

そこで、今日は、博覧強記の碩学、調布の先生から頂いたメールを勝手に許諾を得ずに紹介します。

調布先生は「真渓涙骨という人を知っていますか?旧・新宗教界に影響を与えた熱烈信奉者がいる破天荒な人物です。色々調べると面白いですよ」と言うのです。

もちろん、私は知りませんでした。さすが、調布先生です。第一、何とお読みするのかさえ分かりませんでした。

「またに・るいこつ」と読むようです。

簡単にプロフィールを紹介すると、彼は1869(明治2)年、福井県に生まれ、1885(明治18)年、龍谷大学の前身である普通教校に学び、博多の浄土真宗本願寺派万行寺で得度し、1897(明治30)年、あらゆる宗派を超えた宗教専門新聞「教学報知」を28歳の時に創刊します。1902(明治35)年には紙名を「中外日報」と改題し、1956(昭和31)年に87歳で亡くなるまでの60年間、宗教界全般にわたってご意見番として健筆を振るった人だったのです。

「中外日報」は、今年創刊110年周年を迎えた日本で最も古い宗教専門紙のようですが、私は、不明を恥じつつ、一度も見たことも読んだことがありません。調布先生によると、若き司馬遼太郎が、産経新聞京都支局時代に、晩年の涙骨に知遇を得たようです。

どれだけ、破天荒な人物だったのか、まだ、よく分かりませんが、その方面の世界では、知らない人はいないようです。詳しい方は、どうかコメントしてください。

「中村屋のボース」で大仏次郎論壇賞を受賞した中島岳志氏も「中外日報」にインタビューを受けて、「大変光栄だった」とブログに書いています。ボースが、1920年代から30年代にかけて、「中外日報」の「特別寄稿家」だったようです。

幸いなるかな、心の闇

  スペイン広場

 

天才と呼ばれる人たちが、なぜ、あのような偉大な事業を残せるのか?-このような疑問に「天才はいかにうつをてなずけたか」(求龍堂)の著者アンソニー・ストー氏が答えています。

 

「人間を困難で報酬の少ない仕事に立ち向かわせ、外の世界の事実や内面的な自我などから首尾一貫した真理を作り出すよう動機づける力は、疎外感や失望感に根ざしている」

 

端的に言いますと、人間の心の闇、つまり、鬱病や疎外感や失望感や空漠感などが、その穴を満たそうともがき苦しむことによって、偉業をもたらす、と著者は言うのです。

 

幸いにして、私も、そして、あなたも、心の闇だらけですよね?

 

さあ、ご一緒に歴史的な偉業を達成しましょう!

有名になりたい人へ

  ローマ


 


 歴史に名を刻むのは、80回も100回も闘い、勝ち抜いた強運の傑物だけである。


 


 豊臣秀吉は生涯、150回戦って、死ななかったのである。


 


ーーー津本陽「武士道 いかに生き いかに死ぬか」


 


 今の時代、今の日本では、戦ったり、殺しあったりすることはないですね。我々は何と時の運と地の利に恵まれているのでしょうか。

昭和の陸軍 日本型組織の失敗 

 上野


 


 「文藝春秋」6月号で、「昭和の陸軍 日本型組織の失敗」を特集していたので、迷わず買いました。私のライフワークで最も興味があるものの1つに、「日本人は何故、無謀な戦争に突入し、戦争責任も曖昧にしたのか」というのがあるので、とても、とても参考になりました。半藤一利氏(作家)、保阪正康氏(作家)、福田和也氏(文藝評論家)、戸部良一氏(防衛大教授)、黒野耐氏(元陸将補)に感謝しつつ、備忘録として、まとめます。


 


●陸大は、陸士卒後、隊務二年以上から選抜された将校が受験し、合格率は約1割。幼年学校出身9割、一般中学1割。陸士19期のみ一般中学から陸士に入学させた。


 


●太平洋戦争の陸軍戦死者165万人のうち、70%は飢餓によるもの(作戦部にエリートを集め、兵站を軽視したため)。


 


【陸士1期】 宇垣一成(岡山出身。陸大3番。大正13年、長州閥以外から初の陸軍大臣)


 


【陸士6期】 南次郎大将(A級戦犯)


 


【陸士8期】 林銑十郎(反宇垣派)


 


【陸士9期】 真崎甚三郎(反宇垣派、皇道派)、荒木貞夫大将(反宇垣派、昭和6年、陸軍大臣、皇道派のドン、A級戦犯)、松井石根大将(南京虐殺事件、A級戦犯絞首刑)


 


【陸士10期】 植田謙吉(ノモンハン事件、関東軍司令官)


 


【陸士11期】 寺内寿一(南方軍総司令官)


 


【陸士12期】 秦真次(反宇垣派、皇道派)、柳川平助(反宇垣派、皇道派)、畑俊六元帥(陸軍大臣、A級戦犯)、小磯国昭大将(首相、A級戦犯)、杉山元(陸大15番。対米開戦時、参謀総長、ガタルカナル責任)


 


【陸士15期】 河本大作(張作霖事件首謀者)、山岡重厚(皇道派)、多田駿(参謀次長)、梅津美治郎大将(2・26事件時、仙台師団長「断固討伐せよ」、敗戦時の参謀総長、A級戦犯)


 


【陸士16期】 永田鉄山(長野出身。反宇垣派、皇道派、一夕会、暗殺死)、岡村寧次(反宇垣派、皇道派、一夕会)、小畑敏四郎(反宇垣派、皇道派、一夕会)、板垣征四郎大将(反宇垣派、皇道派、一夕会、A級戦犯絞首刑)、土肥原賢二大将(A級戦犯絞首刑)


 


【陸士17期】 東條英機(岩手出身。父親の英教は、南部藩士の息子で、陸大1期首席。反宇垣派、皇道派、開戦時首相、A級戦犯絞首刑)、荻洲立兵(ノモンハン時、第6軍司令官)


 


【陸士18期】 山下奉文(反宇垣派、皇道派、シンガポール陥落)、阿南惟幾(陸大受験3回失敗。終戦時、陸軍大臣)、大島浩中将(駐独大使、A級戦犯)


 


【陸士19期】 今村均大将(新発田中、陸士、陸大首席。ジャワ攻略)、本間雅晴中将(佐渡中、陸士、陸大。「死のバターン行進」)


 


【陸士20期】 下村定(最後の陸相)、木村兵太郎大将(A級戦犯絞首刑)


 


【陸士21期】 石原莞爾(陸大2番。一夕会、関東軍参謀副長、満州事変首謀者、支那事変参謀本部作戦部長)


 


【陸士22期】 相沢三郎中佐(永田鉄山を斬殺)、安達二十三、 鈴木貞一中将(一夕会、企画院総裁、A級戦犯)、牟田口廉也(一夕会。盧溝橋事件、インパール作戦=約3万人死傷=首謀者)、村上啓作(満洲事変時の軍事課員)、原田熊吉(今村大将の後任)、西村琢磨(近衛師団長)


 


【陸士23期】 橋本欣五郎(三月事件、十月事件首謀者、A級戦犯)


 


【陸士24期】 河辺虎四郎(敗戦時、参謀次長)、野田謙吾(人事局長)


 


【陸士25期】 武藤章中将(一夕会、開戦時軍務局長、A級戦犯絞首刑)、田中新一(開戦時、作戦部長。教育総監部)、冨永恭次(人事局長)、磯田三郎中将


 


【陸士26期】 田中隆吉、栗林忠道中将(長野中、陸士、陸大2番。第109師団長、硫黄島戦死)、川口清健(ガタルカナル司令官)


 


【陸士29期】 佐藤賢了中将(軍務局長、A級戦犯)、河村参郎(BC級戦犯絞首刑)


 


【陸士30期】 岡田菊三郎(戦備課長)、泉可畏翁


 


【陸士34期】 西浦進、堀場一雄(支那派遣軍参謀)、服部卓四郎大佐(ノモンハン事件=約8400人戦死=首謀者、対米開戦時、作戦課長、ガタルカナル作戦=戦死、餓死者2万5千人=首謀者)、石井秋穂大佐(「対米英蘭戦争終末促進に関する腹案」)


 


【陸士36期】 辻政信大佐(石川県炭焼きの家族。幼年学校1番、陸士1番、陸大3番。ノモンハン事件、ガタルカナル作戦首謀者)


 


【陸士37期】 村中孝次(2・26事件首謀者)


 


【陸士38期】 磯部浅一(2・26事件首謀者)


 


【陸士44期】 瀬島龍三中佐(陸大首席。参謀本部作戦部作戦課)、原四郎


 


【陸士45期】 朝枝繁春(大本営参謀)


 


【陸士46期】 井門満明(兵站参謀)