モネ展から東京ミッドタウン

乃木坂にできたばかりの「新国立美術館」に行ってきました。

「モネ 大回顧展」を見たかったからです。ゴールデン・ウイークとはいえ、連休の谷間の平日を選んで行ったのですが、人、人、人…。何と、日本は、いや東京はこう人が多いのでしょうね。多いところでは、人が五重の列になって1枚の絵の前に立ちはだかっていました。

私は日本人としては背が高い方なので、後方からでも見られましたが、絵を見るにはやはり、東京以外に限りますね。モネは、私の卒論のテーマであり、外国でも数多、見る機会がありましたが、スイスのチューリッヒ美術館の「睡蓮」の連作が忘れません。これでもか、これでもかというモネの執念のような睡蓮が壁一面に広がり、殆んど観客もいなかったので、何か、独り占めする幸福を感じたものです。

モネは「睡蓮」のほか、「積み藁」「ルーアン聖堂」など連作を数々と書いています。一つのテーマを見つけると、30枚も50枚も描いている感じです。作家のYさんも言っていました。「何かテーマを決めてしまえばいいんですよ」。その言葉に意を強くしました。

ついでに、同美術館2階の「異邦人たちのパリ 1900-2005年」展も覗いてきました。こちらは、モネ展ほど人が多くはなかったです。感動したのは、藤田嗣治、ピカソ、モジリアニ…。あまりにもごちゃまぜで、あまりにも散漫で、テーマが絞りきれず、企画展としては、大失敗ではないかと思いました。

3階は、高級フランス料理の「ポール・ボーキューズ」。3000円くらいのランチに人だかりで、「満員札止め」で、幸運にも最後の列に並ぶことができた母娘がテレビのインタビューを受けていました。

馬鹿らしい!

乃木坂から歩いて10分くらいで、六本木のミッドタウンに行きました。できたばかりの話題のスポットとということで、ここも人だかり。

ブランドショップだらけで、私は、ブランドには殆んど興味もないので、ウインドーショッピングさえもしませんでした。

ただ、ここには、素晴らしい庭園がありました。区立檜町公園です。人造池もあり、それにしては、よくできた公園だなあと思っていたら、ここは元々、長州藩の下屋敷で、つまりは、歴史のある長州藩のお庭だったわけです。昨日やそこらでできた公園ではなく、やはり、昔は、庶民は決して立ち入ることができなかったわけですから、散策するだけ感動してしまいました。

ところで、六本木ミッドタウンの前身は、何だったかというと防衛庁の跡地です。その前が、東京鎮台歩兵第一~三連隊が置かれた場所。

そして、乃木坂の新国立美術館の前身は、東大生産技術研究所ですが、その前の戦時中は、何と、陸軍第一師団が置かれた所だったのです。

奇遇とはいえ、平和の重みを感じた次第。

六本木ミッドタウンを北上すると、もう赤坂です。

氷川神社にお参りしました。

ここは、備後三次藩邸があったところで、忠臣蔵の浅野内匠頭の未亡人、瑤泉院が、松の廊下事件の後に引き取られた実家だったそうです。

氷川神社は、八代将軍吉宗が現在の赤坂小学校あたりにあったものを移築したもの。

神社の裏手の本氷川坂の下に住んでいたのが、勝海舟。「氷川清話」の著作で有名ですが、最近は、「氷川の大法螺吹き」として、話していることの大半は、大嘘で、自分を偉く見せるために虚飾に満ちたものだ、という本を続けざまに読んで、多少なりとも、彼に対する評価に疑問を持つようになりました。

歴史そのものではなくて、歴史観は難しい。

独りではない

ローマ

公開日時: 2007年2月21日 @ 20:03

子曰く、徳 弧ならず、必ず隣有り。

(現代語訳)

老先生の教え。

人格のすぐれている人は、決して独りではない。

必ず(その人を慕ってそのまわりに)人が集まってくる。

大丸と松坂屋

ローマ


大手百貨店の大丸と松坂屋が経営統合を検討しているようですね。合併すると、売上高の総額は約1兆1600億円となり、首位の高島屋(1兆311億円)を抜いて、業界トップになります。


大丸(大阪市)は、享保2年(1717年)、京都・伏見に開業した呉服店「大文字屋」が前身で、全国に16店舗。松坂屋(名古屋市)は、慶長16年(1611年)、名古屋で開業した「いとう呉服店」が前身で、全国に9店舗あります。


百貨店の履歴について、今、たまたま読んでいる広瀬隆著「持丸長者 幕末・維新篇」(ダイヤモンド社)にもう少し詳しく書いています。


「大丸は、下村彦右衛門が、京都伏見に呉服店「大文字屋」を創業。将軍吉宗の時代にそれを2000坪の『大丸』に発展させ、江戸大伝馬町に進出した」とあります。大伝馬町は、伊勢商人など、豪商たちが競って、今で言うチェーン店を開店したところです。


松坂屋については、もう少し詳しく書いています。織田信長の「三蘭丸」の一人、伊藤蘭丸の孫の伊藤次郎左衛門が、今の名古屋市の茶屋町に呉服商を起こした、とあります。


この茶屋町を切り開いたのが、「京の三長者」の一人に数え上げられた茶屋四郎次郎の兄弟である茶屋新四郎で、尾張徳川家の御用達呉服師となった人です。京の三長者とは、金座の頭役の後藤家(大芸術家の本阿弥家と縁戚)と、帯座頭の角倉家(角倉了以ら。琳派の尾形光琳は角倉一族)、そして呉服商の茶屋四郎次郎の三家のことです。


茶屋家については、こう書かれています。


室町の将軍足利義輝が、呉服太物商、中島(中嶋)四郎左衛門のもとに立ち寄って、しばしば茶をすすったので、中島家は「茶屋」の屋号を名乗るようになる。中島四郎左衛門の息子、中島清延は、関が原の戦いの前から徳川家の戦略物資の調達商として活動し、本能寺の変の際には、武装していない家康の伊賀越えを先導して、窮地から救い出して、命の恩人となり、家康の隠密として暗躍する。この清延が、初代の「茶屋四郎次郎」を名乗る。


そういうことだったのかー。著者の広瀬氏は、いつも「ポッと出はいない」というのが、口癖でした。大丸も松坂屋も今、急にポッと出てきたわけではないのです。こういう歴史的背景があったとは知りませんでした。


「持丸長者」は日本の歴史を、経済戦略の面から捉えなおした画期的なノンフィクションで、本当によく調べています。武田信玄も、浅井長政も戦国時代の武将として、負けて消えてしまったと思いがちですが、彼らが残した遺産や血脈は、脈々と受け継がれているのです。これは、驚異的です。


また、追々、この本については紹介していきたいと思います。

情けない話

岡本綺堂の「半七捕物帳」はわずか70年前から90年前に書かれたものですが、現代人から見て、ほとんど意味が分からない言葉や死語が出てきます。

経師職(きょうじや)や回札者という職業も聞いたことがあっても、絵姿は見たことがありません。池鮒鯉(ちりゅう)様の御符売りという蝮蛇除けのお守りを売る人がいたということもこの本で初めて知りました。

辞書で調べれば出てくるでしょうが、「べんべら物」「柄巻」「山出しの三助」「堤重」などという言葉が何気なく出てきて、昔の人は、こういう言葉は辞書なんか引かなくてもすぐ分かったのだろうなあ、と悔しくなってしまいます。

ただ、次の文章は、よく分かりませんでした。「修善寺物語」など新歌舞伎の台本作者として名を馳せた綺堂のことですから、古典の素養を下敷きにしているのでしょうが、ちょっとお手上げでした。

半七親分と手先の松吉が春の桜時、鬼子母神前の長い往来に出たときのことです。

「すすきのみみずくは旬はずれで、この頃はその尖ったくちばしを見せなかったが、名物の風車は春風がそよそよと渡って、これらの名物の巻藁(まきわら)にさしてある笹の枝に、麦藁の花魁が赤い袂を軽くなびかせて、紙細工の蝶の翅(はね)がひらひらと白くもつれ合っているのも、のどかな春らしい影を作っていた。」(帯取りの池)

昔の人なら情景がパッと浮かんだことでしょうが、どうも、私なんぞは、言葉の一つ一つは分かるのですが、外国語を読んでいるような感じです。情けないので、正直に告白しました。

賢者とは?


賢者とは?
すべての人から学びうる人
強者とは?
自己の熱情を統御しうる人
富者とは?
自らの運命に満足を感じうる人
尊い人とは?
人間を尊ぶ人

ベン・ゾーマ

戦後マスメディア史 

ヴァチカン美術館


昨晩は、半蔵門の寿司店「門」で、後藤氏と会食。目の前で板さんが握ってくれて、味も雰囲気も申し分なし。「久兵衛」の五分の一ほどの値段で楽しむことができました。


終戦後になって、同盟通信出身の岡村二一が「東京タイムズ」を、松本重治が「民報」を、読売争議で退社した竹井博文が「日東新聞」を創刊する話などを伺う。東京タイムズは、その後、首都圏のクオリティーペイパーに発展しますが、経営難から徳間書店の徳間康快が買収し、その後、休刊します。そういえば、この辺りの「戦後マスメディア史」はまだ誰も手を付けていない領域で、まとまった書籍も出ていない。ちょっと調べてみようかと思いました。まずは、「隗より始めよ」なのかもしれませんね。


しかし、「西安事件」を世界的にスクープした松本重治氏一人をとっても、一筋縄ではいかない人物で、第一高等学校ー東京帝大法学部を出てから、イエール大学などに留学し、33歳でやっと新聞聯合社に入社してジャーナリストになった人でした。同盟通信編集局長で終戦を迎えて、退職し、戦後は国際文化会館の設立に尽力を尽くした人です。


今ではすっかり忘れ去れてしまった福沢諭吉の創刊した「時事新報」の存在も面白いです。銀座6丁目にある社交クラブ「交詢社」に時事新報の編集局があったようです。昭和初期の帝人事件の余波で、武藤山治社長が暴漢に射殺され、経営にも暗雲が立ちこめ、最終的には産経新聞に吸収されていきます。この吸収に一躍買って出たのが、戦前から「日本工業新聞」などを創刊して、産経新聞の社長になった新聞界の立志伝中の人物である前田久吉です。前田氏は「東京タワーを建てた男」としても名を残しています。


うろ覚えの記憶では、この東京タワーの建設地は、芝増上寺の敷地の一部でしたが、明治時代に、名うての料亭「紅葉館」があり、この名前をペンネームにしたのが「金色夜叉」の尾崎紅葉だったと思います。


経営難となった時事新報は、戦前の一時期に東京日日新聞(現毎日新聞)が梃入れしています。その関係で、時事新報が設立した「日本音楽コンクール」と、「大相撲優勝力士額掲示」は、毎日新聞が継承しているという史実も分かりました。


色々調べていくと面白いものです。


最近、体調が思わしくなく、公私ともに物事がうまくいかず、塞ぎこむ毎日でした。


後藤先生からは「『1に辛抱、2に我慢、3,4がなくて忍耐』だよ。最近の若い人は我慢が足りないんだよ」と諭されてしまいました。

儒教

ポンペイ

儒教の「儒」は、白川静博士によると、旁の上の「雨」は雨、その下の「而」は、顎鬚を表し、シャーマンだというのです。人偏は「人」を表しますから、シャーマンが雨乞いをしている姿を表しています。シャーマンとは、天上の神、魂などと、地上の人間とをつなぐ能力を持つ祈祷師のことです。

孔子(紀元前551-449年)は、魯国の昌平郷(中国山東省曲阜県)出身。父孔?(こうこつ)は下級武士、母顔徴在(がんちょうざい)は、祈祷や葬儀などを行う宗教集団「儒」の出身と推定されています。孔子は正式な結婚の子ではなく、三歳の頃に父親は亡くなり、母親に育てられたといわれます。

母親が宗教集団「儒」の出身であったという史実からも、儒教は、孔子が始めたものではなく、孔子が生まれるはるか以前からあったようです。仏壇に位牌を祀るのも、仏教ではなくて、儒教の風習だそうです。

ですから、儒教は道徳であって宗教ではないという説は間違いで、儒教の重要文献には、葬式や死者に対する儀礼の話が多く出てくるようです。

面白いことに、お釈迦さまが入滅したのは、紀元前477年頃と言われていますから、孔子とほぼ同時代人だということが分かります。

子曰く、学びて時に之を習う。

亦悦ばしからずや。

朋 遠方より来たるあり。

亦楽しからずや。

人 知らずして怒らず。

亦君子ならずや。

 

 

レオパルディ

ポンペイ

「大都会の人間たちは際限のない雑念に囚われ、さまざまな気晴らしに気をとられ、精神は否が応でも浮薄と虚栄に向かわせられ、内的な悦びを感じることが難しい」

このような寸鉄釘を刺すような警句を書いた人は誰かご存知ですか?加藤周一?丸谷才一?大岡昇平?はたまた、バーナード・ショー?ジョージ・オーウェル?

正解は、19世紀の作家で詩人のジャコモ・レオパルディ(1798-1837年)でした。

伯爵家に生まれた早熟の天才で、わずか15歳で「天文学の歴史」を刊行し、風刺的なエッセイを数多く残し、喘息の発作で39歳で亡くなりました。私は知らなかった、というより、忘れていたのですが、夏目漱石(「虞美人草」)、芥川龍之介(「侏儒の言葉」)、三島由紀夫(「春の雪」)ら多くの日本の作家にも影響を与えています。

1月14日付の毎日新聞の書評欄で知ったのですが、取り上げられた彼の詩集「カンティ」(脇功、柱本元彦訳)(名古屋大学出版会・8400円)(富山太佳夫氏評)は、半年以上前の昨年の5月に刊行されたものです。これは、初の原典からの完訳だそうです。数ヶ月もすれば、すぐ書店の棚から消えてしまう昨今の新刊本の宿命にしては、随分と息の長い書評の取り上げ方ぶりです。(毎日の書評欄は、日本一だと思っています。)

ネットを検索すると、熱心な方がいらっしゃるもので、「ウラゲツ☆ブログ」さんによると、日本で初めて、レオパルディが翻訳されたのは大正9年(1920年)12月に刊行された「大自然と霊魂との対話」(1827年版の散文集「オペレッテ・モラーリ」の完訳)で、これは、訳者の柳田泉氏(1894-1969年)が英訳本から重訳したそうです。逆算すると、26歳で翻訳しているのですね。柳田氏は訳者序で「レオパルディの名前は夏目漱石の『虞美人草』を読んで知った」と書いています。

「物知り博士」漱石は英訳で読んでいたのでしょうか。いずれにせよ、「思想の連鎖」のようなものを感じます。

バロン西の特別展ー北海道本別町

エゾリス


映画『硫黄島からの手紙』でも登場したバロン西こと西竹一陸軍中佐(42歳で戦死)の特別展が北海道本別町の町歴史民族資料館で今年7月にも開催されるという記事を読みました。


バロン西は、薩摩出身の男爵の三男として東京で生まれ、1932年のロサンゼルス五輪の馬術競技で金メダルを獲得したことで有名です。1939年3月から1年余り、陸軍の幹部として本別町仙美里にあった軍馬補充部十勝支部に勤務していたことから、同町資料館の瀬藤範子館長が、バロン西の長男の西泰徳氏に展示品の拝借を依頼をしたところ、快く遺品を貸与してくれたそうです。


本別町と聞いて大変懐かしくなりました。「日本一の豆のまち」として売り出しています。高橋正夫町長さん元気でしょうか?機会があれば、また行ってみたいですね。


1932年のロサンゼルス五輪といえば、もう既に、75年も昔になってしまいましたが、当時の五輪を舞台にした青春小説「オリンポスの果実」(田中英光)を思い出します。田中英光は、早稲田大学の学生時代にボート部選手として、オリンピック代表になっています。彼は、その後、小説家として太宰治に師事し、太宰が自殺した後、自らも太宰の墓前で自殺しています。この小説の中で、Kというオリンピック代表の体操選手が登場します。その人は、25年ほど前に日本体操協会会長だった近藤天氏から、直接「あの中に出てくる『K』は、僕のことだよ」と聞いたことがあります。


バロン西も硫黄島も、遠い歴史の物語ではなく、何か身近に感じてしまいます。