浅野内匠頭終焉之地

今日は、霞ヶ関ビルにある病院に行った帰りに、「雑穀」という店にランチをしてきました。創作和食料理と言えばいいのでしょうか。以前、三重県に住む友人から「暇があったら寄ってみてください」とメールがあり、一度行ってみたのですが、大変評判の店らしく、午後1時を過ぎていただけなのに、既にランチは売り切れていました。友人はインターネットでみて、素材から有機野菜を使い、「健康食品」にこだわりを持つ店ということで推薦してくれたのです。

今日は、正午前だったので、大丈夫だろうと、勇んで出かけたわけです。評判に違わず美味でしたね。いわしのフライとトマト野菜添え、白菜と豚肉のスープ、豆などの前菜、8種類の雑穀ご飯に味噌汁で950円。辛くもなく、甘くもなく、それでいて薄味でもなく、ヴィネガーが効いて、旨みのある料理といったらいいでしょうか。お茶は、紙コップに入った「健康茶」でお持ち帰りができるようになっていました。

お奨めです。といっても場所が分からないでしょうから説明しておきます。JR、地下鉄の新橋駅から虎ノ門方面に5分くらい歩くと「田村町」交差点に着き、その右角の「新日本石油」本社の右裏手にあります。

さて、田村町と書きましたが、今はこの町名はありません。西新橋1丁目とか言うのでしょうか。田村町の名前はどこから来たのか、分かりますか?ここに田村右京太夫のお屋敷があったからです。ここで、あの「忠臣蔵」の浅野内匠頭が切腹させられたのです。この辺りに、史蹟の碑があったので、探してみました。日比谷通りを浜松町方面に向かって歩き、2丁目、3丁目…阪急交通社の前を通ってもまだありません。4丁目の交差点近くでやっと見つけました。

「浅野内匠頭終焉之地」

【史蹟】

旧・田村右京太夫屋敷跡にして 元禄十四年三月十四日に浅野内匠頭の自刃せし所なり

辞世

風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を 如何にとやせん

碑は紀元二六〇〇年 建立

とありました。

硫黄島の真実

十勝岳


「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」の硫黄島2部作を映画化したクリント・イーストウッド監督のおかげで、硫黄島が全世界的に脚光を浴びるようになりました。


東京新聞の特報欄は、大袈裟に言えば、日本のジャーナリズムの中で、小生が最も愛読する欄なのですが、今朝の特集は「当時17歳 通信兵が語る 硫黄島の真実」でしたので、むさぼるように読んでしまいました。当時、志願して海軍通信兵となった秋草鶴次さんは、まさしく、私の母親の同年齢ですし、今年亡くなった作家の吉村昭さんらも同世代です。


この中で、一番衝撃的だったのは、秋草さんの、「米軍による攻撃に加え、飢えと渇き、負傷で極限にまで追い込まれた日本兵同士の殺し合いが起きた」という証言です。私のような戦後生まれの人間にとって、戦前、戦中の日本人は、全く我々とは異質で別次元に生きてきたような教育を受けてきたと錯覚していたのですが、あに図らんや、我々戦後世代とまったく同じだった、という至極当然の真実に突き当たったということです。そういえば「硫黄島からの手紙」の中で、イーストウッドは、上官に反目する大日本帝国陸軍の幹部を登場させていて、随分、誤解と偏見に満ちているなあと思ったものですが、秋草さんの証言によれば、イーストウッドの描き方の方が正しかったわけです。


例えば、当時の人たちは、「教育勅語」や「軍人勅諭」によってがんじがらめになって、全く「思考停止」状態で、上官の命令に対しては、無自覚、否応なしに関わらず、服従していたとばかり思っていたのですが、秋草さんの証言では、「軍の階級や指揮系統は全く機能せず、『弱肉強食』の世界になった」というのです。これには、驚きました。もう少し整然とした、毅然とした階級社会が存在していたものとばかり思っていたのですが、いざとなれば、人間はすべて本性が現れるものだという救いに近い真理を目の当たりにすることができたのです。


この記事によりますと、硫黄島での1ヶ月以上に及ぶ戦闘で、日本軍2万1千人の兵のうち、総指揮官の栗林中将をはじめ、約2万人が死亡。米軍は約6千800人が死亡し、約2万人が負傷したというです。


この戦闘で、2万6千人の戦死者がでたということは知っていましたが、そのうち日本人が2万人だったとは。いまだに、硫黄島の土となったまま、帰還しない遺骨が1万柱以上あると聞きます。


硫黄島は「いおうじま」と発音すると思っていたのですが、東京新聞の一週間くらい前の紙面で、演出家の鴨志田氏は「当時は、『いおうとう』と呼んでいた」と訂正しています。


あれからの日本は、どれくらい変わったのでしょうか?阿部慎三さんは教育基本法を改正し、志願しやすい美しい国を作ろうとしてますし、アメリカを真似して国家安全保安局を創設したり、日本版CIAをもくろんだりしています。


あんまり変わっていないということです。


 

アジア女性交流史


山崎朋子さんの「アジア女性交流史・昭和初期篇」の連載が月刊誌「世界」(岩波書店)1月号から始まりました。第一回は「二つの人身御供婚(上) 李方子と愛新覚羅浩」。連載は2年間続くそうです。


朝鮮李朝の皇太子英親王(ヨンチンワン)李垠(リウン)と、日本の皇族梨本宮の長女方子(まさこ)との結婚、満州国の皇帝の弟溥傑(プージュ)と、昭和天皇の御后候補でもあった嵯峨宮の娘浩(ひろ)との結婚が取り上げられ、いずれも大日本帝国による政略結婚であったことを明らかにしています。


英親王李垠には朝鮮に閔甲完(ミンカブワン)という聡明な婚約者がおり、溥傑には、唐怡瑩(タンイーイン)という妻がいましたが、二人とも強制的に別れさせられた悲話も明かされています。


「政略結婚」については、ある程度知っていたのですが、婚約者や妻が離別させられた話までは知りませんでした。本当によく調べ尽くしていると思います。


山崎さんは「書くのは苦しくて苦しくてしょうがない」と私に本音を明かしてくれました。まるで、夕鶴が自分の羽をちぎって織物を織っているような感じではないでしょうか。


一人でも多くの方に読んで戴きたいなあと思い、ブログに記しました。

「硫黄島からの手紙」

クリント・イーストウッド監督の硫黄島2部作の「硫黄島からの手紙」を丸の内ピカデリーで見ました。既にニューヨークの全米映画批評会議とロサンゼルスの映画批評家協会の最優秀賞を獲得し、来年のアカデミー賞の有力候補でもあります。

第一部の「父親たちの星条旗」より、人物描写がしっかりしていて断然、面白かったですね。日本人だからかもしれません。でも、この映画、アメリカ人の監督によるハリウッド映画であることをすっかり忘れさせてくれます。よくぞ、ここまで、日本と日本人について調べ上げて描いたものだという感嘆と、よく、あそこまで、アメリカ人の恥部ともいえるような描写をカットせずに上映したものだという驚嘆の2つがありました。

日本のことについては、台詞の中で「靖国で会おう」とか、「武運長久で」などと出てきます。英語でどう訳されているのか知りたいくらいです。弾避けのおまじないの「千本針」で縫った腹巻も登場しますが、アメリカ人の観衆は理解できたのかしら。

アメリカの恥部とは、戦場で、米兵が日本人の捕虜を持て余して射殺してしまうシーンです。普通、こんな卑劣な場面はわざわざ取り上げないか、隠してしまいますよね。一方で、日本側では、1932年のロス五輪馬術競技の金メダリスト「バロン西」こと西竹一中佐(伊原剛志)が、負傷したアメリカ兵を手厚く手当てさせて、優しく英語で話しかけるシーンを織り込みます。主人公の栗林忠道中将(渡辺謙)も米国経験があり、その言葉遣いからして、ジェントルマンシップの格好いいこと!無様な「やらせ」の旗揚げ兵士たちが主人公だった「父親たちの星条旗」と比べ、何か、日本の方を贔屓目に描いているような気がしてなりません。

こんなんでいいのかなあ、というのが正直な感想です。(もちろん、戦場でボロボロと無残に殺されたり、自決したりしている日本兵を見て、涙なしには見ることができませんでしたが)

これで、アカデミー賞でも受賞したらもっと株をあげるでしょう。色々批判されている超大国アメリカですが、何と言っても「自由の国」アメリカの懐の深さを痛感させてくれます。

 

レディーフィンガー山

以前、このブログで紹介したことがある「ガルーダとナーガ」http://blog.goo.ne.jp/keiryusai/d/20061105に登場する山本悦夫さんから、綺麗な山々が載った彼のブログを紹介されました。初めて見る景色でした。

あまりにも綺麗なので、勝手にリンクさせてもらいました。

 メールの説明文として

「今、パキスタンのガンダーラから中国との国境に向かっているところです。ヒマラヤ、カラコルム、ヒンズークシュ山脈などを眺めながら中国の新彊、タクラマカン砂漠の方に出ます。5000メートルに近いクンジュラブ峠を越えれば中国です」と書かれています。

ご興味のある方は、下をクリックしください。

http://garudatengu.no-blog.jp/index/

満洲秘話

ヴェニスにて


昨晩は、友人のT君と北浦和の居酒屋「和民」で痛飲。安いチェーン店なのに、越乃寒梅をしこたま飲んだら、目の玉が飛び出る金額を請求されてしまいました。


T君とは、学生時代からの付き合いなのに、話が尽きません。昨晩、彼の両親のことを聞きました。二人とも、戦時中に満洲に居たというのです。初めて聞く話でした。母親は彼が中学3年生の時、病気で亡くなり、父親ももう10年以上前に亡くなりました。


母親が本当に謎だらけの人で、本名でさえ、家族のものに明かさなかったというのです。父親は昭和4年生まれで、「私は一歳上の年上女房よ」と家族に公言し、「けいこと呼ばれているけど、本名は辰子なのよ」と話していたそうです。1歳上なら昭和3年生まれになり、その年は、辰年なので、それが、真実だと思われていました。それが、亡くなった時、戸籍を調べたら、大正15年生まれだったのです。もともと、長崎出身でしたが、長崎から船に乗って神戸に着き、それから、流れ流れて三重県に辿り着き、彼の父親と知り合うのです。その間に、満洲にも居たらしいのですが、真相は不明です。


彼の父親は、満鉄(南満洲鉄道)に勤めていたそうです。年齢を逆算すると、15,6歳ですから、少年の下働き仕事だったと想像されます。そこで、日本人の残虐性を目の当たりにしてしまったそうです。「人間、ここまで、苛烈に残酷になれるものなのか!?」と衝撃を受け、その後の彼の人生を貫く虚無感が形成されてしまったようです。何の罪もない中国人を捕まえてきては、新兵に「試し斬り」をさせたり、婦女子を強姦したりする日本人を沢山みてきたそうです。墓穴掘りまでさせられたそうです。


私も満洲に大変興味があり、沢山の本を読んできましたが、ここまで、リアルに語った話は読んだことがありませんでした。「大東亜共和圏」だの「五族協和」だの高邁な精神だけは叫ばれましたが、実態はこういうものだったのですね。また、「自虐史観」だと批判のコメントが書かれそうですが、こういう無名の人の話を無視してきた、強者からだけ見た歴史には私自身は疑問に思っています。

「江戸ウォーキング」

ミラノ

本屋で「江戸ウォーキング」(JTBパブリッシング)という面白い本を発見し、つい買ってしまいました。

「江戸城のおもかげを残す外濠と城門めぐり」「大名屋敷連なる目白台から音羽、雑司ヶ谷へ」など46のコースが掲載されています。明細地図のほか、所要時間、歩行時間、交通(料金)も載っているので、「散歩」の目安になります。交通料金は、ほとんど「徒歩のみ0円」と書いてあるので、嬉しくなってしまいます。

いい本ですよ。この本を持って、暇を見つけて出かけるつもりです。その際は、写真付きでご紹介しますね。

アジア民族造形ネットワーク

トムラウシ


先日の山本さんの講演会「ガルーダとナーガ」に出席されていたアジア民族造形文化研究所の金子量重所長から、同学会の会誌を送っていただきました。


金子所長は、アジア民族学の世界で、知る人ぞ知る大人物で、アジア各国の民族資料を幅広く私費で収集し、九州国立博物館をはじめ、韓国国立中央博物館、ベトナム民族学博物館などにも個人のコレクションを「寄贈」しておられます。


アジア民族造形ネットワークを立ち上げた金子所長は「政治家や官僚たちは欧米かぶれが多い上に、『アジア識らず』のひどさに私は日本の未来に大きな不安を感じた。世界60億のうちアジアには40億近く諸民族が住み、国際情勢に照らしても『21世紀はアジアの時代』なのだ。かかる重要なアジア認識を怠った失政が、今政治や外交上重大な局面を迎えている…」と、同誌で怒りに近い心情を吐露されています。


私なんかも、アジアの文化については本当に不明を恥じたいくらい良く知りません。例えば、朝鮮の民族衣装であるチマ・チョゴリのチマはスカート、チョゴリは上衣であることを初めて知りました。チマの下にバジ(ズボン)をはいていた時代があり、古くは騎馬遊牧民であったことの証ではないか、と推測しています。


金子所長の言葉は、肝に銘じたいと思います。

ガルーダとナーガ

銀座・和光


昨日は、「インドに行こう」などの著書がある山本悦夫さん(アジア民族造形文化研究所教授)をゲストにプレスセンター9階で開催された「おつなセミナー」に列席しました。8月末で渋谷のおつな寿司がなくなってしまい、プレスセンターに会場が変更になって3回目ですが、私はプレセン初参加。寿司屋の2階で車座になってワイワイやっていたのと違い、机と椅子にきっちりと座って、何か会議のような感じで、随分堅苦しくなってしまいました。


銀座・和光


テーマは「ガルーダとナーガ」。山本さんとはもう10年以上前にお見知りおきを戴き、ご自宅にまで遊びに行ったこともあり、その度にガルーダの話はうかがっていました。でも、正直、どうもイメージが湧かなかったのですが、今回、スライドを沢山見せていただき、初めて、ガルーダとは何か、大まかなことを攫むことが出来ました。


インドネシアにガルーダ航空があるくらいですから、私自身、ガルーダの発祥地はインドネシアなのかと思っていたのですが、その歴史的起源は何と、今から約5000年前、紀元前3000年頃のメソポタミアにまで遡るというのです。「鳥」と「蛇」を、対立する宇宙の二大要素とする哲学思想が生まれました。大雑把に言って、「鳥」は天と空を支配し、遊牧する民の守護神となる。「蛇」は大地と水を支配し、漁撈や農業に従事する民の守護神として崇められる、といった考えです。


この「鳥」がガルーダ、「蛇」がナーガというわけです。この思想は、神話として、東へには、インドに伝えられ、ヒンドゥー教や仏教にまで取り入れられ、東南アジア、中国、韓国を通って、日本にまで伝えられます。西へは、ギリシャ、ローマに伝わり、それがヨーロッパ全体からアメリカ大陸にまで伝播していくのです。


インドでは、ナーガ(蛇)は、カスパヤ神の第一夫人カドルの子供。ガルーダ(金翅鳥)は、カスパヤ神の第三夫人ヴィナタの子供。カドルとヴィナタは姉妹なので、ガルーダとナーガは異母兄弟となります。


ヒンドゥー教では、ガルーダは、ヴィシュヌ神とラクシュミの乗り物ということにもなっています。このヴィシュヌ神とラクシュミは夫婦で、ヴィシュヌ神は仏陀、ラクシュミは吉祥天と言われています。


ついでながら、仏教では、ガルーダは迦楼羅(かるら)と呼ばれ、奈良県興福寺に、頭の部分が鳥で胴体が人間の迦楼羅像があり、京都の教王護国寺の胎蔵曼荼羅にも右下に二体、迦楼羅が描かれています。ナーガは、摩睺羅迦(まごらか)です。


日本では、この迦楼羅は、修験道として天狗の元祖になったという説もあります。


見えてきました


西に伝わったガルーダは、ギリシャ神話で、ヘルメスの持つ杖(ケリュケイオンまたの名をカドゥケウスhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3



 


となります。ヘルメスは最高神ゼウスとマイアの子で、旅人や商業の守護神です。この「商売の神様」ということをよく覚えておいてください。



 


ヘルメスは、ローマ神話ではメリクリウスとなり、英語のマーキュリーとなります。このマーキュリーは水星とか水銀という意味で使われますね。中世の錬金術書に「ヘルメスの勝利」という本がありますが、何か関係がありそうです。



 


ガルーダとナーガのアイコンには、鳥のガルーダが蛇のナーガを食べようとしたり、ナーガがガルーダに巻きついたり、しています。互いに争っているようですが、異母兄弟なので、殺し合いにまでは発展しません。どちらも善にも悪にもなるという二面性があるわけです。


ガルーダとナーガは、中国では、「鳥と蛇」が「鳳凰と龍」になります。この思想も、日本に入ってきました。


また、日本神話に登場する八咫烏(やたがらすhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%92%AB%E7%83%8F)と神社の注連縄は蛇を連想するということで、これらの関係も今後の研究課題になりそうです。


さて、明治以降、西欧思想を積極的に取り入れた日本に、ガルーダは、ヘラクレスの杖、つまり、「商売の神様」として、本来のメソポタミアの思想やインド思想とはかけ離れた形で取り入れられました。


 あった!「ガルーダとナーダ」だ!


一橋大学の前身は、初代文部大臣森有礼が創設した私塾「商法講習所」、後の商業高等学校です。ですから、校章にガルーダとナーダが使われています。もっとも、同大学ではこの校章を「マーキュリー」http://hit-u.ac.jp/guide/other/emblem.html と読んでいますが…。

インド、東南アジアには何十回にも出掛けている山本さんの、フィールドワークには頭が下がります。日本橋の「三越」本店や、銀座4丁目の「和光」にもこの「ガルーダとナーダ」のマークを発見して写真に収めています。私も早速、和光のマークを見てきました。こんな身近な所に「商売の神様」がいたとは夢にも思いませんでした。

最後に1つ。私の見解です。


ガルーダの鳥は、概ね「鷲」をさすそうです。インドネシアやタイの国章にガルーダが使われていますが、鷲といえば、アメリカ合衆国の象徴であり、米国の国章にもなっています。さて、ガルーダの発祥地は、メソポタミアです。メソポタミアは、現在のイラクのことです。ガルーダが究極的に行き着いたアメリカが5000年後の21世紀になって、大本のイラクを爆撃して支配しようとするなんて歴史の皮肉に思えませんか?

 

 

 

「父親たちの星条旗」

クリント・イーストウッド監督の話題の映画「父親たちの星条旗」を丸の内ピカデリーで見てきました。

新聞も雑誌も大きく取り上げ、辛口の映画評論家も満点に近い評価を与えていたので、大いに期待して見に行ったのですが、正直、無名の俳優を採用したせいか、登場人物と名前がほとんど一致しなくて、困ってしまいました。そういうことに触れた評論家は一人もおらず、「彼らはやはりタダで見て勝手なことを言ってるんだなあ」と再認識しました。

もちろん、この映画に取り組んだクリント・イーストウッドの勇気と業績はいささかも揺るぎのないものであることは変わりはありません。

これまでの戦争映画といえば、「正義の味方」アメリカが、悪い奴ら(日本やドイツ)を懲らしめて、苦しみながらも勝利を収めるといった「予定調和」的な作品が多かったので、観客(もちろん連合国側の)は安心して見ていられたのです。しかし、この映画に登場する戦士たちは、何と弱弱しく、あまりにも人間的に描かれていることか。兵士たちも当時20歳前後の若者たちが多かったせいか、登場する兵士たちも皆、少年のようにあどけなく、戦場では恐怖におびえて、子供のように泣き叫んでいる。硫黄島で米軍は、約6800人が戦死し、約2万1800人が負傷したということですから、実態に近い描き方だったと思います。

主人公のブラッドリーが凱旋演説で「本当のヒーローは(硫黄島の擂鉢山に星条旗を揚げた)我々ではなく、戦場で死んでいった戦士たちです」といみじくも発言した通り、ヒーローに祭り上げられて生き残ったインディアン系のアイラは、死んだ戦友たちに対する申し訳ないという悔悟の念で、アル中が遠因で不慮の死を遂げたりしてしまうのです。

この映画では、星条旗を揚げたヒーローたちが、戦時国債を売るための「人寄せパンダ」に利用され、最後はボロ衣のように捨てられてしまう有様を冷徹に描いています。そこでは、登場人物に対する感情移入ができなければ、カタルシスもありません。かつてのハリウッド映画が避けてきたような題材です。それを態々、映画化したクリント・イーストウッドの勇気には感服しました。

12月には日本側から硫黄島の戦いを描いた「硫黄島からの手紙」が公開されます。予告で見ましたが、こちらの方が面白そうです。もちろん、見に行きます。