モーツァルトの奥方

写真の左の女性が、今年生誕250年を迎えたモーツァルトの奥さん、コンスタンツェだそうです。

驚きました。

AFP通信が全世界に配信したもので、写真は1840年10月に撮影されたもので、コンスタンツェは当時78歳。この2年後の1842年に他界したそうです。

コンスタンツェは、夫のアマデウス・ヴォルフガンクが1791年に35歳の若さで死去した後、デンマークの外交官と再婚し、写真の右隣のスイス人の作曲家のマックス・ケラーの自宅(ドイツ南部のアルトエッティング)を度々訪れていたそうです。

それにしても、写真で見ると、随分身近に感じてしまいますね。

コンスタンツェは、若い時から病気がちでしょっちゅうバーデンバーデンまで湯治に出かけ、悪妻ということで後世に伝えられていましたが、当時としては長生きした方でしょう。29歳で寡婦になったとはいえ、再婚していたことまでは知りませんでした。確か、モーツァルトとの間の子供はすべて夭折したはずです。

生誕250年祭の商業主義に踊らされているようで、嫌だったのですが、またモーツァルトをガンガン聴きたくなりました。

甘粕正彦


「週刊新潮」で先々週から連載されている「満州の夜と霧 第2部 甘粕正彦ー乱心の曠野」は本当に面白いです。著者は、佐野眞一さん。第1部の阿片王・里見甫に続く満洲ものの第二弾ですが、歴史の中に埋もれていた新事実を発掘して、なかなか読ませます。


甘粕といえば、関東大震災のドサクサに紛れて、無政府主義者の大杉栄らを惨殺して、刑に服し、恩赦で満洲に渡って、満州映画協会の理事長に納まって、敗戦直後に服毒自殺して果てる、といった浅薄な予備知識しかなかったのですが、なかなか一筋縄ではいかない人です。


第一、最初から、甘粕は本当に自らの手で大杉を殺害したのか?-といったミステリーじみた話から始まっています。(大杉は柔道黒帯有段で、体格的に劣る小柄な甘粕がいきなり一人で手をかけることができるかどうか今でも疑義をはさむ歴史家もいます)


甘粕という名前も非常に変わっていると思ったら、戦国時代の武将に遡る名門で、兄弟親族関係で軍人幹部になったり、大企業の幹部に出世している人が多い。社会学者の見田宗介氏が親戚だったということも初めて知りました。とにかくよく調べています。


いずれにせよ、満洲では、里見甫をはじめ色んな人と接点があった人です。満洲に行ったのも、恐らく、「二キ三スケ」の一人、東條英機の引きだったのでしょう。


「甘粕事件」が起きた時、殺害された大杉は38歳、甘粕大尉は32歳だったのですね。意外に若かったので、驚いてしまいました。


満洲は調べれば調べるほど面白いです。過ぎ去った昔の出来事として済ますことはできませんよ。


何しろ、「二キ三スケ」の一人で昭和の妖怪と言われた男の孫が、日本国家の最高権力者に着こうとする時代になったのですから。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD

世の中のこと

幕別町札内


今日、電車の中で「あっちに行って下さい」と若い人に言われました。


別に、ほんの少し肩が触れただけだったのですが、肩を触れることぐらいは、東京の通勤電車では当たり前の話です。


私より、15歳くらい若い感じの人でした。


うーん、勇気があるのか、全く純粋な方なのか、どちらかでしょう。


どういうわけか、私は冷静でいることができました。


昨晩、格闘技家が、素人に殴られたことがニュースになりました。プロの格闘技家なので、反撃せずに「素人には手を出してはいけないと思った」と言います。加害者の方も「相手がプロの格闘技家だとは思わなかった」と青ざめたそうです。それはそうでしょう。もし、格闘技家が本気で反撃していたら、加害者の命はなかったでしょう。冷静になれることが、真の格闘技家たる資格を持てるのでしょう。


今の若い人は、自己中心的とよく言われます。他人を思いやるとか、「惻隠の情」だとか、「阿吽の呼吸」とか、全く通用しない世の中になったのでしょうか。


そういう世の中なら、そんなものはもう相手にしたくはありませんね。


 

四大文明、恐るべし

池田町スピナーズファーム


また「週刊文春」から孫引きします。立花隆氏の「私の読書日記」から。


ユダヤ教、キリスト教の歴史的思想的起源は、エジプトをルーツとする「グノーシス主義」に求められる。ユダヤ族の太祖のアブラハムは、名門ファラオの家系のエジプト人。出エジプトを指導したモーセもエジプトの名家の出。一神教の起源は、モーセの少し前のファラオ、アケナーテンが一神教(太陽神アテン崇拝)の教えの延長。


これは、ティム・ウォレス=マーフィー、M・ホプキンス共著「イエスの血統」(青土社)に出ているそうです。


やはり、人類の四大文明の発祥地は、恐るべしです。


四大文明とは、中国、インド、イラク、エジプト。


21世紀になって、再び脚光を浴びはじめた気がします。


 


 

ああ、レイテ島…

幕別町札内

「週刊文春」6月1号に載った「『厚労省遺骨集団』は『英霊の遺骨』を見捨てていた!」を読んで大変な憤りを感じています。

簡単に内容を説明するとー。

旧日本軍の戦没者は240万人といわれているが、まだ124万柱の遺骨しか収集していない。例えば、フィリピンのレイテ島では、8万人以上の日本軍兵士がほぼ全滅したのだが、戦後60年も経つというのに、まだほとんど回収されず、とうもろこし畑に散骨され、畑のこやしになっている。それなのに、厚生労働省の2002年の白書では「遺骨収集はおおむね終了」と発表している。厚生労働省は現在、戦没者の遺族らの作る民間団体に遺骨収集を任せているが、最近になって、フィリピン大学のフランシスコ・ダダール教授に遺骨の「鑑定」を任せるようになった。ダダール教授は「これは、日本人の遺骨ではない。フィリピン人の遺骨だ」などど、取捨選択しているが、その鑑定の仕方は単なる目視。つまり、カンで行っていたわけだ。ダダール教授は、単なる考古学者で法医学の専門家ではない。「私がやっていることは、当てずっぽうです」と告白しているくらいだ。

こうして、日本兵と思われていた遺骨もダダール教授のおかげで、「帰国」できなくなってしまったようなのです。要するに厚生労働省が遺骨収集事業から一刻も早く手を引きたいという目論みがミエミエです。

週刊文春も「こんなデタラメな鑑定士を雇い、戦没者や遺族を愚弄する厚労省の責任は限りなく重い」と追及していますが、この記事を後追いした新聞がないのも腹が立ちます。

レイテ島といえば、私の父親の叔父に当たる茂期さんという人が34歳でそこで戦死しています。彼は昭和7年頃から、新宿にあった「ムーラン・ルージュ」という劇場で、高悠司というペンネームで劇作家として活躍したそうです。この大叔父のことを思うと、今回の記事は他人事にはとても思えません。

本当に腹が立ちます。

「三丁目の夕日」★★★★

話題の映画「Always 三丁目の夕日」(山崎貴監督)を見に行ってきました。自分自身も昭和三十三年の東京にタイムスリップしたような感じで大いに泣いて、笑いました。
原作は西岸良平の漫画「三丁目の夕日」。小学館のコミック雑誌に1974年から連載開始したということですから、もう30年以上も熱心なファンに支えられています。単行本も50巻くらい出ているらしく累計で1400万部に上るというのですから、驚きです。

いい映画を観ると、人にしゃべりたくなるのですが、この映画は本当に何でもしゃべりたくなるほど面白かったです。主演は、三流作家の茶川竜之介役の吉岡秀隆、「鈴木オート」の社長、鈴木則文役の堤真一、その妻トシエ役に薬師丸ひろ子、居酒屋「やまふじ」のおかみ石崎ヒロミ役の小雪と、芸達者がそろいましたが、子役が本当にいい。鈴木オートの一人息子、一平の小清水一輝、淳之介の須賀健太ら本当に驚くほど自然な演技で、思わず感情移入してしまいました。

ストーリーを明かすのは違反なのでやめますが、昭和三十三年の東京の下町、夕日町三丁目の商店街が舞台で、青森から集団就職で、一人の少女、星野六子(堀北真希)が自動車修理工場の「鈴木オート」にやって来るところから物語が始まります。東京タワーが建設中だったり、力道山のプロレスに興奮したり、当時の時代背景が濃密に描かれています。

CG技術の進歩で、昭和三十年代の上野駅や蒸気機関車などが再現されて、本当に感心してしまいました。山崎監督の御手のもので、これらの技術を最近、VFX(visual effects)というらしいですね。三、四年前に見た「スパイ・ゾルゲ」で戦前の銀座などがCGで再現され、驚いてしまいましたが、今回は、変な言い方ですが、CGとは思えないくらい精巧でした。

昭和三十年代に子供時代を送った私としては、この映画は涙なしでは見られませんでした。「懐古趣味」と言われれば、胸を張って「その通りです」とお答えします。子供時代が楽しかったのは、高度成長期という時代が面白かったのですね。今日はお家に冷蔵庫が入った、今日はテレビ、明日は、自動車を買った…と本当に、毎日が充実していた気がします。

長くなるので、この辺でやめますが、我が家に初めて車を買った日を覚えています。父親が買った「スバル360」で、本当に中古で、すぐエンストしていました。3万円くらいだったのでは。

いずれにせよ、昔は「邦画は洋画に劣るのではないか」という変な脅迫観念に駆られていたのですが、この映画を見ると、派手なアクションと大袈裟なドラマ仕立ての作り物の薄っぺらい洋画なんて大したことがないと、確信できました。感動の度合いが違うと言っていいでしょう。

邦画製作関係の皆さん、大いに自信を持ってください!

「信長の棺」の加藤廣さんの出版記念会

今日は、あの小泉首相も絶賛した「信長の棺」を書いた加藤廣さんの出版記念パーティーに行ってきました。(東京・内幸町のプレスセンター)

60人くらい集まりましたかね。驚いたことに、小泉さんからも祝電が届きました。「内閣総理大臣」ではなく「自由民主党総裁 小泉純一郎」としてです。噂では、小泉さんは、「内閣総理大臣」の名刺も持たないそうです。悪用されたくないからだそうで、面会して名刺をもらった人には、帰り際に、相手の名刺をお返しするそうです。自分の名刺を出さないからです。

小泉さんとは、6年前に一度会ったことがあります。もちろん、無任相の時です。その時は名刺をもらいましたが、「衆議院議員」という肩書きでした。

おっと、加藤さんの出版記念パーティーの話でした。

司会者は、目下、IT企業に買収されかかっている放送局の部長さん。彼は、何の前触れもなく、私に挨拶の指名をしてくるのです。何も考えていなかったので、北海道でも、話題になって結構売れていること。飛行機で東京に来た際、隣の席の人が,『信長の棺』を呼んでいたこと、などを話しました。急には無理ですよね。

加藤さんは75歳です。遅咲きも遅咲きですが、小学校から作家を目指していたそうです。旧制六中、現在の都立新宿高校から東京大学法学部を卒業し、「生活のために」銀行員から経済コンサルタントに転じて成功した人ですが、やはり、小説家の夢を捨てませんでした。

『信長の棺』は、20年前に構想し、最初の書き出しと、最後の締めを思いつくのに、10年も試行錯誤し、それが決まったら、中身はすらすらと3年くらいで書いたそうです。あ、まだ読んでいない方は、面白さは分からないですね。

現在、ハードカバーの単行本は1万部売れれば「成功」なんだそうですが、『信長の棺』は目下、16万5千部も売れているそうです。「今年の話題作」になることは間違いないでしょう。

加藤さんは、来年3月にも第2弾の小説を発表するそうです。今度は、豊臣秀吉の話だそうです。まだ他に、明智光秀に関する本も出すようで「これから、直木賞を目指したい」と話していました。

何しろ、75歳にしての作家デビューです。私も加藤さんから勇気と希望をもらって、帰路に着きました。

日本はなぜ戦争に負けたのか?

 月刊「文芸春秋」11月号が、「日本敗れたり あの戦争になぜ負けたのか」を特集しています。半藤一利(作家)、保阪正康(ノンフィクション作家)、中西輝政(京大教授)、福田和也(文芸評論家・慶大教授)、加藤陽子(東大助教授)、戸高一成(大和ミュージアム館長)の6氏が徹底的に討論して、総括しています。

 印象に残った箇所を換骨奪胎で引用します。

●太平洋戦争に関する限り、侵略戦争ではなく、「自存自衛」のための防衛戦争だった。

●海軍はミッドウェーをはじめ、損害戦果については、一緒に戦っていた陸軍にさえ、本当のことを教えていなかった。お人好しのところがある陸軍はそのまま信じて作戦を何度か変更した。この行為は国賊ものだ。

●陸軍参謀本部は、物量作戦を重視していたにも関わらず、実際の戦争では補給を無視した。特に太平洋の島々では補給が途絶えれば、部隊の大半は病死か餓死してしまう。実際、昭和19年以降、二百万近くの兵隊が命を落とした。餓死は、全戦死者の70%を占めた。

●軍令部総長の永野修身と山本五十六連合艦隊司令長官は、開戦前から一度もとっくり話をしたことがない。日本海軍の戦略・戦術の総本山の責任者と、それを実行する連合艦隊の司令長官とが何の打ち合わせもしない理由は何か。「お互いに嫌いだから」。感情論だけだった。

●周囲の反対を押し切ってインパール作戦を敢行した牟田口廉也・中将は、前線から離れた「ビルマの軽井沢」と呼ばれた地域で、ひたすら「前進あるのみ」と命令を出していた。しかも、作戦の失敗を部下の師団長らに押し付け、自分は責任を問われぬまま生き延びた。

●軍部の上層部は戦闘の図面を引いて指示を出しているだけで、直接殺傷の体験はないから、本当の戦争を知らなかった。

 あれから60年。果たして日本人のエートス(心因性)は変わったのでしょうか?何万人もの部下を見殺しにして、自分だけは責任は取らず、ぬくぬくと生き延びた人間が如何に多かったことか。将軍といわれた人たちの集団が、信じられないような俗人的な価値基準で行動していたのか、後世の人間は忘れてはならないと思いました。

邪馬台国

 「畿内説」と「九州説」などで長年、論争が続いていた邪馬台国の所在地が、この一冊で決着がつきそうだ、という記事を読みました。(道新10月2日付朝刊)

 この本は、元産能大教授の安本美典(やすもと・びてん)氏の『大和朝廷の起源 邪馬台国の東遷と神武天皇東征伝承』(勉誠出版)。何しろ統計数学とパソコンを使った新しい文献学を導入して、『古事記』『日本書紀』『魏志倭人伝』などの史料を分析して、「邪馬台国は北九州で起こり畿内に移動して大和朝廷となったとみるのが自然」と結論付けています。7月に発売され、3360円という高価な本なのに「売切れ続出」ということですから、興味を惹かれないわけにはいきません。

 安本氏のインタビューの中で最も面白かったのは、神武天皇の在位の話。

―『記紀』には、神武天皇らの寿命や在位が長いといっても、旧約聖書のアダムの930歳のような極端な話ではない。古い時代には春と秋に2度年を取る「1年2歳」の習慣があり、筆者が操作した数字だということが分かる。文献の検討の結果、初代から二十代までの天皇の在位は、平均約十年とみることができ、これに当てはめると、神武天皇は270-80年頃の人。その五代前の天照大臣は230年頃の人となり、『魏志倭人伝』の卑弥呼とぴったり重なるー

 安本氏は、天照大臣=卑弥呼とは言ってませんが、私のような古代史門外漢な人間にとっては、もしそうなら、これまで、『記紀』に対して持っていた偏見が一気に吹き飛んでしまいそうです。話が長くなるので、これで止めますが、我々、戦後生まれは、結局「戦後民主主義教育」にどっぷりつかっていていることにハタと気がつきました。

北門新報

小樽へは、全く予備知識も持たず、下調べもせず、素のまま、行ってしまいました。

ちょっと、後悔してます。

しかも、せっかく、史跡看板に詳しく書いてあったのに、メモも取らなかったので、ほとんど忘れてしまいました。

上の建物は、「金子元三郎商店」だったところで、現在は、土産物屋になっています。
金子は、漁業加工物から銀行業、不動産まで手広くやった事業家で、30歳にして小樽区長となり、のちに衆議院議員にもなっています。

彼は、明治24年、小樽で初めての日刊新聞「北門新報」を創刊したということでも歴史に名前を残しています。

東京から自由民権運動家の中江兆民を主筆と迎えますが、兆民はわずか1年で辞めています。その辺りの経緯については、いつか調べてみようかと思っています。

この建物は、北門新報の印刷所として使われたようです。

北門新報は、後年、札幌に進出し、北海道毎日新聞、北海道時事と合併して、北海タイムスとなり、現在の北海道新聞の礎となりました。


小樽運河