他者に依存せず、他者を支配せず=植木雅俊著「思想としての法華経」

 植木雅俊著「思想としての法華経」(岩波書店、2012年9月26日初版)を少しずつ読んでおります。個人的に必要に迫られて読んでいるだけですから、特に、他の皆様にお勧めするつもりはありません。宗教(書)となりますと、最近ではどうも⇒教団勧誘 ⇒多額の布施、寄付 ⇒家庭崩壊 ⇒宗教二世といった、人の弱みにつけ込む悪いイメージばかり、拡散されていますからね。

 でも、この本はどちらかと言いますと、宗教書ではありますが、哲学書、思想書に近いです。(だから、書名が「思想としての」となっています!)植木雅俊氏のはサンスクリット語と漢訳を参照して「法華経」や「維摩経」を平易な現代日本語に翻訳された仏教思想研究家で、「法華経」の翻訳本「サンスクリット版縮訳 法華経」(角川ソフィア文庫)に関しては、この《渓流斎ブログ》でも何度か取り上げさせて頂きました。(「老若男女、身分の差別なく覚りを啓くことが出来る思想」「心の安寧を求めて法華経に学ぶ」「観音さまは古代ペルシャの神様だったのか?」など)

 この本は、植木氏御本人が、悩める若き頃、九州大学で物理学を専攻しながら、何故、全く畑違いの法華経に惹かれていったのかといった経緯や、翻訳に際しての苦労話、そもそも釈迦が説法した仏教とは何なのか、そして仏教はどのように変遷していったのか、時系列に解説してくれているので入門書として丁度いいかもしれません。特に、植木氏は自然科学者ですから、良い意味で枝葉末節に非常に拘り、原本であるサンスクリット語を丹念に参照しないで、「推定」で論を進める東京大学出身などの権威者による先行研究に対する批判が度を超すほど妥協がなく、その舌鋒の鋭さは常軌を逸するほどです。サンスクリット語の複雑な文法や用例も例証して論破しているので、植木氏の方に軍配が上がると私も思います。

有楽町「バンゲラズ キッチン」

 特に、「法華経」というタイトルです。サンスクリット語で「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」と言います。「サッダルマ」は、「サット」(正しい)と「ダルマ」(法、教え)の複合語で「正しい教え」、「プンダリーカ」は「白蓮華」、「スートラ」は「経」を意味します。これを、月支系帰化人の末裔として敦煌に生まれた竺法護(じく・ほうご=239~316年)は「正法華経」と漢訳し、西域の亀茲(きじ)出身の鳩摩羅什(くま・らじゅう=350~409年)は「妙法蓮華経」(略して「法華経」)と漢訳しました。

 日本では、岩本裕博士によって「正しい教えの白蓮」と現代語訳され、長年、この訳が大半で採用されましたが、植木氏は異議を唱え、サンスクリット語の文法からも「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」と訳すのが正しいと主張されたのでした。詳細はこの本に譲りますが、確かに説得力があり、植木氏翻訳の方が良いと私も思います。ただし、新聞協会の用語では、「勝れた」は「常用漢字表にない音訓」ということで使えず、「優れた」を使います。ということで、法華経とは、「白蓮華のように最も優れた正しい教えのお経」ということになります。

 何故、数多あるお経の中で、法華経なのかに関しては、日本の歴史上の人物がかなり多く影響を受けていることを本書で取り上げています。例えば、「源氏物語」の紫式部、「更級日記」の菅原孝標の女、「梁塵秘抄」を編纂した後白河法皇、歌人藤原俊成、俳人松尾芭蕉、文楽の近松門左衛門、それに私も大好きな長谷川等伯や本阿弥光悦らもです。近代になると宮沢賢治や石原莞爾辺りになるでしょうか。また、法華経に影響を受けた宗教家として天台宗の最澄と日蓮宗の日蓮(それに「国柱会」の田中智学や血盟団事件の井上日召も入れますか?)はあまりにも有名ですが、曹洞宗の道元もそうだということで自らの不勉強を恥じました。主著「正法眼蔵」に引用された経典は「法華経」が最も多いというのです。

 このように、法華経は経典だとはいえ、特定の教団や宗教家の専有物ではなく、人類の知的遺産として誰のものでもある、というのが私の考えです。人間というものは、か弱く、生きているだけで、苦しみや悩みが尽きません。稀にみる平等思想を説いた法華経には、必要とする誰もが簡単にアクセスする権利があると思っております。

牧野富太郎先生に何の花か聞きたい

 物理学を専攻する学生だった植木氏は、中村元著「ブッダ最後の旅」の中で目を見開かされる文章に出合います。それは原始仏典の「自帰依」「法帰依」に書かれたもので、

 「この世で自らを島とし、自らを頼りとして、他人を頼りとせず、法を島とし、法を拠り所として、他のものを拠り所とせずにあれ」というフレーズです。植木氏はこれを読んで「虚栄心の塊で毀誉褒貶にとらわれ、他人の視線ばかり気にしていた自分が恥ずかしくなった」といいます。

 この「自帰依」「法帰依」は、釈尊亡き後に、誰を頼って生きていったらよいのか不安を抱く弟子のアーナンダ(阿難)に対して、釈迦が遺言のように説いたものだといいます。

 植木氏はこう言います。「これは、他者に依存しようとすることを戒めた言葉である。…一人の人間としての自立した生き方は、他者に迎合したり、隷属したり、依存したりするところから生まれてこない。自らの法(ダルマ、理法)に目覚め、それを拠り所とするところに一個の人間としての自立と尊厳が自覚される。それが仏法の目指したものである。」

 この本の中で、この箇所を私も大変感動して読みました。人はか弱いので、どうしても他者とつるんでしまいがちです。それが人間ですから。しかし、他者に迎合したり、隷属したり、依存したりせず、自らの法に目覚めること。それが覚りだとしたら、断食やら千日回峰やらの苦行をせずとも、在家でもできそうです。

 私がもう一つ付け加えるとしたら、「他者を支配しない」ことですね。国家を名分として他国を侵略することも含まれます。他者に依存しないということは、同時に他者を支配しないことであり、孤立無援を恐れないということにつながると思います。

 ということで、この本は必要に迫られた人が読む本であり、思想書としてよく考えさせられ、良書だと思います。

【追記】2023年5月18日

 やっと読了できました。正直、かなり難解な本でしたが、個人的には、大変信頼できる、これから仏教を学ぶ上での羅針盤のような本だと思いました。筆者の植木氏によると、法華経とは釈尊が多くの衆生に分け隔てなく分かってもらえるように比喩を多用して平易に述べた言葉(お経)だというのですから、斜に構えたりせず、そのまま純真に受け止めたいと存じます。

 補足したいことは釈迦(紀元前463~383年)入滅後の流れです。まず、原始仏教では、在家や女性も排除されていなかったのに、紀元前3世紀末頃、「部派仏教(小乗仏教)」が起き、釈尊が神格化されます。そして、苦しい修行を経た出家した男子だけしか覚りを開けないという思想となり、在家や女性を軽視するようになります。代表的なのが「声聞」と「独覚(縁覚)(辟支仏=びゃくしぶつ)」です。声聞は、声聞乗(シャラーヴァカ・ヤーナ)に乗り、目的地「阿羅漢果」を目指しますが、「仏陀」にまでは到達しません。独覚は、独覚乗(プラティエーカ・ブッダ・ヤーナ)に乗り、「独覚果」を目指しますが、やはり仏陀にまで到達しません。声聞と独覚を二乗と言います。紀元前2世紀頃、小乗の有力教団だった「説一切有部」などが菩薩という言葉を使い始めます。

 この後、紀元前後に「釈尊の原点に帰れ」という復興運動が始まり、「大乗仏教」が起こります。大乗は、菩薩の立場から、在家と出家の男女が覚りを開くことができますが、小乗仏教の声聞と独覚の二乗は除きました。菩薩は、菩薩乗(ボーディサトヴァ・ヤーナ)の乗って、仏陀を目指します。つまり、出家しようがしまいが、男だろうが女だろうがいずれも覚りを開くことができるという思想です。

 しかし、これでもまだ足りない。そこで、紀元1~3世紀初めに生まれたのが法華経です。植木氏が翻訳した「白蓮華のように最も優れた正しい教えのお経」です。大乗仏教が排除した声聞、独覚の二乗も含む一切衆生(出家、在家の男女)を「一仏乗」(ブッダ・ヤーナ)に乗せて覚りを開くことに止揚した、誰一人差別のない究極の思想(皆成仏道=かいじょうぶつどう)が法華経だったのでした。

 

経典とイソップ寓話とではどちらが古いでしょうか?=杉田敏著「英語の極意」

 杉田敏著「英語の極意」(集英社インターナショナル新書)を読了しました。この本は、英語ネイティブがよく使う、ことわざや成句を始め、ギリシャ神話や聖書やシェークスピア作品などから引用した文例をまとめたものですので、読了したとはいっても、何度も読み返して覚えなくてはなりません。

 英語のネイティブで少しは教養がある人なら誰でも、「書き言葉」としても「話し言葉」としてもよく使う例文や冗句などが並び、その語源や意味を解説してくれるのでとても重宝します。私は杉田先生の大ファンなので今でも、ネットアプリ配信の英語講座を聴いたりしております。この本には、その講座のテキストの中で登場する同じことわざや慣用句が出て来るので、復習になったりします。つまり、この本は、杉田先生のテキストのネタ本ですね(笑)。

 この本で、私自身が一番感心して笑ったフレーズは、Some are wise; others are otherwise.(世の中、賢い人もいれば、それなりの人もいる=杉田先生の訳ではなく、小生の意訳)です。シャレと言いますか、見事な韻を踏んでいるからです。

 英語の慣用句に関しては、結構知っているつもりでしたが、この本では、初めて目にするフレーズが頻出しておりました。It’s so 2019. (「実に2019年的な」「コロナ以前の時代の」)、put one’s best foot forward.(「他人に出来るだけ良い印象を与えようとする」)、paraskevidekatriaphobia(「13日の金曜日恐怖症」)、walk in the park (朝飯前のこと)などです。あまりにも多いので、これで寸止めしておきます(笑)。

 英語ネイティブが「いらいらさせられる決まり文句」の中に、like(てゆ~か)、awesome(いけてる=いずれも小生の意訳)、to be honest(正直に言えば)などがあったので、「へー」と思ってしまいました。awesomeなんて、いかす言葉なので、私自身もよく使っていましたが、likeも含めていわゆる「若者言葉」らしく、年長者が聞くとイライラするらしいですね。

新富町「中むら」

 西洋と東洋のことわざは全く違うと思いきや、同じ人間ですから、結構、似たようなものがります。Never speak ill of the dead.( 死んだ人の悪口は言わないこと)、Prevention is better than cure.(治療より予防⇒転ばぬ先の杖)などですが、今の日本で盛んに使われる「同調圧力」は、ちゃんとpeer pressure という英語がありました。個人主義に見える英語圏社会でも、結構、同調圧力があるということになりますね。

 「イソップ寓話」に出て来る cry wolf(オオカミが来た)、cry sour grapes(負け惜しみを言う)などは現在でも頻繁に使われますが、大変驚いたことに、この「イソップ寓話」は、紀元前6世紀ごろの古代ギリシャのアイソーポス(Aesop)という奴隷がつくったされる物語を集めたものだというのです。紀元前6世紀ですよ! あのお釈迦さまが紀元前5世紀の人と言われていますから、何と、お経よりも「イソップ寓話」の方が、歴史的に古いではありませんか!

 英語という言語は、こうしてギリシャ語、ラテン語、フランス語、スカンジナビア語、そして日本語(honcho や karousiなど)まで取り入れて発展していきますが、結構、簡単なようで大変難しい言語だと私は考えています。だって、例えば、doctor は「医師」とだけ覚えていたら残念です。このほか、「博士号」や「修理士」の意味もあり、「治療する」「修理する」という動詞としても使われます。それどころか「文書を改ざんする」という意味でも使われます。財務省を円満退官した佐川さんにも知ってほしいと思いました。

 

出来れば全部観たい=山本勉監修「運慶✕仏像の旅」

 山本勉監修「運慶✕仏像の旅」(JTBパブリッシング、2017年9月1日初版)は、もう直ぐ読了しますが、旅行の際には携帯して参照したい本です。

 この本を読んで、全国にある運慶作の仏像を全て、とまでは言わなくても、出来るだけ多く拝観したい誘惑に駆られてしまいました。私が現地で実物を観たのは、東大寺南大門の金剛力士立像と高野山金剛峰寺の八大童子立像ぐらいで、後はふだんは非公開だったりして、東京国立博物館などの特別展で、無著・世親菩薩立像(興福寺)や重源上人坐像(東大寺)などを拝観させて頂いたぐらいです。何と言っても、運慶20代のデビュー作と言われる奈良・円成寺の大日如来坐像(迂生が新橋の奈良県物産館で購入したあのモデル像です=下の写真)の実物には、まだお目にかかったことはありません。

 焼き物の世界で「備前に始まり、備前で終わる」と言われたりするように、彫刻の世界では「運慶に始まり、運慶で終わる」と言っても過言ではないんじゃないでしょうか。いや、彫刻の世界ではなく、日本の美術史上と言っても良いかもしれません。私自身は「印象派」を大学の卒論に選んだせいか、泰西美術については、かなり海外の美術館巡りもして観てきましたが、年を取ると日本に回帰してしまい、北斎、光琳、若冲、等伯、雪舟の方が技巧的に優れ、日本人の感性に合うことを認識するようになりました。さらに、平面画よりも立体の方が凄いと思うようになり、その天才と抜群の知名度から究極的には仏師運慶が日本美術を代表するナンバーワンではないかと思うようになったのです。

 この本は、何と言っても写真が凄い迫力です。写真提供として「文化庁」や「奈良県立博物館」などのクレジットもありますが、仏像の鼻先の数センチから接写したような、土門拳ばりのアップ写真もあり、圧倒されます。また、この本は、仏像研究の権威である山本勉先生の「監修」となっており、実際に寺院を参拝する監修者の山本勉氏の御尊顔が何度も登場されております。

 仏教美術の研究は21世紀になっても着実に進歩を遂げ、神奈川県称名寺光明院の大威徳明王像は1998年に体内から取り出された納入文書が2007年に開封され、初めて運慶作と判明されたことをこの本で知りました。先に少し触れた東大寺を再興した重源上人坐像も銘記も史料もないので、快慶作など諸説ありましたが、山本氏は「無著・世親像の作風の共通を見て、作者は運慶説が有力」としてます。

 そして、何よりも、新興宗教団体「真如苑」が2008年3月に、米ニューヨークで行われたオークションで、約14億円で落札した大日如来坐像(半蔵門ミュージアム)が、栃木県足利市の樺崎寺(廃寺)に安置されていた運慶作ではないかと推定されました。この像をX線撮影すると体内に五輪塔などが埋め込まれていることが分かり、足利市光徳寺蔵の運慶作大日如来像との共通点も見られ、重要文化財に指定されました。運慶作はほぼ間違いないことでしょう。これも、運慶作と推定する論文を発表した山本勉氏の功績のようです。その後、山本氏は、この像を所蔵する半蔵門ミュージアムの館長になられました。

 その一方で、京都・高山寺に移した運慶作の廬舎那(るしゃな)仏像や賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)像、鎌倉の源実朝持仏堂の釈迦如来像、大蔵薬師堂(北条義時が創建した覚園寺)の薬師如来像、北条政子発願の勝長寿院五仏堂の五大尊像などは、残念ながら現存していないといいます。

 先に、私は「運慶は日本美術史上ナンバーワンだ」と書きましたが、実際は、運慶一人だけで制作した仏像は少なく、運慶の父康慶を始祖とする奈良仏師の慶派(同僚の快慶や子息の湛慶、康勝ら)による共同制作が多いのです。運慶は、勿論、自ら鑿(のみ)を手にしますが、職人をまとめたり指示したりする棟梁か、依頼者と折衝する総合プロデューサーの役割を担っていたと思われます。鎌倉時代になり、時の権力者の源頼朝や北条時政、政子、和田義盛らからの依頼による仏像制作も多くなります。この本の71ページに京都・六波羅蜜寺の運慶坐像(伝湛慶作)の写真が掲載され、私も初めて運慶さんの御尊顔に接しましたが、河童みたいな顔で(失礼!)、妥協はしない意志の強さと自負心が表れていますが、何処か計算高い如才のない面も見え隠れします。人間的な、あまりにも人間的な…。

 ということで、余計に運慶が好きになり、800年経っても現存する運慶作の仏像を求めていつか巡礼したいと思います。

現場から実況見分します=銀座・高級腕時計店強盗事件

 昨日5月8日、私がシマにしている東京・銀座の高級腕時計店で強盗があり、NHKの7時のニュースでトップになるなど大きな話題になりました。

 銀座は私のシマですから(しつこい!)、本日昼休みに現場検証、いや単に見に行って参りました。そしたら、結構な人だかりです。店前の歩道にはテレビカメラ数台があり、リポーターさんたちもおりましたが、何の用もない野次馬も集っておりました。

 現場は、高級ブランドショップなどが並ぶ銀座の中でも超一等地の銀座通り(裏道ではなく、メーンストリート)の瀟洒な繁華街にあり、日本を代表する街とあって、治安は全く悪くありません。当日も多くの通行人が行き通っていたはずです。(そのせいか、通行人がスマホで映した写真や動画が拡散しました)

銀座8丁目

 事件は、アノニマスの仮面を被った3人組が店員を脅して、バールのようなものでガラスケースなどを壊して、100点以上の高級腕時計を強奪して白いワンボックスカーで逃走したというものでしたが、容疑者たちは、運転手役も含めて数時間後に赤坂で「確保」されました。蓋を開けたら、横浜の高校生を含む16~19歳の少年(18歳以上は成人ですが)だったというから驚きです。「お互い知らない」と言いますから、恐らく、ネットの闇アルバイトか何かで集合し、何の計画性もなく、誰か大きな広域犯罪組織の上からの指示で動いていただけでしょうが、何ともお粗末な事件です。

 冷静に考えれば逃げ場はなく、120%捕まることが分かるはずですから、何とも幼稚で浅はかな事件であり、もしそれを知りながら実行したとしたら、若者たちがそこまで追い込まれていることになり戦慄します。

 今年1月には東京都狛江市の住宅でそこに住む90歳の女性が殺害されて現金や高級腕時計などが盗まれる事件が発生するなど、最近はどうも、世の中不景気なのか、全国あちこちで強盗事件が多発しています。しかも、実行犯は10代や20代の若者が多く、見ず知らずの者がネットの闇バイトで集まったといわれていることも共通しています。

 それにしても分からん。人類学的に見て、人間が劣化したのか、前後見境なく善悪の判断が出来なくなったのか、楽をして金儲けをしようとしたのか、それとも自暴自棄になるほど追い込まれたのか、指南役が余程強権的だったのか、人を殺めなければ、数カ月でムショから出られると思ったのか(実は強盗罪は懲役5年以上)、そのいずれか、もしくは全部含まれるのかもしれません。

 昔の人は、よく「人を見たら泥棒と思え」と言ってましたが、現実的にそう考えざるを得なくなってしまいました。

◇◇◇◇◇

 5月8日から新型コロナが5類に移行したというのに、庶民の皆さんは、お上の言うことを信用していないのか、無視しているのか、いまだに街中や電車等ではマスクを着用しています。銀座では、日本人の75%ぐらいはマスクをしてます(電車内は9割以上)。5類になったとはいえ、ウイルスが消えたわけではないので、感染したら「自己責任」、治療費・薬剤費は「自己負担」に変わっただけ、ということになりますから余計に警戒してしまいますよね?

 そういう私も、防衛費が倍増したことだし、「自己防衛」でマスクをしております。

仏像は太ったり痩せたりしていた?=山本勉著「完本 仏像のひみつ」

 山本勉著「完本 仏像のひみつ」(朝日出版社、2021年5月31日初版)を読了しました。「完本」と銘打っているので、大いに期待して読んだのですが、どうもお子ちゃま向けに書かれていました。お子ちゃま向けということで、筆者は、神のことを「カミ」、漆を「ウルシ」、渡来仏のことを「トライ仏」と明記しますが、よっぽどカタカナが好きなのか、カタカナで書けば易しく書かれたと思い込んでいるのか、そのどちらかなのでしょう。しかし、残念ながら、実に読みにくい。善光寺のことを「ゼンコージ」などと書かれると、「馬鹿にしてんのか?」と、さすがに頭に来てしまいます。

 仏像の種類として「如来」「菩薩」「明王」「天」の階層(筆者は「ソシキ」と書いてます!)があることなど基礎的なことは全て網羅されておりますが、筆者は東京芸大出身ということもあってか、仏像の技法や製法等の解説に重きを置いている感じです。「金銅像」「塑像」のほか、「脱活乾漆造り」「木心乾漆造り」「寄木造り」「割矧ぎ造り」などです。川口澄子さんのイラストもしっかり描かれているので分かりやすいです。

上野・東博「東福寺」展 釈迦如来坐像

 この本で面白かったのは、仏像もその時代、その時代の流行があり、年代によって太ったり、痩せたりしているという史実でした。飛鳥時代の7世紀は、例えば法隆寺の百済観音像に象徴されるように、薄っぺらい痩せ型で、奈良時代の8世紀は少しだけ横に長い楕円形、それが9世紀の平安時代になるとまん丸型となり、平安時代後期の11世紀になると、寄木造りを発明した定朝の影響で、また横にすごく長い楕円形になり、12世紀後半の鎌倉時代となると、今度は縦に少し長い楕円形に変化します。

 恐らく、仏像学者は、仏像の形から何世紀ごろの製作か、推量するんでしょうね。

 もう一つ、仏像を製作した人のことを、日本だけ「仏師」として認知されているようですが、仏像に仏師が自分の名前を台底などに墨で銘記するようになったのは、平安後期から鎌倉時代に活躍した運慶からだと言われているようです。勿論、飛鳥時代の渡来人の子孫である鞍作止利(法隆寺の釈迦三尊像など)や平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像を造った定朝といった名前は残っており、特に有名ですが、ほとんどの仏師は知られていないようです。ただし、運慶さん前後になると、名前が明記されていなくても、仏像の耳の形を見れば、製作者が推定されるそうです。耳を見れば、これは運慶作、これは快慶作、これは康慶作とそれぞれ特徴があるので特定できます。

 仏像をお参りしている人の中で、一風変わって、特に耳ばかり見ている人は、仏像学者に間違いない、かもしれません(笑)。

【追記】同月同日

 と、書いたところ、著者の山本勉氏から直々にSNSでツイートがありました!(恐らく正真正銘の御本人だと思われます)

 ご紹介ありがとうございます。子ども向けの文体やカタカナ多用でご不快をあたえたとのこと、申しわけありません。巻末「仏像のひみつ最終顚末」に記したように、もともと子ども向けの展覧会からできあがった本ですので、文体や表記は展覧会でのそれらを継承していることをご理解いただけると光栄です

 吃驚です。小生も返信しました。

 ありま〜すびましぇん! 読まれてしまいました! まさか、ご本人の目に留まるとは想像もしてなかったもので…。でも、ごめんなさい。訂正しません。ゼンコージでは、やはり、子どもも馬鹿にしている感じです。幼い時こそ難しい漢字に親しむべきだという信念を持ってますもので。ただ、並行して読ませて頂いている「運慶✕仏像の旅」は最高です。大人向きのせいか?(笑)引き続き、感想文を書かさせていただきます!

東久留米市上の原は海軍大和田通信隊跡だったとは!

 大型連休の最終日(5月7日)、ちょっと必要に迫られて、東久留米の実家に久しぶりに行って来ました。

 この日は時間的に余裕があったので、昔住んでいた上の原の団地街に寄って来ました。ここも10年ぶりぐらいでしょうか。懐かしい、非常に懐かしい。異様に懐かしい。とは言っても、私が東久留米に棲んでいたのは1963年から84までの21年間です。最初に来た時から60年も経ってしまったので、すっかり様変わりしてしまいました。仕方ないですよね。半世紀以上の年月が経ってしまったわけですから。当時、ニューファミリーを引き連れてこのニュータウンに全国から集まって来た人たちの殆どが、30歳代の働き盛りでした。60年も経てばほとんどの大人たちは鬼籍に入り、子どもたちは老人になってしまいました。かつて、この東久留米市上の原の広大な敷地には、公務員住宅と日本住宅公団の団地が66棟ぐらいありましたが、今では殆ど取り壊されてなくなってしまいました。高層マンションに様変わりした団地も何戸かありますが、昔の面影は全くありません。

東久留米上の原

 何と言っても私が卒業した母校東久留米第四小学校は2012年3月末で閉校してしまいましたからね。(ジャニーズのTOKIOの国分太一さんも同校出身で、後輩に当たります)

 ただし、天文台のある東中学校はかろうじて残っております!

東久留米市上の原「海軍大和田通信隊跡」

 先程、東久留米市の上の原の広大な敷地に66棟の団地があったことを書きましたが、何と、もともとこの広大な敷地は、戦時中、外国無線を傍受する帝国海軍の「大和田通信隊」基地だったというので、大変驚いてしまいました。

 上の写真が東久留米市教育委員会が設置した看板です。設置場所は、西友ストアーの近くにある狭い運動公園前で、私も子どもの頃、ここで、よく草野球をしたものでした。公園の近くには団地集会所がありました。また、この今ある西友ストアーは大きく再建されたもので、昔は、団地商店街というその中の一画にありました。この西友ストアーの家電売り場にあったカレーテレビ(確か、家には白黒テレビしかなかった!)で、私は、アポロ11号に乗船した人類初の月着陸をカラー生中継で見たのでした。1969年7月20日のことで、この日は日曜日だったので、学校を休んだわけではありません(笑)。

 おっと、「海軍大和田通信隊跡」のでした。看板には「東京都北多摩郡清瀬村下清戸、同久留米村神山に及ぶ本隊、清瀬村中清戸の副受信所の3町村にまたがる広大な面積を有し、(中略)戦後、久留米村の用地の大部分は国有地となり、昭和37年(1962)に日本住宅公団の大規模な『東久留米団地』が建設されました。また、久留米村の通信施設の一部は米軍の「大和田通信所」の基地となり、その後、昭和38年から昭和52年まで運輸省航空交通管制本部として利用されました。…」と書いてあるではありませんか!

 大戦時の通信傍受研究の大家である名倉有一さんがこの看板を見れば、恐らく、嬉しくて涎が出ることでしょうが(笑)、私自身は、自分の個人史の中にドンピシャリと当てはまるので武者震いしてしまいました。私の亡くなった父親は運輸省の航空管制官で、36歳の時に、埼玉県のジョンソン基地勤務からこの東久留米(当時は東京都北多摩郡久留米町)の地にやって来たわけでした。昭和38年から昭和51年ぐらいまで、この運輸省航空交通管制本部で勤務しておりました(航空管制本部は所沢に移転。父もこの後、釧路空港、所沢、成田空港…など転勤ばかりでしたが)

 そして、上に書かれている米軍の大和田通信所(埼玉県新座市)は、現在もいまだに米軍によって運用されて健在のようですが、私が子どもの頃、この敷地内に「外人プール」があり、米軍関係者だけでなく、我が家を含む日本人の公務員の子弟も利用できました。(入場券は木の札で、その木札を海水パンツに身に付けました!)深さが2メートルぐらいもある25メートルプールで、私は何度もプールの水を飲みながら、ここで泳ぎをマスターしました(小学校にプールがなかった!)。覚えているのは、プールサイドではいつも米軍用のラジオFEN(現AFN)が掛かっていて、ここでクリームの「ホワイトルーム」やドアーズの「ハートに火をつけて」などの最新ヒット曲を耳にして、洋楽ロックがすっかり好きになってしまったことです。

 大和田通信所も運輸省航空管制本部も東久留米団地も、もともとは海軍の広大な通信基地跡だったとは!…これで全部繋がり、何故、我々が外人プールを利用できたのかも、全ての謎が解けました。

東久留米市上の原 天然温泉「スパジアム ジャポン」

 さて、60年も経てば、かつて走り回って、住み慣れた土地も「異国」です。今の東久留米市上の原は、天然温泉が湧き出たということで、随分な賑わい様です。

 バスの東久留米団地駅終点近くで、コロシアムのような異様な建物があったので、何かと思ったら、それが、例の噂の天然温泉でした。かつては、同級生が住んでいた47号棟とか48号棟などの団地があった前の林の公園があった辺りだと思われます。数歩歩けば埼玉県新座市との県境です。そんなこと、今の人たちは何も知らないだろうなあ、としみじみとした思いで辺りを散策しました。

 団地の南大通り商店街も歩きましたが、玩具屋さんの「グリム」とか、喫茶店の「白樺」とかお店の殆どがなくなってしまい、悲しくなりましたが、団地の先の埼玉県新座市にあった「西堀商店街」の床屋さん「バーバー(ヘアサロン)くるめ」はまだ健在だったので驚いてしまいました。恐らく、後を継いだ二代目か三代目でしょう。この商店街には山崎パン店があり、同級生の高橋君の実家でしたけど、今は跡形もなく消えて住宅になっていました。彼はどうしているのかなあ?

 そう言えば、東久留米駅前から東久留米団地西友ストアー前まで西武バスに乗ったら、料金は180円でした。昔は、つまり昭和38年頃は、駅から団地までのバス代は、大人が10円、子供が5円だったことをはっきり覚えています。ということは、60年間で物価は18倍になったということになります。当時、映画も池袋の文芸座なら100円で見られましたが、今の新文芸座は1700円ですか…17倍ですね。…大体合ってますね(笑)。

入場料が2カ所で何と50円!=「半蔵門ミュージアム」で大日如来像、「たばこと塩の博物館」で「大田南畝 没後200年」展を鑑賞して来ました

 5月4日のみどりの日。大型連休の真っ最中、何処も異様に混んでいるので、恐らく、ほとんどの御上りさんが行かないと思われる都心の博物館を梯子しました。梯子といっても、「半蔵門ミュージアム」(千代田区)と「たばこと塩の博物館」(墨田区)の2カ所だけですが、いずれも予想が当たって空いておりました。しかも、入場料が前者は無料、後者はシニア料金ながらわずか50円で済みました。それでは申し訳ないので両館のミュージアムショップで書籍を購入してお許しを乞いました。本代は入場料の100倍以上掛かりましたが…(笑)。

半蔵門ミュージアム

 半蔵門ミュージアムは、運慶作と推定される木造大日如来坐像(1193年? 61.6センチ、重要文化財)がお目当てでした。2008年3月に、米ニューヨークで行われたクリスティーズのオークションで、新興宗教団体「真如苑」が約14億円で落札したあの有名な大日如来像です。

 この渓流斎ブログを御愛読して頂いている皆様だけは御承知でしょうが、最近の私は大日如来と密教にハマってしまい、「母を訪ねて三千里」じゃありませんが、大日如来が鎮座する寺院や博物館なら三千里歩いてでも追い求めたい気持ちだったのです(笑)。

 それが、こんな都心の美術館(半蔵門駅からゼロ分!)で、しかも無料で公開されているとは全く知りませんでした。真如苑の大日如来像は、もともと鎌倉初期に足利義兼(母が源義朝の従妹、妻が北条政子の妹)によって今の栃木県足利市に創建された樺崎寺(廃寺)に安置されていたと言われ、どういう経緯でニューヨークのオークションにかけられたのか不明ですが、明治の廃仏毀釈のゴタゴタで、誰か個人の手に渡っていたことでしょう。

 結局、海外に流出せず、日本に戻って、こうして無料で一般公開(2018年から)までしてくださるのですから有難いことです。半蔵門ミュージアムでは目下、「修験と密教の美術」特別展が開催中で、大日如来の化身と言われる不動明王像や両界曼荼羅なども拝観することができました。所蔵品は建物も含めて真如苑のプロパティですが、恐らく信徒の皆様による多額の御布施ということでしょうから、宗教の力を感じざるを得ませんでした。(全く関係ない話ですが、私が浪人時代、大学受験で通っていた東京・大塚の武蔵予備校に行ったら売却されていて、真如苑の施設になっていたので吃驚したことを覚えています。真如苑は1936年、真言宗醍醐寺で得度した伊藤真乗により開かれ、現在世界20カ国で100を超える寺院があり、信徒は100万人=国内90万人=同教団のHPより)

入場料代わり

 真如苑といえば、有名芸能人が多く入信し、華々しい面がありますが、入場しても特にしつこく勧誘されるわけでもなく、信徒ではなくても、必要な人が必要な時にこうして無料でお参りさせて頂くことが出来ます。その点は高く評価したいと思い、ミュージアムショップで販売されていた書籍2冊を購入しました。特に「仏像のひみつ」(朝日出版社)の著者で宗教学者の山本勉氏が、この半蔵門ミュージアムの館長になっておられたので驚いてしまいました。

墨田区「たばこと塩の博物館」

 次に向かったのは、「たばこと塩の博物館」です。地下鉄半蔵門線の「押上」駅が最寄り駅の一つなので、半蔵門から地下鉄1本で行けました。

墨田区「たばこと塩の博物館」

 お目当ては「没後200年 江戸の知の巨星 大田南畝の世界」展です。JTが運営する「たばこと塩の博物館」は昔は渋谷の公園通りにありました。私がまだ20歳代の頃、原宿の岸記念体育会館にあった日本体育協会(体協)の記者クラブに詰めていた頃、昼休みのランチの帰り、仕事を少しさぼって、いやほんの少しだけ休み時間を延長してこの博物館を出入りしたものでした(笑)。博物館の人に聞いたら、渋谷からこの墨田区に移転したのは2015年でもう8年になるそうです。(押上駅から歩13分、錦糸町駅から歩21分ぐらい掛かります)

 押上といえば、東京スカイツリーの最寄り駅ですから、外国人観光客を含めて人が雲霞の如く群がっていましたが、「たばこと塩の博物館」はスカイツリーとは正反対の方向にありますから、人が少なく、むしろ寂しいぐらいでした。

東京スカイツリー(錦糸町駅付近)

 大田南畝については、個人的に、昔から大変気になる人物でしたが、この年になるまでついに勉強が手に回りませんでした。私自身が漢籍の素養がなく、あの文語体の崩し字(古文書)が読めなかったからでした。

 大田南畝は寛延2年(1749年)、御家人とは言いながら将軍警護の御徒役の下級武士として江戸牛込で生まれ(本名覃 =ふかし、通称直次郎)、幼い頃から多くの書籍に親しみ、神童の誉高く、博覧強記の典型みたいな人です。漢詩人・寝惚先生であり、狂歌師・四方赤良(よものあから)であり、戯作者・山手馬鹿人であり、随想家・大田南畝でもあり、号は蜀山人。いわゆるマルチタレントです。交流関係も華々しく、葛飾北斎、鳥文斎栄之、歌川豊国、山東京伝、上田秋成、酒井抱一、木村蒹葭堂、蔦谷重三郎、市川團十郎といった著名人が並びます。

 館内では、大田南畝の「万載狂歌集」「蜀山余禄」「浮世絵類考」などの恐らく貴重な「原本」(写本)が多く展示されておりましたが、残念ながら、こちとらは学がなくて何と書いてあるのか崩し字が読めませんでした。わずか200年前の出版物なのに、本当に情けないですね。

大横川親水公園(東京都墨田区)

 先述した通り、入場料は50円でしたので、またまた申し訳ないので、ミュージアムショップで浜田義一郎著「大田南畝」(吉川弘文館)を購入しました。はい、残された人生、古文書を含めまして、大田南畝先生についても勉強していきます。私自身、正統派よりも異端児を好むタイプで、正統派の短歌よりも、風刺と皮肉と諧謔に富んだ狂歌の方が好きなんですよ(笑)。

 大田南畝の本職は幕臣ですから、真面目に勤めたお蔭で、御徒役やから長崎奉行詰まで出世したりしてます。文政6年(1823年)4月6日に数えの75歳で亡くなりますが、死の三日前まで元気で「妾と芝居見物に行っていた」と年表で見つけて思わず苦笑してしまいました。

 大田南畝の菩提寺は白山の本念寺(日蓮宗)だということで、いつかお参りしたいと存じます。南畝を崇敬する永井荷風も度々お参りしたようです。

頭をかじられたら痛そう=「恐竜博2023」

 大型連休の合間の5月2日(火)の仕事帰り、東京・上野の国立科学博物館で開催中の「恐竜博2023」を観に行って参りました。

 入場料(一般・大学生)が2200円とはちょっと高いなあ、と思いつつ、やはり、化石とはいえ、実物を観たいという誘惑に抗しきれず、思い切ってネットの時間指定で購入しました。入場券はネット販売が最優先で、連休中はどの日も午前や午後は完売で夕方の5時以降しか空いておらず、それなら、ということで仕事帰りに行くことにしたのでした。

 結果的に、鑑賞時間も30分程度で終わってしまい、やはり「入場料は高かった」(いつまで言ってんねん?)ですが、あれだけの化石を掘り当てて、復元して、遠く海外から東京まで莫大な保険をかけて運搬して来た恐竜もあったことでしょうから、「しょうがないかなあ」と言った気持ちで慰めました。

 会場内は、写真撮影がOKで、上の写真は、絶滅した恐竜の系統の子孫が鳥のカワセミに繋がっていると明示されたパネルがあったので思わず撮ってしまいました。

 上の写真は初期の恐竜で、推定全長1.2メートルといいますから、小ちゃい、小ちゃい。アントニオ猪木なら勝てそうです。

 ヘスペロサウルスは、ステゴサウルス科で、推定全長4.5メートル。もう人類の手に負えません。

 これは、ズールとゴルゴサウルスだと思われます。結局、高い図録を買わなかったので、自信がありません(苦笑)。

 これは間違いなくズールですね。全長6メートル、体重25トンらしいですが、実物とはお会いしたくありません。

このデカさには魂消ます。

 これは、ティラノサウルス・レックス「タイソン」。世界初公開らしいです。名前から掃除機か、ボクシング選手かと思いましたが、こちらは最強の肉食獣と言われただけあって、迫力満点です。

 全長11.2メートルと書いてありますが、デカい、デカい。これだけ観るために会場に足を運ぶ価値はあります。

 こちらも同じティラノサウルス・レックスの「スコッティ」。こちらもティッシュかと思ったら…くどいですね、もうやめておきましょう(笑)。

 Tレックスの「タイソン」と「スコッティ」。二人合わせてヤンマーだ、と意味不明のことを書きますけど、頭をガブリとかじられたら、痛そうです。

 御同輩の皆様、とにかく、恐竜時代(2億3000万年前~6600万年前の中生代=三畳紀、ジュラ紀、白亜紀)に生まれて来なくてよかったです。

 地球46億年。ホモ・サピエンスの登場はわずか20万年前。書記された人類の歴史時代はわずか5000年前からです。1億6000万年以上繁栄した恐竜を侮るなかれ。

「歴史人」読者プレゼントにまたまた当選=「冠位十二階マグネット」

 「歴史人」読者プレゼントにまたまた当選してしまいました。一体、これで何度目なのでしょうか? 確かに、この雑誌は毎月のように購入して葉書を出しておりますが、当選の確立は何十万分の一のはずです。

 こわ~~~

 何故なら、私自身、決してくじ運が強い人間ではないからです。

 「厳選な抽選な結果」と書かれていますので、その通りだったのかもしれません。葉書に「今月号は、珍しく誤字脱字や誤植が少なかったですねえ」と書いてしまったので、口封じのための当選だったのかなあ、と勘繰りたくなりました(失礼致しました=笑)。

 当選したのは、「冠位十二階マグネット」です。聖徳太子が603年に制定した日本で最初の冠位で、「徳、仁、礼、信、義、智」の6徳目をそれぞれ大小の二つに分けて十二階としたものです。

 実は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子には冠位がなかったそうです。「特別枠」で冠位を授ける側だったからだそうです(勿論、推古天皇や摂政の聖徳太子にも冠位はありません)。

 その一方で、第2回遣隋使派遣の代表だった小野妹子は、帰国後、その功績から、上から5番目の「大礼」から最も高い「大徳」に昇進したといいます。

 私も「歴史人」の読者プレゼントには、これで12回ぐらいは当選しているのではないかと思います。ということは、冠位が一番下の「小智」からトップの「大徳」に昇進したような気分です(笑)。

 「歴史人」の編集部、注文部、広告部、発行人の皆様、本当に有難う御座いました。

通好みの家康の家臣板倉重昌の江戸屋敷は現在、宝殊稲荷神社に

 ゴールデンウイークだというのに、結構このブログにアクセスして下さる奇特な方もいらっしゃいまして、主宰者としましては、深く感謝を申し上げる次第で御座います。

 さて、小生が愛読している「歴史人」(ABCアーク)5月号は、「徳川家康 人名目録」の特集で、大河ドラマ「どうする家康」のまさしく便乗商法ですが、大変読み応えがありました。

 徳川家臣団に関しましては、既に今年1月に週刊朝日ムック「歴史道」第25号が、「真説! 徳川家康伝」を特集していてかなり詳しく書かれていて、私もこのブログで取り上げたことがあります。(渓流斎ブログ2023年1月22日付「徳川家臣団の変遷が面白い=『歴史道』25号『真説! 徳川家康伝』特集」

 「歴史人」では、家臣だけではなく、家族やライバル(真田幸村、石田三成ら)などの「人名目録」が掲載されていますが、私自身は、やはり、家臣団の形成過程について、一番興味深く拝読させてもらいました。

 徳川家康は、自分自身は新田源氏の子孫であることを自称しておりましたが、もともとは三河松平郷の小さな郷主でした。段々と勢力を拡大して、国衆~三河国守~三河・遠江・駿河の大名~関東八州大名、そして天下人と大出世して行きます。その間に、撃退した今川氏の家臣や武田氏の家臣などは、全て滅亡させるのではなく、優秀な人材なら取り込んでいく様は見事と言うほかありません。

 家康のルーツの中で、キーパースンとなるのは、家康の6代前の松平信光ではないかと私は思っています。この人には何と40人もの子どもがいたそうです。家康は本家の安城松平家でしたが、40人もの子どもたちのお蔭でかなり多くの分家が生まれます。竹谷松平、大給(おぎゅう)松平、能見(のみ)松平、深溝(ふこうず)松平、長沢松平、鵜殿松平…等々です。そのため、初期の家康(松平元康)は、親戚間での血と血で争う本家争奪戦に勝利を収めなければならず、これが後々に、親族よりも、代々仕えてきた三河以来の家臣を重用するようになったと思われます。(家臣たちは幕末まで続く大名になったりします)

 徳川家臣団の中で最も有名なのが「四天王」と呼ばれる酒井忠次、本多忠勝(楽天の三木谷さんの御先祖さま)、榊原康政、井伊直政の4人ですが、これはどなたも御存知の家臣なので、まさに序の口。駿府人質以来の家臣である石川数正、平岩親吉や三河一向一揆などで活躍した服部半蔵、鳥居元忠や大久保忠世、一揆側について後に許された本多正信、渡辺政綱、夏目広次となると初級クラス。玄人好みとなると、家康が江戸幕府を開くに当たって登用した優秀な官僚型家臣に注目します。例えば、関東総奉行として抜擢された本多正信、内藤清成、青山忠成の3人です。本多正信は、先述した通り、一向一揆で家康に反旗を翻したのに、許されて名参謀として復活しました。清成は、新宿内藤町の地名として、青山忠成も港区の青山の地名や通りなどとして今でも残っています。

 (もう一人、私が以前、古河藩城址に行った時に知った藩主土井利勝は、家康から二代秀忠の年寄(側近)役を任されますが、土井利勝は家康の庶子とも、家康の伯父に当たる水野信元の庶子とも言われています)

 個人的に注目したのは初代江戸町奉行を務めた板倉勝重です。この人、駿府町奉行、関東代官などを経て江戸町奉行になり、その後京都町奉行(京都所司代の前身)に就任して、朝廷や豊臣家の監視に当たり、訴訟の裁定にも定評があったようです。この勝重の嫡男(次男、もしくは三男)が板倉重昌です。この人は、家康の近習となり、大坂の陣で軍使として活躍し、三河深溝1万5000石の領主になったりします。が、1637年の島原の乱の際、幕府軍の総大将となり、戦死します。

 この板倉重昌の江戸屋敷は木挽町にありました。現在、屋敷のほんの一部が小さな宝殊稲荷神社となって残っております。銀座の出版社マガジンハウスのすぐ近くにあります。私の会社からも近い(というより、私の会社から最も近い神社だった)ので、昼休みに、最近ではほぼ毎日、お賽銭を持参してこの神社に通ってお祈りしていたら、神社内の看板に「板倉重昌の江戸屋敷があった所」「島原の乱で戦死した板倉重昌をおまつりしております」と書かれてあったので、大層驚いてしまったのです。

 板倉重昌といっても、恐らく、現代人の殆どは知らないことでしょう。私もその一人でした。この「歴史人」の中では、初代江戸町奉行の板倉勝重は大きく取り上げられた一方、板倉重昌の方は駿府奉行衆の一人としてほんの少し出てくるだけでしたが、「あっ、何処かで見た名前だ。もしかしたら?…」とピンと来たのです。

 時空を超えて、現在に通じた偶然の一致の瞬間でした。