考え方のクセを治したい=無意識過剰が一番

  イデオロギー(観念形態)などという仰々しい言葉を持ち出さなくても、ヒトは、その行動を左右する根本的な思想体系を持っていると言われています。

 もっと平ったく言えば、「考え方のクセ」です。

 その考え方のクセですが、どうも私を含めてですが、日本人は悲観的に考えるクセがあるような気がしてなりません。いわゆるラテン系と言われる人たちは楽天的で、ケセラセラ(なるようになるさ)といった調子で生きている、といったように、ほとんど科学的根拠のない話ではありますが…。

 しかし、日本人の悲観的クセというのは、大火災が起きれば、紙と木で出来た家屋は灰燼に帰し(これに目を付けたのが、東京大空襲を指揮した米軍司令官カーチス・ルメイ。あろうことか、1964年、日本政府から勲一等旭日大綬章を受章)、地震や津波や洪水といった自然災害が多く、戦災や疫病の蔓延で多くの死者を出して来た過去の歴史が大いに影響したものだと思われます。

 悲観的に将来を考えていれば、イザ、実際に災難に遭った時、それは想定内の話で、それほど落ち込むことはないという長年の知恵によるものではないかと私は睨んでいます。

  何でこんなことを書いたのかと言いますと、作詞家で精神科医のきたやまおさむさんが新聞のインタビューで「人生ってそんなに面白いもんじゃない。実はみんな迷い、やるせない悲しさ、むなしさを抱える」と応えていたからです。(6月6日付朝日新聞朝刊)

 きたやまさんと言えば、元フォーク・クルセダーズのメンバーとして「帰って来たヨッパライ」「青年は荒野をめざす」など大ヒット曲に恵まれ、解散しても「あの素晴らしい愛をもう一度」などの名曲を生み、大成功。精神科医に転身され、現在、75歳にして白鸚大学長まで昇り詰められ、私なんかと違って、挫折知らずの順風満帆の人生を送られていると思っていたからです。

 世間的に「成功者」と思われている人でも、裕福でも、健康で家族にも恵まれていても、日本人は悲観的に物事を考えるクセがあるのではないか、と思った次第です。特に、今のように新型コロナのパンデミックはまだ収まらず、ウクライナ戦争で世界が多大な影響を受け、日々、物価が上昇している昨今では尚更です。

 それでも、いつまでも不安に駆られて落ち込んでばかりはいられません。そこで、私は「考え方のクセ」を思いついたのです。クセですから、何んとか考え方を変えれば治せるのではないかと思ったのです。

 「そんなにうまくいくわけがない」と思われたでしょう?(笑)。

 ま、その通りです。でも、我々は、これまで散々悩んで苦しんできたのだから、もうそろそろ楽に生きてみよう、という考え方はどうでしょう?そのために、わだかまりを持たず、何があっても気にしない。神経質にならない。過去のことはくよくよせず、気にしない。ややこしいことや人には関わらない(うまい投資話も誘惑も)。何事も拘らず、気にしない。まだ起きていない明日のことなど気にしない…。

 こんな考え方のクセに方向転換するのは如何でしょうか?

 何よりも、悩まない、苦しまない、心配しない。そして、考え込まない、のが一番良いと思います。お薦めです。目下、売り切れ続出と言われる「ヤクルト1000」を飲まなくても、夜、よく眠られるようになります。

 最近、落ち込んでいるT君、こんなアドバイスで如何でやんしょうか?江藤淳さんの言葉をお借りすれば、「無意識過剰」が一番良いですよ。

ウクライナ戦争は長期戦か?=ロシアの大義とは?

 2月24日に始まったウクライナ戦争は「長期戦」となるというのが目下、世界の専門家の一致した見解のようです。フランスの歴史学者エマニュエル・トッド氏のように、「第3次世界大戦」と呼ぶ人も現れました。

 ロシアとウクライナの二国間の戦争ではなく、武器を貸与している欧米諸国と、ロシアを支援する中国も含まれているからだといいます。

 何と言っても、侵略戦争を起こしたロシアのプーチン大統領による民間人殺戮などの戦争責任が問われることが先決ではありますが、米国際政治学者ジョン・ミアシャイマー氏のように「ウクライナ戦争を起こした責任はアメリカにある!」と主張する人もいます。同氏は、ウクライナ戦争をロシアと米国の代理戦争とみなし、米国はウクライナの被害をそれほど重視しておらず、むしろ、ロシアの大義の方が米国より上回るので、この戦争はロシアの勝利で終わると予測しています。

 ミアシャイマー氏(74)は、米空軍元将校で、現在、シカゴ大学教授ですが、敵国の肩を持つ発言と捉えられかねないのに、敢えて冷静に、現代史と国際情勢から分析した勇気のある発言だと言えるでしょう。米国も、湾岸戦争では、ロシアがウクライナでしているのと同じように、イラクの都市を徹底的に破壊し、太平洋戦争では、日本の都市を爆撃して、無辜の民間人を虐殺したというのです。(米国の元軍人が、日本への無差別爆撃のことを触れるとは驚きです。そんな人がいるとは!)

 そう言えば、ドローンによる撮影で、ウクライナの都市で破壊された建造物が毎日のように、テレビで映し出されますが、湾岸戦争では、ドローンもなく、イラクも国力がないので破壊された戦地はそれほど国際社会に公開されませんでした。

 ウクライナ戦争が始まって、アフリカ諸国からそれほどロシアに対する非難や批判が巻き起こらないのは不思議でした。よく考えてみれば、アフリカ諸国は18世紀から20世紀にかけて、特に英国、フランス、イタリア、ドイツ、オランダ、ベルギー、スペイン、ポルトガルなどの植民地となり、徹底的に搾取され、奴隷のように抑圧された歴史があったわけです。それなのに、ロシアは「大国」だったはずなのに、英仏等と比べるほどの植民地はありません。そのせいで、ロシアに対するアレルギーが少ないのかもしれません。

 アフリカ諸国としては、欧州列強に対して、「お前たちが過去にやったことを思い出してみろ。ロシアを非難する資格があるのか?」とでも言いたいのでしょうか。

 私は、国際法を無視して戦争犯罪をし続けるロシアを非難する側に立ちます。それでも、原因をプーチン大統領の狂気とだけ決めつけて思考停止するつもりはありません。ロシアの大義を知ったとしても、非難の度合いは変わりませんが、知ることは需要だと思っています。

 ロシア史研究の第一人者塩川伸明東大名誉教授によると、スラブ系でウクライナ正教徒の多いウクライナは一時期、カトリック教徒が多いポーランドに支配され、単一の行政区域が存在しなかったといいます。それなのに、ソ連時代に「ウクライナ共和国」が誕生したため、今のロシアの指導部には、ウクライナとはソ連が人為的に作ったという認識があるといいます。(毎日新聞6月3日付夕刊)

 つまり、ウクライナが出来たのは、ロシアのお蔭だというわけです。それなのに、NATOの東方拡大か何か知らないが、ウクライナは、西側にすり寄って、親分のロシアに歯向かとは何事だというのが、ロシアの大義なのでしょう。

 ヨーロッパの歴史は、地続きですから、戦争に明け暮れ、国境も複雑です。「21世紀にもなって、何で戦争?」と私は思いましたが、「欧州の火薬庫」とは、バルカン半島だけでなく、至る所にあるということなのでしょう。

銀座を避けて新富町でランチ探訪

 昨今、値上げラッシュのせいで、東京・銀座は、土地が、じゃなかったランチが高騰、いや少し値上がってしまったので、ランチは、銀座と比べればやや庶民的な新富町を探訪することにしました。

 私の会社ビルは明治時代、日本で最初の西洋料理店「築地精養軒」(後に上野公園内に移転)があった場所に建ち、昭和になって銀座東急ホテルがあったので、銀座、日比谷、有楽町、新橋、築地、新富町、八丁堀は徒歩圏内です。すぐ近くに歌舞伎座と新橋演舞場があり、「吉兆」(今は再建中?)「松山」「金田中」「新喜楽」(旧大隈重信邸)など超高級料亭も軒を連ねています。恐らく、全国一、いや世界一、立地条件が良い会社だと思います(笑)。

東京・新富町・和食「ウオゼン」3種フライと刺身定食 900円

 新富町の話でした。まず、最初、6月1日(水)に行ったのが、和食の「ウオゼン」という名前の店です。魚が自慢の店なのでしょう。ランチは900~950円が中心で、安いのがいいですね。

 多分、あまりテレビやマスコミで紹介されていないと思います。散策好きの会社の同僚に教えてもらいました。

 結構、混雑していて、少し待たされましたが、直ぐカウンター席を空けてくれ、注文したのが、上の写真の3種フライと刺身定食。味も良し。900円の安さが気に入り、ここのランチは一通り食べたくなりました。

 ここは「穴場」の店です。

新富町・料亭「躍金楼」

 2日(木)に行ったのは、「割烹 躍金楼(てっきんろう)」という高級料亭です。何しろ、創業明治6年といいますから、格式があります。店構えを見て、「いつか絶対に行こう」と思っていたわけです。明治6年といえば、後に初代文部大臣となる森有礼(薩摩藩)の提唱で結成された啓蒙思想団体「明六社」がすぐ思い浮かびます。明六社には、福沢諭吉(中津藩)、中村正直(幕臣)、箕作秋坪、津田真道(津山藩)、西周(津和野藩)、加藤弘之(出石藩)ら当代一流の洋学者が参加しました。「明六雑誌」を発行しますが、新聞紙条例と讒謗律の言論弾圧で、わずか2年で廃刊に追い込まれました。

 お店のパンフレット等によると、明治5年の銀座の大火の影響で、銀座に隣接し、遊郭があった「新島原」と「大富町」も被害を受けます。その2町が合併して「新富町」として復興したばかりの明治6年に、この躍金楼ができたといいます(命名は山岡鉄舟)。近くに歌舞伎の「守田座」(明治8年に「新富座」に改名)もあり、花柳界とともに、歩んできたようです。

 だから、芝居小屋町と花街として発展した新富町のことを「奥銀座」とか「裏銀座」と言われると、プライドが高い地元の人は怒るそうなので気を付けてください(笑)。

 明治5年の銀座の大火では、銀座、築地一帯の木造建築が焼失してしまったため、これをきっかけに、明治政府は、銀座をレンガ造りの西洋風の建物や街路建設を進めたといいます。明治5年といえば、日本で最初の鉄道が新橋~横浜間に開通した年(今年は鉄道開設150周年!)でもあります。銀座は、新橋の停車場から近く、銀座の洋風づくりは、横浜から列車に乗って東京に来る外国人のための欧化政策の一環だったという説もあります。

新富町・料亭「躍金楼」 天麩羅ランチ1320円

 さて、躍金楼では、お座敷(個室)もありますが、ここでのランチは予約制で3850円~6600円です。「一見さん」の私は、外で5分程並び、「すたんど」で、二番目に安い天ぷら膳(6点盛り)1320円を注文しました。

 天麩羅は、目の前で揚げてくれて、そのまま出してくれるので、大名になったような気分です。創業150年近い老舗のお店ですから、実に丁寧なお仕事をされています。

 今度は、夜に、芸者さんと一緒にお座敷で会席料理を食べたくなりました。(新富町には、お一人だけ芸者さんが残っていらっしゃるとか)

新富町「松し満」 週替わり定食ランチ(赤魚)1000円

 そして、3日(金)に行ったのが、かつて、歌舞伎の新富座があった京橋税務署の裏手にある「松し満」という日本料理店です。以前は高級料亭だったような感じ(表紙写真)ですが、ランチは1000円と安い。

 食事所は2階に上がりますが、この日はお客さんがほとんどおらず、「貸し切り」状態でした。私が頼んだのは週替わりランチで、赤魚の塩焼きでした。ちょっと、塩辛いかなあという感じでしたので、次は海老フライ定食にでもしようかと思っています。

 あれほどカンカン照りだったのに、お店を出たら、激しい雷雨が降っていたので、驚きましたが、用意周到で折り畳み傘を持って来ていたので、大丈夫でした(笑)。

熱田神宮の草薙神剣は本物だった?

 渓流斎ブログの「熱田神宮と「自宅高級料亭化」計画=名古屋珍道中(下)」で、「宝物館」の受付の女性と大口論寸前にまでいった話を書きました。

 熱田神宮には、「三種の神器」の一つである草薙神剣を所蔵されていると言われますが、壇ノ浦の戦いで、安徳天皇とともに海中に沈んでしまったというので、「こちらの草薙神剣は本物ですか? 本物は壇ノ浦に沈んでしまったのではないですか?」と受付の人に聞いたら、「いえ、あちらは形代(複製?)でしたから、本物の神剣は非公開ですけど、ちゃんとこちらで所蔵しております。何なら、神職を呼びますかあぁぁーー!?」と怒られた話を書きました。

 正直、私自身はあれからずっと「わだかまり」を持っていたのですが、自宅書斎で積読になっていた古い雑誌「歴史道」第20巻「古代天皇の謎と秘史」特集(朝日新聞出版、2022年3月15日発行)の稲田智宏氏の書かれた「三種の神器に隠された真実」を読むと、少し疑問が氷解しました。

 稲田氏によると、三種の神器は、第10代崇神天皇が「畏れ多い」ということで、「本体」のほかに、新たに神鏡(八咫鏡=やたのかがみ)と神剣(草薙神剣)の「分身」を作らせたといいます。三種の神器の残りの八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)はそのままです。ちなみに、初代神武天皇と「欠史八代」と言われる二代綏靖天皇から九代開花天皇までは「神話の世界」で実在性を証明するのが乏しく、10代崇神天皇こそが初代天皇だという説があります。

アベノマスクがハンケチに変身?

 いずれにせよ、まず、八咫鏡の本体は伊勢神宮に伝わり、現在でも伊勢神宮の内宮に収められていて、壇ノ浦の戦いで沈んだのは「分身」の方で、しかも、無事に回収されて、宮中に伝わり、現在は皇居賢所にあるといいます。

 八尺瓊勾玉も壇ノ浦の戦いでいったん海中に投げ出されましたが、無事に回収されて、宮中に伝わり、現在は皇居の剣璽の間に収められているといいます。

 さて、最後は問題の?草薙神剣です。壇ノ浦の戦いで海中に沈んでしまい、回収できなかったのは、「分身」の方でした。「本体」の方は、そのまま尾張の熱田神宮に伝わり、現在も所蔵されているというのです。熱田神宮の宝物館の受付女性の主張は正しかったわけです!

 海中に沈んだ分身の剣の方は、その後、鎌倉時代に伊勢神宮が新たに「草薙剣」として再生して天皇に進上し、これが宮中に伝わり、現在、八尺瓊勾玉と同じく、皇居の剣璽の間に収められているといいます。

 とはいえ、「本体」の草薙神剣とは、そもそも、スサノオノミコトがクシイナダヒメを救うために退治した八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の尾から出てきたとされています。これが天照大御神の所有物となり、伊勢神宮に奉仕する初代斎宮・倭姫命に渡ります。倭姫命は、東国平定に向かう甥の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)にこの神剣を渡し、日本武尊は、途中の駿河国で、この剣で草を薙いで火を避けることができたことから、「草薙剣」の名前の由来になったといいます。(現在、静岡市清水区に草薙の地名が残っています)

 つまり、神話の世界の話なので、科学的エビデンスを示せと言われれば、難しいかもしれません。しかし、信仰の世界なので、熱田神宮の草薙神剣は「本体」であることを信じてお参りすれば良いだけの話です。

 私は熱田神宮では「健康長寿」のお守りを買いましたから、「本体」であることを信じることにしました。何か問題でも?

【追記】

 鎌倉幕府をつくった源頼朝は尾張生まれ、と聞いて、えっ?と思ってしまいました。

 実は、頼朝の生母由良御前(源義朝の正室)は、熱田大宮司・藤原季範の娘だったので、頼朝は熱田で生まれたのでした。

 頼朝も熱田神宮と関係があったとは驚き。

 宝物館の受付女性に、もし、このことを確かめるために、「本当ですか?」と聞いたら、女性は、今度は「本当です。何なら、大宮司を呼びますかあぁぁぁー!?」と怒られそうですね(笑)。

不思議な数字142857

 これまでFacebookのプラットフォームからこの渓流斎ブログを御覧になっていた皆さまは、最近、「お報せ」のポップアップが来ないので不思議に思われていることでしょう。

 はい。「お報せ」することをやめたからです。私は、あれだけ、Facebookのことを批判してきましたので、もうゼロとは言いませんが、利用しないことにしました。そこで、Facebook御利用の皆さまには、直接アクセスして頂かなければ、この渓流斎ブログをお読みすることができなくなり、御手間をお掛けすることになりました。相済みません。

 別に強制しているわけではありません(笑)。読みたい方だけにわざわざアクセスして頂きたいのです。むしろ、Facebookをやっていると、どうしても「いいね!」が欲しくなり、自分のあざとさ、とか浅ましさが出てきて、それが嫌になってきたのです。だからこそ、わざわざアクセスして頂いた皆さまには感謝申し上げる次第です。

 本日は、たまには数字を取り上げます。とは言っても、全て、会社の同僚から聞いた話です。どなたか、このカラクリを発見した数学者がいらっしゃると思いますが、大変失礼ながら不明で、勝手に引用させて頂くことをお許しください。(もし、著作権があれば削除致します。御連絡ください)

 142857という数字です。142857は基本になる数字なので、よく覚えておいてください。

 これを2倍すると、285714となります。

 3倍すると、428571になります。

 4倍すると、571428となります。

 5倍すると、714285となります。キリがないですね(笑)。でも、もう少し続けます。

 6倍すると、857142となります。ここで、これまでの数字を見て、何か気が付きませんか? そうです。基本数の142857を並べ替えたかのようです。つまり、いずれも、3や6や9が全く含まれていません。

 しかし、7倍すると、何と999999になります。 えっ?あれっ? どういうこと? と首をかしげたくなります。

 次に、184という数字です。

 これに6を掛けると1104となります。

 184(嫌よ)と拒否されても、6回口説けば、1104(いいわよ)となるというオチです。

 くれぐれも、実際にお使いにならないように! 当局は一切、責任は取りませんからねー。

苗字の語源が分かった!=天下の大権威に盾突くとは…

 先週出たばかりの本郷和人著「日本史を疑え」(文春新書、924円、2022年5月20日初版)を読み始めたら止まらなくなりました。

 著者は、東京大学史料編纂所教授です。史料編纂所といえば、日本の国家の歴史研究では最高峰です。その教授といえば、オーソリティーの中のオーソリティー。著者は1960年生まれでもう還暦は過ぎていますから、天下無敵で誰に何の気兼ねもなく学説を開陳する権力を持っている、と言えるでしょう。

 著者はテレビ番組にもよく出演されているので、その顔を拝見した方も多いことでしょう。大江健三郎を真似して?黒い丸眼鏡をかけています。自信満々そうです。だからこそ、本の帯にも著者の顔写真が大々的に登場するものだと思われます。私自身は、高田純次さんから「テキトー男二代目」を拝命してもらいたいほど、中途半端な人間なので、そんな「二代目テキトー男」による暴言として聞いてほしいのですが、天下の日本一のオーソリティー様が、これだけ顔を晒して、恥ずかしくないのかなあ、という独り言です。

 タレントさんだったら、できるだけ顔を露出して、有名になることによって「信用」という詐欺のような虚業を大衆から獲得して、CMに出演して莫大な出演料を稼ぐ目的があるでしょうが、象牙の塔の住人の方々がそこまでする必要があるのかなあ、と思った次第。

 「別に好きでやってるわけではない。版元に言われたから」と抗弁されるかもしれませんけど、ごめんなさい。先ほどの言辞はあっさり撤回します。お好きにしてくださいな。著者とは面識もありませんし、恨みも何も全くありませんからね。でも、私は嫌ですね。よく知っている友人にも顔は晒したくないので、Facebookを見るのもやめたぐらいですから。(特に、Facebookで「いいね!」を期待する自分の浅ましさに嫌気がさした!!)

 この本は確かに面白いですが、最初は小言と言いますか、天下の著者に対して反対意見を述べたいと思います。菅原道真のことです。著者は「菅原道真は実力で出世した(文章博士から右大臣)、いわば最後の人」と手放しの称賛で、あくまでも「被害者」のような書き方です。が、本のタイトル通り、「日本史を疑え」に則していけば、道真は、かなり政治的野心があった人で、自分の娘衍子(えんし)を宇多天皇の女御とし、さらに、娘寧子(ねいし)を、宇多天皇の第三皇子である斉世親王に嫁がせるなどして、天皇の外戚として地位を獲得しようとしことには全く触れていません。ただ、敵対する藤原時平らの陰謀で左遷させられた「可哀想な人」といった書き方です。(渓流斎ブログ 「菅原道真は善人ではなかったのか?=歴史に学ぶ」

 東京大学史料編纂所教授ならこの史実を知らないわけがなく、「日本史を疑え」なら、学問の神様の功績だけ強調するだけでなく、斜に構えた視座も必要ではないかと思った次第。

 これで擱筆してしまうと、著者に大変失礼なので、弁護しますが、道真の項目以外は全面的に感服して拝読させて頂きました。特に一つだけ挙げさせて頂きますと、162ページの「名字に『の』が入らなくなった理由」です。蘇我馬子も藤原道長も平清盛も源頼朝も、間に「の」が入るのは、蘇我も藤原も平も源も、天皇が与えた「氏」だから、ということは以前、歴史好きの同僚から教えてもらい知っておりました。でも、何で鎌倉時代以降になると、「の」がなくなったことについては、全く気にも留めておりませんでした。

 北条時政も北条義時も千葉常胤も上総広常も足利尊氏も「の」が入りません。それは、北条も千葉も上総も足利も、天皇から与えられた「氏」ではなく、「苗字」だからだというのです。そして、この苗字とは、それぞれの「家」が本拠を置く土地=財産から由来しているというのです。北条も千葉も上総も足利もいわば地名です。三浦義澄も三浦半島を本拠地としていました。

 土地に根差した「苗字」ということで、「苗」を使っていたんですね。これで初めて苗字の語源が分かりました。

 以上、最初はイチャモンをつけましたけど、それは日本の国家の大権威さまに立ち向かうドン・キホーテのような心境だった、と御理解賜れば幸甚です。

【参考】

 ・「貴族」という用語は正確ではない。正一位~従三位=「貴」(「公卿」とも)、正四位~従五位=「通貴」(貴に通じる)。正一位~従五位までが「殿上人」。正六位以下=「地下人(じげにん)」(平氏も源氏も当初は地下人だった)

「ソ連侵攻の真実」を学びましょう=「歴史人」6月号

  今春は、ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」上下と「ホモ・デウス」上下、平山周吉著「満洲国グランドホテル」など超大作を読むのに掛かりっきりだっため、他の本や雑誌があまり読めず、積読状態になっています(笑)。

 例えば、雑誌の「歴史人」(ABCアーク)、「歴史道」(朝日新聞出版)なんかもう4~5冊も未読です(苦笑)。でも、考えてみれば、世界の文明国の中で、日本ほど、これだけ歴史雑誌が毎月のように定期的に出版されている国はないのでは? 日本人は真面目なんでしょうね。何歳になっても、歴史から教訓を学ぼうとしています。

 それに、悪い意味ではなく、「歴史修正」が進んでいて、私が、もう半世紀昔の高校生の頃に学んだ「歴史」とは随分変化しています。例えば、当時、645年は「大化の改新」としか習いませんでしたが、今では「乙巳の変」となり、鎌倉幕府成立も「1192年」(いいくに)だったのが、1185年(いいはこ)が定説になりそうです。歴史の教科書から「聖徳太子」や「坂本龍馬」の名前が消える? ということも話題になりました。歴史学習も、パソコンのソフトと同じように「更新」しなければならないということなのでしょう。

 そこで、本日は、「歴史人」6月号の「沖縄戦とソ連侵攻の真実」特集を取り上げることに致します。私自身、前半の「沖縄戦」についてはある程度知っておりましたが、後半の「ソ連侵攻の真実」については、不勉強で知らないことが多かったでした。

 雑誌ですから、タイムリーにも今、進行中のロシアによるウクライナ侵攻も取り上げております。井上寿一学習院大教授の記事などを引用しますと、1997年、ロシア・ウクライナ友好協力条約が成立し、ウクライナの領土保全・国境不可侵などをうたったというのに、ロシアは2014年にクリミア半島を併合し、今年2月24日にはウクライナ全土の侵略を開始し、民間人を大虐殺するなど戦争犯罪を犯しています。

 つまり、ロシアという国は国際条約や国際法を破っても、不法者や犯罪者意識がサラサラなく、ならず者国家だということです。条約の一方的破棄と侵略は、この国のまさに「お家芸」であり、「伝統」だとも言えます。プーチンは、尊敬するスターリンの顰に倣ったとも言われますが、そのスターリンがしたことは、1945年8月9日、日ソ中立条約(41年4月に締結され、少なくとも46年4月までは有効だった)を一方的に破棄し、まずは満洲国に侵攻し、対日参戦したことでした(ヤルタ会談での密約)。

「歴史人」6月号 「沖縄戦とソ連侵攻の真実」

 満洲に侵攻したソ連軍は150万兵とも言われ、この特集号で初めて、その侵攻する師団がどのルートで制圧していったかなどの詳細が分かりました。対する日本の関東軍は70万兵とは言われていましたが、既にその前年から、グアム、沖縄、フィリピンなどに精鋭部隊は根こそぎ取られ、「張り子の虎」に過ぎなかったといいます。

 終戦時155万人の日本人が満洲、関東州にいましたが、そのうち死亡者は17万6000人、その半分近い7万8500人が開拓団の犠牲者だと言われています。また、ソ連軍は約60万人の日本人をシベリアに抑留し、劣悪な環境と十分ではない食事の収容所や強制労働で5万~10万人が死亡したといいます。シベリア抑留は日本人だけかと思いきや、ハンガリー人50万人、ドイツ人は何と240万人も強制奴隷労働で使役したといいます。

 スターリンの悪行はこれだけではありません。8月11日から樺太侵攻を開始します。南樺太は、日露戦争で薄氷の勝利を収めた日本が1905年のポーツマス条約によって割譲された日本領土でした。ソ連軍は、兵力に劣る日本を圧倒し、17日、王子製紙と炭坑で栄えた樺太最大の恵須取(えすとる=人口4万人)を制圧、25日には南端の大泊に進駐し、樺太全島の占領を完了します。その後、疎開する民間人を乗せた小笠原丸、第二新興丸、泰東丸の3船が、北海道留萌沖で、ソ連軍潜水艦によって撃沈され、1700人以上の民間人が犠牲になります。これで、ロシアによる民間人虐殺はウクライナで始まったわけではなく、お家芸だったことが分かります。

 ちなみに、樺太の後に、ソ連軍によって占拠される国後、択捉、歯舞、色丹の「北方四島」は、幕末の1855年、日露和親条約で取り決められた日本領土でした(樺太は日露両国雑居地とした)。また、その後、明治になった1875年には、択捉島の隣りの得撫島(うるっぷとう)からカムチャッカ半島に近接する占守島(しゅむしゅとう)までの21島のことを「千島列島」と称し、ロシアは樺太を、日本は千島列島を交換して領有する条約が締結されました。(千島・樺太交換条約)

 スターリンの目論見は、樺太と千島列島の占領だけではありませんでした。北海道の釧路と留萌を結ぶラインの北半分を占拠するつもりだったのです。もし、それが実現していたら、日本も朝鮮半島やベルリンの二の舞になっていたところでした。

 それを阻止したのが、日本の最北端のカムチャッカ半島との国境近い占守島での激戦でした。占守島(しゅむしゅとう)とはいっても、私の世代では知らない人がほとんどです。が、私の親の世代は知っていました。ソ連軍が占守島に侵攻したのは、何と「終戦」が終わった8月18日でした。司馬遼太郎の戦車学校時代の上官だった池田末男連隊長(陸軍大佐)らの戦死もありましたが、第91師団歩兵第73旅団など日本軍守備隊は、札幌にいる第5方面軍司令官樋口季一郎中将の指揮で、死力を尽くして防衛して時間を稼ぎ、ソ連軍が足止めを食らっている隙に、米軍が北海道に進駐し、スターリンの北海道分割という野望は挫かれます。

 8月21日に休戦協定が締結されますが、占守島での日本軍の死傷者600~1000人に対して、ソ連軍は1500~4000人だったと言われます。

 北の大地では、8月15日は終戦でも何でもありませんでした。

 今ではこの史実を知る人は少ないのではないでしょうか?

 

43年ぶりに憧れのマドンナと再会できました

 人は半世紀近い年月を隔てても、再会して話が通じ合うようなことができるのかーといった哲学的命題を解明したいがばっかりに、大学を卒業して一度も会ったことがなかった女性と43年ぶりぐらいに東京・恵比寿のイタリア料理店で、感動の再会を果たしました。私の大嫌いで、もうあまりやっていないFacebookで御縁が繋がり、私がブログに神谷町のことを書いたことがきっかけで、再会することになりました。1時間半ばかし、積もるよもやま話をして参りました。

 御本人から、最初、「ブログには書かないで」と言われましたが、「いや、ブログは私の正業なので、遠回しに書かさせて頂きます」と無理やり、宣言してしまいました(笑)。ので、お名前は匿名で楸さんということにしておきましょう。楸さん?まず読めないでしょう?(笑) 「ひさぎ」さんと読みます。

 何しろ、この奇跡的な再会については、名古屋に住む旧友のK君や静岡県在住の山上君らに吹聴してしまい、彼らもその後どうなったのか、気になることでしょうから、彼らのためにも、御報告する義務がありました(笑)。

 結果は、good,better,best ? まあ、the bestでした。私一人だけが、昼間っからワインやハイボールを呑んで酔っ払って、言いたい放題、聴きたい放題でしたが、楸さんも、水で酔ったふりをして我慢して付き合ってくれました。何しろ、22歳だった若者が、浦島太郎さんのように、アッと言う間に、白髪のお爺さんですからねえ。後輩の楸さんも私とそれほど年齢は変わりませんが、半世紀近く会っていなかったので、お互いに、人生の「激動期」の情報が抜けています。結婚や出産(私はしてませんが)や、仕事や転勤、子どもや孫の話、病気の話、それに二人が共通に知っている友人知人の結婚、離婚、再婚、近況の話などを問わず語りしているうちに、これまたあっという間に時間が経ってしまいました。

 楸さんには、「遠回しに書く」と約束してしまったので、具体的な内容は茲では書けませんが、私が大学時代にお付き合いしていた椿さん(これも仮名)の近況ーとはいっても、楸さんが椿さんと直接会ったのは、10年近く前らしいのですが、ーを初めて教えてもらい、少し安心しました。「へー、そうだったのかあー」といった感慨です。これまた、楸さんとのお約束で具体的なことはブログに書けませんが…(笑)。

 楸さんは、頭が良く、性格も良く、しかも美人さんと三拍子揃っていましたから、男どものアイドル的存在で、友人のK君も狙っていました。私は当時、椿さんと熱烈な恋愛関係にあったため、楸さんにはアタックせず(笑)、遠くから見ていた感じでしたが、まさか、半世紀近く経って再会するとは夢にも思いませんでした。(だから、記憶違いばかりでした。)

 年も年ですから、お互いに同じことを聞いて、「あれっ?それ、さっき応えたのでは?」となり、古民家の縁側の日向ぼっこで、お爺さんとお婆さんが、昆布茶を飲みながら、会話しているような長閑な雰囲気になり、顔を見合わせて大笑いしてしまいました。

 何でもない会話でしたが、お互いに、紆余曲折の末、挫折やら苦悩やら病気やら人生の荒波を乗り越えて、生き延びて奇跡的な再会を果たすことができました。

 少し陳腐な表現ではありますが、やはり、「人生は捨てたもんじゃない。素晴らしい」と思いましたよ。

エリート群像と名もなき庶民の声=平山周吉著「満洲国グランドホテル」

 ついに、やっと平山周吉著「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社、2022年4月30日初版、3850円)を読了できました。565ページの大作ですから、2週間以上掛かりました。登場人物は、巻末の索引だけでも、ざっと950人。まさに、大河ドラマです。

 満洲と言えば、最初に出て来るのは、東条英機(関東軍参謀長)、星野直樹(満洲国総務長官)、岸信介(満洲国総務庁次長)、松岡洋右(満鉄総裁)、鮎川義介(日産コンツェルン⇒満洲重工業総裁)の「ニキ三スケ」です。それに加えて、何と言っても「大杉栄殺害事件」の首謀者から満映理事長にまで転身した甘粕正彦(昭和19年1月、甘粕は、芸文協会の邦楽部長藤山一雄に対して、「藤山さん、あれは私ではないよ」と呟くように言った。=41ページ)と張作霖爆殺事件の河本大作の「一ヒコ一サク」です。(この名称は、著者が「勝手に命名した」と「あとがき」に書いております。)

 とはいっても、この7人のうちに章を立てて取り上げられているのは、星野直樹と松岡洋右の二人だけです。勿論、残りの5人と満洲事変を起こした板垣征四郎と石原莞爾は、陰に陽に頻繁に「脇役」として登場し、完全に主役を食っている感じです。そんな彼らについては多くの紙数が費やされていましたが、731細菌部隊の石井四郎や満洲国通信社の阿片王・里見甫、作家の長谷川濬、漫画家の赤塚不二夫やちばてつや、俳優の森繁久彌や宝田明らはほとんど出てきませんでした。(著者は「あとがき」で、取り上げたかったが、残念ながら出来なかった人物として、「もう一人の男装の麗人」望月美那子、「満洲イデオローグ」評論家の橘樸=たちばな・しらき=、「満蒙開拓の父」加藤完治らも挙げています。)

 その代わりに多く取り上げられていたのが、小林秀雄や長与善郎、八木義徳、榛葉英治、島木赤彦といった文学者と「満洲の廊下トンビ」小坂正則(報知新聞新京支社長⇒満映嘱託など)、石橋湛山(東洋経済)、石山賢吉(ダイヤモンド社)、「朝日新聞の関東軍司令官」武内文彬(奉天通信局長)、「女優木暮美千代の夫」和田日出吉(時事新報⇒中外商業新報⇒満洲新聞社長。坂口安吾が振られた美人作家矢田津世子とも付き合っていた艶福家)といったジャーナリストたちです。彼らは、満洲関連の多くの文献を残しているせいかもしれません。

 著者も「あとがき」に書いているように、この本が主眼にした時代は「ニキ三スケ」の時代で、初期の満州事変や末期のソ連軍侵攻の悲劇にはそれほど触れられていません。従って、登場する中心人物は、「白紙に地図を書くように」これまでにない新しい国家をつくろうとする野心と理想に燃えたエリートたちで、筆者も「満洲国は関東軍と日系官僚が作った国家であったから、近代日本の二つの秀才集団である軍人と官僚は欠かせなかった」と振り返っています。軍人では、植田謙吉(関東軍司令官)、小磯国昭(関東軍参謀長)、岩畔豪雄(関東軍参謀)、官僚では、古海忠之(大蔵省⇒総務庁次長)、大達茂雄(内務省⇒国務院総務庁長)、「満洲国のゲッベルス」武藤富男(司法省⇒総務庁弘報処長)、「満洲の阿片行政の総元締め」難波経一(大蔵省⇒専売公署副署長)らに焦点が当てられ、意外な人物相関図や面白い逸話が披露されています。

 一つ一つご紹介できないので、是非、手に取ってお読み頂けれたらと存じます。好評なら、今度は「もう一人の男装の麗人」望月美那子や「満洲イデオローグ」評論家の橘樸らを取り上げた「続編」が出るかもしれません。

東京・銀座「わのわ」お刺身定食1000円

 ただ、本書に登場する人物は、ほとんど陸士―陸大を出た超エリート軍人か、東京帝大を出て高等文官試験に合格した超エリート官僚ばかりです。皆、新しい国をつくろうと燃えた人たちでしたが、その下には何百万、何千万人という漢人、満人、蒙人、鮮人(当時の名称)ら虐げられた人がいたことも忘れてはいけません。

 巻末年表を見ると、歴史的に、漢人が「化外の地」(中華文明が及んでいない野蛮な土地)として相手にもしていなかった満洲の地を最初に侵略したのはロシアで、1900年のことでした。満州に東清鉄道を敷設し、ハルビンなどの都市を建設していきます。それが、1904~5年の日露戦争での大日本帝国の勝利で、日本の満洲での権益が拡大していきます。

 昭和初期、金融恐慌などに襲われた日本にとって、満洲は理想の希望に溢れた開拓地で、「生命線」でもありました。一攫千金を狙った香具師もいたでしょうが、職や開拓地を求めて大陸に渡った日本人も多くいます。先日、名古屋で14年ぶりに会った旧友K君と話をしていて、一番驚き、一番印象に残った話は、私も面識のあったK君の御尊父が、16歳で満洲に渡り、満鉄に就職したことがあったという事実でした。16歳の少年でしたから、この本に出て来るような東京帝大出のエリートとは違って、「使い走り」程度の仕事しかさせてもらわなかったことでしょう。

 それでも、そこで、かなり、日本人による現地人に対する謂れのない暴行や差別や搾取を見過ぎて来たというのです。「それで、すっかり親父はミザントロープ(人間嫌い)になって日本に帰ってきた」と言うのです。

 K君の親父さんは、本に登場するような、つまり、字になるような有名人ではありませんでした。が、私自身は、身近な、よく知った人だったので、活字では分からない「真実」を目の当たりにした感じがしました。お蔭で、聞いたその日は、そのことが頭から離れず、ずっと、頭の中で反芻していました。

【参考】

 付 「傀儡国家の有象無象の複雑な人物相関図=平山周吉著『満洲国グランドホテル』」

 「細部に宿る意外な人脈相関図=平山周吉著『満洲国グランドホテル』」

値上げラッシュでランチも上がる?

 最近、何でもかんでも値上げです。小麦、ビール、お菓子、冷凍食品、缶詰…きゃあ、勘弁してくれい、といった感じです。

 お蔭で、4月の消費者物価指数は昨年同月比を2.1%を上回り、消費税率引き上げの影響を除くと、13年7か月ぶりの上昇率になったとか。さぞかし、日銀の黒田総裁も喜んでいると思いきや、今の物価上昇は、エネルギーや原材料の価格高騰が主要因で、日銀が目指す賃金上昇や需要増加といった経済の好循環を伴った安定的な物価上昇ではない、と否定的です。

 よく分かりませんが、原材料が値上がりしたら、製品の価格に跳ね返ってくるのは当たり前じゃないんでしょうか? 儲けが増えれば、社内留保はほどほどにして、社員に還元するのが真っ当ではないでしょうか? 食材やサラダ油等が値上がっているから、ランチも値上がったと思っていたのですが、それとも便乗値上げなんでしょうかねえ?

東京・新橋「香川・愛媛かおりひめ」海老天おろし全粒粉うどん(冷)1200円

 というのも、最近、東京・銀座界隈(日比谷、築地も含む)で1000円以下のランチを探すのが至難の業になってきたからです。昨年までは結構あったのですが、今春になって、ちょくちょく行くイタリアンのランチは、1100円から1300円に値上げ。会社の近くのお寿司屋さんなんか、一昨年までランチ握り980円で食べられましたが、昨年は1300円になり、今年は1600円になってしまいました。えーー!「ふるさとは遠きにありて思うもの…」?

 最近、小生のブログに関しても、「長い」「余計な、いらない情報」と不評をかこっているため、本日はこの辺で、あっけなく、打ち止めにします。

 でも、世の中、「情報過多」とは言っても、本当に、余計な、いらない情報ばかりです。そう思いませんか?