昭和の香りがする名店を紹介=森まゆみ著「昭和・東京・食べある記」

 森まゆみ著「昭和・東京・食べある記」(朝日新書、2022年2月28日初版)を読んでいます。出たばっかりの新刊ですが、「『懐かしの昭和』を食べ歩く](PHP新書、2008年)や「東京人」などに掲載された一部のお店を再取材して所収したものもありました。

 著者の森まゆみさんにはもう30年近い昔、彼女が「谷根千」の編集長として脚光を浴びていた頃に、会社の新年企画でインタビューしたことがあります。千駄木にある千代紙の「いせ辰」など彼女のお気に入りのお店を一緒に回った思い出があります。でも、こんな有名な作家になられるとは思いませんでした。「鴎外の坂」「彰義隊遺聞」(新潮社)など次々と力作を発表され、最近では「聖子——新宿の文壇BAR「風紋」の女主人」(亜紀書房)も出されています。(主人公の林聖子さんは、太宰治の「メリイクリスマス」のモデルになった少女で、新宿で文壇バーのマダムをやっていた人です。私も一度訪れたことがあり、「風紋」の同人誌のようなものを頂いたことがありました。先週2月23日、93歳で亡くなりました)

 森さんは、何でこんな筆力があるかと思いましたら、早稲田大学政経学部の藤原保信ゼミ出身だったんですね。「名伯楽」の藤原ゼミからは、奥武則、姜尚中、斎藤純一、原武史、佐藤正志といった今第一線で活躍する多くの学者を輩出しています。

上野・天ぷら「天寿々」

 さて、「昭和・東京・食べある記」ですが、ムフフフ、この中で取り上げられているお店は、結構、私自身も行っております。甘味は負けますが、居酒屋でしたら森氏以上に行っていると思います。王子の居酒屋「山田屋」には週2回も行っていた時期もありましたが、ボトルキープしていた焼酎を紛失されたのに全く責任を取らないので、行かなくなりました。十条の有名店「斎藤酒場」は、作家の中島らもがこよなく愛して、大阪からわざわざ泊りがけで通ったというお店ですから、その辺りの逸話にも触れてほしかったと生意気ながら思ってしまいました(笑)。

 森氏得意の歴史から、森鴎外も通った上野の蕎麦店「蓮玉庵」や夏目漱石も贔屓にした神田の洋食店「松栄亭」が登場するかと思いましたが、取り上げられていませんでした。その代わり、上野の「藪そば」、天ぷら「天寿々」、浅草の「駒形どぜう」、神保町の喫茶店「さぼうる」「ラドリオ」「ミロンガ」、渋谷の台湾料理「麗郷」、新宿の居酒屋「地林坊」、銀座のインド料理「ナイルレストラン」…といった昭和の香りがする、いわば手堅いお店が選ばれています。

東銀座・イタリアン「ヴォメロ」マルガリータ・ランチ13200円

 森氏は「聞き書き」が得意ですから、お店の御主人らにしっかり取材しています。特に、印象深かったのは、上野の洋食店「黒船亭」の三代目の須賀光一会長の話です。初代の須賀惣吉が明治35年(1902年)に栃木から東京に出てきて、色んな商売をした上で、上野に「鳥鍋」という料亭を始めたのが原点だそうです。初代惣吉は教育熱心で、11人の子どものうち男の子には家庭教師を付け、何人かは東京大学に進学したといいます。

上野・中華「東天紅」

 三代目須賀光一会長の父利雄(二代目)も東大の美学科を出て、大正6年(1917年)に「カフェ菊屋」を始め、当時としてはモダンな輸入酒やハヤシライスやオードブルを出していたそうです。昭和12年(1937年)には初代惣吉と二代目利雄は池之端に本格中華「雨月荘」を始めます。昭和19年に三島由紀夫が出版記念会を開いたのもこの「雨月荘」だったそうです。後に、この中華店は懇意にしていた小泉さんという人に譲り、今は「東天紅」になっているというのです。

 えーー、この東天紅は、私も学生時代、一日だけですが、ウエイターのアルバイトをしたことがありました(笑)。

 須賀一族は、このほか、日本料理「世界」や天ぷら「山下」や洋品店など色んな店を展開しますが、戦災などにも遭い、戦後、昭和44年に二代目利雄は、婦人用品店を兼ねた「レストランキクヤ」を始めます。この店にはジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻もみえ、写真が残っています。

 昭和61年(1986年)、その店を洋食「黒船亭」に代えたのが、この三代目の光一会長でした。残念ながら、私自身は、この店に行くといつも満員で、何人も行列をなして並んでいたので一度も入ったことがありません。この話を聞けば、いつか行くしかありません。

 ジョン・レノンも行った店ですし、こんな歴史のある店なら、30分ぐらい待ってもいいかもしれません。朧げな記憶ですが、確か戦前の「カフェ菊屋」時代、ゾルゲ事件で処刑された尾崎秀実も、通っていたと思います。彼はかなりのグルメでしたから、結構、銀座、浅草など東京の高級料理店をはしごしているのです。

 【追記】

「黒船亭」のHPを見たら、現在は、4代目の須賀利光氏が店主になっておられました。

A four of fish に新たな解釈!=ビートルズ「ペニー・レイン」の歌詞

 時間が経つのがあまりにも速すぎます。60歳の1年は、20歳の頃の1年の3倍速く幾何学級数的に過ぎ去っていくと聞いてはいましたが、3倍どころか、30倍速く経過する気がします。

 昨日は2月26日。「キング・カズ」の誕生日かもしれませんが、やはり「2・26事件」の日でしょう。昭和11年(1936年)の事件ですから、もうあれから86年も経ったのです。先日、過去に放送された「NHK特集」の「2・26事件」を再放送していましたが、これが、何と1979年に放送されたものでした。今から43年前に放送されたものです。1979年の43年前は1936年ですから、ちょうど中間点になるのです。

 私からすれば、1979年は結構最近ですが、1936年は生まれていないので遠い歴史の彼方の出来事だと思っていましたが、なあんだ、つい最近と言えば最近だったのです。その通り、1979年の時点では、事件当時の生き残りの方が多くいらして証言されていました。反乱青年将校を説得した上官の奥さんとかでしたが、一番驚いたのは、東京裁判でA級戦犯となった鈴木貞一(陸軍中将・企画院総裁、1888~1989年)が当時健在で、山下奉文らと一緒に反乱軍鎮圧のための策を練ったり、説得したりしたことを証言していました。彼は100歳の長寿を全うしたので、当時91歳。千葉県成田市に隠遁していましたが、とても矍鑠していて肉声まで聴けたことで大いに感動してしまいました。

銀座・ドイツ料理店「ローマイヤー」本日のランチ(鱈のムニエル)珈琲付1100円

 さて、渓流斎ブログ2022年2月25日付「『ペニー・レイン』のA four of fishの意味が分かった!=ポール・マッカートニー『The Lyrics : 1956 to the Present』」で書いた通り、一件落着かと思っていたら、「英語博士」の刀根先生から、新たな解釈のご提案がありました。

 「ペニー・レイン」の a four of は、4人のグループのことでしょう。fish は『新入り』とか『その場に不馴れな者』『餌食』。そういう女の子たちが頻繁にやって来る。『4人』は無論ビートルズの面々に対応しての4人。fishがfish and chips を表しているというより、chipsの代わりにpies を置いている言葉遊び。言うまでもなくジョン・レノンのひらめきでしょう。in summer はどうなんでしょう。開放的で放埒だった女の子(4人が一組の)や自分等4人のその頃の姿、振る舞い…そこに力点があるような…自分はそんなふうに受けとめています。

 fish and chips がどこまでも安直な食べ物であったように、その頃の自分たち4人と女の子たち(の交渉)=fish and finger pies が一種安直であったように思えます。

 ひょっええー、全く想像もしなかった解釈でした。finger pies がリヴァプールのスラングで、「女の子とのペッティング」を意味するとしたら、十分にあり得ます。

 ただ一つ、難点があるのは、この曲がポールの子ども時代の回想だったとすると、まだ4人のグループは出来ていなかったことです。ジョンとジョージは幼馴染ですが、リンゴとはセミプロになった1960年ぐらいからの知り合いですから。

 恐らく、fish and finger pies は食べ物であることは確かでしょうが、歌詞ですから、二重の意味が込められていることでしょう。となると、four が「4人」なのか、それとも「4ペンス分」なのか解釈が別れます。前回書きましたが、4ペンス=17円ではあまりにも安過ぎるので、「4人分」と解釈する可能性も否定できません。

 ポールさん、どっちが本当か教えてください。

ロシアも欧米も妥協して戦争回避するべきだ=ウクライナ問題

 もうここ1カ月以上も、ウクライナ情勢が懸念されています。

 ロシアがウクライナに侵攻すれば、第3次世界大戦が勃発するのではないか、と言う評論家もいるぐらいです。

 我々、日本人は米国支配下の「西側」諸国に属しているせいなのか、メディアの翻訳報道によって、悪いのはロシア人だと一方的に信じ込まされています。私自身も、先の大戦で、日ソ中立条約を一方的に破棄して60万人もの日本人をシベリアに抑留し、いまだに北方領土を返還しないロシアは好きになれませんから、その通りだと思っていました。でも、実体はそんな単純なものではないようです。

東京・銀座「ポール・ボキューズ」ランチ【前菜】コンソメロワイヤルのパイ包み焼き 春野菜のベニエを添えて

 「ロシア=悪」「西側=正義」の図式を考え直すきっかけとなったのは、先日、行きつけの東京・銀座のロシア料理店に行った時、そこのロシア人の女将さんに話を聞いたからでした。その店は御主人が日本人で調理と会計を担当し、そのロシア人の奥さんは料理を運んだり給仕をしたりしています。人気店なのでいつもお客さんがいっぱいで、二人とも息つく間もなく、てんてこ舞いです。

 ですから、あまり話しかけるのも気が引けていたのですが、今回はウクライナ問題のことをどうしても知りたかったので、帰りの会計の際に、御主人に聞いてみたのです。

 「奥さんはウクライナ人ですか?」

 「いや、ロシア人ですよ」

 「今、大変ですね」

 「本来、ロシア人もウクライナ人もほとんど一緒ですから、戦争になるわけないんですけどねえ」と御主人。

 そこで、私はロシア人の奥さんに向かって、半ばジョークで、

 「戦争しないでくださいよ。プーチンさんに伝えてください」と忠告してみました。

 すると、奥さんは流暢な日本語で、

 「戦争したいのはアメリカ。ロシアは戦争なんかしたくありませんよ」と反論するではありませんか。

 なるほど、普通のロシア人の「庶民感覚」を教えてもらった気がしました。

東京・銀座「ポール・ボキューズ」ランチ【メインディッシュ】あぶくま三元豚のロティ 福島県産あんぽ柿とクリームチーズのクルートをのせて

 ロシア側からすると、悪いのは米国ということになります。ウクライナのコメディアン出身のゼレンスキー政権が、ロシアを仮想敵国とする北大西洋条約機構(NATO)に加盟しようとしたのがきっかけです。これでは裏庭に敵が土足で踏み込んできたことに他ならなくなります。もっと言えば、首筋に匕首(あいくち)を突き付けられた感じか? プーチン政権も「仕方なく」、ウクライナとの国境付近に15万人規模の軍部隊を集結させ、米欧にNATO不拡大を要求せざるを得なくなった、というのが、ロシア側の主張になります。

 情勢を冷静に見れば、ウクライは、親ロシア武装勢力が支配する東とウクライナ民族意識が強い西側と分裂している状態です。2014年にウクライナのクリミア半島がロシアにあっさりと併合されたのも、ロシア系住民か、シンパが多かったからでしょう。 

東京・銀座「ポール・ボキューズ」ランチ【デザート】“ムッシュ ポール・ボキューズ”のクレーム・ブリュレ

 要するに、今回の問題は、人口約4500万人のウクライナが、天然ガスなどの資源も含めた経済的基盤と軍事的支援を欧米にするか、ロシアにするか、選択の問題だと言えるでしょう。覇権主義の問題です。でも、ウクライナはどちらかを選ぶことなく、曖昧な玉蟲色的な選択にすることはできないでしょうか。

 戦争はいつの時代も「正義のため」「自衛のため」「自存のため」為政者によって始まります。ロシア人も米国人も「戦争はしたくない」というのが庶民感覚なら、為政者は平和的な外交で決着を付けるべきです。

 戦争になれば多くの人が犠牲になります。いくらロシア嫌いの日本人でも、ドストエフスキーやトルストイ、それにチャイコフスキーを愛してやみません。それは、世界でも類を見ないほどです。将来のドストエフスキーにでもなれたかもしれないロシアやウクライナの若者が戦争によって犠牲になってしまっては居たたまれません。

 為政者の皆さんには、戦争だけは回避してもらいたい。

政界の黒幕と義仲寺との接点とは?=「裏社会の顔役」(大洋図書)を読んで

 この雑誌、タイトルもおどろおどろしいですし、買うのも憚られるものですが、迷うことなく買ってしまいました。「手元不如意」ではなく、地元の健康キャンペーンに応募したら1000円の図書券が当たり、「何にしようか」と書店に行ったら、すぐにこの雑誌が目に入ったからでした。

 ちょうど1000円でした。

地元市健康マイレージで、1000円分の図書カードが当選しました。今年は運が良いです(笑)。

 内容は、この雑誌の表紙に書いてある通りです。

・日本を動かしたヤクザ 山口組最強軍団柳川組「柳川次郎」、伝説のヤクザ ボンノこと「菅谷政雄」

・愚連隊が夜の街を制した●万年東一●加納貢●安藤昇●花形敬

・黒幕が国家を操った●児玉誉士夫●笹川良一●頭山満●四元義隆●田中清玄●西山広喜●三浦義一

・一人一殺「井上日召」と血盟団事件

・米国に悪魔の頭脳を売った731部隊長 石井四郎中将

 などです。

 驚いたことに、この中の「満洲帝国を闇で支配『阿片王』里見甫」の章を書いているのが、皆様御存知の80歳のノンフィクション作家斎藤充功氏でした。頑張っておられますね。

 また、「日本を動かした10人の黒幕」で頭山満などを執筆した田中健之氏は、どうやら玄洋社初代社長平岡浩太郎の曾孫に当たる方のようです。

 正直言いますと、この本に登場している「黒幕」の皆様は、私にとってほとんど「旧知の間柄」(笑)で、あまり「新事実」はありませんでしたし、2020年1月21日付の渓流斎ブログ「日本の闇を牛耳った昭和の怪物120人=児玉誉士夫、笹川良一、小佐野賢治、田中角栄ら」で取り上げた別冊宝島編集部編「昭和の怪物 日本の闇を牛耳った120人の生きざま」(宝島社、2019年12月25日初版)の方が、どちらかと言えば、うまくまとまっていたと思います。この雑誌は、全体的な感想ですが、黒幕の人たちを少し持ち上げ過ぎていると思いました。

 とはいえ、歴史は、学者さんが得意な「正史」だけ学んでいては物事の本質を理解することはできません。「稗史」とか「外史」とか言われる読み物にも目を通し、勝者ではなく、敗者から見た歴史や失敗談の方が、結構、日常生活や人生において役立つものです。

 敗戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)のG2(参謀第2部)に食い込み、吉田茂から佐藤栄作に至るまで影響力を行使し、日本橋室町の三井ビルに事務所を構えていたことから「室町将軍」と恐れられたフィクサー三浦義一は、「55年体制」と後に言われた保守合同の際に巨額の資金を提供したといいます。

 その三浦義一のお墓に、かつて京洛先生に誘われてお参りしたことがあります。滋賀県大津市にある義仲寺です。名前の通り、木曽義仲の菩提寺です。戦後、荒廃していたこの寺を「日本浪漫派」の保田與重郎とともに再興したのが、この三浦義一だったからでした。本当に狭い境内に、木曾義仲と三浦義一と保田与重郎のほかに松尾芭蕉のお墓までありました。

 何と言っても、私自身、最近、鎌倉幕府の歴史に関してのめり込んで、関連書を読んでいるので、「そう言えばそうだった」と思い出したわけです。木曾義仲は一時、京都まで攻めあがって平氏を追放して「臨時政府」までつくりますが、後白河法皇らと反目し、法皇から「義仲追討」の院宣まで発布されます。これを受けた源頼朝は範頼・義経を京都に派遣し、木曾義仲は粟津の戦いで敗れて討ち死にします。その首は京都の六条河原で晒されましたが、巴御前が引き取って、この大津の地に葬ったといわれます。

 そんな、戦後になって、誰も見向きもしなくなって荒廃してしまった義仲寺を保田與重郎や三浦義一がなぜ再興しようとしたのか詳しくは存じ上げませんけど、彼らの歴史観といいますか、男気は立派だったと思います。

🎬「ドライブ・マイ・カー」は★★★

 カンヌ国際映画賞(脚本賞ほか4冠)、ゴールデングローブ賞(非英語映画賞)、そして何よりもアカデミー賞4部門(作品、監督、脚本、国際映画)ノミネートということで、巷で騒然たる話題になっている濱口竜介監督作品「ドライブ・マイ・カー」が再上映されるというので昨日、映画館に足を運んで観に行って来ました。

 偉そうですが、私の採点は星三つでした。どちらかと言えば、昨年12月に観た同監督作品「偶然と想像」の方が遥かに面白かったです。

 勿論、私は文化国粋主義者ですから、この作品は、是非ともアカデミー賞を取ってもらいたいと思っていますが、私が審査委員なら、正直、国際映画賞なら他の作品との兼ね合いから票を入れてもいいですが、同賞最大最高の「作品賞」ともなると、入れませんね。もし、作品賞を取ったら、「渓流斎の目は節穴。観る目が全くない」と批判されると思いますが、それでも構いません。

 何しろ、不思議なのは、過去に、巨匠黒澤明も溝口健二も「作品賞」にはノミネートすらされたことがないといいますからね。

 この濱口作品はあまりにも私的小さな世界に縮こまっていると思います。黒澤明は、「我が青春に悔なし」で京大の滝川事件を題材にしたり、「生きものの記録」で第五福竜丸の被爆事件から翻案したりして、時事的、社会的話題に常に目を配らせていました。溝口健二は、「西鶴一代女」や「雨月物語」など歴史物を題材に現代の矛盾を照射したりして社会性がありました。

 村上春樹原作の「ドライブ・マイ・カー」に社会性も時事性もないとは断言しませんが、やはり、黒澤明や溝口健二には遥かに及びません。溝口健二から「成瀬君のシャシンには〇〇〇〇がない」と批判された成瀬巳喜男(「浮雲」「流れる」)にも及びません。この作品がアカデミー賞作品賞を受賞したら私は失望して、余生は、黒澤や溝口や成瀬や小津安二郎らの作品を観て過ごすと思いますよ。(ポン・ジュノ監督「パラサイト」が作品賞を受賞した時も大いに疑問でしたが)

銀座「le vin」ハンバーグ・ランチ1000円(飲み物付)

 「ドライブ・マイ・カー」は昨年の夏に公開された時も、かなり話題になっていましたが、観に行きませんでした。3時間近い長い映画であるということと、「妻を失った舞台俳優の喪失感」云々といった梗概を読んで、気が引けてしまったからでした。ちょうど、昨年は春に高校時代の親友を病気で亡くしたため、「喪失感」が計り知れなく、現実でこんなに苛まれているのに、またそんな「喪失感」の映画なんか観たくない、と思ったからでした。

 で、実際に観て、やはり、私は「近い」ので途中でトイレに駆け込んでしまいました(笑)。そして、映画の前半は、正直、ポルノ映画チックか、覗き見趣味的な場面が多くて、辟易してしまいました。

 チェーホフの「ワーニャ伯父さん」を広島で上演する話なので、俳優が俳優を演じるというマトリョシカの入れ子のような話なのですが、何と言っても、濱口竜介監督お決まりの「長セリフ!」。東京芸大大学院修了のせいか、ちょっとインテリ過ぎの嫌いがあるのでは、と思ってしまいました。

 そう言えば、黒澤明も溝口健二も成瀬巳喜男も昔の映画監督は、大学は出ていません。それでも脚本は簡潔で明瞭で、間合いが素晴らしく、台詞がなくても、人間関係の機微を見事に描いていました。

 またもや老人の懐古趣味的な話になってしまいましたね。

国粋主義的、超国家主義の臭い=北京冬季五輪の真っ最中に考える

 目下、北京で冬季五輪が開催されていますが、テレビだけが雄叫びをあげているだけで、あまり盛り上がっていませんね。※個人の感想です。

 北京冬季五輪は、スポーツの祭典というより、すっかり国際政治の駆け引きの場と化してしまいました。ヒーローは金メダルを獲ったアスリートではなく、政治家です。

 その最たる御仁が、国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長(68)です。彼は「ぼったくり男爵」の異名を持ちますが、元五輪選手というより政治家です。冬季五輪の競技でもないテニスの彭帥選手とわざわざテレビ電話で会談したり、直接会食したりして、疑惑の火消し役を務めた功績で、北京市中心部の公園に、何んとも立派な銅像が建てられました。汚職疑惑などで悪名高かったIOC元会長のサマランチさんは歴史に残る凄い人でしたが、バッハさんはそのサマランチさんを超えた感じです。

 彭帥選手の疑惑というのは、中国の元副首相(最高指導部・党中央政治局常務委員)張高麗さん(75)から性的関係を迫られたというものでしたが、その後、本人も曖昧にしたりして、何もなかったことになりました。

 疑惑といえば、新疆ウイグル自治区で虐待や人権侵害が叫ばれ、西側諸国による「外交ボイコット」まで発展しましたが、中国最高指導部(チャイナ・セブン)に言わせれば、「そういう事実はない」の一点張り。どうでもいい話かもしれませんが、そう断言する中国外交部報道局の趙立堅副局長(49)は、いつもテレビカメラを睨みつけ、怖い顔をしていますね。これも※個人の感想です。

 それでいて、中国国内の街の至る所で、無数の監視カメラが張り巡らされたおかげで、交通違反や犯罪まで減少し、すっかり治安が良くなったようです。無暗にクラクションを鳴らしただけでも交通違反となり、監視カメラとAIによってドライバーが特定され、反則金と顔写真まで電光掲示板で晒されるということで、北京市内もすっかり静かになったといいます。

 天才作家「1984」のジョージ・オーウェルでさえ、ここまで「予言」できなかったことでしょう。

例の往復はがきで応募した「ドナルド・キーン文学散歩」は「落選」してしまいました。ずわんねん。

 何と言っても、オリンピックは「国威発揚」の場ですから、世界経済大国第二位になった中国も自信満々です。それと並行するかのように、中国の若い人の間で「漢服」のファッションが流行っているそうです。漢服とは、漢民族の伝統的な服装のことです。私は誤解しておりましたが、中国の伝統的衣装といえば、チャイナドレスだと思っていましたが、あれは清帝国を成立させた満洲の女真族の伝統衣装だったんですね。日本の和服も漢服の影響を受けているという説もあります。

 私が学生だっ1970年代は、中国からの留学生は皆、「人民服」を着ていたものでした。今はすっかり様変わりして漢服の流行で、怖いもの知らずの副局長を筆頭に、中国は自信で漲っています。

 まあ、異国の話ですから、「お好きなようにしてください」ですが、何処か排外主義的、国粋主義的、超国家主義の臭いをうっすらと感じるような感じないようなそんな気がします。(断言できないのは、異国からの検閲を極度に恐れているからでした。)

人間、14歳が勝負の分かれ目?=イタリア映画讃

  本日、ランチで行った東銀座のイタリアンレストランで、稀に見る飛びっきりの美人さんとほぼほぼ同席となり、何か得した気分になり、食後のコーヒーまで改めて注文してしまいました(笑)。

 誤解しないでくださいね。ただ、たまに、チラッと見ていただけーですからね(笑)。

 その美人さんはお仲間さんと3人で食事をしていたので、よく素敵な笑顔がこぼれておりました。まだ20代半ばか後半といった感じでしょうか。いやはや、これ以上書くと炎上するので、やめておきます(笑)。

 後で、誰に似ているかなあ、と思ったら、先日(2月2日)亡くなったイタリアの女優モニカ・ヴィッティさんでした。ちょっときつめのアイラインで、少しワイルドな感じでしたが、知的そうで、なかなか、滅多にお目にかかることはできない美人さんでした。

 とにかく、モニカ・ヴィッティさんにそっくりだったので、(90歳で)亡くなった彼女が再来して降臨してきたのではないかとさえ思いました。でも、今では彼女のことを知る人はもう少ないかもしれません。私は、彼女がアラン・ドロンと共演した「太陽はひとりぼっち」(ミケランジェロ・アントニオーニ監督)で強烈な印象に残っています。1962年公開作品(カンヌ映画祭審査員特別賞受章)ですから、映画館ではなく、何年か経ってテレビか、池袋の文芸座(洋画二本立て100円)で見たと思います。ニーナの主題曲もヒットしたと思います。

 1962年はビートルズがデビューした年ですから、少なくともこの年まで世界的な流行音楽は(映画音楽も)ジャズだったのではないかと思います。私は最近、1950年代から60年代にかけて流行したジャズ・ギターにハマってしまい、昨年から今年かけてもう10枚以上ものCDを買ってしまいました。タル・ファロー、ハーブ・エリス、バーニー・ケッセル、ケニー・バレルといった面々です。彼らの超人的早弾き演奏には圧倒されます。これまで、エリック・クラプトンかジミ・ヘンドリックス、もしくは、ジミー・ペイジかジェフ・ベックかリッチー・ブラックモア辺りが人類最高のギタリストだと思っていたのですが、ちょっと、考え方が変わってきました。ジャズ・ギタリストの早弾きは、ロック以上で、とても真似できませんね。

東銀座・イタリア料理店「エッセンス」ランチB(カサレッチェ)1100円+珈琲100円=1200円

 1960年~70年代はハリウッド映画一本やりではなく、映画館(私がよく行ったのは池袋「文芸座」のほか、大塚駅前の「大塚映画」?、高田馬場「パール座」「松竹座」、飯田橋「佳作座」などの廉価な弐番館です)では、結構、欧州映画が掛かっていました。アロン・ドロンやジャンポール・ベルモンド主演のフランス映画が多かったですが、イタリア映画も負けてはいません。先のアントニオーニ監督の他、何と言っても巨匠ルキノ・ヴィスコンティ(「地獄に堕ちた勇者ども」「山猫」「ルートヴィヒ」など)、それにフェデリコ・フェリーニ(「道」「甘い生活」など)は若輩には難解でしたが、何日も頭の中でグルグルと場面が浮かぶほど印象深かったでした。ピエロ・パオロ・パゾリーニ監督の「デカメロン」や「カンターベリー物語」には衝撃を受けましたが、その前に、ヤコペッティ監督の「世界残酷物語」(1962年)は日本でもヒットしました。DVDがあればもう一度見てみたいですが、所有したくないので、レンタルであればの話ですけど(笑)。

 ああ、そう言えば、「ロミオとジュリエット」「ブラザーサン・シスタームーン」のフランコ・ゼフィレッリも大好きな監督です。それに何と言っても、ビットリオ・デ・シーカ監督の「ひまわり」(マルチェロ・マストロヤンニ、ソフィア・ローレン主演)は名作中の名作です。

 懐古趣味的な話になってしまいましたが、人間、多感な若い時(恐らく14歳)に聴いた音楽や観た映画が、一生を左右する、ということを言いたかったのです。今の若者たちに流行のラップやヒップホップは、私自身、個人的には、もう手遅れでついていけないので勘弁してほしいですし、映画も勧善懲悪がはっきりした単純なハリウッド映画よりも、難解なヨーロッパ映画の方が趣味的には合ってしまうのです。

 何か、問題ありますかねえ?

新型コロナ狂詩曲=濃厚接触者?と会食

 先週の金曜日、ということは1月28日のことですが、結果的に、濃厚接触者の疑いが強い人とランチしてしまいました。昨晩、本人のA君から連絡がありました。

 えーーーーーー!!!と一時、肝をつぶしました。

 でも、色んな運が重なって、大丈夫そうです。そんな予感がしています(笑)。

 昨晩、「陽性」が分かったのは、A君の同居する家族でした。当然ながら、A君は濃厚接触者となります。彼が住む保健所の調査によると、彼のその同居する家族が発症したのは1月31日で、その2日前を起算した1月29日に接触した人が感染する確率が高いといいます。私がA君と会食(接触)したのは、28日だったので、定義上は「影響」しないというのです。何だかよく分かりませんが(笑)。

 保健所が定義する濃厚接触者とは、29日以降に陽性者と15分以上、マスクなしで接触した人ということになり、勿論、A君を始め、その他の家族の人は濃厚接触者となります。ということは、28日にA君と接触した私は、濃厚接触者にはならないということになるのでしょうね、きっと。

遠くにスカイツリー、見えんかあ…

 彼が住む某市は、PCR検査については現在、発熱者と自覚症状のある人が中心で、A君らのように自覚症状のない人たちは、なかなか検査を受けることが難しいといいます。

 PCR検査が受けられない人が多いので、食品の買い出しはOKですが、「自宅で2月6日まで自粛生活をしてください」と彼は保健所から言われたそうです。もっとも、彼はリモートワークなので、仕事には全く影響ありませんが。

 私は、幸い、と言いますか、運が良いことに、1月31日(月)に銀座で、無料でPCR検査を受けることができ、その翌日に、結果は「陰性」と出ておりました。

 今朝も通勤途中で、その銀座の「無料PCR検査センター」の前を通りましたが、ガラガラでしたけどね。

 とにかく、今はどん底から這い上がって来たような気分です(笑)。

日本国民の義務を果たして来ました=確定申告騒動記

 昨日は、1年で1回の、そして年間を通じて最も嫌いな確定申告に行って参りました。

 新型コロナウイルスの感染が過去最多を日々更新している最中(東京ではついに2万人を超えたとか)、何で好き好んで、わざわざ会社の休みまで取って、税務署にまで出掛けるかと言いますと、自分一人ではとても出来ないからです。

 今、e-TAXとかいって、自宅で居ながらにして楽に出来まっせ、というのが国税庁のプロパガンダではありますが、私なんか、これはどうすればいいのか、何と書けばいいのか、すぐ行き詰ってしまい、匙を投げたくなってしまいます(手引書を何冊も読んでもです!)。側に係りの人がいてくれて、困ったときに助けてくれれば、こんな楽なことはありません。実際、今回、手助けしてくれた係りの人たちが本当に天使に見えましたから。

 実は、昨年も同じ時期に確定申告に行って来まして、今年は事前の準備もかなり濃厚にやって来ましたから、心の中では「楽勝」と踏んでいました。そしたら、今年は昨年の2倍も時間が掛かってしまいました。

 原因は、最初についた係りの70代ぐらいのお爺さんが、適当な方で、私に違う申請書類を渡してくれてしまったのです。数字の入力が4分の3ほど終わった時点で、別の若い優秀な係りの人が間違いに気づきましたが、もう一回、同じことを書類に書き直さなければならなくなり、大幅に時間を取られてしまったのです。

 もう一つは、昨年は、会場内にパソコンが設置されていましたが、今年は、何と全て撤去されていました。登録はどうするのかというと、自分のスマホを使え、というのです。今さら、目の前に置いてあるマニュアルを見ながら操作するんですかあ? ま、四苦八苦、文句たらたら言いながら、何とか、数字を入力していきましたよ。

地元市健康マイレージで、1000円分の図書カードが当選しました。今年は運が良いです(笑)。

 そして、全部で2時間ぐらいでやっと入力が終了しました。立ち作業でしたから、脚も疲れ、喉もカラカラ。でも、一番最後の「帳票表示・印刷」をタップしても、なかなか印刷してくれません。傍にいた50歳ぐらいの男性の係りの人は、失礼ながら、あまり深く認知されていないように見える方で、手助けして頂きましたが、「おかしいなあ」と言いながらも、うまくいきません。5分間以上格闘しましたが、ウンともスンとも最後の「終了」のサイトに移行してくれないのです。

 結局、30代半ばぐらいの若い人がやって来て、「ああ、大丈夫ですよ」と言いながら、瞬時に操作してくれて、ついでにデータをスマホ内のブックアプリに保存までしてくれて、無事終了することが出来ました。一人だったら、匙を投げて、パニクっていたかもしれません。

 いやあ、本当に、チカレタビー(死語ですが、何か?)

 目が飛び出るような?納税額はQRコードによるコンビニ払いにして、帰り道にあるローソンで振り込んで来ました。これで、日本国民としての義務を果たせて、ホッとしたところです。

 それにしても、もう一回言いますが、本当にチカレタビー。

「闘う講談師二代目松林伯円」と「太平洋戦争初の善通寺捕虜収容所」=インテリジェンス研究所主催第8回特別研究会

1月29日(土)は、第8回特別研究会(インテリジェンス研究所主催)をオンラインで聴講しました。ZOOMのオンラインなので、なるべく目立たないように、自画像はオフにして、音声はミュートにし、息もせず、瞬きもせず、伊賀の忍者か隠れキリシタンのように自分を消していたつもりでしたが、ある方から、(名前は口が裂けても言えませんが)、「本日の講演はいかがでしたか?」と聞かれてしまい、「ありゃま、こりゃ逃げられないわいなあ」と観念したわけです。

 観念した、というのは、正直、講演の内容が難しくて、もしくは、自分の認識力がついていけなかったからでした。何と言っても、講演の画面の切り替えが早かったり、講師のお話が聞きとれなかったりして、メモを取るのができなかった箇所がいくつもあったからでした。「とても、ブログにはまとめきれないなあ」と観念したわけです。

 と、クドクドと前書きを長く書いたのは、とにかく、逃げ切れないので、この特別研究会のことを書くことにしますが、本文が短くなると予想されるので、行数を稼ごうという魂胆があったことを告白しておきます(笑)。

 さて、報告者はお二人の特別研究員の方でした。最初は、昨年、「たたかう講談師: 二代目松林伯円の幕末・明治」(文学通信)を出版された目時美穂氏で、演題は「明治政府の国民教化政策に対する大衆芸能の対応―講談を例として」。続いて登壇されたのは、昨年「『善通寺俘虜収容所』ハンドブック : 太平洋戦争初の捕虜収容所と人々の記録」(私家版)を上梓された名倉有一氏で、演題の副題は「新資料『吉田文書』を中心として」でした。

 最初の目時氏の講演に登場した講談師二代目松林伯円という人物は、不勉強で私は全く知りませんでした。

 伯円は、明治期に、一般大衆から大物政治家に至るまで絶大なる人気を誇った講談師ということですが、私が知らないだけかもしれませんが、歴史に埋もれてしまった人物といえるでしょう。明治の講談は、木戸銭が二銭五厘(現在の250円ぐらい)と安価で庶民が気楽に楽しめる娯楽だったといいます。

 当時の講談の演題は「鼠小僧治郎吉」といった伝説物だけでなく、新聞に掲載された時事ネタや犯罪、そして自由民権運動など政治的な話までも題材にして創作されたといいます。その講談などの人気に目を付けた明治政府は、国民の道徳の涵養や天皇を中心とした国家神道を奉じる中央集権国家であることを国民に知らしめる目的で、大衆芸能を利用します。山縣有朋が伯円の大ファンで、彼に接近したといいます。

 明治政府は民権運動を弾圧するために、新聞条例や讒謗律(明治8年)、集会条例(明治13年)などを発布して監視体制を強化し、講談も少なからず影響受けたといいます。

 そのため、伯円は、講談小屋が閉鎖されたりしてはたまりませんから、山縣有朋ら大物政治家については、お客さんとして歓迎はしても、権力者側になびくことはなく、自分の考えや芸道に邁進していたのではないか、というのが目時氏の見立てでした。(伯円の政治信条は分かりませんが、と付言されましたが)

 もう一つ、今回勉強になったことは、明治政府は幕末に欧米と締結した不平等条約改正の一環として、日本を「文明国」として諸外国に認めてもらうために、新聞の普及を推進したという話です。その具体的な政策の中には、「聚覧所」と呼ばれる新聞が読める場所を設置したり、講談師に新聞を読み聞かせる「訓読会」を浅草で開催したりしたといいます。「郵便報知新聞」など当時の大新聞と呼ばれる政治色が強い新聞はインテリ向けで、漢籍の素養がある人しか読めなったからです。(現代人も、とても読めませんよ!)

 お二人目に登壇した名倉有一氏の「太平洋戦争初の善通寺捕虜収容所:新資料『吉田文書』を中心として」は、非常にマニアックといいますか(良い意味で)、これまで誰も成し遂げることができなかった善通寺捕虜収容所の歴史と実体をまとめた労作の話でした。

 善通寺捕虜(当時は俘虜)収容所とは、昭和17年1月14日、香川県善通寺町(現善通寺市)に太平洋戦争中に国内外を通じて初めて開設された米、英、豪州人らの捕虜収容所で、当初は355人で、終戦間近には720人いたといいます。「吉田文書」というのは、善通寺捕虜収容所に関わった陸軍の吉田茂主計中尉が残した資料のことです。

 名倉氏は、捕虜の扱いについて、日本は当初、国際法に遵守して厳格に守ってきたのですが、敗戦色が濃くなると、将校に関しては労働に従事させないという国際法を破って労働に参加させたりした実態も明らかにされていました。

 この捕虜の利用については、名倉氏は、陸軍省は主に労働力として、海軍軍令部は情報源として、情報局は、日本の立場を海外に主張するプロパガンダ(宣伝)として、陸軍参謀本部(第2部第8課恒石重嗣少佐)も、敵兵や敵国民に厭戦や反戦気分を高める宣伝として使った、などと図解で区分けされてましたが、非常に明瞭で分かりやすい説明でした。

 これらのプロパガンダは、内閣と情報局と大本営の代表が集まった「連絡協議会」で方策を決定し、実務は日本放送協会と国策通信社の同盟通信社が主に実践部隊として担ったという話でしたが、私もメディアの片隅に棲息する人間として興味があり、もっと詳しく聴きたかったでした。

 あれっ?結構長い文章になってしまいましたね。最後までお読み頂き洵に有難う御座いました。