お世話になりました「『知の巨人』立花隆のすべて」

 昨日10月7日夜10時41分に、東京都足立区と埼玉県南部で震度5強の地震がありましたが、吾人は熟睡中で、揺りかごかメリーゴーランドに乗っている感じで、夢見心地でした。でも、幸いにも、本棚から本が落ちてくることもなく、被害はなし。ただし、本日は電車が間引き運転となり、朝は、駅のホームで何十分も待たされた上、猛烈な通勤・通学ラッシュで長時間の「押しくら饅頭」状態で閉口しました。

 電車内では、捕まり棒に捕まっていましたが、後ろから押されても、筋力が低下していて、腕がブルブルと震えてヘナヘナと倒れてしまいそうでした。我ながら、立派な「老力」がついたものです…。

 大変有難いことに、今朝は、心配してメールをしてくださる方がいらっしゃいました。この場を借りて御礼申し上げます。「この場」といっても、個人的なブログなのですから、「あに、言ってるんだか」ですけどね(笑)。

※※※※※

 さて、最近読んでいるのは文春ムック「『知の巨人』立花隆のすべて」(文藝春秋、2021年8月16日発行、1650円)です。今年4月に80歳で亡くなった「知の巨人」の追悼本ですが、電車内で読んでいるのが、何となく恥ずかしい気がして隠れて読んでいます。何と言っても「知の巨人」というキャッチコピーが、本人は恥ずかしくなかったのか、訝しく思っていたら、この本の中で、読書猿という人が「『知の巨人』という言葉には違和感がある。個人的には、ほとんど蔑称ではないかとさえ感じられる」と書いておりました。私も同感です。

 何と言いいますか、知識を商業化するようで、違和感というより、嫌悪感を味わいます。確かに、彼は「知の巨人」かもしれませんけど、本人や信奉者やその取り巻き連中が「ニッヒッヒ」と密かに味わっているだけで十分で、日本的繊細さに欠けますね。

 その追悼本ですが、橘隆志(本名)という大秀才が、如何にして立花隆という評論家になったのかといった「人となり」を分析した、その集大成のような本です。本人も対談の中で語っていますが、やはり、5歳の時の「戦争体験」がその後の人生に最も大きな影響を与えたようです。橘家は、どうも「放浪癖」がある人が多かったらしく、立花隆の父橘経雄は、早稲田大学の国文科を出た人で、長崎のミッション系の女学院の教師になったかと思ったら、「勝手に」北京の師範学校の副校長として大陸に渡ります。立花隆は1940年生まれですから、1945年の日本敗戦時は5歳。この大陸からの引き揚げでは混沌状態の中、相当苦労したようで、まかり間違えば、自分も残留孤児になっていたかもしれない、と振り返るほどです。

 父橘経雄の従兄弟が、血盟団事件、五・一五事件で理論的支柱となった右翼思想家の橘孝三郎というのは有名な話ですが、父親の長兄が「山谷のおじさん」と呼ばれた放浪者だったいう話は興味深い。一方、母親の龍子は、自由学園と雑誌「婦人之友」をつくった羽仁もと子(日本人女性初のジャーナリスト)が、戦時色が強くなった1938年に日本に居たたまれなくなって、北京に自由学園北京生活学校をつくって以来、彼女の「信者」となり、最後まで「友の会」の会員として活動したといいます。父親の経雄は戦後、日本に引き揚げてから、その後、「週刊読書人」の専務を務めるなどした人ですから、まあ、家庭内でも蔵書に恵まれたインテリ一家育ちということになります。

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 この本では、色んなことが書かれていますが、102頁の「東大生たちに語った特別講義」が個人的には面白かったでした。知識の塊の「天下無敵」で、自信満々にしか見えない立花氏ですが、若い頃は何度も自殺しようと思った、と告白しているところに親近感を覚えました。しかも、その原因は「深刻な失恋」だと言うではありませんか。私自身にも「覚え」がありますから、雲の上の人に見えた巨人も、一気に身近に感じてしまいました(笑)。

 もう一つ、一冊の本を書くには100冊以上読まなければ、読むに値するロクなものは書けないという彼の信念には感服してしまいました。できれば、1000冊読むのが望ましい、という彼の格言には卒倒しましたが(笑)。私自身は、普通の人よりほんの少し本は読んでいると思っているのですが、それでも、1カ月に多くても10冊か15冊程度です。文芸担当記者をやっていた若い頃は、月に30~40冊読んでいましたが、2年未満で限界でした。1日1冊以上読むというのは、就寝と風呂に入っている時間以外、歩いていても、トイレの中でも、食事をしていても、全ての時間、読書に費やすことになりましたからね。もう、そんな体力も精神力もありません。もし、今から1000冊読むとなると、10年ぐらい掛かるでしょうね。

 いずれにせよ、立花隆先生にはお会いしたことはありませんでしたが、著作で大変、お世話になりました。途中で「臨死体験」や「脳死」に関する著作に傾いた時、ついていけなくなって離れた時期もありましたが、恐らく、彼の膨大な全著作の5割は読んでいると思います。

 印象に残っている著作は、アトランダムで「『知』のソフトウェア」「日本共産党研究」「宇宙からの帰還」「サル学の現在」「精神と物質」「インターネットはグローバル・ブレイン」「東大生はバカになったか」「武満徹 音楽創造への旅」…などですが、やはり、たった1冊、ナンバーワンに挙げたいのは、「田中角栄研究」ではなく、「天皇と東大」ですねこの本で初めて日本の右翼思想の源流と支流と河口を一気に知ることができ、眩暈がするような知的興奮を味わうことができました。

「明治十四年の政変」がなければ海城はなかった?

  「明治十四年の政変」と呼ばれる事件は、教科書ではサラッと触れられる程度で、ほとんんどの人が歯牙にもかけません。しかしながら、実は、後世に多大な影響を与えた日本の歴史上、重要なターニングポイントになった政変でした。議会開設と憲法制定のきっかけにはなりましたが、最大のポイントは、明治維新の功労藩と呼ばれた薩長土肥の四藩のうち、この政変によって、肥前が追放され、その前に土佐が脱落し、薩長二藩の独裁体制に移行したことでした。

 結果的に、この政変で中央政府から弾き飛ばされた肥前(大隈重信)と、明治六年の政変で政権から脱落した土佐(板垣退助)は自由民権運動に走り、それぞれ立憲改進党や自由党などを創設します。こんなに歴史上重要な政変だったのにも関わらず、あまり人口に膾炙しなかった理由は、この事変があまりにも複雑怪奇で、憶測の域を出ないことが多く、先行研究が少なかったからということに尽きるかもしれません。

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 恐らく、現在手に入る一般向けの研究書で最新資料が盛り込まれ、最も充実した関連書は、久保田哲(1982~)武蔵野学院大学教授著「明治十四年の政変」(集英社インターナショナル新書、2021年2月10日初版)だと思われますが、この本を読んでも、結局、あまりよく分かりませんでした(笑)。なぜなら、本当に複雑怪奇な政変で、この政変を境に薩長独裁政権ができたわけではなく、政変後でも政府内には大隈に近い副島種臣や佐野常民らが留まったりしていたからです。(「開拓使官有物払い下げ」を沼間守一の「東京横浜毎日新聞」に誰がリークしたのかさえ分かっていません)

 ただ、肥前の大隈重信が参議の職を剥奪されて追放された背景には、議会開設と憲法制定問題があり、大隈が進めたかった英国型議員内閣制と長州の伊藤博文ら(フィクサーは肥後の井上毅)が推し進めようとしたプロシア(ドイツ)型立憲君主制が対立していたこと。同時に、薩摩の黒田清隆(バックに政商の五代友厚がいた)が関わっていた北海道の開拓使官有物払い下げ事件があったという構図だけは理解できました。

 また、政変の主役の一人である大隈重信の背後では、「福沢諭吉と三菱が裏で糸を引いて操っている」といった噂が宮中・元老院グループや中央政府の薩長出身者の間で、真面目に信じられていたことをこの本で知りました。後に早稲田大学と慶應義塾の創立者としても知られる大隈と福沢は肝胆相照らすところがあり、 英国型議員内閣制を日本に導入する考えで一致し、日本で初めて外国為替業務が出来る横浜正金銀行(戦後、東京銀行、現在、三菱UFJ銀行)が設立されたのは、この2人の尽力によるものだったこともこの本で初めて知りました。(政変の「敗者」となった福沢諭吉は、その翌年、「時事新報」を創刊します)

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 私自身が、明治十四年の政変の重要さを認識したのは、4年ほど前の高校の同窓会で、恩師の目良先生から御教授を受けたからでした。我々の高校の創立者は、古賀喜三郎(評論家江藤淳の曽祖父)という肥前佐賀藩出身の海軍少佐でした。この明治十四年の政変をきっかけに、政官界だけでなく、軍人の世界でも肥前出身者はパージされ、陸軍は長州、海軍は薩摩出身者が優遇されるようになります。古賀喜三郎少佐も、限界を感じて、海軍を去り、教育界に身を投じて、明治24年に海軍予備校(海城高校の前身)を創立します。ということは、明治十四年の政変がなければ、古賀喜三郎はそのまま海軍軍人として生涯を終えていたかもしれません。

 そんなわけで、私はこの政変には人一倍興味を持ち、先ほどご紹介した 久保田哲著「明治十四年の政変」を読んだわけです。 久保田教授は学者さんにしては(失礼)、文章が非常に上手く、名文家で、大変読みやすい。あれだけ複雑怪奇な政変をよくここまでまとめ上げたものだと感心しました。「維新三傑」と呼ばれた木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通がそれぞれ、病死、戦死(自決)、暗殺という形で亡くなり、混沌とした中で、政変は、権力争いで勃発した内紛と言えるかもしれません。

◇井上毅は日本のキーパースン?

 この内紛で勝利を収めた伊藤博文のバックには肥後の井上毅が暗躍していたこともこの本では描かれていました。司法官僚の井上毅は、法制局長官などを歴任し、明治憲法を始め、軍人勅諭、教育勅語、皇室典範などを起草した人として知られています。結局、明治という国家、と言いますか、日本の国のかたちをつくったのは、この井上毅ではないかと、私なんかは一人で思い当たってしまいました。官僚として優秀ながら、「反・福沢諭吉」の闘士として、最高権力者である岩倉具視や伊藤博文らに取り入り、かなり政治力を使って暗躍したようです。暗躍といっても常套手段であり、悪いイメージを帳消しにするほどの功績があるので大したものです。

 井上毅こそ日本史上で欠かせない、とてつもない人物だという認識を私は新たにしました。

【追記】

 ・伊藤博文は1885年の内閣制度創設により、初代首相に就任しますが、大日本帝国憲法には首相について、特に規定はなく、行政権も国務大臣の輔弼によって天皇が行使するのが原則でした。ということで、首相とはいっても、他の国務大臣と同格の「同輩中の首席」に過ぎなかった。

 戦後、日本国憲法は、首相を国会議員の中から国会の議決で指名する議員内閣制を採用し、首相に国務大臣の任免権を付与したため、「最高権力者」となった。

 ・大隈と福沢が設立した横浜正金銀行の本店ビル(現神奈川県立歴史博物館、重文)を設計したのは、明治建築界の三大巨匠の一人、幕臣旗本出身の妻木頼黄(よりなか)。他に、東京・日本橋、半田市のカブトビール工場などを設計。三大巨匠の残りの2人は、辰野金吾(唐津藩、「東京駅」「日銀本店」など)と片山東熊(長州藩、「赤坂離宮」など)。

 

 

政友会と民政党の覇権争いの怨念は今でも

  自民党の岸田文雄総裁(64)が第100代の総理大臣にもうすぐ就任されるということで、まずはおめでとうございます。最近メディアがよく使う「3A」(安倍、麻生、甘利)采配によって担ぎ上げられたということで、またまた彼らの操り人形になるということを意味するわけで、「あまり政策には期待していません」と、釘を刺しておきますが。

 政策よりも、64歳の岸田さんという「人となり」の方に興味があります。各紙を読むと、「こんなこと書いて大丈夫?」と思われるようなことまで、書いちゃってます。まず、「東大合格全国一位」の名門開成高校から3回も東大受験に挑みましたが失敗、とか、御子息が3人いて、そのうち2人は同居だとか…これ以上書きませんが、想像力が逞しくなります。

西日本K市 Copyright par Anonymous

 さて、岸田さんは第100代総理大臣ということですが、初代総理大臣は勿論、御存知ですよね?ー伊藤博文です。それでは、彼がつくった政党は? はい、政友会です。自由民権運動華やかりし頃ですから、板垣退助がつくった自由党や、「明治14年の政変」で参議を追放された大隈重信がつくった立憲改進党など、明治は政党がたくさんつくられました。

 同時に、全国で「大新聞」と呼ばれた政党系の新聞も多く創刊されたわけです。改進党は、進歩党、憲政党などと幾度か名前を改称しますが、昭和初期までには民政党の名称で落ち着き、政友会との「二大政党制」になり、代わる代わる首相を輩出します。このブログの2019年7月6日に「『政友会の三井、民政党の三菱』-財閥の政党支配」という記事を書きましたが、この中で、筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム」(中公新書)から、以下のくだりを引用しています。

 (昭和初期の)大分県では、警察の駐在所が政友会系と民政党系の二つがあり、政権が変わるたびに片方を閉じ、もう片方を開けて使用するという。結婚、医者、旅館、料亭なども政友会系と民政党系と二つに分かれていた。例えば、遠くても自党に近い医者に行くのである。…土木工事、道路などの公共事業も知事が変わるたびにそれぞれ二つに分かれていた。消防も系列化されていた。反対党の家の消火活動はしないというのである。(176ページ)

 このように、政友会と民政党は「水と油」なのですが、1941年12月の新聞事業令の制定によって、「1県1紙」の統合が行われました。

 その熾烈な合併の代表が愛知県です。政友会系の新愛知新聞(1888年創刊)と憲政本党(後の民政党)系紙として創刊された名古屋新聞(1906年創刊)が強制的に合併させられて中部日本新聞となるのです。

 新愛知の創刊者は、自由党の闘士だった大島宇吉で、政友会の衆院議員を務めたことがあり、1933年には東京紙の国民新聞を東武財閥の根津嘉一郎から買い受けて傘下に置くなど有力紙として存在感を示していました。

 一方の名古屋新聞は、大阪朝日新聞の名古屋支局長だった小山松寿が、中京新報を譲り受けて同紙を改題して創刊したもので、小山も民政党の衆院議員となり、1937年7月から1941年12月まで衆院議長を務めた人でした。

 中部日本新聞は今の中日新聞であり、都新聞と国民新聞が統合した東京新聞を戦後になって買収し、大手ブロック紙というより、系列新聞を合計すれば、読売、朝日に次ぐ全国3位の販売部数を誇る大新聞です。

 中日新聞は、戦前の新愛知と名古屋が合併したという経緯から、現在も、大島家と小山家が交代で2オーナー制を取っていることは知る人ぞ知る話です。オーナーが代わる度に、プロ野球の中日ドラゴンズの監督やスタッフまで変わるというのは、熱烈なファンの間では周知の事実のようです。何となく、今でも、名古屋は、政友会と民政党の怨念を引きずっている感じがしますねえ(笑)。

 以上「1県1紙」統合などについては、里見脩著「言論統制というビジネス」(新潮選書)からの一部引用です。もう一つ、この本から、特筆すべき点として引用させてもらいますと、戦時中、新聞業界は、軍部など政府からの圧力によって、仕方なく言論統制した被害者のように振舞っていますが、事実は、部数拡大のために、積極的に新聞は軍部に協力し、「社史」からその事実さえ消している、という著者の指摘です。

 例えば、陸軍は1942年9月、「南方占領地域ニ於ケル通信社及ビ新聞社工作処理要領」という軍令によって、同盟通信社は、南方軍総司令部が置かれたシンガポール、マレー、北ボルネオ、スマトラ、朝日新聞はジャワ、毎日新聞はフィリピン、読売新聞はビルマと担当地域が割り当てられ、続いて、海軍も同じように、朝日は南ボルネオ、毎日はセレベス、読売にはセラムの担当を命じたといいます。命令を受けた同盟通信と全国三紙は、ぞれぞれ現地で新聞発刊作業を展開し、同盟には北海道新聞、河北新報、中日新聞、西日本新聞など有力地方紙13紙が参加して、邦字、英語、中国語、マレー語など16もの新聞を発行したといいます。

 このブログでは書きませんでしたが、9月11日の第37回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催)で、講師を務めた毎日新聞の伊藤絵理子氏が書いた「記者・清六の戦争」(毎日新聞出版)の主人公で彼女の曾祖父の弟に当たる東京日日新聞の従軍記者だった伊藤清六は、大陸で従記者を務めた後、フィリピンで「マニラ新聞」の編集発行に従事しました。何故、マニラ新聞なのか?と思っていたら、陸軍が決めたこと(毎日新聞はフィリピン)だったですね。この本を読んで初めて知りました。

【追記】

 新聞社だけではなく、通信社も「政友会」系と「民政党」系があったことを書き忘れました。

 1936年に聯合通信社が、電報通信社の通信部を吸収合併する形で、国策通信社の同盟通信(戦後は解散し、共同通信、時事通信、電通として独立創業)が設立されます。

 この電報通信社を1907年に創業した光永星郎は、自由民権運動の自由党の闘士だった人で、保安条例の処分対象となる経歴の持ち主で、政友会系の地方紙を顧客としました。陸軍にも食い込み、1931年の満州事変は、電通によるスクープでした。

 一方の聯合通信社ですが、まず、1897年に立憲改進党の機関通信社として設立され、改進党(後の民政党)系の地方紙を基盤とした帝国通信社と1914年に渋沢栄一らが創立した国際通信社、それに外務省情報部が経営していた中国関係専門の東方通信社などを吸収合併して、1926年に岩永裕吉が創立したものでした。ということは、聯合は、民政党系で、外務省のソースが強かったといいます。

 

今からでも遅くないから地球環境保全を=小林武彦著「生物はなぜ死ぬのか」

  今、ベストセラーになっている小林武彦(1963年~)東大定量生命科学研究所教授の「生物はなぜ死ぬのか」(講談社現代新書、2021年4月20日初版)を読了しましたが、話題になっているだけあって読み応えがありました。そして、本の帯広告に「死生観が一変する」とあるように、確かに、一読して、私の死生観も変わりました。

 でも、正直に言って、私自身は、内容の半分も理解できなかったと思います。またまた帯広告ですが、「現代人のための生物学入門!」と銘打っていますが、入門書にしてはかなり難解です。

 例えば、194ページに、いきなり

 体内ではNAD+(エヌエーディープラス)に変化する前の NAD+ 前駆体(NMN=エヌエムエヌ)をマウスに投与すると、寿命延長効果が見られるばかりか、体力や腎臓機能の亢進、育毛などの若返り効果が見られます。

 と書かれていますが、この文章を理解できるのは、専門家はともかく、生物分子工学等を専攻している理系の学生さんか、日頃、研鑽を積んでいる人ぐらいでしょうね。

 私の場合は、今年1月に、デビッド・A・シンクレア著「ライフスパン 老いなき世界」(東洋経済新報社)を読んでいたので、ここだけは、かろうじて理解できました。この単行本には巻末に図解入りで語彙解説が掲載されているので、NADは、「ニコチンアミド・アデニン・ジヌクレオチド」、NMNは、エヌエムエヌではなく、「ニコチンアミド・モノ・ヌクレオチド(核酸)」と無理して覚えていたので、抵抗なく受け入れることが出来ました。

 でも、本書は新書なので、情報収納量が限られているので、一つ一つ、専門用語を説明できないので仕方ないかもしれません。

 さて、本書は、生物の死を扱っていますが、「死」の前に「生」を知らなければなりません。最新科学が教えるところによると、まず、138億年前にビッグバンにより宇宙が誕生し、46億年前に地球を含む太陽系が生まれます。太陽との距離など絶妙な「度重なる偶然」と奇跡により、地球では38億年前に生物が誕生します。勿論、アミーバのような単細胞です。

 多細胞生物が誕生したのは、10億年前です。この後からが、著者の小林教授の説と私の勝手な解釈を取り入れたものですが、またまた「度重なる偶然」で、生物は、生まれ変わり(「ターンオーバー」という言葉を教授は使ってます)を繰り返し、遺伝子の変化で生物の多様性が生まれ、進化することで生物をつくっていったというのです。(生物が進化したのではなく、逆に、進化することで生き延びる生物が生まれていった、ということです)その進化する際には、生物は絶滅(死)という形態を選択するために、いわば、死は、生物が生態系や環境変化に適応して生き残っていけるように、進化のプログラムとして繰り込まれているということなのでしょう。(つまり、生物は死なないと進化しない。進化しないと生き延びることができない)

 当たり前の話ながら、生物にとって死は必然であり、ヒトも例外ではないということです。そもそも、自然界で、動物のほとんどは捕食(食べられてしまう)されるか、餓死するかで、天寿を全うできる生物はヒトか、大型の象さんぐらいです。魚のサケは産卵すると死んでしまいますし、昆虫のほとんども生殖活動の後は直ぐに死んで世代交代してしまいます。(地球上に名前が付いている生物種は180万種存在し、その半分以上の97万種が昆虫!)

「銀座スイス」元祖カツカレー1430円 名物ですが、ちょっと高価だなあ、と思いながら食しました

 38億年前に地球上に生物が誕生して以来、過去5回、大量の絶滅の危機があったといいます。その一番の「最近」が6650万年前のことです。中世代白亜紀で、恐らく、ユカタン半島への隕石の衝突により、気候が激変して恐竜など生物種の70%が絶滅したというのです。

 しかし、逆に、そのお蔭で、つまり、恐竜が絶滅したお蔭で、哺乳類が生き延びて霊長類が生まれ、今のような「ヒトの時代」が誕生したことになります。

 とはいえ、46億年の地球の歴史、38億年の生物の歴史から見れば、「ヒトの時代」などほんの瞬きするほど「一瞬の時間」です。恐竜の時代は1億6000万年間も繁栄しましたが、現生人類はせいぜい20万年前に誕生し、農耕生活を始めたのはわずか、たった1万年ですからねえ。

◇100万種が絶滅の危機

 この本には、恐ろしいことが書かれています。生態系を評価する国際機関IPBES(Intergovernmental science-policy Platform on Biodiversity and Ecosystem Services)によると、地球に存在する推定800万種の動植物のうち、少なくとも100万種は数十年以内に絶滅の可能性があるというのです。小林教授は「そのペースは、これまでの地球史上最高レベルです」とまで書いています。

 それ以上は書かれていませんが、ここまで書かれると、私なんか、別に皆さんに恐怖を煽るつもりは全くありませんが、人類滅亡の危機すら感じてしまいます。

 恐竜絶滅と同じですが、恐竜の場合は、不可抗力というか、自然災害によるものですが、人類の場合は、自らの手で地球環境を破壊し尽して、生態系を壊した故意の結果ですから自業自得です。

 今からでも遅くはありませんから、国連の提唱するSDGsを含め、環境保全運動を広め、生態系を元に戻して、少しでも絶滅種を少なくしていくしか人類が生き延びていく道はないことでしょう。宗教や覇権主義などで、国際間で人類がいがみ合っている暇などないはずです。

 この本に巡り合ってよかったです。色々と考えさせられました。

【追記】

《日本人の平均寿命》

・旧石器〜縄文時代(2500年前以前)13〜15歳(人口10万〜30万人)

・弥生時代 20歳(人口60万人)

・平安時代 31歳(人口700万人)

・室町時代 16歳(天災と戦乱等による)

・江戸時代 38歳

・明治・大正 女性44歳、男性43歳

・戦時中 31歳

・2019年 女性87.45歳、男性81.41歳

ヒトの最大寿命は115歳か

【再追記】

 またまたcoincidence(偶然の一致)です。朝日新聞10月3日付日曜版「Globe」で、英ケンブリッジ大学のパーサ・ダスグプタ名誉教授(78)が、国内総生産(GDP)の成長至上経済主義を重視するのではなく、持続可能な自然資本を重視するべきだと主張しています。

 人類は、温室効果ガスの排出や熱帯雨林の伐採など自然資本である環境を破壊して経済発展をしてきたお蔭で、生物圏を劣化させ、生物多様性を減少させてきました。川の上流の森林を伐採したお蔭で、下流での洪水や土砂崩れを増やし、土壌劣化で農家の収穫物の減少につながりました。

 また、環境劣化によって、より頻繁に新型コロナのような病原体が人間の経済活動の中に出現するようになった、とダスグプタ氏は分析しています。私は、自然科学者だけでなく、経済学者までも問題意識を共有していることを知り、安堵しました。地球人78億人が手を合わせて、地球環境保全に全力を尽くすしかありません。

 

新企画「築地ランチ」で「わだ家」訪問=「豚丼」の帯広に行きたくなった

 大型企画「明治の銀座『新聞街』めぐり」の5回連載は、流石に疲れました。何が疲れたかといいますと、「眼」ですよ。通勤電車の中で、スマホの小さな画面で一生懸命に校正をしていたりしたので、今でも眼痛が止まりません。しかも、本もパソコンも活字もボケるようになり、こりゃ、やばい。

 最近、老人力もついてきて、先日ZOOMセミナーに参加しましたが、講師の山室信一京大名誉教授の話し方があまりにもの速いので、メモを取るのが追い付かず、深い挫折感を味わわせてもらいました。記憶力も落ちたのでしょう。

 しばらく、ブログは休ませてもらおうかなあ、と思いましたが、本日行った「銀座ランチ」ならぬ「築地ランチ」のことを書きたくなり、短く書かせて頂きます(苦笑)。

 場所は、築地の場外市場の突き当りにある波除(なみよけ)神社の近くです。

 お店の名前は「わだ家」。名前から分かるかもしれませんけど、何と、オーナーは歌手の和田アキ子さんなんだそうです。

 この店を教えてくれたのは会社の同僚のO氏。彼は、メディアやネット情報は信用していませんから、孤独のグルメの井之頭五郎さんのように、自分で足で稼いで偶然見つけた店に入ることが多いといいます。

 「わだ家」が和田アキ子さんの店だということは後で分かったことでした。

 芸能人の店だから、そして、築地という場所柄、「高い」というイメージでしたが、上の写真のランチメニューでお分かりのように、滅法安いのです。

 コーヒー付きでこの値段は、他になかなかありませんよ。ですから、皆様にも御紹介したのです。(宣伝費はもらっていません!=笑)

 小生が選んだのは、「牛焼肉と関西風おうどん」です。お味は、正直、浅草の「今半」には負けるかもしれませんけど、この値段でこれだけ食べられるのですから、最高です。関西風うどんはコシがあって、量もあって、旨い。

 次回は、懐かしい帯広時代を思い出して「豚丼」でも注文しようかなあと思っています。「豚丼」の発祥地は帯広です。もう15年以上昔ですが、帯広時代は、20軒ぐらいは回ったと思います。

 一番のお薦めは、豚丼の発祥店を自任するJR帯広駅前にある「元祖 ぱんちょう」ですかねえ。あれっ?最近、東1条の仮店舗に移転したみたいですね。何と、私の職場があった十勝毎日新聞社の近くじゃありませんか。懐かしいなあ。また、温泉にも恵まれた帯広に行きたくなりましたよ。

33社全部回ったけどまだ足りない!=明治の銀座「新聞街」めぐり(5)完

 斬新企画「明治の銀座『新聞街』めぐり」は、今回、第5回で、めでたく完結にしたいと存じます。江戸東京博物館(東京・両国)に展示されていた「東京で刊行された主な新聞」のパネルに掲載されていた明治に創刊された新聞社、33社を全て回りました。

 歩きましたねえ。実は、タネを明かしますと、昼休みの1時間の範囲内で取材をしたので、ランチ時間以外の実質30分間で取材を強行致しました。となると、当然、パネルに掲載されていた地図とにらめっこしながらの駆け足取材です。恐らく、妙な怪しい人間に見られたことでしょう。

銀座・資生堂パーラー

 最終回は、銀座7丁目と8丁目の間を南北に走る「花椿通り」近辺にあった残された新聞社を回りました。

 花椿は化粧品会社の「資生堂」のマークですから、この会社にちなんで付けられた通り名だと思われますが、諸説あるようです。資生堂は化粧品だけでなく、高級レストラン「資生堂パーラー」も有名です。あたしも、「銀座ランチ」企画で一度、ここで2860円のオムライスを体験致しました。

 その資生堂パーラーは、もともと「資生堂薬局店」と言ったらしく、ここで明治35年に日本で初めてソーダ水やアイスクリーム等を製造販売したと記録に残っています。

銀座7丁目 ヤマハ=㉛日本たいむす(1885年9月~12月以降)

 まず、出発点は、銀座7丁目の信楽通りにあるヤマハ・ビルの裏側です。パネル地図によると、ここに、㉛日本たいむす(1885年9月~12月以降) があったようです。

 実は、この新聞、3カ月しか続かなかったようですし、実体についてはよく分かりませんでした。

銀座7丁目 ヤマハ、日新堂=⑮いろは新聞(1879年12月あづま新聞~1884年11月勉強新聞)

 花椿通りを北に銀座通りに出て、ほんの少し、京橋方面を歩くと、銀座7丁目のヤマハ・ビル(正面)と高級時計販売の「日新堂」があります。この辺りに、明治には、⑮いろは新聞(1879年12月~1884年11月)がありました。

 この新聞は、前回の「今日新聞」(都新聞~東京新聞)の中で取り上げた仮名垣魯文が1879年12月に創刊したもので、前身は「安都満(あづま)新聞」。花柳界のゴシップ記事を中心とした庶民向けの娯楽新聞と言われました。1884年、「勉強新聞」に改題されますが、ほどなく終刊しました。

銀座8丁目の新築ビル(7丁目のモンブラン銀座ビルの向かい)=⑤仮名読新聞(1875年11月~1877年3月)

 銀座通りを新橋方面に向かって、花椿通りを横断すると、銀座7丁目のモンブラン(万年筆)銀座ビルの向かいの銀座8丁目に、現在、新築ビルが建設中です。あれっ?以前、何のビルだったか、思い出せません。日本人はすぐ古いビルを壊してしまうので、明治の人が見たら吃驚することでしょう。欧州では200年、300年も昔の建造物を今でも現役として使っているのですから、それとはえらい違いです。とにかく、ここには、⑤仮名読新聞(1875年11月~1877年3月) 社がありました。

 この新聞も仮名垣魯文が1875年11月に創刊したもので、この後に、先程のいろは新聞を創刊しますから、順番が逆でしたね(苦笑)。ニュースよりも、戯文、読物や劇評などが中心だったようです。

 仮名読新聞からいろは新聞まで歩いて数十秒。仮名垣魯文は、目と鼻の先で引っ越したわけですか。

銀座8丁目 ア・テストーニ銀座ブティック=⑦問答新聞(1876年6月~1882年11月)、㉕内外政党事情(1882年10月~1883年2月)

 銀座通りの歩道をもう少し、新橋方面に向かって歩くと、 銀座8丁目にイタリアの高級ブランド「ア・テストーニ」銀座ブティックが入居したビルがありますが、ここには⑦問答新聞(1876年6月~1882年11月)と㉕内外政党事情(1882年10月~1883年2月) がありました。

 問答新聞は、私も初めて聞く名前で、よく分かりませんが、江戸東京博物館のパネルの説明とは違って、国立国会図書館所蔵では、同紙は、明治9年(1876年)6月に四通社から創刊され、明治12年(1879年)9月に、376号で廃刊したようです。

  国会図書館デジタルコレクションを見ると、内外政党事情は、明治15年7月、中村義三編著で自由出版から発行され、日本と海外の政党について詳述した雑誌で、どう見ても新聞には見えませんね。

銀座8丁目 河北ビル、第3一越ビル=⑫真砂新聞(1878年7月~9月)

 再び、銀座7丁目交差点に戻って、花椿通りを北上することにします。残りはわずか3社です。

  東西を走る並木通りに近い銀座8丁目にある河北ビルと第3一越ビル辺りにあったのが、⑫真砂新聞(1878年7月~9月)です。 写真の喫茶店「プロント」には昔よく入ったものでしたが、明治時代、ここが新聞社だったとは!

  真砂新聞は、前回取り上げた我が国初の夕刊紙⑩「東京毎夕新聞」(高畠藍泉主宰)の創刊半年後に経営者が代わって改題し、朝刊となった新聞でしたね。この後、東京真砂新聞と再び改題して、まもなく廃刊した、と前回書きましたが、この後、さらに、「みやこ新聞」(都新聞とは別会社)と改題し、読売新聞創刊時の初代編集長だった鈴木田正雄(1845~1905年)も入社しました。この人に関しては、第1回の「足の踏み場もないほど新聞社だらけ」の⑯「鈴木田新聞」で取り上げました。

銀座8丁目プラーザ銀座ビル=㉗同盟改進新聞(1882年11月~12月以降)

 花椿通りをさらに北上して、東西を走る広い西銀座(外堀)通りに差し掛かったところに、銀座8丁目のプラーザ銀座ビルがあります。なあんだ。柳宗悦らが中心になって起こした民藝運動の作品を販売している「たくみ」の隣りだったんですね。ここには、㉗同盟改進新聞(1882年11月~12月以降) があったといいます。

 同盟改進新聞は、よく分かりませんが、名前から言って改進党系の新聞だったのではないかと思われます。後に「万朝報」を創刊する黒岩涙香が1883年に主筆となってジャーナリストとしてスタートした新聞のようです。

銀座8丁目 ニッタビル=⑱明治日報(1881年4月~1885年11月)

 おお、やっと最後の新聞社に辿り着きました。

 花椿通りを北に行くとコリドー街に突き当たりますが、その銀座8丁目のニッタビル辺りに、⑱明治日報(1881年4月~1885年11月) がありました。パネルの地図が少しアバウトなので、これは推測ですが。

 明治日報は、明治14年に忠愛社から発行され、西田長寿著「明治時代の新聞と雑誌」(至文堂、1961年)によると、政府から資金援助を受け、「頑固な保守主義的立場をとった新聞」だったようです。

 以上、やったー、終わったー!と言いたいところですが、気になったのは、 江戸東京博物館(東京・両国)のパネル「東京で刊行された主な新聞」に載っていなかった明治に銀座で発行された新聞社です。

 例えば、先ほどの黒岩涙香が明治25年に創刊した「万朝報」です。確か、銀座・並木通りにあった映画館「並木座」(1953~1998年)があったところに、社屋があったという話を聞いたことがありますが、ウラは取れず仕舞いです。

 あと、徳富蘇峰が明治23年に創刊した「国民新聞」がパネルに掲載されていないのはどうしてなんでしょうかねえ?文明開化の明治初期に創刊されたわけではないから、という理由でしょうか?とにかく、日露戦争の講和条約に不平不満を抱いた群衆による日比谷焼き討ち事件がありましたが、その際に、国民新聞社も襲撃された歴史的跡地なのですが。

 恐らく、リクルート銀座8丁目ビル辺りにあったものと思われますが、どなたか詳しい方からコメントで御教授頂くと嬉しいです。

◇忘れちゃいけない報知新聞

 おっと、忘れるところでした。郵便報知新聞は何でパネルに載っていないんでしょうか?明治5年(1872年)、1円切手にも採用された前島密(ひそか)が、秘書の小西義敬を社主として創刊させた政論新聞です。明治5年ですから、文明開化の初期のはずです。1881年に矢野龍渓が小西から譲渡されて社主となり、改進党系の新聞となりますが、それを前後として、私の好きな栗本鋤雲や、犬養毅、尾崎行雄らも在社した明治の新聞には欠かせない重要新聞なのですが。

 郵便報知新聞は1895年、三木善八が買収して「報知新聞」と改題し、政論紙から大衆紙に転身。明治末には東京で第1位の発行部数を誇りますが、昭和に入り経営不振となります。1930年には講談社の野間清治が買収しますが、状況は好転せず、1942年には、読売新聞が、当時社長だったあの三木武吉から買収合併します。報知新聞のブランドは、東京では名高かったので、当初は3年ほど「読売報知新聞」の題字で発行していました。(戦後は、読売系のスポーツ紙として報知新聞は復活)

 そう言えば、報知新聞の本社は、有楽町のビックカメラ(その前はそごうデパート)にありました。そこには今でも「よみうりホール」があり、土地建物は読売不動産の所有となっています。ということは、郵便報知新聞は、明治5年に創業した時の本社もここにあったのかもしれません。有楽町は、正確に言うと銀座ではないので、それで、江戸東京博物館のパネルに郵便報知新聞が登場しなかったのかもしれません。これもまた、皆様の御教授をお待ちしています。

読売新聞は虎ノ門から銀座1丁目に移転=明治の銀座「新聞街」めぐり(4)

 斬新企画「明治の銀座『新聞街』めぐり」の第4弾です。ほんの一部ですが、斯界から大好評を得ておりますので、皆様からの情報提供や、間違いの御指摘等頂けましたら幸いです。

 えっ? それとも、そろそろ飽きてきましたか? 勘弁してください。あと、2,3回ほどで、江戸東京博物館(東京・両国)に展示されていたパネルの「東京で刊行された主な新聞」33社を全て廻ることができるのですから。

銀座4丁目弥生ビル=㉚今日新聞

  明治に㉒「日の出新聞」があった銀座4丁目の衣料品店「GAP」が入居しているビルの前の並木通りを京橋方面に進むと、同じ 銀座4丁目の角に弥生ビルがあり、ここに㉚「今日(こんにち)新聞」 (1884年9月~1888年11月) があったことがパネルの地図で分かります。

 この今日新聞、実は継承する新聞が現在でも残っているのです。まずはこの新聞は、1884年9月、小西義敬が創刊した夕刊紙で、「安愚楽鍋」などの戯作で知られ、もともと「横浜毎日新聞」や自ら創刊した「仮名読み新聞」「いろは新聞」などで活躍した仮名垣魯文主筆に迎えた新聞でした。これが、1888年に「みやこ新聞」に改題されて朝刊紙となり、その翌年、「都新聞」と再改題されます。

 都新聞は、黒岩涙香を主筆に迎え、その後、1919年には、商店の小僧から身を起こした福田英助が買収し、芝居や演劇、そして証券、商況欄などに紙面を割き、花柳界の広告を載せるなど独特の編集方針で部数を伸ばし、東京の有力紙になりました。(東京帝大生だった津島修治=太宰治が、都新聞の入社試験に落ちたほどです)

 しかし、先の大戦中の1942年10月1日の新聞統合で、徳富蘇峰が創刊した「国民新聞」と合併させられ、「東京新聞」となるのです。この新聞は戦後まで続きましたが、経営が悪化し、1960年代、名古屋の中日新聞に経営権が譲渡されます。戦前、国民新聞が中日新聞の前身である新愛知新聞にテコ入れを受けていたという縁がありました。というわけで、現在、東京新聞は中日新聞東京本社発行として続いているのです。

 東京新聞が今でも文楽や歌舞伎など古典芸能の報道に力を入れているのは、都新聞からの伝統の継承だと思われます。

銀座4丁目 銀座三和ビル=⑩東京毎夕新聞(1877年11月~1878年11月)真砂新聞へ

 ㉚今日新聞社跡から松屋通りを南下し、銀座通りを渡ったところにある銀座4丁目の三菱UFJ銀行(銀座三和ビル)には、⑩「東京毎夕新聞」(1877年11月~1878年11月)社がありました。

  この新聞は1877年11月に、高畠藍泉が創刊した日本最初の夕刊紙でしたが、経営不振のため,翌年6月、譲渡されて朝刊紙となり、「真砂新聞」、さらに「東京真砂新聞」と改題されましたが、ほどなくして廃刊したようです。

銀座3丁目 銀座オーミビル=㉓自由新聞(1882年6月~1885年3月)

 松屋通りを2ブロック南下して、銀座三原通りを左折したところにあるのが、銀座3丁目 銀座オーミビルで、ここにはかつて、㉓「自由新聞」(1882年6月~1885年3月)社がありました。

 自由新聞は、1882年6月に創刊された自由党の日刊機関紙で、板垣退助を総理とし,馬場辰猪、中江兆民、末広鉄腸、田口卯吉らを社説担当して、改進党系の『東京横浜毎日新聞』『郵便報知新聞』などに対抗して論争した、これまた明治期の重要新聞です。紆余曲折の末、1895年まで存続したようです。末期は、自由党とは無関係になり、幸徳秋水も在籍したといいます。

銀座1丁目 奥野ビル=⑬東京新聞(1878年11月東京さきがけ~1880年5月)

 銀座三原通りをさらに京橋方面に向かって歩くと、銀座1丁目にとりわけ目立つ古いビルがあります。珍しく戦災の被害を免れた奥野ビルです。1932年に竣工された時、「銀座アパートメント」と呼ばれ、さぞかし当時は近代的なビルだったことでしょう。今ではもう築90年近く建ちますが、現役で、ギャラリーやアンティークショップなどが入居しています。明治時代、この辺りに、⑬東京新聞(1878年11月東京さきがけ~1880年5月) があったようです。

 これは、都新聞の流れを汲む東京新聞とは違うようですが、この新聞に関しては、まだ調べ尽くしておらず、よく分かりません。江戸東京博物館のパネルでは、「東京さきがけ新聞」として創刊されたようですが、これもまだ調査中です。(東京魁新聞社なら大正時代も続いていたようですが、この新聞と同じか?)

銀座2丁目メルサGINZA=⑪憂国議事新聞(1878年4月~10月以降)

 気を取り直して、北上して銀座通りに戻ると、 銀座2丁目にメルサGINZAがあります。「銀座ランチ」めぐりで、メルサに入居している台湾料理の「金魚」に入ったことをこのブログに書いたことがあります。明治時代、ここには⑪憂国議事新聞(1878年4月~10月以降)がありました。

 この新聞は、熊本県天草市出身の改進的平民民権主義者・宇良田玄彰(1841~1903年)が明治11年に創刊した政治新聞です。

 と書きながら、不勉強で初めて知りました。ネット上に詳細なサイト「自由民権家 宇良田玄彰 顕彰碑」がありましたので、御興味のある方は、そちらを拝読されたし。

銀座1丁目 千歳興産京橋三菱ビル=③読売新聞(1874年11月~健在)

 さあ、今回最後に登場するトリは、やはり、天下の③読売新聞(1874年11月~健在)です。 銀座通りを京橋方面に向かい、銀座1丁目の千歳興産京橋三菱ビル がその跡地です。いつぞや、このブログでも取り上げたことがありますので、今回はさらっと。

 読売新聞社の社史によると、読売新聞は1874年(明治7年)11月2日、東京・虎ノ門で創刊され、ここ銀座1丁目に社屋が移転されたのは、1877年(明治10年)5月のようです。1923年(大正12年)8月に東京・京橋区西紺屋町(現銀座3丁目、かつて銀座プランタン、今はユニクロが入っているビルと隣りのマロニエゲート銀座ビル。それらの屋上近辺の壁に「読売新聞」のロゴがあるので、土地と建物はいまだに所有しているようです)に移転するまでここに本社を構えていたことになります。

 明治中期には坪内逍遥、尾崎紅葉ら文豪が入社して健筆を振るい、特に、尾崎紅葉の「金色夜叉」の連載で部数を伸ばしたと言われますが、読売の若い記者は知らないかもしれませんね(笑)。

 その後、読売は、関東大震災で壊滅的な被害を受けて経営難に陥りますが、「虎の門事件」の責任を取って警視庁警務部長を退職した正力松太郎が、後藤新平の援助で読売を買収し、急成長していく話は、このブログで何度も書いたことと思います。

尾張町交差点は情報発信の拠点だった=明治の銀座「新聞街」めぐり(3)

 明治の銀座の「新聞街」散策は、今回が第3弾となります。

 例によって、江戸東京博物館(東京・両国)に展示されているパネル「東京で刊行された主な新聞」を手掛かりに歩いてみました。

銀座5丁目 「ソノコ・カフェ」などが入居する銀座幸ビル=㉔絵入自由新聞(1882年9月~1890年11月)

 銀座といえば、何と言っても、その中心は銀座4丁目です。そこに建つセイコー服部時計店は銀座のシンボルになっています。そこで、今回はその銀座4丁目周辺で明治に創刊された新聞社を巡ってみました。

  まずは、銀座5丁目にある「ソノコ・カフェ」などが入居する銀座幸ビル 。「白い美顔」の美容研究家として一時期、一世を風靡した鈴木その子さんが所有されていたビルかどうかは分かりませんけど(笑)、彼女が2000年に68歳の若さで亡くなるまでここに美容教室?があったことを覚えています。今でもカフェがあるので、いまだに関係があるかもしれません。

 ここは、明治時代、 ㉔絵入自由新聞(1882年9月~1890年11月) があったようです。自由党は、政党機関紙として「自由新聞」を創刊しますが、大衆向けに自由民権の思想を普及するため創刊したのがこの「絵入自由新聞」です。黒岩涙香の探偵小説などで人気を集めましたが、自由党の解党後、1892年 、黒岩が創刊した「万朝報」に吸収されます。

銀座5丁目 日産ショールーム ㉜毎日新聞(1886年5月~1906年7月)

  「ソノコ・カフェ」 から晴海通りをワンブロック北上するともう銀座4丁目の交差点です。

 その銀座5丁目の角に建つのが「銀座プレイス」ビルです。地下に銀座ライオン、1階に 日産自動車、 3階にソニーの各ショールームなどが入っています。

 ここに明治時代、 ㉜毎日新聞(1886年5月~1906年7月) があったということです。沼間守一社長の⑭東京横浜毎日新聞が、 1886年5月 に紙名を「毎日新聞」と改題してここに移って来たと思われます。この ⑭東京横浜毎日新聞 については、前回の「東京横浜毎日新聞社は高級ブランドショップに」で詳しく触れましたので、今回繰り返しませんが、現在の毎日新聞とは関係ありません。

銀座4丁目 三越 ④東京曙新聞(1875年3月~1882年3月)、⑳東洋新報(1882年3月~1882年12月)、㉘絵入朝野新聞(1882年11月~1889年5月)

 「銀座プレイス」を京橋方向に向かって銀座4丁目の交差点を渡ると「銀座三越店」が聳え立っています。 ここは、立地条件が良いのか、④東京曙新聞(1875年3月~1882年3月)、⑳東洋新報(1882年3月~1882年12月)、㉘絵入朝野新聞(1882年11月~1889年5月) が社屋を構えました。

 と思ったら、東洋新報は、東京曙新聞が廃刊されたので、紙名を改題して継続発行されたものでした。一方、絵入朝野新聞は、次に出てくる、真向かいの服部時計店にあった「朝野新聞」が一時期、経営していたようです。

 いずれにせよ、 東京曙新聞 には末広鉄腸、大井憲太郎らが在社し、民権論、征韓論を鼓吹した明治の重要新聞であることは確かです。

銀座4丁目 服部時計店 ②朝野新聞(1874年9月~1894年12月)

 やっと、三越前の銀座4丁目交差点(地元の人は「尾張町交差点」とよく言っていて、最初は道を聞いてもよく分かりませんでした)を渡ると、銀座のシンボル、服部時計店がやっと登場します。1932年(昭和7年)に竣工されたということで、篠田正浩監督の映画「スパイ・ゾルゲ」でも効果的に使われていました。戦前のビルはもう銀座ではあまり残っていませんからね。

明治 銀座4丁目の「朝野新聞」本社(江戸東京博物館)

 ここには、 ②朝野新聞(1874年9月~1894年12月) があったことは、以前、このブログで何度も触れましたので、《渓流斎日乗》の御愛読者の皆様なら御存知のことでしょう。

 幕臣出身、しかも将軍直々への侍講職も務めた成島柳北が社長、主筆でしたが、反政府的論調のため、1875年6月の新聞紙条例で逮捕され、禁固刑となります。片や、先程登場した東京曙新聞の末広鉄腸は、讒謗律などのお陰で政府寄りの論調になった曙新聞の社主に抗議して、 同社を退職し、同年10月に朝野新聞に入社しています。( 末広鉄腸は、後に朝野新聞の主筆となりますが、成島柳北と同じように筆禍事件で投獄されます。)

 曙新聞を退社した末広鉄腸にとって、朝野新聞は、目の前ですから、今で言えば、三越を退社して、目の前の服部時計店まで、横断歩道を渡って入社したことになりますか。いや、まさか(笑)。

 いずれにせよ、明治時代、尾張町交差点付近は情報発信の拠点だったことが分かります。

銀座4丁目 浜一・和光ビル=⑨新聞集誌(1877年10月~1878年12月)、㉙自由燈(1884年5月~1886年1月)

 この服部時計店の裏手にある銀座4丁目の浜一・和光ビル には ⑨新聞集誌(1877年10月~1878年12月)と㉙自由燈(1884年5月~1886年1月) があったようです。

  新聞集誌はまだ調査中でよく分かりませんが、自由燈 は、星亨が創刊した自由党の機関紙でした。

銀座4丁目 GAP ㉒日の出新聞(1882年4月~1883年2月)

 晴海通りを北上して、数寄屋橋に近い所に建つ衣料品店GAPが入居しているビルに、㉒日の出新聞(1882年4月~1883年2月) がありました。

 明治15年4月1日に旭光社が創刊した日刊紙で、1年も持ちませんでしたが、詳細についてはこれまた調査中です。

 皆様の方が詳しいと思いますので、何か情報がありましたら、ご提供賜れれば幸甚で御座います。

足の踏み場もないほど新聞社だらけ=明治の銀座「新聞街」めぐり(1)

 先日、東京・両国の江戸東京博物館に行った話を書きましたが、実は、私が最も熱心に食い入るようにして観察したのは、江戸から明治になって文明開化の嵐が吹き荒れ、銀座が「新聞街」になっていたことを示すパネルでした。

 まさに、明治の銀座は、16世紀から印刷業、18世紀から新聞社が集積するようになった英国ロンドンのフリート街のようだったのです。御存知でしたか?

明治銀座の新聞街

 以前、この《渓流斎日乗》ブログでも、明治の銀座にあった新聞社の足跡を辿った記事を書いたことがありますが、江戸東京博のパネルを見て、「えっ?まだこんなに沢山あったの!?」と吃驚です。正直言いますと、ほとんど聞いたことも見たこともない新聞ばかりでした。

 そこで、私にとって、銀座は庭みたいなもんですから(笑)、昼休みを利用して、明治の新聞社を探訪することにしました。

①東京日日新聞社(1872年2月~現毎日新聞社) 現銀座5丁目・イグジットメルサ

 私の銀座の核心的散歩道は、みゆき通りなので、まずはその近辺を彷徨ってみました。

 上の写真の①東京日日新聞社跡は、以前、このブログでも取り上げたことがあります。明治の東京日日新聞ですから、岸田吟香や福地桜痴らがここにあった社屋に通っていたことでしょう。現在のイグジットメルサ・ビルには、中国系に買収された家電販売の「ラオックス」が入居しているので、コロナ禍の前は、中国人観光客がたむろして、通りを歩けないほど混雑しておりました。今では隔世の感です。

㉝やまと新聞社(1886年10月~1900年10月)現銀座6丁目・NTTドコモショップなど

 そのイグジットメルサ・ビルの南の真向かいにある NTTドコモショップには、明治には㉝「やまと新聞社」があったとは、知りませんでした。この新聞は、「東京日日新聞」の創刊者の一人である条野採菊らが「警察新報」を改題して創刊した大衆新聞でしたから、社屋が東京日日新聞社の真向かいにあることは自然の成り行きだったのかもしれません。

⑥東京絵入新聞社(1876年3月~1889年2月)、㉖官令日報社(1882年10月~不明) 現銀座6丁目・銀座かねまつ

 このまま、銀座通りを新橋方面に歩いて、銀座6丁目交差点付近の今の銀座SEIビル辺りにあったのが、⑥ 「東京絵入新聞社」と㉖「 官令日報社」 でした。 「官令日報」は、どんな新聞だったのか、よく分かりませんが、 「東京絵入新聞」は、1875年4月に高畠藍泉と落合芳幾が創刊した小新聞で、初めは「平仮名絵入新聞」と称していたようです。小新聞とは、政論を主体にした知識層向けの大新聞とは異なり、庶民向けの娯楽新聞で、版型が小さかったので、そう呼ばれたということです。

㉑時事新報社(1882年3月~1936年12月) 現銀座6丁目・交詢社ビル

 銀座6丁目の交差点の交詢社通りを右折すると、すぐ交詢社ビルがあります。ここは、慶応義塾を創立した福沢諭吉がつくった財界人の社交クラブで、このビル内に、同じく福沢が創刊した㉑時事新報社がありました。

 時事新報は、このブログで何度も取り上げましたので、改めて御説明するまでもありませんね。慶応卒の記者が多かったようですが、明治25年にロイター通信社と独占契約を結んで経済記事を重視し、今の日本経済新聞の前身である中外商業新報(もともとは、益田孝が創刊した三井物産の社内報が原点)よりも信頼され、重要視され、企業決算を報告する義務があったので、企業はこぞって時事新報を選んだといいます。

 ついでながら、大相撲の国技館に飾られているどデカイ優勝力士のパネル写真は、もともと、時事新報社が考案したもので、同紙廃刊後は、毎日新聞社が継承しています。

⑯鈴木田新聞(1880年12月~81年12月) 現銀座6丁目・交詢社ビル

 この交詢社ビルは明治の頃、どれくらいの大きさだったのか分かりませんが、現在とさほど変わらないとしたら、交詢社ビル内には時事新報のほかに、⑯「鈴木田新聞社」があったようです。私は全く知りませんでしたが、これは、読売新聞の初代編集長も務めた鈴木田正雄(1845~1905年)が自ら創刊した新聞で1年しか続かなかったようです。この人、その後、「東北自由新聞」、「奥羽日日新聞」、⑥「東京絵入新聞」などを転々とし、いずれも長くは続かなかったようです。調べてみると面白そうな人物ですが、今ではすっかり忘れられてしまいました。

⑰東洋自由新聞社(1881年3月~4月) 現銀座6丁目・銀座SIX

 交詢社通りをまた広い銀座通りに戻ると、通りの向こうでは、今では大きな銀座SIXビルが聳え立っています。以前は、松坂屋百貨店で、店内に入ってもガラガラで寂れていましたが、2017年にこのビルに建て替えられ、世界的な高級ブランドが入居すると活気を取り戻した感じです。

 ここに明治時代は、あの⑰「東洋自由新聞社」があったんですね。全然知りませんでした。

 何と言っても、東洋自由新聞は、1881年にフランス帰りの西園寺公望が、中江兆民を主筆にそえて創刊した日刊紙で、フランス的な自由平等精神を鼓舞する画期的な新聞でしたが、わずか34号で休刊となりました。西園寺公望が、古代藤原氏から続く清華家筆頭の公卿であることから、西園寺が新聞を主宰することで社会的影響を恐れた岩倉具視らが、西園寺に経営から手を引かせたのです。そのため、激怒した社員が内実を暴露した檄文を配布したことで罪に問われ、廃刊に追い込まれたのです。

 明治の文明開化。煉瓦造りの建物が並ぶ銀座は、まさに言論界の坩堝だったんですね。これからも、もう少し歩いてみます。(つづく)

満洲事変を契機に戦争賛美する新聞=里見脩著「言論統制というビジネス」

 今読んでいる里見脩著「言論統制というビジネス」(新潮選書、2021年8月25日初版)は、「知る」ことの喜びと幸せを感じさせてくれ、メディア史や近現代史に興味がある私にとってはピッタリの本で、読み終わってしまうのが惜しい気すら感じています。

 実は、著者の里見氏は現在、大妻女子大学人間生活文化研究所特別研究員ではありますが、20年前に同じマスコミの会社で机を並べて一緒に仕事をしたことがある先輩記者でもありました。でも、そんなことは抜きにしても、膨大な文献渉猟は当然のことながら、研究調査が深く行き届いており、操觚之士の出身者らしく文章が読みやすく、感心してしまいました。

 この本は「言論統制」が主題になっていますが、それは、政府や官憲によるものだけでなく、メディア(戦時中は新聞)や国民までもが一躍を担っていた事実を明らかにし、検証に際しては、戦前の国策通信社だった同盟通信の古野伊之助社長の軌跡を軸として追っています。

明治 銀座4丁目の「朝野新聞」本社(江戸東京博物館)

 先日9月11日(土)、第37回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催)にオンラインで参加したことについて、この《渓流斎日乗》ブログに書きました。その際、講師の一人で「記者・清六の戦争」を書かれた毎日新聞社の伊藤絵理子氏は、大変失礼ながら、「勉強不足で」(本人談)、質問(新聞紙条例のことなど)にお答えできなかった場面がありましたが、この本を読めばバッチリですよ(笑)。

 例えば、日本の新聞は、あれほど戦争や軍部に反対していたのに、ガラッと変わったのは、1931年9月18日(実に今年で90周年!)の満州事変がきっかけだった、とよく言われますが、その経緯が詳しく書かれています。

 東京日日新聞(1943年に大阪毎日新聞と統合して毎日新聞)は、もともと陸軍と親密な関係がありましたが、満洲事変をきっかけにさらに戦争ムードが広がり、満洲事変のことを社内では、「毎日新聞後援・関東軍主催・満洲戦争」と自嘲する者さえいたといいます。しかも、社論を代表する東日と大毎の主筆だった高石真五郎は、外国生活が長く、リベラルな考えの持ち主でしたが、満洲事変に関しては非常な強硬論者だったというのです。彼は「領土的野心を持つものではなく、正当に保持している経済的権益を守るもので、第三国の介入を許さぬ、というものだった」という証言もあったといいます。

 これでは、毎日新聞は、政府や官憲から命令されるまでもなく、戦争に協力していったことがよく分かります。(部数拡大の営業戦略もあったことでしょう)

 一方の「全国二大紙」(1930年まで、読売新聞はまだ22万部程度の小さな東京ローカル紙でした。しかし、正力、務台コンビで販売戦略が奏功し、1937年になると、東京日日、朝日を抜いてトップに浮上します)の朝日新聞はどうだったかと言いますと、その豹変ぶりが実に興味深いのです。例えば、大阪朝日は、事変発生直後の9月20日付朝刊社説で「必要以上の戦闘行為拡大を警(いまし)めなければならぬ」などと戦線拡大に反対の立場を断固主張しておきながら、そのわずか11日後の10月1日付朝刊社説では「現在の国民政府が…日本の有する正当な権益を一掃してしまおうとするには、必ず日本との衝突は免れないであろう」などと満洲独立支持へと主張を一転させてしまうのです。

東銀座「改造」書店 閉店してしまったのか?

 それまで、軍備費削減の論調を張っていた朝日は、在郷軍人会などから猛烈な不買運動に遭っていました。1930年に168万部余だった部数が、翌31年には143万部余と減少し、厳しい経営状態に立たされていたといいます。(しかし、「戦争ビジネス」で起死回生し、部数拡大していきます)

 こうした豹変ぶりについて、月刊誌「改造」は「朝日新聞ともあろうものが、軍部の強気と、読者の非買同盟にひとたまりもなく恐れをなして、お筆先に手加減をした」と揶揄され、月刊誌「文藝春秋」(1932年5月号)からは「東京朝日は昨年の秋、赤坂の星が丘茶寮に幹部総出動で、軍部の御機嫌をひたすら取り結んで、言論の権威を踏みにじった」と暴露されています。

 この「星が丘茶寮」と書いてあるのを読んで、本書には全く書いていませんでしたが、私は、すぐ、北大路魯山人じゃないか!とピンときました。調べてみると、魯山人は1925年にこの会員制料亭「星岡茶寮」の顧問兼料理長に就任しましたが、36年には、その横暴さや出費の多さを理由に解雇されています。でも、1931年秋でしたら、魯山人はいたことになります。あの朝日新聞の編集局長だった緒方竹虎も、朝日不買運動をチラつかせた軍部の連中も、魯山人のつくる食器(重要文化財クラス?)と料理に舌鼓を打ったのではないかと想像すると、何か歴史の現場に踏み込んだような気になってニヤニヤしてしまいました。(文藝春秋が朝日を批判するのは、昔からで、お家芸だったんですね!)

 ちなみに、この 「星岡茶寮」 はもともと、日枝神社の境内だった所を、明治維新で氏子の減少で維持できなくなり、三井財閥の三野村利助ら財界人により買い取られて料亭が作られたものでした。戦時中に米軍による空襲で焼失し、戦後は東急グループに買い取られ、ビートルズが宿泊した東京ヒルトンホテルになったり、キャピタル東急ホテルになったりし、現在は、地上29階の東急キャピトルタワーが屹立しています。

 この本を読みながら、私は、行間から一気に、勝手に色々と脱線しますが、新たに知らなかった知識を得ることができて、ますます 読み終わってしまうのが惜しい気がしています。