「日本橋七福神めぐり」に行って参りました

江戸三森の一つ、椙森(すぎのもり)神社

1月6日は、まだお正月松の内で、3連休の最初の日でもあり、あまり家に閉じこもっていても何ですから、以前から行きたかったお江戸「日本橋七福神めぐり」に一人で行って参りました。

私のご先祖は、九州は久留米藩のお舟出役という身分(下級武士)で、恐らく、参勤交代の際は、筑後川を伝わり、瀬戸内海から大坂辺りに出て、陸路で江戸に向かい、上屋敷のあった現在の港区赤羽橋に滞在し、その藩邸にあった水天宮にもお参りしたことでありましょう。

水天宮(弁財天)学問・芸術

水天宮は、文政元年(1818年)、久留米の国元(現福岡県)にあったものを、九代藩主有馬頼徳(よりのり)が江戸上屋敷内に分祀したもので、塀越しに賽銭を入れる人が後を絶たなかったため、日を決めて庶民にも公開され、広く信仰を集めたそうです。

維新後は、赤羽橋の久留米藩邸は、薩長連合軍の新政府に摂取されたため、水天宮は青山を経て、明治5年に今の場所(日本橋蠣殻町)に落ち着いたそうです。

「日本橋七福神めぐり」のスタートは、ご先祖様に敬意を表してここから出発することにしました。

水天宮は、安産の神様として知られておりますが、芸能・学問の神様である宝生弁財天も祀られております。宝生弁財天は、先述の久留米藩主有馬頼徳が、加賀藩の11代藩主前田斉広(なりなが)と宝生流能楽の技を競った時に、弁財天に願をかけて、見事に勝利を収めたため、久留米藩としても弁財天の信仰も篤くなったそうです。

2 茶ノ木神社(布袋)笑門来福

下総佐倉藩主で、幕末に大老も務めた堀田家の上屋敷があり、守護神として祀られていた。

社の周囲に巡らされた土手芝の上に茶の木が植え込まれていた。今でも防災・生産の神様として信仰されている。

 3小網神社(福禄寿)幸福・長寿・立身出世

文正元年(1466年)、悪疫鎮静の神として創建され、太田道灌が名付けたと言われる。

昭和4年建立の社殿が戦災を免れ、神社の御守り受けた兵士も無事帰還したことから、「強運厄除けの神」としても信仰を集めている。

4松島神社(大黒天)五穀豊穣・財運・子孫繁栄

下総の柴田家が、鎌倉時代の元亨(1321年)以前に、この地(当時は小島だった)に移り住み、諸神を勧請して創建と言われている。

御祭伸は、大国主神をはじめ、14柱と他社に比べて多い。

5末廣神社(毘沙門天)厄除け・財運・大願成就   多聞天

慶長元年(1596年)以前に稲荷祠として鎮座。吉原の氏神として信仰された。

延宝3年の社殿修復の際に中啓(末廣扇)が見つかり、末廣神社と呼ばれるようになった。

6笠間稲荷神社(寿老人)健康・長寿・病気平癒

安政6年(1859年)、笠間藩主牧野貞直が、国元の笠間稲荷神社(日本の三大稲荷神社の一つ)を江戸下屋敷(この地)に御分霊し、奉斎したのが始まり。

日本橋魚河岸の守り神として、五穀・水産・殖産興業の守護神として庶民の間でも信仰された。

7椙森神社(恵比寿)商売繁盛・大漁豊作

天慶3年(940年)、藤原秀郷が平将門の乱を鎮圧するために、武運を祈願して創建したと言われる。

文正年間の頃、太田道灌が旱魃の雨乞い祈願のため詣でて、山城国稲荷山五社大神を祭祀するようになった。

五社稲荷の一社なる大己貴大神の御宣託により、恵比寿大神を奉斎し、江戸時代の富興行を記念した富塚あり。

また、江戸時代は道灌の選んだ三森の一つと数えられるようになった。三森とは、ここ日本橋堀留町の椙森神社、新橋の烏森神社(昔、江戸三森とは知らずこの辺りの居酒屋さんでよく飲んだものです)そして、神田須田町の柳森神社のことです。

【七福神】

七福神の信仰は、室町時代から始まったと言われています。 弁財天、大黒天、毘沙門天はインドの神様。福禄寿、寿老人、布袋は中国の神様。七福神で唯一日本の神様は、恵比寿様だけです。恵比寿は手に鯛を持っておられます。「めでたい」に通じます。しかし、中国では、鯛はあまり好まれず、食されることもなく、おめでたい魚ではないそうです。恵比寿は日本の神様だからこそ、鯛だったんでしょうね。

京都・西陣は千本釈迦堂の大根炊き

京都・西陣「千本釈迦堂」©️Kyorakusakio

京洛先生です。

最近、どういうわけか《渓流斎日乗》では、滋賀県の大津農林水産通信員とやらが、幅を利かせておられるようです。

が、「元祖」「本家本元」はこのアタシだということを、読者諸兄姉の皆々様方にはよおく御理解、御芳情、御鞭撻の程、宜しく賜わりたき次第にて存じまする。

京都・西陣「千本釈迦堂」©️Kyorakusakio

◇12月8日は臘八大接心

あ、さて、12月8日は、何の日かご存知ですか? 「米国がイスラエルの首都をエルサレムに宣言して、パレスチナで紛争が激化している?」「富岡八幡宮の女性宮司が弟(前宮司)に殺された?」。
それも大きな事件でしたが、仏教徒の始祖、お釈迦様、釈尊、仏陀が悟りをひらかれた「成道会(じょうどうえ)」(12月8日)です。禅宗では「臘八大接心(ろうはつ おおぜっしん)」と言って、12月1日から8日まで僧堂できびしい修行に勤しみます。

◇応仁の乱の舞台で大根炊き
京都・西陣の一隅にある「千本釈迦堂」では、その「悟り」にあやかり、毎年開いている「大根焚き」の日です。鎌倉時代から続いていて、今では、洛中の冬の風物詩にもなっています。
同寺は、仮寓のそばでもあり、今日はその盛況ぶりを覗いて来ました。
通称”千本釈迦堂”。正しくは「大報恩寺(真言宗智山派)」は、あの「応仁の乱」でも、唯一、焼け残った洛中の最古の建造物であり、本堂は「国宝」になっています。

京都・西陣「千本釈迦堂」©️Kyorakusakio

貴人も数年前に、大根炊きを食べに見えたでしょう。本堂の横の「宝物館」の運慶、快慶らの重文の仏像の見事さにびっくりされたりしましたが、例のあの椿事もこの境内でしたね。

◇この紋どころが見えぬか!
緋毛氈の敷かれた床几に腰を掛け、出来立ての温ったかい大根焚きを食べていると、大阪からやってきた、さる民放の報道クルーが、迂生に「取材に応じてくれませんか」と頼みに来ました。
こちらは、取材でも、インタビューでもなんでも応じても良いのですが、後で、彼らが上司から叱られたら可哀そうなので、偶々、着用していたジャンパーの胸の小さなマークをお見せしたところ、カメラマン氏は、大声を出してその場にひっくり返って、大急ぎで逃げ出しました。

何もご存知の無い貴人も、慌てて、「京洛先生!何かあったのですか」と、心配そうな表情を見せられたので、「いやいや、これを見せただけですよ」と、微苦笑しながら、ジャンパーに縫ってあった彼らのライバルのテレビ局のマークを見せたのでした。
貴人もそれを見て「ヒヤ―、それでは、カメラマンさんも驚いて逃げますよ」と大笑いになりました。

京都・西陣「千本釈迦堂」の大根炊き 1000円©️Kyorakusakio

千本釈迦堂の大根焚きは、7日と8日の2日間開かれていて、報道関係者は初日に殺到するので、8日はマスコミは何処も来ておらず、人出もそれほど多くありませんでした。
ただ、大きな大根が3切れと油揚げが一枚入った無病息災の大根焚きは千円です。
関係者によると2日間で1万人が大根焚きを食べるので、俗に言えば売り上げは1千万円はくだらないわけですね。
仕込みから料理、接遇をするのは檀信徒さんで、事実上、無料奉仕でしょうから、この売り上げはすべてお寺の収入になるわけです。ただ、お寺としては「お賽銭」のほかは、これと言った大きな収入がないだけに、この「大根焚き」は、お寺の修理維持費にとっては貴重な財源になっているのは確かです。

ちなみに、鎌倉時代、同寺の三世慈禅上人が、大根の切り口に梵字(ぼんじ)を書いて魔よけにしたのが起源の「大根焚き」は、少し辛めの出汁が、大きな大根に染みて、昼飯代わりになるくらいボリュームがあり美味かったですね。

ご報告迄。

永源寺 滋賀紅葉狩りの旅

滋賀・永源寺 ©️Ohtsu–tsushinin

滋賀の大津農林水産通信員です。

最近、奈良の西大寺先生や京都の京洛先生が世界的にも有名になられ、盛んに紅葉狩りのレポートを投稿されております。

わたしも同じ関西の人間として、これは負けじと、日本の歴史の故郷の魅力は、奈良や京都だけではない。滋賀にこそある、と孤軍奮闘でこれまで頑張ってきたわけです。

滋賀・永源寺 ©️Ohtsu–tsushinin

西大寺先生や京洛先生だけに、”紅葉便り”を任せるわけにはいきませんからね(笑)。

◇意外に知られていない湖東古刹の紅葉

関西で意外に知られていないのが、湖東(琵琶湖の東側)の古刹の紅葉です。
東近江市には、「永源寺(えいげんじ、臨済宗永源寺派大本山)」や「西明寺(さいみょうじ)」「金剛輪寺(こんごうりんじ)」「百濟寺(ひゃくさいじ)」といった本堂が「国宝」で、千五百年前に建てられた古刹があります。今の時季、紅葉、楓の色合いが、実に鮮やか、綺麗ですね。

滋賀・永源寺 ©️Ohtsu–tsushinin

また、湖東あたりに来ると、京都、奈良、大阪のような「インバウンド」なんて、無粋で、俗臭ぷんぷんな行儀の悪い異国の観光客は、まだ訪れていませんね(笑)。

しかも、どのお寺も、「本堂」に上がるまでの、静寂で、石段の数がそれなりにあり、足腰の鍛錬にもなります。
今回は、”乗合バスツアー”で、急いで、ぐるっと一巡してきましたので、《渓流斎日乗》農林水産通信員として、まず、「永源寺」の紅葉を御報せ致します。 

滋賀・永源寺 ©️Ohtsu–tsushinin

永源寺は紅葉、楓の樹木が多く、総門から山門に向かって、頭の上に広がる紅葉は実に見事です。また、この界隈は、水が豊かで、豆腐、こんにやくなどが名産品で、水は信仰にも深くかかわっています。

◇近江守護職佐々木六角が創建

永源寺の専門道場(僧堂)に参禅する禅僧も多く、こうした地下から湧き出る水を使って修行に勤しんでいる、という事です。
同寺の歴史は興安元年(1361年)、近江の守護職、佐々木六角が入唐求法の寂室元光禅師に帰依して、創建されました。
応仁の乱では、京都の兵火から避けた洛中の有名な僧侶が永源寺にも続々やって来て修行に打ち込み、寺勢は活気づいたそうです。

◇別峰紹印禅師が尽力
しかし、その後の相次ぐ戦乱は、永源寺にも及び、同寺も荒廃しました。江戸時代中期になりようやく、妙心寺から来た別峰紹印禅師が尽力し、後水尾天皇はじめ、東福門院、彦根藩(井伊家)ら有力者のバックアップを得て、興隆してきました。
明治になり、それまでの「臨済宗東福寺派」から離れて、新たに「永源寺派」として独立し、臨済宗の総本山の一つになり、今では末寺が全国に100カ寺もあるそうです。

滋賀・永源寺 ©️Ohtsu–tsushinin

◇臨済宗の総本山はいくつ?

ところで、《渓流斎日乗》御愛読の皆さんに質問ですが、日本に伝えられた「臨済宗」の総本山は今いくつあると思いますか?

答えは、下記の通りで14です。たくさんありますね。

(1)臨済宗妙心寺派 大本山妙心寺(京都市右京区)
(2)臨済宗建長寺派 大本山建長寺(鎌倉市)
(3)臨済宗円覚寺派 大本山円覚寺(鎌倉市)
(4)臨済宗南禅寺派 大本山南禅寺(京都市左京区)
(5)臨済宗方広寺派 大本山方広寺(静岡県浜松市引佐町)
(6)臨済宗永源寺派 大本山永源寺(滋賀県東近江市)
(7)臨済宗佛通寺派 大本山佛通寺(広島県三原市)
(8)臨済宗東福寺派 大本山東福寺(京都市東山区)
(9)臨済宗相国寺派 大本山相国寺(京都市上京区)
(10)臨済宗建仁寺派 大本山建仁寺(京都市東山区)
(11)臨済宗天龍寺派 大本山天龍寺(京都市右京区)
(12)臨済宗向嶽寺派 大本山向嶽寺(山梨県甲州市)
(13)臨済宗大徳寺派 大本山大徳寺(京都市北区)
(14)臨済宗國泰寺派 大本山國泰寺(富山県高岡市)

南禅寺「天授庵」 京都紅葉狩りの旅

京都・天授庵 ©️par kyoraku sensei

京都にお住まいの京洛先生から「紅葉狩り」便りが届きました。

この「渓流斎日乗」で、よく読まれる人気サイトの上位だけが、パソコンだと右手に、スマホだと一番下に掲載されておりますが、第1位が京洛先生の記事、第2位が西大寺先生の記事なんですからね。

嫌になっちゃいますよお(笑)。

京都・天授庵 ©️par kyoraku sensei

(京洛先生のお手紙)

…今日は昼過ぎからデジカメをぶら下げ、南禅寺境内の塔頭「天授庵」に出かけて、綺麗な紅葉を写してきました。
この「天授庵」のあった南禅寺の場所は、大昔の文永元年(1264年)に、亀山上皇の離宮(禅林寺殿)があったところです。
その後、正応4年(1291年)、禅寺になり、それが、南禅寺のルーツです。その後、1339年(暦応2)光厳天皇の勅許により、虎関師錬が、南禅寺の開山に関わった無関普門(大明国師)の塔所として、この天授庵を建立、南禅寺の塔頭の中でも、由緒正しい塔頭という事です。…

知りませんでしたね。それにしても、よくご存知だこと。

京都・天授庵 ©️par kyoraku sensei

…しかし、この天授庵も、文安4年(1447年)の「南禅寺の大火」で類焼、さらに、今話題になっている「応仁の乱」でも兵火に見舞われ、およそ130年間、荒廃したままになっていたそうです。
ようやく、1602年(慶長7)細川幽斎が再興、境内には、池泉を主にした庭や枯山水の二つも作られました。
京都の寺社は、何処も、時の権力者の手によって焼失されたり、時代が変わると、新しい権力者によって、再興されたり、栄枯盛衰が激しいことがよく分かります。…

なおるほど。栄枯盛衰、諸行無常ですね。

京都・天授庵 ©️par kyoraku sensei

…この時期は、色艶やかな、紅葉を見ようと、昼間は勿論、夜はライトアップで、「天授庵」も、大勢の観光客でごった返しています。
小生も拝観料500円を払って紅葉を愛でましたが、本堂前の庭や書院南庭での紅葉が特に見事でした。…

いやあ、ご苦労様のことでありました。

「圓光寺」〜「詩仙堂」京都の旅

京都・圓光寺

天才IT技術者松長社長の尽力で、皆様のコメント欄を分かりやすく設けました。

さらなる皆様方からのコメントをお待ちしております。

京都・圓光寺

奈良の西大寺先生の最大のライバルである京都の京洛先生から、西大寺先生の投稿を御覧になって、早速、飛脚便を飛ばしてきました(笑)。

…東都の紅葉は色づきましたか? こちらは、まだこれからですね。
11月中旬からが、紅葉狩りの本番でしょう。一気に、観光客も増えて、洛中、洛外は大変な賑わいになると思います。
貴人が、過日、上洛されて、鑑賞された京博の特別展覧会「国宝」(今月28日まで開催)ですが、第Ⅲ期展示が始まっていますが、志賀島出土の「金印(漢委奴国王印)」(12日まで展示、福岡市立博物館所蔵)は、最前列で見るには、40分~1時間くらいかかるそうですよ。凄い人気ですね。これに、これからの紅葉シーズンが重なるのですから、京博の前は長蛇の列が予想出来ます。

◇徳川家康開基の圓光寺

迂生は、今日、ちょっと早めに、徳川家康が開基した、京都市左京区の一乗寺にある紅葉の名所、臨済宗南禅寺派「圓光寺」に出かけて来ました。
家康が慶長6年(1601年)に教学を普及するため「足利学校」の学頭だった三要元佶(さんよう・もときつ)という禅僧を招いて、京都伏見に「圓光寺」を建てたのですが、その後、相国寺境内に移ったりしたこともあり、寛文7年(1667年)に、此処、一乗寺に移転しました。お寺も、あちこち引っ越したり、廃寺になったり、栄枯盛衰があるわけです。

京都・圓光寺

◇家康のブレーン

家康に請われて、下野国の足利学校から、「圓光寺」の開基に関わった元佶禅師は、彼の有名な「家康のブレーン」で、事実上、幕政を差配した金地院崇伝や天海上人と同じく、「黒衣の宰相」と呼ばれた実力者だった、と言われています。

◇「貞観政要」を刊行

家康は、圓光寺を教学普及の場にするため、お坊さんだけでなく、俗世間からも、向学心のある人間の入学を許したそうで、聖俗合わせての学問所にしようと考えたわけですね。そして、「貞観政要」などの書物を刊行しました。活字と言っても「鉛」でなく、「木活字」による印刷です。圓光寺の宝物館には、その「木活字」が展示されています。文字通り、出版文化の草分け、嚆矢といえます。
木活字をじっくり見てきましたが、保存状態も、よく、この「木活字」を使った印刷物は、「伏見版」、「圓光寺版」と呼ばれています。
また、同寺には、家康の「歯」も埋葬した東照宮もあります。、家康ゆかりのお寺がこんなところにあったとは、貴人も知らなかったでしょう(笑)。
迂生も徳川家康が、そんな、お寺を、京都に建てたとは知りませんでした。

◇近くに石川丈山の詩仙堂

「圓光寺」の、紅葉は、まだ、色づき始めたばかりです。観光客もそれほど多くいませんでした。
近くには、石川丈山(先祖代々「徳川家」譜代で、丈山は家康に仕え、「大坂夏の陣」でも功名を建てたのですが、この後、武士を棄て、文人になり、50才過ぎに「詩仙堂」を建て、朱子学、詩、煎茶道に勤しみ、90歳の生涯を終えました)の建てた「詩仙堂」もあります。

京都・圓光寺

圓光寺の拝観料は500円ですが、一乗寺周辺には、この「詩仙堂」や宮本武蔵の”一乗下り松の決闘”があった、という場所もあります。もっとも、決闘の地は、このほか、拙宅傍にも、「決闘の場所跡」があり、「決闘の地」は複数で真偽不明ですが、一乗寺界隈は見るところが沢山あります(笑)。今度、ご上洛された折ご案内します。

◇丁稚羊羹、鳩餅、武蔵饅頭

また、あの赤羽彦作村長が涎を垂らしそうな「丁稚羊羹」「鳩餅」、それに「武蔵饅頭」などの甘い「名物」が売られています(笑)。
彦作村長が同行されていたら、パチパチ、写真撮影されていたことでしょうね(笑)。この近くには「修学院離宮」もあります。…

なるほど、圓光寺と詩仙堂は私もいつか行きたいと思っております。

青山城址~小倉城址~菅谷館跡~稲荷塚古墳

国指定史跡 小倉城趾

トランプ米大統領夫妻と安倍首相夫妻は昨晩、「渓流斎日乗」が予告した通り、東京・銀座のミシュランも推薦する超高級鉄板焼料理「うかい亭」で会食しましたね。

えっ?具体的な店名は書いてなかった?そりゃ、そうでしょう(笑)。「体制護持」「党広報機関紙」ですから、そこまで書きませんよ(笑)。

で、トランプ大統領と安倍首相は昼間は、埼玉県の名門で3年後の東京五輪会場にもなる霞が関カンツリー倶楽部でゴルフをなさってました。

私たちは、ちょうどその頃、好天に恵まれて、そのゴルフ場近くの山城にエッチラホッチラ登っておりました。

都内に本部がある「山城歩き同好会」に私も参加させてもらい、全部で6人が中世の城跡を散策しました。

東武東上線の終点小川町駅(これがかなり遠かった)から、バスで愛宕公園下まで(220円)行き、そこで迷っていたら、シトロエンに乗った地元の優しいおじさんが、わざわざ登山道の入り口まで案内してくれたのです。お名前も伺いませんでしたが、この方のおかげで、幸先良いスタートが切れました。

どうも有り難うございました。

昼なお暗い細くてきつい檜と杉の山道を辿って最初に着いた所が青山(割谷)城跡でした。詳細は上の看板をご参照ください(笑)。

室町時代から南北朝時代の15世紀、城主は不明ですが、関東管領扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の家臣上田氏が有力と言われてます。

ここからまた、30分ほど狭い急な山道を歩いてやっとのことで辿り着いた所が、今回のハイライトの一つ、小倉(おぐら)城趾です。こちらも城主は不明で、戦国時代の後北条氏の家臣の遠山氏とも上田氏とも言われています。

ここは「国指定の史跡」として登録されていますから、絶対に一見の価値ありますね。とにかく素晴らしい。苦労して登ってきた甲斐がありました。

何でこんな山奥に城が建てられたのか不思議ですが、敵から逃れて下界を探訪するのにちょうどよかったのでしょう。また、城下を流れる槻川(つきがわ)から物資を運んだり、武蔵国原産の板碑の石材を運搬したりしていたらしいです。

ここは、中世から水運業が盛んだったようです。

この小倉城の特徴が上写真のような石の平積みです。まあ、石垣ですが、いかにも中世の城らしく、武蔵国の城で見られる平積み石はここだけだそうです。

この後、ハイキングコースにもなっている嵐山町の嵐山渓谷道を散策しました。

ここは、日比谷公園や明治神宮などを設計した本多静六博士が、京都の嵐山(あらしやま)に似ているということで、武蔵嵐山(らんざん)と名付けたらしく、大正時代あたりから観光資源になったようです。

東武東上線「武蔵嵐山」駅に近付くと、国道254線近くに「菅谷館跡」があります。ここは鎌倉時代の源頼朝の右腕と言われた畠山重忠の城跡だったそうです。

本郭のほかに、二の郭、三の郭、南郭、西郭などがあり、規模は小倉城より広い。実に立派な城跡です。

ここには県立嵐山史跡博物館もあります。

詳細は→ 菅谷館跡

室町末期から戦国時代は、山内上杉氏の内紛などで戦場になりました。

畠山重忠像

鎌倉武将畠山重忠は、埼玉県深谷市畠山出身なんだそうですが、意外にも埼玉県北部は、鎌倉武将を多く輩出しているんですね。

平家物語などに登場し、歌舞伎の題材にもなった熊谷直実の熊谷市出身が一番有名かもしれませんけど、木曽義仲は、源義賢の次男で、生まれは現在の埼玉県比企郡嵐山町の大蔵館だったというのです。父義賢が兄義朝(頼朝、義経の父)と対立して、義朝の長男義平に討たれ、義仲は信濃国木曽谷に逃れたことから、木曽義仲と呼ばれるようになったんですね。

時代が下って、関東管領扇谷上杉氏の家臣で、河越城、江戸城を築城した太田道灌は、小川町のずっと先の越生町出身と言われております。

「山城歩き同好会」の最後の締めは、これまた武蔵嵐山駅に近い「稲荷塚古墳」でした。

古代にこの地に古墳をつくるほどの有力な豪族が住んでいたわけで、古代から中世、近世と脈々と歴史が続いてきたことが分かります。

特に、一番初めに出てきた小川町は、重要文化財にも指定されている「細川紙」と呼ばれる和紙が有名ですが、これは、1300年前に渡来した高麗の人たちの製造技術が伝わってきたものだそうです。

詳細は→ 細川紙

恐らく、高麗人たちは、技能職人として、また土地の有力者として政治的発言権も持っていたのかもしれません。

万歩計を見ると、この日に歩いたのは、2万5000歩以上にも及びました。意外と知らなかった歴史散歩ができ、昨日は少し疲れましたが、非常に有意義な時間を過ごすことができました。

京都行脚最終回 信行寺〜桃庭〜建仁寺〜きんなべ

京都・建仁寺

京都建仁寺 豪州ブリスベーン出身の修行僧が運んでくれました。何と東京銀座の空也最中。

今日は、京都の旅最終回です。

昨日の記事は、あれでも書くのに3時間以上かかりました。そのせいか「長過ぎる!」「もっと短くしろ!」「プライバシーを守れ!」と非難轟々でした。

まあ、めげずに、緩く、温く行きますかぁ〜(笑)。

建仁寺僧堂の門

10月8日(日)のことでございます。今回の京都行脚のハイライト、京洛先生の奥方様ゆりさんの13回忌法要が執り行われました。京洛先生の御親戚、友人知人ら21人が参列しました。中には、遠く大分県や栃木県、埼玉県、東京から参加されておりました。

京洛先生は、京都の由緒ある家系に御生まれになってますので、菩提寺が京都だけで二カ所もあります。

最近、伊藤若冲のほんまもんの天井画で有名になった信行寺と、京都五山の名刹建仁寺です。こういう歴史的建造物の中で法要ができる御身分は限られております。まず、観光客や一般人が入れない所まで、ズズズイと入れます。

道源山信行寺は、創建不詳ながら、浄土宗知恩院末寺に当たります。若冲最晩年の83歳の時に描いたとされる天井画「花卉図」のある寺として有名になりましたが、普段は一般公開されていないようです。

ということで、撮影も禁止されているようで、一枚も写真ありましぇん。

お昼は、祇園甲部歌舞練場の近くにある高級広東料理「桃庭」です。

いやあ、高級料理とあって、美味旨し。普通はとても入れませんが、特別な日として、京洛先生が御招待してくれました。

建仁寺を創建した栄西入定跡。遺骨も納められているそうで…

午後の建仁寺での法要では、僧の皆さん(という表現も変ですが)が7〜8人も合同で声明を唱えてくださりました。

以前、法然上人の伝記を読んだ時、平安時代末期、このお経を複数の若い僧が合唱する声明を聞いた若い女性たちが恍惚となって、阿弥陀如来の救済に縋っていた場面が出てきましたが、その威力(?)は現代でも衰えていないような感銘を受けました。

無事、全ての法要が終わり、一行は、建仁寺の隣りにある祇園「きんなべ」(大和大路四条下る)に入りました。

夜は、高級鍋料理を出す老舗ですが、昼過ぎは喫茶店として、こうして抹茶なども振る舞ってくれます。

京都の店舗は間口が狭いので、そんなもんかと思ったら大間違い。どんどん奥行きが深く、何処までも、何処までも続く感じ。最後はお庭があり、小さな稲荷神社まであるのですから驚きです。

ここなら、密談、密会、隠れ家…何でもオッケーです(笑)。

池波正太郎がこよなく愛したおでんの「蛸長」。やはり、それなり、なので御覚悟を。

この後、夕御飯を兼ねて、新京極通り四条上るの居酒屋「静」に入店。初めて中に入るのには相当勇気がいる店構えでしたが、中に入ると単なる居酒屋さん。値段も安いせいか、京大や同志社、立命館などの学生さんが多く出入りするらしい。壁は、彼らの落書きだらけでした。

この店では、ゆりさんの御学友を始め友人の女性陣が多く参加しました。この席で、「暴言議員」として有名になった豊田真由子さんの先輩筋に当たる御学友さんも注目の的になりました。

えっ?プライバシー侵害?ま、これくらい大目に見てくださいな(笑)。

聚楽第跡~首途八幡宮~武信稲荷神社~「いづ源」

高倉通綾小路下ルの「いづ源」京都寿司の老舗 お醤油は付けはりしまへんで お食べどす

ー京洛先生!また、あの渓流斎の野郎が京都見物の話を書こうとしてまっせ。あんの野郎、許せませんね!

ーまあまあ、お手柔らかに頼みますよ。

10月7日(土)のことでした。京都駅近くあるヨドバシカメラ一階のエビスバーで、京洛先生と全国に情報網を巡らす広域一次団体幹部の吉田氏と赤坂方面にある大手マスコミの元幹部で今は悠々自適の田岡氏と小生と初めて顔を合わせ、ハンバーグランチを食べながら、これから先、何が起こるか分からない弥次喜多道中について、思いを馳せておりました。

結局、これから2泊する大宮中立売にある「ワサビそば」とかいうゲストハウスに荷物を預けに行こうということになり、このゲストハウス近くにあった「聚楽第」跡に立ち寄りました。

聚楽第は「じゅらくだい」ではなく、「じゅらくてい」と読むのが本当らしいですが、「かましまへん」と立看板に書かれていました。

この看板がなければ、あの太閤秀吉が築いた城跡(建物群、庭園、茶屋なども)だったことなど、全く想像もつかなかったことでしょう。

当時の面影なんぞ、全くありゃしまへんでした。

もっとも、この聚楽第跡の歴史を辿れば、ここは、もともと平安宮の大蔵省跡だったらしく、これもやはり、看板がなければさっぱり分かりませんでした。

栄枯盛衰ですね。

この後、所用で立ち寄ったお店近くの首途(かどで)八幡宮に立ち寄りました。

ここは、京都市内で、奥州で産出される金の商いをしていた金売吉次(かねうり・きちじ)の屋敷跡だったらしく、鞍馬山で修行した牛若丸こと源義経が東北平泉に赴く際に、吉次に世話になって旅立ったそうです。

私の話より、この看板の方が来歴は確かです(笑)。

でも、奥州と繋がりがあった吉次という商人は、当然、情報網も持っていたことでしょう。義経が、奥州への首途(かどで)にここに訪れたのも何か理由があったのでしょう。御縁だけでは説明がつかない気がします。

続いて訪れたのは、堀川三条商店街にある武信稲荷神社です。

昨日書きましたが、この商店街にある京洛先生行きつけのレストラン「力」の女将さんの謦咳に接しようとお尋ね申し上げたのですが、不在でしたので、この近く名所旧跡を訪れたわけです。

この武信稲荷神社の近くに、幕末には六角獄舎というものがあり、龍馬の妻になるおりょうさんの父親が、勤王志士の医師だったため、捕えられていたそうです。

龍馬は見回り組などから命を狙われていたので、若い二人は、この神社で密会していたそうです。詳しくは上部にアップした写真の看板をお読みください(笑)。

この神社は、伝説の一寸法師と関係があります。彼が住み込みで奉公していた「三条の大臣殿」というのが、藤原良相公のことで、この良相公は屋敷内にこの武信神社は創祀したというのです。

そこで、この神社にお参りすると、龍馬さんの関係で縁結びの神様に恵まれ、一寸法師の関係で、出世すると言われております。

うーん、私は「終わった人」(内舘牧子)ではありますが、これ以上、出世してどうするの?

いづ源の鯖寿司 このまま食べてくれやす

夜は、高倉通綾小路下ルにある京寿司の老舗「いづ源」に連れて行ってもらいました。食事も美味しいし、女将さんのワンマンショーも素晴らしかった。女将さんの京言葉は、まるで、映画を見ているような感じでした。

京都に寿司の老舗として、祇園新地に天明元年(1781年)の創業の「いづう」があります。味も値段も天下御免。ほんの少しだけ座敷が高い感じのお店です。

そのいづうの別家に「いづ源」「いづ重」「いづ松」があるそうです。別家というのは、弟子筋の人が暖簾分けしてもらって店を開くことだそうで、子どもや親戚が継ぐ分家とは違うといいます。

いづ源は、大正年間創業ということで比較的新しい別家ですが、「安くて旨い」と三三七拍子が揃っています(ナンデ…)

いづ源の女将さんのお名前は伺いませんでしたが、御年はご自分で申告されておりました(笑)。もう、オペラのコロラトゥーラかカンツォーネのような京言葉を唄うように話します。

小生が、「『渓流斎日乗』という世界最小メディアをやっております」という話を伝えたところ、「京都の老舗創業番付」のコピーを私だけにくださいました。勧進元は「時代マップ編集部」になっており、そのキャッチコピーは「100年、200年は当たり前。京には創業1000年以上の老舗がある」というもので、西の横綱は、仏具の「田中伊雅仏具店」で創業は仁和年間(885~889年)。何と創業1132年!東の横綱は、あぶり餅の「一和」で長保2年(1000年)、創業1017年ですか。

このほか、私が知っているのは、和菓子の「とらや一条店」が東の前頭で創業が大永年間(1521~27年)、坂本龍馬も関係のある旅籠屋「寺田屋」が西の十両で慶長2年(1597年)創業。仏教書の「法蔵館」が東の三段目で慶長16年(1611年)、お酒の「月桂冠」が西の序二段で慶長14年(1637年)創業となっておりました。

いづ源の女将さんのお話で面白かったのは、京寿司は、箱寿司といって箱に詰めた押し寿司なので、関東などのように寿司屋の板前さんのカウンターがない。外の「寿司」の看板を見て、店に入ってきた人がカウンターがないので、「あ、間違いました」と言って帰ってしまう御客さんも多いらしいですね。

でも、この店は、大徳寺などほとんど仕出しが専門で、店内の御客さんは収益の1割ほどだというので驚きました。とはいえ、我々4人が食事している間、他に御客さんが入って来ないので少し心配してしまいましたが。

女将さんは、京都という土地柄の有職故実と言いますか、祥月命日など毎日毎日、年中行事でいっぱいだという話をされておりました。どういう漢字が分かりませんが、お祝い事をする時、「ひろぶだ」に入れて、簡単な手紙も添える話をしておりましたが、とても関東人では面倒臭くてできませんね。

あと、京都では和尚さんのことを「おっさん」と言うのが普通らしく、これにも吃驚しましたね。発音記号が書けませんが、「おっさん」ではありません。男体山みたいな発音ではありません。どっちかと言うと、月山みたいな発音の「おっさん」です。こんな説明で分かるかなあ…。

京博120周年記念展「国宝」、養源院、堀川三条「力」の女将さん、

京都タワー

二泊三日の駆け足で、非常に充実、満喫した京都の旅を終えて、今、帰宅の新幹線の中です。(10月9日午後5時40分記)

驚いたことに、京都駅は大変な大混雑で、東京までの新幹線は2時間先までの予約席は、全て満員完売。せっかく、事前に指定席券を買いましたが、自由席に飛び込み、ギリギリ座ることができました。

今回の京都旅行の目的は、49歳の若さで亡くなった京洛先生の奥方様ゆりさんの13回忌の法要に列席するためでした。

そのことは、また明日以降に記録させて頂くとして、忘れないうちに本日あったことを書いてみます。

本来なら3日前の方が忘れてしまうので最初に書くべきですが、順序があべこべですねえ。何だかよく分かりません(笑)。

まずは、9日午前中は、念願の国宝展(1500円)に行ってきました。京都国立博物館開館120周年を記念した大博覧会で、本当は、国宝展ではないのです。展は付きません!たった二言「国宝」だけなのです。「頭が高い。分かったかあー⁉︎ 」というスタンスです。威張ってますねえ(笑)

開館時間の午前9時半。市バスで、京博前で降りたところ、びっつらこきましたよ。人、人、人。京博の周りをとぐろを巻いたようにグルグル列が並び、最後尾を辿ったら、東山七条の妙法院辺りまで列が連なってました。

結局、1時間並びましたが、その甲斐はありました。まさに眼福。目に青葉 山ほととぎすでした(意味不明)。

感動の嵐でした。何しろ、じぇーんぶ、ほんまもんの国宝なのですから。

私が実物を見て特に感服したのは、「法然上人絵伝」「信貴山縁起」などの絵巻でした。800年ぐらい経っているのに未だに鮮やかな色彩には驚かされました。

あと、パンフレットに載っていた志賀島の金印や伝源頼朝像(神護寺)も見たかったのですが、この後に公開されるようでした。展覧会は四期に分かれて展示されるので、「こりゃあ最低4回は来ないとダメだなあ」と思った次第。

京博の近くの寺社仏閣として、長谷川等伯の絵画がある智積院と、俵屋宗達の象の絵画などがある養源院を京洛先生から紹介してもらいましたが、時間の関係で養源院だけしか行かれませんでした。

でも、こちらは大正解。ドンピシャリでした。ちょうど、最近、関ケ原の戦い前後の歴史を勉強していたので、まさに登場人物がドンピシャリ合ったわけです。

養源院とは、織田信長に滅ぼされた北近江城主浅井長政の戒名だということを不勉強にも知りませんでした。長政の正室お市の方は信長の妹。2人の間の長女茶々は、豊臣秀吉の側室淀君。三女お江は、徳川二代将軍秀忠の正室という華麗なる一族でした。

この養源院は当初、淀君が秀吉の了解を得て父長政の二十一回忌の供養のために創建したものでした。程なくして焼失してしまいますが、今度は妹のお江が秀忠の許しを得て、表向きは徳川家臣の菩提寺として復興します。

その際、消失した伏見城から広間や襖絵なども移築します。特に、関ケ原の戦いの前哨戦とも言われた伏見城の戦いで、石田三成勢に囲まれて籠城した徳川家臣鳥居元忠ら将士が切腹して血染めになった廊下を、この養源院では血天井として使われていました。

養源院

このほか、何と言っても、画壇に出てきたばかりの若き俵屋宗達(生没年不詳、「風神雷神図」で有名)による象や麒麟、松の襖絵が、手で触れるぐらいの身近で見られることです。

ここはお薦めです(拝観料500円)

けつねうろんをご馳走になってしまいました。

旅先を急いでいたのは、堀川三条商店街「力」の女将さんと午後1時にお会いする約束をしていたからでした。京博に入るのに随分時間を取られてしまいましたからね。

堀川三条通りは、坂本龍馬がおりょうさんと逢引を重ねた所でした。このことは、またいつか書きます。そして、物識りの京洛先生によると、六車線ある京都市内でも指折りの広い大通りである堀川通りは、米軍占領時代、米軍機の滑走路として使われていたそうです。

最近、占領時代の京都を舞台にした本が出版され、そこには烏丸通りで、米軍が示威行動のために軍事パレードしていたという話が載っているらしいですが、堀川通りのことも書いてあるのかしら。

「カフェKEIZO」は、いつもいつも行列

堀川三条商店街のレストラン「力」は、残念ながら、諸般の事情があって店仕舞いしてしまい、次に入るテナントさんが、この商店街の近くでやっている「カフェKEIZO」がチョコレート専門店として、出店するという極秘情報を掴んできました(笑)。

この「カフェKEIZO」は、雑誌に載ったのか、ネットに載ったのか、超人気有名店として浮上し、東京から日帰りで訪れるお客さんもいるとか。コーヒーのほか、軽食とスイーツを売り物にしているようです。

で、「力」の美人の女将さんは、前回ここで食事した時は、キリッとしてましたが、お店をやめてしまったので、すっかり穏やかな表情の一般の市民になっておりました(笑)。京洛先生のお導きで、お頼みしたわけでもないのに、何が悲しいのか、この「渓流斎日乗」の熱心な愛読者になってしまい、今では12年前のアーカイブ記事まで読んでくださっているというお話でしたから、有難い限りでした。

この懇話会で面白かったのは、京洛先生が清水寺近くにある松寿軒の饅頭は、建仁寺や高台寺にもおさめていてとても美味いといった話でした。

私は全く知らなかったのですが、薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう=最近は、簡略して上用饅頭と記されているようです)と言われる饅頭にはアンコの中に隠し味として、自然薯が入っているそうですね。

そしたら、頓知の効いた女将さんが「お芋の入って無いのは蒸しパンや」と仰るので皆んなで大笑いしてしまいました。

旭山動物公園

北海道旭川市の旭山動物公園に行ってきました。
昨夏は、東京の上野動物園を抜いて、全国で1位の月間入場者数を誇ったということで、確かめに行ったのですが、その予想と期待を裏切らず、実に素晴らしかったです。

なぜ、日本の最北端の動物園が輝かしい1位を獲得したのか?
やはり、動物園という「見世物」の原点に立ち返ったのがよかったのではないかと思います。とにかく、見せ方がうまい。本当に、うまく見せます。魅せます。

特に、話題の「ペンギン館」と「アザラシ館」と「ホッキョクグマ館」がよかったです。いつもは、海岸で疲れたように寝そべっているアザラシが水の中で、あれほど活発的だとは思いもよりませんでした。それを、この動物園では水族館のように目の前で見せてくれます。

ホッキョクグマ館では、屋外に出ると、人間が屋内からホッキョクグマを観察している姿も見えます。ホッキョクグマがノソノソ歩く敷地に透明のタイムカプセルのような「観察室」が突き出ています。外から見ると、その屋内の観察室から覗いている人間がまるで見世物のように見えるのです。

それとは知らず、ホッキョクグマを屋外から見ていると、突き出た透明のタイムカプセルの中から、水木しげるの漫画に出てくるような、髪の毛の長い河童のような妖怪がぬっと顔を突き出してきました。最初、何が起きたのかわからず、本物の妖怪ではないかと勘違いしてしまいました。しかし、すぐに我に返って、あれは、見物人のおばさんだったということがわかり、大笑いしてしまいました。

人間も動物ですが、動物園の動物が一番まともで、人間が一番不可解に見えたのが、何ともいえない笑い話でした。