「明治東京下層生活誌」は身につまされます

 世の中には、銀座のどこそこのランチが美味い、なぞとブログに書いて喜んでいる輩がおりますが、最低ですねえ。(ワイのことやないけー)

 今、中川清編「明治東京下層生活誌」(岩波文庫)を読んでいますが、身につまされます。この本を購入したきっかけは、銀座ランチに勤しんでいる真っ最中に参考文献(笑)として購入した阿古真理著「日本外食全史」(亜紀書房、3080円)の中で、松原岩五郎著「最暗黒の東京」(講談社学術文庫)を引用していたからでした(明治の貧困層はモツを食べていた、といった感じで)。これは、明治25年から26年にかけて「国民新聞」(徳富蘇峰が創刊)に連載されたルポで、東京府内の貧民窟を探訪した名著として知られています。

 この本を読もうかと思いましたが、その前に、明治19年に「朝野新聞」(成島柳北が主宰)に掲載された「府下貧民の真況」(著者不詳)が収録されているというので「明治東京下層生活誌」(岩波文庫)を先に買って読むことにしたのです。ある人に言わせると、この「明治東京下層生活誌」と「最暗黒の東京」と、もう一つ、横山源之助著「日本の下層社会」 (岩波文庫)を、「日本下層史3部作」と呼ぶ人もいるそうです。私は、いずれも未読なので、読破したいと思っております。

 何故なら、ヒトは、残念ながら、失敗からしか教訓を学べないという真理があるからです。世の中には、石油王だの、金融王だの、鉄鋼王だの、数多くの成功物語があり、多くの関連本が書店に並んでいますが、悲しい哉、それら成功譚は、やはり、特別で万人向きではありません。特殊な才能があったり、生まれながらの資産があったり、特別な運に恵まれたりする人のためで、ほとんどの99%の凡夫には関係ない話なのです。

 むしろ、失敗譚の方がより良く生きていく上で、大変参考になるのです。

 とはいえ、これら「下層史3部作」は、失敗譚ではありません。努力したくても最初から教育の機会に恵まれなかったり、運に見放されたりしているだけで、決して、怠惰のせいで、失敗しているわけではないからです。

銀座の紫陽花

 「明治東京下層生活誌」に収録されている「府下貧民の真況」(著者不詳)や桜田文吾著「貧天地饑寒窟探検記抄」(明治23年8月29日~24年1月5日「日本」)などでは、当時、明治東京府で「貧民窟」と呼ばれた下層社会の実態と生活ぶりを探訪しています。四谷鮫河橋(信濃町=江戸時代の岡場所)、芝新網町(浜松町)、下谷万年町(上野)が「三大貧民窟」として当時は有名でしたが、他に、麻布箪笥町(六本木)、神田橋本町、浅草松葉町、八丁堀仲町、芝高輪…など枚挙に暇がないほどです。

 これら、貧民窟は100数十年経った現在、全く跡形がないほどその痕跡すら見られませんが、「人生百年」時代に、そのわずか100年ちょっと前に、住む長屋の壁も剥げ落ち、雨漏りがし、夜具もなく、不衛生で、蚤虱や南京虫が這いずり回り、勿論、食べる物に事欠く見すぼらしい姿の人々が多く住んでいたことを、現代人は想像すらできないことでしょう。

 彼らの職業は、三味線弾き、鼻緒職、車曳き、左官、鳶職、日雇い、屑拾いなどの日銭稼ぎで、雨でも降ればその日の収入は全くなしといった状態です。勿論、食事に、肉や魚にありつけるわけがなく、御粥をすする程度で、中には拾ってきた腐りかけた食べ物を「腹が減った」と泣き叫ぶ子どもに食べさせたりします。

 「貧天地饑寒窟探検記抄」の著者桜田文吾は、今で言うルポライターかノンフィクション作家で、元仙台藩士でしたが、牛のシタとは何かと思ったら、高級な「舌」ではなく「下」で、本来捨てられていた臓腑の部分のことで、これらを貧困層の人たちが好んで食べているのを見て驚き、「その腥(なまぐさ)くして生硬なる、常人はわずかに口に入れたるのみにてたちまち嘔気(はきけ)を催すべし」とまで書いています。

 明治の歴史といえば、大久保利通や伊藤博文や板垣退助らが登場し、やれ、民撰議院設立建白書だの、やれ、鹿鳴館だの、大日本帝国憲法発布などといった華々しい側面ばかり教えられます。一方、こうした下層の人たちの生活ぶりは陰に隠れるというより、歴史上から抹殺されてきた感じがします。下層社会にこそ、人間の真理があるというのに…。

 下層史に関して、テレビに出るような(出ている、とは言ってませんよ)偉い歴史学者さんたちは、暗い話だし、視聴率も取れないし、まともに研究している学者も少ないので、番組として取り上げることはないでしょう。それなのに、彼らは「俺は何でも知っているんだ」といった顔をしています。大久保利通や伊藤博文だけが明治史ではないのです。それは一つの側面であって、名もなき貧しい人たちが歴史をつくってきたことを忘れてはいけないと思いながら、この本を読んでいます。

靴の中敷きを巡る哲学的考察

 いつも堅い話題ですと、読者離れが、人流のように拡大するのではないかと思い、本日は日常茶飯事のお話をー。(それにしても、霞ケ関辺りが率先して、マスコミも頻繁に使うようになった「人流拡大」というのは凄い言葉ですね。コロナ禍がなければ、意味不明です。今年の流行語大賞になるのではないでしょうか?)

 本日は、靴のお話です。というか、靴の中敷きのお話です。

 例のフィンランド製のスニーカー「カルフ」(実は、フィンランド生まれの中国製だった!)を購入したら、実に履き心地が良かったので、もう一足購入した話を随分前にこのブログに書いたことがあります。最初に買ったブラックは、確かにエアクッションが効いて、実に足取りも軽く歩けるのですが、二足目に買ったブルーのカルフは、どうもエアクッションの具合がブラックと比べて悪く、同じ製品なのに、色が違うと「こうも違うものか」と違和感を覚えていました。

D社の靴の中敷き 何と!こちらが裏だったとは!

 そこで、ある人から薦められて、靴の中敷きを替えてみることにしました。結構、有名なメーカーらしく、1足分、ドラッグストアで2200円ぐらいで買えました。

 そして、どうにか装着して歩いてみましたが、右足はどうにか歩けるのですが、左足がきつくて、痛くて、痛くて、200メートルも歩けず、自宅に戻ってしまいました。

 たかが、中敷きとはいえ、微妙な差があって、なかなか難しい。説明書には、スニーカーでも使えると書いてありました。せっかく購入したのですが、処分するしかないかなあ、と思っていました。。。

 さてさて、話は変わって、東京・銀座を歩いていたら、上の写真の看板を見つけました。

 「コロナワクチン接種券、ご提示でドリンク1杯 又は シェリー(10年熟成)とレーズンのアイスクリームをサービス!!」と書かれていますね。

 「商魂逞しい」というか、「背に腹は代えられない」といった感じでしょうか。品の良さでは全国一の銀座ですから、このような看板を掲げるのは、この店舗ぐらいかもしれません。(テイクアウト以外、用もないのに、この店に電話しちゃ駄目ですよ!=笑)

 私もいつか行ってみようかしら?ー恐らく、64歳以下にもワクチン接種券が行き渡って、あと数カ月でこの看板も消えることでしょう。「ジャーナリスティックな風物詩」というか、案外、「歴史的アーカイブ」になるような貴重写真になるかもしれません(笑)。

【追記】1

 靴の中敷きですが、どうもおかしいと思ったら、裏と表を逆にして靴の中に入れてました!道理で窮屈だったことか!

 正しく挿入したら、クッションが効いて少し歩きやすくなりました。靴の中敷きメーカーさん、大変失礼致しました。

【追記】2

中敷きだけで5000円以上する靴もあるそうです。同じ靴なのに、値段が千差万別なのは、「その秘密は中敷きの値段の違いにあり」と言う人もいます。そして、中敷きが1ミリ違っても履き心地が違うと断言する人もいます。いやあ、単なる靴の中敷きなのに、実に奥が深い❗️

 

戦中から戦後にかけての不可解な歴史的事件=加藤哲郎著「『飽食した悪魔』の戦後」

 加藤哲郎著「『飽食した悪魔』の戦後」(花伝社)を読了しました。既に、6月3日の渓流斎ブログでも「731部隊の切れ者二木秀雄という男」というタイトルでこの本について取り上げましたが、加藤先生の代表作ではないかと思えるほどの力作でした。

 いわゆる731石井細菌部隊の話ですから、プロローグ (歴史認識として甦る「悪魔の飽食」)と第一部( 七三一部隊の隠蔽工作と二木秀雄)では、おぞましい人体実験や生体解剖の話が出てきますが、第二部( 七三一部隊の免責と『政界ジープ』)以降は、主に、戦後になって731部隊がGHQとの「取引」によって免責され、戦犯にもならずに復権していく有り様を事細かく追跡しています。前半は、森村誠一、青木富貴子、近藤昭二、常石敬一各氏らの先行研究を踏まえているので、この本は、むしろ、タイトルにもなっているように、埋もれた史実を発掘した後半の「戦後」の方が主眼だと思われます。(この本の続編か関連本に当たる「731部隊と戦後日本――隠蔽と覚醒の情報戦」=2018年、花伝社=も刊行されています)

 加藤哲郎一橋大学名誉教授の御専門は比較政治学ではありますが、この本は、もう一つの御専門の「現代史」本と言えます。ゾルゲ事件、731部隊事件、シベリア抑留、帝銀事件、下山事件、三鷹事件、松川事件など戦中から戦後にかけての不可解な歴史的事件が登場し(まるで松本清張「日本の黒い霧」のよう…)、一つ一つが直接関係はなくても、何処かで何らかの関連性があったりします。その裏で、GHQのキャノン機関や、旧帝国陸軍の有末精三機関や服部卓四郎機関、陸軍中野学校の残党などが暗躍します。そして、その背後には、東京裁判や朝鮮戦争、熱狂的な反共マーカーシズム、米ソ冷戦などいった時代的背景もあります。

 特に、同書の主人公になっている二木秀雄(金沢医科大学出身の博士号を持つ技師で、731部隊では梅毒の人体実験や諜報活動を担当)という男が、戦後になって「政界ジープ」という(紆余曲折の末)「反ソ反共」の大衆右翼時局雑誌を創刊して復権するものの、企業のスキャンダルをネタに多額の金品を恐喝したことから実刑判決を受けて没落していくという、忘れられていた史実を掘り起こしたことは大いなる功績で、本書の白眉ともなっています。

 「政界ジープ」誌(1946~56年)は、廃刊されても、出身記者の中には、同じように企業を恐喝する手法を真似して「総会屋雑誌」を創刊したり、潜り込んだりします。また、同誌末期の編集長を務めた久保俊広(陸軍中野学校出身)は「政界ジープ」まがいの院内紙「国会ニュース」を創刊したりします。一方、「政界ジープ」のライバル誌だった左翼系時局誌「真相」(日本共産党員だった佐和慶太郎が創刊、1946~57年)は、後に岡留安則による「噂の真相」の創刊(1979~2004年)に影響を与えたということから、この本は「メディア史」ともなっています。

 私のような戦後世代で、「戦後民主主義教育」を受けた者にとっては、どうも、戦中と戦後の間に大きな段差があって、全く違う時代になって、戦争犯罪者は、ある程度、淘汰されたという認識がありましたが、731部隊に関しては、戦犯にもならず全くの「陸続き」で、彼らには軍人恩給まで出ていたとは驚きでした。その典型がこの本の主人公の二木秀雄で、大変機を見るに敏だった人で、マスコミ社長~日本ブラッドバンク社(後のミドリ十字、薬害エイズ事件後、田辺三菱製薬)重役~開業医、そして日本イスラム教団を設立した教祖、と目まぐるしく変転しながらも、社会的高い地位を維持したまま84歳で亡くなっています。

 1986年に、平和相互銀行による特別背任事件がありましたが、平和相銀会長の小宮山英蔵は二木秀雄の有力なパトロンだったらしく、小宮山の実弟である重四郎は、自民党の衆院議員を務め(郵政大臣)、保守系政治家と総会屋・右翼などと関係を持ち、「闇の紳士の貯金箱」とまで噂された人物だったということですから、この世界の闇はなかなか深い。戦後右翼の大物と言われた「室町将軍」こと三浦義一までこの本に登場します。

 と、ここまで書いて少し反省。戦後、何もなかったかのように京大や東大の大学教授に復帰したり、開業医になったりした731部隊員の悪行を断罪することは当然のことながらも、なぜ、彼らを無罪放免したGHQ=米軍を誰も強く非難しないのか、不可解な気がしてきました。「GHQ=非の打ち所がない正義」という歴史観は、検閲による弾圧と、戦後民主主義教育によって植え付けられたもののような気がしてきました。 不一

 

何や!ワイのところやないけぇ!=ワクチン狂詩曲

 相変わらず、日々のニュースの話題は、ワクチン、ワクチンですね。

 これまで、毎日、感染者数を発表していたメディアも、ワクチンの接種率まで発表しだすようになりました。

 それに、医療従事者と65歳以上の高齢者に加え、一昨日からは「職域接種」(全日空、日航、読売新聞などまだ大手に限られていますが)が開始され、64歳以下の人たちにもワクチン接種が全国で広がっています。

 昨日のニュースで驚いたのは、K市で新型コロナウイルスのワクチンを保管していた冷凍庫が故障したのか、温度が上昇して使い物にならなくなって、ワクチン約6300回分を廃棄処分したというのです。勿体ないですね。しかも、冷凍庫の故障は今回が初めでじゃないらしく、他にも全国の市町村であったようです。冷凍庫会社の責任が問われますね。

 それより、もっと腰を抜かすほど驚いたのは、ある市区で、60代の男性に対して、ワクチンが入っていない空の注射器で注射してしまったというのです。

 空気銃か!?です。不幸中の幸いで、空気0.2ミリリットルが体内に入った男性の体調に異常がなかったといいますが、調べてみたら、その接種会場は、何と!私が、予約すれば接種するよう指定されている会場そのものではありませんか!

 何や! ワイのところやないけぇ!

 と、関西人でもないのに、関西弁が飛び出しました。

 私の場合、来週から予約できるのですが、地元はやめて、まだガラガラに空いていると喧伝されている自衛隊さんがやってくださる東京の大会場にしようかなあと思案中です。

 本日、言いたいことはこんだけなので、これでお終い(笑)!

 と思ったら、カナダにお住まいのT.T氏から航空郵便が届きました。

T.T氏は、この渓流斎ブログを通じて知り合った方で、亡くなった翻訳家で画家の片岡みい子さんの御主人の親友だった方です。このブログでも「杉下さん」という仮名で何度か登場させて頂いております。

 T.T氏のご尊父は、東京・赤坂などで大型のナイトクラブ数軒を経営する顔役だったため、同氏もご幼少の頃から、芸能・スポーツ関係者から政財界の大物を身近に接してきたというあの杉下さんです。何しろ、あの力道山やデストロイヤーから可愛がってもらったという人物ですからね。

 本日届いた郵便の中には、「ひと昔前」に銀座九兵衛の二代目と一緒に写るT.T氏の姿がありました。銀座の九兵衛が行きつけとは、私とは桁違いであることは当然のことながら、驚くべきことにこの写真のシャッターを押したのが、あの先だってのマスターズ・ゴルフで日本人として初優勝という快挙を成し遂げた松山英樹さんだったというのです。

 お二人の関係は分かりませんが、恐らく、T.T氏は、松山プロのパトロンの一人なのかもしれません。

 銀座の資生堂パーラーに行って驚愕している私のことですから、彼は、全く住む世界の違う雲の上の人だと改めて痛感致しました。

同時多発的音声の処理はもう無理=音楽も聴けなくなりました

 ジャーナリストは、為政者や権力者は批判するべきですが、あまり他人を批判すると顰蹙を買いそうなので(笑)、本日は、(本日も?)自分のことを書きます。まず、隗より始めよ、です。

  私の世代は、よく「ながら族」と言われ、夜などラジオを聴きながら受験勉強したものでした。よくぞ、頭に入ったものです。若かったんでしょうね。

 そう言えば、若い時は、聖徳太子ではありませんが、何人もの友人が同時に話しかけてきても理解できたし、音楽を聴きながら、英単語と理科の化学記号を同時に覚えたりしても苦にはなりませんでした。

 それが、加齢を重ねた今はとても無理です。まず、音楽を聴くと、歌詞がないジャズやクラシックでもそれだけで手いっぱいです。特にベースラインだけとか、ビオラとチェロの絡み合いだけに注意して聴いているわけでもないのに、同時に新聞さえ読めません。もう、音楽なら音楽だけ、新聞なら新聞だけしか集中できないのです。「ながら族」失格です。ですから、最近は、あまり音楽は聴かなくなりました。昔は1日16時間は聴いていたのに、今は30分もあるかどうか…。

銀座「マトリ・キッチン」ボルシチ

 そしたら、最近、聞こえているけど聞き取れない「聴覚情報処理障害」(APD=Auditory Processing Disorder)と呼ばれる病気があることを知りました。「聴力は正常であるにも関わらず、日常生活のいろいろな場面で聞き取りにくさを感じる症状」ということで、推定で日本人の240万人、全人口の約2%が該当すると言われます。

 お医者さんは、何でも病名を付けたがりますけど、APDの人は、結構多いんですね。

  深刻な病ではありませんが、要因は、聴覚の問題でなく、脳機能の障害や発達障害、心理的ストレスなどがあるというのです。ですから、相手にはっきりと、ゆっくりしゃべってもらう、とか、BGMを消して静かな環境の下で聴くとかで、ある程度、解決できるようです。ただ、深刻なのは、手術中に医師の指示を聞くのが、騒音なのか、心理的な面なのかで、聴き取りにくくなる看護師さんもいるそうなので、この場合はちょっと大変ですね。

 私の場合、恐らくAPDではないと思いますが、もはや同時に複数の音声を聞いて情報を処理する能力は劣ったという自覚はあります。

 「だから何なのよ?」と言われそうですが、まあ、それだけの話です。何か?(笑)。

銀座「マトリ・キッチン」おすすめランチ1100円 チキンでした

【追記】

 固有名詞は出せませんが、ある著名な日本人科学者が5月に亡くなっていることが分かりました。何冊も本を出しており、私も彼の著作は数冊読んでいます。

 訃報記事は、まだどこのマスコミにも出ていませんし、勿論、ネットにも出ていなく、ウイキペディアなんかはまだ存命中の状態です。

 会社の後輩に裏を取るように言ったら、ご遺族の方針で「四十九日までマスコミに公開するのは待ってほしい」とお願いされたらしいのです。

 とは言ってもねえ…。そう言えば、数日前の某紙の広告欄にこの学者さんが商品の推薦者として顔写真入りで登場されていました。勘繰れば、コマーシャル契約があるので、亡くなったことが分かると宜しくないということなのかもしれません。いえいえ、単なる憶測ですけど…。

本音を言えばブログは書けなくなる

 今朝(6月10日付)の東京朝日新聞朝刊の一面に「読者のみなさまへ」との社告があり、来月7月1日から購読料を現在の4037円から4400円に改定する、とありました。「改定」ですか…。「値上げ」と書かないところが凄いですね。オツなもんです。あまりにも突然の告知でしたが、同紙の本体価格の改定は「1993年12月以来、27年7か月ぶりです」と胸を張っております。

 裏事情は推測するしかありませんが、大幅部数減による経営難で、値上げするしかなくなったということなのでしょう。カルテルは結んでいないことになってますが、他の大手紙も追随することでしょう。

 その朝日の2面の「ひと」欄で、「ネットのトラブル防止のための講演を続ける小木曽健さん(47)」を取り上げています。大手ネットゲーム会社の社員として、こなした無料出張講演が2000回にも上るといいます。

 知人の批判、交際相手の写真流出、著名人に対する誹謗中傷、犯罪予告…。冗談のつもりでも人を傷つけ、事件にもなる。(小木曽さんは)「自宅の玄関に張り出せる内容しか書き込んではいけない」と繰り返し説く、と同記事にあります。

 忸怩たる思いですね。

銀座「ローマイヤー」フランス産サンクトポルク ポークソテー~ジンジャーソース1100円。 日本語で言えば、「豚の生姜焼き」ってなところかなあ?

 私自身は、肖像権というものがありますから、このブログにはなるべく「人間の写真」(笑)はわざと掲載しないようにしています。勿論、犯罪予告はもってのほか、で、私は考えたこともありません。しかし、知人や著名人に対する批判は、結構やっております。これも「批判精神は、ジャーナリズムの一環」と開き直った上での話ですが、事件にならないよう、書き方を曖昧にするか、微妙にしたりすることがあります。

 《渓流斎日乗》から批判精神がなくなれば、その存在意義もなくなります。もう誰にも読まれることはないでしょうし、本人だって書きたくない(苦笑)。しかし、単なる個人のブログですから、面倒なことには巻き込まれたくないというのは本音です。そんな本音が頭をもたげてくると、何も書けなくなってきます…。

  まあ、そんな板挟みの中で、執筆活動を続けています。と、今日の日乗には書いておこう。

 扨て、本音と言えば、最近、年のせいか、革靴だと、歩くだけで疲れます。「足取りも軽く」というのは若い頃の話で、今は「足取りが重い」のです。9秒台を目指して全力疾走なんて、もうとてもできなくなりました。

 もう一つ。まだ6月ですが、ここ2、3日、東京都心でも気温が30度前後にもなるというのに、あまり暑さを感じないのです。周囲の人たちはほとんど半袖姿なのに、私自身はいまだに長袖のジャケットを着込んでいます。低温動物になってしまったのか、ランチでレストランに入る際に体温を計られますが、たまに35度台だったりして自分でも驚きます。

 嗚呼、やっぱし、本音ばかり書くとブログもつまらなくなりますねえ…(苦笑)。

乱読のすすぬ=家康は日本史上最高の偉人?

 ここしばらく、(とは言っても2日ほど)どうもブログが書けない状態でした。気の向くまま、興味の赴くまま、乱読していたので、頭がごった煮状態になっていたのです。本に登場する人物は、いつの間にか身近な親しい友人となり、時間と空間を超えてしまっていたのです。

 例えば、越前三国から継体天皇を擁立して磐井の乱(528年)を平定した物部麁鹿火(もののべの あらかい)や白村江の戦(663年)の司令官狭井檳榔(さいの あじまさ)、安曇比羅夫(あずみの ひらふ)らが私の頭の中で右往左往しています。でも、彼らの方が、コロナ禍で最近滅多に会えない現代の友人たちより近しく感じでしまうのです。古代人は、檳榔(あじまさ)とか比羅夫(ひらふ)とか、名前が格好良くていいじゃないですか(笑)。

 重症ですね。

 とはいえ、誰しもが、いずれ、三途の川を渡って彼岸の世界に逝くわけです。遥か遠い昔に亡くなった歴史上の人物と、今を生きている現代人と区別することもないんじゃないかと私なんか思ってしまいます。

 だって、現代人はメールを送っても「既読スルー」して返信もしない輩ばっかじゃありませんか。O君、H君、K君よ。これでは、古代人と会話していた方がよっぽど精神衛生上、健康に良い。

銀座「宮下」牛サーロインステーキ熟成肉御膳1900円

 歴史が面白いのは、遺跡や古文書などの「新発見」が出てきて、新しい解釈が生まれることだけでなく、自分自身も歳を取ると歴史観が全く変わっていくことです。私なんか、戦国武将といえば、若い頃は、「太く短く生きた」その潔さから圧倒的に織田信長の大ファンで、小賢しい策士の秀吉や「たぬき親父」の家康は、とても好きになれませんでした。が、今は断然、徳川家康に軍配を上げます。調べれば調べるほど、こんな凄い日本の歴史上の人物はいない、と確信しています。

 家康ほど頭脳明晰の人もいないと思います。何しろ、全国、300藩と言われる大名から京都所司代などに至るまで重職者は全員覚えて差配して配置させ、彼らの政所や家臣などの人間関係、係累は全て頭に入っているんですからね。凡夫の私は100人でさえ顔と名前と係累が一致しません(苦笑)。

 最近、感心したのは、家康の腹心で「徳川四天王」と言われた武将たちは関ケ原の合戦以降、驚くほど優遇されていなかったことです。四天王筆頭の酒井忠次は関ケ原の前に亡くなり、家督は嫡男家次に譲られましたが、徳川秀忠に従い、関ケ原の本戦に参戦しなかったせいか、高崎5万石に移封。猛将本多忠勝は、上総国大多喜に10万石(関ケ原後は、伊勢国桑名10万石)、三河以来の武功派の榊原康正も上野国舘林10万石、新参ながら側近に大抜擢の井伊直政は上野国箕輪12万石(関ケ原後は近江国佐和山18万石)ですからね。命を懸けて最前線で戦ってきたというのに、加賀100万石、薩摩90万石といった外様大名と比べると、いかにも見劣りします。(勿論、家康は身内には甘く、関ヶ原の後、家康の次男の結城秀康を下総結城10万石から越前北庄=かつての柴田勝家の領地=68万石に加増移封します)

「築地の貝」帆立貝うどんランチ 1000円

 これは、ある程度、意図的で、家康は慶長8年(1603年)に征夷大将軍になって江戸幕府を開いてからは武闘派は遠ざけ、代わって本多正信、正純親子(後に失脚)や大久保忠隣といった文治派に近い行政官僚を重用し、天台宗の南光房天海大僧正や臨済宗南禅寺の金地院崇伝ら僧侶をブレーンとして登用したりします。僧侶といっても、毛利の安国寺恵瓊(えけい)のような軍師ではなく、行政官、外交官、立法官のような知性派です。

 天海上人は、風水を採用して江戸城の鬼門(北東)に寛永寺、裏鬼門の方角(南西)に増上寺を置き、八方に目白、目黒、目赤、目青、目黄不動尊などの寺院を建立させた人だと言われます。家康の日光東照宮も造営。家康、秀忠、家光の三代に仕え、108歳の長寿を全うしました。

 崇伝は、諸宗寺院法度、禁中並公家諸法度、武家諸法度などを起草したと言われ、「黒衣の宰相」とも呼ばれました。

 家康自身も「もう武装闘争は終わった」とばかりに、天下普請の城づくりだけでなく、上水や治水、日比谷干拓など「元和偃武」を見越して平和になった江戸百万都市の街づくりに着手しますから、とてつもなく先見の明がある大将軍だと言えます。

 乱読していると、頭が混乱しますが、現代だけでなく過去にも同時に生きている感じで、人生二倍楽しめます。

(実は今、戦後GHQに日本人の魂を売っって諜報機関をつくった有末精三、河辺虎四郎、服部卓四郎といった旧帝国陸軍最高幹部のことで頭がいっぱいなので、こんな文章を書いていても頭が全く整理されていません。)

 

天皇陛下、いまだ接種せず

 銀座「ル・ヴァン・エ・ラ・ヴィアンド」 (LE VIN ET LA VIANDE)ランチ1250円(ドリンク、珈琲付)

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 本日は、「これぞ」といった書く題材が見つかりません。

 こういう日に限って、大体、独断的な説教臭い話になってしまうんですよね(笑)。どうか、御勘弁をー。

江戸城 蛤壕 Copyright par Keiryusai

 例えば、新型コロナウイルスの変異株について、世界保健機関(WHO)は「もう特定の発生国の名前を冠して呼ぶのはやめます。『英国株』はアルファ株、『南アフリカ株』はベータ株、ブラジル株は『ガンマ株』、インド株は『デルタ株』と、ギリシャ文字を当てます」と主張し出しました。「偏見と誤解を生む」というのが理由で、日本政府もこれに追随するらしいのですが、「何か、なあ…」といった感じです。

 そもそも、WHOは何か、最初から胡散臭い感じです。エジプト出身のテドロス事務局長は、発生源とされている中国(武漢)を大した批判もせず、「世界一効果的な感染対策を実行して成功した国」とべた褒めで、「WHOに対する分担金が多い中国に遠慮したのではないか」との疑惑があったではありませんか。定かではありませんが、当時は、テドロス氏個人の疑惑さえ浮上していました。

 100年前にスペイン風邪(1918~20年)が世界的に大流行しましたが、本来は、第1次世界大戦に参戦した米国の兵士から欧州に広まったのが最初でした。となると、「アメリカ風邪」というのが正しいはずです。たまたま、他の欧米諸国が感染をひた隠しにしていたのに対し、中立国だったスペインが感染を最初に報告してしまったので、スペインの名前が病名に付けられてしまったのは、もう既に周知の事実です。

 新型コロナウイルスの発生源について、米国だけでなく、英情報機関(007のMI6か?)までもが中国・武漢のウイルス研究所から流出した可能性があると考えていると伝えています(5月30日付英サンデー・タイムズ紙)。もし、これが事実だとしたら、WHOは最初のウイルス株を何と命名するんでしょうか?まさか、トランプ前米大統領のように、「中国株」と呼ぶわけがなく、「オリジン株」とでも命名するのかしら?

江戸城 富士見櫓 copyright par Keiryusai

 それにしても変異株は恐ろしい。これまで、水際対策で封じ込めて、「優等生」と世界的に大絶賛された台湾やベトナムまでもが今では感染拡大しているようです。

 となると、もうあと1カ月半ぐらいで開幕が迫った東京オリンピック開催は、どう考えても無理です。たとえ無観客で開催しようと目論んでも、世界各国から集まる選手、役員、関係者だけでも9万人いるとされており、いくら検査を徹底しても、変異株の温床場、もしくは培養場と化してしまうんじゃないでしょうか。(いまだに、感染経路が判明していない!)それでも、IOCと日本の為政者たちは強行するつもりなんでしょうか? それに、IOCも為政者たちも、五輪開催後の感染拡大については絶対責任を取るつもりはないんじゃないでしょうか。

 ここ1カ月以上、毎日、ワクチン、ワクチンのニュースをうんざりするほど読み聞かされます。当然ながら、日本の象徴、天皇皇后両陛下は既にワクチンを接種されていたのかと思いましたら、今朝の読売新聞朝刊によると、上皇さま、上皇后さまら御高齢の皇室6人は接種されましたが、65歳未満の天皇皇后両陛下ら皇室の方々については、国民と同じ接種順位で進め、国民に一定程度行き渡った段階で接種する方針(宮内庁)だというのです。

 へー、天皇陛下でさえ「特別扱いしない」ということなんでしょうね。吃驚。戦前でしたら、全く考えられません。何処かの市長さんは、自分のお抱え運転手さんまで接種させたケースがあったといいますから、このニュースを聞いてどう思うのでしょうか?

 嗚呼、やっぱり、説教臭い話になってしまいました(笑)。

笑いには世代間ギャップがある

江戸城 巽櫓

  アンリ・ベルクソンの「笑い」を例証するまでもなく、古今東西、笑いは哲学的考察の主題として俎上に載せられてきました。

 人を怒らすのは簡単だが、人を笑わすことは難しい。

 と、誰が言ったか知りませんが、この昔から言われてきたことは真実でしょう。それだけ、喜劇役者や落語家、お笑い芸人は大変なお仕事だということです。下手をすれば、差別問題や人権問題にもなりかねないですからね。

 それはともかく、最近では、笑いには、古典落語は除いて、世代間ギャップがあるのではないか、と痛感しています。

 昨晩、どういうわけか、このブログのSNSサイトで、ひょんなことで、「シャボン玉ホリデー」の話題で盛り上がりました。私がこのブログの写真に名前の知らない花をアップすると、いつもYさんが、わざわざその花の名前をお知らせしてくれるので、「いつも、いつも、済まねえなあ…」とハナ肇の名セリフを真似したところ、どうも、Yさんは「シャボン玉ホリデー」を知らない世代で、通じなかったのです。

 「シャボン玉ホリデー」は主に1961~72年に日本テレビで放送されていた音楽バラエティ番組で、レギュラーは双子姉妹のザ・ピーナッツとクレージーキャッツです。渡辺プロダクション制作でしたから、ナベプロ系のタレントが多く出演していました。

 先ほどの「いつも、済まねえなあ」のコントは、正式?には「おかゆコント」というらしく、障子が破れた貧乏長屋の一室で、せんべい布団に病気で臥せった白髪の親父(ハナ肇)のところに、娘役のザ・ピーナッツが「おとっつあん、おかゆが出来たわよ」と運んできます。

 咳をしながら起き上がって、中気で手をブルブル震わせながらハナ肇が「いつも、いつも、済まねえなあ…」と呟くと、娘たちは「おとっつあん、それは言わない約束でしょ」と応えるのです。(この場面で、小生の父親はいつも涙を流して見ていました)

 ここまでが歌舞伎の様式美のようなワンパターンで、毎回同じ寂しいメロディーが流れて、この後に、いろんな変奏パターンが出てきます。グレて勘当させられた息子がカネをせびりに来たり、おまわりさん役の植木等が何の関係もないのに出てきて、座を乱したりして、「お呼びでない、これまた失礼しました!」というと、出演者全員が「ハラホロヒレハレ」といって踊りだして終わる、というこれまた御馴染みのパターンで終わります。

 こうして文章で説明してしまうと、可笑しさが伝わらず残念ですが、毎回、大笑いしたものです。まあ、私の世代はクレージーキャッツとドリフターズで育った世代でしょうね。

江戸城 蛤壕

 1980年代の漫才ブームのツービートやB&Bや紳助竜介あたりがギリギリで、私だけかもしれませんが、今や大ベテランの大御所になっているダウンタウン辺りになると、残念ながら、その笑い(の質)に全くついていけなくなりました。笑いたくなるより、怒りたくなるのです。

 やはり、笑いには世代間ギャップが大いにあるんじゃないでしょうか?

 私の親や祖父母の世代は、エンタツ・アチャコやあきれたぼういずなどに夢中になっていたことでしょう。世の中良くなったもので、今では彼らを動画で見ることができます。確かに今見ても面白いのですが、「歴史的文化遺産」と構えてしまうので、自然な笑いまでは出てきません(笑)。

 文章というものは、一度書いてしまうと、あとは読者に委ねられ、書いた本人が全く予期していなかったことまで斟酌してくれる方もおられます。本日の記事も、色んな御意見が出てくるのではないかと愚察しております(笑)。

「ナイルレストラン」とパール判事

東銀座「ナイルレストラン」 真ん中中央に創業者アヤッパン・M・ナイルの写真が

 ランチは、東銀座の有名なカレー店「ナイルレストラン」に行って来ました。この店は、何度も行ったことがあります。初めて行ったのは、25年ぐらい昔、今や歌舞伎評論の大家になられた毎日新聞の小玉先生に連れて行ってもらった時、と記憶しています。この店は、歌舞伎座の近くにあります。

 本日出かけたのは、例の阿古真理著「日本外食全史」(亜紀書房)の中で、この店の創業者のアヤッパン・M・ナイル(実際は日本人妻の由久子さんが1949年に料理人として開業)が、極東国際軍事裁判(東京裁判)で被告人全員の無罪を主張したインドのパール判事の通訳を務めた人だったことを知ったからでした。

 このことに関しては、印度料理専門店「ナイルレストラン」の公式ホームページにも書かれていました。アヤッパンは、インド南部ケララ州出身のインド独立運動家(戦前、インドは大英帝国の植民地だった)で、京都帝大にも入学したインテリでした。戦後は在日インド人会会長を務めるなど日本とインドの親善に貢献した人でもありました。

 一方、東京裁判でパール判事がA級戦犯の被告人を無罪としたのは、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は戦勝国によって後から作られた「事後法」であり、事後法をもって裁くことは近代の国際法に反するといった理由でした。

  しかしながら、結局、東京裁判(1946年5月3日~48年11月12日)では25人が有罪判決となり、このうち東條英機(64)ら7人が死刑となりました。日本は、この東京裁判の判決を受け入れることによって、やっと占領(1945年9月2日~1952年4月28日の6年7カ月間)から独立することができたので、今さら何をかいわんや、ですが、パール判事の主張は尤もなことだと私も同調します。彼の裁判官としての信念だったことでしょうが、当時としては大変勇気がいることだったと思います。

1949年創業以来味が変わらないという「ムルギーランチ」1500円

 さて、ランチはナイルの名物「ムルギーランチ」を食しました。本当に久しぶりでしたが、「本場の味」は相変わらずでした。スパイスが他店とは違うんでしょうね。

 店は、以前と比べて随分従業員の方が増えたような感じがしました。インドの人と思われる人が多かったでしたが。

 テレビによく出演してすっかり有名人になった二代目のG・M・ナイルさんは、奥にいるのか、お見かけしませんでしたが、三代目の善巳ナイルさんらしき人はいらっしゃったようでした。マスクをしていたので、よく分かりませんでしたが(笑)。

 勿論、お店の若いインド人従業員さんに「ナイルの創業者はパール判事の通訳をしていたんですよね?」と尋ねるわけにはいきません。多分、パール判事のことを知らないかもしれません。まあ、江戸っ子の言葉で言えば、聞くのは「野暮」ってなところでしょうか(笑)。