投げる不動産屋、学問もする広告塔

 晩夏だというのに、日中の暑さは相変わらず。関東地方も34度の暑さで、コロナと熱中症の二重苦、三重苦です。

 こんな、よりによって最悪な季節にオリンピックだなんて、やってる選手だけでなく、役員や審判も、そして何よりも観客もその場に居るだけで、大変なことです。何よりもメディアがスポンサーになっているので、どこも批判するところはなく、その危険すら知らせてくれません。真夏開催は、バスケットや野球やアメフトなどのドル箱試合との重複を避けるための米放送業界の策略だなんて口が裂けても言えない。莫大な放送権料という「不労所得」目当てのIOC貴族による陰謀だなどと大手メディアは知っていても書けない。

 そのせいか、五輪開催反対の世論が全く形成されませんが、賛成する人も、利権にたかる人たちまでも、心の中で、来年コロナが終息するわけがなく、開催は無理ではないか、と危ぶんでいます。

夏はお寿司がいい

 と、書きながら、どこか他人事です。またまたアパシーapathy(興味・意欲喪失)状態がここ1~2カ月続いています。IR汚職も、自民党公費(国民の税金?)1億5000万円も買収資金に使った河井夫妻についても、どこか「どうでもいい」と冷めています。こんなブログに「許せない!」などと書いても事態が好転するわけがなく、単なる蟷螂の斧。粋がっている自分が恥ずかしいだけです。

 個人的ながら、6月下旬に羅針盤を失くしてしまってから迷走が続いています。このブログではなるべくジャーナリスティックな話題を追いかけてきたつもりですが、アパシーになっては筆鋒が鈍ります。世の中で何が起きても、所詮どうでも良いのです。ジャーナリズムのいい加減さにも自戒を込めて痛感しています。

 例えば、憲法改正問題について、賛成か反対か、ジャーナリストは著名な評論家の下に通い、何か一筆書いてほしいと依頼します。先生曰く「賛成?反対?どっちでも書けるよ」。「そうですか、では、今日のところは賛成の立場で論陣を張ってください」-そんなことがジャーナリズムの世界ではまかり通っているわけです。

握りもいいけどバラ寿司も

 今朝(27日付)の朝日新聞朝刊トップで、人口減少問題を取り上げています。題して「限界先進国 エイジング ニッポン」。2020年1月1日時点の日本の総人口は約1億1472万人と総務省から8月5日に発表されましたが、約100年後の2115年には5055万人に半減するというシュミレーションも描かれていました。少子高齢化で1年間に約50万人の日本人が減っていきます。また、総務省の調査では、10年以内に全国で3197もの集落が消滅する、とはじき出しています。

 集落衰退の理由の一つとして、15年前の「平成の大合併」が挙げられていました。大合併により村役場が閉鎖され、職員もその家族もいなくなり、また、住民サービスが行き届かなくなって不便になった集落の人口減に拍車が掛かったといいます。

 今から15年前というと平成17年(2005年)ですか。私は当時、北海道の帯広にいて、ちょうどこの平成の大合併を取材していました。住民投票による賛成、反対票確認と結果の報道が精いっぱいで、15年後に合併させられた小さな町村が限界集落になって消滅の危機になることなど考えてもいませんでした。全く浅はかでしたね。

 それでいて、自分を棚に上げて、ジャーナリズムの浅はかさに日々、不満を感じています。

 テレビを見ると、スキャンダルを起こした夫に代わって美人タレントの妻が出演していました。健気な糟糠の妻?感心している場合じゃありませんよね。民放もNHKまでも番宣(番組宣伝)だらけです。民放の夕方のニュース番組で、ジャニーズ系のタレントが講師に復帰する、とかやっているので、てっきりニュースかと思ったら、時の最高権力者とも関係が深い森永製菓のコマーシャルの講師役にそのタレントが復活するという話でした。報道にかこつけた番宣じゃないですか!

 1本8000万円とも1億円とも言われるCM出演のため、タレントも俳優も監督もスポーツ選手も学者までも、浮気な視聴者からの人気を勝ち得ようと「露出」に余念がありません。露出こそがすべて。いつも同じ顔触れです。正直、見たくもない。

 昔、バブル華やかりし頃、某有名球団のピッチャーが、不動産投資をしてぼろ儲けしていたことから、先鋭な夕刊紙から「投げる不動産屋」と命名されたことがありました。投手が本業でなく、不動産が本業で、その片手間で野球もやっているという揶揄です。その伝で今の状況をなぞれば、「歌って踊れる宣伝屋」「足の速い宣撫員」「学問もできる広告塔」じゃありませんか。テレビが駄目ならユーチューブ? そんなに楽して金儲けしたいの? 日本人に恥の精神はなくなったのかい?

 見ていて苛立たしいのですが、私はここ最近、アパシーなものですから、「どうでもいいや」という感想の方が優ってしまうのです。

 嗚呼、残念。

Amazonプライム解約運動の影に三浦瑠璃氏あり

 世界最大のネット通販「Amazon」のプライム会員の解約運動がSNSを通して国内で広がっているという記事を読みました。

 私はアマゾンのプライム会員でも何でもないので、正直、関心がなかったのですが、今朝(8月18日付)の毎日新聞朝刊の記事を読んで興味を持ちました。

 Amazonプライムのテレビコマーシャルに国際政治学者三浦瑠璃氏とタレントの松本人志氏を起用していることに対する抗議、だったのです。この二人が何をしたのか、私は二人に関心がないので全く知りませんでした。

 この記事によると、タレントの松本氏は昨年、民放テレビの番組内で、川崎市の児童殺傷事件の容疑者について「不良品」などと発言して批判を浴びたこと。国際政治学者の三浦氏については、著書で徴兵制導入を論じたり、民放番組で「スリーパーセル(潜伏中の工作員)」という言葉を使って、「今結構大阪は(北朝鮮工作員が活動していて)やばいと言われて」などと発言したとされています。(スリーパーセルは、3パセールparcel なのかと思ったら、スリーパーsleeper・セルcellだったんですね。駄目ですねえ=笑)

 度々、舌禍事件を起こしているお笑いタレントの松本氏は、ソフトバンク携帯のCMなどにも大々的に出演していますが、ソフトバンクに対するボイコットが聞かれないことから、恐らく、標的になった中心人物は三浦氏だと思われます。

 彼女は、若くて容姿端麗で頭が良く、髪の毛も長く、弁も立つことから、メディアに引っ張りだこで、東京のM氏を含めて特に中高年のインテリおじさんたちからの受けがいいという評判を聞いたことがあります。中高年のインテリと言えば、テレビのディレクターやプロデューサーも入りますからね。彼女は、著書やテレビなどで自身の少女時代の「悲惨な体験」を告白して大いに同情を買っているという話も聞いたことがあります。(関心がない割には、よく知っていること!)

 でも、彼女の思想信条はかなり過激で、テレビ番組で「戦争したくないならお年寄りと女性に徴兵制を導入すべき」と発言して大きなテロップになっている画面をネットで発見して、思わずのけぞってしまいました。これでは、中高年の瑠璃ちゃんファンも目が覚めてしまいますね。三浦氏は1980年生まれということですから、両親は「戦争を知らない子供たち」である団塊の世代なので「戦争を知らない子供たちの子供」です。

 8月15日の終戦記念日を前後して、国内では戦争もののテレビ番組が多く放送されますが、私も結構見て、色々と考えさせられました。例えば、ノモンハン事件を起こした関東軍参謀の辻政信(陸軍少佐)、インパール作戦を指揮した牟田口廉也中将…。彼らは、陸士、陸大を卒業した超エリートで、ずば抜けて頭脳明晰のインテリです。最高学府の東京帝大生より賢かったことでしょう。でも、彼らは血の雨が降り、内臓がもがれた戦死者も見ることなく、安全地帯の作戦室で図面を引いたりしている軍人というより高級公務員なので、現場の苦しみや悲惨さを知りませんでした。もしくは、見て見ぬふりをしました。

 NHK映像の世紀「独裁者 3人の狂気」では、イタリアのファシスト党を率いてヒトラーにも多大な影響を与えたムッソリーニは、師範学校を首席で卒業し、英語、ドイツ語など数カ国語を自由に操る超インテリだったと紹介されていました。そう、先の大戦の指導者は全て聡明なインテリですが、学業成績の良い点数主義に勝ち残った賢いインテリこそが、結果的に国家を誤らせたわけです。記憶力抜群の頭の良い人間が、天衣無縫で理論的にすべて正しく、指導力があるという考えは偏見であって、結果的に頭の良い人間が、自己責任を放棄し、多くの民衆を犠牲にして国を亡ぼしていたのです。

 三浦瑠璃氏を見てても、容姿端麗の美しさを隠れ蓑にして、現場の悲惨さを知ろうとしない点数主義で勝ち残ったインテリの傲慢さを垣間見てしまいます。彼女は自分だけは「特別」だと思っているでしょうから、自ら徴兵制を敷いても、自分だけは一兵卒として最前線には行くことはないでしょう。

何とも不可解な「スパイ関三次郎事件 戦後最北端謀略戦」

Photo Copyright par Duc de Matsuoqua

 足利と鎌倉の旅行中、電車の中でずっと読んでいたのが、佐藤哲朗著「スパイ関三次郎事件 戦後最北端謀略戦」(河出書房新社、2020年4月30日初版)でした。

 この本は、2カ月前の6月13日に京都にお住まいの京洛先生からメールを頂き、その存在を知りましたが、最近になってようやく入手できたわけです。実は、「スパイ関三次郎事件」と言っても、小生にとっては初耳で全く知らず、著者もどういう人か分からず、メールを頂いただけでは、他の書物を差し置いて、万難を排してでもすぐさま読みたいという興味が湧かなかったのでした。ーというのが正直な気持ちでした。

 しかし、読み始めてみて、いきなり脳天をどつかれたような衝撃で、推理小説やサスペンスを読むよりも断然面白い。というより、読んでも読んでも、謎が深まり、何が真実なのかさっぱり分からず迷路にはまったまんま、読了してしまったのです。

 事件が起きたのは、戦後まもない昭和28年(1953年)7月29日。関三次郎(当時51歳)という北海道余市生まれで利尻島育ち。漁師をしていましたが漁船の転覆事故で行方不明となり、どうやら戦前は樺太(現サハリン)で暮らしていて戦後のどさくさで帰国せず、無国籍だった男が、北海道の宗谷岬から南へ約10キロ離れた海岸にずぶぬれになって上陸し、濡れた多額の紙幣を焚火で乾かしているところを地元民に見つかり、逮捕されたのが始まりです。

 当時は、米ソ冷戦の真っ只中。関は、ソ連のスパイなのか、それとも占領中の米軍のCIC(アメリカ合衆国陸軍防諜部隊)の工作員なのかー? 二転三転するどころか、四転も五転もして、結局、最後まで真相が分からない…。

 著者の佐藤哲朗氏は、元毎日新聞編集委員。社会部で公安や検察関係の取材が長いベテラン記者でした。1939年生まれといいますから今年で81歳。奇しくも樺太豊原(現ユジノサハリンスク)生まれの北海道育ち。中学生の時に、このスパイ関三次郎の公判を「社会科見学」(授業)の一環として傍聴した経験もある人でした。

 1972年の正月、当時、札幌で毎日新聞の司法担当記者をしていた筆者は、札幌地検の塚谷悟検事正らも出席する記者クラブとの新年会に参加します。塚谷検事正は、旭川地検次席検事時代の一番の思い出として、関三次郎という国際スパイ事件を取り上げ、「何せ、この事件には証拠というものが何一つなかった。頼りになるのは本人の供述だけ。しかも、それが法廷で二転三転。あまりの矛盾の多さに弁護側から『被告は少しおかしい』と精神鑑定請求まで出される始末だった。紆余曲折したが、関三次郎とソ連人船長の被告二人に有罪判決が出て一見落着した」と振り返ります。

 他社の記者たちは、そのまま聞き過ごしますが、佐藤記者だけは、裁判を傍聴した経験もあるこのスパイ関三次郎事件にのめり込み、翌日から社の資料室に入り浸ってこの事件を調べ始めます。

 1972年ということは今から48年も昔のことです。この本の「はじめに」よると、著者の佐藤記者が、それ以降に取材した関係者は数百人を超え、当然、関三次郎本人には延べ6回、長時間のインタビューをし、取材走行距離は延べ4万キロに及んだといいます。

 今から67年前の1953年に起きたこの事件は、当時はセンセーショナルな事件として、毎日のように大々的に報道されましたが、今ではこの事件のことを知る人は私を含めてほとんどいないのではないでしょうか。

◇問題三法が執筆継続の動機

 80歳を超えた老記者にこのような本を執筆して出版にまで漕ぎつけるような原動力になったのは、安倍政権の「数の力」によって、「特定機密保護法」(2013年12月、いわゆる「スパイ防止法」)、「安全保障関連法」(2014年7月、集団的自衛権の行使容認)、「共謀罪法」(2017年6月)の問題三法の成立があったからだ、と著者は「終章」で書きます。「スパイ防止法には、国家の『機密情報の漏洩防止』に狙いがあり、集団的自衛権行使には『戦争のできる国家体制』の確立、そして『共謀罪』法には『国民の言論封じ込め』と相互に関連があり、いずれも体制側にとって都合のいい法律であることは論を俟たない」と。

 そのために、67年も昔に起きた過去の事件を通して、現代の状況を見つめ直してほしいという著者の願望があったと思われます。

 とにかく、この本には、色々と問題を抱えた関三次郎の親族、知人、友人から司法・海上保安庁関係者、CIC関係者、ソ連巡回艇「ラズエズノイ号」関係者、それに、暴力団関係者、鹿地亘失踪事件関係者、公安関係者、元軍人、通訳らさまざまな人たちが登場し、何らかの関三次郎とのつながりや関連性があったことが分かってきます。

 数百人に及ぶ取材の末、最後に著者は、関三次郎とは、ソ連KGBと米CICのダブルエージェントだったのではないか、と推測しますが、関本人は最後までのらりくらりと記者の質問をはぐらかし、検事正だった塚谷悟も、この事件は「国家機密」だったことから、「公務員の守秘義務」を楯に最後まで真相を語ることなく亡くなったといいます。

 推理小説のように最後は謎解きで終わって爽快感があるような内容ではありませんが、半世紀にわたって真相を追い求めた著者の情熱と信念が伝わってくる良書、意欲作、歴史に残る好著だと言えます。

Photo Copyright par Duc de Matsuoqua

アベノマスクは失政のシンボルではないか

 アベノマスクは結局、失敗だったんじゃないでしょうか。電車の中でも街中でも、アベノマスクをしている人は一人も見たことはありません。

 小さくてダサいので、私も付ける気がしません。

 安倍政権はそれでも懲りずに8000万枚ものアベノマスクを追加配布しようとしましたが、さすがに世論の猛反対に遭い、今のところ、提案を引っ込めているようです。

 アベノマスクの原資は国民の税金ですからね。どれくらいお金を無駄に使ったことか。総額260億円(マスク調達184億円、配送費など76億円)と菅官房長官は6月に明かしてましたが、となると、マスク代は、184億円÷1.3億人≒141円ですか。あんなマスクで結構しますね。失敗、失策というより、はっきり言って、失政ですね。アベノマスクなんかより、医療従事者の手当や休業補償に回すべきでした。

 何と言っても、張本人の安倍首相が「もうアベノマスクやーめた」とかなぐり捨てて、大型の見栄えが良いマスクに鞍替えしたことです。「そして誰もいなくなった」現象です。これで、「真摯に反省し、責任を痛感している」と言うのは単なる口先だけのことだったことが分かります。

 個人的には、このブログにも書きましたが、5月に50枚入りマスクを3300円で買いました。計算すると、1枚66円ですか。

 先日は、暑くなったので、欲しいと思っていた、涼しいと評判のユニクロのエアリズムマスクがようやく買えて、昨日着用してみました。Lサイズでしたが、ちっちゃーい。だから、息苦しくて死にそうになりました(笑)。耳んとこも痛くなるほどキツキツです。3枚で1089円でしたから、1枚363円。恐らく、洗って何回か使えば、味が出てくるのかもしれませんが…。

 ユニクロが駄目なら、また紙(?)の使い捨てマスクに逆戻りです。「第2波」が既に来ているのか、もうすぐやって来るのか分かりませんが、マスクは確実に必需品となるであろうから、です。そこで、昨晩、ネットで買い求めてみたら、何と100枚で1375円の代物が見つかりました。で、買いました。1枚当たり13.75円ですか。5月は1枚66円でしたから、あれから、およそ5分の1の値段に下がってます。

 「えー、何でやねん!?」と突っ込みたくなりましたが、経済の縮図を垣間見た感じでした。ここ3カ月、電気屋さんもメガネ屋さんもファストファッション業界もマスクの量産に参入したおかげで、品揃えも増え、価格が下落したのです。「世の中、こんな風にして動いているのかあ…」。

 あ、感激している場合じゃありませんよね。アベノマスクは失政です。安倍首相はじめ、政治家には責任を取ってもらいたいです。と、書いても、所詮、犬の遠吠えですね。モリカケ、桜を見る会であれだけ批判されても、彼は馬耳東風で、他人事ですから、痛くも痒くもないでしょう。

 マスクのことばかりに気を取られていたら、昨日、大阪の吉村府知事が「ポピドンヨードのうがい薬がコロナに効く」と喧伝したおかげで、早速、昨夕からうがい薬の売り切れ店が続出したそうです。これをワイドショーが取り上げて増幅させるものですから、市民はもうパニック状態です。

 嗚呼、日本人よ。我らの愛しき国民よ…。

エイコ・マルコ・シナワ著「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」を読む

 新聞の書評で、エイコ・マルコ・シナワ著、藤田美菜子訳「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」(朝日選書、2020年6月25日初版)の存在を知り、早速購入してこの本を読んでいます。「その筋」の本は、どういうわけか、小生のライフワークになっていますからね(笑)。きっかけは30年も昔ですが、芸能担当の記者になり、芸能界とその筋との濃厚な関係を初めて知り、裏社会のことを知らなければ芸能界のことが分からないことに気が付き、その筋関係の本をやたらと読みまくったからでした。

 この本は、副題にある通り、芸能界ではなく、政治の世界と暴力団との密接な関係を抉りだすように描かれています。暴力というか武力で政治を動かしてきた史実は戦国時代どころか古代にまで遡り、その例は枚挙に暇がありません。この本では、その中でも幕末の1860年(桜田門外の変があった年)から昭和の1960年(安保闘争、三池争議、浅沼社会党委員長暗殺事件があった年)までの100年間に絞って、多種多様な資料と史料を駆使して分析しています。それらは、幕末の志士(彼らは今で言うテロリストでもあった)に始まり、明治の壮士(暴力で敵対する政治家の演説を妨害した)、大正・昭和の院外団(大野伴睦が有名)、そして本物のヤクザの衆院議員(吉田磯吉、保良浅之助ら)を取り上げ、日本人でさえ知らなかった負の歴史を教えてくれます。

 著者のエイコ・マルコ・シナワ氏は1975年、米加州生まれで、米ウイリアムズ大学歴史学部教授という略歴が巻末に載っていますが、著者がどうしてこれほどまでに日本の近現代史に興味を持ち、その専門家になったのか、読者が知りたいそれ以上の情報は、何処にも、ネットにも掲載されていませんでした。名前から日系米国人と推測されるのですが、故意なのか、その点については全く触れていません。幕末明治の史料も相当読み込んでいると思われ、旧漢字も読めなければならないので、かなり日本語に精通した米国人であることは確かのはずです。

 この本の原著は、2003年に著者がハーバード大学の博士号を取得した論文だといいます。最初から一般読者向けに書かれなかったせいか、堅く、読みにくい部分もありますが、外国人から見る日本史は容赦がないので、そういう見方があったのか、と新鮮な気持ちにさえさせてくれます。日本人の学者が、これまであまり真摯に取り上げて来なかった暴力団と政治との濃厚接触関係という視点も外国人の学者だからこそできたのかもしれません。

 巻末の「謝辞」では、実に多くの日米両国の偉大な専門の歴史家にお世話になったか、実名を挙げて御礼の言葉を述べています。が、最初のイントロダクションで、「徳川幕府(1600~1868年)」と出てきたのには驚かされました。1600年は関ケ原の戦いの年で、まだ、徳川家康は全国統一を果たしていたとは言えない年。家康が征夷大将軍に任官された1603年が徳川幕府の始まりと日本では教えられています。また徳川幕府が終わったのも大政奉還の年の1867年でいいんじゃないでしょうか?

 最初から少しケチを付けてしまいましたが、この本から学んだことは大いにあったと断言できます。

 特に、政友会の衆院議員だった暴力団の親分、保良浅之助(1883~1975)については勉強になりました。その前に、この本の表紙にもなっている憲政会の吉田磯吉(1867〜1936)に触れなければなりません。

 吉田は、火野葦平の「花と竜」のモデルにもなった侠客です。荒くれ男が多い遠賀川沿いの北九州若松を根城に賭博場を経営し、筑豊炭坑の石炭を大阪に運ぶ若松港の発展に寄与するなど地元の大親分として一目置かれていました。反政友会候補として政界に打って出て初当選したのが1915年、以後32年まで衆院議員を務めます。労働争議では経営者側に有利なように介入したと言われます。この本には書かれていませんでしたが、彼の葬儀にはわざわざ東京から元首相の若槻礼次郎や民政党総裁の町田忠治までもが参列したことを、猪野健治著「侠客の条件―吉田磯吉伝」 (ちくま文庫) で読んだことがあります。

 一方の保良は、憲政会の吉田磯吉に対抗するために政友会から三顧の礼を持って迎え入れられた人物(衆院議員に当選)でした。勿論、吉田と同じ侠客です。賭場を開帳するヤクザの親分でしたが、山口県下関で身を落ち着けて、魚の運搬に使う竹籠の製造業を大きくし、朝鮮にまで進出して木箱の製造を始め、終いには山口、鳥取、熊本などに製材所や建設会社、製氷会社、下関駅前には山陽百貨店を開業し、兵庫、広島、大阪には数十の劇場まで経営するほどの実業家になります。そして、裏街道では「籠寅組」を率いていたといいますから、驚いてしまいました。この本は政治の話が中心なので、書いていませんでしたが、下関の籠寅組と言えば、その筋では名門中の名門。浪曲師広沢虎造の興行を巡って、神戸の山口組と敵対し、東京浅草で、籠寅組が山口組二代目の山口登組長を襲撃して重傷を負わせた(後にこの傷が元で死亡)武闘派だったからです。

 著者は、政友会が保良をスカウトする際、長州出身の田中義一首相が直々に説得し、その際に、恐らく国家機密を明かしたのではないかと推測しています。その機密事項とは、山東出兵失敗や張作霖爆殺事件の話だと思われるとまで書いています。仮初めにも籠寅組を率いるヤクザの親分と政界トップがここまで親しげな仲だったとは、同時代の日本人はともかく、後世の日本人はすっかり忘れているか、もしくは知らないことでしょう。

銀座「岩戸」アジ丼

 ついでながら、色々と政党が出てきたので、この本に沿って乱暴に整理してみます。

 明治維新の原動力になったのが、薩長土肥の四藩。それが自由民権運動が高まる中、明治一四年の政変が起こり、権力が薩長二藩に独占されます。薩摩が海軍、長州が陸軍を仕切るわけです。野に下った土佐高知の板垣退助は自由党を結党し、肥前佐賀の大隈重信は改進党(後の進歩党)を結党します。この両者は、一時期、隈板内閣をつくり、1898年に合併して憲政党を結党するなど密月があったものの、間もなく分裂します。1900年、旧自由党に、伊藤博文、星亨らが合流して結党したのが、政友会です。一方の反政友会の流れは、1913年、桂太郎による立憲同志会が結成され、16年には中正会などと合流して憲政会(27年に民政党に改称)となるわけです。憲政会の初代総裁加藤高明は、岩崎弥太郎の女婿となったことから「三菱の大番頭」と皮肉られ、後に首相になった人です。

 昭和初期に青年将校らによって「財閥と結託した腐敗政党」と糾弾されたのが、この政友会と民政党の二大政党のことです。政友会には三井財閥、民政党には三菱財閥がバックにいたことは周知の事実だったことから、血盟団事件では三井の総帥団琢磨らがテロで暗殺されたりするのです。(つづく)

【追記】

 続編は2020年8月8日付「この本を読まないと日本の近代政治の本質が分からない=エイコ・マルコ・シナワ著『悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治』」です。

 

 

新発見の松永弾正久永像から悪逆非道説は否定?

He who hath many friends hath none. – Aristotle 

感染拡大が止まりませんね。

 週末はいつもだと、映画館か博物館に行くか、城巡り、寺社仏閣巡りに勤(いそ)しんでおりましたが、一気に自粛ムードが広がり二の足を踏んでいます。

 もう一つの大きな要因は週末になると朝寝坊してしまうことです(笑)。1日9時間ぐらい寝てもまだ足りず、さらにまたお昼寝をしたりするので、一日の半分は寝て過ごすことになります。週日は労働に励んでいますからね。人生の半分を損している感じですが、「一日5時間睡眠で十分」と豪語している人が信じられません。羨ましい限りです。ま、この長い睡眠のお蔭で免疫力が付いていると考えるようにしております。

 家に閉じこもってばかりいられないので、自宅近くを散歩します。門構えも立派で、かなりの超豪邸も散見します。表札を見ると、「星野」「石田」「山崎」…。古くからの庄屋か大地主だったことでしょう。

 小学校のような広大な庭があり、でも、学校には見えない建物の正面に回って確かめてみたら、それが児童相談所だということが分かったこともあります。いわゆる、よくニュースで話題になる「児相」です。こんな所にあったのか、と新発見した気分でした。

 かと思えば、周囲が鉄条網に物々しく囲まれた広大な敷地に、今は廃墟になっている建物があります。門には、看板も表札もありません。「何の建物だろう?」と前々から気になっていたのですが、周囲の人に聞くこともできません。もしかしたら、秘密組織かもしれません。

 それがやっと分かったのです。警察の科学捜査研究所だったのです。いわゆる「科捜研」です。テレビドラマにもなってますね。私はその番組は一度も見たことはありませんけど。科捜研は現在、他に場所に移転しているようです。それでも、依然として警察の敷地らしく、奥の方に機動隊の装甲車みたいな車が十数台駐車していました。

 外部から侵入されないよう高い塀に囲まれた三階建ての瀟洒な集合住宅が3棟ありますが、門には何も名称が書いていません。大抵は「〇〇団地」とか「〇〇マンション」とか書いてあるものです。何か怪しい…。これも前から気になっていたのですが、暇に任せて調べてみたら分かりました。国税庁の職員官舎だったのです。これで、国家公務員の宿舎は周囲を憚って看板を付けず、分からないようにしているということが分かりました。

 そう言えば、江戸時代の武家屋敷も「尾張藩上屋敷」などと門に書くわけがありません。屋敷の所在地は超機密事項の一つですからね。それにしても、徳川幕府は地方の大名を改易したり、移封したり、減封したりしていますから、屋敷も色々と替えたりしていたことでしょう。秘密の文書(もんじょ)に書き留めておいたことでしょうが、幕府官僚も整理するのが大変だったことでしょう。

 と、まあ、今日はつまらないことを書きましたが、ブログを書く話題がこれぐらいなのでご勘弁下さい。

話は変わって、ついでと言っては何なんですが、最近、松永弾正久秀(1510~77)が歴史的に見直されているんですね。テレビの再放送で見ました。(とは言っても、最近のテレビは再放送ばかりですが)書物も多く出版されています。

 私が学校で習った松永久秀と言えば、東大寺を焼き討ちにするは、主君に歯向かうは、で悪の権化、下剋上、極悪非道のイメージの塊でした。風貌も鬼のような髪の毛ボサボサで歯を剥き出しにした姿が描かれていました。

 しかし、それは江戸時代につくられたイメージで、実際は、主君三好長慶に忠実な家老格で、長慶病死後は、17歳の長慶の甥の義継の後見役となって、三好家のために戦い、大和の多聞城を根城にします。最後は三好家のために織田信長に反旗を翻して、信貴山城で自害した忠君の戦国武将と見直され始めました。

 しかも、松永弾正の肖像画も最近、新発見されました。今年3月5日付の産経新聞によると、東京都内の古美術商が所有していた肖像画を大阪府高槻市が昨年1月に購入し、鑑定を続け、絵の上部には松永弾正の命日と戒名が記されていたことから本物と断定されました。新発見の肖像画では、松永は唇が厚く、しかも前歯が出たどこか愛嬌のある顔立ちです。とても、悪逆非道の武将には見えません。膝元には茶道具をしまう袋が描かれ、久秀が所有し、織田信長に献上したということで有名な茶入「付藻茄子(つくもなす)」(静嘉堂文庫美術館蔵)か「平蜘蛛(ひらぐも)」の釜を収めていると推定されるといいいます。(著作権の関係で茲に肖像画の写真を掲載できないのが残念です)

 こうして見ると、歴史的評価というのは時代、時代によって変わっていくものかもしれませんね。

魔法の非接触キー?を買わされた話

 ついに、というか、とうとう、ここ半年以上、全国で唯一新型コロナの「感染者ゼロ」で踏ん張ってきた岩手県から昨日の29日、感染者が出てしまいました。国内全体では、1日当たりの感染者が初めて1000人を超え、29日は過去最多の1261人。東京都で250人の感染者が出れば、大阪府も過去最多の221人、愛知県で167人、福岡県で101人と100人を超えてしまいました。

 ということを書いていたら、今、速報で、30日午後の東京都の感染者が367人とついに300人の大台を初めて超してしまいました。

 キリがないですね。もう「第2波」が来たと言ってもいいんじゃないでしょうか。

 それでも、週刊現代は「第2波は来ない」と断言していますし、米大統領もブラジルの大統領も、そして、この間の都知事選候補の一人も「コロナは単なる風邪」と豪語していました。ベラルーシの大統領は「コロナはウオッカとサウナで治る」と、本人が感染しても全く動じることなく、無症状のまんま回復したといいます。

 何だかよく分かりませんね。渦中にいると、本人だけが状況を全く理解できないのと同じです。やはり、真相は何カ月か何年か経たないと分からないのかもしれません。

 となると、人それぞれの個性は態度で現れます。こんな御時世だというのに、マスクをしないで街中を平気で歩いている人がいれば、とにかく人を避けて家に閉じこもっている人もいます。

 私の周囲にいる友人知人も千差万別です。「三密なんか気にしてられるか」と言って夜の街に繰り出して飲み歩いている人もいれば、社内でフェイスシードをして神経質そうにビクビクしている人もいます。

 そんな中で、今日一緒にランチに行った小早川君は、どちらかと言えば後者で、「これは必需品だぜ」と鍵のようなものを見せびらかすのです。

それが、上の写真です。

 正式名称は分かりませんが、「非接触キー」とか何とか呼ばれているらしく、これでドアのノブを開いたり、エレベーターの階の番号を押したりして、とにかく、感染しないように、他人が触ったものに接触しないようにするキーだというのです。

 なんじゃこれ!? ですよね?

 そんな話をしているうちに、会社の近くで、彼がそのキーを買ったという店を通り掛かりました。

 「おお、ここで買ったんだよ。君も買ったら?あ、そうだ、もう一つ、息子の分も買って行くよ」と言って、銀色のキーを持って、レジに行きました。

 戻ってくると、彼は「あれっ?まだ買ってないの?迷ってるの?駄目だねえ」と言う始末。お店の回し者かと思いましたが、値段は660円。まあ、ブログに載せるために、ただそれだけのために買うのもいいか、と思い直し、いつの間にか、私もレジに走っておりました(笑)。

 私が金色のキーを買ったものですから、小早川君は「金色を選ぶとは欲深いな。湖に斧を落とした木こりが、悩んでいたら、神様が出てきて、『お前が落とした斧は、金色の斧かね?それとも銅色の斧かね?』と尋ねる話知っているか?」とまで、言うのです。

 そこまで言いますかねえ?

 まあ、折角買ったので、会社のエレベーターで、早速このキーを使ってみました。

 玩具みたいなもんです(笑)。まさにSFの世界です。経済の需要と供給の世界なので、こんなものが売られ、買う人がいるということでしょう。けど、まさか、こんな時代が来るなんて思ってもみませんでしたよ。

「川越城本丸御殿」訪問記=日本100名城

世間の皆様と同じように4連休でしたが、雨が降り続いて、どうも外に出る気がしませんでした。一体いつになったら梅雨は終わるんでしょうか?こんな長いのありましたかね?(調べたら、梅雨明け最短は、2018年の6月29日。最遅は1982年の8月4日だとか)

 家に閉じこもり、本を読んだり、録画した番組ばかり見てましたが、今日は思い切って川越城に行ってみることにしました。

川越・藏の街通り

 実は、公益財団法人日本城郭協会が選定した「日本100名城」と「続 日本100名城」(学研)の公式ガイドブックを買ってしまい、パラパラめくっているうちに、やはり、「100名城」ぐらい生きているうちに行っておかないと、と思ってしまったからなのです。

川越のシンボル「時の鐘」

 日本では、山城、城址、城郭、国宝・重文の現存12天守をひっくるめて「城」とすると、全国で3万あるとも5万あるとも言われています。一生のうちで全てを回るのは、まあ、大変というか難しいことでしょう。

 私はこれまで50以上のお城を回ってますが、そろそろ、残された時間も有限になってきたので、名城に絞って行きたくなりました。

 ということで、まずは自宅近くの関東近辺のお城は取り急ぎ、日帰りで行ってみようかと思ったのでした。

 川越は、通訳ガイドの研修で行って以来、多分、6、7年ぶりです。昔の記憶を頼りに行ってみましたが、すっかり忘れてしまっておりました。これではガイドになりませんね(笑)。

 でも、観光地らしく、案内地図があちこちにあったおかげで、迷子、いや迷い人にならずに行けました。

最初に目指したのは、川越城本丸から北西に位置する東明寺です。

ここは、歴史に名高い「河越合戦(夜戦)」が1546年春に行われた激戦地です。

 ここは、小田原の北条氏康率いる軍勢8000が、関東の反北条連合軍8万を夜戦で打ち破った古戦場です。この「東明寺口の合戦」では、扇谷(おおぎがやつ)上杉朝定が討ち死にし(病死の説も)、扇谷上杉氏が滅びて、関東の国衆の多くが北条方の傘下になった歴史的戦争でした。

 詳しくは、上記に書かれております。北条氏康は、川越城に立て籠もる義弟北条綱成以下3000の兵を加勢に出陣したわけです。

 関東連合軍(関東管領の山内=やまのうち=上杉憲政、古河公方=こがくぼう=足利晴氏など)の8万の数は疑わしいという説がありますが、とにかく、関東一円が、北条氏の支配下に決定的となった歴史的な戦なのです。

 河越(川越)夜戦の激戦地、東明寺は、一遍上人の時宗だったんですね。知りませんでした。先日、時宗総本山清浄光寺(遊行寺、神奈川県藤沢市)にお参りに行ったばかりですから、不思議な御縁を感じました。

 この日はたまたま、どなた様かの法事があり、境内の本堂からお経が聞こえてきました。ここの御本尊様は、虚空蔵菩薩でした。

 河越合戦から約半世紀後の1590年、小田原北条氏は、豊臣秀吉に滅ぼされ、関東一円(主に武蔵国)は、三河出身の徳川家康に委任されたことは御案内の通りです。

 東明寺まで、JR川越駅から歩いて30分という話でしたが、50分ぐらい掛かり、結構それだけで疲れてしまいました。

 しかし、これからが本番です。川越城本丸御殿を目指します。(結局、東明寺から20分は掛かりました)

 途中で、川越城中ノ門と堀があったので見学しました。

 川越市内は、今ではすっかり商店街と住宅街になってしまいましたが、ここのお堀だけは歴史的遺産として残すことが決まったといいます。

 見ていると、往時が偲ばれ、きらびやかな商店が並ぶ観光地・川越が、実は、城下町だったことがこのお堀で分かります。

 中ノ門堀の仕組みは、上記の通りです。

 川越市役所の前に銅像があり、「あの人かな?」と思ったら、やはり、太田道灌でした。

 太田道灌は1456年、主君扇谷上杉持朝の命で、父道真(資清)とともに、河越城を築いた人です。(続いて、太田道灌は、岩槻城も築城したと言われていましたが、最近は、そうではなかったという異説が有力になっているようです。岩槻にあった太田道灌の銅像、あれは何だということになりますが…)

 翌57年には、古河公方に与する房総の千葉氏を抑えるために、武蔵国豊嶋郡に江戸城も築きます。

 後に関東の覇者となった家康が、この江戸城を拠点としたので、太田道灌を特別に英雄視したと言われています。でも、当たっていることでしょう。

 扇谷上杉氏の家宰だった太田道灌はあまりにも優秀だっため、主君上杉定正は自分の地位が脅かされるのではないかと不安と疑念を抱き、ついに道灌を謀殺してしまうからです。

 先日、お城に関連したテレビ番組を見ていたら、ある若い美人の女性タレントさんが、「江戸城ってどこにあるんですか?」と聞き、お城好きで知られる落語家から「皇居ですよ」と教えられると、「えー、知らなかった」と叫び、その落語家も見ていた私ものけぞって驚きました。

 皇居が江戸城だったことを知らなければ、明治維新も知らないだろうし、戦前まで言われていた宮城も知らないだろうし、徳川将軍も知らなければ、まさか、太田道灌のことも知らないだろうなあ、と思わず確信してしまいました。

 さて、話が脱線しているうちに、川越城本丸御殿に到着しました。

 川越は、昔から何度も行ったことがありますが、お城に行くのは何と今回が初めてです。この本丸御殿の近くに野球場があり、広い駐車場もあり、その辺りに昔、駐車したこともありましたが、当時は城にはさほど興味がなかったので、ここに本丸御殿があることなぞ、知るよしもなし。

 入るのに検温と消毒と、それに名前と電話番号まで書かされました。(本丸御殿、市立博物館、市立美術館の3館共通券で370円)体温36度4分。

 上の写真は、本丸御殿に移築された家老詰所です。

 明治初期に解体され、現ふじみ野市の商家に再築されていたのが、昭和62年に川越市に寄贈され、ここに移築されたとか。

 中では、御家老連中が真剣な表情で、評定しておりました。幕末は、三浦半島やお台場などの警備を川越藩は一手に任されるのですから、大変な重役です。

 中庭もなかなか風情があってよかったです。江戸時代にタイムスリップ。

 本丸御殿から少し南に位置する高台にあった川越城富士見櫓跡です。

 川越城は、天守がなかったらしく、この富士見櫓が藩内で一番高い建物だったそうです。昔は、ここから富士山がよく見えたそうです。

鳥良商店のユーリンチー定食858円

 川越城本丸御殿のあと、道路をはさんで隣りの川越市立博物館と同美術館を覗いてきました。それぞれ、かつては二の丸、三の丸があった所です。再び、三度、検温、消毒、名前と電話番号を明記。

 川越藩は、隙を伺う伊達藩などの東北に睨みを利かせる要所となる親藩ですから、代々の藩主は老中になるなど幕閣の逸材を輩出しました。

 特に有名な人は、三代将軍家光の小姓も務めたこともある、「知恵伊豆」と呼ばれた松平伊豆守信綱(1596~1662)です。野火止用水や川越街道を整備したり、川越祭りを始めたのもこの人だといいます。

 彼は、何と言っても、中年の頃、島原の乱のために出兵し、最後は総大将として乱を平定しています。戦後、この功績で忍藩から3万加増されて6万石の川越藩に移封されたわけです。

 松平信綱の墓は、小生も子どもの頃からよく行ったことがある臨済宗妙心寺派の平林寺(埼玉県新座市)にあります。昔は、私の母校・東久留米第四小学校(廃校)からこの寺まで歩く「歩行会」があったり、友だちの誕生会があったりして、広い境内の野原でシートを敷いて飲食したり、鬼ごっこをしたりしていましたが、HPを見たら、今は、飲食は、禁止されているようです。

 世の中、世知辛くなりましたねえ。

橘木俊詔著「”フランスかぶれ”ニッポン」はどうも…

 世間では誰にも認められていませんが、私は、「フランス専門」を僭称していますので、橘木俊詔著「”フランスかぶれ”ニッポン」(藤原書店、2019年11月10日初版)は必読書として読みました。大変面白い本でしたが、途中で投げ出したくなることもありました(笑)。

 「凡例」がないので、最初は読み方に戸惑いました。

 例えば、「長与(専斎)に関しては西井(二〇一九)に依拠した」(53ページ)や「九鬼周造については橘木(二〇一一)に詳しい」(104ページ)などと唐突に出てくるのです。「えっ?何?どうゆうこと?」「どういう意味?」と呟きたくなります。

 (これは、後で分かったのですが、巻末に書かれている参考文献のことで、まるかっこの中の数字はその著書が発行された年号のことでした。学術論文の形式なのかもしれませんが、こういう書き方は初めてです)

 著者は、経済学の専門家なので、「フランスはケネー、サン=シモン、セイ、シスモンディ、ワルラス、クールノーなど傑出した経済学者を生んだ」(180ページ)と筆も滑らかで、スイスイと進み、それぞれの碩学を詳細してくれますが、専門外の分野となると途端にトーンがダウンしてしまいます。

 例えば、世界的な画家になった藤田嗣治の章で、「乳白色の裸婦」を取り上げた部分。「絵画の手法などについては素人の筆者がどのような絵具や顔料を用い、キャンバスにどのような布地を用いたのか、…などと述べる資格はないので、乳白色の技術についてはここでは触れない」。 えっ?

 「ドビュッシーは女性関係も華やかであったが、これまで述べてきたようにフランスの作家や画家の多くがそうであったし、別に驚くに値しないので、詳しいことは述べない」。 えっ?待ってください。また?

 「物理学に疎い筆者が湯浅(年子)の研究内容を書くと間違えるかもしれないし、読者の関心も高くないであろうから、ここでは述べない」。 もー、勘弁してください。少しは関心あるんですけど…。

 ーまあ、ざっとこんな感じで、読者を2階に上げておいて、「この先どうなるんだろう」と期待させておきながら、さっと階段を外すような書き方です。

 そして、画家の久米桂一郎(一八六六-一九三四)の次の行の記述では、

 「浅井忠(一九三五-九〇) 黒田清輝(日本西洋絵画の開拓者は、美術学校出身ではなく、東京外国語学校出身だったとは!←これは私の感想)や久米桂一郎よりも一〇年早く生誕している」と書かれているので、「おかしいなあ」と調べたら、浅井忠は(一八五六-一九〇七)の間違いでした。日本の出版界で最も信頼できる藤原書店がこんなミスをゆめゆめ見逃すとは!悲しくなります。

 文句ばかり並べましたが、幕末・明治以来「フランスかぶれ」した日本の学者(辰野隆、渡辺一夫ら)、作家詩人(永井荷風、木下杢太郎、萩原朔太郎、太宰治、大江健三郎ら)、画家(藤田嗣治ら)、政治家(西園寺公望ら)、財界人(渋沢栄一ら)、ファッション(森英恵、三宅一生、高田賢三ら)、料理人(内海藤太郎ら)ら歴史的著名人を挙げて、平易に解説してくれています。(私は大体知っていたので、高校生向きかもしれません)

 ほとんど網羅していると言っていいでしょうが、重要人物である中江兆民や評論家の小林秀雄についてはごく簡単か、ほとんど登場しないので、もっと詳しく解説してほしかったと思いました。

 それとも「私の専門外なので、ここでは詳しく触れない」と著者は抗弁されるかもしれませんが…。

 (6年前に「21世紀の資本」のトマ・ピケティ氏が、日仏会館で来日講演された際に、橘木氏も同席して、橘木氏の御尊顔を拝見したことがあります。「経済格差問題」の権威として凄い方だと実感したことは、余談ながら付け加えておきます。)

「Go to トラブル」じゃなかった「Go to トラベル」キャンペーンの舞台裏

 今日から始まる「Go to トラブル」じゃなかった「Go to トラベル」キャンペーン。一転して「キャンセル料」を払うだの、「東京だけ除外」するなど、混乱のスタートです。しかも、割引対象の観光事業者未定のまま見切り発車とは驚きです。

 そもそも、1兆3500億円もの巨額の国民の税金をこの観光キャンペーンにかける価値はあるのかしら、と素朴な疑問を抱いていたら、その「ワケあり」について、今日発売の文春砲が暴いてくれました。有力政治家と観光業界との切っても切れない「持ちつ持たれつ」の濃厚接触関係です。江戸時代の代官と出入りの商人との間で交わされる「越後屋ぁ、お前も悪やのお~」という情景が浮かびます。

 特に、文春によると、自民党幹事長の二階俊博氏をはじめ自民党議員37人が、観光業界から少なくとも約4200万円の献金を受けていたといいます。「Go To トラベル」キャンペーンの実現を率先した二階幹事長は1992年から30年近く全国旅行業協会の会長を務めているといいますから、これでは「見え見え」じゃありませんか。

 菅義偉官房長官も、「子分」の黒岩神奈川県知事や森田千葉県知事に対して、キャンペーンを推進するよう圧力をかけたのではないかという疑惑も報じています。他の有力議員が、感染拡大が続いている首都圏の千葉、神奈川、埼玉もキャンペーンから除外するべきだと主張したのに対して、菅氏は、気に食わない小池百合子都知事に対抗するため、最後まで「東京だけ除外」を貫き通したといいます。

 これは、文春が書いているだけですが、何で新聞は書かないんでしょうかね?文春砲を読まなかったら、このドタバタ悲劇の舞台裏がさっぱり分かりませんでしたよ。

 二階氏(和歌山)も菅氏(神奈川)も観光業界から献金を受け取った自民党議員も国民が選出したわけです。

 その国民ですが、キャンペーンだから割引を利用して旅行に行く、東京発着はキャンペーンから除外されたからキャンセルする、当然、キャンセル料は、税金で負担してもらう、というのはあまりにも情けないというか、どうも大変失礼ながら、浅ましく見えてしまいます。何で最初から、丸々、自腹を切って、旅行を楽しもうとしないんでしょうか?

 まあ、個人個人、色んな複雑な事情を抱えているわけですから、第三者の他人からとやかく言われる筋はない、と言われればそれまでですけどね。

 私自身は、今の日本の政治風土というか世間の風潮には違和感を覚え、生きているだけで息苦しさを感じています。