作家遠藤周作の御子息がテレビ局社長に

 フジテレビの新社長に作家遠藤周作(文化勲章受章)の長男龍之介氏(62)が、6月の株主総会を経て就任するという記事を読みました。おめでとうございます。

 テレビ局に縁故入社する有名人の子弟は案外多いので、驚いたわけではありませんが、さすがにトップの社長になる人は少ないので、感心しました。遠藤氏が縁故入社かどうか公表されてもいないのに、何か上から目線ですねえ(苦笑)。

Espagne

 でも、マスコミが、作家や画家や文化人や大手企業重役などの子弟を採用するのは理由があるのです。ただし、茲では書きません。偶には、皆さんご想像してみてください。あ、それとも、既に御存知でしたか?

 そもそも、マスコミも大手企業も縁故入社があることは公然の秘密です。政治家の口利きで入社する人もいるぐらいですから。

 マスコミが「社会の木鐸」とか、清廉潔白だというのは幻想であって、天下のNHKも、大手広告代理店も、大手出版社も縁故入社はかなりいます。朝日新聞だって、もともと縁故採用が本筋で、入社試験を始めたのは1920年からです。近現代の歴史を勉強していれば、つい最近だということが分かります。コネ入社の方が、身元がはっきりしていますし、安心安全だからです。

 さすがに、霞ヶ関の官僚の世界では試験重視なので、縁故入省はないですが、外務省となると、不思議なことに、東郷さんのように、親や子や孫や何代も続いて外務官僚になる家系が多いですね。

 だから何だ、という話で、今日はオチがありません(笑)。

スペインの旅行写真はこれが最後です。本文とは関係ないのに長らく御鑑賞有難う御座いました。

母の日にコンビーフ

 ウマイめんこい村の白羽作彦村長です。

 何か、わたすのライヴァル・サイト「ウマズイめんくい村」の赤羽彦作村長さんが、東京・千駄木腰塚の「極旨 コンビーフ」を取り上げておりましたが、たまたま、わたすも同じように「ここのコンビーフは日本一、極旨ですよ」という極秘情報をある情報筋から仕入れて来ました。

 もしかしたら、この極秘情報は、ワトキ会か、または、同じ情報筋かもしれませんが(笑)、今日は「母の日」ということもあって、母親へのお土産として、奮発して買いに行って来たわけです。

 千駄木本店にしか売っていないという情報でしたが、JR日暮里駅の「駅ナカ」でも販売しておりました。昭和24年創業の腰塚自家製「極旨 コンビーフ」は、400グラムというかなりボリュームで、価格は、1個1980円。

 コンビーフは最近ほとんど口にしていませんでしたが、子どもの頃は、缶詰入りのコンビーフをよく食べたものでした。そう言えば、小中学校の給食でもよく出ていたと思います。

 手始めに生でそのまま食べてみました。まあ、コンビーフの味はしましたけど(笑)、脂の乗ったほどよい塩加減にしろ、今まで食したコンビーフと比べると、老舗の腰塚さんから広告宣伝費をもらっているわけではありませんが、類似品とは違い、高級感たっぷりで、旨味がありました。

 でも、キャベツなどの野菜炒めにしたり、手を加えても美味しいと思いました。

 生コンビーフと一緒に、サンドイッチ(580円)も一緒に買ってきました。

 このサンドのコンビーフにはキャベツが入ってました。

 「千駄木 腰塚」のネットのサイトを見たら、「コンビーフは一人1個まで」とか、「午前10時には売れ切れてしまう」といったコメントが書かれてあったので、日曜日だというのに朝早く起きて、買いに行きましたが、コンビーフは何個でも買えたし(年末とか特別な日は制限するらしいですが)、午前10時ぐらいでしたが、まだ沢山売れずに残っておりました(笑)。

 一緒に食べた母親も「美味しい」と褒めてくれたので、ほんの少し親孝行ができてよかったかな、と思いました。

タルムードに少し触れて

 何となく、季節の変わり目のせいか、ここ数日、気分爽快とはいかず、ペンが重くなっています。

 以前なら、朝起きるとその日に書きたいことが湧き出る泉の如く、止めどもなく、何本も、何本もテーマが浮かんできたのですが、最近はどうも、不調です。

 特に、以下の文章を読んだのが、低迷の決定打となりました。

ゴシップは殺人よりも危険である。殺人は一人しか殺さないが、ゴシップは必ず三人の人間を殺す。ゴシップを言いふらす人自身。それを反対せずに聞いている人。その話題になっている人。

 ゴシップを「ブログ」に置き換えるとゾっとしてしまいます。私は弱い人間ですから、殺すことはありませんが、人を傷つけているのではないか、と思うと書く気力が失せてしまったのです。

先ほどの格言(教義)こそは、ユダヤ民族に伝わるタルムードで、ユダヤ民族に伝わる口伝律法を納めたものです。 法律に例えると、「旧約聖書(トーラー)」が六法全書にとするなら、「タルムード」は判例集に当たります。

タルムードには「労働」「婚姻」「商法」「死生観」 など多岐に渡って教義が記されています。

 以前、このブログの今年2月2日に取り上げた市川裕著「ユダヤ人とユダヤ教」(岩波新書)の中で初めてタルムードの存在を知り、興味を持っていたところ、たまたま、電脳空間に「ユダヤ民族に伝わるタルムード(talmud)には何が書かれているか?」 というサイトが見つかりました。

 このサイトには「ぜひともタルムードの完全な日本語訳が出版されることで、『悪魔の経典タルムード』というイメージや、『ユダヤ人は選民思想によって非ユダヤ人をゴイム(豚)として扱い、世界支配を企んでいる』と言った、ユダヤ陰謀論の誤った認識が覆されることを祈る」と書かれているように、至極真面目に、正攻法でユダヤ思想を取り上げていると思います。

サグラダファミリア教会

 そして、このサイトのリンクには「多様な業界で活躍した著名なユダヤ人」というサイトがあり、これを拝見すると、ユダヤ系の人たちがこれほど、幅広い分野で活躍していたとは驚きでした。

 イエス・キリスト、アインシュタイン、マルクスといった大天才たち(誤解を恐れずに言えば、イエスは生前、教団をつくる意思はなかったという説があります。宗教を超えて生身のイエスは、大天才だったことは疑う余地はなかったと思います)がユダヤ人だったということはよく知られており、クラシックからポップスに至るまで芸能関係者が多く、私自身もかなり知っているつもりでしたが、俳優のハリソン・フォードやスターバックスの中興の祖ハワード・シュルツ、心理学者のアドラー、映画監督のオリバー・ストーン、フェイスブックのザッカーバーグらもユダヤ人だったとは知りませんでした。

 もちろん、私自身も、巷間出回っているユダヤの陰謀説には与していません。ハリウッドのスターになったり、ウォール街の金融街で優遇されるかもしれませんが、それらは陰謀でもなく、白日の下で晒されている誰もが知っている話でしょう。別にヒトは、映画界のスターになることもないし、ジョージ・ソルスやウォーレン・バフェットにならなくても生きていけます。

 それより、何故、ユダヤ人には頭脳明晰な人が多いのかといった方に私は、興味があります。(このサイトには「ノーベル賞受賞者の22%がユダヤ人」とも書かれています。)

 要因として、「ユダヤ人は教育熱心だから」といったことが書かれていますが、それだけではないはずです。「中国のユダヤ人」と言われているのが、「客家(はっか)」で、孫文や鄧小平、李登輝、リー・クアン・ユーらも客家と言われてますが、彼らも大変教育熱心な華僑として知られています。

あ、あまり書き過ぎると、タルムードの戒律に触れてしまいそうなので、この辺でやめておきます。

谷山ー志村予想

志村五郎・米プリンストン大名誉教授が5月3日に亡くなっていたことをプリストン大学が、日本時間の6日に発表しました。享年89。「整数論」の世界的権威の数学者です。

 とはいえ、門外漢の小生が志村氏のことを知ったのは、つい先日のことでした。「騎西城 散策」の際に、埼玉県加須市の観光案内所にあった「加須が生んだ郷土の偉人」というパンフレットの中に数学者の谷山豊(1927~58)が 掲載されていて、これを見た「城歩き同好会」のキャプテンが大声で「えっ?谷山豊は加須出身だったの!?」と叫んだたため、その業績に興味を持ったからでした。キャプテンは、帰り道のバス停の場所を間違えて、もう少しで、キャプテンの座から転落しそうになりましたが、子どもの頃から、フランス人のガロアら天才数学者については人一倍興味を持った人でした。

騎西城跡

 後で詳しく触れますが、埼玉県騎西町(現加須市)出身の谷山豊と静岡県浜松市出身の志村五郎(1930~2019)は東京大学理学部数学科の同窓で、この2人が発表した「谷山ー志村予想」は、難問中の難問「フェルマーの最終定理」解くための鍵となったのでした。

ちなみに、電脳空間で公開されている「加須インターネット博物館」には、谷山豊氏については以下のようなことが書かれています。

 谷山氏の功績に、数学史上最大の難問であり、証明されるまで360年かかった「フェルマーの最終定理」を解くために重要な鍵を握った「谷山-志村予想」を提出したことが挙げられます。これは、昭和30年(1955)栃木県日光市で開かれた数学の国際会議で若手数学者が中心となって未解決の興味ある問題を提起した中に、「谷山予想」(「すべての楕円曲線はモジュラーである」)が含まれていました。

 平成5年(1993)イギリス人数学者アンドリュー・ワイルズ氏により「フェルマーの最終定理」は証明されますが、のちに、ワイルズ氏は「フェルマーの最終定理」を証明するための核心は、「谷山-志村予想」を証明することにあったと語っています。

 めでたし、めでたし、ですね。でも、谷山氏は31歳の若さで亡くなっています。ご病気だったのでしょうか。加須市の偉人パンフレットには何も書かれていませんでした。

 ネットの「コトバンク」にも何も書かれていませんでしたが、ウィキペディアだけには詳しく書かれていました。1958年、東京・池袋の自宅アパートでガス自殺、とありました。 「自殺の原因について、明確なことは自分でもよくわからない 」といった遺書まで残して…。彼は、その年に東大助教授となり、その1カ月前に婚約者が決まり、プリンストン高等研究所からの招聘も決まっていたといいますから、何とも不可解、何とも不可思議、何とも不条理です。

 しかも、その半月後に、谷山氏の婚約者までもが後追い自殺したというのです。

 何と言う悲劇。一体、何があったのでしょうか…。思わず姿勢を正してしまいました。

 賢明なる皆様なら御案内の通り、フェルマーの最終定理とは、「nが3以上の整数の時、X(n乗)+Y(n乗)=Z(n乗)を満たす自然数の組(x,y,z)は存在しない」というものでしたね。私にはさっぱり分かりませんけど…。

鷲宮神社〜騎西城〜玉敷神社の藤の花=埼玉県久喜市~加須市

 先日、この渓流斎ブログで予告させて頂きましたように、5月4日(土)は、「城歩き同好会」のメンバーの皆さんと一緒に、埼玉県加須市にある騎西城とその周辺の神社仏閣を散策して参りました。

鷲宮神社

 最初に訪れたのは埼玉県久喜市にある「鷲宮神社」です。

 ゴールデンウイーク(GW)前半の先月4月29日に、古河城址を散策した話を、この渓流斎ブログで書きましたが、この時はJR宇都宮線で古河まで行きました。GWのせいで、行きも帰りも混んで座れなかったのですが、途中の久喜駅でかなり乗降客が多くて不思議に思っていたのです。今回、このJR宇都宮線久喜駅から東武伊勢崎線に乗り換えて鷲宮に行きましたから、久喜駅は東武線と連結していたことを今回初めて知りました。

鷲宮神社

 鷲宮神社は、「出雲族の草創にかかわる関東最古の大社」なのだそうです。創建は「神代の昔」で、主な御祭神は、天穂日命(あめのほ ひのみこと)、武夷鳥命(たけひな とりのみこと)、大己貴命(おおなむぢ の みこと)。中世以降も源頼朝、古河公方、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら名立たる武将が、奉納や神領の寄進、社殿の造営などを行うなど由緒ある神社です。

 鳥居をくぐると、急に、大変、荘厳な雰囲気に包まれます。

 ここの神楽殿では、関東神楽の源流と称される「土師一流催馬楽神楽(はじ いちりゅう さいばら かぐら)」が奉演され、上皇后両陛下と来日されたスウェーデン国王御夫妻が鑑賞されているパネル写真も展示されておりました。

粟原城か?

この鷲宮神社の裏手(?)にはかつて、「粟原城」があったらしいのですが、今は影も形もないどころか、面影すら残っていません。

一説には粟原城主は、鷲宮神社の社司も兼ねていたそうですが、何しろ、歴史的資料が乏しく、詳細は不明なんだそうです。

土塁に建つ私市城(きさいじょう)碑

鷲宮駅に戻って、東武伊勢崎線二つ目の加須駅に向かいます。

その途中の花崎駅(2017年の夏の甲子園でここの花崎徳栄高校が埼玉県勢として初の全国制覇しましたね)を少し越えると、右に花崎城跡公園と自動車教習所、左に花崎城山公園があります。

そうなんです。ここはかつて、「花崎城」があった所なのですが、線路で分断されてしまっているのです。公園内には堀や土橋が残っているらしいのですが、電車内で目視での確認に留めました(苦笑)。

加須駅に着き、迷った末に駅から遠く離れた、とは言っても、300メートルらしいのですが、「観光案内所」に辿りつき、そこで地図などパンフレットも頂き、幸運にも目の前のバス停から騎西城跡まで行ってくれるというので、バスを利用することにしました。案内所のおじさんは大変親切で、バスが来るまでヤキモキして一緒に待ってくれました。

そこから、バスで約12分。ちょっと楽して到着したのが、騎西城跡。かつては私市と書いて、「きさい」と読んだらしいのですが、これは、武蔵七党の一つ、私市(きさい)党から来ているようです。

騎西城土塁跡

この辺りは、昭和57年ごろから本格的に発掘・整備されて、看板も充実していました。

武州騎西の絵図

江戸初期の騎西城の城下町の絵図をご覧になれば、その広さが分かります。

騎西城のレプリカ(本丸は天守がなく平城だったらしい)

お、ついに出ました。騎西城の天守です。城内は、資料館になっており、入場無料。(ただし、春と秋のほんの少しの期間しか開いていないようです)騎西城は、康正元年(1455年)に古河公方足利成氏が攻略したことで、文献に初登場し、江戸初期の寛永9年(1632年)に廃城なったということです。

ということで、これは平成の時代になって観光資源のために建てた天守で、実際の騎西城には天守がなく、平城だったそうです。この「天守」が建っている所は、かつての外堀(または沼地)だったようで、現在の生涯学習センターがある所はかつての「天神曲輪」、その北に「二の丸」と「馬屋曲輪」があり、その北に「本丸」がありました。

騎西城跡

はい、これが、騎西城跡の説明文ですから、こちらをお読み頂ければ、お分かりになるかと存じまする。

玉敷神社(久伊豆神社)

騎西城跡から町人町を通って、歩いて25分。玉敷神社に向かいました。これは、かつて本丸の東にあった久伊豆神社を移築したもので、今でも、玉敷神社の別名は久伊豆神社です。

加須市の郷土の偉人として、河野省三(1882~1963)がおりますが、彼はこの玉敷神社の社司を務め、国学院大学の学長も務めた人でした。社内にある彼のかつての邸宅は、公開されています。

玉敷神社

久伊豆神社は、武蔵国の東葛飾郡に多く見られる神社で、久伊豆を逆にして伊豆久として、同音異義語の「出ず」「く」→「出ずくも」→「出雲」となり、久伊豆神社も出雲族系なのだそうです。

 埼玉県大宮には「武蔵国一之宮」である氷川神社があり、こちらも出雲斐川を勧進した出雲族系と言われていますが、同じ出雲でも違いがあるんですね。

 大宮を含む旧武蔵国埼玉郡には、今の東京都内も含めて、氷川神社だらけですが、武蔵国東葛飾郡には氷川神社はなく、久伊豆神社だらけです。

玉敷神社の見事な藤の花が

玉敷神社では、このように、ちょうど藤の花が満開で、「藤まつり」が開催されていました。福島からのハワイバンドの演奏と、40歳ぐらいのプロ男性歌手によるワンマンショーも開催されておりました。が、真面目に聴いている人が少なくて、彼は一生懸命に、手振り足振りして頑張って唄っているのに、かわいそうで涙が出てきてしまいました。

藤の花は日本一かも

樹齢400年以上の大藤が、県指定天然記念物になっていますが、これは見応えがありました。

浮世絵にも描かれた江戸の亀戸天神より凄い。圧巻でしたよ。

京都の不思議=ボトルの相続

  その後、如何お過ごしですか、京洛先生です。 

ブログを拝見すると、渓流斎先生は、「歴史研究」から「スパイ研究」、さらには「映画鑑賞」と、あれこれお忙しいようですね(笑)。 世間は「天皇の譲位」、「平成」から「令和」への改元で大騒ぎですが、渓流斎ブログには、ほとんど、それが触れられていませんね(笑)。やはり、何か書いてもよいのではないですか?

 いつもながら、マスコミは鉦や太鼓をたたいて、さんざん、世間、大衆を煽っています。何も考えない大衆は、”改元音頭”を踊り、踊らされて、憂さを晴らす、というパターンです。

 新聞各社は「天皇陛下おめでとう!」「慶祝!」と、大きな名刺広告を集めて紙面に載せていますが、あの広告費はチャンと「禁裏」に納めているのですかね?(笑)。自社の財布に入り、収入、収益になるのなら、”あやかり商法”というか、詐欺”みたいな話ですよ(笑)。 

大手新聞各社は「こちらが献上しようと思っても、禁裏は固辞される」ということでしょうが、「日本ナントか協会」とかいう、国際慈善団体の名称を使って、「アフリカの子供を救おう!」と浄財を集め、豪華な自社ビルを建てる費用に充てる手合いとこれでは同じですよ。

 誰も文句を言わないのも可笑しな話です。そのうち、広告収入が、下降線のテレビ業界も、映像版あやかり「名刺広告」を始めるのじゃないしょうか(笑)。「人の褌で相撲をとる」とは、こういうことをいうのです。

京都「ヘルメス」

 ところで、”10日間連休”のさなか、「奇遇」、「奇縁」のお話を一つご披露しましょう。

 貴人もご存知の三軒茶屋のガルーダ博士が連休中、洛中の別荘にお見えになり、当方にも御報がありました。いつもは、ご友人らと夜の巷を徘徊されるのですが、今回は、女婿の御尊父が亡くなられ、その葬儀、御弔いのために見えました。それら大事な役目を一通り済まされた後、「時間があるので、ご一緒しませんか」と当方に有難い、お誘いがありました。

 そこで、先夜、ガルーダ博士ご夫妻のマンション傍の千本中立売周辺で食事を済ませ、さらに「もう一軒」となり、ぶらぶら三人で歩き出しました。 

「千中(せんなか)」と略称されるこの界隈は、水上勉の「五番町夕霧楼」の舞台で、「売春禁止法」以前は「五番町」という遊郭がありました。今はマンション、住居が立ち並び、そのころの賑やかさは、ほとんど消え去り、薄暗い、人出がない、狭い道筋を歩いていると、ガルーダ夫人が小さな声で「あれ!、ここヘルメスじゃないの?」と、暗がりに燈るバーの街灯を見つけ指さされました。「え!ヘルメス、どれどれ」とガルーダ博士。「そうだ、ヘルメスだ、亡くなったOさんが、よく飲みに行くといっていた、お店だ」と言うなり、「入ってみるか」となりました。

 0さんというのは、ガルーダ博士が、今回、お葬式に行かれた女婿の実父で、建築家と大学教授を兼任されていた方です。「土に還る」自然素材を用いた、独特の建築工法で、家を建てることを実践し、「藁の家」などユニークな建物も手掛けられ、その世界では有名な方だったそうです。「自由人」らしく、京都の飲み屋街にも出没し、談論風発、友人知人も多く、学生にも、大変人気があったそうです。 

「ヘルメス」は、70歳を過ぎたと思しきママさんが一人だけで、お客さんは誰もいません。時代は「平成」から「令和」に移りましたが、店内の雰囲気は、「平成」など無視して「昭和」が今も健在です。貴人が一緒なら「いやあ、懐かしいですね!こんな店がまだあるのですね、京都には」と痺れますね(笑)。店の壁際には、古いレコードが大量に整理整頓され、お客さんの好みに合わせて、それを聴かせてくれます。

 見慣れぬ客に、多少、不審げな表情で「何をしはりますか?」とママさん。そこで小生が「こちらのご夫妻の親戚で、Oさんという方が、よくここへ見えていたそうですが、ご存知ですか?」と、出しゃばって話を向けると、「え、よく存じていますよ。Oさんは。ご病気やと聞いて、心配していましたが…」と、Oさんの近況、動静もよく知っているので、話は簡単でした。

 ガルーダ博士が「いやあ、実は、先日亡くなりました、ワタシも、東京から葬儀に来て、偶然、ちょうどお店の前を通ったので、思い切って店に入ったわけです」と話されると、「え!Oさんは亡くなられはったのどすか?!いつも、一緒に来はるNさんご夫妻が、だいぶ、よおないと、言うたはったから心配してましたが、そうどすか…」。

Oさんのボトル

ママさんは「ええ先生どうしたわ。学生さんも飲みに連れて来はってね」とOさんの懐旧譚とともに、Oさんが店にキープしていたボトルを棚から出して「ご親戚やし、飲んで、センセイを偲んでおくれやす。Oさんも喜ばはるわ」と水割りを勧めてくれました。

 これには、ガルーダ博士も言葉に詰まり、しばししんみり。Oさんの好きだったという、フランク永井の「公園の手品師」などアナログのレコードプレイヤで聴き惚れました。

 ガルーダ夫人は「きっと、Oさんが導いてくれたのよ、パパ」と言われましたが、本当に奇縁、ハプニングでした。

 翌日、ガルーダ博士は、Oさんの息子さんの女婿を、「ヘルメス」に連れて行き、ボトルの引継ぎを済ませ、帰京されました。行きつけのバーにキープされたボトルの相続、形見分けというのも、珍しいと思いますね。

以上おしまい。 

再びOさんのボトル

いざ古河へ=古河公方と古河城

古河と書いて、「こが」と読みます。「ふるかわ」ではありません。古代から中世、近世にかけて、一時、関東の中心として繁栄した城下町であり、宿場町でもありました。

 古代では「許我」と書いて「こが」と読み、何と今最も注目されている「万葉集」に二首も詠まれています。ご興味のある方はご自分で調べてみてください(笑)。

 奈良時代から渡良瀬川を利用した水運交通の中継地としても発展し、中世は第5代鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)が関東管領の上杉氏に追われて、ここ古河の地に邸を移して、「古河公方」となりました。(下総古河は鎌倉府の領地=飛び地だったという説が有力です)

 古河はその後、小田原北条氏の支配下になりますが、江戸時代になると、古河城は最重要拠点の一つとなり、将軍の日光参社の際の宿泊地となったり、藩は老中首座を輩出したりします。

 当然、明治になると、憎っき徳川方の最大の敵地となりますから、廃城となり、打ち壊されて跡形もなくなりますが、かろうじて城下町の雰囲気だけはかすかに残っています。


古河駅西口から北西10分ほどにある杉並通りにはこうして武家屋敷跡が並んでいます。今は個人の住宅になっているようでしたが、詳細は分かりません。この辺りは面影が残っているせいか、観光用ポスターにも使われるそうです。

この武家屋敷跡の近くにあるのが、正定寺です。江戸時代に代々古河藩主を務め、江戸詰めでは老中職も歴任した土井家の墓所です。

 看板にある通り、東京・本郷にあった古河藩主土井家の下屋敷の表門をこちらに移築してきました。

境内には、初代古河藩主土井利勝公の像がこうして祀ってありました。


ここは、江戸町通りにある歴史作家永井路子の旧宅です。


 永井路子の旧宅は、お茶と茶器を扱う豪商だったそうです。実は、彼女は永井家の実子ではなく、実父は歴史学者だった来島清徳。生まれる前から母方の永井家の養子になる約束だったというのです。

 旧宅は、現在、彼女のちょっとした文学館となっており、入場無料。私はよほど怪しい人間と見られたのか、タダで入場させてもらった上、お茶まで御馳走になってしまいました(笑)。永井路子は、司馬遼太郎、寺内大吉、黒岩重吾ら直木賞作家を輩出した「近代説話」の同人だったことは知ってましたが(本人も直木賞受賞)、小学館の編集者だったんですね。歴史学者の黒板伸夫と結婚し、出版社時代は黒板という本名で仕事をしていて、当時、一緒に仕事をしていた後輩さんが先日、この旧宅を訪れ、「黒板さんは、黒板さんは…」といった話をこの旧宅の留守を預かっている人に話していたそうです。

 永井さんは現在94歳になられたそうです。

この永井路子旧宅の近くに、幕末から明治にかけて活躍した「最後の浮世絵師」河鍋暁斎の生誕地の碑があり、吃驚しました。知りませんでした。

河鍋暁斎、あの緻密な筆致が好きですね。彼は天才です。確か、埼玉県蕨市に彼の美術館があったと思います。いつか行ってみようと思っていながらまだ行ってません(苦笑)

 たまたま、この近くの江戸前通り沿いにあった「お好み焼き屋」さんに入って、ランチ(蕎麦入り特製お好み焼き750円とノンアルビール380円)を取りましたが、そこの女将さんが大の話好きで、この江戸前通りは、かつては一番の繁華街で、左右両通りはぎっしり商店が並んでいたのに、今や、御覧の通り、少ししか残っておらず、寂しい限りです、と溜息をついておりました。

 しかも、ここ古河市は、茨城県の西端の外れの外れ。県庁の水戸に行くのに3時間もかかり、遠くて困るとまた溜息です。ここからなら、栃木県の宇都宮や埼玉県の浦和(の県庁の所在地)に行く方が全然近いというのです。

 実は、古河に水戸直通の水戸線が通る話が大正の終わりか、昭和の初めにあったそうですが、古河市民は断ったんだそうです。女将さんによると、古河の人間はよそ者嫌いだとか。お蔭で、水戸に行くまで、栃木県の小山まで行って乗り換えなければならないといいます。

この話好きの女将さんは私の目の前で、お好み焼きを焼いてくれて、70歳ぐらいに見えましたが、何と7人姉妹で、6番目だというから思わず笑ってしまいました。代々の商家で、商いはしょっちゅう替えているらしく、男の子が生まれるまで頑張った御尊父は、青果業を営み、古河市の青果市場をつくった偉い人だったとか。

日光街道沿いにあるお茶屋口跡。宿場町だった証ですね。

こちらは、かの有名な鷹見泉石の記念館、つまり旧宅です。入場無料には驚きました。

 渡辺崋山描く「鷹見泉石像」は、絵画の国宝第一号になった人でした。

渡辺崋山筆「鷹見泉石像」(国立博物館のHPより)

 以前、このブログで書きましたが、古河藩家老で、大坂城代詰めの頃に、大塩平八郎の乱が起き、その鎮圧の陣頭指揮を執った人でしたね。

 鷹見泉石は、隠居名で、家督後の名前は十郎左衛門。諱は忠常。本職は家老で、蘭学者とも言われますが、仕事が海外の最新情勢の情報収集と情報分析でしたから、蔵書の多さや、知り合った人間関係は、超弩級です。

それら鷹見泉石の膨大な資料を収蔵しているのが、旧宅の真向かいにある古河歴史博物館です。(入場料は、文学館などとの共通券で600円。ここは絶対に一見の価値があります。)

 鷹見泉石が知遇を得た人がずらりとパネルで紹介されていましたが、島津斉彬ら諸国の大名を始め、ジョン万次郎ら漂流から帰国した人、農学者の二宮尊徳、江戸琳派の酒井抱一、鈴木其一まで親睦を深めているのですから、まさに超人です。例のシーボルトとも交友していたようなので、鷹見泉石もよくぞシーボルト事件や蛮社の獄などに連座しなかったと思いました。

 渡辺崋山が捕縛されたのは、あの悪名高い鳥居耀蔵による讒言だったと言われています。渡辺崋山は、尾張田原藩という小藩の家老。一方の鷹見泉石は老中だった土井利位(としつら)の譜代大名の家老ということで、別格扱いだったのかもしれません。

きゃあ~、ヒトが写っている…

古河歴史博物館の入り口には、古河城の出城諏訪郭だったという記念碑がありました。

 実は、ウマズイめんくい村の赤羽村長さんからの情報で、古河歴史博物館の隣にある古河文学館の2階にレストランがあるということで、お腹が空いてきたので、そこでランチしようかと思ったら、残念、満席で断られてしまいました。

 仕方がないので、フラフラ彷徨った挙句、永井路子旧宅近くのお好み焼き屋さんを見つけて入り、先程書いた通り、そこで色んな地元の情報を得たので、怪我の功名(笑)だったかもしれません。

赤羽村長が指摘されたように、この文学館~歴史博物館~鷹見泉石旧宅辺りの石畳と城下町の雰囲気は最高ですね。とても落ち着いた静かな雰囲気で、何度でも来てみたいと思いました。

 文学館では、永井路子をはじめ、小林久三、佐江衆一ら古河市ゆかりの作家の作品などが展示されていました。

 鷹見泉石の曾孫に当たる鷹見久太郎が大正11年に創刊した童話雑誌「コドモノクニ」(野口雨情や北原白秋らが寄稿)のバックナンバーなども展示されてました。

さて、いよいよ、今回の「古河の旅」のもう一つの目的、古河公方様に会いにいくことでした。

 現在は、「古河公方公園」になっていますが、第5代鎌倉公方の足利成氏が康正元年(1455年)、鎌倉からここ古河の地に移り、舘を構えたところです。

ここには2年間ほど住んだ後、渡良瀬川流域の古河城に移ったとあります。

永井路子旧宅からここまで歩いて30分くらいかかりましたかね。でも、この上の碑を見つけた時は感激しました。

それ以上に感動したのは、古河公方公園から少し離れた川沿いに、この「古河城本丸跡」の碑を探し当てた時です。

道路には道案内の看板がなく、探索するには、古河駅の観光案内所でもらった地図だけが頼りでした。

 今や、渡良瀬川の堤防になってしまいましたが、ここに、あの古河城の本丸があったのかと思うと、打ち震える思いでシャッターを切りました。城好きの私にとって、この日のハイライトでした。

 持参したスマホの万歩計によると、この日は、2万2000歩、15.5キロ歩きました。

「これが特殊詐欺師からのはがきだ!」

 昨日も書きましたが、今、このブログはツイッターやフェイスブックといったSNSとはつながっていません。おかげで1日のアクセス数が50人ぐらい減っております(笑)。復旧まで2週間ぐらい掛かることでしょう。

 同様に「広告宣伝」ともつながっていません。ということは、何を書いても貴重な時間を無駄にしているだけ、みたいなもんで、聊か、書く気力も萎えてしまいました(笑)。

 ところが、今週発売の週刊誌(宣伝になるので誌名は省略=笑)に、新井紀子・国立情報学研究所社会共有知研究センター長が「SNSというのはタダ働きなんですよ」と、見事に的確な表現をしてくれてました。彼女は、「小中高生が算数や数学の問題を解けないのは、計算ができないのではなく、問題の内容が理解できていない。つまり、文章読解能力、国語の問題なのだ」と喝破した人でしたね。

 新井氏は、SNSは、感情を搾取される「感情資本主義」とまで仰っておりました。フェイスブックの「いいね!」が欲しいばかりに、せっせと個人情報を貢いで、広告宣伝に利用され、アマゾンの商品評価を書いて、自己満足を満たしたと思ったら、ちゃっかり、利用どころか、搾取されていたというわけです。

 搾取する代表的なものは勿論、今問題になっているGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)と言われているプラットフォーマーです。ブログも、Yahoo やgooや FC2などで、簡単に無料で利用できると思ったら大間違い。ちゃっかり、ブログの内容は宣伝や広告として利用されているだけで、実は搾取されていたのでした。的確に言えば、プラットフォーマーは自分たちで生産せず、「他人のふんどしで相撲を取っている」ようなものなのです。

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 そういう真相を知ってしまったので、今日は書く気がしなかったのですが、皆さん御存知、関東地方にお住まいの宮さんから「これが特殊詐欺師からのはがきだ!」との 凄いニュースが飛び込んで来ました。一昨日の4月24日に書いた「ついに特殊詐欺師からの電話」をお読みになって連絡をくださったのでしょう。(宮さんは、普段は、SNSのプラットフォームでこのブログを御覧になっていたのに、わざわざホームページに直接アクセスして頂き、有難い限りです)

 宮さんの場合、電話ではなく葉書による詐欺師でした。「今週火曜日、我が家にまた特殊詐欺師からのはがきが郵送されてきました。これで2回目です。前回とほとんど同文ですが、締切期日が絶妙なタイミングになっています。
…先方の電話番号が 03 ですが、もしかしたらタイのアジトにでも繋がってしまうのかもしれません。はがきの画像を添付しておきます。皆さん、どうぞ気をつけて下さい」とのことでした。

 ということで、その葉書の文面を公開することに致しました。皆さん、このような葉書が来ても、絶対に騙されてはいけませんよ。

孫正義氏がビットコインで145億円も損失とは…

 昨日から、いや一昨日からかなあ、このブログと、ツイッター・フェイスブックのSNSとの同期が切れてしまいました。ツイッターやフェイスブックでこのブログを御覧になっている皆様にはご迷惑をお掛けしますが、諸般の事情で連休明けにも復旧するかもしれません。私自身、もともとSNS好きではないので、一方通行の送り放しだけで、ほとんど利用していなかったのですが、同期が切れている間は、ますます利用しないことでしょう(笑)。

ドン・キホーテ像(マドリード)

 さて、最近のニュースで一番驚いたのは、孫正義さん(61)が、仮想通貨ビットコインの取引で約145億円損失していたという「事件」です。孫氏は、個人的にビットコインを2017年後半に購入し、2018年前半に急落した後に売却したとされていますが、この事実を報じたのが、日本のメディアではなくて、米ウォール・ストリート・ジャーナル(4月23日付)ですからね。

 145億円の損失なんて気が遠くなる数字で、普通の人なら自殺したくなることでしょうが、ある経済評論家は「蚊に刺された程度ではないでしょうか」と言うのです。

 そこで調べてみると、フォーブス・ジャパン 「日本長者番付2019」によると、 孫氏の総資産は2兆6670億円(第2位)もあるというのです。となると、損失額145億円はその0.54%に当たります。年収1000万円あるエリートサラリーマンだったら、5万4000円の損失。まあ、痛いことは確かですが、 注射針でチクっと刺された程度の損失かもしれません。

 それにしても、孫氏が会長兼社長を務めるソフトバンク・グループには16兆円近い有利子負債があると聞きますし、孫氏の金銭感覚は、とても庶民にはついていけません。いや、最初から、全くお呼びじゃありませんね。

ついに特殊詐欺師からの電話

 ついに、というか、とうとう、東京の片田舎に住む老母のところに、特殊詐欺師から電話が掛かってきました。

 母はもう齢、卒寿を超えていますから、誰を名乗った男か「覚えていない」ということでしたが、内容については、「医療保険の還付金が3万5000円も出たのにまだ取りに来ていません。キャッシュカードは持っていますか」といった丁寧な口調だったそうです。

 幸い金銭的なことは子どもたちに任せていて、本当にキャッシュカードが手元になかったので、「今はない」と答えたところ、「そんなことはないはず。それでは明日朝9時にもう一回電話します」と言って、電話が切れたそうです。

 そこで、子どもたちが、翌朝は、絶対電話に出ないように母親に伝え、それを聞いた母親は、電話が掛かってきても、約束を守って出なかったため、事なきを得ました。しかし、「リスト」に入っていたわけですから、また、手を変え品を変え、犯人たちは電話を掛けてくることでしょう。

 嫌な世の中ですね。でも、どうして詐欺師から母親に電話が掛かってきたのでしょうか?

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 昨晩は、高校の後輩のM君と久しぶりに湯島の純酒肴「吟」で飲んだので、彼にこの話をして、「何で母親の電話番号が分かったのだろうか」と聞いてみたところ、彼は、名簿が闇取引されて個人情報が漏れているのではないかと推測していました。

 中でも、かつての携帯電話ブームで、街中あちこちで「携帯ショップ」が乱立しましたが、次第に淘汰されて次々と潰れてしまいました。倒産する際、社員に給料を払わなければならない社長が、名簿を闇で転売する事案が多くあったというのです。そこには、生年月日、性別、住所氏名、電話番号など個人情報が網羅されてますから、詐欺師にとってはバイブルになるのでしょう。 

 ほかにも、商店街の買い物、カード、懸賞応募など、どこでどういった形で情報が漏れるのか分かったもんじゃありません。

 今の時代、覇権大国同士の「戦争」は、爆撃機やミサイルなどが飛ぶ「実弾戦」ではなく、サイバー攻撃や諜報活動などの「情報戦」になったような気がします。

 詐欺師の世界も「情報を制する者は世界を制する」といった、手段を選ばない阿漕な手口を使っているということでしょう。

 許せない。いつまでたっても特殊詐欺がなくならないのは、ウマミがあり過ぎるわりには、罪が軽すぎるからじゃないでしょうか。刑法では、懲役10年以下で、初犯の場合、執行猶予が付くということですからねえ。

 本当に許せない。