高野山奥の院と青龍山安養寺とトランプ大統領来日の真の目的

 早いもので、もう6月ですか。。。うーん、ネガティブなことを書くのはやめておきましょう。泣こうが、喚こうが、時間は経ち、人生は過ぎていきます。泰然自若の境地でいるしかありません。

 そこで、明るい気持ちになろうと、早くも夏休みの計画を立ててみました。一応、いまだに会社組織にしがみついている身なので、自由はききませんけど、休みが取れればということで、二つの大きな計画を立ててみました。本当は昨年のスペイン旅行に続いて、ポーンと、また海外旅行に行きたかったのですが、お代官様の目が厳しくて今年は無理そうです(苦笑)。

 ということで、国内に絞りました。一つは、7月に弘法大師空海の高野山に行くことです。一生に一度は行きたいと思っていたからです。NHKの「ブラタモリ」の影響もあるかもしれませんが、是非とも「奥の院」に行って、織田信長や明智光秀ら戦国武将のお墓(供養塔?)をお参りしたいと思います。

 もう一つは、京都です。皆様ご案内の通り、このブログのおかげで、作家村上春樹氏の従弟である村上純一御住職と不思議なご縁ができましたが、その村上住職が預かる左京区の青龍山安養寺にお詫び行脚に行こうかと思っているのです。村上おっさん(和尚様のことを京都ではそう呼びます。「お」にアクセント)は、とても怖そうなお方で、お会いするなり、「喝!」を入れられそうですが、お許しを戴ければ、8月の「送り火」辺りにお伺いしようかと思っています。ただ、8月はお盆ですから、1年で一番忙しい月ですからね。一番混む時期なので、また、京洛先生に御厄介をお掛けしてしまうと思います。

◇F35が1兆2000億円

今日書くことはこの辺にしておこうかと思いましたが、先日、国賓として来日したトランプ米大統領のことを書いておこうと思います。

 トランプさんは一体、日本に何しに来たのでしょうか?「新天皇陛下に面会することはスーパーボール観戦の100倍も凄いこと」と安倍首相に説き伏せられたから?それとも、ゴルフをして相撲を観戦して、優勝力士に米大統領杯を授与するために?

 ほとんどのマスコミはそんなお祭りムードめいた報道一色だったので、多くの日本国民もそう思い込んだことでしょう。

 でも、実際は、「ディール(取引)」に来たのでしょう。その辺りの事情をうまくまとめていたのが、5月28日付東京新聞の「こちら特報部」だけでした。見出しだけ見ても、血の気を引いてしまいそうです。「安倍爆買い外交の数々」「農産品関税削減 参院選後の譲歩を確約?」「米の顔色うかがい、国益にならず」…。これでは、ゴルフをしながら、トランプさんが「ちゃんと約束を果たしてくれるかどうか確かめに来たんだよ」と言えば、安倍首相も「おっしゃる通りです」「はい、その通りに致します」と、まるで植民地か属国のように、宗主国に対してペコペコしている感じに見えてしまいます。

 その取引の金額が半端じゃないのです。米国製最新鋭ステルス戦闘機F35、105機の追加費用が何と1兆2000億円。地上配備型迎撃システム「イージス・ショア」2基の取得関連費2404億円、維持運用費を含めて計4389億円。垂直離着陸輸送機オスプレイ1機100億円、17機導入で1700億円。これらは全て、国民の税金ですからね。でも、この桁違いの金額については、国民のほとんどは知らないでしょう。

 極め付きが、カジノを含む統合型リゾート施設(IR)。カジノ運営のノウハウは日本にはないので、米国の業者が中心に請け負い、その額はプライスレスだとか。つまり、天井知らずの日本人のお金が、米国に吸い取られることになります。

 東京新聞は「金で米国の歓心を買う安倍政権。『貢ぎ物』は軍事に限らない」と、大丈夫かなと思うくらい、露骨にあからさまに書いてますから、これでは、安倍政権に嫌われるはずです。菅官房長官が東京新聞女性記者の質問を受け付けない理由が分かりました。

深谷城~渋沢栄一記念館への旅

 先ごろ、鹿島茂著「渋沢栄一」全2巻の大作を読んだ影響で、渋沢栄一の生まれ故郷を見たくなり、一躍「1万円札採用」で再度ブームになっている埼玉県深谷市にまで足を延ばしに行って来ました。

 この日、JR東海道線で人身事故があり、高崎線にも影響があり、当初の予定よりも深谷駅に着くのが遅れました。午前11時過ぎでした。

 観光案内所で聞いたところ、「渋沢栄一記念館」へのバスは、10時55分に行ってしまったばかりで、次のバスは2時間後の12時50分だというのです。「えー、2時間に1本しか出ていないんですか?」と聞いたところ、「(運転手が)お昼休みなんで、すみません」と謝られてしまいました。

 「いえいえ、謝られてもあなたのせいではありませんから…」と、こちらが却って恐縮してしまいました。

 あと2時間もあるので、駅近くにある深谷城址に先に行くことにしました。

 その前に駅周辺を散策。深谷駅の駅舎は、このように東京駅舎のように立派なレンガ造りです。東京駅と同じ辰野金吾博士の設計なのでしょうか。いや、違いました。今は簡単に調べられます。JR東日本建築設計事務所が東京駅をモチーフにして設計し、1996年7月に完成された、とありました。

 渋沢栄一は、日本初のレンガ工場をつくった人ですから、レンガ造りは、それにちなんだことでしょう。

 上写真にバス2台止まってますが、後方の小さいマイクロバスが、渋沢栄一記念館にまで行く「くるりん」ちゃんです。12人乗りです。深谷駅から記念館まで約30分。途中のバス停留所は市役所やスーパーやコンビニなどで、まさに市民の足になってます。

一日乗車券が200円。一日何回でも乗れるそうですが、私は往復の2回で十分でした(笑)。

 深谷駅北口前にある渋沢栄一像です。銅像は他に市内に何箇所もあります。

 まさに郷土が生んだ偉人です。

 駅から歩いて約10数分。城跡らしき風格が見えてきました。

 深谷城址公園です。

 深谷城は中世の平城ですから、このような石垣と塀だったわけではありません。

 深谷城は、戦国時代の深谷上杉氏の居城でした。

 深谷上杉氏は、関東管領の山内上杉憲顕が14世紀後半に六男憲英をこの地に派遣したことに始まり、約230年間、深谷を拠点とした氏族です。当初、初代憲英から四代憲信までは国済寺に庁鼻和(こばなわ)城 を構えておりましたが、五代房憲が深谷城を築き、その後九代氏憲までここを居城としました。

 今はこうして公園になっていて、市民の憩いの場になってます。

 深谷城の本丸は、今は深谷小学校の敷地内にあります。

 物騒な世の中になってしまい、昔なら簡単に部外者でも小学校の敷地に入れましたが、今は門扉が閉まり、不可能です。

 諦めかけたら、敷地の垣根の隙間から、本丸跡の石碑が見えました。少し望遠にして写真に収めることができました。

 ちなみに深谷城は、中世の城ですから渋沢栄一の時代は既に廃城となっており、江戸時代は岡部藩です。でも、この岡部城も維新後、廃城となり、今は跡形もないようです。しかも、天守はなく、陣屋だったようなので、今回はパスしました。

 バス発車時刻までまだ時間があるので、駅近くの老舗蕎麦「立花」で、きのこせいろ(700円)を食しました。美味い。名物深谷ネギもしっかり入ってました。女将さんがとても感じがよく、「またいらしてくださいね」と言われ、その気になってしまいました。

「くるりん」ちゃんに乗って、駅から30分。ついに渋沢栄一記念館に到着しました。建物はかなり立派です。

 有難いことに入場無料でした。(館内は撮影禁止でした)

 展示品に関しては、正直、東京・王子飛鳥山にある「渋沢史料館」の方が豊富で、充実していた感じでした。

 でも、この中で、渋沢栄一自身が書いた「孝経」( 中国の経書の一つ。曽子の門人が孔子の言動を記す )の写しが見事な達筆で、「字は体を表わす」と言いますか、渋沢栄一の律儀な性格がものの見事に表れている感じでした。

 また、渋沢栄一が幕末に、徳川昭武の渡仏団の一員としてフランスに滞在した際、その世話係が銀行家のブリュリ・エラールで、渋沢は彼の「サン・シモン主義」に大変影響受けたことが例の鹿島氏の著書に何度も出てきましたが、本には顔写真がありませんでした。

 この記念館では、ブリュリ・エラールの肖像写真が展示されていて初めて拝見することができました。銀行員だというので、もう少しヤワな感じかと思っていたら、髭もじゃで、かなり精悍な顔つきでした。

 記念館から渋沢栄一生誕の地、旧渋沢邸「中の家(なかんち)」に向かいました。

 清水川沿いは青淵公園になっており、上の写真のように「渋沢栄一の言葉」が立てかけられています。

 着きました。本当は、青淵公園から回ると「裏口」に到着したのですが、表玄関にまで回ってきました。平成29年には天皇皇后両陛下(当時)がこの地を訪れ、邸内では写真パネルが飾られてました。

 農家とはとても思えない。武士のような立派な門構えです。

 門をくぐると、このように、渋沢栄一像が出迎えてくれます。

  敷地は1000坪と広大です。蔵が四つもありました。ここに来て、渋沢家は豪農だったことを肌身で感じました。

 「中の家」を正面から見たところです。明治に再建された家ですが、江戸時代はこの2階で養蚕と藍玉づくりが行われていたそうです。

 いずれにせよ、大変失礼ながら、こんな辺鄙な不便なところから、「日本の資本主義の父」となる偉人を輩出したとは信じられませんでした。

 また、失礼ながら、今でも買い物にも不自由なところです。若き渋沢栄一の学問の師であった従兄の尾高惇忠(後に官営富岡製糸場の初代工場長)の家までここから歩くと30分ぐらい掛かります。

 昔の人は本当に偉かった。

【お詫びと訂正】村上春樹氏御令従弟氏からの御指摘=渓流斎大失態

 昨晩、村上純一氏というどこかで聞いたことがあるような耳慣れぬ方から、このブログのお問い合わせメールが届きました。

 読んでみて吃驚仰天。作家村上春樹氏の従弟の方だったのです。村上春樹氏による月刊文藝春秋の今月号の「手記」で登場されていたので、お名前は頭の片隅に残っていたのですが、まさか、御本人から小生に直接メールが送られるとは想像だにできず、思わず、椅子から転げ落ちそうになりました。

 用件は、小生が今年5月10日に書いた「村上春樹が初めて語る自身の父親」という記事についての間違いの指摘でした。私は、村上春樹氏と純一氏の祖父に当たる村上弁識氏が預かっていた寺院である「安養寺」のことを、大いなる思い違いで、「慈円山安養寺」(京都市東山区)のこととばかり思い込んでそう書いてしまったところ、それは間違いで、京都市左京区にある「青龍山安養寺」のことです、と、現住職を務められておられる村上純一氏から御指摘があったのでした。

 全く面目もないお話で、「思い込み」は怖ろしいもので、てっきり、法然ゆかり吉水草庵の旧跡だったと言われる慈円山安養寺のことだと思い込んでおりました。寺内大吉著「念仏ひじり三国志」の舞台にもなった所で、この本を読んで大いに感動して頭に残っていたので勘違いしてしまいました。

 とはいえ、勿論、青龍山安養寺の方も名刹です。慈覚大師円仁(794~864)が延暦寺の別所に当たる天台宗の寺として開いたと言われる古刹だったのです。

 現在、かつては浄土宗の総本山のような形だった東山区の慈円山安養寺の方は時宗に、天台宗だった左京区の青龍山安養寺は、浄土宗西山派になっていますから、素人はその辺りの変遷や経緯についてはよく分かりません。

 ところで、村上純一氏は、私の間違いについて、糾弾されるどころか、「(両寺とも安養寺と)寺号が同じですし距離もそう離れていませんので、しばしばお間違えになってご来寺になる方もございます。春樹に心を寄せてくださる方々が折々来てくださいます。
 ということは、渓流斎様の文章をお読みになった方が東山区の安養寺様にいらっしゃることも考えられます。ご点検の上、可能ならば訂正をお願い申し上げたく存じます。」などと、勿体無いお言葉をお掛けしてくれました。身が細る思いで御座いまする。

先ほどの村上春樹氏の記事の中で、私は「(村上春樹氏は )ヨレヨレのジャケットを着て風采が上がらない感じでした。 」と書いてしまいました。当然、怒られるかと思いましたら、これについて村上純一氏は「 内容について、小生が申し上げることは無いのですが…」と優しい心遣いまでされてました。ますます、面目ないことです。

 いずれにせよ、村上純一 中僧正様をはじめ、関係者の皆様には大変な御迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。

 思えば、どういうわけか、この《渓流斎日乗》は意外と色んな方が目を通されておられるようで、私が書いた記事について、直接御本人様から御連絡のあったのは、 岩波茂雄の別荘「惜櫟荘」を私財を投じて購入された作家の佐伯泰英氏の関係者(その記事は消滅しました)、「日本のスパイ王 陸軍中野学校の創設者・秋草俊少将の真実」を書かれた作家の斎藤充功氏らがいらっしゃいます。

 

安倍首相のお気に入りがトランプ大統領と握手していたとは…

昨晩、名古屋にお住まいの篠田先生から電話が掛かってきました。

篠田「ああたね、何か昨日はスパイ研究会に出たらしいけど、今日は、本物の現代のスパイが登場しましたよ」

渓流斎「えっ!? どういうことですか?」

篠「国技館ですよ。トランプ米大統領と握手していたでしょ? 古い、過去のもう終わったスパイの研究もいいですけど、今現在のスパイにも目配りしなければ駄目ですよ」

渓「えっ!?誰なんですか、それ?」

篠「知らないんですか?今、ネット上では大騒ぎですよ。どうせ、明日の朝刊では、どこの大新聞もテレビも報じないでしょう。相撲の取組が終わって、トランプ米大統領が升席を取っ払った特別観覧席から引き上げる際、NHKのアナウンサーが『一般のお客さんと握手を交わしています』と絶叫したでしょ?よく見たら、一般客でも何でもない。台湾出身の政治運動家・金美齢氏と極右国粋評論家・櫻井よし子氏、週刊新潮出身のノンフィクション作家門田隆将氏じゃあ、あーりませんか。いずれも、安倍首相お気に入りの親衛隊。産経新聞、フジテレビ御用達です。

渓「えーーー!、本当ですか?」

篠「知らなかったんですか?駄目ですね。ブログはこういうことを書かなければ駄目ですよ。彼らは千秋楽という最も入手困難な高額キップをどうやって手に入れたんでしょう?ネット上では『どうせ、ご招待だろ』とか『何が、一般客だ。NHKもグルだな』などと喧々諤々ですよ」

渓「知らなかったですね。どうせ明日の朝刊大手紙はどこも取り上げないでしょうけど、こちら方面が得意の『日刊ゲンダイ』や『東京スポーツ』なんかは売れなくなるはずですね。『夕刊フジ』はフジサンケイ・グループだからエールを送って載せるかも…」

新聞配達をしていた中学生の時、160センチだったのが、今や3メートルに伸びてました

篠「夕刊紙どころか、週刊誌だって、年金や相続や病気の話ばかりの『老人メディア』で、若い人はもう見向きもしませんよ。それより、トランプ大統領と安倍首相らが夜に会食した六本木の居酒屋は何処か知ってますか?」

渓「さあ…知りませんねえ」

篠「駄目ですねえ。『田舎家 東店』ですよ。六本木交差点から飯倉片町方面に下って、左手にドンキホーテがありますから、その近くですよ。ニューヨークにも支店があり大人気で、今、飛ぶ鳥を落とす勢いで、ブイブイ言わせてますよ。まあ、予算は一献2万円ってとこでしょうか」

渓「それにしても、随分、詳しいんですねえ…」

篠「ジャーナリストのくせに、ああたの取材力が足りないだけですよ(笑)」

渓「そう言われましてもねえ…」

篠「じゃ、答えをお教えしませう。 官報に告示されていたからですよ。そこにはドローン飛行禁止区域が書かれていたんですよ。ゴルフをやった千葉・茂原カントリー倶楽部や相撲観戦の国技館はマスコミ発表で事前から大々的に取り上げられましたが、大統領夫妻が宿泊するのはパレスホテル東京、夕食を供にすると思われる六本木3丁目のアロービルまで告示されてましたよ。あとは、内調(内閣情報調査室)やCIAでなくても、パンピー(NHKの好きな一般人)だって、ちょこっと調べれば分かるわけですよ」

渓「なあるほど。分かり過ぎるほど、分かりました。ぐうの音も出ません」

警察予備隊一期生と日米貿易摩擦と津田左右吉

 昨日は、東京・早稲田大学で開催された第27回諜報研究会の講演会に参加してきました。例によって、今回も盛りだくさんの内容で、大変勉強になりましたが、ある理由で、その内容について詳細に触れることは避けることにします。

 私が近現代史について本格的に勉強し始めたのは、帯広から東京に戻った13年前の2006年からですが、最初のきっかけは、ゾルゲ事件を中心に研究している日露歴史研究センターの勉強会に参加してからでした。勉強会で聞いたり、同会が主催する講演会などについて、既に公開されたことであり、ネット検索すれば出てくる話なので、その都度、ブログに書いておりましたが、この勉強会に誘ってくれた方から、「君が勝手にブログに書くのは迷惑だ。怪文書だ。いくら削除したとしてもマダガスカル辺りのサーバーに保存されているから復活できる」と大胆に批判されたため、その勉強会を辞めざるを得なくなりました。

 彼の怨念が祟ったのか、私は病を得て、諸般の事情で、それらの記事は消滅してしまったので、彼の喜ぶ姿が目に浮かびます。でも、記事がマダガスカルのサーバーにあると主張するなら、そこから復活してもらいたいものです。いや、そんな些末なことはどうでもいいのです(苦笑)。

 ゾルゲ事件でした。ゾルゲや尾崎秀実らが逮捕され、その後処刑された理由は、「治安維持法」「国防保安法」「軍機保護法」などに違反したからでした。戦前の法律でしたが、昨日の諜報研究会の発表内容について、もし、私がこのブログで詳細に書けば、間違いなく、それらの法律に違反すると確信したのでした。書くと逮捕されるから怖い、というわけではなく、何となく利敵行為になるのではないかと嫌な気分になってしまったのです。

 話は飛びますが、今、霞が関官僚様らの人事異動や叙位叙勲などの人事情報を全国の新聞社などに配信する仕事をしております。霞が関官僚となると、当然、防衛省も入ります。その際、北部方面だの、東部方面だの全国の部署の所在地の住所を確認しなければなりません。今はネット社会ですから、それはネットでも検索できます。意外にも防衛省は、ネットでかなり情報公開していて、驚くべきことに、武器弾薬貯蔵所の在り処というか、その住所までご丁寧に公開しているのです。敵が見たら欣喜雀躍です。

 これらは、戦前だったら、間違いなく軍機保護法違反でしょう。戦前に、北大生だった宮沢弘幸さんとレーン夫妻が軍機保護法違反で逮捕されましたが、宮沢さんは、誰でも読める新聞に書いてあったことで、ほとんどの人が既成事実として熟知していたことを英語教師のレーン先生に雑談で話しただけのことでしたから、機密でも何でもないことです。それでも有罪となり収監されました。(宮沢さんは、拷問と収監がたたって戦後間もなく死去)

◇警察予備隊第一期生

 諜報研究会に戻ります。最初の講演者は、朝鮮戦争の最中に、日本の再軍備化のためにGHQの命令で創設された警察予備隊(後の自衛隊)の第一期生だった佐藤守男氏でした。今年87歳です。主に、第一線でソ連・ロシアの情報収集・翻訳・分析に従事していた方でしたが、最初に書いた通り、内容については触れません。ご興味のある方は、佐藤氏は、退官後、北大で博士号まで取得し、「情報戦争の教訓」(芙蓉書房出版)などを出版されているのでそれをお読みください。

 佐藤氏の講演中、その本が回覧されて来ました。私が、後方の次の人に回そうとしたら、その白髪の老人は、急に怒り出して、「他の奴に回せ」と言わんばかりに、傲慢にも人さし指で他の人を指すので、仕方なく、右後方の人に回しましたが、その間、どういうわけか、暴走老人はずっと私を睨みつけてくるのです。頭がおかしい裕福で暇な似非インテリかもしれませんが、その暴走老人は講演会が終わった後の懇親会にも出るようだったので、私は懇親会はパスすることにしました。いずれにせよ、もうこの会に出たくなくなるほど非常に不愉快でした。

 続く講演者は、元NEC技術部長の杉山尚志氏による「日米半導体摩擦と超LSI共同研究所物語」でした。日本は1980年代まで半導体分野で世界のトップでしたが、90年代に日米貿易摩擦となり、米国によるスーパー301条(関税25%)発令と外国製半導体輸入を20%にしろという米国からの要求に応え(結局35%)、それゆえ没落して今は見る影もなくなったことを明らかにしておりました。「日本は安全保障を米国に依存しているため、米国の命令を受け入れざるを得なかった。これに対して、今の米中貿易戦争は、中国が独自の安保体制を持っているから、一方的な摩擦ではなく、貿易戦争にまで発展した」という同氏の分析には納得しました。

 最後は早大准教授の塩野加織氏による「本文生成プロセスから見た占領期検閲ー岩波新書の検閲事例を中心に」でした。タイトルがあまりにも大学の紀要論文風で、一般人には分かりにくいですが(失礼)、一番面白かったでした。

 塩野氏は、GHQ占領下の1945年9月から49年10月までの検閲制度の対象、組織、方法、処分などを詳細に取り上げ、GHQのG2(参謀第2部)傘下の情報を収集分析して直接検閲を担当するCIS(民間諜報局)だけでなく、日本人に民主主義を浸透させる目的で宣撫、洗脳するCIE(民間情報教育局)などとも連携していたことを明らかにしておりました。なるほどなあ、と思いました。

◇津田左右吉は転向したのか?

 また、岩波新書の津田左右吉著「支那思想と日本」(1938年初版)が1948年2月に再版された際、著者の津田博士は、GHQが指摘した検閲箇所以外にも、自ら率先して数カ所、削除したり書き換えたりしている過程を明らかにしておりました。論旨が180度転換しているのです。転向といっても言いかもしれません。

 1938年といえば、その前年に支那事変(日中戦争)が勃発したという時局で、「暴支膺懲」のスローガンが大日本帝国臣民に行き渡っておりました。その時代を知らない戦後世代が批判するのも烏滸がましいですが、「支那思想と日本」の初版は、あまりにも日本の思想の優位性を強調して、日本こそが東洋思想の代表で、中国が劣ることを訴える表現には驚きました。 津田左右吉は、古事記・日本書紀などが専門の大学者で、戦前は記紀を批判的に解釈したため、蓑田胸喜ら極右思想家に弾劾された経歴があるので、もっと違うイメージを持っていました。何しろ、津田博士は戦後、文化勲章まで受章していますからね。

それが、1948年の再版では、GHQによる検閲と脅迫めいた言動による影響なのか、すっかり中国批判が消えるように書き換えていたのです。

 占領期の検閲については、もっと勉強したいと思いました。

運転免許を自主返納すれば特典があるとは!

 最近、高齢者による交通事故が後を絶ちません。特に、4月に東京・池袋で起きた、87歳の元高級官僚 (瑞宝重光章)による事故では、3歳の幼い女の子と母親が死亡するなど12人の死傷者を出す大惨事となり、今でも高齢者による運転の是非が問われています。

 私自身は、5年前に、信号のない交差点で、こちらは優先道路を直進しているのに、右から一時停止を無視した暴走車に追突されそうになり、ひやっとし、「こちらが道交法を順守していても、いつ何時、事故に遭うか分からない」と会得しました。たまたま、それからしばらくして、病気をして車が乗れなくなり、私的なゴタゴタもあって車を売ってしまったので、今はペーパー・ドライバーです。

 そして、交通事故のニュースを聞くたびに、勝手ながら「加害者にだけはなりたくない」と思ってしまいます。

 そんな折、運転免許を自主返納すれば、特典まで受けられる話を初めて聞きました。今、運転免許証は、区役所や銀行やレンタルビデオ店などで「身分証明書」代わりになっているので必需品です。ですから、自動車を運転しなくても、更新するつもりでしたが、自主返納すれば、代わりに「運転経歴証明書」を発行してくれて、それが身分証明書になり、しかも、特典まであると聞けば、私のような貧民は耳がダンボ (陳腐な表現!) になってしまうわけです。

3点盛り

 「特典」は、それぞれ全国の都道府県で違うようですが、例えば、映画「翔んで埼玉!」で今、全国的に最も注目されている埼玉県では、「シルバー・サポーター制度」といって、実にさまざまな特典があることが分かりました。市バスやタクシーの割引、大型店舗での駐輪代無料、それに、お茶の10%引き、和菓子の5%割引、食事をすれば、アイスクリームやドリンクの無料などいう店舗もあります。ヘアーサロンの10%オフなんてのもありますね。切る髪が少ないんですからそれでいいでしょう(笑)。

 しかし、何と言っても極め付けは、お葬式の優待価格です。「運転経歴証明書」がある、と言えば、割り引いてくれるというのです。

 これは凄い!邪魔臭かったお爺ちゃんも、死んでから褒められます。「お爺ちゃんはね、運転免許を自主返納してくれたおかげで、事故を起こさず、おまけに、お葬式も安くあげられたのよ」と、子々孫々、末代までも語られることでしょう。

近代資本主義の勃興を知る=鹿島茂著「渋沢栄一Ⅰ 算盤篇」

 まさに、ど真ん中の直球。見事ツボに嵌った本を今読んでいます。この本は、長年疑問に思っていたことを解明してくれ、知的好奇心を十二分に満足させてくれます。

 鹿島茂著「渋沢栄一Ⅰ 算盤篇」(文藝春秋・2011年1月30日初版)です。もう8年以上前に出た本です。前から読もう、読もうと思っていながら機会を逃していました。確か、2010年の10月に東京・飛鳥山の渋沢栄一記念館を初めて訪れて、500社近い企業をつくった渋沢栄一が、森羅万象、至る所に顔を出して、ここにも渋沢、あそこにも渋沢といった感じで夢にまで出てくるので、頭の中が「渋沢栄一漬け」になり、嫌になってしまったことを思い出します(笑)。

 渋沢栄一が今度、「1万円札の顔」になることから、この機会にやっと読んでみようかという気になったのです。

 鹿島氏といえば、博覧強記、天下無敵の仏文学者です。私も一度、講演会で目の前でお見かけしましたが、比類のない知識と教養の塊で、脳みそが詰まった頭がどでかくて、講演中は、照れも、衒いも全くなく、ひたすら自信に満ち満ち溢れ、言いよどみも、ど忘れもなく、これ以上聡明で賢い学者は見たことがないといった感じでした。

 最初は、仏文学者が何で、畑違いの、中国の「論語」に傾倒した、しかも財界人の渋沢栄一の評伝を書くのか不思議でした。でも渋沢とフランスとのあまりにも濃密な関係を本書で知り、もし、渋沢が1867年のパリ万博の日本代表団(徳川慶喜の実弟徳川昭武代表)の一員に加わらなければ、「日本の資本主義の父」は生まれなかったったことは確実だったことが分かりました。

 面白い、実に面白い。

 若い頃の渋沢らは、幕末動乱の中、水戸学の尊王攘夷思想に染まり、高崎城を襲撃して武器を奪い、横浜の外国人居留地を襲う計画を立てますが、寸前になって中止します。その後、渋沢は、一橋慶喜に仕官するに当たり、水戸藩に立ち寄っています。

 えっ?水戸?! 先日、水戸城跡に行って、この足で歩き、この目で見てきたばかりじゃありませんか。

 渋沢は若き頃の学問の師で、従兄弟に当たる尾高惇忠の影響を受けますが、尾高は、水戸学の藤田東湖や会沢正志に多大な影響を受けていました。後年、渋沢はこの水戸学にかぶれたことについて、「若気の至りだった」と反省しますが、それだけに、鹿島氏にかかると、この水戸学がコテンパンなのです。彼はこう書きます。

 水戸学は、学と呼べるような体系性も論理的整合性もそなえていない、ある種の過激な気質の純粋結晶のようなものにすぎないのだ。すなわち、その根源にあるのは「武士は食わねど高楊枝」というあの武士の痩せ我慢の思想をひたすら純化して、本来マイナスの価値でしかない「貧乏」に倫理的なプラスの価値を与え、劣等感を優越感に変えて、自分よりも少しでも恵まれた他者を攻撃するという一種の奇矯な「清貧の思想」である。

 わー、ここまで書かれると、水戸の人は怒るかもしれませんね。しかし、水戸藩では尊王攘夷思想が過激になり、仏教や寺も夷狄の宗教として排斥したといいます。

 とにかく、渋沢は国際情勢を実地で見て、過激な攘夷思想から脱却して、開明派に転向します。その最大のきっかけは、フランスで、サン=シモン思想にどっぷり漬かったことでした。

 サン=シモンといっても、私の浅薄な知識では、空想的社会主義者で、現実には通用しない絵空事を展開しただけという程度でしたが、これが全くの正反対でした。「空想的社会主義」と命名して批判したのはマルクス、エンゲルスらであって、実際には、サン=シモン思想に影響を受けた弟子たちによって、特に1851年からのナポレオン3世による第2帝政時代には、フランスを近代資本主義社会に発展させる礎がつくられたのでした。

 サン=シモン主義の骨子の第1が、「すべての社会は産業に基礎をおく。産業はあらゆる富の源泉である」だったからです。これにより、「株式会社」「銀行」「鉄道」が「三種の神器」となり、産業革命を成し遂げた英国に大きく遅れをとっていたフランスも、発展していきます。ペレール兄弟によるクレディ・モビリエ銀行の設立と鉄道網の拡張などがその例です。民間に退蔵していた貨幣を吸い上げて、血液のように循環・流通させて産業を興し、冨を獲得していったのです。そのために一番重要だったことは、「信用=クレディ」だったのです。ナポレオン3世自身もサン=シモン主義者で、セーヌ県のオスマン知事に命じて、上下水道を完備するなどパリ市街の大改造に着手します。

 渋沢栄一は1867年、そんな近代資本主義の勃興期のフランスを訪れて、株式会社や銀行などのシステムを目の当たりにして、ゼロから学び、知識を吸収することができたのです。

 同書にはそれらの仕組みが丁寧に説明されていますので、評伝というより経済書として読めなくもないのです。私のように資本主義の初期や初歩を知りたかった書生にとっては、この本は打ってつけだったわけです。

 

 

果たして「舞い戻った転校生」さんは「空飛ぶ転校生」さんなのか?

 ほぼ毎日、《渓流斎日乗》なるものを書き続けておりますが、今日はどうも食指が動くような題材がないので、つまらない内輪話を打ち明けます。

 皆様お気づきがどうか分かりませんが、先月4月24日から、このブログのサイトがおかしくなってしまいました。

 まず、このブログと、ツイッター、フェイスブックのSNSとの同期ができなくなってしまいました。以前は、ブログをアップすれば、自動的にツイッターとフェイスブックに同時にアップできたのに、それができなくなりました。このため、しばらく、記事を書いても、SNSのプラットフォームだけで御覧になっている方には届かなかったわけです。

 それが、5月のゴールデンウィーク後半で、偶然、手動でSNSに送信すればSNSに反映できることが分かり、今は、手動でSNSにアップすることにしております。

 でも、その弊害で、ツイッターには、ダブリで配信されたり、順番が変になったりして、熱心な読者の方から「どうなってるんですか?」との問い合わせを受けました。すみません。これは因果関係が分からないので、解決できませんでした。

 フェイスブックも変になっているかもしれませんが、以前と同じように、有難いことに、「いいね」やコメントまで頂いております。

湯島・酒肴「吟」にて

 もう一つ、このブログから広告が消えてしまったことです。これも紆余曲折、さんざんの苦労の末、本日、やっと復活できました。これもIT専門家の松長氏のお蔭です。有難う御座いました。

 2017年9月に、Gooブログから独立して自分のサイトを設置して以来、これでも「プロ精神」として毎日のように淡々と執筆してきましたので、皆様にはまた広告のクリックを御願い申し上げる次第です(笑)。(スマホでは広告が付かないようなので、是非、パソコンかタブレットで)

◇「舞い戻った転校生」さんとは?

 さて、本日未明、「舞い戻った転校生」さんという方から、今年5月11日付の記事「『記者たち 衝撃と畏怖の真実』は★★★★★」にコメントを頂きました。ここに転載しますが、以下の通りです。

 観てきました。最終日前日に駆けつけました。大感謝です。凄い映画でした。おまけに、9:52頃シャンテビル真ん前で、高校同期の映画監督に遭遇!お互いあれ~っと叫びました。時々とんでもない所で会うのです。3年前は京都駅ホームでした。閑話休題、

 私はこのコメントを読み、大変感動しました。このブログも、皆様に少しはお役に立てたかな、と思ったからです。

 でも、「閑話休題、」と何か途中で切れているのも気になりました。そしたら、急に、この「舞い戻った転校生」さんは、かつてのGooブログで展開していた頃に、よくコメントをお寄せくださった「空飛ぶ転校生」さんではないだろうか、と思ったのです。

 このブログの「《渓流斎日乗》について」に書きました通り、諸般の事情で、2008年8月から2015年10月までの7年間の記事は、コメントと一緒に消滅してしまいましたが、「空飛ぶ転校生」さんは、ちょうどその頃によくコメントして下さった方でした。 よく覚えています。直接お会いしたこともなく、ハンドルネームしか存じ上げておりませんが、もし、「舞い戻った転校生」さんが、「空飛ぶ転校生」さんだとしたら、こんな嬉しいことはありません。

デジタル・ネイティブ世代の申し子、デビッド・ホッグ君

 昨日15日夕方、ちょうど会社からの帰宅時に、JR東海道線品川駅付近での「人身事故」に遭遇し、私の利用する路線も巻き込まれて、長らく待たされ、猛烈な混雑な上に、帰るのに1時間以上余分に掛かってしまいました。

  私は迷惑を受けた15万人のうちの1人でしたが、 今朝の朝刊を見たら、記事にしていたのは毎日新聞と東京新聞ぐらいで、他紙は無視。もうニュースにもならないんでしょうね。15万人ぐらい…て、とこでしょうか。

 さて、今朝、ラジオを聴いていたら、月尾嘉男東大名誉教授が、米国のZ世代(1990年代後半~2000年頃生まれ)について興味深い話をしておられました。この世代は、現在10代から20代半ばの若い世代ですが、生まれたときからパソコンやスマホに囲まれて育った「デジタル・ネイティブ」世代だということが特徴的です。

 月尾先生は、この世代を代表する一人としてデビッド・ホッグ君という19歳の青年を取り上げていました。今や、全米で知らない人はいないそうです。

 彼は、昨年2月に米フロリダ州の高校で、17人の犠牲者を出した乱射事件の生存者の1人で、事件後、メディアや集会などに出ては、銃規制に反対する「全米ライフル協会」や、その団体から献金を受けている政治家を実名で批判し、銃規制の必要性を訴えて来ました。

  その彼が昨年3月に、自分のSNSでカリフォルニア大学受験に不合格になったことを明らかにすると、彼の言動を心良く思っていないFOXテレビのトーク番組の女性司会者が「不合格にされ、めそめそと愚痴をこぼしている」とツイッターで発信します。これに対して、ホッグ君は、その番組のスポンサー企業名をSNSで公開して、このような番組のCMをやめるよう求めると、大反響を呼び、ペットフードのニュートリッシュ、旅行サイトのトリップアドバイザーなどが降板して、女性司会者が謝罪と1週間の休養に追い込まれたというのです。

 まさに、ホッグ君は、デジタル・ネイティブ世代の申し子で、SNSという武器を十二分に駆使したわけです。彼はその後、ハーバード大学に合格して政治学を専攻し、将来は政治家になるのが夢だといいます。 米国人のほとんどは、この話は知っていることでしょうが、日本人の私は知りませんでした。

 と、ここまで、ラジオを聴きながらメモも取らなかったのに書けたのはネットのおかげでした(苦笑)。私自身は、米国の世代分類では、X世代、Y世代の前のベビーブーム世代になりますけど、十分にネットの恩恵を受けているわけです。

鰻屋「川松」

 また、別の日にラジオで聴いた話ですが、あるキャスターが、ある取材先に電話で問い合わせたところ、先方は「ちょっとお待ちください」と言うので、待っていると、電話の向こうで「パチパチ」「カチカチ」というキーボードを叩く音がして、どうやら、パソコンで検索しているらしいことが分かってしまったのです。そして、キャスターは嘆きます。「そんなことなら、最初から自分で検索した方が早い。何のための電話取材なのか分からない」

 取材される側までもがネット検索ですか…。まあ、そういう時代になってしまった、ということなんでしょうかね。

丸山議員の「戦争しないと、どうしようもなくないですか」発言はいかがなものか

 大阪選出の丸山穂高衆院議員が北方四島の返還に関連して、「戦争しないと、どうしようもなくないですか」などと発言した問題。大騒動になり、彼の所属する日本維新の会が「除名処分」にするまで発展しました。 

 丸山氏は議員を辞職せず、このまま無所属として活動するようですが、国会議員としての自覚が足りないというか、勉強不足ですね。

 外見は若いイケメンで、チャラ男風という感じですが、東京の最高学府の経済学部を卒業して経産省に入省していた経歴には驚きました。外見とのミスマッチに驚いたというのではなく、「その程度なのか?」という驚きです。

 丸山議員は35歳ということで、学業途中で学徒出陣した世代の孫世代に当たります。私たちのように、二代目の子の世代なら、親から散々悲惨な戦争体験の話を聞くことはできましたが、もう三代目となると無理なんですね。哀しい哉、やはり、人間は痛い目に遭わなければ分からないんですね。

 ここ1週間、たまたま、和田春樹著「朝鮮戦争全史」(岩波書店、2002年3月11日初版)を、老骨に鞭を打って読んでいます。重い(笑)。本文だけで492ページの大作です。やはり、朝鮮戦争を知らなければ、現代史を語れないからです。これを読むと、自分の不勉強を恥じますね。私の場合、近現代史の勉強は、満洲問題から東京裁判あたりで終わってしまってましたが、この本を読むと、人間が生きている限り歴史は続いていたことが分かります。当たり前ですが。

 特に、満洲=中国東北部は、大日本帝国なき後、「真空地帯」になったのか、中国共産党と国民党との間の内戦で、最も激戦が続いた戦場になり、北朝鮮の金日成主席は、満洲派と呼ばれ、戦中は満洲でのパルチザンとして活動していたと言われます。

 1950年6月25日(日)午前4時40分に、朝鮮戦争が勃発します。しかし、戦争は急に始まったわけではなく、1年前から、いや1948年に、ソ連による北朝鮮と米国による韓国という二つの分断国家が成立してから「統一国家」を目指して始まっていたようです。

 同書では、多くの往復書簡や暗号電報などが引用されていますが、北朝鮮の金日成らは、ソ連のスターリンと中国の毛沢東の「お墨付き」を得て、圧勝できる確信を持って開戦したようです。

 1953年7月 27日午前10時20分、板門店で停戦協定が調印されましたが、この戦争で、韓国人 約133万人(うち軍人は約24万人で、ほとんど民間人)、北朝鮮人約272万人(うち軍人約50万人、平壌は米軍による空爆で壊滅した)、中国人約100万人(中国の公式発表は2万9000人)、 米国人約5万4000人、ソ連299人が死亡したと著者は推定しております。朝鮮戦争は、事実上、米ソ戦(空域)と米中戦(地上)でした。日本人も哨戒船などで出動し、数十人が戦死したといわれています。(レーダーに捉えにくい木造船で、近海に詳しい日本人の船員らが犠牲)

 この朝鮮戦争期間中、日本人にとっても忘れてはならない大きな歴史的出来事がありました。1950年8月10日の警察予備隊(後の自衛隊)創設と、1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約締結(52年4月28日発効)です。

 詳細については、リンクを貼りましたので、お読みいただくことにして、このサンフランシスコ講和条約で、日本は、千島列島と南樺太への権利・権原・請求権をも放棄しました。千島列島には北方四島も含まれますね。

 あ、やっと最初に書いた丸山議員の発言につながりました(苦笑)。

 ドイツの哲学者カントや大作曲家ワーグナーらが住んでいた街として有名な歴史的都市ケーニヒスベルクは、第2次世界大戦で徹底的に破壊され、今ではカリーニングラードと改名され、ロシアの領土(飛び地)となっています。

 戦争とはそれほど非情で悲惨で、不条理だという事実を若い国会議員は想像すらできないのでしょうか。まさか、彼自ら、三八式歩兵銃を持って最前線に行くつもりで発言したわけではないでしょうから。