元祖アイドル明日待子さんの訃報に接して

 本日、戦前から戦後にかけて「元祖アイドル」と言われた女優明日待子(あした・まつこ、本名須貝とし子、1920~2019年)さんの訃報に接しました。享年99。

 何よりも、まだご健在だったことに驚き、叶わぬことでしょうが、もしその事実を知っていたなら、生前にお話を伺いたかったなあ、と思いました。

 私が彼女の名前を初めて聞いたのは、30年ほど前です。戦前から戦後にかけて新宿にあった大衆劇場「ムーランルージュ新宿座」(1931~51年)の看板女優だったという話を佐賀の一馬叔父(父親の弟)から聞いたことでした。最初聞いた時は、随分変わった分かりやすい芸名だなあ、ということぐらいで、それ以上はどんな女優だったのか知る由もありませんでした。

 当時、一馬叔父さんは自分の九州の高田家のルーツ探しに非常に熱心で、戸籍やら曾祖父が残した書き物などを元に系図を作ったりして、コピーも送ってくれました。その中で、叔父の叔父に当たる高田茂期(私から見て祖父の弟に当たる大叔父)が、昭和7~8年に、このムーランルージュで座付き脚本家として活動したことがあり、ペンネームとして「高悠司」という名前を使っていたという話を聞いたのです。

 しかし、当時は今ほどネットに情報が溢れていたわけではなく、知る由もなく、「高悠司」という人がいたかどうかも不明でした。当時、私は演劇担当の記者をしていたため、その折に知遇を得た演劇評論家の向井爽也氏(古い民家の絵を描く著名な向井潤吉画伯の長男で元TBSのディレクター)に、高悠司について伺ってみると「聞いたことないなあ」と一言。その代わり、ムーランルージュ関係の本を1冊紹介してもらいました。その本のタイトルは忘れましたが(笑)、勿論、高悠司の名前などありませんでした。

WT National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua  明日待子さんの写真が著作権の関係で使えないので、リンク先でご参照ください。

 それが、最近、ネットで検索したところ、高悠司の名前が2件ヒットしたのです。1件は、大恥を晒しますが、私が2006年5月28日の《渓流斎日乗》に書いた記事(笑)。もう1件は、1933年に東京朝日新聞社から発行された「レヴュウ號」映画と演芸・臨時増刊(54ページ、50銭・26x38センチ判)の索引の中に出てきたのです。名前だけですが、有馬是馬 、春日芳子といった俳優のほかに、関係者(座付き作家?)として伊馬鵜平(太宰治の親友としても有名)、斉藤豊吉らとともに高悠司の名前が並んでいたのです。

 嗚呼、今は亡き叔父の言っていたことは本当だったんだ!実在していたんだ!と感激しました。いつか、この雑誌を国会図書館が何処かで閲覧させてもらおうかと思いました。

 さて、ウイキペディアの「ムーランルージュ新宿座」によると、明日待子さんは、上に出てきた俳優の有馬是馬に発掘されて1933年に入団、とあります。昭和7(1932)~同8(1933)年頃に在籍した大叔父高悠司と接点があったかもしれません。明日待子さんが存命と知っていたら、その辺りを聞いてみたかったのです。(一馬叔父の記憶では、高悠司は当時、湘南地方で起きた事件を題材に脚本を書いたところヒットして、二カ月のロングランになったらしい。また、彼はヴァイオリンも演奏したらしいですが、真相は不明です)

 明日待子さんは、デビューすると瞬く間に人気アイドルとなり、カルピスや花王石鹸、ライオン歯磨きなどの宣伝ポスターに引っ張りだこ。原節子、李香蘭と並ぶ「元祖アイドル」と言われる所以です。

 ムーランルージュには、座付き作家として、吉行淳之介のご尊父吉行エイスケや龍胆寺雄ら、俳優歌手には、左卜全、益田喜頓、由利徹らも関わっていたんですね。戦後生まれの私は勿論知りませんが、ボードビル風の軽喜劇もやっていたことでしょう。

◇ルーツ探し

 大叔父高悠司こと高田茂期の消息については不明な部分が多いのですが、旧制佐賀県立唐津中学(現唐津東高校)を中退し、佐賀新聞社に勤務。その後、兄である私の祖父正喜(横浜で音楽教師をやっていた)を頼って上京し、職を転々とした挙句にムーランルージュで脚本家の職を得たようです。そして、何かのツテがあったのか、そのムーランルージュも辞めて満洲に渡り、奉天市(現瀋陽市)で阿片取締役官の職に就き、その後、徴兵され、昭和19年10月のフィリピン・レイテ島戦役(フィリピンで俘虜となり、レイテ島に収容された大岡昇平の「レイテ戦記」に詳しい)で戦死したと聞いています。享年33。

 長らく自分の「ルーツ探し」はサボって来ましたが、また復活したいと思っています。

「幕末下級武士の絵日記」の作者尾崎石城さんのお墓参りをしたくなりました

来月8月に京都に行くことになっています。

京洛先生のお導きですが、最近、寺社仏閣巡りにスイッチが入ってしまったので、京都は本当に楽しみです。歴史ある京都は、ほんの少し歩いただけで、名所旧跡、古刹名刹だらけですからね。

◇安養寺と安養寺

 今回は目的がありまして、村上純一氏が住職を務める京都市左京区にある「青龍山安養寺」(浄土宗)を訪問することです。村上氏は作家村上春樹氏の従兄弟に当たる方で、小生が今年5月のブログで、思い込みの勘違いで、同じ京都市の安養寺でも、 東山区にある「慈円山安養寺」吉水草庵(時宗)の方だとご紹介してしまい、村上氏ご本人から間違いを指摘されてしまった経緯がありました。繰り返しになるので、これ以上述べませんが、御住職にお会いして、仏教の宗派の違いや、現代仏教の問題点などをお伺いすることを楽しみにしています。

 お目にかかるのはちょうどお盆の頃でして、お盆は、新幹線指定席の予約が取りにくい話を聞いてしまいました。その前に、お盆シーズンは割引切符が効かないことも知らされました。京洛先生に相談すると、新橋の安売りチケット屋をウロチョロするなんて貧乏臭くて野暮ですねえ。(それ、ワイのことやないけ!)JR系旅行代理店で予約すると、ホテルと往復切符付きで格段に安く買えますよというので、そうしようかと思ったら、やはり、お盆シーズンだけは割高で、べらぼうに高いことも分かりました。

 そう言えば、私が京都を訪問するのはシーズンオフが多く、お盆に訪れるのは学生時代以来数十年ぶりだということに気がつきました。

◇JR社長に告ぐ

 慌てて、1カ月前に東京・有楽町駅のみどりの窓口に朝の9時過ぎに行ったところ、係りの人が「午前10時からしか販売できません」と言うのです。「えーー」です。仕事が始まってしまうのです。独占企業のJRさんよ、せめて、午前9時からの販売にするべきではないでしょうか! 仕方がないので、昼休みの13時ごろに行ったら、やっと指定券が買えました。ヤレヤレです。

 さて、この間から、 大岡敏昭著「新訂 幕末下級武士の絵日記 その暮らしの風景を読む」(水曜社 )を少しずつ読んでいますが、自分自身が幕末の下級武士になった感じです。タイムマシンがなくても、こういう本を読めば、いつでも過去の時代に暮らしている感覚になれます。

 絵日記の作者は、謹慎中の忍藩(現埼玉県行田市)の下級武士尾崎石城(隼之助)でしたね。先日のブログ(2019年7月19日)で、この本をご紹介した時に、「石城さんの生まれが天保12年となっているが、年齢が合わずおかしい」と書きましたが、後ろの彼の年譜を見たら、「文政12年生まれ」と書かれていました。文政12年なら1829年です。これなら平仄が合います。

 単純ミスなんでしょうが、このほか、93ページの「左端」は「右端」の間違い、97ページの「72図」は「74図」の明らかに間違い・・・と、ちょっと校正が杜撰な感じです。

◇大酒呑みの石城さんと和尚さん

 絵日記の作者尾崎石城は、毎晩のように寺や友人宅や料亭などで、僧侶や町人や女性も交えて酒盛りをして遊びます。田楽、紫蘇茄子、玉子焼き、茶碗蒸し、むきミにつけ、志ゝみ汁などその日何を食したかメニューも伝えてくれます。

 スマホどころか電話も、テレビも映画もない時代です。何を楽しみにしていたのかというと、いわゆる田舎芝居や、浄瑠璃、酒の勢いに任せた即興の歌舞、それに、仏様の誕生日である花祭りや金比羅祭りなどの祭祀、そして、植物を愛でたり、石城さんの場合は、襖絵や屏風絵などのために写生したりしているのです。下級武士だけでなく中級武士との交流もあり、石城さんは毎日、誰か5~6人と、驚くほど多くの人と会い、交流しているのです。

 聖職に就き、「斎戒沐浴」しているはずの大蔵寺の宣孝和尚も、龍源寺の猷道和尚も大酒呑みの女好きで、時には二日酔いで寝込んだり、大変魅力的な人物に描かれています。

◇半端じゃない読書量

 また、学問好きの石城さんの読書量は半端じゃなく、中国の古典として「左傳十五巻」「六経略記十巻」「史記評林二十五巻」「論語新注四巻」「書経集注六巻」「荘子林注十巻」など、我が国では、賀茂真淵「万葉考三巻」、新井白石「藩翰譜」、「源氏忍草十巻」「古今集」「和漢朗詠集」「俳諧七部集」、徳川家康「御遺訓」、平田篤胤「古道大意」…とキリがないほどです。

 これだけの学問を積んだ人ですから、この絵日記が書かれた6年後に明治維新となり、石城さんは一連の咎めが赦免され、藩校培根堂(ばいこんどう)の教頭に抜擢されます。しかし、明治4年(1871年)に廃藩置県となり、藩校も閉校され、その後、石城さんは宮城県に移り、租税事務の中位の役人になります。そして、明治9年(1876年)にその地で死去し、仙台元寺小路の「満願寺」に葬られたということです。享年47。

 もし、仙台に行く機会があれば、満願寺に行って尾崎石城さんのお墓参りをしたいと思いました。年金も社会保障も人権もない時代。石城さんは、貧しい子どもたちをしばしば食事の席に呼んだりします。心優しい石城さんにはそれぐらい入れ込んでしまいました。

岩槻大師~浄国寺~芳林寺=岩槻の英雄太田道灌

太田道灌公像

 最近、週末に時間があれば、関東近辺の「城巡り」を日帰りで蛮行していることは、このブログの熱心な愛読者の皆様には御案内の通りです。

 でも、先日、高野山に行ったおかげで、スイッチが入り、「寺社仏閣巡り」がそれに加わりました。お城と寺社は切っても切れない縁がありますから、まるっきり唐変木な話ではないのですが…(笑)。

岩槻大師

 そこで目指したのが、武蔵国岩付(現さいたま市岩槻区)にある「岩槻大師」です。大師が付きますから、当然、空海の真言宗の寺院です。ここの地下にある仏殿をお参りすると、四国八十八カ所お遍路参りと同じ功徳が得られるという噂を小耳にはさんだので、行かないわけにはいきません(笑)。

岩槻大師

 この寺の正式名称は「光岩山釈迦院岩槻大師弥勒蜜寺」。パンフレットには「くしくも真言宗の宗祖弘法大師空海さまご誕生の年、光仁天皇の宝亀5年(774年)の草創と伝えられる」と書かれています。

 あれっ?真言宗とは、唐に留学した空海が恵果和尚(けいか・かしょう)に灌頂された密教を806年に日本に帰国して伝えたのではなかったのでしょうか?真言宗が成立したのも、高野山を開祖した816年という説が有力です。

 ま、堅いことは抜きにして、例の四国八十八カ所お遍路参りと同じ功徳が得られるという「地下仏殿」にお参りしようとしたら、ちょうどその日に「得度式」なるものが本堂で行われていたため、お参りできませんでした。残念。

 そこで、前回書けなかった高野山のことを付記します。空海(774~835年)は60歳9カ月で入定しますから、高野山の壇上伽藍は、金堂や大塔などを建てただけで、未完成のままでした。そこで、壇上伽藍を完成させたのが、弟子の真然(804~891年)でした。真然は、空海の甥に当たり、空海の実弟である真雅(801~879年)から灌頂を受けました。

 東寺長者だった真雅は、清和天皇の信任が篤く、摂政藤原良房と結び貞観寺を創建し、死後、法光大師の諡号(しごう)を受けています。古代中世近世の政治史は、天皇、藤原家、武士だけでなく、仏法僧の世界が分からなければ理解できないことがこれで分かります。

  真然は、貞観18年(876年)、東寺長者真雅から「三十帖冊子」(空海が密教の典籍を書写した冊子)を借覧し、高野山に持ち帰ったので、これが後に、高野山と東寺との間に紛争が生じ、高野山が荒廃する原因となりました。

 真言宗を復興した中興の祖の一人と言われるのが平安中期から後期にかけて活躍した蓮待(れんたい=1013~1098年)で、全国を行脚した高野聖の先駆とみられ、「南無大師遍照金剛」という大師宝号を最初に唱えた僧侶だとも言われてます。

 ということは、真言宗の宝号である 「南無大師遍照金剛」は、空海が唱えたのではなく、空海入定後200年も経って生まれたことになります。

 ま、細かいことはこの辺にしておきます。。。

浄土宗 浄国寺

 次に訪れたのは、浄国寺です。

 実は、東武野田線岩槻駅の観光案内所で頂いた地図を手掛かりに岩槻大師を探したのですが、方向音痴の私は、道を間違えて、かなり時間をロスしてしまいました。

 が、岩槻大師から浄国寺への道順は迷わず行けました。境内はなかなか広かったです。

 何で、このお寺を訪れたかと言いますと、関東の寺社仏閣の来歴について、こと細かく書かれているネットサイトの「猫の足あと」に「関東の名刹寺院」として紹介されていたからです。

 浄国寺は「関東十八檀林」の一つのようですが、詳細は上の写真をお読み下さい。岩槻藩主を務めた阿倍家の墓もあります

曹洞宗 芳林寺

次に向かったのは芳林寺。岩槻駅の観光案内所で、「是非行かれるといいですよ」と勧められたのが、この芳林寺でした。

太田道灌ゆかりの寺だというのです。

太田道灌公像

 太田道灌は、この岩槻城だけでなく、河越(川越)城、江戸城を建てた戦国武将(扇谷上杉氏の家宰)で、特に江戸城を引き継いだ徳川家康らによって神格化されました。

太田道灌御霊廟

 太田道灌像は、東京の日暮里にもありますが、岩槻にもあるとは知りませんでした。

 岩槻市民も太田道灌への思慕が強かったですね。

 道灌の事績については、上の碑文によくまとめられています。

 今回は、ちゃんと「城巡り」と「寺社仏閣巡り」が一致しました。

謹慎中の武士が町人と僧侶と一緒にどんちゃん騒ぎ=かつての身分史観は間違っていた?

 (昨日からの続き)和歌山県 丹生都比売神社

 座禅に相当する 真言宗の瞑想は「阿字観」といいまして、梵字の「阿」の字に向かって、雑念を振り払って、心を空にして瞑想します。

 梵字は古代インドで誕生し、仏教とともにアジアに広まります。空海が日本に伝えたともいわれています。お墓の卒塔婆などでも使われていますが、現代は、インドや中国では廃れてしまい、主に日本だけしか使われていないというのです。これは知りませんでしたね。仏教自体が本家インドで、そして中国でも衰退してしまいましたから、梵字も同じ運命を辿ったのでしょう。

 「空海」(新潮社)を書いた高村薫さんによると、高野山は内紛で、空海入定後、わずか80年で無人になって荒廃してしまったというんですね。真言宗がその後、日本全土に普及するのは、難解な真言密教を通してではなく、空海を「弘法大師」としていわゆる偶像化して平易な現世利益を広めた多くの無名の「高野聖」の活躍があったといいます。

  空海に、弘法大師の諡号(しごう)がおくられたのは、天台宗の開祖最澄や円仁らと比べてもかなり遅く、実に死後87年目のことで、著者の高村さんは「意外なことに、空海の名声は比較的早い時期に一時下火になってしまったと考える」とまで書いていることを改めて追記しておきます。

 さて、今、大岡敏昭著「新訂 幕末下級武士の絵日記 その暮らしの風景を読む」(水曜社、2019年4月25日初版)を読んでいます。なかなか面白い。「江戸時代は士農工商のガチガチの身分制度だった」というこれまでの歴史観が引っくり返ります(笑)。

 絵日記の作者は、幕末の忍(おし)藩(今の埼玉県行田市)の下級武士だった尾崎石城(本名隼之助、他に襄山、華頂などの号も)。熊本県立大学の大岡名誉教授が分かりやすく解説してくれています。

 忍藩は江戸から北に15里(約60キロ)離れた人口約1万5000人の城下町です。忍城には、いつぞや私も栗原さんと一緒に行ったことがありますが、石田三成の水攻めにも屈しなかった堅城です。忍藩は、江戸時代になって、松平信綱や阿倍忠秋ら多くの老中を輩出したことから、「老中の藩」とも言われ、幕政の要になった親藩でもありました。

 尾崎石城は、天保12年(1841年)、庄内藩の江戸詰め武士だった浅井勝右衛門の子として生まれ、18歳の弘化3年(1846年)に忍藩の尾崎家の養子に入っています。庄内藩と忍藩とは縁もゆかりもなさそうですが、江戸時代はこういう「養子縁組」は当たり前のように行われていたんでしょうね。

 この石城さん、理由は詳らかではありませんが、度々、藩から咎めを受けて「蟄居」処分を受けます。最初は、23歳の嘉永4年(1851年)です。

 あれっ?大岡敏昭名誉教授の解説では、生まれた年が合いませんね。1846年の時点で18歳、1851年の時点で23歳が満年齢だとしたら、石城は1828年生まれ、つまり、 天保12年(1841年)ではなく、文政11年生まれでなければおかしいのですが。。。

 ま、堅いことは抜きにして、とにかく、石城さんは、何度も蟄居処分を受けますが、その度に自邸から抜け出して友人の家に行ったり、料亭「大利楼」などに行ったり、馴染みの和尚さんがいる寺院に行って酒を飲んだりしているのです。

 しかも、身分の差を越えて、武士と町人と僧侶が一緒になってどんちゃん騒ぎしているんですからね。その様子を、江戸の絵師福田永斎の門人として修行し絵ごころがある石城さんが、見事に挿絵として活写しているのです。本の表紙にもあるようにほのぼのとした雰囲気の絵です。

 絵日記は、二度目の咎めによる強制隠居の時の文久元年(1861年)6月から翌年4月まで書かれています。石城さんの生まれが文政11年(1828年)だとすると、33歳頃となります。蟄居ながら、独身という自由な身であることから、頻繁に寺院や友人宅を訪ねて、酒盛りする姿が描かれています。

◇大酒呑みの僧侶

 驚くほどのことではないでしょうが、ここに登場する僧侶は大酒呑みばかりで、料亭にも足繁く通ってます。大岡名誉教授の解説でも、「大蔵寺の宣孝和尚=酒好き、女好きで愉快な人物」「龍源寺の猷道和尚=この和尚も酒好き、女好き」と解説するほどです。(酒のことを「般若湯」、馬肉を「桜」、イノシシ肉を「牡丹」、シカ肉「紅葉」と誤魔化して、僧侶たちは、今で言うジビエ料理を楽しみ、しっかり肉食妻帯していたわけですから、「聖職者」とは程遠い感じです。人間的な、あまりにも人間的なです。)

 忍藩は、海のない藩なのに、蜆や鰯や鮪、鯔など石城さんはしっかり海産物を食べています。恐らく、お江戸日本橋の魚河岸から川による水上交通で運ばれて来たのでしょうね。

 石城さんの生活費はどう工面していたかと言いますと、妹邦子夫婦と同居し、邦子の夫である進は、石城の養子になり、石城さん蟄居中は、進が忍城に登城していました。また、石城は絵を描くので、掛け軸や行灯などの絵を頼まれ、近所の子どもたちには「手習い」を教えていたようです。呑み代が足りないと、帯を質に入れたりします。

 ◇武士の身分とは

 長くなるのでこの辺にして、この本の中に出てくる「武士の身分」についてだけは書いておきます。

【知行(土地)取り】家中(かちゅう)、侍、士分

・上級武士(300石~数千石)=家老、奉行、御勘定頭

・中級武士(50石~200石台)=番頭、寄合衆、御目付、御用人、御馬廻

【扶持取り】徒(かち)、給人(きゅうにん)、足軽、中間 / 小人、同心

・下級武士(二人扶持~二十人扶持)=元方改役、御鉄砲、御小姓、表坊主

※十人扶持の場合、1年に食べる10人分の米が支給される。一人一日五合として、年に一石八斗、10人分で十八石。また、切米(きりまい)という現米を年俸として支給されることもある。例えば、五石二人扶持とは、年に切米五石と、二人扶持(三石六斗)の計八石六斗の米が支給される。

 時は幕末。尾崎石城は、どうやら水戸の過激思想にかぶれて藩政批判したことから蟄居の身となったのではないか、と大岡名誉教授は推測しています。忍藩は幕政の要の親藩ですから、重罪です。尾崎家は当初、200石の御馬廻役でしたが、蟄居で知行を取り上げられ、石城は中級武士から下級武士に降格されたようです。それでも、絵日記には全くと言っていいくらい悲壮感がありません。

 それに、三度目の咎めの理由だけは分かっており、「謹慎中の隠居の身でありながら、勝手に出歩き、しかも町人町に家を借りたりして実にけしからん。寺への出入りも禁止する」というもの。大いに笑ってしまいました。

真言宗の最高儀式「後七日御修法」

高野山 大門

 先週、高野山に初めて参拝する機会に恵まれたため、真言密教に、より興味を持つようになりました。真言宗については、このブログでも何度か取り上げておりますが、自分が書いたものでもすぐ忘れてしまいます(苦笑)。

 真言宗には「豊山派」や「智山派」など色々な「派」がありますが、不勉強のせいか、その経緯については詳しく知りません。

 そこで、調べたところ、私が1年に1度は訪れている京都にある東寺(教王護国寺)は、真言宗の総本山だということは知っていましたが、有名な仁和寺も醍醐寺も真言宗だったんですね。恥ずかしながら、宗派は少しも気にせずにお参りしておりました。

 もう一つ、自分の恥を晒しますが、関東では、川崎大師や佐野厄除け大師は、初詣に多くの参拝者が訪れ、「大師」が付くので真言宗の寺院だということはよく知っておりましたが、成田山新勝寺も真言宗(智山派)だったとは、意識しておりませんでした。駄目ですねえ。

 少し話を脱線しますと、成田山新勝寺は、江戸時代以来、歌舞伎役者市川団十郎が篤く信仰し、屋号も「成田屋」にしていることは御存知の通りです。高野山の奥之院にも初代市川団十郎の墓所がありました。ところで、近く団十郎を襲名する市川海老蔵の若くして亡くなった奥さんの旧姓は小林麻央(まお)さんでした。海老蔵は真言宗の開祖空海の俗名が佐伯真魚(まお)ということを知ってましたから、初めて麻央さんと会った時に、ピンと来て、結婚に踏み切ったといいます。

高野山

 本題に戻します。真言宗の「派」でした。これは「真言宗十八本山」といって、真言宗には主要な派として16派18総本山あるというのです。主なものを挙げると、高野山の総本山・金剛峰寺が「高野山真言宗」、京都の東寺(教王護国寺)が「東寺真言宗」、京都の智積院が「智山派」、京都の仁和寺は「御室派」、 覚鑁(かくばん)上人が開山した和歌山県の根来寺が「新義真言宗」、奈良県の長谷寺が「豊山派」などです。皇室ゆかりの寺院として知られる泉涌寺は「泉涌寺派」、大覚寺は「大覚寺派」とそのままですね。

 最初に「自分が書いたものをすぐ忘れる」と書きましたが、京都にお住まいの京洛先生から「毎年1月に後七日御修法(ごしちにち みしほ)の記事と写真をお送りしておりましたが、覚えていないのですか?」との御下問がありました。

 えーと、何でしたっけ?その後七日御修法とかいうものは?

 駄目ですねえ。

  後七日御修法とは、毎年新年1月8日~14日までの7日間執り行われている真言宗の最高儀式で、全国の真言宗の16派18総本山の長老、高僧が一堂に会します。平安時代初めの承和元年(834年)、仁明天皇が空海の進言で宮中で始めた「国家安泰」を祈願したことが始まりと言われています。途中で断絶したこともありますが、1000年以上続いている儀式です。

 後七日御修法に毎年選ばれる高僧は15人で、その資格は70歳以上です。その中で、さらに大阿闍梨(導師)になれるのは、何回も、後七日御修法に選ばれて出仕した高僧だけです。しかも、御七日御修会が行われる灌頂院の堂内は寒いので、昔は、ここで亡くなった方も居られたといいます。

 ーということなどを、今年も昨年も一昨年もこのブログに書いていたんですね。すっかり忘れておりました(苦笑)。

【ご参考】2018年1月15日「京都・東寺の「後七日御修法」で取材敢行=京洛先生登場」、2019年1月15日「京都・東寺で御修法=真言宗最高の秘儀

 

高野山の修旅=如是我聞(下)ー三鈷杵

宿坊「天徳院」の朝食

「高野山の修旅」も3日目、今回が最終回です。

伽藍の東塔

 3日目最終日は7月13日(土)、再び壇上伽藍に行きました。初日のナイトツアー、2日目は個人的に夕方歩いて回りましたので、これで3日連続3回目です。

すっかり慣れました。自分の庭のように歩き回ることができました(笑)。

 静謐で厳かな雰囲気は何事にも代え難いものがあります。

伽藍の金堂

 上の写真の金堂は、もともと2階建てでしたが、大正天皇の法事の際に、ろうそくの不始末が原因で焼失してしまいました。

 昭和7年(1932年)に再建され、高村光雲作の薬師如来像が本尊として安置されました。

 内部の菩薩などの壁画は、木村武山の筆によるものです。

根本大塔

 高野山の象徴的存在となった根本大塔は、高さ48.5メートル。日本最高の成田山新勝寺の塔50メールに次ぎ、2番目の高さです。

 大塔内部は、初日の回(上)で書いた通り、金剛曼陀羅を具現化したもので、本尊は、手指を輪にする胎蔵大日如来です。一方、西塔は胎蔵曼陀羅を具現化したもので、本尊は、印を結ぶ金剛大日如来と逆でしたね。

 胎蔵大日如来は優しい母性を、金剛大日如来は厳しい父性を表すと言われています。

大塔内壁に描かれた真言八祖像や花鳥は、堂本印象画伯の筆によるものです。

伽藍 六角経蔵

 六角経蔵の基壇付近にある把手を持ちながら一回りすると、一切経転読の功徳があると言われています。

 もちろん、ツアー参加者全員が一周しました。

清浄心院の豊臣秀吉が御手ずから植えた傘桜

 壇上伽藍参拝の後、清浄心院に向かいました。ここの住職は円満院住職も兼ねているので、門には二つの寺院の名称が掲げられていました。

 この寺には、豊臣秀吉自ら植えた傘桜があり、この樹の周囲で酒宴が開かれたそうです。

豊臣秀吉筆

 この酒宴の後に、興に乗った秀吉が書いた詩文が上の写真です。

 この直筆が、本物か複製か分かりませんが、実に独特な筆致で芸術の域に達していることが分かります。天下を取るはずです。

 本尊は運慶作の仏像で、国宝級でしたが、寺では申請していないようです。申請して国宝と認定されると、温度と湿度の管理、それに盗難防止用のセキュリティもしなければならず、結局、経済的にできないと、博物館に召し上げられてしまう恐れがあるからだそうです。

 高野山の寺院巡りはこれで終わり。標高900メートルの山を下りました。

慈尊院

 山を下ってツアー最後のコースの寺院が慈尊院でした。何でこの寺に立ち寄るのか、最初分からなかったのですが、空海の母親が息子の安否を気遣って、讃岐から出てきて滞在した寺だというのです。

慈尊院の塔

高野山は女人禁制ですから入山できません。

慈尊院を創建した空海は、母親に会いに、片道9キロの道程を月に9回出掛けたので、この辺りを九度山と呼ばれるようになったといいます。

 また、高野山参りの道しるべとして、「町石(ちょういし)」と呼ばれる石造りの卒塔婆が、山麓から奥之院にかけての約24キロを、1町(約109メートル)ごとに置かれましたが、その山麓の基点がこの慈尊院だったのです。

 鎌倉時代に慈尊院から伽藍の大塔まで180基、大塔から奥之院まで36基の町石が造れたといいます。

 当時は神仏習合ですから、空海は慈尊院の隣といっても、急な階段を100段近く上らないければなりませんが、丹生官省神社も同時に創建しました。

 空海の庇護者として金塊を与えてくれた例の丹生氏を神さまとして祀った神社です。

丹生官省府神社

 空海は、6月15日生まれで、唐に留学した時の師、恵果和尚(けいか・かしょう)のそのまた師である印度の不空上人が6月15日に入滅したことから、恵果は、空海が不空師の生まれ変わりと認め、20年掛かる留学期間をわずか2年で許しました。

 しかし、空海は日本に帰国しても、20年の約束だったため、京の都に戻れず、数年間は九州に滞在することになります。

 この時、空海は、宗像大社近くに鎮国寺と福岡市博多区に東長寺を創建します。高野山より古いので、これらの寺は、今でも「日本で一番古い真言密教の寺」として任じています。

 ということで、今回の旅行会社が立案した高野山の寺社仏閣巡りはすべて重要な拠点ばかりで、大変素晴らしい内容でした。感謝申し上げます。

【高野山霊宝館のパンフレットより】弘法大師さまの右手に持っているのが三鈷杵。衆生救済のために、変な持ち方で、衆生に三鈷杵を向けて、邪気を打ち払っています。

 最後に、気になっていたのが、三鈷杵(さんこしょ)です。

 古代インドでは確かに武器として使われていましたが、仏具としては、邪気や悪や、己の弱き心まで打ち祓うために使うのだそうです。

 何だか、私も欲しくなってしまいました。

南無大師遍照金剛

高野山の修旅=如是我聞(中)ー「奥之院」には戦国武将がずらり

高野山のシンボル、壇上伽藍の根本大塔

 昨日書いたブログ「高野山の修旅=如是我聞(上)ー経済基盤」は、資料整理や何十枚も撮った写真の選別、執筆、校正等で8時間以上も掛かってしまいました。

 まさに、「一日仕事」でした(苦笑)。運良く今日は「海の日」の祝日なので、残りは、部屋に籠って仕上げてしまいましょう。

 ツアーに一人で参加した男女5人は、宿坊「天徳院」で、朝晩、同じ部屋で一緒に食事をすることになり、知らぬ同士がお皿叩いて、色んな話に花が咲きました。

 ツアーは決して安価ではなかったので、皆さん裕福な上流階級風で、国内も海外もかなり旅行されている感じでした。やはり、寺社仏閣に興味がある方が多く、中には「御朱印帳」を持って集めらている方もおられました。

 私はコレクションの趣味もないし、御朱印にも関心がないのですが、寺社仏閣どこでも一件に付き300円だそうです。しかし、浄土真宗系の寺院は、御朱印はないそうです。さすがに書かれる字は達筆な方が多いのですが、奈良の東大寺はあまりにも人が多いので、高校生のアルバイトでも使っているらしく、下手な字で、「俺にも書けそうな字でしたよ」と、参加者のお一人が言うので、私も思わず笑ってしまいました。

2日目の7月12日(金)、最初に訪れたのが北室院(きたむろいん)でした。

 ここは伊達政宗の菩提寺で、御位牌がありました。宿坊にもなっています。

 続いて訪れたのが、蓮華定院(れんげじょういん)。信州真田家の菩提寺です。

 3年前の2016年に放送された大河ドラマ「真田丸」をご覧になった方は覚えていらっしゃると思いますが、関ケ原の戦いで西軍について敗れた真田昌幸、幸村親子が高野山蟄居を命じられ、滞在した寺です。東軍についた幸村の兄信之の助命願いが通ったからでした。

高野山は寒いの蓮の花は育たないので、一度、麓で育ててから運んで来るそうです=蓮華定院

 案内をしてくれたのは、剃髪していない若い現代風の尼僧さんで、ドラマ「真田丸」が放送される半年ほど前に、主役の堺雅人と夫人の菅野美穂がお忍びでこの寺を訪れたことを話してくれました。

 当時、寺社仏閣に油をかける事件が多発してから、この寺も一般の入場者を禁止することにしたそうです。そんな折、マスクをしてサングラスをかけた怪しげなカップルが是非拝観したいと訪れます。尼僧は「これは危ない」と思い、後ろから監視するためについていき、薄暗い本堂に入って、二人がサングラスとマスクを外した時、初めて有名俳優だと分かったというのです。

 蓮華定院の住職は、当時、真言宗の宗務総長を務め、高野山のナンバーツーの地位にあり、大変忙しい人でしたが、たまたま、院内にいらしたのでお声掛けしたところ、3人で2時間近くも歓談したそうです。

 それから半年後、「真田丸」の配役が発表され、主役の真田幸村役に堺雅人がなることを初めて知り、尼僧さんは「あの時、住職に引き合わせて良かった」と安堵したそうです。

 我々にも、「特別に」ということで、阿弥陀如来が安置されている例の薄暗い本堂まで案内してくれました。

 蓮華定院の裏にある真田家の墓地です。御覧の通り、鳥居があります。前回も書きましたが、当時は、神社と寺院が融合した「神仏習合」が普通だったのです。

 実は、真田昌幸、幸村は、高野山蟄居14年間中、蓮華定院に滞在したのはわずか1年ほどで、ほとんど麓の九度山で家族、家臣と一緒に暮らしたそうです。

 それでも蓮華定院内には至るところに、真田家の紋章である「六文銭」と「雁金」がありました。

続いて訪れたのが、金剛峯寺です。前夜に続いて二度目ですが、中の本堂にまで入るのは初めてです。

 この日は、高野山の重要な行事である「内談義」が行われ、偉い方も登壇されました。

 上の写真は、最高位の管長さんで414世だとか。ガイドさんの説明では、成就院の住職だということですが、聞き間違えかもしれません(苦笑)

 上の写真が、高野山のナンバーツーに当たる法印さんで、弘法大師さまの名代として年に1回務めるそうです。

 取材が甘いので(笑)、お名前は割愛させて頂きます。

 前回書きましたように、金剛峯寺は、高野山の総本山ではありますが、寺務所であり、真言宗の宗務所を兼ねているわけです。

 金剛峯寺(僧侶の間では、「こんごうぶじ」ではなく「こんごうぶうじ」と発音するそうです)は、元々、青巌寺(せいがんじ)と称し、豊臣秀吉が文禄2年(1593年)に母堂の菩提寺として応其(おうご)上人に命じて建立したものでした。

 あの関白豊臣秀次が高野山に追放されて、秀吉の命によって自害したのが、この青巌寺の「柳の間」でした。

 明治2年(1869年)、隣接する興山寺と合併して、寺号を金剛峯寺と改めたわけです。

 中庭の「蟠龍庭(ばんりゅうてい)」は、国内最大の石庭だとか。

 本堂の広間では、このように僧侶による有難い講話を聞かせて頂きました。お茶と茶菓子付きです(笑)。

 真言密教の教義である「即身成仏」とは、生きているままで、仏になることですが、これは、優しい慈悲の心である仏性(ぶっしょう)に気づいて、それを大きくすることだと説かれていました。

 そして、僧侶は「毎日、感謝の気持ちを持ちましょう。日記の最後に感謝できることを付け加えるとお金が溜まります」と意外にも俗っぽいことまで話してました。

 とはいえ、毎日感謝の気持ちを忘れないと、我欲が減り、自制心が抑えられ、無駄遣いが減り、日常生活の中での文句も減る。一つ良いことを考えると世界全体が良くなる。因果応報です、などと力説されておられました。

 昼食休憩の後、いよいよ「奥之院」に向かいました。

 その前に、現地女性ガイドさんも結構ミーハーで(失礼!)、先日亡くなったジャニー喜多川さんの戒名の写真までスマホに収めていて、ジャニーさんの御尊父が修行していた寺は、普賢院であることまで教えてくれました。

 付け加えるまでもなく、ジャニーさんの御尊父が、米ロサンゼルスにある真言宗別院の住職を務めた関係で、ジャニーさんはロサンゼルス生まれだったのでした。

 華やかな芸能界で大成功したとはいえ、ジャニーさんは偉ぶることなく裏方に徹したのは、真言宗の影響があったのかもしれません。

武田信玄・勝頼墓所

奥之院は、入り口の「一の橋」から、弘法大師入定の地である「御廟(ごびょう)」まで約2キロ。皇族から諸大名、宗教家、文人に至るまで、墓、供養塔、慰霊碑など20万基を超えると言われています。

 ガイドさんの説明では50万基でした。

 樹齢何百年の杉などの樹木に囲まれ、とても静謐な雰囲気で、歩いているだけで霊感を感じるほど気持ちが洗われます。

上杉謙信廟

 私自身は、テレビの「ブラタモリ」を見て、初めて、戦国武将らの墓や供養塔があることを知り、是非とも訪れたかったのでした。

石田三成墓所

 私は個人的に、城好きですから、ほとんどの戦国大名が、高野山に墓所や供養塔があることに驚かされました。

明智光秀墓所

 本能寺の変を起こした明智光秀の墓所まであります。「主君を裏切った者」として、墓所設置には反対する方もいて、紆余曲折があったことを漏れ聞きました。

筑後久留米有馬家墓所

 我が高田家の御先祖さまが仕えた久留米藩の当主有馬家の墓所までありました。

法然上人墓所

浄土宗の開祖源空法然上人(円光大師)の墓所まであるとはこれまた吃驚です。

織田信長墓所

何と織田信長の墓所までありました。比叡山延暦寺を焼き打ちした信長は、高野山も焼き打ちする計画でしたが、本能寺の変で命を落とし、実現できませんでした。

 高野山にとっては、信長は「敵」に当たるので、どうして、ここに墓所があるのか謎なんだそうです。

 お隣にあるのが筒井順慶の墓ですが、何故隣にあるのか謂れは不明のようです。

護摩堂

 前回、高野山には注連縄が少ないと書きましたが、その理由は、高野山は高地のため稲が育たないからです。稲がないと、注連縄の原料である藁がないということです。

 そこで、注連縄の代わりに上の写真にある白い紙が三枚、高野山のどこの寺院でもぶら下がっています。これらの切り紙は「宝来」と呼ばれ、「宝殊」「寿」「干支」の三種類があるといいます。

御廟橋(ごびょうばし)

御廟橋から先は撮影禁止です。

この一番奥に「弘法大師御廟」があります。宝亀5年(774年)6月15日、讃岐(現香川県善通寺市)生まれの空海(幼名は佐伯真魚=さえき・まお)は、承和2年(835年)3月21日、満60歳で地下3メートルの深さにある岩屋の室に籠って、入定(にゅうじょう)されます。その86年後の延喜21年(921年)、醍醐天皇より弘法大師の諡号(しごう)を賜りました。

 入定というのは、衆生の苦難救済のために修行を重ね続けるということなので、真言宗の信徒にとっては、まだ大師さまはご健在ということです。ですから、毎日、朝の6時と10時半の2回、お食事(「生身供(しょうじんぐ)」)をお持ちするというのです。1200年近く続いているのでしょう。

 私たちも地下3メートルの室にまで行ってお参りしてきましたが、自然と涙が溢れ出てきました。弘法大師の偉大さを肌身で感じることができました。

豊臣秀吉供養塔(手前ではなく奥)

御廟をお参りする直前に、織田信長の墓所を訪れたので、ガイドさんに「秀吉や家康の墓所はないのですか」と質問したところ、「家康は神さまになったので日光で祀られてますからここにはありません」という答えでした。

 それなら豊臣秀吉の墓所に案内してくれるのかと思ったら、違う道を迂回して、遠目でしか見えない所にしか連れて行ってくれませんでした。

 それには理由があって、迂回路に売店があって、そこだけしか売っていない弘法大師像のお守り(3000円)を売りたいがためでした。マージンを貰っているからでしょう。

 別にマージンを貰っていようが構いません。ビジネスですから大いに結構。でも、もし、ちゃんと豊臣秀吉の供養塔まで案内してくれていたら、私も気分良く大師さまのお守りを買ったことでしょう。

奥之院の後、親王院まで連れて行ってくれました。バスなので移動が楽です(笑)。

 親王院は、空海の弟子真如(高岳親王=平城天皇第三皇子、薬子の変で廃太子となり出家)が創建した寺で、高野山の中でも最も古い寺の一つだそうです。

 真如親王は、前回、壇上伽藍の「御影堂(みえどう)」を書いた時に出てきました。御影堂には、真如の筆と伝えられる空海の御影が奉納されていましたよね。

伊藤若冲=びっくりしてピンボケ

 親王院は、宝物の宝庫で、かの伊藤若冲の絵画が無造作に置かれていたりするのです。案内してくれた尼僧の住職さんは冗談好きで、後継ぎの息子さんが、護摩焚きなどの仕事熱心なのはいいが、いまだ独身。「はよ、お嫁さんもらってもらわんとかなわんわ」と、心配しておりました。

 高野山の中で最も古い建造物とあって、本堂はいまだに電気が通っておらず、真っ暗で、ろうそくの火だけが頼りでした。

 国宝級の不動明王など数々ありましたが、届け出て、国宝などに指定されたりすると、温度湿度管理やらが厳しく、挙句の果ては、博物館に持って行かれてしまうからに、と尼僧さんはボヤいておりました。

霊宝館

 ツアーは午後3時半で解散となり、時間が余ったので、一人で、宿坊「天徳院」から歩いて7,8分のところにある「高野山霊宝館」(600円)に行って来ました。大正10年(1921年)に出来た日本最古の木造博物館だということです。

「両界曼荼羅」の大きさには圧倒されました。このほか「大日如来坐像」「弘法大師坐像」など国宝、重文級のものが多く展示され、一見の価値がありました。

高野山の修旅=如是我聞(上)ー経済的基盤

一生に一度は、死ぬ前に必ず訪れてみたい地が高野山でした。空海(774~835年)が弘仁8年(817年)に開いた総本山です。(その前年の816年に嵯峨天皇より高野の地を賜った)

 今回は偏見を持ちたくなかったので、なるべく予備知識を得ないで、白紙の状態で行ってみることにしました。高野山は秘境なので、個人で行くには手間と時間が掛かってしまうので、某旅行会社のパックツアーに単独で潜り込むことにしました。(個人ではなかなか行けない所に特別に?連れて行ってもらったので、これは正解でした)

 事前に勉強しなかったとはいえ、俗世間に染まってウン十年、俗説やら伝説やらフェイクニュースなどが頭に詰まってますから、なかなか素直になれません(苦笑)。それに、私自身は、初詣に行って、クリスマス・ケーキを食べ、葬式は仏式という典型的な現代日本人で、真言宗の信徒ではありません。真言宗は、密教(秘密仏教)ですから、他宗派の人間からは伺い知れないことばかりで、どうも、護摩焚きにしろ、空海上人が手に持つ三鈷杵など武器のように見えて、どんな用途があるのか知らず、何か恐ろしそうです。

 特に、真言宗でよく使われる梵字が「よく読めない!!」(笑)

丹生都比売神社

でも、今回は目から鱗が出る話ばかり見聞することができました。

 意外にも、真言宗は、どんな宗派に対しても寛大で、例えば、戦国武将らの墓や供養塔がずらりと並んでいる「奥の院」は、信徒でなくて、他宗派でも、そしてキリスト教徒でも敷地を買うことができるのだそうです。(座布団大の大きさで70万円、最低その4倍の面積が販売可能だとか)

 また、「南無大師遍照金剛(なむだいし へんじょう こんごう)」と唱えるだけで、他宗派の人間でも、空海弘法大師さまのご慈悲に縋りつくことができ、苦難から救いの道に導いてくれるというのです。

 有難い話です。

 ということで、今まで書いてきたことも、これから書くことも、参加したツアーの添乗員さんやガイドさんや講話などをしてくださった高野山の僧侶らから聞いた話をまとめたものです。まさしく如是我聞です。

 聞いただけの話ですから、漢字が分からなかったり、年代があやふやだったり、矛盾したりして、また色々調べ直したりしなければなりませんでしたから、相当時間も掛かりました。(例えば、年齢も満年齢にしたりしました。)用語統一のために、文献は主に、お寺のパンフと現地で買った「高野山ガイドブック」(ウイング出版部、540円)を参考にしました。

 このブログの中で、固有名詞や数字の明らかな間違い等がありましたら、ご遠慮なく、コメントして頂ければ幸甚です。すぐ訂正します(笑)。ただし、聞いた話も諸説ある中の一説かもしれませんし、私が聞き間違ったか、史実として正しくない話かもしれないこともお断りしておきます。いや、そんな大した話は書けませんけどね(笑)。

丹生都比売神社

 ツアーは7月11日(木)から13日(土)までの2泊3日でした。お蔭様で、3日間で高野山を満喫することができました。ギリギリ、オフシーズンだったせいか、人も閑散としていて、さすがに聖地ですから、斎戒沐浴と森林浴で心が洗われました。本当に、娑婆世界の周囲の白眼視を乗り越え、振り切って、思い切って行ってよかったでした。

 高野山は、平成16年(2004年)、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産に登録されました。また、平成27年(2015年)には高野山開創1200年を迎えました。(本来なら開創1200年は、2017年だと思いますが)

 初日の11日(木)、最初に訪れたのが、その世界文化遺産にも登録されている高野山の麓にある丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)でした。正直、事前勉強をしていなかったので、この神社のことは知りませんでした。ですから、何で、この神社を最初に参拝するのか意味が分かりませんでした。

 しかし、それは、とんでもない浅はかで、高野山、そして空海にとって、なくてはならないとても重要な神社だったのでした。

 その理由は、勿体ぶってますが、最後に書きます(笑)。丹生都比売のことは覚えておいてください。

大門

 高野山は標高約900メートル。ですから、下界よりも気温が2~3度低い感じでした。夏でも涼しい。冬は雪も降り、猛烈に寒いらしいですね。

 高野山は東西6キロ、南北3キロの広さに現在117の寺がある寺町です。このうち、52寺が宿坊といって民宿のような宿泊所になっています。

 江戸時代は、1000以上の寺があったそうです。寺の庇護者は各藩の大名です。明治になって、大名が没落し、廃仏毀釈などもあり、寺は10分の1ぐらいに減少したのでしょう。そして、庇護者がいなくなった後は、寺は宿坊として「経営」を支えざるを得なくなったと思われます。

 大門は、高野山の西の入り口で、昔は「女人禁制」でしたから、この門から先は女性は入れなかったわけです。

 大門の左右に設置されている金剛力士像は、奈良の東大寺に次ぎ、日本では2番目の大きさだそうです。

 驚くことに、この大門は、日本古来の建築方式で、礎石の上に柱が乗っているだけだとか。湿気を防ぐためらしいです。乗っているだけなので、強風が吹くと数ミリ程度、動くそうです。

 大門を背にして麓を眺めると、運良く、遠くに淡路島が見えました。

 高野山は和歌山県ですが、淡路島が見えるとは本当に驚きです。

 二晩お世話になった宿坊「天徳院」の隣は、高野山大学でした。真言宗の僧侶になるには、この大学が最高峰ということになるのでしょう。

天徳院

 宿坊「天徳院」の入り口の門です。立派です。注連縄がありますよね。これは、実はとても珍しいことなのです。寺院なのに、神社みたいな注連縄はおかしい、という意味ではありません。

 高野山が創建された弘仁8年(817年)の頃は、仏教が伝来(538年)して300年近く経過し、寺院と神社との融合、つまり「神仏習合」は当たり前だったのです。寺院に注連縄があることは珍しくありません。これは、明治の廃仏毀釈まで続きました。

 それでも、高野山は、ある事情で注連縄が珍しく、それに代わるものが考案されたということです。その具体的なお話は後の回に致します。

天徳院 庭園

 天徳院は、元和8年(1622年)に加賀前田藩三代目当主利常の夫人天徳院の菩提のために創建されました。

 天徳院は、二代将軍徳川秀忠の次女で、外様大名だった前田家が、徳川家との縁戚を結ぶために、3歳で嫁として迎えましたが、わずか24年で生涯を閉じました。天徳とは、「徳川を天として崇める」という意味が込められている、と若い当代住職が教えてくれました。

 庭園は、かの有名な小堀遠州の作庭だということで、立派なものでした。天徳院は、最大110人が宿泊できる広大な宿坊ですが、我々が泊まった時は、ツアーに一人で参加した昔若かった男女5人(他のツアー複数参加者25人の宿坊は「福智院」)と、どこかの夫婦(1泊)だけでしてから、それはそれは広々としてました。

 こんな素敵な庭が目の前で眺められて、「VIP待遇」と喜んでいたところ、この庭の池に主のように何百年も棲みつく、石川五右衛門も吃驚するような大きな蝦蟇が、一晩中、「ゲー、ゲー、ゲー、ゲー」と、どでかい声で鳴き通すので、夜はあまり眠れませんでした。

初日から、高野山のどこかの寺院の住職さん、稲葉さんと仰ってましたが、彼の案内による「壇上伽藍ナイトツアー」が催されました。夜7時前出発でしたが、御覧の通り、まだ明るいのです。

 高野山の総本山金剛峯寺の通路には、桶が並んでいますが、翌日行われる「内談義」に備えているそうでした。昔は、この桶は、馬用の盥だったようです。あと、高野山は、何度も何度も、火災(落雷によるものと、蝋燭の不始末など)に遭ったため、防火水槽ようとしても使われたようです。

 金剛峯寺については、二日目に再度取り上げます。

 いよいよ、伽藍に到着です。空海が「曼陀羅」を具象的に配置したと言われ、高野山の修行道場の中心地です。えっ?金剛峯寺が総本山の中心じゃなかった?はい、金剛峯寺は、高野山全体の寺院の総合寺務所であり、真言宗の宗務所でもあるのです。詳細は、2日目の話に書きます。

 上の写真の手前が東塔、遠くに見える朱色の塔が、今や高野山のシンボルになっている根本大塔(こんぽんだいとう)です。

 根本大塔については、三日目のお話の時に、また書きますが、内部は金剛界曼荼羅を表現しています。それなのに、本尊は、両手を輪のようにする胎蔵界大日如来です。

 上の写真の右が朱色の根本大塔、左が「金堂(こんどう)」です。空海が伽藍の造営に当たり、最初に建立したもので、当初は「講堂」と呼ばれていました。

 しばしば火災に遭い、現在の建物は、昭和7年(1932年)の再建。

金堂の近くにあるのが、御影堂(みえどう)です。空海の弟子真如親王 (高岳親王=平城天皇第三皇子、薬子の変で廃太子となり出家) の筆と言われる「大師御影」が奉安されていることから、最も重要なお堂で、高野山の寺院の住職による輪番で、ここでは1年365日欠かさず、お経が挙げられています。

 隣の金堂が火災に遭った際、火の粉が飛んで延焼を防ぐために、当時は柱などに味噌を塗ったそうです。

現在は、周囲に水を張り巡らせ、周囲の地中に消火ホースまで用意されています。それだけ重要だということです。

西塔

 上の「西塔」は、「根本大塔」と対をなすものです。根本大塔の内部が、金剛界曼荼羅を表すなら、この西塔の内部は、胎蔵曼陀羅を表現しています。それなのに、本尊は、両手は印を結んだ金剛界大日如来です。

 不思議です。案内役の稲葉さんは、「逆ですね」と仰ってましたが、その理由は明確ではないのか、説明されませんでした。

御社(山王院本殿)

 「御社」と書いて「みやしろ」と読みます。

 ここで、初日にしていきなりハイライトというか、大団円というべきか、私が日頃から疑問に思っていたことを解決してくれるお話を、案内役の稲葉僧侶が教授してくれました。

 それは経済的基盤です。空海は大学を中退して厳しい修行を経て、20歳で出家します。その後、延暦23年(804年)、唐の国に私費留学します。この時、同時に国費留学したのが、後に天台宗を伝える最澄でした。

 当時30歳だった空海はまだ無名の若者でしたが、唐の都長安では、密教の権威だった恵果和尚(けいか・かしょう)に師事し、1000人に及ぶ弟子の中で空海の成績は首席という稀にみる天賦の才能を認められて、20年の留学期間をわずか2年で終えて帰国します。帰りには、写経した膨大な量の経典や、数珠や三鈷杵など多量の仏具などを日本に持って帰ります。

 でも、単なる私費留学生だった無名の若者に、そんな経典や仏具を買う財力があったのでしょうか? 

その答えを解明してくれるのは、この御社(みやしろ)です。空海が伽藍開創に当たり、最初に鎮守神社として建立したものです。

 ここには、丹生都比売(にうつひめ)と高野明神が祀られています。丹生都比売は、このブログの前半に出てきた丹生都比売神社の祭神でした。一説には天照大御神の妹といわれています。

 問題は、高野明神です。案内役の稲葉僧侶によると、最近の研究成果によると、この高野明神のことが分かり、本名が丹生(にう)という金属精製技術を持った中国からの渡来人だったというのです。

 そして、どうやら、今ある丹生都比売神社辺りで金が採掘できたらしく、丹生氏は、空海のパトロンになって、空海が唐に私費留学する際に、そこで採れた金塊を与えたのではないか、というのです。

 これで、空海の経済的基盤が分かりました。以前、寺社仏閣研究家の松長氏から、高野山にしろ、身延山にしろ、宗教家が、人里離れた山奥に総本山を建立するのは、そこは金山だったり、銀山だったり、何らかの鉱物資源があることを霊力で見抜いていたからではないか、という説を唱えていましたが、見事、合致したわけです。

 伝説では、空海が高野山を発見したのは、白と黒の二匹の紀州犬に導かれて到達したとか、長安から投げた三鈷杵が、高野山の伽藍の松(後に「三鈷の松」と呼ばれ現存)に引っ掛かったから、といったものがありますが、実際は、全国を渡り歩いているうちに有力なパトロンである丹生氏に会うことができたから、というのが、史実として有力だと思われます。

ジャニー喜多川さん亡くなる

Copyright par Duc de Matsuoqua

長年、ジャニーズ事務所を率いてきたジャニー喜多川さんが亡くなりました。享年87。

父親が真言宗の僧侶で、布教のため渡米したため、ジャニーさんはロサンゼルス生まれ。ビートルズがデビューした1962年、30歳の時に芸能事務所を設立して、多くの男性アイドルを育てたことは周知の通り。熱中したアイドルの名前を言えば、女性の歳がバレてしまう、とまで言われました。

私のような古いおじさん世代は、ジャニーズからフォーリーブスぐらいまで。このあとの光GENJIだのたのきんトリオだのV6だのSMAPだの嵐だの名前を知っている程度。アイドルはオネエちやんに走ってしまいました(笑)。

ジャニーさんには、若い男の子の才能を見抜く独特の感性と鑑識眼がありました。これは天性の才能なので一代限りでしょう。タレントがさまざまなスキャンダルに見舞われても、事務所がビクともしなかったのは彼の功績です。

これだけの功績を挙げながら、「裏方」に徹して、マスコミ嫌いで知られ、殆どメディアには登場しませんでした。私も芸能記者時代、広報担当のSさんを通じてメリー喜多川さんには会えましたが、ジャニーさんとは会えませんでした。

WTナショナルギャラリー Copyright par Duc de Matsuoqua

インタビューに応じても、顔写真の撮影は厳禁。だから、野球帽をかぶりサングラスを掛けた「配り写真」ぐらいしか新聞やテレビに出てこないのです。(共同通信配信の素顔の写真はありましたが)

ザッカーバーグのフェイスブックとは真逆の人生哲学ですね。ヒトは世間に顔を晒してすぐ有名になりたがりますが、ジャニーさんは、派手な芸能界とはいえ、自分は演出家であり、プロデューサーという職業を自覚して、裏方に徹しました。その点は大変尊敬します。

僧侶だったお父さんの影響もあったのかもしれませんね。

ということで、ジャニーさんの御尊父が僧侶として修行された真言宗総本山高野山に、これから行って来ます!(羽田空港にて記憶で書きました。「ユー、やっちまいな」)

稲川会石井会長の素顔

 裏情報に精通した名古屋にお住まいの篠田先生から電話があり、「渓流斎さんに相応しい本がありましたよ。いつも、かたーい本ばかり読んでおられるようですから、たまには息抜きして、気分を変えてみたらどうですか」と仰るのです。

 「何の本ですか?」と尋ねると、石井悠子さんが書いた「巨影」(サイゾー)という本でお父さんの思い出を書いた本だというのです。「ただし…」と篠田先生は一呼吸置いた後、「この手の本は、図書館に置いていないですよ。ご自分で買うしかありませんよ」とまで仰るではありませんか。そして、こちらの質問を遮るようにして、「著者の悠子さんのお父さんというのは、広域暴力団稲川会の二代目石井隆匡会長ですからね。今、吉本興業のお笑い芸人が闇営業したとか騒いでますが、そんな芸能人と暴力団との関係は昔からあったこと。大物政治家と石井会長との関係とか、この本を読めば出てきますよ」

 そこまで言われてしまえば、買うしかありません。ということで、昨晩から少しずつ読み始めました。

 娘から見た父親像ですから、拍子抜けするほど、何処にでもいそうな子煩悩で、娘思いの優しい優しい家庭人なのです。しかも奥さんには全く頭が上がらない恐妻家ときてますから、ずっこけてしまいます。

 勿論、娘は、父親の外での血と血で争う抗争や、激烈なしのぎの世界を直接見ていたわけではないので、石井会長のほんの一部分しか描かれていないことになりますし、娘から見た単なる「贔屓目」かもしれません。讃美してはいけないし、血なまぐさい話も出てこないので、勘違いしてしまいますが、少なくとも世間知の低い人には、この本を読めば「世の中はこのようにして出来ているのか」と分かります。

 特筆すべきは、竹下登首相と金丸信副首相が実名で登場することです。当時の石井会長は「裏総理」と呼ばれ、赤坂の東急ホテルのラウンジで会って、2人に助言し、采配を振るっていたことが書かれていました。2人の付き添いに小沢一郎氏もいたことが間接的に書かれています。間接的というのは伝聞ということで、証言したのは当時、石井家と懇意にしていた女子高生だったYさん。彼女は、霊感が強く、未来を言い当てることが得意だっため、山梨から上京して、ホテルで同席して見聞したことが描かれています。

 一国の政策を決めるのに最高権力者の宰相が、女子高生の話も参考にしていたとは驚きでした。

 また、石井会長の横須賀の自宅に、会長のいない隙に昼間から入り浸って、高級酒を呑んで引き上げていく怪しいおじさんが、何と、県警のマル暴担当の刑事さん。著者の悠子さんは、車でスピード違反を犯した時に、この刑事さんからもみ消してもらったことをあっけらかんと書いてました。警察と暴力団との関係が分かります。

 組織関係ですから、結束のために、納会やら新年会やら誕生会やらの宴席が欠かせません。そこに招待されるのが、芸能人です。著者の悠子さんは、あまりテレビを見なかったので、芸能人をあまり知らなかったのですが、ある大物フォークシンガーM・Cから「悠子は俺のこと知らないのか」と呼び捨てされたことを暴いていました。

 実名の芸能人も出てきます。石井会長はマヒナスターズがお気に入りだったようです。ほかに、おネエ言葉を話す歌手のM・Kとその物真似をするK。女性物真似のS・Mは、本物を目の前にして緊張して笑いが取れず、拍手もないまま、青ざめた顔で舞台から下がったことも書かれています。

 裏事情に詳しい篠田先生に、このイニシャルの芸能人は誰なのか聞いてみたら、スラスラと答えてくれました。そして、「今はユーチューブで検索すれば、何でも出てきますよ」と仰るので、見てみたら、昔の超人気アイドルや、お笑いの人、国際的な映画俳優まで組織の宴会に招待されて祝辞を述べていました。

 私も30年ほど前に芸能記者をしていたので、そういう話は聞いていましたが、ネット時代になり、「証拠映像」を見ると、さすがにショックでしたね。あの人も、えっ?あの人もかあ・・・という感じです。

 ちなみに、「経済ヤクザ」と言われた石井会長は、海軍兵学校を出たインテリで、堅気の人に対しては物腰が柔らかく、声を荒げることなく紳士的だったらしいです。私も昔行ったことがある銀座ナインの地下の「麦とろ飯」屋さん(今はない)が石井会長のお気に入りで、よく顔を出していましたが、会社の重役か大学教授にしか見えず、店主は何年も経ってから初めて、石井会長だったことを知ったといいます。これも篠田先生から聞いた話です。

 マフィアとの交流の話も面白かったですが、長くなるのでこの辺で(笑)。