シー セッド・シー セッド

彼女は言いました。彼女は言いました。

人生に問題などないのです。
すべては起きてきたことです。
あなたが生まれる前にシナリオを書いてきたのです。
そのシナリオ通りにあなたの人生は展開されています。

だから、何があっても大丈夫なのです。
何が起きても大丈夫なのです。

夏目漱石「吾輩は猫である」100年

今年は夏目漱石が処女作「吾輩は猫である」を発表して丁度100年になります。
明治三十八年、漱石、時に三十八歳。

未完のまま絶筆となった最期の作品「明暗」は大正五年の作。漱石、時に49歳でした。
漱石の晩年の写真を見て、60歳か70歳くらいと勝手に想像していたのですが、随分若かったんですね。

私は、古今東西の作家の中で、漱石が最も好きで、尊敬しています。

全集を読破したのがもう四半世紀も昔なので、細かい所は覚えていないのですが、「三四郎」の中で、先生の口を借りて「日本は滅びるね」と漱石は予言していました。
そして、昭和二十年に、本当に日本は滅んでしまいました。
もし、漱石が生きていれば、78歳でした。

もっと書きたいのですが、今日はこの辺で。

靖国問題

「週刊新潮」6月16日号が「小泉『靖国参拝』私はこう考える」を特集しいたので、早速買い求めました。確かに百花繚乱といった感じで、百人いれば百通りの意見がありました。

ですから、話し合えば分るということはありえない、ということが私の確信になりました。

著作権の関係で全部引用できないのが残念ですが、見事にその人の歴史観、体験、価値観、国籍、世代観が反映していました。デーブ・スペクター氏は「軍国主義を美化している」と「予想通り」反対しているし、田嶋陽子氏も想定内で「小泉首相は英霊を冒涜している」と糾弾しています。

それでも、発言に一番重みがあったのが、戦争が終わっても28年間もルパング島で戦い続けていた元陸軍少尉の小野田寛郎氏でした。「そもそも、いろいろなわだかまりがあったから戦争になったのであって、それをわだかまりがないという方に無理があるんですから、綺麗事はどうでもいいのです」と言ってます。
詳しくは、是非、本文を読んでください。戦争を知らない戦後世代が逆立ちしてもかないっこありません。

週に2回しか登庁しない東京都知事

報道によりますと、石原東京都知事は、一週間に2,3日しか登庁しないそうですね。その知事の不在が遠因で、浜渦副知事なる者に権力が集中し、浜渦知事の決済がなければ、話が前に進まない状態が続き、独裁体制となり、ついに、堪忍袋の尾が切れた都議会が、浜渦副知事らの更迭を求め、石原知事は、国会議員時代を含め、30年来の腹心だった浜渦氏を解任した、ということがニュースになりました。

石原知事は、週2,3日しか登庁しないことについて、「机に座って仕事をするだけが能じゃない」と開き直っているそうですが、そもそも、「浜渦問題」なるものが生じたのも、身から出た錆でしょう。

石原知事は自分の好きなことをしているのです。そして、周りもそれを許しているのです。

北海道に住んでいる都民ではない人間がとやかく言う筋合いではないのかもしれません。
それでも石原知事は好きなことをしているだけです。都民も許しているのです。

逆も然りなのでしょうか。
都民は好きなことをしている。石原都知事も許している。

何だかよくわかりません。

国連常任理事国入り問題

戦後60年。この時期になって振って湧いたように湧きあがってきたのが、日本の国連安全保障理事会常任理事国入り問題です。

その前に、ストックホルム国際平和研究所が7日に明らかにしたところによりますと、2004年の世界の軍事費は推計で前年比実質5%増の約110兆円だったそうです。内訳は①米国47%②英国5%②仏5%④日本4%⑤中国3%―。

日本の常任理事国入りについて、京大のS教授が、某紙で疑問を投げかけています。彼の論理を少し膨らませて、私が、乱暴に要約しますと、こうなります。

そもそも国連とは、第2次世界大戦の「戦勝国」が戦後の世界秩序の構築のために創ったもの。(だから、英米仏露中の5カ国が拒否権を持つ常任理事国となった)「敗戦国」の日本にその資格ありや?あったとしても、「戦勝国」が「敗戦国」にわざわざ拒否権という特典を与えるものか?(ロシアが占領した北方領土を返還しないのでは同じ論理です)

反日デモで問題になったのが「歴史認識」ですが、そもそも、南京大虐殺、戦争指導者のA級戦犯といった「歴史認識」とは、アメリカを中心とした連合国による東京裁判であるー。

S教授は、そう疑問を投げかけたまま、「この歴史観の是非をここで論じようというのではない」と逃げてしまいましたが、日本政府は、サンフランシスコ講和条約で、極東軍事裁判(東京裁判)での判決を認めて「独立」しています。ということになりますと、米国によって押し付けられた「歴史認識」を受け入れざるを得ないのでしょう。

今、小泉首相は、A級戦犯を合祀する靖国神社を参拝しようとして、中国、韓国から反感を買っています。しかし、米国による「歴史認識」を受け入れなくてよければ、東条英機をはじめ、彼らは「鬼畜米英」による帝国主義との戦いに邁進し、国益のために尽くした英雄とも捉えられるわけで、米国の言う「A級戦犯」でも何でもないわけです。ですから、日本人の感覚としては、参拝は当然ともいえるのです。

要するに、今回の常任理事国入り問題とは、「もう戦後も60年も経ったのだから、もういい加減に『戦後体制』は止めてくれ」というのが日本政府の言い分なのでしょう。世界第4位の軍事力を誇っているわけですから。

それにしても、歴史は「戦勝国史観」というもので作られています。

演技と苦悩離脱について

若い頃、一度だけ、映画俳優になろうと思った時期がありました。背は高いし、ハンサムだし、格好いいし…と自分勝手に思い込んでいたからです。まあ、若者に有りがちな醜い誤解ですな。

しかし、たった一度だけ、アルバイトで映画にエキストラで出演したおかげで、きっぱりと止めてしまいました。「実につまらない」と思ったからです。勿論、映画のエの字も知らない頃で、カット割さえ、理解していませんでした。それが、実際、ロケ現場に立ち会ってみると、本当に、俳優たちは、ほとんど演技することなく、まるで、写真を撮るように、細切れで映されていたのです。例えば、学食で食べるシーンがあり、まずスプーンを口に持っていく所で「カット」。続いて、アップで、今止まった所から始めて、食べ物を口の中に入れて「カット」…。それを延々と繰り返し、俳優は一言、言っては、3秒くらいで、終わり。時系列も出鱈目で、最初のシーンと大団円のシーンを続けて撮ったりするから、側にいてもさっぱり分かりませんでした。ただ、俳優は急に泣いたり、怒ったりする演技を監督に求められていました。

私は、恥ずかしいくらい当たり前のことを書いているのですが、後でこの映画(三浦友和・檀ふみ主演の『青年の樹』)を見たとき、「あの時、撮ったシーンはこうなっていたのか」、やっとパズルが解けた安堵感を味わうことができました。

しかし、おかげで、映画がさっぱり楽しめなくなりました。恋人同士が向き合って、アップシーンになったりすると、「ああ、あそこで『カット』されて、多分、10分くらい休憩が入ったのだろうなあ」などと考えてしまい、その「継ぎはぎ」の粗が目立ってしょうがなくなってしまいました。
同時に、「ああこの俳優は演技している」という観念に支配されて、すっかり映画の世界に入っていくことができなくなってしまったのです。それは、ロバート・レッドフォードとバーバラ・ストライザンド主演の「追憶」という映画でした。

さすがに、この頃はそういった「観念」に捉われないようにしています。そうしないと、映画を楽しむことができないからです。

唐突ですが、何でこんなことを書いたのかといいますと、私は逆にこの「観念」を日常生活に応用しようと考えているからです。今、たまたま、不遇で、昨日書いたような「人生相談」の項目に苛まれているような人は、自分自身は俳優だと思ったらいいと思います。そういう役を演じているのだ、と考えればいいと思います。すると、客観的になり、一瞬だけでも、その苦悩から離脱することができます。営業不振に悩む部長さんは、植木等になって「無責任男」を演じてみればいいのです。不甲斐ない夫と姑の葛藤に悩む奥さんは、黒木瞳のようなカリスマ主婦になった自分の姿を思い描けばいいのです。

人生相談

広告やお触書には、なかなか示唆に富んだことが多く書かれています。
例えば、飲食店で「ランチタイムは、2時間までを目途にお願いします」と貼り紙があった場合、「2時間以上粘る客が多く、店主は迷惑しています」ということが言いたいのでしょう。

公衆トイレの洗面所に「ここでは洗濯をしないでください」とあった場合、この公衆トイレで洗濯する人が多いことを意味しています。

今日見た新聞に「人生相談」という広告があったので思わず読んでしまいました。
①自分や家族の将来や老後に不安のある方
②転職、仕事面、人間関係の悩みのある方
③浮気、不倫、離婚、別居で苦しんでいる方
④登校拒否、いじめ、成績不振、子供の将来
⑤難病、不慮の事故、災難の続く方
⑥恋愛問題、良縁、子宝に恵まれない方

ざっと、現代人の悩みがすべて網羅している感じがします。

さて、皆さん、この6項目の中でいくつ当てはまりましたか?

私は…秘密ですが、こんな広告が目に留まるということに問題があります。
つまり「人間は見たいものしか見ない」(ジュリアス・シーザー)のです。

国際化

私が卒業した大学の会報に素晴らしい文章が載っていたので、少しだけ引用させて戴こうと思います。(もちろん丸写しはしません)
久しぶりに「知的興奮」を味わいました。

二人の講演録です。一人は、ロシア語通訳・翻訳家の米原万理氏。
日本語の「国際的」は英訳すると、international 。しかし、「国際化」は英語で、 internationalization とは言わないそうです。Internationalization とは正確に「国際共同統治を構築する」という意味だとか。

それでは、「国際化」に相当する英語は何と言うでしょうか?それは、globalization です。しかし、日本語の「国際化」とは意味が正反対なのです。日本語の「国際化」は、外国の風習や慣習に理解を示して「寄り添っていく」ようなニュアンスがありますが、globalization は、「自分たちの基準で世界と地球を覆う」という意味で使っているそうなんです。まるで、「植民地化」と同義語ではありませんか。そもそも英語には日本語の「国際化」という概念がないということです。例えば、「過労死」がないので、そのまま karoshi と、音訳で英語にしたように。
これで、グローバリズムの正体が分かった気がしました。自分たちの価値観を押し付けるということなんですね。19世紀の帝国主義が途切れずに続いているということでしょう。

もう一人の講演録は、国際基督教大学大学院教授の村上陽一郎氏です。
米原氏のglobalization を受けて、この言葉は、歴史の世界ではウイッグ史観というふうに言い、つまり、近代というものを絶対的なものだと考えて、様々な世界に向かって押し広げようとすることなんだそうです。例えば、パプアニューギニアは文明的に遅れている「発展途上国」だから、近代化しなければならない、といった理論です。パプアニューギニアの人にとっては、今の伝統的な生活が乱されるし、余計なお世話ではないでしょうか。そんなことは構うことはないのでしょうね。

それにしても、「善の押し売り」とも言えます。一点の曇りもない正義感、使命感に駆られているから始末に終えません。不滅です。

「ミリオン・ダラー・ベイビー」★★★★

最近、観たい映画が沢山あるのですが、アカデミー賞主要4部門(作品・監督・主演女優・助演男優各賞)を獲得したということで、優先的に「ミリオン・ダラー・ベイビー」を観に行きました。以下は、無料で観ながらコメントギャラをもらっているプロと称する評論家とは違った、あくまでも、お金を払って観た一人の観客の意見です(笑)。

観終わった感想は、一言。「アメリカニズムの終焉」という言葉が浮かんできました。ここでは、アメリカニズムというのは、政治的、経済的、そして文化的にアメリカが世界に及ぼす影響のことを指します。グローバリズムといってもいいかもしれません。

つまり、これまで観てきたどのハリウッド映画と違って、観終わった後の「読後感」が全く違うのです。それは、救いようのない結末にあるのかもしれません。そこには、何のカタルシスも浄化もありません。何か、重苦しい、喉元に小骨が挟まったような、「引っ掛かり」がありました。アメリカ映画ではなく、むしろそれはヨーロッパ映画に近い。特に、ルキノ・ヴィスコンティの映画を観終わった後の気分に近かったのです。ヴィスコンティの例えば「ルートヴィッヒ」。ワグナーの庇護者で知られる大王が、芸術に殉じて狂死するまでが描かれますが、その「不快同律」のような感動は30年経っても忘れません。

これまでのハリウッド映画は、要するにハッピーエンドが大半でした。熱烈な恋をして結ばれたり、正義の使者が悪者を懲らしめたり、一人取り残された子供が泥棒を退治したり、アメリカンドリームを実現して大金持ちになったり、誤解が解けて和解したり…まあ、そんなところです。

しかし、この映画の場合、ヒラリー・スワンク演じる女ボクサー、マギーは世界チャンピオンという栄光を掴む寸前に奈落の底に突き落とされてしまうのです。まだ、観ていない人にこれ以上ストーリーを書いてしまうのは、失礼なのでぼかしますが、クリント・イーストウッド演じるトレーナーのフランキーも、最後は行方不明になり、観客は「置いてきぼり」を食ってしまうのです。どう、折り合いをつけていいのかわからなくなってしまうのです。まあ、観客は好きに解釈していいのですが…。

私の場合はそこに「アメリカニズムの終焉」を見ました。これまでのハリウッド映画なら、「格好よかった」「スカッとした」「素晴らしかった」と爽快感を味わうか、「ちょっと、甘すぎる。物足りなかったかな」と揶揄するか、いずれにせよ、まあ、3ヶ月もすれば、すっかり俳優も内容も忘れてしまうものです。しかし、よく言えば、この映画だけは尾を引きそうですね。

言葉足らずで申し訳ないのですが、これまでのハリウッド映画は現実離れした「ウサ晴らし」のために存在意義があったのですから、忘れてもらって大いに結構なのです。また、新しい映画を、もっと刺激的な映画を、と人々が求めるからです。しかし「ミリオン…」はもう、ヨーロッパ映画に近いのです。守りに入った老大国の映画と言ってもいいかもしれません。政治的に言えば、アメリカのユナラテアリズム(一極主義)の終焉と言っていいでしょう。

この映画で主演、監督、音楽を務めたイーストウッドといえば、「ローハイド」を思い浮かべる世代が多いかもしれませんが、私の場合はやはり「ダーティー・ハリー」です。「マグナム44」か何かをぶっ放して暴れまわる正義のヒーローでした。「しばらく見ないうちに年を取ったなあ」というのが正直な感想ですが、ハリウッドを代表する典型的なスターが旧態依然の体質に引導を渡したという意味で、この作品はエポックメイキングになるのではないかと思います。

タンポポ

都会に住んでいた頃は全く見向きもすることがなかったタンポポが、北海道では本当に見事に満開に咲いていました。その花の数は10個や20個ではないのです。一度、1ヘクタールくらいの広さの野原すべてが、1万本あるか、2万本かあるか、わかりませんが、タンポポの花で満開で、その真黄色に染まった草原の壮大さに圧倒されたことがありました。

それは、わずか一週間ほど前のことだったのですが、さっき、道を歩いていると、あんな色鮮やかだったタンポポもすっかり、白髪の綿帽子姿になっていました。あっけないものです。

これまで「雑草に毛がはえたようなもの」と、馬鹿にしていたタンポポの花も、急に愛しく感じられてしまいました。彼らにとって、1年に1回の晴れの舞台だったのですね。

来年、また、立派な花を咲かせてください。