11月27日(土)午後は、オンラインで開催された第40回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催、早稲田大学20世紀メディア研究所共催)に参加しました。
オンラインはZOOM開催でした。ZOOMと言えば、堤未果氏の「デジタル・ファシズム」(NHK出版新書)によると、会議内容や情報が駄々洩れで、サーバーが北京にあることから、ZOOMによる会議禁止の国もあるそうなので、特に機密事項を扱う天下の「諜報研究会」は大丈夫なのかなあ、と心配してしまいました。
いずれにせよ、既に40回も開催されているということですから、主催者並びに事務局の皆様方の情熱と熱意には頭が下がります。
と書きながら、正直、これを書いている本人は恐らく加齢による体力・知力低下で、講師の発言のメモが全く追い付かず、理解度がかなり落ちてしまったことを告白しなければなりません。ということで、私なりに心得ることが出来たことだけをざっと記述することでお許し願いたい。
今回はお二人の先生が「登壇」されました。最初の報告者は、香港城市大学のブラッド・ウィリアムズ准教授で、演題は「米国のインテリジェンス傘下ー双務主義と日本の対外情報活動」というものでした。ブラッド准教授とはお初に「お目にかかった」方で、どういう方なのか知りませんでしたが、オーストラリア出身ながら、日本語がペラペラ。香港ということで中国語も出来る語学の天才かと思いましたら、どうやら「日本の政治外交」がご専門で、日本での就職先を希望されているという方でした(同氏のHPから)。
お話は、ブラッド准教授が今年出版された「日本の対外情報活動とグランド・ストラテジー:冷戦から安倍時代まで」(ジョージタウン大学出版会)が中心だったようですので、ご興味のある方はそちらをご参照ください。
ブラッド氏も「はじめに」で簡単に要約されておりましたが、「冷戦期、米国は日本を従属的同盟国として米国のインテリジェンス傘下に置くことを目標にし、一方の日本のインテリジェンス・コミュニティは、主に双務主義という規範に従ったが、まれに日米情報機関や政治家との間で摩擦が起きた」というものでした。この文章では素人はさっぱり分かりませんね(笑)。
ブラッド准教授によると、米軍は占領中、旧日本軍の基地を管理したり、新しい施設を建設したりしましたが、冷戦期は、日本国内に約100カ所のシギント施設を建設したといいます。つまり、日本には世界最多の米軍施設があるというのです。シギントとは専門用語で、通信、信号などの傍受を利用した諜報・諜報活動のことです。(このほか、諜報活動には「人」を使ったヒューミント、衛星写真などを使ったイミント、合法的に入手できるオープン・ソースなどを使ったオシントなどがあり、こういった基礎知識がないと話にはついていけませんねえ=苦笑)
そう言えば、私が育ち、今でも実家がある東京郊外の近くにあった立川基地や入間川基地などの航空基地は米軍から返還されたようですが、埼玉県新座市と東京都清瀬市にまたがる米軍の大和田通信所(子どもの頃に「外人プール」があり、よく泳ぎに行きました)や埼玉県朝霞市と和光市にまたがる米軍基地(かつてキャンプ・ドレイクと言っていた)のほとんどは返還されたものの、そこにはいまだに広大なアンテナ・通信基地は残っています(先日もこの辺りを車で通ったばかり)。つまり、米軍は、爆撃機が出撃する騒音の激しい東京郊外の航空基地は返還したものの、静かに傍受する?いわゆるシギント施設だけは手つかずのまま残存させているということになります。
ブラッド准教授の話の中には、KATHO機関(加藤機関かと思ったら、河辺虎四郎陸軍中将K、有末精三陸軍中将A、辰巳栄一陸軍中将T、大前敏一海軍大佐O、服部卓四郎陸軍大佐Hの頭文字を取った)やタケマツ作戦(タケ=サハリン、千島列島の北部作戦と中国、北朝鮮の南部作戦、マツ=国内の共産主義勢力などの破壊活動)など私自身詳細に知らなかった興味深い話が沢山出ました。
私の印象では、最後の質疑応答の中で山本武利インテリジェンス研究所理事長も指摘されていましたが、ブラッド准教授は米国人ではなく豪州人なので、日本のインテリジェンスは双務主義的ではなく、米国に従属しているという事実を冷静に客観的に分析されていると思いました。日本国内に世界最多数の米軍のシギント施設があるという事実だけでもそれは証明できることでしょう。
お二人目は、アジア調査会理事の岸俊光氏で、「日本型インテリジェンス機関の形成」というタイトルでお話しされました。岸氏は、内閣調査室(内調)の研究では日本の第一人者で、今年4月の第35回諜報研究会でも登場されておられます。(その会については、このブログの2021年4月11日付「『冷戦期内閣調査室の変容』と『戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編』=第35回諜報研究会」 でも書きましたので、そちらをご参照ください)
4月の第35回研究会では、岸氏は、占領下の1952年4月、第3次吉田茂内閣の下で「内閣総理大臣官房調査室」として新設された際、その創設メンバーの一人で20数年間、内調に関わった元主幹の志垣民郎氏と「中央公論」の1960年12月号で、「内閣調査室を調査する」を発表し、一大センセーションを巻き起こしたジャーナリスト吉原公一郎氏という2人のキーパースンを取り上げていましたが、今回は、初代内閣情報部長を務めた横溝光睴氏と戦前の内閣情報委員会から情報局に至るまで勤務していた小林正雄氏と先程の内調主幹の志垣氏の直属の上司だった下野信恭氏の3人のキーパースンを取り上げておりました。
横溝氏は、戦前の内閣情報機構の創設の経緯について記した「内閣情報機構の創設」を執筆した内務官僚で、戦前に福岡県警特高課長や内閣情報部長、岡山、熊本両県知事、朝鮮の京城日報社長なども歴任した人でした。
小林氏については、生没年など詳細については触れていませんでしたが、戦後に総理府事務官、1964年まで内閣調査官を務め、情報局の重要文書「戦前の情報機構要覧」を作成した人だといいます。
下野氏は戦後の1956年に内閣総理大臣官房調査室の調査官と広報主任を務めた人で、評論家の鶴見俊輔氏にパージ資料を提供したとも言われています。
岸氏の「結び」のお話では、日本では戦前・戦後の情報機関は法的に、制度上、断絶しているとはいえ、人材や業務の面では引き継がれていることが散見されるーといったものでした。確かに、自衛隊でも、戦前とは法的、制度上は断然していいても、旧帝国日本軍の人材や業務が引き継がれていることが散見されますからね。
詳細などご興味を持たれた方は、志垣民郎著、岸俊光編「内閣調査室秘録―戦後思想を動かした男」(文春新書)をお読み頂ければと存じます。