石原伸晃氏の内閣官房参与に異議あり

 今、それほど暇ではないのですが、黙って見過ごすことは罪のような気がして、敢えて書くことにします。

 「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人」というのは大野伴睦が言った有名な言葉ですが、今でも通用するのかと思ったら、豈はからんや、そうでもなきにしもあらずなんですね。

 昨日、岸田文雄首相が発表した石原伸晃・元自民党幹事長を内閣官房参与に起用したというニュースのことです。あれっ? 石原氏って、先の衆院選東京8区で落選し、しかも比例代表でも復活しなかった人じゃなかったでしたっけ? つまり、やっと「ただの人」になったと思ったら、岸田首相の「お友だち」という理由で、また国民の理解も得られずに、政界の重職に復活するとは、とても承諾できませんね。

 内閣官房参与の報酬は、1日2万6400円だとか。私が今、汗水働いている日当の3倍以上ですよ(笑)。この出所が、国民の税金ということですから、これではまるで失業対策じゃありませんか。国民の一人として黙ってられませんよね。

 また、親父が出てきて「余人には代え難い」とエリート意識丸出しするのでしょうか?

 岸田首相には任命責任があります。国民は黙って唯々諾々と従うのではなく、「異議あり」と声を出すべきです。

【追記】12月11日

 12月3日に内閣官房参与に強行就任したばかりの石原伸晃氏(64)の辞任のニュースが飛び込んで来ました。

 やはり、皆さんも大きな声で「異議あり」と表明して頂いたお蔭で、天にも声が通じたということなのでしょう。

 でも、石原氏の辞任の理由は、彼が代表を務める政党支部が、新型コロナの影響を受けた事業者を対象とした国からの緊急雇用安定助成金約60万円受給していたことが発覚し、野党だけでなく身内からも批判が広がったからだというもの。

 年収2000万円以上も税金から貰っている国会議員が助成金を受給するなんてありえない!

 随分、お粗末な茶番劇でした。

予想外にも超難解な書=アダム・スミス「国富論」

 今、大変難儀な本に取り組んでおります。

 人生残り少なくなってきたので、せめて、死ぬ前に人類として読むべき古典は読破しなければいけない、という至極真面目な動機から、まずは、アダム・スミスAdam Smith(1723~90)の「国富論」に挑戦しております。

 正式なタイトルは「国民の富の性質と原因に関する研究」An Inquiry into the nature and causes of the wealth of nationsというらしいのですが、初版は1776年。ちょうどアメリカ独立宣言の年と同じです。日本は安永5年。十代将軍徳川家治、老中田沼意次の時代で、平賀源内がエレキテルを復元し、南画の池大雅が亡くなった年です。

 格闘している本は、「読みやすい」という評判の高哲男・九州大名誉教授による新訳で、講談社学芸文庫の上巻(2020年4月8日初版、2321円)と下巻(同年5月14日初版、2409円)の2巻本です。いずれも(索引も入れて)700ページ以上あります。大袈裟ではなく、百科事典並みの厚さです。それなのに、1日10ページ読めるかどうか…。

 正直、書いている内容がよく分からないのです。例えば、こういった調子です。

 人間に対する需要は、あらゆる他の商品に対する需要と同様に、必然的にこのような仕方で人間を規制するのであって、その進行があまりにも遅すぎる場合には速め、あまりにも急速な時には停止するわけである。…云々(136ページから)

 「停止するわけである」と言われてもねえ…何度も何度も読み返して、何となく意味が分かる程度です。

銀座「笑笑庵」海老天巻きセット1200円

 250年ぐらい昔の「名著」と呼ばれる超有名な古典ですから、さぞかし多くの人類が読んできたことでしょうが、果たして最後まで読破出来た人は何人いるのか? ー3億人、いや1億人もいますかねえ(笑)。日本人も専門家にとっては必読書なんでしょうけど、我々のような素人ともなると、300万人もいますかねえ?思ったほど難解なので、途中で挫折する人が多いと思われます。

   そもそも、アダム・スミスAdam Smith(1723~90)がどんな人物なのかよく分かっていませんでした。「経済学の父」と呼ばれるくらいですから、その分野の開拓者で、それ以前は学問研究として経済学なるものはなかったことでしょう。スミス自身は、英国人というより今でも独立心旺盛なスコットランド人で、グラスゴー大学の倫理、道徳哲学などの教授を務めた人でした。

 18世紀の英国は、産業革命が進展し、徐々に政治の民主化も行われ、「啓蒙主義」の時代と言われるように、同時代人として、フランスのヴォルテール(1715~71)、テュルゴー(1727~81)らフランス啓蒙主義者もおります。スミスもスコットランド貴族の家庭教師として2年間、フランスに滞在した際、彼らと交際したようです。スミスが亡くなる1年前の1789年は、フランス革命の年ですから、ロベスピエールらも同時代人ということになります。

 親子ほどの年の差がありますが、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~91年)も同時代人ですから、もし、貴族のサロンか何処かでモーツァルトの演奏を耳にしていたとしたら親近感を覚えます。(下巻の訳者解説によると、スミスはエディンバラ音楽協会の会員として、毎週金曜日に開催される演奏会でヘンデルやコレッリらの室内楽や協奏曲を聴くのを楽しみにしていたといいます。)

東銀座・創作和食「圭」週替わり1種類定食(鴨ロースと野菜の治部煮、刺身、春菊のお浸し)1500円

 後世の学者が「国富論」のキーワードとして挙げているのは、まずは「見えざる手」であり、「分業」でしょう。スミスは、重商主義を批判し、富の源泉は人間の労働であるという「労働価値説」を唱え、市場機能に基づく自由放任主義を主張しました。

  よく誤解されて引用される「神の見えざる手」(invisible hand of God)という言葉は、「国富論」には一度も出て来ることはなく、「見えざる手」という言葉さえ、実は1回しか出て来ないといいます。これは、私はまだ読破していないので、私が見つけたことではなく、先行研究からの引用です(笑)。

 でも、「労働価値説」「自由放任主義」「分業」「見えざる手」でもうお腹いっぱいで、「国富論」を全て理解したような、分かったような気になってしまいます(笑)。これから1400ページ以上も読み切れるかどうか…その間、ブログ執筆も止まってしまいそうです。

【追記】

 アダム・スミスのもう一つの主要著書「道徳感情論」では、「利他心」や「他人への思いやり」の体系、「国富論」は「自己愛」や「利己心」の体系であるという伝統的な解釈は完全な誤りではないが、前者は倫理学、後者は経済学に属しており、この二つの領域がどのように関連付けられ、統一的な思想・理論体系を形作っているのかという点になると、まだ説得力のある説明は提供されていない、と訳者の高哲男氏は「解説」で書いておりました。

 もう一つ、話は全く違いますが、また訳者解説の中で「アダム・スミスは1723年、スコットランド東部の港町カーコーディーKirkcaldyで税関吏の子どもとして生まれた」とあり、吃驚しました。なぜなら、最近、ビートルズの「ホワイトアルバム」に収録されている「クライ・ベイビー・クライ」という曲をコピーしながら聴いていたのですが、歌詞が非常に難解で、3番にこんなフレーズが出てきます。

 The Duchess of Kirkcaldy always smiling and arriving late for tea.

カーコーディーの公爵夫人はいつも笑みを絶やさず、お茶会には遅れてやって来る(試訳)。

 この曲は恐らくメインボーカルのジョン・レノンが作詞作曲したものと思われますが、何で急にカーコーディーが出てくるのかさっぱり分かりませんでした。でも、英国人ならカーコーディーとはアダム・スミスの生誕地であることは常識なのかもしれません。となると、読書家のジョン・レノンは「国富論」も読んでいたのかもしれません。

御存知でしたか?=インド料理「ビリヤニ」とイタリア菓子「マリトッツォ」

 もう20年以上昔、会社の後輩だったS君がその後、国営放送に転職して疎遠になっていたのですが、どういうわけか、20年ぶりぐらいに葉書を送ってくれました。

 国営放送の「定年退職」通知です。「もうそんな年齢になったのか…」といった感想です。もっとも、彼は定年になっても、もうしばらく放送局にいられるとのことで、御同慶の至りです。

最近、頻繁に行っている東京・新橋「香川・愛媛せとうち旬彩館」二階にあるレストラン「かおりひめ」。鯛めしとミニうどん、普段は900円ですが、サービスランチで金曜日800円

 メールで彼に返信したところ、大変嬉しいことに、いつもメールの最後に発信元である私の名前の下にリンクを貼って告知している私のブログを読んでくださったようで、「ブログ面白くってためになり、ついつい読みふけってしまいました。早速、堤未果著『デジタル・ファシズム』は注文し、石井妙子著『女帝 小池百合子』を図書館に予約しました」と折り返してくれました。

 いやはや、こんな嬉しいことはありませんね。

 彼はこれ以上、他にも色々と褒めてくださったので、有頂天になってしまいました(笑)。普段、滅多に褒められませんからねえ…。

東京・新橋 「香川・愛媛せとうち旬彩館」二階にあるレストラン「かおりひめ」。 普段は鯛定食1300円ですが、サービスランチで火曜日は1100円!

 でも、本当に有難いことです。読者の皆様の期待に応えられるように、毎日書き続けていこうと思います。

 と、思ったら、正直言いますと、ここ1カ月間、どうも不調です。体調が悪いというわけではなく、どちらかと言えば、精神的なもので、どうもニヒリズムになってしまっています。まあ、気力がないということでしょう。ブログも使命感がなく、気合が入りません。

 それでも、まあ、下らないことなら書けます(笑)。またまた、銀座ランチの話題です。

銀座4丁目 インド料理「ムンバイ」

 会社の同僚のO君が「今、インド料理のビリヤニが流行ってますよ」と教えてくれたのです。ビリヤニ? 何それ? 全くの初耳です。そう言えば、彼は、何でも「流行りもの」が好きで、「今、イタリアの生クリーム菓子『マリトッツォ』が若い女の子の間で大人気ですけど、渓流斎さんは知らないでしょ?」とのたまうのです。

 知るわけないんやないけ!

 てなわけで、本日のランチは予定を変更して、ビリヤニを食すことに致しました。目指すは会社からほど近い銀座4丁目のインド料理店「ムンバイ」 。勿論、初めて行く店です。ビリヤニで検索したらこの店が引っ掛かった次第です(笑)。

銀座4丁目 インド料理「ムンバイ」ビリヤニ 1200円

 この店のメニューによると、ビリヤニとは「世界三大炊き込みご飯」の一つなんだそうです。じゃあ、あとの二つとは何じゃいな?

 さて、ビリヤニなるものが運ばれて来ました。御飯が長細いタイ米で、チキンと一緒に炊き込んだものでした。やはり、一緒にカレーとヨーグルトが付いてきました。インドは何でもカレーなんですね。

 一口。「お、からっ!」。店員さんもコックも全員インド人でした。日本人だからといって、全く手加減していません。インド人と思われる青年のお客さんも1人いました。まさしく、本場もんでした。

 ビリヤニとは、嘘か誠か、豪華、貴族料理とか、小耳にはさみましたが、庶民の味でもええじゃないか、といった感じでした。

 でも、この「ムンバイ」という店は気に入ったので、またカレーを食べに来ようかと思いました。

銀座4丁目「香十」 正親町天皇の御代、天正3年(1575年)、京都で生まれた名跡

帰りがけ、「SINCE 1575」の看板を発見して度肝を抜かれました。1575年とは、天正3年のこと。あの織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼を撃破した「長篠の戦い」があった年じゃあありませんか。今から450年近く昔のこと。この店は「香十」という有名なお香屋さんでした。

 香十は、京都で創業し、同社のHPによると、香十初代は、清和源氏安田義定(鎌倉幕府成立時の遠江守護)の十二代の末商で安田又右衛門源光弘と称し、その頃から御所の御用を務めていたといいます。香十第二代政清は豊臣秀吉に、第四代政長は徳川家康に召されたと伝えられ、まさに、あの激動の戦国時代を乗り切ったということになります。

マリトッツォ

 会社に戻ると、また、今日はどういうわけか、が多いのですが、会社の同僚のO君が近くのコンビニで「マリトッツォ」を買って来てくれたのです。

 「えへへへ…実はわたしも、まだ食べたことなくて…」

 なあんだ、と遠慮なく頂きました。ズバリ、生クリーム入りの菓子パンでしたね(笑)。いかにも若い女の子が好きそうなデザートで、中学生なら部活動の帰り、寄り道して空きっ腹の虫を収めるのにちょうどいい感じでした。

 あれっ? 今日の記事は、ためになる高尚な話とは程遠かったでしたね。せっかく、これからコアな読者になってくださるS君、どうも失礼致しました。

「武田三代 栄華と滅亡の真相」=「歴史人」12月号

 もう「歴史人」12月号の武田信玄生誕500年特別企画「武田三代 栄華と滅亡の真相」特集を読んでいて2週間ぐらい経ちます。別に難しい本ではないのですが、記憶力が衰えていて、「武田二十四将」をやっと覚えたかと思ったら、今度は「武田氏家臣団76将」が出てきて、「わーー」となってしまったのです。

 それだけこの本には、武田信虎・信玄・勝頼3代を中心とした家臣団や合戦、武田氏をめぐる女性たち、上杉謙信、今川義元、北条氏康、徳川家康らライバル武将たちなどほぼ全員が網羅されているので、覚えきれないくらい情報量が満載です。

 となると、この本の要旨を整理して書くことなどとても無理なので、印象に残ったことだけ、サラッと触れてお茶を濁すことに致します。

 まずは、武田家臣団として「四天王」と呼ばれた内藤昌豊山県昌景高坂昌信馬場信房の4人を抑えておけば宜しいでしょう。武田信虎・信玄・勝頼の3代は、今の甲府の「躑躅ケ崎館」を根城にし、その北の海津城(後の松代城)に高坂昌信 、東の箕輪城に内藤昌豊、南の江尻城に山県昌景、西の深志城(のちの松本城)に馬場信房を配置していました。

  四天王のうち、内藤昌豊、山県昌景、馬場信房の3人もが、勝頼が織田・徳川連合軍によって大敗した長篠の戦いで戦死しています。海津城で上杉謙信の進軍に備えていた高坂昌信は長篠の戦いに参陣しませんでしたが、上杉氏と武田氏との和睦交渉中に病没します。高坂昌信は、武田氏の軍法「甲陽軍鑑」を口述筆記させた人としても知られています。

 私は井上靖の小説「風林火山」などを読んで、山本勘助は武田信玄の軍師として有名だと思っていたのですが、「甲陽軍鑑」では、勘助が信玄の片腕として合戦を指揮した事実は確認できず、築城の名人ではあっても、足軽大将だったという解釈でした。(試験の時のヤマカンというのは、この山本勘助から取ったという説あり)

 武田二十四将の一人で筆頭家老だった板垣信方の子孫に幕末明治の板垣退助がいたという事実には驚かされました。信方は1548年、村上義清との上田原の合戦(長野県上田市)で討死しますが、その孫の正信が遠江・掛川城主の山内一豊に召し抱えられます。一豊は関ケ原の戦いで東軍のために奮闘したので、土佐20万石に移封され、信方も1000石与えられ、そのまま子孫は土佐の山内家に仕えていたのです。

 武田家は長篠の戦いで大敗した武田勝頼で滅亡したのかと思っていましたが、勝頼は信玄の四男(母は諏訪御料人)で、次男龍宝(信親=母は正室三条夫人で、清華家三条公頼の娘。その妹は何と本願寺の顕如に嫁いでいた!)系は「武田宗家」を名乗り、現在17代目英信と続いています。また、七男信清(母は根津御寮人)系は上杉家の庇護を受け、「米沢武田家」として続いているといいます。

 親族衆の穴山梅雪、譜代家臣小山田信茂らの離反で、勝頼が自害に追い込まれて遺臣となった武田軍団は、本能寺の変後、武田旧領獲得を狙う徳川家康によって召し抱えられます。彼らは上杉景勝、北条氏政らとの天正壬午の戦いで活躍し、江戸時代にも生き残ります。

 武田信玄の次女で穴山梅雪(所領安堵された信長への挨拶で家康とともに安土城に行き、堺で遊覧中に本能寺の変が起き、帰国途中で一揆に惨殺される)の正室だった見性院は、家康から500石を与えられ、二代将軍秀忠の庶子幸松丸を養育します。幸松丸は信州高遠藩の保科家の養子となって保科正之となり、初代会津藩主となります。

 この見性院の墓が、さいたま市緑区東浦和の天台宗清泰寺にあるとはこれまた驚きでした。あの武田信玄の娘が東浦和に眠っていたとは! それは、見性院が家康から大牧村(この緑区東浦和)に領地を与えられていたからでした。もう、歴史を知らないタモリのように「だ埼玉」なんて馬鹿にできませんよ!

 

「米国のインテリジェンス傘下ー双務主義と日本の対外情報活動」と「日本型インテリジェンス機関の形成」=第40回諜報研究会

 11月27日(土)午後は、オンラインで開催された第40回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催、早稲田大学20世紀メディア研究所共催)に参加しました。

 オンラインはZOOM開催でした。ZOOMと言えば、堤未果氏の「デジタル・ファシズム」(NHK出版新書)によると、会議内容や情報が駄々洩れで、サーバーが北京にあることから、ZOOMによる会議禁止の国もあるそうなので、特に機密事項を扱う天下の「諜報研究会」は大丈夫なのかなあ、と心配してしまいました。

 いずれにせよ、既に40回も開催されているということですから、主催者並びに事務局の皆様方の情熱と熱意には頭が下がります。

 と書きながら、正直、これを書いている本人は恐らく加齢による体力・知力低下で、講師の発言のメモが全く追い付かず、理解度がかなり落ちてしまったことを告白しなければなりません。ということで、私なりに心得ることが出来たことだけをざっと記述することでお許し願いたい。

 今回はお二人の先生が「登壇」されました。最初の報告者は、香港城市大学のブラッド・ウィリアムズ准教授で、演題は「米国のインテリジェンス傘下ー双務主義と日本の対外情報活動」というものでした。ブラッド准教授とはお初に「お目にかかった」方で、どういう方なのか知りませんでしたが、オーストラリア出身ながら、日本語がペラペラ。香港ということで中国語も出来る語学の天才かと思いましたら、どうやら「日本の政治外交」がご専門で、日本での就職先を希望されているという方でした(同氏のHPから)。

 お話は、ブラッド准教授が今年出版された「日本の対外情報活動とグランド・ストラテジー:冷戦から安倍時代まで」(ジョージタウン大学出版会)が中心だったようですので、ご興味のある方はそちらをご参照ください。

 ブラッド氏も「はじめに」で簡単に要約されておりましたが、「冷戦期、米国は日本を従属的同盟国として米国のインテリジェンス傘下に置くことを目標にし、一方の日本のインテリジェンス・コミュニティは、主に双務主義という規範に従ったが、まれに日米情報機関や政治家との間で摩擦が起きた」というものでした。この文章では素人はさっぱり分かりませんね(笑)。

 ブラッド准教授によると、米軍は占領中、旧日本軍の基地を管理したり、新しい施設を建設したりしましたが、冷戦期は、日本国内に約100カ所のシギント施設を建設したといいます。つまり、日本には世界最多の米軍施設があるというのです。シギントとは専門用語で、通信、信号などの傍受を利用した諜報・諜報活動のことです。(このほか、諜報活動には「人」を使ったヒューミント、衛星写真などを使ったイミント、合法的に入手できるオープン・ソースなどを使ったオシントなどがあり、こういった基礎知識がないと話にはついていけませんねえ=苦笑)

 そう言えば、私が育ち、今でも実家がある東京郊外の近くにあった立川基地や入間川基地などの航空基地は米軍から返還されたようですが、埼玉県新座市と東京都清瀬市にまたがる米軍の大和田通信所(子どもの頃に「外人プール」があり、よく泳ぎに行きました)や埼玉県朝霞市と和光市にまたがる米軍基地(かつてキャンプ・ドレイクと言っていた)のほとんどは返還されたものの、そこにはいまだに広大なアンテナ・通信基地は残っています(先日もこの辺りを車で通ったばかり)。つまり、米軍は、爆撃機が出撃する騒音の激しい東京郊外の航空基地は返還したものの、静かに傍受する?いわゆるシギント施設だけは手つかずのまま残存させているということになります。

 ブラッド准教授の話の中には、KATHO機関(加藤機関かと思ったら、河辺虎四郎陸軍中将K、有末精三陸軍中将A、辰巳栄一陸軍中将T、大前敏一海軍大佐O、服部卓四郎陸軍大佐Hの頭文字を取った)やタケマツ作戦(タケ=サハリン、千島列島の北部作戦と中国、北朝鮮の南部作戦、マツ=国内の共産主義勢力などの破壊活動)など私自身詳細に知らなかった興味深い話が沢山出ました。

 私の印象では、最後の質疑応答の中で山本武利インテリジェンス研究所理事長も指摘されていましたが、ブラッド准教授は米国人ではなく豪州人なので、日本のインテリジェンスは双務主義的ではなく、米国に従属しているという事実を冷静に客観的に分析されていると思いました。日本国内に世界最多数の米軍のシギント施設があるという事実だけでもそれは証明できることでしょう。

 お二人目は、アジア調査会理事の岸俊光氏で、「日本型インテリジェンス機関の形成」というタイトルでお話しされました。岸氏は、内閣調査室(内調)の研究では日本の第一人者で、今年4月の第35回諜報研究会でも登場されておられます。(その会については、このブログの2021年4月11日付「『冷戦期内閣調査室の変容』と『戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編』=第35回諜報研究会」でも書きましたので、そちらをご参照ください)

 4月の第35回研究会では、岸氏は、占領下の1952年4月、第3次吉田茂内閣の下で「内閣総理大臣官房調査室」として新設された際、その創設メンバーの一人で20数年間、内調に関わった元主幹の志垣民郎氏と「中央公論」の1960年12月号で、「内閣調査室を調査する」を発表し、一大センセーションを巻き起こしたジャーナリスト吉原公一郎氏という2人のキーパースンを取り上げていましたが、今回は、初代内閣情報部長を務めた横溝光睴氏と戦前の内閣情報委員会から情報局に至るまで勤務していた小林正雄氏と先程の内調主幹の志垣氏の直属の上司だった下野信恭氏の3人のキーパースンを取り上げておりました。

 横溝氏は、戦前の内閣情報機構の創設の経緯について記した「内閣情報機構の創設」を執筆した内務官僚で、戦前に福岡県警特高課長や内閣情報部長、岡山、熊本両県知事、朝鮮の京城日報社長なども歴任した人でした。

 小林氏については、生没年など詳細については触れていませんでしたが、戦後に総理府事務官、1964年まで内閣調査官を務め、情報局の重要文書「戦前の情報機構要覧」を作成した人だといいます。

 下野氏は戦後の1956年に内閣総理大臣官房調査室の調査官と広報主任を務めた人で、評論家の鶴見俊輔氏にパージ資料を提供したとも言われています。

 岸氏の「結び」のお話では、日本では戦前・戦後の情報機関は法的に、制度上、断絶しているとはいえ、人材や業務の面では引き継がれていることが散見されるーといったものでした。確かに、自衛隊でも、戦前とは法的、制度上は断然していいても、旧帝国日本軍の人材や業務が引き継がれていることが散見されますからね。

 詳細などご興味を持たれた方は、志垣民郎著、岸俊光編「内閣調査室秘録―戦後思想を動かした男」(文春新書)をお読み頂ければと存じます。

人間なんて…それより地球の歴史が面白い=「フォッサマグナ」を知ってますか?

 石井妙子著「女帝 小池百合子」(文藝春秋)なんかを読んだりすると、「人間って嫌だなあ」とつくづく思ってしまいます。どうも「他人を支配したい」とか「他人より楽して金儲けしたい」というのが根本にあるようで、他人を利用(搾取)したり、簡単に裏切ったりするのは当たり前。戦国時代なら、親子だろうが伯父、甥だろうが、上司だろうが、跡目争いのためには人殺しなんか日常茶飯事でしたからね。

 特に歴史に名を残すような人間は、人一倍、野心と虚栄心が強く、上にはひいこらしても、下は奴隷扱いで、自己の目的を達成するためには不義、不正でも手段を選ばず、他人を蹴落とし、平気で大嘘をついて、虚飾だらけの見栄っ張りが多いような気がするのは私だけではないと思います。

 これらに加えて、人間には愚痴や羨望心や嫉妬、やっかみ、誹謗中傷、悪口、いじめ、無視、告げ口、盗聴、盗撮、詐欺、脅し、暴行などがあります。

 生きていれば、毎日こんな人間を相手にしなければならないとは…、そりゃあ、誰だってミザントロープになりたくなりますよ。

裏磐梯・五色沼の柳沼

 そんな時は、悩んでばかりいないで、壮大なことに触れるのが一番良いですね。例えば、宇宙とか、何千万光年も離れた星座とか、人間なんか及びもつかない悠久の世界です。

 フランスの文化人類学者レヴィ・ストロースが言うように「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」(「悲しき熱帯」)というのは昨今の気候変動でますます真実性を帯びてきたと思います。

 最近、私は、まだ人間なんか登場していない「地学」に興味を持つようになりました。NHKの番組「ブラタモリ」の影響のせいかもかもしれません。

 先日は、番組で、糸魚川ー静岡構造線(糸静線)と「フォッサマグナ」をやっていましたが、実に面白かったです。ただ、バラエティー番組?なので、メモも取らず、寝っ転がってのんべんだらりと見ていたせいか、表面的な理解で終わってしまい、後で、「何たることかあぁー!」と、自分自身の疑問に3日も経って気が付いたほどです(笑)。

 私自身の地学の知識は、中学生程度のレベルですが、今や、その上に、優秀な学者さんによる最新機器によるシミュレーションや研究で新しい事実が次々と発見され、インテリジェンスは昔と比べられないくらい更新されています。

 私なんか「フォッサマグナ(大きな溝)」とは、幅が数百メートルか、せいぜい1キロ程度の断層かと思っていたら、先ほどの糸静線を西の端として、東の端は新発田ー小出構造線と柏崎ー千葉構造線だといいいますから(異説あり)、本州中央部、中部地方から関東地方にかけての縦断地域がすっぽり入ってしまうということになります(文末の糸魚川市HP参照)。

 番組で覚えていることは、もともと日本列島は大陸にあったのですが、2000万年前の地殻変動によって島として分断されたといいます。しかも大きな一つの島ではなく、南北二つに分かれた島が分離しました。その南北の島の間の海だったところが、いわばフォッサマグナで、1500万年前ぐらいから活発になった地殻変動やら火山活動などで、火山灰や砂岩、泥岩(この二つが交互に重なって埋まると「砂岩泥岩互層」が出来たとか)などがその南北間の海に大量に積もって、くっついてしまい、そのお蔭で、一つの島になったというのです。(番組ではやってませんでしたが、この後、この一つの島から北海道、四国、九州が離れて出来ていくのでしょう。人間なんか全く存在しない時代ですよ)

 北島と南島の境界の海の深さは6000メートルだったそうです。それが、火山灰や溶岩、砂岩、泥岩などで全部埋まってしまうどころか、数千メートル級の山まで出来てしまったわけで、番組では「エベレスト級の山々がすっぽり入る」と解説していました。

 もともと海だったところが埋まって出来たフォッサマグナは、繰り返しになりますが、本州中央部と中部地方から関東地方に当たり、首都東京も入りますから、うろ覚えですが、番組では「日本の人口の三分の一がフォッサマグナに住んでいる」とやっていました。

 番組を見て、3日ほど経ってから、番組の中では一言も言ってくれませんでしたが、私はある重要な事実に気が付きました。「なあんだ、フォッサマグナに富士山がある!」

 となると、日本一の富士山というのは活火山ですから、マグマを底に秘めているとはいえ、水深6000メートルの海に1万メートル近くの溶岩や砂岩や泥岩などが積み重なって出来たということなんでしょうか?

 実に、実に壮大な話ですよね。

 イザコザや、皮肉や、やっかみだらけの人類の歴史よりも、地球の歴史の方が遥かにダイナミックで面白いんじゃないでしょうか?

 ※なお、「フォッサマグナ」に関しましては、糸魚川市のHPをリンクさせて頂きました。

魂が汚れました=石井妙子著「女帝 小池百合子」を読了して

 石井妙子著「女帝 小池百合子」(文藝春秋)を読み終わりましたが、やはり、当初から予感した通り、魂が汚れました。もし、この本に書かれていることが全て事実なら、「何故このようなあくどい詐欺師が世の中に存在し、いまだに最高権力者として胡坐をかいているのだろうか」と信じられないくらいです。

 何しろ「女帝 小池百合子」氏が再選した東京都知事の椅子は、人口約1300万人、都庁職員約3万8000人、警視庁や学校職員、消防士まで含めると16万人。年間予算は13兆円で、スウェーデンの国家予算に匹敵するという国家元首並みの権力なのですからね。

 確かに、著者も認めているように、学歴など政治家の実力とは関係ありません。しかし、出てもいないのに「カイロ大学首席卒業」でアラビア語はペラペラだと偽ったり、父親が政治好きの野心家で投機的な事業に失敗しては借金を踏み倒したりして家計は火の車だったにも関わらず、「裕福な芦屋のお嬢様」だったと振る舞ったり、乗る予定もなかった飛行機が二度も墜落し、自分は運が良い人間だとアピールしたり、とにかくあることないことを美談に仕立てたり…嗚呼、読んでいて途中で腹が立ってきました。

 このブログの11月19日の「生まれか、育ちか?=石井妙子著『女帝 小池百合子』を読んで」という記事の中で「多少、露悪趣味的なところがあり、いくら公人とはいえ、ほんの少しだけ小池氏が可哀想でもあり…」と書きましたが、訂正します。もうこの人には全く同情しませんよ。

備前焼 ぐい吞み(紀文春作)工房:岡山県和気町

 昭和平成の裏面史を語る上で欠かせない政界と裏社会に通じた「武闘派」とも呼ばれる、あの著名なナミレイ社長の朝堂院大覚(松浦良右)氏でさえ、小池一族、特に小池百合子氏の父勇二郎氏に振り回された一人で、著者の取材にこんなことまで答えています。

 「(勇二郎氏は)とにかく大風呂敷で平気で嘘をつく。ワシの前でもや。嘘をつくなと怒って、ポカっと殴ってやっても、ケタケタ笑っておる。…恥という感覚がないから突進していく。無茶苦茶な行動力はあるんや。でも、だからといって何ができるかというたら何もできない。法螺を吹いているだけや」

 ちなみに、勇二郎氏がカイロに日本料理店「なにわ」を出店した際、資金的に面倒を見たのがこの朝堂院氏でした。

 小池百合子氏が、「アラブ通」を看板に、「女の武器」でミニスカートをはいてキャスターに抜擢され、政界進出の際は、時の有力政治家だった細川護熙、小沢一郎、小泉純一郎各氏らを踏み台にしてのし上がっていく様は同時代人として見てきたというのに、彼女の裏の顔を知らず、みーんな騙されてきたんだなあ、と腸が煮えくりかえりそうでした。

 その点、著者が声を大にして批判するように、テレビや大新聞など彼女の虚像を作り上げたマスコミの責任は本当に大きいと思いました。小池百合子氏がカイロ遊学時代に同居した早川玲子さん(仮名)が命懸けで真実を告白したというのに、大手マスコミはほとんど取り上げず、裏を取ろうとさえしませんでした。

 3年半掛けてこの本を取材執筆した著者の力量に感服しつつ、見てはいけない嫌なものを見てしまった感じで、本当に魂が汚れました。

 追記ながら、小池百合子氏は、著者の取材依頼には一切応じず、本出版後も事実無根の名誉棄損で訴えていないようです。

 

iPhone音楽しか生き残れない?=音楽プロデューサー木崎賢治氏

 21日(日)は、東京外国語大学の同窓会の懇親会(講演会)にオンラインで参加しました。大学の同窓会、もう少し細かく言いますと、「仏友会」といってフランス語を専攻した大学の同窓会は、春と秋の年2回開催されていますが、同じ大学でも他の語学科にはないようです。別に仏語科の卒業生の結束が固いわけでもないし、どちらかと言えば、仏語出身者は個人主義者が多く、特に、私と同時期にキャンパスで過ごした学友は関心がなく殆ど参加していません。昭和初期に設立されたこの会が100年近く続いているのは七大不思議の一つになっております。

 今回のゲストスピーカーは、木崎賢治(きさき・けんじ)さんという1969年に卒業された今でも現役の音楽プロデューサーです。会に参加する度に思うのですが、本当に色々な優秀で素晴らしい先輩方がいっらしゃるものだと感心します。 

 木崎氏は、大学卒業後、芸能プロ「ナベプロ」の渡辺音楽出版に入社し、最初は、洋楽の音楽著作権管理の仕事で、海外の著作権者とのやり取りや翻訳等に従事していましたが、そのうち、ピアノも弾けるので、音楽プロデューサーに向いているという社内の人からの推薦もあって転向し、沢田研二、アグネス・チャン、山下久美子、大澤誉志幸、吉川晃司らの制作を手掛け、その後、独立して槇原敬之、福山雅治らのヒット曲も手掛けた人でした。

 話がうまくて落語家の噺を聞いているようで大変面白かったのですが、逆に言うと、この面白い話を活字に起こすとなると難行中の難行になります。話が飛んだり、文語にするには言葉足らずだったり、面白いニュアンスを伝えるのが難しいので、これは私(我)があくまでも聞いた=如是我聞=ということで、色々勝手に捕捉しながら皆さんにもお伝えしたいと思います。

 木崎氏は、小学校の頃は歌謡曲を聴いていましたが、中学生になると、当時の米軍放送FEN(現AFN)から流れる「ビルボード・トップ20」に夢中になり、ニール・セダカやポール・アンカ、エルビス・プレスリーらにはまります。でも、どちらかと言うとアーティストよりもその作詞作曲者(「ハウウンド・ドッグ」をつくったリーバー&ストーラーやゴフィン&キャロル・キングなど)やプロデューサー、エンジニアら裏方の方に興味があったといいます。

 というのも、本人も中学生の頃からギターを、高校生の頃から本格的に作曲を始め、NHKの番組「あなたのメロディー」に応募したら見事合格し、ペギー葉山さんが唄ってくれたといいます。

 高校の時にカントリーやハワイアンをやり、大学ではフォークソングをやりながら、週に1,2回も新宿のディスコで、黒人中心のR&Bを聴きながら踊り、メロディーと和音だけでなくリズムも身体で覚えたといいます。そんな音楽の素養があったのです。

 ピアノは大学生の頃から始めたとはいえ、彼の特技は採譜、つまり、楽曲を譜面に書けることでした。歌手出身の作曲家平尾昌晃さんは、五線譜が書けなかったので、担当した曲は木崎氏が採譜したといいます。

◇沢田研二「許されない愛」が大ヒット

 プロデューサーになって最初の1年ほどはヒット作に恵まれませんでしたが、沢田研二の「許されない愛」(1972年)が大ヒットします。この時、まだ25歳の若さでしたが、この曲によって自分の感性に自信が持てるようになり、その後は、著名な作詞作曲家の大先生に対しても、自分の意見を言えるようになったといいます。

 普通の人は、”音楽プロデューサー”といっても何の仕事をするのか分からないでしょうが、木崎氏の裏話を聞いて、「なるほど、そういうことをする仕事か」と分かりました。

 乱暴に言えば、歌手に合った「売れる曲」を作詞作曲家につくってもらうことです。そのためには、大先生に対して「ここを直してくれ」と直接あからさまには言えませんが、「このフレーズを繰り返して欲しい」とか「とてもいいんですが、サビがもう一つ…」などと怒られながらも提案してみたり、なだめすかしたり、ご機嫌を取ったりして、自分の感性を信じて、原曲とはかなり違っても完成させていく監督のような協力者のような助言者のような、要するに、製品として売り出していく最終的な責任者であり、製作者ということになります。

◇アグネス・チャン秘話

 アグネス・チャンのデビュー作にまつわる秘話も面白かったでした。アグネス・チャンは平尾昌晃さんが香港からスカウトしてきた歌手でしたが、平尾さんがつくった曲は、小柳ルミ子調の曲で木崎氏にはどうしても気に入らない。そこで、ヒット曲の極意が分かってきた木崎氏は森田公一さんに作曲を依頼し、それが、あのデビュー曲「ひなげしの花」(1973年)だったのです。デビュー曲が大ヒットしたのは良いのですが、怒り心頭なのは平尾昌晃さんです。「自分が見つけて来たのにどういうことか」と怒られます。そこで、木崎氏はアグネス・チャンの3枚目のシングルとして平尾氏に依頼します。それが、100万枚のヒットとなった「草原の輝き」ですが、この曲が出来上がるまでに、何度も手を変え品を変えて懇願し、怒られたり、逆に奥の手を使って勝手にフレーズを繰り返したりして、編曲者から「こんなことしたら、平尾さん、怒っちゃうんじゃないの?」と言われても「自分の感性」を強行してしまったようなのです。

◇前世代がつくったものの組み合わせ

 この後、沢田研二の「危険なふたり」(安井かずみ作詞、加瀬邦彦作曲)や「勝手にしやがれ」(阿久悠作詞、大野克夫作曲=レコード大賞、作詞家の阿久悠さんとの大喧嘩の話も面白かった)など次々とヒット曲を生み出した木崎氏は、あるヒットの法則を発見したといいます。新しいものは世の中になく、前世代がつくったものを足したり、組み合わせたりしたりしているに過ぎない。それは、バッハでもベートーベンにも言えること。大リーグでMVPを獲得した大谷翔平選手も、打つ、投げるの組み合わせでやっている。周囲から「そんなもの無理だよ」と疑いの目を見られながら二刀流の実績が残せたのもよっぽど精神力がないとできない。音楽も周りにある常識的なものを見直すことしかヒット作に導かれないのではないかー、と。

 木崎氏は最近、「プロデュースの基本」(集英社インターナショナル)という本を出版しましたが、「本人に会ってお話を伺いたい」とアプローチして来た人は、音楽関係者ではなく、IT関連の人ばかりだったといいます。

 木崎氏は「今や音楽でもiPhoneでやらなければ駄目な時代になってきた。今や若者はCDも買わず、CDはもはや絶滅危惧種に近い。こうなると、iPhoneで聴ける音楽しか生き残っていけなくなる。最近、ロックバンドが流行らなくなったのも、エレキギターのひずんだ音楽がiPhoneでは聴きづらいからでしょう」などと分析していました。「なるほど、ヒットメーカーが着目することは凡人とは違うなあ」と感心した次第です。

日本の航空の父、フォール大佐にちなんだカツレツ=所沢航空公園「割烹 美好」

 本日書くことは、単なる個人的な日記なので、読んじゃ駄目ですよ(笑)。

 11月19日(金)は本当に久しぶりに会社の元同僚のM君と新宿で一献を傾けました。彼と会ったのは5,6年ぶりか、いやもっとなるかもしれません。彼は嫌な性格で(ハッハー)、こちらが誘っても向こうは断り続け、そのうちにコロナ禍になってしまい、なかなか会えず仕舞いでした。

 私が彼を誘い続けていたのは理由(わけ)がありまして、ここでは書けませんけど、個人的に大変お世話になったことがあったからでした。まあ、ズバリ、彼には御礼をしたかったわけです。

2021年11月19日(金)新宿

 結局、彼の今の職場に近い新宿で会うことになり、私が選んだのは「呑者家」(どんじゃか)という新宿三丁目にある居酒屋さん。この店はビートたけしや「噂の真相」編集長の岡留安則氏らの行きつけの店だったということで、一度行ってみたかったからでした。

 行ってみたら、それほど広いとは言えない普通の居酒屋さんでした。金曜の夜なので、満員かと思っていましたが、まだコロナ感染の怖れで自粛している人も多く、ワリと空いておりました。

 彼とは近況を話したり、かつての同僚の話をしたり、今後の仕事の話をしたりで、ここに特記するようなことはありません。新宿に来たのも、5,6年ぶりぐらいの久しぶりで、店が変わっているところもあり、何となく、街も綺麗になった感じでした。

所沢航空公園「割烹 美好」明治15年創業の老舗

 翌11月20日(土)は、父の17回忌の法要を家族きょうだいのみで墓所がある所沢聖地霊園で執り行いました。当初は6人で行う予定でしたが、結局、母は体調不調で欠席、姉夫婦も急遽不参加となりました。東北大学の教授だった義兄の御尊父が亡くなられ、仙台で葬儀などがあったりしたためでした。

 結局、兄夫婦と私の3人だけでしたが、墓掃除をしたり、綺麗な花を飾ったり、御線香をあげたり、短くお経を唱えたりして無事、法事を済ませました。

 家のお墓の最寄り駅は、西武新宿線の航空公園駅で、近くに所沢航空公園もありますが、知る人ぞ知る日本の航空の発祥地でもあります。

所沢航空公園「割烹 美好」

 その日本の航空の発展・指導の面で大いに貢献した人が、大正8年にフランス航空教育団長として来日したフォール大佐でした。(フォール大佐の通訳を務めた麦田平雄氏の墓地は、我が家と同じ所沢聖地霊園にある、と写真にありますね!)

 そのフォール大佐が日夜、利用した割烹店が今でもあるということで、ランチに行ってみました。兄の車に乗せてもらいましたが、航空公園駅から8分ぐらいの住宅街の中にありました。

所沢航空公園「割烹 美好」フォール・カツレツセット1980円

 到着したら「満員御礼」の表示がありましたが、大丈夫。法事ということで既に1カ月近く前に予約していたからです。予約注文していた料理は、勿論、日本に航空操縦技術を伝授してくださったフォール大佐に敬意を表して「フォール・カツレツセット」です。

 カツが2枚もあってお腹いっぱいになるほどボリューム満点。フランスの軍人なら平気で平らげていたことでしょうが、日本人の年配者には少し多いかもしれません。

 でも、カツレツは、肉が柔らかく、やさしい上品な味でした。

所沢航空公園「割烹 美好」を訪れた著名人

 何と言っても、この老舗店「割烹 美好」は明治15年(1882年)創業ということですから、これまで色んな著名人が訪れています。

 テレビ番組のグルメレポーターやタレントさん、芸能人らの写真が廊下の壁にベタベタと飾られておりましたが、特筆すべきは上の写真です。

 ノーベル物理学賞の湯川秀樹博士、国連事務次長、東京女子大学長などを歴任し、五千円札の肖像にもなった新渡戸稲造、満鉄総裁、東京市長などを歴任した後藤新平、それに地球物理学者で東京帝大付属航空研究所顧問なども務めた田中館愛橘、日本航空界の先駆者で陸軍航空を創設・育成した徳川好敏(御三卿清水徳川家八代当主、男爵)もいます。

 へー、と思ってしまいました。彼らもフォール・カツレツを召し上がったのかしら?

 

生まれか、育ちか?=石井妙子著「女帝 小池百合子」を読んで

 「電車内無差別放火殺人未遂事件」「投資詐欺事件」等々、昨今跋扈する事件のニュースに接すると、世の中には、「罪悪感がない人」「自責の念に駆られない人」「良心の呵責がない人」が確実に存在することが分かります。それは、脳の仕組みから来るのか、DNAから来るのか、突然変異なのか、育った環境がそうさせるのか(nature or nurture)、よく分かりませんが、こういった悪質な事件が世に絶えないという事実が、そういった人が存在するということを証明してくれます。

 「平気で嘘をつく人」も、大事件を起こす人と比べればかわいいものかもしれませんが、その人が異様な権力志向の持ち主で、目的を達成するために手段を選ばないタイプの人であれば、多くの人に甚大な影響を与えます。

 今読んでいる石井妙子著「女帝 小池百合子」(文藝春秋)は、2020年5月30日初版ということですから、1年半も待ったことになります。「待った」ということは、そういうことです(笑)。著者の石井氏は、彼女のデビュー作「おそめ」を読んでますし、大宅壮一賞を受賞するなど大変力量のあるノンフィクション作家であることは認めており、一刻も早く読みたかったのですが、どうもこの本だけは「所有」したくなかったのです。

 個人的感慨ではありますが、何となく魂が汚れる気がしたからでした。

 まだ読み始めたばかりですが、私の予感は当たっていました。主人公は、個人的にはとても好きになれない、近づきたくもない、平気で嘘をつく人でした。

 例えば、2016年の東京都知事選で、ライバル候補の鳥越俊太郎氏について、彼女が「鳥越氏は(がんの手術をした)病み上がり」と選挙運動中に中傷した場面が何度も何度もテレビに流れます。両者は、「テレビ対決」となり、鳥越氏は、小池氏に「あなたは私のことを『病み上がり』と言ったでしょ」と非難すると、彼女は「私、そんなこと言ってません」と堂々と否定したというのです。

 小池百合子氏が公職に立候補するたびに「学歴詐称」問題が浮上していた「カイロ大学 首席卒業」の経歴についても、アラビア語の口語もできない彼女が、現地人でさえ難解の文語までマスターしてわずか4年で卒業できるのは奇跡に近い、と証言する人が多いのです。例えば、日本人で初めてカイロ大学を卒業した小笠原良治大東文化大学名誉教授は、群を抜く語学力で一心不乱に勉強したにも関わらず留年を繰り返し、卒業するまで7年かかったといいます。カイロ留学時に部屋をシェアしていた同居女性早川玲子さん(仮名)も「カイロ大学は1976年の進級試験に合格できず、従って卒業していません」と明言しても、小池氏はテレビカメラの前で、自信たっぷりに「卒業証書」なるものをチラッと見せて、もう漫画の世界です。(嘘か誠か、カイロ市内では偽の大学卒業証明書はよく売られているとか)

銀座「ルーツトーキョー」大分黒和牛ステーキ定食(珈琲付)1500円

 でも、「この親にしてこの子」(またはその逆)とよく言いますから、小池百合子氏より、その父勇二郎氏の方が遥かに破天荒かもしれません。政治家や有力者に近づいて、よく分からない事業を始めて失敗したり、突然、昭和43年に参院選に立候補して落選したり(この時、選挙戦を手伝ったのが、後に自民党衆院議員になる鴻池祥肇氏だったり、後に東京都副知事に上り詰める浜渦武生氏だったりしていたとは!)、日本アラブ協会に入会して、直接アラブ諸国から石油を輸入しようと図ったり、(これがきっかけで、エジプトの高官に自分を売り込み、娘のエジプトとの関係につながっていく)、大言壮語で、平気で嘘をついて、借金を返さなかったり…、いやはや、とてつもない香具師と言ってもおかしくはない人物だったからです。

 超富裕層が住む芦屋のお嬢様を「売り」にしていた小池氏の住んでいたかつての自宅を著者が訪れると、正確にはそこは「芦屋」ではなかったことも書かれています。(マスコミが彼女の虚像を流布した責任が大きいと著者は批判しています)大した家産もないのに見栄をはることだけは人一倍大きかった小池家でした。雑誌等に載った学生時代の同級生らの談話を集めたり、周囲に取材したりして、その「実体」を暴く手腕は、著者の石井氏の真骨頂です。でも、多少、露悪趣味的なところがあり、いくら公人とはいえ、ほんの少しだけ小池氏が可哀想でもあり、見てはいけないものまで見てしまった感じで、最後まで読破することが何となく苦痛です。

 ここまで暴かれてしまえば、普通の人ならとても生きていけないのですが、小池氏はこの本をわざと読まないのか、読んでも全く気にしないのか(「嘘も百回言えば真実になる」と言ったナチスの宣伝相ゲッペルスの名言が思い浮かびます)、その後、一向に不明を恥じて公職を辞任しようとした試しは一度もありませんでした。

 人としての品性や品格が凡人とは全く違うことを再認識せざるを得ませんが、どうして、このような人間が生まれて育ってしまうのか、といったその由来、経歴、因果関係は、この本を読むとよーく分かります。今さらながらですが、大変な力作です。