「帝国陸軍の恥」と「電気化学工業の父」=ノンフィクション作家斎藤充功氏と懇談

 参りました。スマホの通信が不調でアプリが繋がらなくなり、ブログの更新もうまくできなくなりました。困ったもんですが、様子見するしかないようです。やっぱ、安い携帯通信事業者じゃ、「安かろう悪かろう」になってしまうんですかね?(後でスマホを「再起動」したら、繋がるようになりました!)

 17日(金)は、またまたノンフィクション作家の斎藤充功氏からのお招きで、都内某所で忘年会のような飲み会に参加しました。滅多にないことですが、この日は仕事で遅くなってしまい、約束の時間に間に合わず、申し訳ないですが、20分程遅れてしまいました。

 そしたら、約束した居酒屋に向かおうとしたら、斎藤氏から電話が掛かってきて、「その店は客あしらいが悪いのでもう出て来ましたよ。今、外で煙草を吸ってます。他の店にしましょう」と仰るではありませんか。結局、次に行った店も、注文しても、若いお兄さんが「ちょっと待ってください。順番でやってますから!」と怒ったような大声を出すし、斎藤氏が灰皿をお願いしても忘れて持ってこないし、またまた客あしらいの悪い、感じの悪い店でした。「都内某所」と書いたのは、その店がある街の名誉のために敢えて伏せておきまする(笑)。

 前回10月28日付渓流斎ブログ「久しぶりの痛飲=S氏の御先祖様は幕臣旗本だった」にも書きましたが、斎藤氏の大正生まれの御尊父は、陸軍大学卒のエリート軍人、明治生まれの祖父は、海軍兵学校卒の海軍大佐、江戸幕末生まれの曽祖父は、六百石扶持の馬廻役の直参旗本だったいう血筋の良さですが、御本人は国立大学を中退して、ヤクザな?フリーランスの操觚之士となった方です。「文藝春秋」や「新潮45」(休刊)などの名物ライターとなり、今年は600ページを越す「中野学校全史」(論創者)や「ルポ老人受刑者」(中央公論新社)などを出版するなど、これまで出した本は50冊以上で、80歳となった現在でも現役として活動されている、まあ化け物みたいな方です(笑)。

 斎藤氏は、若い編集者からは「スーパー爺さん」と陰口を叩かれているらしいのですが、その人並み外れたバイタリティーは、何処から来るのか不思議です。「わたしは100歳まで現役を続けるつもりです」と豪語する斎藤氏に対して、私も思わず、「その原動力は何処から来るのですか?」と尋ねてみました。 

 すると、一言、「好奇心です」と仰るではありませんか。

 私なんか、もうこの年で、楽(ラク)して儲けようとしている詐欺師ばかりがのさばる社会の矛盾には白けてしまい、もうあまり気力も好奇心もなくなってきましたが、いつまでも青年のような好奇心を失わない斎藤氏はやはり只者ではありませんでした。

 斎藤氏の最近の「お仕事」としては、現在、千葉県市川市にある「国立国際医療研究センター国府台病院」は、実は、戦前は精神疾患を発症した皇軍将兵を収容し治療していた「国府台衛戍病院」(昭和から「国府台陸軍病院」)だったにも関わらず、「帝国陸軍の恥」として「歴史」から抹殺され、現在ではセンター病院に勤めている人でさえほとんど知らない実態をルポにまとめておられました。

 斎藤茂吉の子息で「モタさん」の愛称でも知られる精神科医の斎藤茂太も、若い頃にこの国府台陸軍病院に勤務していたそうです。

 「わたしは埋もれた歴史を掘り起こすことが好きなんですね。語弊があるかもしれませんけど、資料がなければ歴史が書けない学者とは違うんですよ」と酒の勢いもあってか、斎藤氏は絶好調でした。

◇「政商」野口遵とは?

 もう一つ、現在、取材と執筆を並行して行っているのが、野口遵(のぐち・したがう=1873~1944年)という化学者の評伝だといいます。私自身は不勉強で、この野口さんのことを全く知りませんでしたが、とてつもない人物でした。金沢の前田藩士の子息として生まれ、東京帝大電気工学科を出た技師でしたが、シーメンス入社後、独立して日本で初めてカーバイド製造事業を始め、それが現在のチッソ(旧・日本窒素肥料)や旭化成、積水化学、信越化学などの礎になっているというのです。ま、これら超一流企業の創業者と言っていいでしょう。

 野口は、「政商」として植民地時代の朝鮮にも進出して、大規模な水力発電所を幾つも建設し、「朝鮮半島の事業王」とも「電気化学工業の父」とも呼ばれ、巨万の富を築いた人だったと言われます。

 確かに、私が知らなかっただけかもしれませんが、歴史に埋もれた人物を発掘して現代に蘇らせる仕事は斎藤氏の真骨頂とも言えます。本が完成したら私も読みたいと思いました。

 同時に、こんな凄い先生なのに、あしらいの悪いお店のお兄ちゃんはどうにかならんものか、と思いましたよ。世の中、そんなもんですかねえ…。

良心の呵責があっては妨げになるのか?=森友学園問題を巡る財務局元職員遺族訴訟の幕引き

 森友学園問題に関する財務省の決裁文書改竄を苦にして、2018年に自殺した財務省近畿財務局の元職員赤木俊夫さん=当時(54)=の妻雅子さん(50)が、国などに損害賠償を求めた訴訟は15日、急転直下、国が約1億円の賠償請求を受け入れることで幕引きを図りました。

 当然のことながら、遺族の雅子さんは「お金目的ではなく、真相を究明してもらいたいだけ。非公開の場で臭い物に蓋をするようなやり方は卑怯だ」と反発しました。

 私も大いに同調します。

 新聞もテレビも大きく報じましたが、一番分かりやすかったのが、16日付東京新聞朝刊です。見出し四段で「森友訴訟 急転幕引き」と取り、横見出しで「職員自殺 国が1億円賠償へ」となっています。

 確かに、お金の問題ではありませんが、1億円を賠償するこの「国」って何なんだ?とこの見出しを読むと大いなる疑問が浮かんで来ます。そして、冷静に考えると、結局、その賠償金は、税金から支払われることに気が付きます。つまり、誰が責任を取ったかというと、国でも財務省理財局長だった佐川宣寿元国税庁長官でもなく、税金を負担している国民だったということが分かります。この許せない事実がこの見出しに込められているように私には思えました。

鎌倉・円覚寺

 妻の雅子さんの「夫は国にまた殺された」という叫びと非難は、非常に切実なものがあります。

 この改ざん問題は、安倍晋三首相に忖度し、自己の出世欲に目が眩んだ佐川理財局長が、強引に赤木さんに指示したのではないかという説が濃厚です。佐川氏に対する訴訟だけは継続される、と表向きでは言われていますが、大本の権力者が安泰である限り、裁判官の斟酌は半永久的に不滅でしょう。

 その大本権力者である安倍元首相は、有権者の票が欲しいので「桜を見る会」で地元民を優遇した人でもあります。しかも、その財源は国民の税金です。彼は、最高権力者のポストは降りても、キングメーカーとして院政を敷いて権力を護持する計画だといわれてますから、また国民がツケを支払わされるのではないかと危惧されています。

 どうも、人が亡くなったというのに、権力者というのは良心の呵責も、自己嫌悪も、反省もしないのでしょうか? それとも、良心の呵責も自己嫌悪も反省もしない人間が、権力者になるのでしょうか? 鶏が先か卵が先か、みたいな話でしょうが、それらの条件は、不即不離の関係にあることは間違いないと私は思っています。

鎌倉・円覚寺

 そもそも、これは世界的傾向ですが、罪悪感を覚えたり、良心の呵責に駆られたり、自己嫌悪に陥っていたりしては、為政者なんかやってられませんからね。

 私自身は、「蟷螂の斧」と分かっていながら、またこんなことを書いて、自己嫌悪に陥りそうです(苦笑)。

【追記】(12月17日)

 12月16日付東京朝日新聞夕刊一面の名物コラム「素粒子」に掲載されていた記事。

 「ふざけんな」。真相解明を税金で止めるなんて。森友訴訟、上司の証言ないまま。

   ×  ×

 この約1億円の賠償金支出は、納税者として許し難い。

 たった、わずか二行で、昨日書いた私の記事を表現している。逆に言えば、私の言いたいことなんぞ、ダラダラと書かなくても、二行で済む、てか?

「従三位」と「正六位」の違いは何か?=位階(叙位)について考える

 私は自己嫌悪感が強い人間なのか、自分が書いた記事に関してはすぐ反省して取り消したくなります(苦笑)。ブログを毎日のように書き続けているのは、前日に書いた記事を否定したく、いや、否定してしまっては元も子もないので、前日書いた記事より、もっと上手く書きたい、もっと面白いものを書きたい、と願っているせいなのかもしれません(笑)。

 ということで、唐突ながら、本日は「叙位叙勲」のお話に致します。国の栄典には、位階(叙位)、勲章(叙勲)と褒章があります。位階は、正一位から従八位まで正従各8階の16階があり、亡くなられた方に対して運用されます。

 勲章は、大勲位菊花章頸飾から旭日単光章・瑞宝単光章まで15章あり、「国家又は公共に対し功労のある方」らに授与されます。

 褒章は、紅綬褒章から飾版まで8章ありますが、学者や芸能人、スポーツ選手らに授与される紫綬褒章が一番馴染み深いかもしれません。

 これらについて、全部書いていたらキリがないので、本日は叙位(位階)の話に絞ります。何しろ、叙位は、古代律令制から始まり、敗戦で一時途切れても、我が国では1300年以上、連綿と続けられてきたからです。(叙位叙勲は、閣議決定により昭和21年5月に停止され、昭和39年4月に復活した)

 あの代表的な戦国武将である織田信長でさえ正二位・右大臣、豊臣秀吉は従一位・関白太政大臣、徳川家康は従一位・征夷大将軍・太政大臣を朝廷から受けています。

 一方、古代から中世にかけて、中央から地方行政単位である国の行政官として派遣された官吏は国司と呼ばれましたが、「守(かみ)」「介(すけ)」「掾(じょう)」「目(さかん)」の四等官が派遣されました。例えば、越前国なら「越前守」「越前介」「越前掾」「越前目」といった具合です。地方の「国」には「大国」「上国」「中国」「下国」の分類がありましたが、武蔵や播磨などの大国の場合、それらの位階を当てはめると、「守」は従五位、「介」は正六位、「掾」は正七位、「目」は従八位でした。地方官のせいなのか、それほど高い地位ではなかったのです。(中央の上級官人=貴族=は、太政大臣=正一位・従一位、左大臣=正二位、右大臣=従二位、大納言=正三位、中納言=従三位、参議=正四位…となっていました)

鎌倉・円覚寺 聖観音像

 これらのことを「目安」として頭に入れて頂いて、現代の話に戻します。現在も位階は、天皇の裁可によって、亡くなった方に授与されています。意外と知られていませんが、企業のトップや議会議員だけでなく、かなりの数で学校の校長先生にも叙位されているのです。地方自治体などからの推薦がありますが、最終的に取りまとめているのが、内閣府大臣官房人事課恩賞係というところです。

 さて、この位階の基準がよく分かりません。例えば、この人は「正五位」だけど、この人は「従五位」にしよう、といったことを誰が、どんな基準で決めているのか、外部からは全く分かりません。でも、少し想像だけはできます。

 ごく近々の話では、「ゴルゴ13」で知られる劇画作家のさいとう・たかを(本名斉藤隆夫)さんは今年9月に84歳で亡くなりましたが、授与された位階は「正六位」でした。意外にも低いので、この論考?を書くきっかけとなりました。何故なら、「正六位」は大体、小・中学校の校長経験者に多く授与される位階だからです。高校の校長となると、「従五位」前後が多く、大学の教授クラスともなると、「従四位」か「正四位」といった感じです。この中で、私大の名誉教授は「従四位」、国立大学名誉教授、それも特に、東大、京大など旧帝大系となると「正四位」となる傾向が強いのです。

 特例は、昨年12月に90歳で亡くなった物理学者の有馬朗人氏で、破格の?「正三位」でした。元東大学長だった上、文部大臣を務め、文化勲章まで受章したということからの判断だと思われます。

鎌倉・円覚寺

 位階は死後授与ですから、やはり生前に日本芸術院会員や文化勲章などを受章されていたりすると、位階が上がると思われます。

 松山バレエ団創立者の松山樹子(本名清水樹子)さんは「正六位」、作曲家のすぎやまこういち(本名椙山浩一)さんは、文化功労者であっても「従四位」でしたが、「渡る世間は鬼ばかり」などで知られる脚本家の橋田壽賀子(本名岩崎壽賀子)さん(今年4月、行年95歳)と、11月に99歳で亡くなった作家の瀬戸内寂聴さんは、ともに「従三位」でした。お二人とも文化勲章受章者だということが効いているのではないかと推測されます。

MD再生機が壊れてしもうたぁ…

 うーん、今年4月に買ったばかりのMD(ミニディスク)プレーヤー(2万5980円)がもう故障してしまいました。

 まだ8カ月しか経っていませんが、もともと、中古品だったので、保証期間がわずか3カ月しかありませんでした。せめて、あと数年は持つかと思っていましたから、茫然自失です。15年間も使っていた全く同じメーカーの機種を探して、再度、中古で購入したのですが、愛着があったからです。

 このMD再生機には、CDプレーヤーとラジオも付いていますが、CDもラジオも異常なしなのに、壊れたのはMDだけです。読み取りができなくなり、挿入してもMDがすぐエジェクト(排出)されてしまいます。故障しても、修理してくれるところがないということが最大の障害です。

 不吉な予感はありました。先日(12月3日)、「さよならMD、店頭からも辞書からも 平成に刻まれた思い出は消えず」という朝日新聞の記事を読んだばかりでした。既に、音響機器「ティアック」が昨年12月にMDプレーヤーの生産を終了してしまったらしく、「こりゃ、やばいなあ」と感じていたのでした。

 この記事によると、MDシステムはソニーが開発し、1991年に発表したといいます。となると、たった、わずか、30年も経たずに「終わっちまうのかえ」と言いたくなります。

 思い起こせば、私の世代は、音響機器に関しては随分と振り回されました。録音再生機だけに絞っても、最初、1960年代はオープンリールのテープでしたが、70年代はカセットテープ全盛時代です。90年代からMDになったというのでしたら、カセット時代は20年しか続かなかったということになりますか。えっ?意外にもMDより短かったの?

 MDが衰退してしまった今は、スマホ(のハードディスク)にダウンロードするか、USBに「録音」するという時代なのでしょうか。

 でも、私の場合、MDには学生時代のバンドの演奏とか、ラジオで録音した好きなジャズとか貴重な音源がいっぱい収録されています。それに、いまだに、英語とフランス語の語学学習はNHKラジオを聴いているので、MD録音は欠かせません。とにかく、MD再生機がないと困っちゃうなあ…(山本リンダ)。

 MDプレーヤーは、ネット通販で購入したのですが、そこのサイトを確認したら、「修理があればメールしてください」とアドレスが公表されていたので、メールしてみました。

 でも、土日を挟むとはいえ、5日も経つというのに何の返信もなし。ま、「もう諦めるしかないかなあ」と悟り始めています。

 となると、「MDのない生活」を考えなければなりません。差し当たって、語学学習は、1週間遅れにはなりますが、スマホのアプリで再生して聴くことができます。録音したMDは捨てずにとっておきますが、プレーヤーは、これからラジオとCDを聴くしかないようです。

 でも、こういうことがあると、「永久保存版」だの「永遠」だのという言葉はあり得ないということを実感しましたよ。どうせ、死んだら、私のMDもゴミとして処分されることでしょうし、まあ、「生きているうちが華」という格言しかないということです。

鎌倉五山の円覚寺~浄智寺~建長寺~寿福寺、そして源義朝、太田道灌ゆかりの英勝寺に参拝

 12月12日の日曜日、思い立って、「鎌倉五山」巡りを決行して来ました。

 「鎌倉五山」とは、御説明するまでもなく、神奈川県鎌倉市にある臨済宗の禅寺で、第一位建長寺、第二位円覚寺、第三位寿福寺、第四位浄智寺、第五位浄妙寺の寺院とその寺格のことで、一説では北条氏によって制定されたといいます。

 「京都五山」(別格南禅寺、第一位天竜寺、第二位相国寺、第三位建仁寺、第四位東福寺、第五位万寿寺)と対をなしていますが、残念ながら、その規模や雄大さ、壮麗さ等を含めて鎌倉五山の方がどうしても見衰えしてしまいますが、国宝、重文級のものもあり、とても等閑にはできません。

 来年(2022年)というより、来月から始まるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送されれば、鎌倉はまためっちゃ混みますから、人混みを避けたかったのでした。

鎌倉五山第二位 円覚寺
鎌倉五山第二位 円覚寺

 皆様御案内の通り、私自身、鎌倉五山第五位の浄妙寺に関しては既に昨年8月にお参りしたばかりですので、今回は、残りの4寺院をお参り致しました。(浄妙寺は、「八幡太郎義家」こと源義家のひ孫で足利氏二代目義兼(よしかね)が1188年に創建。2020年8月12日付の渓流斎日乗「いざ鎌倉への歴史散歩=覚園寺、鎌倉宮、永福寺跡、大蔵幕府跡、法華堂跡、浄妙寺、報国寺」をご参照)

 まずは第二位の円覚寺を目指しました。JR横須賀線の北鎌倉駅からすぐ近くです。

 円覚寺(拝観志納金500円)はかつて数回はお参りしていますが、もう20年ぶりか、30年ぶりぐらいです。もうほとんど覚えていません。

鎌倉五山第二位 円覚寺 山門

 円覚寺といえば、私の場合、すぐ夏目漱石のことを思い起こします。三部作の最後に当たる「門」の舞台になったところで、漱石自身もここの宿坊「帰源院」で明治27年12月下旬から1月7日まで座禅修行したことがありました。横須賀線は明治22年に開通しています。

 現在も座禅が出来るようですが、一般といいますか、在家向けは、新型コロナの影響で結構中止になったようです。

鎌倉五山第二位 円覚寺

 円覚寺は1282年創建、第八代執権北条時宗が蘭渓道隆亡き後、中国から招いた無学祖元(後の仏光国師)が開山しました。その2年後に亡くなった時宗と九代貞時、最後の十四代執権高時をお祀りしています。

 
鎌倉五山第二位 円覚寺 舎利殿(国宝)

 円覚寺といえば、何と言っても国宝の舎利殿(仏陀の歯牙をお祀りしている)ですが、お正月三が日など特別な期間以外は拝観制限されているとのことで、遠くから写真を撮るのみでした。

 この舎利殿は、三代将軍源実朝が、宋の能仁寺から請来したもので、鎌倉の太平寺(尼寺・廃寺)から仏殿(鎌倉末~室町初期に再建)を移築したものだといいます。

鎌倉五山第四位 浄智寺 鎌倉では珍しい唐様の鐘楼門
鎌倉五山第四位 浄智寺

 次に向かったのが、 鎌倉五山第四位の浄智寺 (拝観志納金200円)です。円覚寺から迷わなければ、歩7,8分というところでしょうか。途中、駆け込み寺として有名な東慶寺がありましたが、我慢して通り過ぎました。

 浄智寺の正式名称は、臨済宗円覚寺派金宝山浄智寺です。第五代執権北条時頼の三男宗政の菩提を弔うために1281年頃に創建されました。開基は宗政夫人と諸時親子。開山は、建長寺第2代住職も務めた中国僧兀庵普寧(ごったん ふねい)ら3人です。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 御本尊は、阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒如来の木造三世仏坐像(神奈川県重要文化財)です。

 これは、後で知ったのですが、映画「ツィゴイネルワイゼン」や「武士の一分」などが境内で撮影され、映画監督の小津安二郎や日本画家小倉遊亀らがこの寺域で暮らし、墓所には作家澁澤龍彦らが眠っております。

鎌倉五山第一位 建長寺
鎌倉五山第一位 建長寺

 次に向かったのが 鎌倉五山第一位の建長寺(拝観志納金500円)です。やはり、第一位だけに迫力が違いました(笑)。かつて、一度は参拝したことがあったのですが、これまた全く記憶にありません(苦笑)。

 100年の歴史がある進学校「鎌倉学園」(加藤力之輔画伯、サザンの桑田佳祐の出身校)が隣接していたことも今回初めて知りました。

 正式名称は巨福山(こふくざん)建長興国禅寺。上の写真の 巨福山 の「巨」の字に点が付いているのは、十代住職一山一寧(いっさんいちねい)が筆の勢いに任せて書いてしまったといいます。しかし、結果的にその点が全体を引き締めて百貫の値を添えたことから「百貫点」と呼ばれるようになったといいます。

鎌倉五山第一位 建長寺 三門

 建長寺は、建長5年(1253年)、五代執権北条時頼が建立した我が国最初の禅宗専門寺院です。開山(創始者)は、中国の宋から33歳の時に来日した蘭渓道隆(後の大覚禅師)です。

 上の写真の「三門」は国の重要文化財に指定されています。三門とは、三解脱門の略で、「空」「無相」「無作」を表し、この三門をくぐることによって、あらゆる執着から解き放たれることを意味するといいます。

 神社の鳥居のような役目を果たしていたんですね。

鎌倉五山第一位 建長寺

 この梵鐘は国宝です。重さ2.7トン。開山した大覚禅師の銘文もあります。

 この梵鐘から、夏目漱石が「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」という句をよみました(明治28年9月)。これに影響されて、漱石の親友正岡子規が「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を作ったと言われます。漱石が子規の影響を受けたのではなく、その逆です。

鎌倉五山第一位 建長寺 仏殿 地蔵菩薩坐像

仏殿は、国の重文で、 地蔵菩薩坐像 が安置されています。

 現在の建物は四代目で、東京・芝の増上寺にあった二代将軍徳川秀忠夫人お江の方(三代家光の母)の霊屋を建長寺が譲り受けたといいます。

鎌倉五山第一位 建長寺 法堂 千手観音菩薩 雲龍図(小泉淳作画伯)

  法堂は、僧侶が住持の説法を聴き、修行の眼目とした道場です。388人の僧侶がいたという記録もあります。現在の建物は、文化11年(1814年)に再建されたもので、御本尊は、千手観音菩薩です。天井の「雲龍図」は建長寺創建750年を記念して、小泉淳作画伯によって描かれました。

 小泉淳作画伯は、京都の建仁寺の「双龍図」も描かれています。

 小泉淳作画伯の美術館は私もかつて仕事で赴任したことがある北海道十勝の中札内村にあります。確か、小泉画伯は、このような壮大な雲龍図などは、廃校になった小学校の体育館をアトリエにして描いていたと思います。

鎌倉五山第一位 建長寺 葛西善蔵之墓

 境内には、太宰治も敬愛した無頼派の元祖とも言われる私小説作家の葛西善蔵の墓がある、とガイドブックにあったのでお参りしてきました。

 案内表示がないので、結構迷いましたが、階段を昇った高台にありました。葛西善蔵は、極貧の中、昭和3年に42歳の若さで亡くなっていますが、今でも新しいお花が生けてありました。忘れられた作家だと思っていたので、いまだに根強いファンがいらっしゃると思うと感激してしまいました。

鎌倉市山ノ内 カフェ「Sakura」 ビーフカレー(珈琲付)1300円

 時刻も午後1時近くになり、お腹も空いてきたのでランチを取ることにしました。本当は、ガイドブックに出ていた「去来庵」という店で名物のシチューでも食べようかと思ったら、コロナの影響で、喫茶のみの営業でしたので諦め、建長寺近くにあったカフェに入りました。

 量的には少なかったのですが、大盛にすると1500円です(笑)。でも、お店のマダムはとても感じが良い人だったので、また機会があれば行きたいと思わせる店でした。

浄土宗 東光山英勝寺
浄土宗 東光山英勝寺

次に向かったのが、最後に残った 鎌倉五山第三位の寿福寺 です。

ランチを取ったカフェの目の前の亀ヶ谷坂切り通しを通りましたが、「切り通し」というくらいですから、中世に谷間を削って出来た人工的な道ですから、かなりの急勾配でした。

 建長寺辺りは「山ノ内」で、この 亀ヶ谷坂切り通し辺りから「扇が谷」という地名になります。歴史好きの人ならすぐピンとくるでしょうが、室町時代になると、関東管領の山ノ内上杉家と扇が谷上杉家とが熾烈な争いをします。両家の勢力圏がこんな近くに隣接していたとは行ってみて初めて分かりました。

 寿福寺に行く途中で、全く予定のなかった「鎌倉五山」ではない英勝寺を通り過ぎようとしたところ、上の写真の「太田道灌旧邸跡」の碑があったので吃驚仰天。予定を変更してこの浄土宗東光山英勝寺(拝観志納金300円)もお参りすることにしました。

 英勝寺自体は、太田道灌から数えて4代目の康資(やすすけ)の娘で、徳川家康の側室、お勝の方(英勝院)が1636年に創建した鎌倉唯一の尼寺です。

 太田道灌は江戸城や河越城などを築城した武将ですが、扇ケ谷上杉氏の家宰だったので、ここに邸宅があったのですね。

浄土宗東光山英勝寺の御本尊、阿弥陀如来三尊像は運慶作ということですが、国宝に指定されていないのでしょうか?

 でも、太田道灌で驚いていてはいけません。

 英勝寺の「拝観のしおり」には、ここは平安時代末期に、源頼朝の父義朝の屋敷だったというのです。「えーー、早く言ってよお」てな感じです。

 源義朝と言えば、保元・平治の乱で活躍した人で、義朝は平治の乱で平清盛らに敗れて敗走し、途中尾張で部下に殺害されたと言われます。行年36歳。お蔭で、嫡男頼朝は幼かったので伊豆に流され、その後、その土地の北条政子と結婚し、鎌倉幕府を築いていく話は誰でも知っていることでしょうが、頼朝の父義朝が鎌倉に居を構えていたことを知る人は少ないと思います。

 源頼朝の生地は、母の実家がある尾張の熱田神宮の近くと言われますが、父義朝が鎌倉に所縁があったので鎌倉に幕府を開くことにしたのでしょうか? 幼い時に、この鎌倉の義朝邸に頼朝も住んだことがあったのでしょうか?

鎌倉五山第三位 寿福寺
鎌倉五山第三位 寿福寺

 今回、最後に参拝したのは、英勝寺に隣接していた鎌倉五山第三位の寿福寺でした。

 ここは山門から堂宇にかけては非公開なので、拝観志納金もないのですが、そのためパンフレットもありません。

 でも、上の看板にある通り、とても重要な寺院なのです。

鎌倉五山第三位 寿福寺 中門

 何と言っても、正治2年(1200年)、頼朝の妻政子が開基し、日本の臨済宗の開祖栄西が開山した鎌倉五山最古の寺院なのです。

鎌倉五山第三位 寿福寺 北条政子之墓

 境内には北条政子と、政子の次男で暗殺された三代将軍源実朝ののやぐら(墓地)もあります。

鎌倉五山第三位 寿福寺 源実朝之墓

 標識があまりないので、恐らく、一番奥まったところにあるのだろう、と勝手に想像して、やっと探し当てました。

 実朝は、将軍ながら「金槐和歌集」でも有名な歌人でもありました。大海の磯もとどろに寄する波破れて砕けて裂けて散るかも なんて良いですよね。

鶴岡八幡宮で、甥の公暁に暗殺されたのは1219年。今から800余年前のことです。やぐらの写真を撮らさせて頂いたところ、何か、無念のまま亡くなった右大臣実朝将軍の霊がこちらに迫ってきたような感じがしました。

80年前の12月8日に起きたこと

 今年の12月8日は、昭和16年(1941年)の「真珠湾攻撃」から80年ということで、新聞、テレビ等では大きく特集記事が組まれたり、特集番組が放送されました。私も、結構、見たり読んだりしました。

 この中で、特に印象に残ったことは、「特殊潜航艇」と呼ばれる小型潜水艦で真珠湾攻撃に参加して戦死した9人が「軍神・特攻隊九将士」として崇められて大きく報道された一方、一人だけ生き残った戦士がいて、その人は長らく記録から抹殺されていた史実でした。この人は、酒巻和男・元海軍少尉(1918~99)で、日本人捕虜第一号でもありました。(今年、愛媛県佐多岬半島に彼ら10人の慰霊碑が建てられ、酒巻さんもやっと戦友の仲間入りをすることができました)

 当時は「生きて虜囚の辱を受けず」という1941年1月8日に東条英機陸相によって布達された「戦陣訓」によって、軍人は敵の捕虜になってはいけなく、死を強要していました。捕虜になれば、本人だけではなく、家族にも被害が及ぶ危険があったため、酒巻さんも自決を望みましたが、日露戦争で捕虜になった経験を持つハワイ浄土宗第8代総長の名護忍亮師から説得され、逆に後から収容されてきた日本人捕虜に対して、生き抜くことを説得するようになります。

 戦後に帰国した酒巻さんは、その後、トヨタ自動車に入社し、ブラジルの現地法人の社長になるまで活躍したようです。

 この酒巻氏については、今年は大手紙やNHKにまで取り上げられただけでなく、既に、ウィキペディアにまで登録されていたので驚きました。

銀座3丁目「Le vin et la viande」(ワインとお肉)

 もう一つは、12月8日付の朝日新聞に出ていた「『12月8日開戦』の意味」特集の中の地理学者・歴史研究家の高嶋伸欣氏のインタビュー記事です。これまでマレー半島に赴いて100回以上も調査した高嶋氏は「日本では真珠湾攻撃でアジア太平洋戦争が始まったという認識が一般的ですが、それは違います。海軍の真珠湾攻撃よりも1時間5分早く、陸軍がマレー半島の英領コタバルに上陸し、英軍と戦っています」と力説しています。

 はい、そのことは、勉強家の?私も存じ上げておりました。

 しかし、高嶋氏の「日本軍はコタバルより少し北にあるマレー半島東岸のタイのシンゴラにも上陸しています。しかし、その前年に日本はタイの中立尊重を保障した日タイ友好和親条約を締結しています。にもかかわらず、一方的に独立国のタイに奇襲上陸したのです」と発言しています。

 これは不勉強の私は、全く知りませんでした。恥じ入るばかりです。調べてみたら、確かに、1年前の1940年6月12日に外相官邸で有田八郎外相とセナ・タイ国在京公使との間で 日タイ友好和親条約 が締結されています。

 そして、高嶋氏は「ソ連軍の旧満洲への侵攻は日ソ中立条約違反だと言われますが、日本はそれと同じことをタイに行っているのです」と続けるのです。

 確かに、これまで我々日本人は、ヤルタ密約で一方的に条約を破棄して満洲(中国東北部)に侵攻した極悪非道のソ連スターリン政権を批判続けてきましたが、日本も同じアジア民族に対して酷いことをやったことを認めざるを得ません。自虐史観批判者や歴史修正主義者たちが何を言っても、です。

銀座3丁目「Le vin et la viande」ハンバーグステーキ・ランチ1000円 本文と関係ないじゃないか!

いざ「竹葉亭」へ=ポイント乞食、老舗鰻屋に走る

 本日は、通勤途中、朝っぱらから原付バイクに乗った若いおまりさんから追い駆けられて叱られました。詳細は省きますが、嫌なことがあったので、通勤定期を買ったりして溜まっていたJRのスイカのビューカードに付いたポイントを今朝、駅にある「ビューアルッテ」で交換してきました。数千ポイント溜まっていたので、そのまま数千円分使えることができます。

 さて、どうしようか。差し当たって、今欲しいものは特にありません。いや、あるんですけど、それは、ジョン・レノンがはめていたパテック・フィリップの高級腕時計で、それは数千円ではなく、数千万円もするので、買えるわけありません(笑)。

 そこで、本日は高級ランチに行くことにしました。今、喉から手が出そうで出ない高級ランチと言えば、ここしばらく御無沙汰の鰻です。そして、鰻といえば、銀座界隈で食すとなると築地の「竹葉亭」に決まってます。竹葉亭は銀座5丁目にもありますが、やはり、本店の築地の方が落ち着いて食すことができます。

築地「竹葉亭」鰻お丼B 3520円

 このコロナ禍による不景気のご時世だというのに、店内はほぼ満杯で、少し待たされました。

 こっちはポイントで稼いだ余剰金があるので、大船に乗ったつもりで、「 鰻お丼」のAではなく、少し高いBを注文しました。

 さすが、幕末創業の竹葉亭。文句なしのお味でした。

 さて、お隣の席は、初老の紳士と三十路そこそこの若い女性で、何となく怪しい関係に見えるカップルでした。耳を塞ぐわけにはいかず、二人の会話は丸聞こえでした。

 どうやら初老の紳士は、スパイ映画007の大ファンらしく、全部観ているとか。何故なら、第1作「007 /ドクター・ノオ」が公開された年(1962年)に生まれているからだ、と紳士は若い女性に呟いていました。隣に諜報員がいるというのに、そんなことまで喋っていいんですかねえ。59歳か…これで、彼の年齢が分かってしまった(笑)。

 そして、007の大ファンのため、彼の愛用腕時計は、スイスの「オメガ」だと言いつつ、若い女性に自分の腕時計を見せびらかしていました。「まあ、凄い!」と女性が黄色い金切り声をあげたことは言うまでもありません。

 紳士のお仕事はどうもファッション関係のようで、青山にある高級ブランドB店の店長に今度紹介するよ、電話しとくよ、と何度も言ってました。恐らく、店長の口利きで割安で商品が買えるんでしょう。再び、若い女性は黄色い金切り声でした。

築地「吉兆」工事中?

 また、さて、ですが、以前にもこのブログで書いたことがあるのですが、新橋、築地界隈は、明治時代から高級料亭が林立しています。「吉兆」、「松山」、「米村」、「金田中」(新橋演舞場)、「新喜楽」(芥川・直木賞の選考委員会が開かれますが、実はここは「築地梁山泊」の異名を取った大隈重信邸でした)、「ふぐ料亭わのふ」(かつての料亭「石蕗(つわ)」)、「花蝶」(1968年の日通事件の舞台になった)等々です。

 この中でも代表的な高級料亭は「東京 吉兆」ですが、久しぶりに近くを通ったら、何と今、工事中でした。しかし、「建築計画」の看板をチラッと見たのですが、吉兆の「き」の字も書かれていませんでした。

 「おかしいなあ」と思いつつ、会社に戻ってパソコンで調べたところ、どうも、あの「吉兆」がコロナ禍のあおりを受けて、今年1月で「休業」してしまったらしいのです。どうも事実上の「閉店」らしいのです。よく分かりませんが。

 世知辛い世の中になって、政治家さんたちが料亭で密室政治をやってくれなくなったからでしょうか…。残念といいますか、良きにつけ悪しきにつけ、日本の伝統文化がなくなったようで、何か哀しいものがあります。

 

「大東亜以下⑨」が意味するところ

 本日は、いや、本日も、とりとめのない話です(笑)。

 一昨日のブログ「邪馬台国は我々の世代では『永遠の謎』で終わってしまいそう」という記事の中で、「貴様~!」と自分で書いておきながら、我ながら、「貴様とは、本来なら貴人に対する尊称なのに、いつの間にか、相手をののしる言葉になってしまったのは何故なんだろう?」と疑問を持ってしまいました。

 ある国語辞典によると、「貴様」は近世初期まで武家の書簡などで敬意をもって用いられたのに、江戸時代後期になると、同等またはそれ以下の者に対して用いるようになったといいます。理由はよく分かりませんが、「貴様」さんの身にしては、天国から一気に地獄に堕ちた気持ちになることでしょう。

 これは「御前(おまえ)」も同じことが言えます。古代では、神仏や貴人の前で言う尊称だったのに、これまた江戸後期から同等や目下の者に対する呼びかけとなったようです。何だあ、真逆じゃないかい! 幕末に言語革命でもあったんでしょうか?幕末は、新選組や渋沢栄一らの例に見られる通り、農民から武士に引き立てられるなど、かなり身分の厳格化が薄れていったため、話し言葉にも、格差解消が少し反映されていったのかもしれません。これは、私の説なので当てになりませんが(笑)。

東京・銀座 3丁目「囃shiya (はやしや) 」のハヤシライス1000円。見た目とは違って、こだわりの店らしく、濃厚で、この上なく美味でした。

 これまた私の感想なので当てになりませんが、日本語ってどうしてこう言葉が変化していくのでしょうか。以前、ドストエフスキーの翻訳家としても著名なロシア文学者の亀山郁夫氏にインタビューしたことがあるのですが、その時、同氏がドストエフスキーの時代の19世紀のロシア語と現代のロシア語とほとんど変わっていない、という話を聞いた時は、本当に吃驚したものでした。現代日本人は、もはや明治時代の文語文は容易に読めませんからね。

 21世紀になり、ネット社会になり、日本語の変化はますます秒速並みに早くなっています。今年の新語・流行語大賞には、米大リーグ、エンジェルス大谷翔平の「リアル二刀流/ショータイム」が選ばれましたが、例えば、3年前の2018年の大賞を覚えている人はほんのわずかでしょう。(答えは「そだねー」)

 今年の流行語のトップテンに選ばれた中で、「親ガチャ」「うっせぇわ」は何とか分かりますけど、「スギムライジング」「ゴン攻め/ビッタビタ」ともなると、私の場合、オリパラを熱心に見ていなかったので、知りませんでした。

 となると、時代の流行に敏感なJKら高校生クラスの間で流行ったといわれる「はにゃ?」とか「ひよっているやついる?」ともなると全くのお手上げです。

今朝は、就職情報サービス「マイナビ」が新卒大学生向けに6日に送信したメールのタイトル「<第1>大東亜以下➈」が「学歴フィルターを掛けている」と大騒ぎになっていました。

 私自身、「<第1>大東亜以下⑨」とは何を意味するのか分からなかったのですが、本日の読売新聞夕刊などによると、「大東亜以下」とは大東文化大学、東海大学、亜細亜大学の頭文字で、本来ならこの後、「帝国」と続き、それぞれ帝京大学、国士舘大学を意味するそうで「大東亜帝国」の大学の偏差値が「近い」というのです。確かに読売新聞は、偏差値が「高い」「低い」ではなく、「近い」という言葉を使っておりました。ただ、肝心の「⑨」については触れず仕舞いでした。

 実は、これは朝のラジオで聴いたのですが、この⑨は「まるきゅう」と読むらしく、ネットスラングで「馬鹿」という意味らしいですね。

 恐らく、メールを送られてきた学生さんは「馬鹿にすんな」と怒り心頭に達したのでしょう。

マイナビは「このメール作成とは別の作業でコピーしたワードをペーストしたもの。学歴によって一部の学生が有利になるようなことは行っていない」と苦しい弁解をしましたけど、逆に「学歴フィルター」を掛けていることがバレバレになってしまったわけです。

 ネットスラングにしても、すぐに広まってしまうわけですから、ネット社会の恐ろしさも痛感しましたよ。

 

邪馬台国は我々の世代では「永遠の謎」で終わってしまいそう

 読まなければならない本が沢山あるというのに、「歴史道」18号(朝日新聞出版、2021年11月20日発行、930円)の「完全保存版 卑弥呼と邪馬台国の謎を解く!」特集を読んでしまいました。

 てっきり、邪馬台国の所在地の「北九州説」と「畿内説」論争に終止符を打ってくれるのかと思ったら、結局、どちらも決定打がなく、まだ謎として残された感じでした。

 例えば、「畿内大和説」を主張する学者が卑弥呼の墓所の最有力としているのは、奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡の箸墓(はしはか)古墳なのですが、箸墓古墳は全長約278メートルの前方後円形です。しかし、「魏志倭人伝」などには、卑弥呼の墓は直径約180メートルの円形といった趣旨で記述されています。

 何と言っても、墓陵を管理する日本の宮内庁は、箸墓古墳のことを「大市墓」とし、倭迹迹日百襲姫命(やまと ととひ ももそひめ のみこと=7代孝霊天皇の皇女)の墓だと治定しています。ということで、倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼ではないか、という説があります。

 宮内庁が、この「大市墓」を立ち入り禁止にし、研究者に対してさえ「非公開」のため、邪馬台国が謎のままに残されている要因の一つだと私は思っています。もし、この箸墓古墳の実体が解明されれば、それこそ、古代史が一気に解明されるはずですが、頭が硬い権威主義の宮内庁のことですから、我々が生きている時代は無理でしょうね、残念ながら。

 卑弥呼説は、他に、「古事記」「日本書紀」の記紀神話の主神として描かれる天照大御神、11代垂仁天皇の皇女倭姫命(やまと ひめ のみこと=日本武尊の叔母)、14代仲哀天皇の后で、15代応神天皇の母と言われる神功皇后(非実在説も)の各説があることがこの本では詳細に書かれていました。

ヴィヴィアン・ウエストウッドの高級手袋を買ってしまいました。値段は秘密(笑)。写真は、本文と全く関係ないやんけ!

 私自身は、邪馬台国=北九州ではないかと考えているので、この本で一番注目したのが、邪馬台国は九州にあり、後にその勢力を受け継ぐものが東遷して大和朝廷になったという「邪馬台国東遷説」です。この説を主張したのは、東京帝大の白鳥倉吉教授(1910年)で、「畿内説」を主張する京都帝大の内藤湖南教授と大論争になったことはよく知られています。

 この説を踏襲して数理統計学的手法で研究した安本美典・元産業能率大学教授は、西暦800年頃までの天皇、皇帝、王の在位年数が10年だったことから、初代神武天皇の御世は西暦280年前後になると算出しました。となると、記紀に書かれた全ての天皇の実在を認めても、大和朝廷の始まりは、卑弥呼の時代以降となります。(「魏志倭人伝」によると、卑弥呼が魏に朝貢使節を初めて送ったのが西暦239年)

 安本氏は「神武天皇の5代前とされる天照大御神の年代が、卑弥呼の年代とほぼ重なる」と書いておられたので、私も「ほー」と思ってしまいました。神話は、全く出鱈目なことが描かれているわけではなく、何かあった歴史的事実が反映されていると、私は思うからです。

 でも、戦前の皇国史観では、神武天皇の即位は紀元前660年と言われていました(だから昭和15年=1940年は、皇紀2600年と呼ばれ、五輪開催を目論み、零戦までつくられた)から、戦前だったら、この説を唱えようものなら、憲兵から「貴様~!」と言われて、刑務所にぶち込まれることでしょうね(苦笑)。

 いずれにせよ、邪馬台国や卑弥呼に関しては興味は尽きません。繰り返しますが、我々の世代では「永遠の謎」で終わってしまうことでしょうから。

 

ニヒリズムの正体とその克服

 私自身、ここ1カ月以上も精神的にニヒリズム状態が続ていることを先日、告白したばかりですが、新聞を読んでいたら、ニヒリズムを克服する記事が出ていたので、偶然の一致といいますか、これ幸い、目から鱗が落ちるようでした。

 これは12月4日付朝日新聞朝刊の読書欄で社会学者の大澤真幸氏が、ニーチェの「ツァラトゥストラ」について書いていた記事でした。これから私が書くことは、大澤氏が結論として真に言いたかったことから大きく外れてしまいますが、私なりに敷衍したニーチェの思想を孫引きさせて頂くことにします。(秀才大澤氏は何と、「ツァラトゥストラ」を高校1年の時読んだそうです。私は19歳の時、読みましたが、ほとんど理解できませんでした。)

 ゾロアスター教の教祖といわれるツァラトゥストラを通してニーチェが説いた思想は、永劫回帰でした。この永劫回帰とは、人生に対して否定的な態度をとるニヒリズムを克服する知恵のことです。そして、このようなニヒリズムを生み出しているのは、ルサンチマン(怨恨)だというのです。この怨恨とは、起きてしまったことを受け入れないと感じたときに発生するといいます。

 この箇所を読んで、私自身はハッとしました。思い当たるフシがあったからです。今年4月27日に高校時代からの親友が急死してしまったのですが、その彼の死を知らず、10日も経って、友人のT君からの報せを受けて初めて知ったという事実があったことでした。この後、同じ高校時代の友人が自分の倫理に悖る行為を優先したいがために、一方的にこちらの追悼文に関して「自己中心的だ」と非難するなど、かなりのイザコザがありました。

 このような「起きてしまったこと」がずっと心の奥底に沈殿していて、「受け入れらない」というルサンチマン(怨恨)が、潜在的に蓄積していたことが分かったのです。つまり、この怨恨が私自身をニヒリヒスティック(虚無的)にしたのではないか、と。

 私の場合のニヒリズムは、アパシー(無感動)とか、物欲も名誉欲もあの欲も何もなく、生きている充実感がないといった虚しいものでした。これらの原因となった怨恨については、意識下にあったので気が付かなかったのです。

 ルサンチマン(怨恨)の克服法について、大澤氏はかなり難しいことを書いています。

 それは、過去に遡って意欲することだ、とツァラトゥストラは説く。まず、「そうであった」という過去の現実がある。これを私(大澤氏)は実は「そうであったことを欲したのだ」に置き換える。さすれば、まさに欲していたことが起きたことになるので、怨恨は出て来ない。

 うーん、かなりの難行ですね。私(渓流斎)の場合に当てはめると、親友の死を10日後に知ることを望んでいて、倫理に悖る行為を優先する友人とは仲違いすることを最初から望んでいたことになります。そう思い込むことで気が楽になるということなのでしょうか。

 いずれにせよ、我が事のことながら、人間って本当に厄介ですなあ…。