「明治維新」は必ずしも「正義」ではない?

 昨日は是非とも書きたいことがあったのですが、「自己検閲」で書くのはやめにすることにしました。どうやら、この渓流斎ブログを毎日、熱心にチェックされている方がいらっしゃるようで、もし何かあれば、その方は「殿に御注進」を図るらしいのです。もし書いたら、完璧に人間関係が崩壊するので、やめた方がいいですね。こちらには全く落ち度がないので、冒険してもいいのですが、やはり、大人げないのでやめました(笑)。

◇渋沢栄一は幕末の志士

 さて、今、NHKの大河ドラマは、渋沢栄一が主人公の「青天を衝け」をやってます。渋沢と言えば、「近代日本資本主義の父」と言われ、500もの会社を起業した実業家として名を残しましたが、もともとは幕末の動乱期を生き抜いた志士だったことがドラマでは描かれています。

 何しろ、運命の巡り合わせで、今の埼玉県深谷市の豪農の生まれながら、最後の将軍徳川慶喜の幕臣として取り立てられるんですからね。その関係で、西郷隆盛にも、新撰組の土方歳三にも幅広く直接会っているのですから、まさに「歴史の証人」です。(栄一と一緒に行動した渋沢喜作こと栄一郎は、後に彰義隊の頭取になります)

 NHKの大河ドラマは、(大袈裟ですが)、やはり日本を動かします(笑)。便乗商法で、民放の番組や雑誌で渋沢栄一が取り上げられたり、観光資源(深谷市、東京都北区飛鳥山など)になったりするからです。

 この週刊朝日MOOK「歴史道」Vol.15もその便乗商法の一つかもしれませんが(笑)、「明治維新と戊辰戦争の真実」を特集しています。第1部「1年5カ月におよぶ激闘の軌跡をすべて追う!戊辰戦争 全史」、第2部「『文明開化』&『富国強兵』を目指した新政府の改革の軌跡を追う!明治維新と近代日本の幕開け」といった内容で、時間を掛けて通読しましたが、正直、あまり、スッと頭に入って来ませんでしたね。

 執筆者が複数いるので、重複する箇所もあり、内容が整理されて頭に入って来なかったのです。勿論、こちらの頭の悪さのせいでしょう。でも、表や図版や写真等が多く採用されているので、幕末通史としては大変参考になりました。

 それにしても、歴史の「解釈」は、日進月歩で変わっていくものです。例えば、巻頭の「明治維新が後世に遺した『功』と『罪』を読み解く」で一坂太郎氏は明治維新について、こんなことを書いております。

 先年、政府は「明治百五十年」をイベント化して盛り上げようとしたが、民間ではアンチ本が多数出版された。国が押し付ける「明治維新」は、必ずしも「正義」ではないとの思いが、多くの国民の胸底にあるのだろう。

 その通りですね。明治150年は2018年でしたが、「え、そうだったの?」と言う国民の方が多いと思われます。私が子どもだった1968年は「明治百年」の記念式典が政府主催で日本武道館で開催されましたが、それはそれは大盛り上がりだったことを覚えています。えらい違いです。

躑躅 Copyright par Keiryusai

 上で一坂太郎氏が書かれた「アンチ本」というのは、私もこの渓流斎ブログで取り上げた武田鏡村著「歴史の偽装を暴き、真実を取り戻す 薩長史観の正体」(東洋経済新報社)もその一つかもしれません。このブログを長年愛読されている方にはバレてますが、私は、圧倒的に会津派であり、幕臣派です(笑)。明治維新は「維新」などではなく、薩長土肥による暴力革命であり、薩長対徳川の内戦であるという見方でいいと思います。

 関ケ原の戦いで勝利を収めた徳川家康がつくった幕藩体制と幕末を比較するととても面白いですね。家康が最も警戒した毛利(長州)と島津(薩摩)に、結局やられてしまうんですからね。最後まで徳川方として戦った会津藩は保科正之(家康の孫)以来の伝統で、桑名藩は、徳川四天王の一人・本多忠勝の立藩ということで分かりやすいのですが、家康が警戒していた伊達政宗の仙台藩が奥州越列藩同盟の雄となってしまったのは、歴史の皮肉か?

 何と言っても、鳥羽伏見の戦いで、徳川慶喜が「敵前逃亡」で大坂城から江戸に逃げ帰ったことで勝敗は決まったようなものでした。革命軍は、「錦の御旗」を掲げたお蔭で、官軍となり、あれだけ家康から恩顧を受けた藤堂高虎の流れを汲む津藩までもが寝返って、徳川を裏切ってしまうのですからね。歴史は、勝ち馬に乗りたがる「日和見主義」によってつくられる、と私なんか確信してしまいました。

◇暗殺が多い幕末から明治

 明治になって新政府が出来ますが、権力闘争そのものです。征韓論を巡る明治6年の政変、不平武士による反革命武力闘争の大団円となった明治10年の西南戦争、そして明治14年の政変で薩長土肥の土佐と肥前が脱落し(自由民権運動に走り)、陸軍は長州、海軍は薩摩という棲み分けで「軍事政権」が確立し、それが昭和の敗戦まで続く、というのが私の大雑把な見方です。

 それにしても、幕末から明治にかけて、坂本龍馬、中岡慎太郎、佐久間象山、横井小楠、大村益次郎、そして渋沢栄一を幕臣に取り立てた平岡円四郎、大久保利通…と暗殺が多過ぎます。

テレビの時代は終わった?

「築地の貝」定食 1300円 築地に貝専門の食堂があるとは知りませんでした。「鴨亭」の斜め向かいに発見。

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 先日、通勤電車の中でざっと見渡したら、本を読んでいる人が一人もいなかった。私だけだった、といったことを書きましたが、忘れていました。本だけでなく、新聞も週刊誌も雑誌類も読んでいる人はいませんでした。新聞、週刊誌を読んでいる人は、月に2~3回見る程度です。

 そう言えば、通勤電車内で、多分、昨年辺りから週刊誌の「吊り広告」が消えてなくなりましたね。あれは、楽しみだったんですけどねえ。週刊現代と週刊ポストはもっと前からなくなっていましたが、昨年か今年初めぐらいまでは、週刊新潮と週刊文春は頑張っていたんですけどね。

 大抵の通勤客は、スマホを見ています。7割か8割近くはスマホです。ゲームやSNSが多いんでしょうが、中には新聞や週刊誌のニュースをチェックしているかもしれません。若い人たちは、紙媒体から電子媒体に変わったということなんでしょう。

 でも、変化があったのは、紙媒体だけではありませんでした!昨日、報道された「若者のテレビ離れ」には本当に衝撃的で吃驚しました。NHK放送文化研究所が5年に1回実施する「国民生活時間調査」で、平日の1日にテレビを見る人の割合は5年前の85%から79%に減り、特に16~19歳では5年前に71%だったのが、わずか47%と大幅に減少したというのです。

 テレビを見る10代が半分以下というのは、これはテレビ業界の関係者にとっては危機的状況ですよ。将来を担う10代が47%では、もう「テレビの時代は終わった」という事実を見せつけられたということになります。(同時に、広告媒体の王様が、テレビからインターネットに取って代わったことを意味します)

 思えば、日本でテレビ放送が開始されたのは1953年のことです。我が家にテレビ受信機が導入されたのは、その10年後の1963年でしたが、2021年にテレビ時代が終わったとなると、わずか68年で終焉を迎えたことになります。

 勿論、若者はスマホのネットで、テレビのコンテンツを見ているのかもしれません。でも、プロではなく素人がつくったYouTubeや、テレビ制作者ではないセミプロがつくった動画サイトを見ている若者も多いのかもしれません。

 いやはや、時代は変わるものです。

 ところで、皆様におかれましては、毎日、《渓流斎日乗》を御愛読して頂き、洵に有難う御座います。2005年3月15日から、gooブログのネットで細々と開始し、2017年9月15日頃から、松長哲聖氏の御尽力で自分自身のサイトを独立して立ち上げました。

 独立して今年で4年になりますが、50万ページビューになろうとしています。全く世間的には無名の凡夫の個人サイトがこれほどまで読まれるとは奇跡に近いのではないでしょうか。これも全て、毎日のように、嫌々ながら(笑)チェックして頂いておられる皆様のお蔭と熟知しております。

 「世界最小の双方向性メディア」を自称しているため、最近では、コメントも屡々、送って下さるようになり、恐悦至極に存じます。書き続ける張り合いになりまする。

 改めて御礼申し上げる次第で御座います。

無名の庶民こそが歴史をつくる

川崎市 生田緑地ばら苑 Copyright par Syakusyoudou rousi 悔悛した釈悪道老師が送ってくれました

(昨日の続き)

築地「魚河岸三代目 千秋」の本日のおすすめ丼と日替わり小鉢2種 1200円 東京で、いや日本で一番美味しい海鮮丼だと思ってます。やっと写真撮っちゃいました Copyright par Keiryusai

 昨日は、「裏を取る」お話で、以前自分の書いたブログの記事のセカンドオピニオンを聴く話を書きましたが、もう一つありました。いや、間違い。ブログに書かなかったかもしれません(笑)。

 松岡圭祐著「小説家になって億を稼ごう 」(新潮新書)という本が今、異様に売れているということで、またまた、出版関係の友人にどう思うか聞いてみたのです。

 この本は、帯に書かれた宣伝文句「年収億超えの人気作家が本気で伝える禁断のハウツー 前代未聞! 業界震撼!」という惹句を読むだけで、その内容が分かるかと思います(笑)。版元は新潮新書ですかぁ…。ここの編集部に勤める、テレビにも出演したことがある編集者のY君が、ウハウハと大喜びしている姿が思い浮かびます。

 当事者のY君に話を聞いてもバイアスがかかっているので(失礼!)、第三者の友人に聞いてみました。そしたら、「まあ、中には1億円稼ぐ作家さんも本当にいるけど、それは宝くじに当たるより確率低いと思いますよ」と言うではありませんか。

 そう言えば、思い出した逸話があります。馬券や株で1億円当てるよりも、「万馬券狙いで1億円を稼ぐ方法」とか「昼寝しながら株式投資で1億円」といった本を書いた方が遥かに儲かる、といった「真実」です。

 友人が言う「宝くじの当たる確率」についても考えてみました。億単位で当選する宝くじは、2000万本に1本と言われています。となると、宝くじ1枚300円として、2000万枚買うと60億円。それで、必ず3億円か5億円か10億円当たったとしても、やっぱ割に合わないなあ(笑)。

 それでも、宝くじに当たる人はいますけど、その宝くじに当たるより、作家として1億円稼ぐ方が難しいとなると、ブログでも書いていた方が、全く経済的メリットはありませんが、精神的には楽かもしれません(爆笑)。

Copyright par Keiryusai

 さて、私は毎日、平日は都心に出勤してますが、コロナ禍と雨模様で心はスッキリしません。これは多くの国民の皆様も同じことだと思います。

 でも、今朝は、ほんの少しだけ心が解放された気分になりました。私自身は、もう若いとは言えない年齢になりましたが、バスの中で、目の前の席が空きましたが、2~3人向こうにいた私より年長と思われる方を呼んで、座ってもらったのです。

 すると、これ以上ないくらい丁重な御礼を小声で言われて、大袈裟ですが、私自身も何か、他人様のお役に立てることがやっと出来て嬉しくなったのです。他の座席には私より若い人がふんぞり返って座っていて、「誰かあの杖を持って立っているご老人に譲ってあげればいいのに」と思っていましたから、尚更嬉しかったのです。

Copyright par Keiryusai

 こんな小さなことですが、人のために役立つことが出来ることは人類として最高の幸せではないかと思うようになりました。金銭的に余裕がなくても、困った人がいれば、声を掛けるだけでも、その人は話すだけで救わるかもしれません。勿論、余計なお節介は慎むべきで、その匙加減が難しいのですが…。

 私のようにブログに書いてしまう菲才凡夫は、全く御参考になりませんが、世の中には人知れず、陰徳を積まれる方が沢山いらしゃいます。それは有名人ではなく、そして裕福でもないのに匿名で寄付されたりする方もいらっしゃって、そういうニュースを聞く度に、心が温まります。

 鎌倉武士は「名こそ惜しけれ」といって自分の名声を気にして、歴史家たちは名前が残った有名人だけを相手にして、「これが歴史だよ」と無知蒙昧な凡夫たちを教化しています。

 でも、「名前が残っていない無名の庶民こそが歴史を築いてきたのではないか」と私は最近、強く思うようになりました。

 それより、テレビや雑誌で露出する歴史学者さんの自信満々の顔は見たくないなあ。学業論文だけで十分です(あくまでも個人の感想です)。

「裏を取る」ということ

築地「鴨亭」 Copyright par Keiryusai

 新聞記者は、記事の正確さを徹底させるため、セカンドオピニオンを取ったりします。業界用語で「裏を取る」と言ったりします。

 でも、逆に、裏を取らないで、そのままスキャンダラスな見出しと記事で部数を伸ばす新聞もありますが(笑)。

 ブログは、色んな種類がありますけど、まあ、大半は個人の感想、もしくは意見の表明といったところでしょう。この《渓流斎日乗》もその範疇に入ることでしょう。

 でも、一応、このブログは「世界最小の双方向性メディア」と自称している関係で、事実が間違っていた場合など、御指摘があれば、即、訂正したり、表現を変えたりしております。まあ、取るに足らない個人の感想なので、多くの皆様には大目に見て頂いておりますが(笑)。

築地「鴨亭」鴨せいろランチ 1100円 友人に紹介されて行きましたが、結構リーズナブルで美味しかった Copyright par Keiryusai

 とはいえ、個人的に気になることは、後で、周囲に裏を取ったりします。例えば、5月18日に書いた「初めてのタコス」の記事。生まれて初めて本格的なタコスなるものを食したのですですが、「まあ、こんなもんか」といった程度の感想でした。そのことを米国人の友人に話したら、「ハハハハー、その店は、アメリカでは何処にでもあるチェーン店で、マクドナルドみたいなもんですよ」と言うではありませんか。

 そして、丁寧にも、「東京にはもっと良い店が昨年から出店しましたよ。虎ノ門にあるTWという店です。ここなら本格的ですし、美味しいし、お薦めですよ」と教えてくれたのです。

 なるほど。裏は取ってみるものですね。

Copyright par Keiryusai

 もう一つありました。5月17日に書いた「翻訳家なんかになるもんじゃない?」という記事です。あるプロの翻訳家が、印税が6%の契約を4%にダウンさせられたり、突然、出版中止を宣告されたりして、ついに裁判沙汰などで精神的に追い詰められて、燃え尽き症候群となり、翻訳業を廃業する話でした。作家の印税は10%だということは知っていましたが、翻訳家になると、最高でも8%ぐらいだという話を知り、私自身も「翻訳家にならなくてよかった」と末尾に書いたほどでした。

 そこで、また、裏を取るために、出版関係の友人に現状を聞いてみました。すると、「印税8%なんて、よっぽど有名な翻訳家だけだよ。今は4%だったら、妥当な数字だよ」と言うではありませんか。これもまた「へー」です。「出版社はかなりのリスクを取っているわけ。売れなきゃ、全部、持ち出しだからね。今の出版不況じゃ、仕方ないんじゃないかなあ」と彼は説明してくれました。

 そうですね。今朝も、通勤電車の中で、本を読んでいる人は、軽く車内を見渡したところ、私だけでした。たった一人でした。

 となると、私は出版業界に寄与しているわけですから、このブログに書く独断と偏見に満ちた書評でも、大目に見てもらいたいものです(笑)。

Copyright par Keiryusai

 話は変わり、何度も書きますが、このブログは「世界最小の双方向性メディア」を自負しておりますから、皆さまのコメント大歓迎なんですが、中には最初から粗探しをする目的ありきで、小さなミスを発見することを至上の喜びとする方もいらっしゃるので、参ります。

 例えば、上の写真もそうです。最近、花の名前が瞬時に分かる、千葉工業大学が開発したAIアプリ「ハナノナ」の写真を掲載することが多くなってきたのですが、粗探しさんは「渓流斎ブログは、ハナノナを使い過ぎてますなあ。素材から調理しないで、スーパーで惣菜を調達して来て食卓に並べるのと変わりませんぞ。取材は足で稼ぐもの。被害者の写真入手がどんなに大変かは、ご存じですよね?」と説教するのです。

 あのねえ。花の写真を撮るのに、しっかり足で稼いで撮っているわけで、矛盾してませんか?どっかの図鑑か、本の写真をそのまま写したのなら、「スーパーからの惣菜調達」になるかもしれませんけど、あたしは、しっかり、現場に行ってまっせ、釈悪道老師。

 あ、ほんの少し、胸のつかえがおりました(笑)。

 

ワクチン狂詩曲=「分からなくたっていいじゃないか。人間だもん」

東銀座「創作和食 圭」ランチ 1500円

ワクチン、ワクチン、ワクチン…

今、ワクチンの問題で、話題騒然です(変な日本語)。まだ、医療従事者の接種が70数%とか、全員に行き渡っていないというのに、高齢者接種が開始され、予約の電話がつながらないだの、システムがダウンしただの、ワイワイガヤガヤです。テレビが煽って、騒ぎ過ぎです。

 高齢者接種だというのに、比較的若い自治体の首長さんが、「余って廃棄するのがもったいない」と見え透いた理屈を付けて、優先的に接種したり、薬局チェーン店の創業者一族が、優先的に接種するよう自治体に圧力をかけたり、今朝の朝刊には、関東のある県のまだ若い市長さんが、自分だけでなく、奥さんと、自分のお抱え運転手さんにまで接種したという記事がありました。全く悪びれた様子もないそうなので、自分は特別な存在だと思っていることが分かります。

 でも、本人たちは恥ずかしいと思わないんでしょうかねえ? こっちだって、彼らの名前や地名を出すことさえ恥ずかしいと思っているというのに…。

 日本人らしいと言えば、日本人らしい。こういう時、殊更、日本人の美点を誉めそやす右翼の皆さんには頑張って非難してもらいたいものです。

 東京・池袋で母子2人を死亡させる事故を起こしながら、寛大な措置と待遇を得ている「上級国民」という、あの嫌あな言葉を思い起こさせました。

 私の周囲の友人知人には、厚生労働省が規定する高齢者の方が多いので、ワクチンに関しては色んな情報が入ってきます。

 既に1回目を接種した方、予約が出来て、これから受けるのを心待ちにしている方、「慌てず、騒がず、問題ないことが分かってから受ける」方などさまざまです。中には、「5月14日現在、ワクチン接種で死亡した医療従事者が39人いる」という理由で、病院の入り口に「当院では新型コロナワクチンを接種した外来患者の診察および院内への立ち入りを当分の間お断りさせて頂きます」といった張り紙をする医療機関(場所不明)まであることをSNSで知らせてくれた友人もおりました。

 何だかよく分からない。「芸術は爆発だ」と岡本太郎さんのように叫びたくなります。

 ついでながら、「分からなくたっていいじゃないか。人間だもん」と、相田みつをさんを真似して呟きたくなりました。

 赤坂さんから、いつも「長い」と批判されているので、本日はこの辺で(笑)。

初めてのタコス=そして、老舗の料亭は何処か?

 このブログはあまりにも複雑怪奇で、テーマに一貫性がなく、話題も縦横無尽に複層しておりますから、読者の皆様方も付いていくのが大変のことと存じます。

 案の定、昨日は数十人の方が脱落されたようです。アクセス数を見れば分かります。痛恨の極みで御座いまする(苦笑)。

 さて、先日、仙台伊達藩の江戸上屋敷跡を視察のため、東京・汐留の日本テレビ本社を訪れた話を書きましたが、そのビルの(恐らく)1階にメキシコ料理のタコスを売っている「TACO BELLタコベル」があったので、再度、行ってみました。

 勿論、ランチするためです。これまた以前にこのブログに書きましたが、世界各国の料理を食べて、コロナ禍で実際に行けない海外旅行を模擬体験しようと、銀座で、色んな国の料理を食べ歩きをしました。その中で、メキシコ料理にも挑戦したのですが、生憎、私が訪れた数日前にその店は閉店してしまっていたのです。

 「捕らぬ狸の皮算用」とはよく言ったもので、逃したものは気になります。「いつかはタコスなるものを食べてみたいものだ」と、腰を低くしてそのチャンスを狙っていたのでした(大袈裟な!)。

(ダブル)タコスセット 900円

 そして、本日、ついに、タコスなるものを食しました。私の記憶が確かなら、生まれて初めて食べました。

 まあ、こんなものか、といった程度の感想ですが(笑)。

 野菜やひき肉を包んだ皮が、カレーに付くナンのように柔らかいものかと思っていたら、パリパリとはいかなくても、少し硬めでした。まあ、ファストフードといった感じで、対費用効果としてはギリギリかな、といった感じでした。

 さて、またまた皆様には驚かれるかと存じますが、この年になって、いまだに何冊かの本を同時進行で読んでいます。渓流斎は勉強家です。と、誰も言ってくれないので、厚かましく自分で言っているだけで、その実力と内容は全く伴っておりません!

 その一つが、阿古真理著「日本外食全史」(亜紀書房)です。3080円と、私としてはかなり高価な本でしたが、書評で評判でしたので、清水の舞台から飛び降りる覚悟で買ってしまいました。

 で、大変失礼とは存じますが、正直申して、最初は、著者の文体に付いていけませんでした。私のブログのように(笑)、急に著者の個人的な友人が出てきたり、まるで、週刊誌のグラビア記事を読んでいる感じでした。と、思ったら、著者は、もともと週刊誌のライターさんだったんですね。失礼ながら、好嫌の反応が如実に出る文体です。

 でも、読み進めていくうちに慣れていき、内容も俄然面白くなっていきます。不勉強な私ですから、知らないことばかり出てきます。(そう来なくては!)例えば、和食。「貴族が完成させた儀式的な大饗料理に、僧侶らの高度な調理技術に基づく精進料理を組み合わせたもの」などと色んな定義がありますが、以下のような変遷があることを教えてくれました。

(1)本膳料理=中国や朝鮮半島の影響のもとに生まれ、平安時代に確立。切り方の工夫には日本の独自性あり。

(2)精進料理=平安末期から鎌倉初期にかけて、宋から帰国した僧侶が持ち帰った技術をもとにした魚肉を使わない料理。

(3)懐石料理=本膳料理を発展させた少人数の茶会の席で出された料理。千利休が完成。

(4)会席料理=江戸時代、懐石料理から茶道の要素を抜き、お茶の代わりに酒を料理とともに楽しむものとして登場。

 そして、日本で最初の料亭と言われるのが、元禄年間(1688~1704年)に営業を始めた大坂・四天王寺の「浮瀬(うかむせ)」なんだそうです。松尾芭蕉、司馬江漢、曲亭馬琴ら多くの文化人も訪れたとか。

 江戸は、私も何かの本で読み、聞いたことがある浅草の「八百善」は、享和年間(1801~1804年)に創業。画家の酒井抱一、谷文晁、葛飾北斎、渡辺崋山ら一流の文化人も集まる場所でもあったらしい。幕末、ペリーが来航し、日米和親条約の宴席で出された料理も八百善だったといいます。もっとも、ペリーの口には合わなかったらしい。

 京都と言えば、一番の老舗は、私も、京洛先生のお導きで、中には入らず、長い長い土塀の軒先だけを覗いただけですが、南禅寺門前の「瓢亭」かと思いましたら、高橋嘉兵衛が懐石料理を出し始めたのが天保8年(1837年)と意外と新しい。もっとも、「瓢亭」は、腰かけ茶屋として南禅寺前で始めたのが、今から400年前という長い長い歴史があります。

 京都に現存する老舗料理店は、丸太町の「柿傳」(1721年)、四条大橋近くの「ちもと」(1718年)、袋町の「はり清」(明和年間=1764~1772年)などがあります。

 皆様も是非、訪れて、その感想をお聞かせください。宜しく御頼み申し上げます。

翻訳家なんかになるもんじゃない?

 一昨日まで、江戸時代の仙台藩士のことを書いていたかと思えば、昨日は、フランスのマルセル・プルートの話となり、関連性もまとまりもなく、読者の皆様もこのブログに付いていくのが大変だと拝察申し上げます。

 私自身は、毎月30冊読破していた若い頃の仕事の延長線みたいな感じでブログを書き続けていますが、さすがに御老体となり、日常生活にも差し触り、「誰か止めてくれ~」と叫びたくなるほどです(笑)。

 とは言いながら、またまた、ずばぬけて面白い本を読んでしまったので、このブログで御紹介せざるを得ません。宮崎伸治著「出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記」(フォレスト出版、2020年12月1日初版)です。内容は、タイトルになっているそのものズバリです。出版業界の、特に翻訳家の皆さんが、これほどまでに「天国」と「地獄」を味わうものなのか、全く知らず、まさに手に汗を握る推理小説(実際は過酷なドキュメントなんですが)を読んでいる感じで、一気に読んでしまいました。

 著者の宮崎氏は、本の略歴等を引用させて頂きますと、1963年広島県生まれ。青学大卒後、英シェフィールド大学大学院で修士号を取得し、大学職員、英会話講師を経て、翻訳家になった人です。30代の10年間で50冊もの翻訳書を出版するものの、出版社と裁判訴訟になるほど数々のトラブルに見舞われます。最後は裁判で勝訴しますが、精神的トラウマや燃え尽き症候群などで2012年に出版業界から足を洗い、現在は警備員をされている方です。(ご本人は、裁判中に受ける精神的苦痛や、出版中止などのリスクを負うくらいなら、警備員の方が何倍もいいという結論になる、とあとがきで書いています)

 本書の中では、「裁判記録の非公開」を条件に和解した案件もあるので、出てくる出版社や翻訳書の書名等はイニシャルなどになっているので推測するしかありませんが、大手出版社と思われる有名出版社も、随分、えげつないことをやっているなあ、という記述が散見します。

 勿論、著者が翻訳した本がベストセラーになり、かなりの印税も入って、「天国」を見ることもありますが、ほとんどは「地獄」の話です。私も、作家の印税は10%だということは知っていましたが、翻訳者の印税について不勉強で知りませんでした。最高に近いのが8%で、宮崎氏の場合、最初は「6%」と提示されていても、「出版不況」だの何だのと色々と理由を並べられて、「4%」に大幅ダウンさせられる暴挙を突き付けられ、涙を飲んで忍ぶ場面が数々出てきます。

 翻訳家にとって、最も痛手となるのが出版中止です。7年がかりで訳した1650ページに及ぶ翻訳書が出版中止されて、「死を考えることすらあった」という翻訳家(宮崎氏ではないが、裁判所でその陳述書を読んで、「胸が張り裂けそうになった」と書いています)の話も出てきます。

 とにかく、編集者との会話や電話やメールとのやり取りを宮崎氏は本当によく覚えているものだと感心しました(恐らく日記を付けていたのでしょう)。編集者は依頼するとき、「大急ぎで、1カ月で翻訳してください」と注文し、宮崎氏は不眠不休の仕事でしっかり締め切りを守ったというのに、原稿を送っても、数週間、梨のつぶてで、1カ月待たされ、2カ月待たされ、半年、1年…と放置され、イライラのし通しです。その間は、無収入ですから、フリーの翻訳者となると生活も大変です(宮崎氏は、軌道に乗るまでアルバイトをすることを勧めていますが)

 まず、翻訳家になること自体が大変です。宮崎氏も最初は何十社もの出版社に原稿を送ったり、訪問したり、電話やメールをしたりしてアプローチしますが、最初は、翻訳者の名前すらも出て来ない「ゴースト翻訳者」扱いです。

 面白かったのは、ある翻訳書を出版する際、B書院の女性編集者から、本を売るために「監修者に渡部昇一先生の名前を出してほしい」と言われたことです。宮崎氏は「一方がビッグネームだったら、私の名前はかすんでしまう。そうなるともう、その本は実質的には渡部昇一の本になってしまう。私が何カ月もかけて翻訳したというのに、たった1日か2日だけ仕事しただけでカバーに名前を載せるんですか。それっておかしくないですか」と抵抗すると、その女性編集者は「だって、宮崎さんって、何でもない人じゃないですか」と言われたといいます。「その悔しさはその後も消え去ることはなかった」と宮崎氏は書いていますが、渡部昇一氏(ペンネーム大島淳一)に関しては、大変面白い後日談があり、それは本書をお読みください(笑)。出版界の裏が分かります。

 私もこの本を読んで、色々考えさせられました。私自身は、もう「終わった人」だからいいものの、少なくとも、「業界の実態を知らずに出版翻訳家にならなくてよかった」と胸をなでおろしています。

 

マルセル・プルーストを求めて

 日仏会館は、「近代日本資本主義の父」渋沢栄一と駐日フランス大使で詩人でもあったポール・クロデールによって1924年3月7日に設立されました。(渋沢は、幕末に徳川昭武のパリ万博視察の随行員として渡仏。フランスで会社や銀行などの制度やサン・シモン主義などに影響受けました)

 私は3年ほど前にやっと、大学と会社の先輩の推薦を得て会員になりましたが、コロナ禍で、月に数回、東京・恵比寿の同会館で開催される講演会や映画会などが中止となり、オンラインになりました。が、平日はなかなか時間が取れず、やっと今回、土日に開催されたシンポジウム「プルーストー文学と諸芸術」に参加することができました。

 プルーストと言えば、「失われた時を求めて」(1906~22年執筆、1913~27年刊行)です。全7巻16冊、3000ページに及ぶ大長編小説で、「20世紀最大の世界文学」という文芸評論家もいます。

 私自身は、もう40年以上も前の大昔の学生時代に岩崎力先生の授業で最初から原語で読みましたが、たった1ページ翻訳するのに、1週間掛かり、当然のことながら挫折。日本語も読み通すことがありませんでした。悲しいことに、知っているのは、第1巻「スワン家の方Du côté  de chez Swann」、第2巻「花咲ける乙女たちの影に À l’ombre des jeunes filles en fleurs」といった巻のタイトルと、第1巻に出てくる最も有名な「無意識的想起」の場面です。お菓子のマドレーヌを紅茶に浸して食べた瞬間、主人公が幼児に過ごしたコンブレーでの出来事や幸福感などが蘇ってくるというあの場面です。

 日仏会館が主催したシンポジウムは、日本とフランスの専門家20人以上をオンラインで繋ぎ、2日間でテーマが「プルーストと音楽」「プルーストと美術」「プルーストと教会/ 建築」など6以上で、休憩時間も入れて合計で11時間にも及ぶ長丁場でした。同時通訳の皆様には「大変お疲れ様でした」。

 正直申しまして、私自身は「失われた時を求めて」を完読していないので、さっぱり付いていけず「完敗」でした。ですから、小生が理解できたことだけ少し触れます(苦笑)。

 一つは、中野知津一橋大学教授の「プルーストと料理芸術」の講演の中で、あの有名なお菓子マドレーヌは、ホタテ貝の形をしているものとばかり思っていたら、19世紀では卵型が普通だったらしいということでした(アレクサンドル・デュマ「料理大辞典」1873年)。

 ホタテ貝は、フランス語で coquille Saint-Jacquesで、サン・ジャックは、キリストの弟子、聖ヤコブのことです。スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラには、聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の遺骸があるとされ、ローマ、エルサレムと並ぶキリスト教徒の三大巡礼地になっていることから、中野教授も、マドレーヌは巡礼の隠喩になっているかもしれない、といった趣旨の話もされていました。

◇ドビュッシーとランボーは会っていた?

 もう一つ、ピアニストで文筆家でもある青柳いづみこ氏の「プルーストとドビュッシー」も面白かったです。恥ずかしながら、私は、印象派の画家モネと音楽家ドビュッシーで学士論文を書いたのですが、不勉強でプルーストには全く触れませんでした。青柳氏によると、二人はあるサロンで知り合い、プルーストが自宅にドビュッシーを招いたのですが、ドビュッシーはどういうわけか、理由をつけてお断りしたというのです。

 ちなみに、ドビュッシーのピアノ教師はモーテ夫人でしたが、その娘マチルドと結婚したのが詩人ヴェルレーヌで、一緒に住んでいたそうです。ドビュッシーがピアノを習っていた時に、あの17歳のランボーがヴェルレーヌの自宅に押し掛けていたらしく、ドビュッシーはヴェルレーヌとランボーに会っていたのかもしれませんが、うっかりそこまで知らず、意外でした。まあ、この辺りの話に全く御興味がなければ、どうでもいい話かもしませんが…(笑)。

 一番興味深かったのは、作家水村美苗氏の「母語で書くということ」でした。御案内の通り、水村氏は御尊父の仕事の関係で、小さい頃から米国暮らしが長く、英語漬けの毎日でしたが、それに反発(?)するかのように、米国では日本の古典文学にのめり込み、帰国後は、夏目漱石最後の未完の小説「明暗」を、彼女が、漱石の文体を完璧に近い形で会得して「続明暗」を完成して脚光を浴びた人です。(一度、30年も昔に、私は水村氏にはインタビューしたことがあります。当時とほとんどお変わりないので吃驚)

 ですから、水村氏は母語に大変拘わった、今でも拘っている作家で、プルーストに関しても、「本人は”世界のプルースト”になるとは思わなかたとはいえ、一番、母語に拘った作家」と分析しておりました。「失われた時を求めて」は今でも、日本では、個人による翻訳が4件も同時に進んでいるといいます。プルーストが普遍的になったのも、フランス語という世界的な欧州文明の特権的な地位があったから。それに対して、プルーストと同世代の夏目漱石は、知性的には全く劣っていないのに、日本語のせいか、世界ではほとんど知られていないという分析もなるほど、と思いました。(他に水村氏は、作品が英訳されるとグローバル化を意識してしまう、といった本筋の話をされてましたが、省略)

 ◇若い仏人はプルーストが読めない?

 「失われた時を求めて」岩波文庫全14巻(2010~19年)を、1ページごとに厖大な量の注釈と絵画や建築写真を挿入して個人訳で完成させた京大名誉教授の吉川一義氏も「今の若いフランス人は、(注釈なしで)この作品を読めるかなあ」と面白いことを言うのです。フランス語の原語を読まれたことがある方は分かると思いますが、一文がとても長ったらしく、この名詞がどこに掛かるのか、外国人は大変苦労します。

 吉川氏はフランスのソルボンヌ大学に留学して、プルーストで博士号を取った学者ですが、博士号は同然ながらフランス語で書かなければなりません。本人は謙遜されますが、自信がないので、フランス人の友人に事前に添削してもらったら、引用したプルーストの原文まで直されたという逸話を紹介しておられました。

 やはり、フランス人でもプルーストは難しいんですね。これには私も大笑いしてしまいましたが。


 

見つけた!仙台藩江戸上屋敷跡

東京・汐留 日本テレビ本社 下はゼロスタ広場

 昨日も取り上げました「仙台藩士 幕末世界一周」の玉蟲左太夫にはまってしまい、昼休みを利用して東京・汐留(港区東新橋)の日本テレビ本社に行って来ました。

 な、な、何で?

 チ、チ、チ。あたしがテレビに出るわけない。ここは江戸時代は仙台伊達藩の上屋敷があった所だったのです。

 明治になってから、上屋敷は新政府に没収され、汐留は、日本で最初の鉄道である新橋停車場が建設された所でもありました。

 日本で初めての鉄道は、1872年10月14日、新橋~横浜間で開業しましたから、来年でちょうど150周年を迎えます。記念行事が予定されているようなので、来年こそは、コロナが終息してほしいものです。

 さて、仙台伊達藩の江戸上屋敷は、今では日本テレビの本社になっているということは、先ほどの玉蟲左太夫著、山本三郎解説の「仙台藩士 幕末世界一周」(荒蝦夷)で初めて知りました。

 この本によると、玉蟲左太夫は、この江戸上屋敷内にあった学問所「順造館」でも教鞭を執っていたというのです。

 ということは、玉蟲左太夫さんも、幕末にこの汐留辺りをウロチョロしていたわけですね。何か感無量です。

 でも、屋敷跡の看板を探すのに一苦労でした。銀座にある会社から昼休みを利用して行ったので、ランチを含めて1時間で戻れるかどうか冷や冷やでした(笑)。(迷わずに速足で行けば、10分ちょっとで行けますが)

 上の写真の「江戸時代の仙台藩上屋敷跡」の看板は、日本テレビ本社敷地内の1階というか地下にあるというか、ゼロスタ広場の地下通路寄りの柱にやっと見つけました。冗談じゃない、くらい分かりづらい場所にありました。

もっと分かりづらかったのが、上の看板「江戸時代の仙台藩上屋敷表門跡」です。

日本テレビ本社の1階というか地下にあるのかと思ったら、1階というか2階というか、汐留通りに面した所の、何か、工事中みたいな出っ張った所、日本テレビの北玄関近くで、この看板をやっと見つけました。(面倒臭い言い回しで失敬致しました。本当に、地下なのか1階なのか2階なのか、区別が付かないのです)

 せっかく、あたしが苦労して見つけてきた看板ですから、写真を眺めるだけでなく、是非とも文字もお読みくださいね(笑)。

 仙台伊達藩の江戸屋敷は、伊達政宗が存命中の江戸初期は、江戸城に近い外桜田(現千代田区日比谷公園)や愛宕下(港区新橋)などにありましたが、寛永18年(1641年)にこの浜屋敷を幕府より与えられました。当初は下屋敷でしたが、延宝4年(1676年)以降は幕末までは上屋敷だったのです。

 元禄15年(1702年)12月15日、本所の吉良邸に討ち入りを果たした赤穂浪士が、高輪の泉岳寺に向かう途中、仙台藩士に呼び止められ、ここで粥のもてなしを受けた、と看板に書いております。

あらま、結局、看板の文字を少し書いてしまいましたね。

多くの人に玉蟲左太夫のことを知ってほしい=「仙台藩士 幕末世界一周」を読了

ナデシコ Copyright par keiryusai

 玉蟲左太夫著、山本三郎現代語訳・解説「仙台藩士 幕末世界一周」(荒蝦夷)を読了しました。いやあ凄い本でした。読後は、歴史に埋もれてしまった仙台藩士・玉蟲左太夫誼茂(たまむし・さだゆう・やすしげ)のことをもっと多くの人に知ってもらいたい。と思いました。幕末は、坂本龍馬や勝海舟や西郷隆盛や新撰組だけではありません、内憂外患のとてつもない危機の時代だったせいか、他にも多くの偉人を輩出しました。

 万延元年(実際は安政7年=1860年)1月。幕府の遣米使節の一行77人が米国に派遣されたのは、日米修好通商条約批准書をワシントン(第15代ジェームズ・ブキャナン大統領)で交換するためでした。玉蟲左太夫は、正使、つまり使節団代表の新見豊前守正興・外国奉行の従者として渡航する栄誉に恵まれました。仙台藩主伊達慶邦に献上される形で、毎日、「航米日録」が書かれました。

 そこには立ち寄った先の地理、歴史から、社会制度、人口、風俗、生物、慣習、食、宗教に至るまで、鋭い観察眼で描写しています。よく取材したものです。既に、このブログでは、この本の前半と中盤を取り上げたので、今回は後半部分を取り上げます。

 後半は、一仕事終えた後、大西洋を渡って、アフリカ大陸の喜望峰~インド洋~バタビア~香港を経ての帰国航海記です。1860年1月から9月まで、277日間に及ぶ世界一周でした。

アヤメ科 Copyright par keiryusai

 一番興味深かったのは、玉蟲左太夫の清国(中国)人観です。ハワイやサンフランシスコなどで知り合った清国人は、教養と節度があり、とても親切だったので、むしろ、米国人の「礼の無さ」や「上下の無さ」を嘆かわしく感じていました。「米国人らにもっと『聖教』を施せば、もっと良い人間になれるだろうに」とさえ記述します。この聖教とは武士の教養として必須の朱子学のことです。その儒教の本家本元の中国を尊敬しながら、英仏列強などに侵略されている現状を嘆いたりします。

 それが、寄港したバタビア(今のインドネシア・ジャカルタ)で会った中国人は、親切に巻き煙草をくれたのかと思ったら、後で、請求書を持ってきたりして、その狡猾さに一気に中国人に対するイメージがダウンします。中国人も欧州列強と同じように、東南アジアに進出しているとさえ感じます。阿片戦争で植民地化された香港では、中国人が、英国人から犬馬のように鞭で叩かれている様を目の当たりにして、中国人自らの無能と堕落の結果ではないか、と切歯扼腕し、清国政府の失政を批判したりします。

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 玉蟲左太夫は、帰国後、幕末の動乱に巻き込まれ、新政府軍に対抗する奥羽越列藩同盟の中心人物の一人と目され、戊辰戦争敗戦後に捕らわれて、切腹を命じられます。

 山本三郎氏が執筆した終章「玉蟲左太夫の残映」では、自由民権運動の最中の明治14年につくられた「五日市憲法草案」が玉蟲左太夫の影響によるものではないかという説を唱えていました。私もこのくだりを読んで納得してしまいました。起草者は千葉卓三郎という元仙台藩士で、十代に仙台藩校「養賢堂」で学び、ここで玉蟲左太夫の講義を受けていたといいます。彼は、帰国したばかりの玉蟲左太夫から、米国の先進的な政治や教育制度、地方自治など最新知識を学び、その影響で、五日市憲法草案にあるような「国民の権利自由」(第45条)や「法の下での平等」(第48条)などに反映されたのではないか、と山本氏は推測しています。

 なぜ、「推測」しかできないのかと言いますと、起草した千葉卓三郎が、その師である仙台藩校「養賢堂」の学頭だった大槻磐渓の名前は書き残しても、玉蟲左太夫の名前を書き残さなかったからです。明治14年当時の玉蟲は、いまだに切腹を命じられて家禄を没収された「戦犯」の身であり、名前を出すことが憚れたのではないか、と山本氏はこれまた推測しています。

 千葉卓三郎は明治16年に31歳の若さで病死し、玉蟲左太夫の名誉が回復され、家名再興を許されたのは明治22年(1889年)のことでした。