裕次郎、ひばり…随分若くして亡くなった有名人=光陰矢の如し

 この渓流斎ブログは、「安否確認」にもなっております。しばらく休載すれば、「渓流斎の野郎、とうとういったか」といった話になりかねないので、無理して毎日、更新するようにしています。それでもどうしても空くことがあります。「題材がない」「気力がない」「書くほどの価値がない」といった理由ですので、どうか一つ、その辺は斟酌、もしくは忖度して頂ければ幸甚で御座います(笑)。

 本日の主題は「光陰矢の如し」です。振り返れば、40歳ぐらいまでは時間がゆっくり流れていたと思っていましたが、40歳を過ぎると、あっという間です。いわゆる幾何学級数的速さで時間が飛んでいき、私も本当に、気がついてみたらあっという間にお爺さんになってしまいました。「浦島太郎」の話は実話だったんじゃないかと思うほどです。

 年を取ると、若い時に、随分年長で、お爺さん、お婆さんに思えた有名人の皆さんがかなり若かったことに気がつきます。それに、既に、とっくに彼らの年齢を越えてしまったりしています。

 昭和の大スターだった石原裕次郎は行年52歳、美空ひばりも同じ52歳です。それを言えば、エルヴィス・プレスリーは42歳、ジョン・レノンは暗殺されたとはいえ、40歳の「若さ」です。

 今の若い人は知らないでしょうが、私が中学生ぐらいの頃、往年の女優浪花千栄子は、晩年にオロナミン軟膏のコマーシャルに出ていたお婆ちゃんというイメージがありました。(「浪花千栄子で御座います」)それが亡くなったのは66歳だった、と今では簡単に調べられますから、「えっ~!?」と大袈裟に驚愕しました。今の女性の66歳は若いですからね。「お婆さん」なんて絶対に言わせないでしょう。

 ついでながら、浪花千栄子が、何でオロナイン軟膏のCMに採用されたのか? それは彼女の本名が、「南口(なんこう)キクノ」だったから、というまことしやかな都市伝説を聞いたことがあります(笑)。

大興善寺(佐賀県)

 作家でいえば、文豪の夏目漱石は49歳、自殺したとはいえ、芥川龍之介は35歳、太宰治は38歳、三島由紀夫は45歳。短命とはいえ、彼らは天才ですから、100年、1000年と読み続けられる作品を残しました。

 驚いたのは、私も面識がある、といいますか、取材でお会いしたことがある作曲家の武満徹さんです。当時は随分年配の方に見えましたが、調べ直してみたら亡くなったのが、まだ65歳だったとは!「随分、若くして亡くなられたんだ」と改めて驚きました。同じ作曲家の芥川也寸志も何と63歳、黛敏郎も68歳と古希も迎えずに亡くなっていました。

 私の母校の海城高校のお近くに住んでいたお笑い「てんぷくトリオ」の三波伸介はまだ52歳だったんですね。1982年に亡くなっているので、あれほど一世風靡した有名人でしたが、今の若い人は知らないかもしれません。

 そして、演歌歌手の藤圭子は、亡くなったのは、まだ62歳の若さでしたか。。。若い人は彼女を知らなくても、宇多田ヒカルの実母だと言えば、分かるかもしれません。藤圭子の両親は旅回りの浪曲師、本人は演歌で、娘のヒカルはJーPOPと、まさに絵に描いたような日本の歌謡芸能史の変遷です。「歌は世につれ 世は歌につれ」です。年を取ると、こうして二代、三代に渡って、芸能史を目の当たりにすることが出来、「俺は、音羽屋は先代の六代目から観ているだ」なんて自慢できたりするわけです。

 毎日、元気がない、気力もない日々が続きますが、「年を取るのも悪くない」と思えば、しめたものです。

行動遺伝学とは何か?=橘玲、安藤寿康著「運は遺伝する」は読み応えあり 

 数日前から少しずつ橘玲、安藤寿康著「運は遺伝する 行動遺伝学が教える『成功法則』」(NHK出版新書、2023年11月10日初版)なる本を読んでいます。有楽町の三省堂書店にNHKラジオのフランス語のテキストを買いに行って、ついでに書棚を覗いていたら、偶然この本が見つかったのです。まさに、セレンディピティ(思い掛けぬ幸運)かもしれません。

 この本は、三省堂有楽町店の新書部門で第1位を獲得していたので目立つ所にありました。中をパラパラめくっていたら、こんな文章に巡り合いました。(ちなみに、この本は、「言ってはいけない」などで知られるベストセラー作家の橘氏と、「能力はどのように遺伝するのか」を今年出版した行動遺伝学者の安藤慶大名誉教授との対談で構成されています。)

 病気になったり、近しい人が亡くなったり、強盗に遭うなど、一般的に運が悪かったとされる偶然の出来事と、離婚や解雇、お金の問題など、本人にも責任があると見なされる出来事を比較したところ、偶然の出来事の26%が遺伝で説明でき、本人に依存する出来事の遺伝率30%と統計的に有意な差はなかった。(14ページ)

 えっ?どういうこと???  次にこんなことが書かれています。

 よく考えてみると、病気には遺伝が関わっているし、…強盗に遭うのは確かに運が悪かったのでしょうが、危険な場所にいたり、目立つ行動をとったりしたのが原因だとすれば、そこにも遺伝の要素がある。知人が交通事故に遭ったら、「運が悪かったね」と同情するでしょう。でもそれが信号を無視して横断歩道を渡ろうとしたり、無理な追い越しをしようとして起きたら単なる偶然とは言えない。そう考えれば、私たちの人生の全てを遺伝の長い影が覆っていて、そこから逃れることができないのではないでしょうか。(15ページ)

 この渓流斎ブログを長年お読み頂いている皆様はご承知かと存じますが、私は色んなことに好奇心を働かせております。そのうちの一つが、「人間は、遺伝で決まるのか、育った環境によって決まるのか」といった難題です。俗に言う「氏(うじ)か、育ちか」、「生まれつきか努力か」、Nature or Nurture? です。だから、これまで苦労して人類学や進化論に関する書籍を読んできたのです(苦笑)。

 でも、我思うに、もしこれが、AかBかの二者択一問題だとしたら、日本人は圧倒的に「氏」を尊重してきた民族だと言っても良いのではないでしょうか。天皇制にしろ、武家社会にしろ、現代政界にせよ、芸能の歌舞伎の世界にせよ、「世襲」を重んじてきたからです。

大興善寺(佐賀県)

 この本では、作家の橘氏が、行動遺伝学者である専門家の安藤氏に質問を投げかける形で対談が進んでおりますが、博覧強記のお二人ですから、私なんか全く知らなかった多くの文献を引用されています。例えば、行動遺伝学の大御所ロバート・プロミンは、著書「ブループリントーDNAはどのようにして、私たちが何者であるかをつくりあげるのか」を出版し、遺伝子レベルで行動遺伝学の知見が証明されたと「勝利宣言」したといいます。 

 また、行動遺伝学の大立者エリック・タークハイマーは「行動遺伝学の3原則」(原則1:人間の行動形質は全て遺伝の影響を受ける。 原則2:同じ家庭で育ったことの影響は、遺伝の影響よりも小さい。 原則3:人間の複雑な行動形質に見られる分散のうち、相当な部分が、遺伝でも家族環境でも説 明できない。)を提唱し、この3原則が今や、行動遺伝学の基本中の基本になっているようです。

 そんなことを急に言われても、何のことを言っているのか分からないと思いますので、そもそも行動遺伝学とは何かと言いますと、知能や性格を含めて、あらゆる行動や心の働きが遺伝の影響を受けるというのが原則だという学問です。おおよそですが、知能は60%ぐらい遺伝子の影響を受け、「協調性」や「外向性」や神経質」などの性格は、30~40%遺伝によるというものです。行動遺伝学は、主に、双生児(一卵性、二卵性)の方々を長年追跡して科学的知見を追究していきます。

 そこで、この本は、まさに「遺伝か環境か、どちらなのか」の議論が展開されています。1冊の本になるぐらいですから、色んな所見が出てきて面白い読み物になっていますが、なかなか結論は出てきません。色んな要素が複雑に絡み合っているからだというのです。結局、ヒトは、遺伝と環境の要素を50%ずつ受けているのが正解なのでしょうが、「30%の遺伝でも多いと言えばかなり多い」「偶然であっても、遺伝的に必然だったかもしれない」などと言われると、こちらも思わず頷いてしまいます(笑)。

大興善寺(佐賀県)

 さらに言えば、例えば、私は、電車やバスや職場などで嫌~な奴に遭遇することがあるのですが、彼ら本人だけが悪いのではなく、生まれつきの遺伝の産物なんだと思うと、あまり腹が立たなくなるんですよね(笑)。

 「病気になったのは遺伝のせい」「学力がなく、年収が低いのも全て遺伝のせい」ということにすれば、大変気が楽になりますが、この本をじっくり読めば、行動遺伝学はそこまで結論づけて断定的に言っていない、ということになっています。「じゃどっち何だ!」と思う方はこの本を読むしかないでしょう。そして、自分自身で納得する結論を引き出したらどうでしょうか。

辻井伸行さんのパリ公演には感動しました=BSフジ再放送

  私のようなもう古い世代では考えられなかったことを今の若い世代はやり遂げています。例えば、我々が若かった1970年代~80年代では、サッカーのワールドカップに日本が出場することなど夢のまた夢でしたが、今では、出場は当たり前で、強豪スペインやドイツを打破して、ベスト4を狙うことは全くあり得ない夢ではなくなりました。

 何と言っても、米大リーグで二刀流として活躍する大谷翔平選手は、今年、かつては考えられなかった日本人初の本塁打王に輝き、史上初の2回目のア・リーグ最優秀選手賞(MVP)を満票で獲得しました。

 それに加えて、将棋の藤井聡汰さんは21歳2カ月の若さで史上初の八冠を達成しました。あの羽生善治七冠をあっさり超えてしまい、全くあり得ない快挙です。我々の世代は、将棋の棋士と言えば、大山康晴とか升田幸三といったお爺ちゃんや無頼漢のイメージがあったので、中学生でプロデビューして全タイトルを独占した藤井八冠には驚愕するしかありません。

 大谷選手も藤井八冠も我々の世代ではなし得なかったことを成就した天才に他なりませんが、もう一人、大天才がいました。ピアニストの辻井伸行さんです。皆さん御存知のように、彼は目が不自由であるにも関わらず、ショパンやリストなど難曲中の難曲と言われる名曲を弾きこなしています。目が不自由なので、全て暗譜です。指の使い方もどう習得されたのでしょうか?ペダルを踏む箇所も楽譜に記載されていますが、それらも全て耳だけで習得したはずです。彼のような天才は見たことも聞いたこともありません。

有田の豪華御膳(本文とは関係ありまへん)

 というのも、昨晩、テレビのBSフジで「辻井伸行×パリ ~ショパンが舞い降りた夜~」という番組を偶然、観たからでした。偶然でしたので、途中から観ました。番組は2017年に放送されたものの再放送でした。2017年、辻井さん29歳の時のパリ公演をメインに、彼が敬愛するショパンの所縁の地を訪問するドキュメンタリーでした。

 ショパン所縁の地というのは、パリにある「ポーランド歴史文芸協会」(ショパンが実際に使ったピアノなどが展示)やサル・エラール(ショパンが演奏したサロン)やパリ郊外のノアン村にあるジョルジュ・サンドの館(ショパンが最も多くの曲を作曲した場所)などでした。この他、18~19世紀の古いピアノを修復する店を訪れ、ここのアンティーク・ピアノで、ショパンやリストなどを「試し弾き」していました。

 パリ公演の会場は、シャンゼリゼ劇場という聴衆の耳が肥えた老舗のホールで、ここは、ストラビンスキーの「春の祭典」が初演(1913年5月29日)された所で、大論争を巻き起こしたことでも有名です。辻井さんは、ここで、ショパンの「エチュード」と、アンコールでリストの「ラ・カンパネラ」を演奏し、耳が肥えたうるさい聴衆を熱狂させていました。実に感動ものでした。ハンディを乗り越えた本人の努力の賜物ですが、番組のタイトルのように、時空を超えてショパンの魂が辻井さんに乗り移ったような完璧な演奏でした。

 こうして若い世代の天才たちと同時代に生きることが出来て、その巡り合わせには幸せを感じます。

🎬北野武監督作品「首」は★★★

 今年5月の仏カンヌ国際映画祭のプレミア部門で上映され、熱狂的な歓迎を受けた北野武監督の6年ぶりの新作「首」を、日本の田舎の映画館で観て来ました。

 「本能寺の変」前後の織田信長とその家臣団との間の血と血で洗う、マフィアの跡目争いのような抗争です。まさに「首」が飛び交うグロテスクな場面も描かれ、「15歳未満お断り」に指定されていました。

 個人的な感想としましては、部分、部分でとても迫力が良い場面が多かったのですが、全体的、特に、「物語」の面では、腑に落ちない面が多々ありました。ご案内の通り、この辺りの歴史には精通していますからね(笑)。

 まず、良かった場面は、合戦場面です。特に長篠・設楽原の戦いで、武田軍の騎馬隊と信長・家康連合軍の鉄砲隊とが戦う場面や何百本の弓矢が空中で飛び交うシーンは迫力満点で、黒澤明監督を思わせました。

 羽柴秀吉をビートたけし、黒田官兵衛を浅野忠信、明智光秀を西島秀俊、徳川家康を小林薫が演じていましたが、何と言っても秀逸だったのが、織田信長役の加瀬亮でした。狂気じみた独裁者信長が名古屋弁で理不尽なことばかり命令しながら、多くの面前で家臣を殴り倒したりしますが、恐らく、実際の信長もああいう感じだったのではないか、と思わせました。とにかく、台詞を尾張言葉と言いますか、名古屋弁にしたことは大成功でした。

 北野監督の30年の構想ということで、かなりの自信作なのでしょうが、光秀と荒木村重(遠藤憲一)との関係が本能寺の変につながったという説はどうも違和感がありました。勿論、壮大なるフィクションなので、エンターテインメントとして楽しめば良いかもしれませんが。

 秀吉の参謀で弟の秀長役を大森南朋が演じておりましたが、彼は大河ドラマ「どうする家康」で、家康の四天王の筆頭、酒井忠次役を演じ、その印象が強過ぎて、何か変な感じがしました(苦笑)。ついでに言えば、大河ドラマでさえ、多くの家臣が登場するのに、例えば、光秀の家臣として登場するのは斎藤利三ぐらい、秀吉の家臣も目立つ家臣は蜂須賀小六と宇喜多直家ぐらいで、加藤清正も福島正則も石田三成も登場しません。合戦前の軍評定に家臣が二人ぐらいしか登場しないのはあり得ない(笑)。

 でも、北野監督がスポットライトを浴びせたかったのは、木村祐一演じる曾呂利新左衛門だったかもしれません。元甲賀忍者で密偵として働く「芸人」という役柄で、ビートたけし自身を反映させたかったのかもしれません。

 エンドロールで大竹まことが出ていたので、「あれっ?いたっけ?」と思い、家に帰って調べてみたら、千利休(岸部一徳)に使える間宮無聊役でした。分からなかったなあ~。

映画「翔んで埼玉 ~琵琶湖より愛をこめて~」は★★★

 映画「翔んで埼玉 ~琵琶湖より愛をこめて~」をロードショウ公開初日の11月23日(木・祝日)に観に行って来ました。

 別に埼玉県に対して思い入れはありませんけど、人生の終焉地が埼玉県の所沢聖地霊園ですので、少しは関心を持たざるを得ません。。。てゆうか、前作の「翔んで埼玉 」(2019年)があまりにも面白かったので、大いに期待して観に行ったのでした。

 しかし、残念ながら期待外れでした。前回のように「埼玉県人にはそこら辺の草でも喰わせておけ!」といった超過激な印象に残る台詞もなかったし、ストーリーを関西に展開したのはいいものの、ちょっと物語の焦点が散漫になり、役者たちが真剣に演技すればするほど、観ている方は白けてしまいました。

 面白かったのは、神戸市長役として出ていた藤原紀香が、「戦闘」場面で、女優の藤原紀香として登場した時、兵庫県西宮出身と言われながら、実は、映画の中では差別されている和歌山県出身だった、というオチぐらいでした(どうでもいいですけど、彼女の両親は和歌山県出身らしい)。観客は、藤原紀香と大阪府知事役の片岡愛之助とは実生活では夫婦であることを知っているので、冷や冷やする場面もありました。コメディーなのに笑える箇所が前回と比べて少なかったのが低評価につながりました。

東銀座「わのわ」日替定食 950円

 映画は「壮大な茶番劇」と銘打っているので、別に目くじらを立てて批評する必要は全くないのですが、第1作の大成功に気を良くしてか、かなりの宣伝費を注ぎ込んでいるように見受けられます。直接の番宣だけでなく、主演のGACKTが滅多に出ないバラエティー番組に出演したりしておりました(笑)。

 GACKTさんは、これまで年齢非公表だったのに、「50歳です」と明らかにしたり、「20歳で悩むことをやめた。だから悩んでいる人を見るとイライラしてしまう」などと話したりしていました。話し方も考え方も、映画のキャラクターと実人物とはそれほど乖離していなかったので、驚いてしまいました。

 映画の最後のエンドロールでは、ミルクボーイの漫才が観られます。こっちの方が面白かったと言ったりしたら、映画関係者に怒られるだろうなあ。。。

大英帝国の最盛期を築いたヴィクトリア女王=「映像の世紀 イギリス王室の百年」

 先日放送されたNHKの「映像の世紀 バタフライエフェクト」で、「イギリス王室の百年」をやっておりました。

 120年以上昔に亡くなったヴィクトリア女王(1819~1901年)の生前の貴重な動画(フィルム)や、女王崩御後、その子孫が大英帝国やドイツ帝国などで王位を継承して、第一次世界大戦では、ヴィクトリア女王の孫たちが敵味方に分かれて「骨肉の争い」となり、第二次大戦でもまた孫と曾孫が敵味方に分かれて戦った様を「映像」で再現しておりました。そんなフィルムが残っていたとは!まさに驚くほかない番組でした。

 何で欧州諸国同士の戦争が孫や従兄弟同士の骨肉の争いになるのか? ーそれは、列強諸国同士が政略結婚で自分の王女を他国の王子に嫁がせたりしているからです。日本でも戦国時代は特に、戦略結婚が政治や外交の基本にさえなっていたと言ってもいいでしょう。美濃の斎藤道三の娘濃姫と尾張の織田信長との結婚、信長の娘五徳姫と徳川家康の嫡男信康との結婚など枚挙に暇はありません。

 第一次世界大戦とは、1914年から18年にかけて、主に同盟国(ドイツ、オーストリア、オスマン帝国など)と連合国(英、仏、露など)との間で行われた戦争でしたが、「最高指揮官」であるドイツ帝国のヴィルヘルム2世と大英帝国のジョージ5世は従兄弟で、ヴィクトリア女王の孫同士という関係でした。つまり、ヴィルヘルム2世は、ヴィクトリア女王の長女ヴィクトリアとドイツ皇帝フリードリヒ3世との間の嫡男、ジョージ5世は、ヴィクトリア女王の長男エドワード7世から継承した英国王ということになります。

  また、連合国側のロシア皇帝ニコライ二世は、ヴィクトリア女王の孫と結婚したことにより、英国王室と縁戚となります。ヴィクトリア女王の孫とは、ヴィクトリア女王の王女アリス(ヘッセン大公妃)の娘アレクサンドラです。第一次大戦の最中にロシア革命に遭遇し、ニコライ二世は英国に逃れようとしましたが、ジョージ5世から認められず、母国で家族もろとも処刑される悲劇を生みます。(ジョージ5世とニコライ2世は、風貌と体格がそっくりだったので、衣服を替えて周囲を驚かせたという逸話が残っているにも関わらず、ジョージ5世にはロシア赤軍との戦争を回避したい思惑があったようでした。)

 第一次大戦から約20年後の第二次世界大戦では、英国はジョージ5世亡き後、長男ディヴィッドが、エドワード8世として即位したものの、「シンプソン事件」でわずか325日の在位で廃位となり、弟のアルバートがジョージ6世として即位し、はとこ(また従兄弟)に当たるドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(オランダに亡命し、客死)と対峙します。(実際は、独ヒトラーと英チャーチルとの戦いでしたが)

ジョージ6世は、映画化された「英国王のスピーチ」でも知られるように吃音を克服して、戦時中、ナチスによる空爆で損害を受けた英国民を鼓舞しました。昨年亡くなったエリザベス2世の父君に当たる人です。

エリザベス女王は、我々と同時代の人ですが、ヴィクトリア女王は歴史の教科書でしか知らない遥か大昔の人だと思っていました。でも、番組で彼女の動画を見たりすると、「つい最近の人だったのか」と思ってしまいます。不思議なものです。

クロード・ハウザー、ピエール=イヴ・ドンゼ編「駐日スイス公使が見た第二次世界大戦―カミーユ・ゴルジェの日記」を翻訳した鈴木光子氏=大学同窓会で講演

 11月19日(日)は、東京・大手町で開催された大学の同窓会「第28回サロン仏友会」にオンラインで参加しました。毎年、この時期に開催されるのは、ボージョレ・ヌーヴォーが解禁される「飲み頃」を狙ったものですが、会場参加出来なかったので、恩恵に預かれませんでした(苦笑)。

 今回のゲスト講師は、元スイス政府観光局次長で旅行作家、翻訳家の鈴木光子氏でした。御高齢ということで、彼女もオンライン参加でした。お話は、今年3月に、足かけ5年の歳月をかけて翻訳出版したクロード・ハウザー、ピエール=イヴ・ドンゼ編「駐日スイス公使が見た第二次世界大戦―カミーユ・ゴルジェの日記」(大阪大学出版会)の完訳までの苦労話が中心でした。

 日記を書いたカミーユ・ゴルジェ(1893~1978年)は、スイス・ジュラ州(フランス語圏)出身の外交官で、日本には1924年から26年にかけて、当時、国際連盟事務局次長だった新渡戸稲造の推薦を得て外務省法律顧問として初来日し、40年から45年にかけて駐日スイス公使を務めた人です(その後、ソ連やデンマークなどの公使も歴任)。最初の来日は、大正デモクラシーの自由な世界で、公使を務めた時は、軍国主義の戦時体制でしたから、あまりにもの違いに驚くことが日記に書かれています。(未読なので、そのようです)

 日記は戦後10年経って公表されましたが、今回は、スイス・フリブール大学のハウザー教授が、カミーユ・ゴルジェの子息に連絡を取って、出版の許可を得て、大阪大学のドンゼ教授と連携して編纂し、前書きと後書きを執筆したというものです。1938年生まれの鈴木光子氏は、先の大戦で空襲の体験があることから、「歴史と記憶」を大命題とし、「太平洋戦争の記憶が薄れていく現代で、何が歴史として残るかを問う著作」として綿密に翻訳作業に取り組んだといいます。

 鈴木氏によると、日記には、皇室への憧憬、大国と小国の席の序列など外交界での身分格差、戦時下の一般庶民の投げやりな日常、スイス外交団の軽井沢への疎開など、貴重な歴史的証言が描かれているといいます。邦訳は583ページにも及ぶ大作で、「持つと重さ1キロもありますが、多くの人に読んで頂きたい」と鈴木氏は話しておりました。

 ついでながら、鈴木氏はスイスの専門家なので、日本人が意外と知らない「スイス人」の著名人として、思想家のジャン・ジャック・ルソー(1712~78年、父親はジュネーブ共和国の時計職人)、建築家のル・コルビュジエ(1887~1965年、本名Charles-Édouard Jeanneret-Gris、タグ・ホイヤーなど世界的時計メーカーが本拠地を置くラショー・ド・フォン出身)、フランス6人組の一人である作曲家アルトゥール・オネゲル(1892~1955年、仏とスイスの二重国籍)らを挙げておりました。

「延安での毛沢東の日本人洗脳工作と戦後GHQの工作の関係性」=第54回諜報研究会

11月18日(土)に早大で開催された第54回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催)に参加して来ました。共通テーマは「延安での毛沢東の日本人洗脳工作と戦後GHQの工作の関係性」でした。活発な議論が展開されて興味深い会合でした。 

 最初に登壇されたのは、インテリジェンス研究所理事長の山本武利早稲田大学・一橋大学名誉教授で演題は「捕虜洗脳には難解な本を読ませろ!」でした。先の大戦の日中戦争の最中、中国・延安で毛沢東から日本兵捕虜の洗脳を全面的に委任された野坂参三が使った教育用テキストを山本氏が古書店で「高価格で」入手し、その内容が報告されました。

 野坂参三は、毛沢東やコミンテルンなどからの支援を得て、1940年10月に延安に日本工農学校を組織し、校長に就任しました。この時、使った変名が「林哲」でした。その林校長も「時事問題」の講座を持ち、日本兵捕虜への洗脳に一翼を担ったことが分かります。

 具体的に使われたテキストとして、青年コミンテルン編「無産者政治教程ー資本主義社会の解剖」(延安日本工農学校出版部)といったオリジナルの書籍のほか、野呂栄太郎著「日本資本主義発達の歴史的諸条件」など難解な書物ばかりでした。野呂栄太郎は慶応大学の野坂参三の後輩に当たり、戦前の日本共産党の理論的支柱になった人でしたが、拷問がもとで病状が悪化し33歳の若さで亡くなっています。彼は、慶大卒業後、朝日新聞の入社試験を受けたものの、思想チェックと思われる理由で落選し、合格したのは後にゾルゲ事件で処刑された尾崎秀実でした。(もう一人受験して不合格になった人が、尾崎秀実と東大大学院同期生の松岡二十世の可能性が高いことを、松岡将氏が「松岡二十世とその時代」に書いております。)

 話が少し逸れましたが、延安で使われたテキストが難解だったという話でした。報告者の山本氏は「日本兵捕虜たちの多くは小学校卒業程度の教育レベルだったにも関わらず、難解なテキストを使ったのは、『帝国主義』とか「労働搾取』とか、ちょっとかじっただけで、自分も革命の一翼を担えると洗脳する目的があったのではないか」と分析し、「また、集団の中で各自に自己批判をさせたのは、カルト宗教がやってきた手法と同じです。毛沢東率いる共産党のやり方は非常にシステマティックで凄いという言うほかない。その点、蒋介石率いる国民党は甘かった」とまで力説していました。

 次に登壇されたのは、山下英次大阪市立大学名誉教授で、演題は「日本列島全体を『洗脳の檻』と化した GHQ:また、米軍延安ミッションは何をもたらしたか?」でした。

 山下氏が展開する持論は、日本は戦後78年間、「非独立国」であり、GHQが仕掛けた「洗脳の檻」から抜け出していない、というものでした。その証拠に、独立国の三種の神器である①自前の憲法、②国防軍、③スパイ防止法に裏付けされた統合された国家情報機関がないからだといいます。

 1944年11月、米国は中国共産党の本拠地・延安に軍事顧問団を派遣し、その場で、野坂参三による日本兵の洗脳が大きな成果を収めていることに着目し、戦後、GHQによる日本人洗脳計画の手本として利用したといいます。

 山下氏は、GHQ洗脳作戦として、①押し付けた現行憲法、②約21万人の公職追放、③7000冊以上の禁書指定、④日本の伝統的な歴史・道徳教育の全面的禁止と偏向教育、⑤徹底した検閲を伴った言論統制ーなど七つの柱を提唱して列挙しておられました。

 確かにその通り、一々、ご尤もと頷いていたのですが、「教育勅語を見直して、修身の教育を復活させた方が良い」「GHQの検閲は、戦前の日本より酷かった」といった趣旨の話になったときに、段々、違和感を覚えてしまいました。

 ただ、その場では考えがまとまらず、会場で質問さえしなかったので、これは後出しジャンケンのようになってしまいますが、確かにGHQの検閲は、問題にならないくらい極悪非道の検閲ではありましたが、日本の方がましだった、というのは違うんじゃないかな、と帰りの電車の中で考えた次第です。作家小林多喜二の拷問惨殺事件でも分かるように、特高による治安維持を盾にした言論弾圧は身の毛もよだつほどでした。戦時中は、永井荷風も谷崎潤一郎も、そして江戸川乱歩でさえも発禁処分を喰らって、断筆を強いられました。

 それに、日本は、敵国の事情を知らなければならないはずなのに「敵性語」の使用を禁止し、野球のセーフやアウトを「良し」「駄目」とか言い換えたりして噴飯物です。精神論ばかり強調し、上層部は、元寇のように神風が吹くと思っていました。「軍人勅諭」なんか、「捕虜にならず、自殺しろ」と言っているようなもので、米軍とは正反対です。米軍は兵士に対して十分な食糧とデザートまで用意して兵站の観念がしっかりしていたのに、日本軍は非常に無責任で、食糧は現地調達で片道切符しか兵士に与えず、戦死者のほとんどが餓死者だったということで米軍とは対象的です。それでいて、インパール作戦の司令官だった牟田口廉也将軍のように、エリート軍事官僚は、兵士を虫けら扱いにして遺棄して、一人白骨街道の上空を悠々と飛行機で逃げ帰った史実もあります。

 確かに、戦後GHQの洗脳作戦が酷かったとはいえ、戦前の軍国主義の方がましだったとは言えません。

 GHQがやったことは全て悪かった、と全面否定することは簡単ですが、少しはましなこともやっています。例えば、「農地改革」により小作人たちは奴隷状態から抜け出すことができたし、「華族制度」廃止により、明治新政府という名の薩長軍事クーデター政権がつくった身分制度が廃止され、多額納税者である貴族議員という特権階級の廃止と「婦人参政権」により、表向きには民主主義が成立しました。いずれも、戦前の日本の軍事政権では出来ず、外圧によってしか成し得なかったことでした。

 結局、日本は「永久敗戦国」として、「思いやり予算」で米軍と基地を受け入れ、「核の傘」の中で戦後の高度経済成長を成し遂げました。今も占領が続いているのは確かで、米国の51番目の州みたいなものだということは多くの国民が自覚しているところです。それより、ソ連のロシアに征服されるよりマシだったかもしれないし、北朝鮮のような全体主義的軍事政権がそのまま続いていたよりマシだったかもしれません。

 そんなことを考えながら夜道を帰りました。

 

そうだ、何歳になっても数学を勉強しよう=永野裕之著「教養としての『数学Ⅰ・A』 論理的思考力を最短で手に入れる」

 渓流斎という人は勤勉で生真面目な人間なので、目下、数学を勉強しています。大学は文系でしたので、高校卒業以来約半世紀ぶりの学習です。社会人になっても、数学は全くと言ってもいいほどほとんど使いませんでした。せめて使うとしたら算数ぐらいでしたから、すっかり忘れてしまいました。

 国立の文科系大学を受験したので、数学はⅡBまで必須でした。あれだけ、微分積分の問題を苦しみながら解いたのに、悲しいかな、やれば思い出すでしょうが、忘れてしまいました。それどころか、二次方程式の解の公式すら忘れているのです。

{\displaystyle ax^{2}+bx+c=0\quad (a\neq 0)} の解の公式は

{\displaystyle x={\frac {-b\pm {\sqrt {b^{2}-4ac}}}{2a}}}

 となりますが、全く記憶にないほどです(苦笑)。この公式は中学3年で習うといいますから、中学生の時、よほどサボっていたことになります。思い起こせば、中学生の時、私はグレていたので確かにその通りです(笑)。

 今、世界ではロシアがウクライナに侵攻し、イスラエルがガザ地区に報復の大量殺戮を行い、戦争が絶えることがありません。それに対して、無力感に浸っているのは私だけではないと思います。国連を始めとした国際機関の働きも無力で、大国の米国は逆に戦争を容認するか、むしろ煽っている状況です。

 文学も音楽も美術も映画も演劇も戦争を止めることが出来ません。もう絶望するしかありません。そこで救いを求めたのが(宗教ではなく)数学でした。数学的思考形態を脳髄に刷り込ませよう、と思ったのです。

 その数学の前にイーロン・マスクさんを見習って、感情をシャットダウン出来ないものか模索しました。私は大変涙もろいので、ウクライナのブチャでの虐殺や、本来なら病人やケガ人を治療するガザ地区のシファ病院が空爆されたり地上戦で子どもたちに死者が出たりする映像を見ただけでも、涙が止まらなくなってしまいます。なるべく、感情的にならないようにしましたが、修行が足りないせいか、やはり、心を痛めてしまいます。

銀座1丁目「舞桜」 舞桜御膳1000円

 数学的思考とは何か? ーたまたま、目にした本に明晰に書かれていました。その本は「教養としての『数学Ⅰ・A』 論理的思考力を最短で手に入れる」(NHK出版新書、2022年4月10日初版)という本です。著者の永野裕之氏は言います。

 社会に根ざした学問の場合、非常に似通ったケースであっても、一方は正しく、他方は正しくないということがあり得ます。グレーゾーンのような領域が多々あり、判断が難しいのです。その点、数学にはそういった玉虫色の結論がありません。いつでも白黒がはっきりするので明瞭です。

 私はこの節を読んで目から鱗が落ちる思いでした。勿論、現実世界はそう単純ではありませんから、神さまがいて白黒をはっきりさせて悪者を退治してくれるようにはなっていません。ただ、著者の永野氏は、数学を学ぶことによって「論理的思考力」、言い換えれば「問題解決能力」を養うことが出来ると力説しています。

 なるほど、その通りですね。先日、フランスの格言に「明晰でないものはフランス語ではない」というものがあることをこのブログでご紹介しましたが、この伝でいきますと、「明瞭でないものは数学ではない」ということになります。

 数学は確かに数式を多用して問題を証明する学問ですが、論理的に証明する学問でもあります。例えば、「集合」論では、「ある命題の真偽と、その対偶の真偽は一致する」という定理があります。命題とは、真偽を客観的に判断できる事柄のことで、対偶とは、その命題の「逆」の「裏」から作られたものとなります。つまり、「pならばqである」という命題の対偶は、「qでないならばpではない」となります。

 例えば、「天才でなければピカソではない」という命題があったとしたら、その対偶は「ピカソであれば天才である」となります。天才という定義は難しいですが、ピカソは天才なので、「命題と対偶の真偽は一致する」ことになるわけです。

 このほか、本書では「背理法」による証明も出てきますが、対偶と同じように数の計算式は出てきません。まさに論理的思考力を養う学問と言えます。

 この本は、まだ半分しか読んでいませんが、108ページ辺りからデカルト(1596~1650年)が登場してきます。私は学生時代、デカルトを卒論のテーマにしようとして、「我思う故に我あり」で有名な「方法序説」だけは原書で読み、「省察」や「情念論」なども読みましたが、難解過ぎて理解できず、とうとう途中で挫折してしまいました。そのせいか、デカルトが哲学者であるのと同時に優れた数学者だったことを忘れるところでした。この本では、座標軸を発明したのはデカルトだとはっきり書かれております。

 デカルトは、意味が抽象的になる短所を持つ代数学に、意味が具体的になる長所を持つ幾何学を導入して座標軸を発明したといいます。例えば、二次関数の代数を、幾何学でグラフ化(図形的に関数が変化する様子を表す)することによって意味を分かりやすくしたというのです。(私はこのブログにグラフを書くことが出来ないので、分かりづらいかもしれませんが、堪忍してください。)

 なるほど、デカルトは偉い。哲学と数学は矛盾するわけではないことを証明したような人だったとも言えます。

フランス語は18世紀でも人口の20%しか話されていなかった!

 いい年こいて、いまだに身に付かないフランス語を勉強しています。専らNHKのラジオ講座「まいにちフランス語」ですが。

 今放送されている応用編「フランコフォニーとは何か」(講師は西山教行、ジャンフランソワ・グラヅィアニ両氏)は、知らなかったことばかりで大変勉強になります。

 フランス語を勉強した人なら誰でも知っている格言があります。

 Ce qui n’est pas clair n’est pas francais.(明晰ではないものはフランス語ではない。)

 18世紀のフランスの啓蒙主義作家アントワーヌ・ドゥ・リヴァロールの言葉ですが、確かにフランス語は文法がしっかりしていて、英語のような、どっちにでも意味が取れそうな曖昧さは微塵もありません。大袈裟な!

 そのせいか、フランス語は今より遙かに国際語として通用していました。フランス語を日常的に使っていた有名な外国人は、プロイセン(ドイツ)のフリードリッヒ2世、ロシアのエカテリーナ二世女王、米国の政治家・外交官ベンジャミン・フランクリン(仏語ではバンジャマン・フランクランと読みます)、女性遍歴で有名なイタリア・ベネツィアの作家カサノヴァらです。欧州全体でフランス語が使われていたのです。

 いや、これはさほど驚くべきことではありません。私が何よりも驚いたのは、18世紀のフランス本土で日常的にフランス語を使っていたのは、全人口のわずか20%しかいなかったという史実です。フランス語を使用していたのは、フランス王権のあるパリ近辺のイル・ド・フランス地方や北部のピカルディ地方などです。当時、83県のうち、15県しかなかったといいます。残りの80%はそれぞれの地域の言語ー例えば、バスク語やブルトン語やコルシカ語などを使っていたのです。

 そう言えば、日本だって、19世紀の江戸時代までは地域語が日常語であり、恐らく津軽藩と薩摩藩との間では言葉が通じなかったと思われます(笑)。

タコス・パーティー

 フランスではフランソワ1世(1494~1547年)が1539年、ヴィレル・コトレの勅令を発布し、行政、司法、教会等の文書をこれまでのラテン語からフランス語にするよう取り決めました。この勅令は、現代フランスでも有効といわれる最古の法とも言われますが、実質的な効力ではなく、象徴的な面が強いといいます。実際、2014年、当時のエロー首相は、閣僚が英語を多用しないようにこの勅令を参照したそうです。

 このように、16世紀にフランス語は公用語になったとはいえ、18世紀末になってもフランス語を話せるのは国民のわずか20%しかいなかったというのは、驚くほかありません。「まいにちフランス語」講師のグラヅィアニ講師によると、フランス語が仏全土に行き届くのは、19世紀の第三共和政(1875~1940年)になってからで、初等教育が義務化され、農村人口が都市に流れ込み、ラジオやテレビが普及してからだそうです。ただし、フランスとスペインに居住するバスク人の間でバスク語を使う人は300万人おり、フランスでバスク語しか出来ない人は現在でも2万人いるそうです。

 私はバスク人には大変興味があります。日本人なら誰でも知っている日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルはバスク人ですし、仏作曲家のモーリス・ラヴェルも、キューバ革命のチェ・ゲバラ(アルゼンチン人)もバスク人だと言われています。

 何と言っても、スペインのバスク地方の街サン・セバスチャンは映画祭で有名ですが、何と言っても、三つ星のミシュラン・レストランが世界的にも多いグルメの街として知られていますからね。嗚呼、一度、行ってみたい!!