「この世界の片隅に」★★★★★

伊太利亜ヴェニス

男はさすらい。得てして、家に居ては落ち着けないものです。何から何まで、真っ暗闇の世の中じゃありませんか。

メリケン波止場で、しばし、羽根を休めることにして、久しぶりの避難場所として、映画館に行って参りました。週末の図書館は、老人と受験生でごった返して居場所もありませんからね。

で、何を観たかといいますと、ちょっと古くはなりましたが、今現在もロードショーロングラン上映中で、何と、あの白黒戦争で有名な2016年度キネマ旬報年間最優秀作品賞を獲得した「この世界の片隅に」でした。

アニメなのに、それがアニメだということさえ忘れさせてしまうほど、よくできた作品でした。

伊太利亜ヴェニス

舞台は、広島。昭和8年から21年ぐらいにかけて、広島市郊外と、主人公のすずが嫁入りした呉市です。

時代が時代ですから、大日本帝國が、次第に戦争の泥沼にはまっていく世の中です。

しかし、それはあくまでも、書き割りの背景画のようで、主体は、庶民の何気ない日常と家族愛が描かれます。

広島ですから、勿論、原爆投下もあります。海軍の軍港として栄えた呉市には、戦艦大和や武蔵などが寄港し、大変な賑わいを見せておりましたが、それ故、情報戦略に長けた米軍に目を付けられて、散々爆撃に遭います。

それなのに、それら悲惨さ、酷たらしさ、不条理を特別に声高に叫びもせず、糾弾すらせず、淡々と物語は進みます。

物が不足し、配給制となり、庶民は不便を強いられますが、戦争は、こうして、何気ない日常生活の中で、淡々と進行し、気がついたら取り返しがつかないという、却って恐ろしい人間の性(さが)をこの作品は教えてくれます。

脚本がいい。無駄を省き、余計な説明がなく、実に自然で、漫画の原作がそうなっているのか知りませんが、並々ならぬ才能を感じます。

原作者も戦後生まれなのに、よくあそこまで時代考証を調べ尽くし、当時の街並みを再現したものです。特に、「原爆ドーム」となる前のチェコ人の建築家ヤン・レッツェルが設計した「広島県産業奨励館」がよく描かれていました。

こういう映画が、今の日本で受け入れられ、あの殊更有名なキネマ旬報の年間最優秀作品賞に選ばれるなんて、まだまだ、日本も捨てたもんじゃない、と思いました。

「青い山脈」で、若かりし頃の池部良さんを観る

伊太利亜ヴェニス

まだ少し風邪が治り切らず、ウダウダとした週末を過ごしてしまいました。

で、昭和24年に公開されて大ヒットした映画「青い山脈」を見てしまいました。

今更ながらです(笑)。映画史に残る名作と言われ、よく知ってはおりましたが、実際に観るのは今回が初めてでした。

当時のベストセラー作家石坂洋次郎原作。監督は、巨匠今井正。

昭和24年と言えば、いまだに日本は米軍の占領下にありました。映画ですから、いまだにGHQのG2による検閲が続いていたと思われます。

そういう訳ではないでしょうが、台詞の中にやたらと、古い価値観を「封建的」だのと一刀両断し、戦争が終わったのだから、これからは「民主的」に話し合いで決めましょう、といった言葉が頻繁します。

今の映画ではもうまずあり得ないでしょう。

主役を一人挙げるとすれば、英語の島崎雪子先生役の原節子となるでしょうが、校医沼田玉雄先生役の龍崎一郎、高校生金谷六助役の池部良、女子高生寺沢新子役の杉葉子、それに芸者梅太郎役の木暮実千子らがしっかりと脇を固めています。

殆どの俳優が故人となった中、当時抜群のプロポーションで水着姿を披露した新子役の杉葉子さんは昭和3年生まれで、現在、米国でご健在のようです。

私は、戦後50年に当たる1995年に、俳優の池部良さんにお会いしたことがあります。場所は、当時池部さんがお住まいの自宅近くの目黒のホテルでした。

もう今では大変有名な話ですが、池部さんは、戦争中、南方に派遣される途中、乗っていた輸送船が米軍の潜水艦により撃沈され、10時間も海上で漂流し、生と死の紙一重の壮絶な体験をしておられます。

復員したのも、終戦の翌年で、この映画「青い山脈」では、18歳の高校生役でしたが、「当時はもう30歳を過ぎていましたが、これまでの遅れを取り戻そうと必死でした」とお話しされていたことが今でも私の耳の奥底に残っています。

「西鶴一代女」と「ボヴァリー夫人」「女の一生」「居酒屋」

伊太利亜ヴェローナ

巨匠手塚治虫が秘蔵していた春画が見つかったそうで、話題になっています。

文芸誌「新潮」に掲載されていますが、どうやら、新潮の編集者が事前に、特定のメディアに垂れ流し、いや間違えました、特ダネ記事を耳打ちしたらしいです。スクープできなかった弱小メディアのお父様、残念でした。

世の中、強い者が勝つようにできているのです。政治の世界では特に、誰もが勝馬に乗ろうと我先にと、人を押しのけて生きてます。

その手塚治虫ですが、驚くべきことに、亡くなったのはまだ60歳だったのですね。あれだけ歴史に残る大仕事を残したので、もっと長生きされていたと思っていましたが、早逝といっていいぐらいです。

まあ、いわゆる天才ですから、10代から大活躍されていて、確か、あまり若く見られたくないということで、生前は5歳ぐらいサバをよんでいたことがありました。早熟の天才だったのですね。

◇溝口健二は58歳で死去

昨日は、ネットの無料動画で、溝口健二監督を世界的に有名にした「西鶴一代女」を観ましたが、酷く暗い映画で落ち込んでしまいました(苦笑)。

昭和27年の作品です。この作品は、ヴェネツィア映画祭でグランプリを受賞し、翌年は「雨月物語」、翌々年は「山椒太夫」でも獲得して、3年連続の栄誉を授かり、すっかり「世界の溝口」の名を不動のものとしました。「3人好きな監督を挙げよ」と聞かれた仏ヌーベルバーグのジャン・リュック・ゴダール監督が「溝口、ミゾグチ、みぞぐち」と答えたことは有名です。

今でも、日本よりフランスの方が溝口健二研究家が多いぐらいですが、これ程、暗い映画をフランス人が好むとは意外でした。

田中絹代主演で、若き三船敏郎も最初に登場します。田中絹代演じるお春は、3万石の殿様の側室となって世嗣ぎを産んで頂点を極めたかと思ったら、運命の悪戯で落魄して、苦界に堕ちて、堕ちて、堕ちまくる話で、これ程ついていない女性もいないぐらいです。そんな女性は、フランスにはフロベールの「ボヴァリー夫人」を始め、モーパッサン「女の一生」のジャンヌ、ゾラ「居酒屋」のジェルベーズと結構多く描かれ、なあんだ、薄幸女性は、フランス人好みだったわけですか。

「銀座化粧」で失われた場所を求めて

さきたま古墳群の秋桜

予告通り、成瀬巳喜男監督作品「銀座化粧」を見ました。またまた昭和26年公開。成瀬巳喜男は、この年、あの林芙美子原作の「めし」(原節子、上原謙主演)も撮ってます。

昭和26年ですから、まだ占領下の銀座が舞台になっています。私が見てみたかった三間堀、三原橋の、あの許斐氏利がつくった「東京温泉」も、まだ営業前の建築中として映っていました。

パブ(宣伝)として、許斐氏利がこの映画に出資したのかもしれません。白黒なので分かりませんが、白亜の立派なビルでした。「ボクシングと大東亜」の中では、義理堅い許斐が上階を麻雀荘として無料で貸し出していたと書かれていましたね。

当時の大スターで、演技派の田中絹代主演の映画でした。銀座のバー「ベラミ」の女給で、5歳の男の子のシングルマザーという設定でしたが、当時満41歳ぐらいですから、やはり、少し…という感じでした。当時、19歳か20歳の香川京子と比べてしまうと致し方ないといった感じでした。

昭和25年頃の銀座の風景写真は、歴史的価値があることでしょう。室内のシーンが多く、ロケが少ないので、街頭風景はあまり多く映っていませんでしたが、路面電車が走り、男はソフト帽を被り、女性はまだ和服姿が多かったですね。

この映画の三原橋、「君の名は」の数寄屋橋のように、かつて銀座は川と橋ばかりでしたが、今では殆ど全て埋め立てられて、当時の面影すら残っていません。

今では外資系のブランド・ショップが乱立する銀座ですが、昭和39年の東京五輪前までは、まだ木造の仕舞屋が多く、庶民も暮らしていたことが分かります。

田中絹代扮する雪子と5歳の春雄が暮らす長屋も、新富町辺りの長唄の師匠さんの二階でした。
今は跡形もないことでしょう。失われた場所を求めて…といった感じでした。

「めし」「浪華悲歌」「ボクシングと大東亜」

ワニノ公民館 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

いつもながら、どなた様か分かりませんが、コメント有難う御座いました。

昨日は、すっかり調子に乗って、ネットにはなかった成瀬巳喜男監督作品「めし」をDVDで観てしまいました。昭和26年度公開。まだ、米軍による占領時代(昭和20年8月15日~昭和27年4月28日)だったんですね。林芙美子の未完の遺作の映画化で、今後「晩菊」(昭和29年)、「浮雲」(昭和30年)、「放浪記」(昭和37年)など成瀬の代表作となる「林ー成瀬」コンビの第1弾です。

結婚5年目で子供がなく倦怠期を迎えた夫婦を上原謙と原節子が好演しています。終戦直後の大阪が舞台ですが、二人とも東京出身で大阪に転勤してきたという設定です。上原扮する主人公は真面目な北浜の証券マンです。(上原謙は、森雅之ばりに知性派俳優ぶりを全面的に押し出しております)そこへ彼の姪っ子が東京から家出して来て、一騒動になるという話でした。

昭和26年というまだ物資がない時代に、さすがに女優陣は当時最先端のファッションで身を包んでいるので映画だなあ、と思いました。やはり、言葉遣いが丁寧なので、観ていて感服します。成瀬は、台詞に関しては、削りに削っていたそうですから、無駄がありません。

夜は、またネットで、溝口健二監督作品「浪華悲歌」を観てしまいました。昭和11年公開ですから、何と「2・26事件」が起きた年ではないですか!

山田五十鈴主演です。さすが、画面は劣化してぼんやりしている場面がありますが、アップになるととても80年も昔の映画とは思えないぐらい鮮明に映っていました。

山田五十鈴が「不良少女」アヤ子役というのですから、時代を感じさせます。30歳ぐらいに見えましたが、当時、実年齢18歳か19歳の本当に少女だったんですね。

主人公アヤ子の父である準造(竹川誠一)は、事業に失敗して酒浸りになっていた溝口の父善太郎がモデル とされているそうです。映画の中では、アヤ子は父親の300円の借金を返済しようと、男を手玉に取る「不良少女」になり、最後は家族にも見離されて、大阪の街を一人彷徨う寂しい場面で終わります。

俳優さんの顔と名前が一致しないのが残念です。社長さん役の人は、婿養子で奥さんに頭が上がらないという設定ながら、アヤ子と愛人契約したりしますが、なかなか味がありました。また、医者役をやっていた俳優さんの名前も分かりませんが、随分太っていて、昭和11年という時代にああいう体格の人もいたのかという驚きです。

評論家の山本夏彦は「戦前は決して暗い時代ではなかった」と著書の中で繰り替えし書いていましたが、既に、デパートがあって、地下鉄があって、キャバレーもあって、株取引もあって、歓楽街で楽しむ大衆も描かれていたので、少し分かったような気がしました。

 ワニノ公民館 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

博多の曇卓先生のお勧めで、乗松優著「ボクシングと大東亜」(忘羊社)を読んでいます。

内容と目の付け所が大変いいのですが、大学の紀要を読まされている感じで少し読みにくく、市販書としてなら、残念だなあ、という感想です。

最初に「凡例」を書いて、「読み方の手引き」でも書いておけば、いいのですが、読みずらかったと言わざるを得ません。

例えば、98ページにはこう書かれています。

「…初期のテレビ放送は成功しただだろうか。
佐野[二〇〇〇a]は、日本初の民放テレビ放送の幕開けを、警察官僚から不屈の転身を遂げた正力の事業欲や権勢欲と重ね合わせながら描きだしている。…」

という具合ですが、何ですか?この急に現れる「佐野[二〇〇〇a]」は!!!?

私のような近現代史関係を中心に乱読している者なら、少し考えて、「もしかして、佐野眞一氏の『巨怪伝』を引用しているのかもしれない」と、ピンときます。しかし、「巨怪伝」は1994年に初版が発行されたので、この2000とは何か?

そして、後ろの「参考文献」欄を見ると、2000年に発行された同書の文庫版からの引用だということを著者は、言いたかったようです。

私は博士論文を書いたことはありませんが、引用文献として、時代を経て文庫版になった年号を書くものですかね?いずれにせよ、「凡例」がないので、実に不親切です。

それとも、著者はまだ若いので、読者がそこまで要求するのは酷なのでしょうか?

 ワニノ港 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

最初に「目の付け所と内容はいい」と激賞したので、少し引用します。

・かつてボクシング界には、嘉納健治(神戸富永組)をはじめ、阿部重作(住吉一家)、山口登(山口組)、藤田卯一郎(関根組)などの大親分が関わっていた。中でも、日本ボクシング創世記から興行の世界に足を踏み入れていた嘉納健治は「菊正宗」で知られる造り酒屋の生まれであった。一族の中には近代柔道の祖、嘉納治五郎がおり、嘉納家は神戸でも名門中の名門の家柄で知られる。(83ページ)

【追記】ひょっえーです。菊正宗は、渓流斎の愛飲の酒ですが、嘉納治五郎と関係があったとは不覚にも知りませんでした。渓流斎の呑む菊正宗は、日比谷「帝国ホテル」か、麻布「野田岩」か、銀座「酒の穴」に限ります。せんべろ居酒屋で出される「菊正宗」は似て非なるモノと心得よ。

・後楽園スタヂアムを取り仕切り、日本ボクシング・コミッションの初代コミッショナーに就任したのが田辺宗英。彼は戦前、玄洋社の頭山満を敬慕し、孫文を援助した黒龍会の内田良平や大陸浪人として知られる宮崎滔天らと知り合い、勤皇報国の思想を強めた。1931年(昭和6年)、銀座尾張町の四つ角に「キリン・ビヤホール」を開店。1933年(昭和8年)には西銀座に高級喫茶「銀座茶屋」を、1935年(昭和10年)には5階建ての食堂娯楽デパート「京王パラダイス」などを開き、実業家としての成功を収めていた。(p107~110)

【追記】銀座尾張町というのは、今の銀座四丁目交差点辺りです。最近、日産ショールームがあったビルが「銀座プレイス」として新装オープンしましたが、地下に銀座ライオン(つまりサッポロビール)のビアホールができました(まだ、行ってません)。田辺宗英の「キリン・ビアホール」と関係があるのかどうか?(確か、サッポロは三井系、キリンは三菱系、アサヒは住友系だったと思います)
また、この本では、あの牧久さんの書いた「許斐氏利」伝を引用して、銀座の東京温泉は、成瀬巳喜男監督作品「銀座化粧」(1951年)のロケで利用された、と書かれてあったので、早速この映画もネットで観てみようかと思ってます。

「ハドソン川の奇跡」は★★★★★

ミラノ・スフォルツァ城

映画「ハドソン川の奇跡」を千葉県で見てきました。クリント・イーストウッド監督作品だからです。

2009年1月15日に実際に起きたUSエアウエイズの鳥激突による両エンジン停止でNYのハドソン川に不時着陸して、155人の乗員乗客の生命を救ったサリー機長(トム・ハンクス)とジェフ副操縦士(アーロン・エッカート)の物語です。

当初、英雄として迎えられた機長らも、事故調査委員会の調査で一転して「容疑者」となります。

どうなるのか、は見てのお楽しみです。

全編、緊張感があり、映像に少し無駄がありましたが、トッド・コマーニキの脚本が無駄がなくていいです。1時間50分という時間もちょうどいい長さです。

 ミラノ・スフォルツァ城

以下は、私がこの映画のどこに着目したか書きます。未見の方は、この先はお読みにならない方がいいと思います。

て、ゆーか、映画を観ないと、読んでも分からないと思います(笑)。

私がまず、「オー」と思ったのは、主役のサリー機長演じるトム・ハンクスらの着ているものが、何から何まで超高級品に見えたことです。

さりげなく着ていた薄いセーターも恐らくカシミア製でしょうし、上下のスーツはかなり高級なイタリアン・スーツ、ジョルジュ・アルマーニあたりかと思わせましたが、恐らく、ケネディ大統領も愛用した米国のブルックス・ブラザースでしょう。

映画の中で、飛行機がハドソン川に不時着して、着替えも何もかも置いて避難し、ホテルに落ち着いた時に、サリー機長らは、着替えとして安物のスーパーの服を航空会社の同僚から渡されます。

この時、不服そうな表情を浮かべたサリー機長らに対して、その同僚は「えっ?ブッルクス・ブラザースの服が欲しかったのかい?勘弁してくれよ。今、夜の10時なんだから、開いているのはKマートぐらいだよ」

と言い返します。

この台詞で、彼らはパイロットですから恵まれた階級であることが分かります(笑)。

 ミラノ・スフォルツァ城

映画に登場した、事故に見舞われた乗客・乗員155人のほとんどが、コーカサス系で、アフリカ系、アジア系、それにヒスパニック系がほとんどいなく、勿論、台詞はなし。実話に基づいて、想定したのかもしれませんが、何か、意図するところがあったのか、勘ぐってしまいました。

もう一つ、サリー機長を全面的に善人としてではなく、どこか胡散臭い面があったことも、さりげなく描いていたことには感心しました。

それは、台詞の中だけにしか出てきませんが、機長は一人で、別会社をつくって不動産関係の投資をやっていたことなどです。もちろん、法に違反するとかそういう話ではありませんが、通り一遍な善人として描くより、迫真性が増して、この映画は反反知性主義者が観ても納得させる要素を持っている遠因になっています。

イエジー・スコリモフスキ監督「11 minutes」は★★★★★

たかちやん

ここ最近、仕事が終われば、真っ直ぐに家に帰り、まさに会社と自宅の往復の連続でした。

途中で道草を食わず、呑みにも行かず、賭博場にも行かず、夜の蝶にも会いに行かず、質実剛健、品行方正。

髭も剃らず、息も潜め、目立たぬように、生かさぬよう殺さぬように生きてきました。

そしたら、やはり、時々、フト、偶には、羽目を外したくなります。でも、ま、あたしのばやい、かわいいもんですよ。(笑)

昨晩は、仕事が終わって、ついに、イエジー・スコリモフスキ監督作品「11minutes」を都内のアジトで見てきました。

終わって、

「うーん、なるほどね」
「そっか、この手があったか」

と、やはり、脱帽しました。

ジグゾーパズルみたいな映画です。

色んな曰く有り気な老若男女が何の脈絡もなく登場して、何事もないような、あるような日常風景が都会のワルシャワで展開されます。

その時、教会の鐘が午後5時を知らせます。

中心になる所は、国際ホテルです。よく目立つところに、各国の旗がひらめき、日の丸が一番目立っていました。

あらすじは、昨日少し書いたので、深く立ち入るのはやめましょう。

一応、スリラー、サスペンス映画ということらしいですから、ネタをバラしたら、炎上はともかく、まあ、ルール違反ですからね。

見てのお楽しみ、てところでしょうか。

あっと驚く為五郎です(古い!)

ネットサーフィンをしていたら、この映画の感想が載っていました。匿名で性別年齢国籍不詳。流暢な英語で書かれているので、ネイティヴの英語圏の中年男性と想像されました。

そこには、はっきりと「駄作。時間とお金の無駄。何事も起きない。ポーランド人は面白いかもしれないが、他の国では全く受けないだろう」とコテンパンに貶していました。

そっかなあ?

私は、大変面白く拝見しましたけどね。何か、ハリウッド映画の批判というか、茶化しが入っていました。

何事か起きます。空に浮かぶ黒いシミ。都心のど真ん中を低空飛行で離着陸する大型ジェット、ハアハア言いながら歩く犬の目線…最後は、私の予想に反してどんでん返しが起こります。

この映画の予告編やオフィシャルサイトの写真も事前に見ていて、嗚呼、なるほど、こうやって断片が繋がるのか、と謎が解けた感じでした。

久しぶりの不良行為で、流石に大変疲れはしましたが、決して、時間とお金の無駄にはならなかったと思いますよ、匿名さん。

本日26日の読売新聞夕刊に、スコリモフスキ監督のインタビュー記事が掲載されていました。

この映画「11minutes」をつくった動機は、数年前に次男が病気で亡くなり、その次男の母親である前妻が後追い自殺をしてから、かなり落ち込み、何も手につかず、悪夢を見るようになった体験を表現したかったからだそうです。

そっかあ。スコリモフスキ監督は78歳。この歳て全く枯れていない。それに、こんな話を聞けば、見直してしまいました。訂正して満点にすることにしました。

イエジー・スコリモフスキ監督作品「11minutes」

知らざあ、言って聞かせやしょう

今どうしても見たい映画がありますが、最近忙しくて、なかなか見に行けません。

イエジー・スコリモフスキ監督作品「11minutes」です。単館上映で、帝都でも二カ所でしかやってません。

ポーランドとアイルランドの合作映画で、日本で知られている俳優は1人もいませんが、全員胡散臭そう(な役柄)で、このあくまでも胡散臭い忙しない現代を見事に活写してます。

午後5時から、わずか11分間に、恐らくポーランドのワルシャワ辺りで同時多発的に無関係に起こる出来事が、最後は、あっと驚く様態で集約されていく…という映画らしいです。

「溝口健二がどうした」「衣笠貞之助がどうした」なぞと監督を呼び捨てにして通ぶった元大学教授がいますけど、ああいう輩は底が浅いですね(笑)。

どうせ、奴らは、ただで見て、しかも、逆にお金を貰って、「さすがスコリモフスキらしい不条理な描写が散りばめられ、最後のどんでん返しには暫く椅子から立ち上がれなかった」なぞと、評論することでしょう。

ずっと、椅子に座っていろ!(笑)

私が、この映画に興味を持ったのは、脚本家でもあるスコリモフスキ監督による以下のコメントを読んだからです。

何と言う硬質な文体で、ネイティヴではないので断言できませんが、かなりの名文だと思います。まず、久しぶりに辞書を片手に原文を読み、どうしても分からなければ、小生の超訳をご参照あれ(笑)。

COMMENTS FROM JERZY SKOLIMOWSKI

NOTHING IS CERTAIN

We tread on thin ice. We walk the edge of the abyss. Around every corner lurks the unforeseen, the unimaginable. The future is only in our imagination. Nothing is certain – the next day, the next hour, even the next minute. Everything could end abruptly, in the least expected way.

【イエジー・スコリモフスキ監督からのコメント】

◎確かなものなど何もない

我々は、生きるために仕方なく危ない川の橋を渡ることがある。崖っ淵を歩かざるを得ないときすらある。至る所に見えない、想像もつかない魔物が潜んでいるというのにだ。
とはいえ、未来など幻、単なる想像の産物だ。
確かなものなど何もない。明日、1時間後、いや数分後でさえ何が起きるか分からない。
全ては前触れもなく突然終わる。しかも、全く思いも寄らない形で。

「日本のいちばん長い日」の映画化はもう無理

日本の夏、緊張の夏

渓流斎です。

昨年は、旅行で異国の地に行っておりましたので、好きな映画も見られませんでした。

そこで、昨年見られなかった映画で、どうしても見たかった作品の一つである原真人監督作品「日本のいちばん長い日」のDVDのレンタルを借りて見てみました。

がっかりでしたね。
配役を見てみませう。

阿南惟幾(陸軍大臣) – 役所広司
昭和天皇 – 本木雅弘
鈴木貫太郎(内閣総理大臣) – 山崎努
迫水久常(内閣書記官長) – 堤真一
畑中健二(陸軍少佐、軍務課員) – 松坂桃李

家で寝そべって見ていたら、疲れていたので、途中で寝てしまったぐらいです。

ご案内の通り、この作品の映画化は今回が2度目です。原作は、今は歴史探偵として大活躍の半藤一利さんが1965年に発表したもので、発売時は、大宅壮一編の名前で発売されました。半藤さんが当時、文藝春秋の社員だったため、とか、販売戦略のためとか、色々理由があったようですが、真実は知りません。

それが、ベストセラーになり、1967年に映画化されるわけです。

実は、この渓流斎、この作品を父親に連れられて封切りで見ているんですよね。確か、後楽園にあった映画館です。当然今はありませんが、とにかく、記憶があやふやで水道橋にあった映画館だったことは覚えています。

白黒映画でしたが、長く記憶に残る鮮烈な映画でした。特に、畑中少佐役の黒沢年男が、常軌を逸して近衛師団第一師団長の森中将を殺害し、その後、手が硬直して、日本刀が手からなかなか離れない場面には、度肝を抜かれました。ハイライトシーンだっと思います。

昭和天皇の玉音放送の録音盤を出せ、と脅されて頭に拳銃を突きつけられたNHKの放送局員は、確か、若き加山雄三さんだったはずです。

今は便利で、チラッと「1967年版」の概要を見てみたら、腰を抜かすほど吃驚。監督は、名匠岡本喜八で、脚本は「七人の侍」の橋本忍さんではないですか。

配役は、

阿南惟幾(陸軍大臣) – 三船敏郎
昭和天皇 – 八代目松本幸四郎
鈴木貫太郎(内閣総理大臣) – 笠智衆
迫水久常(内閣書記官長) – 加藤武
畑中健二(陸軍少佐、軍務課員) – 黒沢年男

このほか、志村喬、山村聡、宮口精二、北村和夫、中村伸郎、加東大介ら当時の豪華オールキャスト総出演です。

これでは、「2015年版」は、勝てるわけありませんね。確かに製作費は67年版の数十倍かもしれません。CGを駆使して戦時中の「書割り」が本物そっくりに再現されたかもしれません。

しかし、悪いですけど、役者が大根でした。特に主役は、台詞の棒読みでした。67年版は、敗戦からまだ22年。当時の緊迫した状況は、身に染みて分かっていた世代が多く生き残り、俳優の中には最前線で戦った人もいました。

ですから、無理なんでしょうね。戦後70周年版は、異様に目ん玉だけがギラギラしたヤクザ風の若い俳優が軍人役で沢山登場しましたが、眼だけで演技してるだけで、身体性が伴っていない。まさに、顔のアップの多いテレビ用なんですよね。

期待する方が悪かったのでしょうか?

【映画コラム】「トランボ」

カルガモかも

【映画コラム】
赤狩り旋風時代の米映画界の内幕を描く
=「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」=

◇赤狩りって何?

「レッド・パージ? マッカーシズム? 何ですか、それ?」―。東京・南青山のしゃれたカフェバーで、若い女性らと飲んでいた際、たまたま映画「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」の話になり、筆者が「赤狩り旋風」の話をしたところ、そう聞かれて、逆に驚いてしまった。

その女性は、英会話がネイティブ並みで、ある国際機関に勤めるキャリアウーマン。そんなインテリ女性が、レッド・パージもマッカーシズムも知らないとは…、思わず耳を疑ってしまったわけだ。

言うまでもなく、レッド・パージとは、第2次世界大戦で戦勝国となった米国とソ連が覇権争いを巡って「東西冷戦」状態となり、その米ソ二大国による代理戦争とも言うべき朝鮮戦争を控えた1940年代後半に、米国で、ソ連に通じているという疑惑のあった共産党員らを公職から追放した運動を指す。GHQ(連合国総司令部)による占領下にあった日本も例外ではなく、レッド・パージ=赤狩り旋風が、政財官の広範囲で巻き起こった。

マッカーシズムとは、米国で赤狩り運動の先頭に立ったマッカーシー上院議員から来ていることも言うまでもないだろう。

◇「ローマの休日」の原案者

映画「トランボ」は、その赤狩り旋風の最中に起きたハリウッド映画界の内幕を描いた作品だ。非米活動委員会によって告発された映画人の中で、最も有名な人物は、監督兼俳優兼脚本家兼音楽家でもあったチャールズ・チャップリンかもしれないが、この映画の主人公ダルトン・トランボ(ブライアン・クランストン)は、ハリウッドで最初に告発されてブラックリストに掲載された「ハリウッド・テン」と呼ばれる10人のうちの1人だ。日本ではあまり有名ではないが、オードリー・ヘップバーンを世界的に有名にした出世作「ローマの休日」の原案者だと言えば、その大物ぶりは分かるかもしれない。

トランボは、議会での証言を拒否したため議会侮辱罪で投獄され、出獄後も仲間からの裏切りなどで映画界から追放されるが、生活のために偽名、変名を使って、大量の脚本を量産する。この中で、友人の脚本家イアン・マクレラン・ハンター名で書いたのが「ローマの休日」(53年)であり、ロバート・リッチの偽名で書いたのが「黒い牡牛」(56年)であり、両作は何と、米アカデミー賞原案賞まで受賞してしまう。

その間、トランボは生活のために、内容は二の次のB級映画専門の独立プロのボス、フランク・キング(ジョン・グッドマン)と契約し、バスタブに漬かりながら、酒と煙草で原稿を量産する姿が痛ましい。思春期の子供を抱える家庭内不和や、赤狩り追放に命を懸けているコラムニストのヘッダ・ホッパー(ヘレン・ミレン)や、米国を代表するハリウッドの大スタージョン・ウエインらとの確執にも悩まされるが、作品全体が告発調になっていないところがいい。

◇名作「ジョニーは戦場に行った」も

監督は、コメディー「オースティン・パワーズ」シリーズで知られるジェイ・ローチ。酷い獄中生活や信頼していた俳優からの裏切りなども描かれるが、史実を淡々と描写し、わざとらしくなく、重々しくないところが、かえって見どころになっている。

その後、トランボは、俳優カーク・ダクラスらからの要請で、ローマ帝国時代の奴隷剣闘士を描いた「スパルタカス」(60年)を実名で発表して、映画界復帰を果たす。実は、「ローマの休日」の原題の「Roman Holiday」は、ローマ帝国の貴族たちが、休日に剣闘士らの殺し合いを見て楽しんだことから、「人の犠牲の上で味わう楽しみ」というのが本来の意味だが、トランボが「スパルタカス」で、名誉回復するとは、偶然の一致にしては出来過ぎた話かもしれない。

その後、トランボは76年に70歳で亡くなるまで、仕事を続けるが、晩年の作品として1本挙げるとしたら「ジョニーは戦場に行った」(71年)だろう。この作品は、第一次大戦で手足を失う重傷を受けた志願兵ジョニーを描いた名作で、トランボが39年、33歳の時に書いた「ジョニーは銃を取った」が原作。第2次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争と戦争が起きるたびに「反戦作品」だとの脅迫を受けて絶版になったという。トランボ65歳にして自らメガホンを取って映画化したこの作品は、カンヌ国際映画祭特別審査員特別グランプリなどを受賞するが、その事実を後から知った筆者も驚いたものだ。

映画の中で、赤狩りに遭う前のトランボの大邸宅の敷地内に湖があり、馬も飼う優雅なブルジョア生活が描かれる半面、平等に賃金が分配されない労働者たちへのトランボの憤り、同情心、社会への不満なども描かれる。かなり矛盾している。

とはいえ、名作「ジョニーは戦場に行った」を世に送り出した背景には、こうした常に権力に屈せず、弱者に対する温かい目を失わないトランボの信念があったことを、この映画で教えられた。(了)