「カフェーパウリスタ」のアメリカンクラブサンド・セットに驚き

 ブログのネタに困った時は、ランチの話題に限ります(苦笑)。そんな、無理して書かなくてもいいのに。。。常軌を逸していますねえ。ま、病気だから仕方ないかあ(笑)。

 本日は、銀座のれん会(正式には協同組合銀座百店会)が発行している「銀座百点」に載っていた銀座8丁目の「カフェーパウリスタ」のアメリカンクラブサンド・セットを食しに行きました。「コーヒーのお代わりがOKなので、とてもお得に感じます」。なーんて書いてあったので、値段も確かめずにホイホイ行ってみました。

銀座8丁目「カフェーパウリスタ」クラブサンドウイッチセット

 そしたら、ガビーンです。セットの珈琲にアイスコーヒーを注文したら、「アイスはお代わりはありませんけど、宜しいですか?」と念を押されてしまいました。恐らく、ホットコーヒーならお代わり出来たのでしょう。サンドが運ばれてきて、一緒に置かれた「請求書」を見たら、びっくり仰天です。何と、1980円もするのです。き、聞いてないよお。珈琲とサンドで2000円近くもするなんて。。。あんりまー、です。

 小誌「銀座百点」は富裕層階級向けの雑誌だったですね。

 「カフェーパウリスタ」自体は、何度か訪れたことがあります。今より少し若い頃に、おあ姐さんと一緒に、コーヒーを飲みながら雑談しました。その時、私は、「カフェーパウリスタは明治44年創業で、昔は、銀座の交詢社前にあったんですよ。交詢社には福沢諭吉が創刊した時事新報社があり、ここで菊池寛が社会部記者をやり、友人の芥川龍之介や谷崎潤一郎らも出入りしていた関係で、カフェーは大正文士の溜まり場になったんですよ。『銀ブラ』という言葉も、銀座をブラブラする、という説と、この銀座のパウリスタでブラジル珈琲を飲むという説もあるんですよ」なーんて、蘊蓄を傾けたりしたものです。気障な奴でしたね(笑)。

銀座8丁目「カフェーパウリスタ」クラブサンドウイッチセット

 でも、「カフェーパウリスタ」で食事をすることは初めてでした。値段を見て、びっくりしましたが、このアメリカンサンドとやら、実に美味い。私が今まで食べたサンドウィッチの中で、一番旨いと言ってもいいかもしれません。具材はレタスとトマトと鶏肉と卵といったもので、特別なものではないんですが、清楚で上品な味わいでした。

 今回、「カフェーパウリスタ」に行ったのは、あのジョン・レノンが気に入って、1978年の某月某日、3日連続、奥さんのオノ・ヨーコさんと一緒に通い詰めたという噂を小耳に挟んだからでした。同店には、ジョンとヨーコの二人にサインをしてもらった珈琲のカップとソーサーが「お店の宝」としてあるらしく、その写真だけが店内に飾られていました。(他のお客さんが側にいたので、写真を撮れず残念)

 このサイン入りのカップとソーサーは、テレビの「何でも鑑定団」で鑑定してもらったら、幾らかなあ、と夢想しました。まあ、100万円でも買う人はいるんじゃないですか?(笑)

真珠湾攻撃から81年、ジョン・レノン暗殺から42年=12月8日

 12月8日、今年は、真珠湾攻撃からもう81年になります。当時を知る生き証人の方もだんだん減って来ていますが、語り継がれなくてはいけない歴史です。

 もう一つは、ジョン・レノン暗殺から42年です。こちらは、私でもよく覚えております。第一報は、日本時間12月9日午後2時頃だったと思います。当時の私は、マスコミ入社1年目の新入りで、あまり外に取材に行かせてもらえず、デスク補助として、電話で先輩記者が送稿する原稿を書き取ったり、雑巾掛けしたりの修行期間でした。事件の一報を最初に知ったのは、速報やフラッシュニュースが出た際のアナウンスで、「元ビートルズのジョン・レノンさんがニューヨークの自宅近くで撃たれました」といった簡単な一文だったと思います。そう記憶しているだけで、間違っているかもしれませんが(苦笑)。

 当時、ニュースが集積する整理部でバイトをしていた顔馴染みのMさんが、ニュースの電ガラのコピーを持って来てくれたと思います。私が熱烈なビートルズ・ファンだということを知っていたからです。その時、私は勤務中だったので、涙も出ず、冷静さを努めましたが、仕事が終わってからは、Mさんと自由が丘で泥酔するほど吞みました。この衝撃をどう対処していいか分からなかったからです。

 翌日は、駅のキオスクに売っていた全ての新聞~一般紙、スポーツ紙、英字紙~を購入しました。ジョン・レノンの記事は皆、一面と社会面に掲載されていました。それらを切り抜いてスクラップブックに貼り付けていましたが、何処にいったのやら。探せば出てくるかもしれませんが…。

 あれから42年ですか…。あの事件を同時代として体験した人もだんだん減って来ました。

Higashi-Kurume

 そんな12月8日(木)の本日は、会社を休んで、近場のクリニックで5回目のBA5用のコロナワクチンを接種して来ました。私が住んでいる最寄り駅の反対側改札の西口にあるクリニックで、初めて訪れましたが、医師1人で受付兼務の看護師さんが5人もいて、皆さん感じが良い人ばかりでした。

5回ともそうですが、(今のところ)副作用がなかったのは、何よりでした。

 平日の午前は、通勤電車の中は、働き世代の若い人ばかりですが、クリニックは高齢者の方ばかりでした。これほど対照的なものはありません。普段の通勤電車では全く自覚しない「少子高齢化」を実感した次第です。つまり、クリニックでは、10人中8人が私より年長の高齢者、通勤電車や街中を元気に歩いている人たちの10人中8人は、私より確実に若いということです。

 そう言えば、この日はその最寄り駅で人身事故がありました。いつもなら利用している鉄道の電車が止まり、朝の8時10分過ぎ?に再開したようでしたが、大幅にダイヤが乱れ、沿線駅の中には改札入場制限がされ、「90分待ち」もあったようです。

 12月8日は色んなことがある日でした。

銀座、ちょっと気になるスポット(1)=ジョン・レノンの「樹の花」

 《渓流斎日乗》のブログは2005年3月に始めたので、今年でもう17年になります…中途半端ですね(笑)。この17年間、どういうわけか、このブログが原因でかつては親しかった友人たちが、疎遠になってしまう事案が複数回、起きています。このままブログを続けて良いものか迷い道にはまり、正直、かなり落ち込んでおります。

 ある友人の非難の理由は、このブログが「衒学的過ぎる」ということでした。ま、小難しいことばかり書いていて、気取っている、ということなのでしょう。生意気だ、気に喰わないということなんでしょう。本人は全くペダンチックだとは思ってはおりませんが、預言者というものは、お里が知れた故郷では受け入れられないものです。

 「賢い読者からの指摘があれば、問題になりそうな箇所はすぐ削除する。まるで自民党の手口だね。男気がない」などという批判もありました。

 「どうしようもない三流のマスコミに何十年もしがみついてきた三流のジャーナリストの書くものは、読むに値しない」と直球を投げて来る友人もおりました。

 読みたくなければ、読まなければいいのですよ。わざわざ、アクセスする必要もないでしょう。と、言わなくても友人たちはとっくに離れて、このブログはもう読んでいないと思いますが(笑)。

 それにしても、世間に影響も与えないこんな小さな無名のブログが、何でそこまで、見ず知らずの赤の他人からではなく、親しかった友人たちから非難されなければいけないのか、理解に苦しみます。欧米では食事中に政治や贔屓チームの話をすることはタブー視されていますが、私自身もなるべく現在の世論を二分にするような政治的イッシューを取り上げることはわざと避けて来ました。炎上してもその場限りです。実にくだらない。わざとらしいし、恥ずかしい。わざわざ火中の栗を拾うこともないでしょう。

 もう、生身の現代人を扱うことは嫌になったので、最近のブログでは、なるべく歴史上の人物を取り上げるようにしていたのですが、それでも、やはり、衒学的ですかねえ?

 まあ、好きにしてくださいな。嫌ならアクセスしなければ良いだけの話です。こちらは、お読み頂ける読者の皆様がいらっしゃる限り続けていくだけです。勿論、感謝を込めて。

 さて、そんな中で、考えた企画は「銀座、ちょっと気になるスポット」シリーズです。飲食店だけでなく、気になった史跡なども取り上げて、お茶を濁そうかと思ったわけです。実は、これまでこのブログに登場したサイトも重ねて取り上げるかもしれませんが、その点はどうか御勘弁ください。

 記念すべき第1回は「樹の花」という喫茶店を取り上げることに致しました。失礼ながら、ランチにカレーライスを出すような何の変哲もない喫茶店ですが、あのジョン・レノンとオノ・ヨーコが利用したお店でした。

 1979年夏のことです。何とこの店が開店して4日目だったそうです。東銀座の歌舞伎座の「横」にありますから、てっきり、ジョンとヨーコが歌舞伎を見た帰り、たまたま立ち寄った喫茶店かと思っていたら、お店にしっかり説明書きがありました。

 ジョンとヨーコはハイヤーで築地の映画館に来ると、子どもたちだけを降ろして「スーパーマン」が終わる時間までどこかゆっくり過ごせる場所を探して銀座4丁目の方へ歩き始めた。…少し歩いた所で、偶然、樹の花という看板を見つけた。…二人は入り口に近い窓際のテーブルに向かい合って座った。コロンビアコーヒーとダージリンティーを注文すると互いの目を見つめながら静かに語り合う。…

 築地の映画館とは恐らく「東劇」のことでしょう。このビル(松竹本社)は改修(建て替え)されることが決まっており、間もなく閉館されます。

 「樹の花」は、ビートルズ・フリークの私ですから、一度、ジョンとヨーコが座った同じ席に座ったことがあります。今はどうなっているのか知りませんが、10年ぐらい昔、私が利用した時は、席の壁に二人の写真が飾られていました。

上野・洋食「黒船亭」1979年8月 ジョン・レノン(前列右から2人目)とオノ・ヨーコ ※お店の人に許可を得て撮影しております

 そう言えば、今年2月28日に行った上野の老舗高級洋食店「黒船亭」にも、訪れたジョンとヨーコの写真が店内に飾られていました。撮影日が1979年8月とありますから、ちょうど銀座の「樹の花」を訪れた時と同じような頃です。偶然の一致に少し驚いてしまいました。

 それにしても、「樹の花」が開店して4日目にジョンとヨーコが偶然、訪れ、この店は、それ以来今日まで43年間も続いているとは…。残念ながら、ジョン・レノンはそれから1年半後の1980年12月8日にニューヨークの自宅前で暗殺されてしまいます。行年40歳。

ジョン・レノンが愛した洋食店に行って参りました=東京・上野の老舗「黒船亭」

 ロシアが2月24日にウクライナに侵略して、5日経ちます。民間人にもかなりの犠牲者が出たようですが、停戦交渉も「画に描いた餅」のように現実性がなく、膠着状態のようです。

 こんな蛮行は、冷戦時代にもなく、戦後初めてではないかと思っていたら、冷静に振り返ってみれば、ソ連時代の1956年に「ハンガリー動乱」と1968年に「プラハの春」がありました。いずれも、戦車で首都を制圧し、ブタペストでは数千人、プラハでは約400人の市民の死者を出しています。前者は、ソ連のフルシチョフ首相、後者はブレジネフ第一書記が最高責任者でしたが、プーチン大統領も彼らの顰に倣ったのでしょうか。

 ただ、信じられないような未確認情報が飛び交っています。「プーチン大統領は、パーキンソン病を患っており、正常な判断ができない」(英「サン」紙など)のだと。プーチン大統領は、ベラルーシのルカシェンコ大統領と会談した際、彼の左手が痙攣しているようで、椅子の後部を左手で必死に抑えているビデオが流れ、確かに不自然さを誰でも感じてしまう映像でした。

 ロシアによるウクライナ侵略について、世界の多くの識者が「狂気の沙汰」と批判していますが、もし、そのまま文字通り、プーチン大統領が正常な判断が出来ない状態だとしたら、そんな人間が核のボタンを握っていることになり、夜も眠れないほど恐ろしくなりますね。

上野・洋食「黒船亭」ビーフシチュー・セット グラスワイン クロズリーデ・ピノ・ノワール950円

 さて、昨日の渓流斎ブログの「昭和の香りがする名店を紹介=森まゆみ著『昭和・東京・食べある記』」の中で、「上野の『黒船亭』には、いつか行くしかない」と書きましたが、昨晩、会社の帰りに途中下車して行って参りました。

 思い立ったが吉日。「このブログを書くため」にですから、御苦労さまのことです。どうせ、誰一人、褒めてくれないでしょうけどねえ(苦笑)。

上野・洋食「黒船亭」1979年8月 ジョン&ヨーコ ※お店の人に許可を得て撮影しております

 何としてでも行きたかったのは、偏に、尊崇するジョン・レノン様が行かれた店だったからでした。並ぶのが嫌なので、ネットで予約しましたが、結構空いていて、何と、私が予約して確保して頂いた席の壁に、ジョンとヨーコが訪問した時の記念写真が飾ってあったのです。

 撮影日は「1979年8月」とありましたから、ジョンが暗殺される1年4カ月前のことでした。老けて見えますが、当時38歳です。

 天下のジョン・レノンなんだから、カラーで撮ってくれよお、と突っ込みたくなりましたが、こんなに当たり前にカラー写真が普及したのは、せめて、80年代以降だったことでしょう。私の学生時代は1970年代でしたから、白黒写真が多いです。

上野・洋食「黒船亭」ビーフシチュー・セット5220円

 何を注文しようかと思いましたが、電車の中で考えていた通り、ビーフシチューにしました。コース料理もありましたが、それほど空腹でもなかったので、サラダとパンとコーヒーの付いたセットにしました。

 このセットで5220円ですから、あのプーチンさんの全盛期のように、正常な判断が出来る状態でしたら、こういう高級料理店に足を踏み入れることはありませんでした(笑)。

 ついでに、仏産クロズリーデ・ピノ・ノワールのグラスワインを頼んだら、驚くほどドデカイ、ワイングラスを持ってきてくれ、「どんだけ注いでくれるんかいなあ」と愉しみにしていたら、全体の8分の1程度、ちょこっと、注いでくれただけでした。これで950円。

 締めて、6170円でした。

上野・洋食「黒船亭」

 ビーフシチューは、シチューが少しだけで、ほとんどビーフでした。4~5時間もグツグツ煮込むようです。味付けは抜群。大抵しょっぱくなるんですが、塩加減を抑えている感じでした。こんな高くてうまいもん、ジョンとヨーコは毎日喰っていたんだろうなあ、と羨ましくなりました。

 「ビーフは4~5時間煮込む」というのは、実は、隣りのテーブルの老夫婦も同じビーフシチューを注文していて、彼らの会話が耳に入ってきたのでした。お二人とも85歳は超えているような感じで、旦那さんの方はかなり衰弱していて奥さんには我が儘放題に振舞っていました。でも、何となく、この近くに住み、不動産からの莫大な不労所得がありそうな富裕層で、通い慣れた常連客といった感じでした。

 何故なら、店の奥から、若手のシェフがわざわざ二人のテーブルの側に出てきて、「いつも有難う御座います」と最敬礼して会話しておりましたから。

ジョン・レノンも「パテック・フィリップ」だったとは=銀座・高級腕時計店巡り(終)

 結局、「不評」だの、何のかんのと、自分で言っておきながら、「銀座・高級腕時計店巡り」企画は4回も続いてしまいました。この辺で、お開きということにしましょうか。

 実は、この企画、私の心配をよそに結構好評で、読んでくださる方も多かったようでした。最初は、銀座をブラブラと歩いていると、やたらと高級腕時計店ばかり目に付くので、何か、このブログで特集でもやってみようか、というのがきっかけでした。下調べもせずに始めたので、世界三大高級腕時計メーカー(Vacheron Constantin、PATEK PHILIPPE、AUDEMARS PIGUET)の存在さえ知りませんでした。御粗末ですねえ。やはり、「情報」がすべてです。

 そして、やはり、人間は「情報」に左右されます。その高級腕時計そのものよりも、そのブランドをはめている有名人が気になります。そして、さらに、その自分の好きな有名人がどんな時計をしているのか気になり、自分も全く同じ時計を身に着けたくなってしまうものです。

銀座3丁目「ウブロ」1980年、スイス・ジュネーブで創業

 五輪のメダリストもパレードする銀座のメインストリート、銀座通りには高級腕時計店があるのは前回、書いた通りです。本日は3丁目の「ウブロ」に行って来ました。いや、単に、写真を撮りに行って来ました(笑)。HUBLOTと書いて、「フブロット」ではなく、「ウブロ」と読みます。フランス語の「H」(アッシュ)と最後の「T」は発音しないことは、皆さん御存知の通りです。

  1980年、スイス・ジュネーブで創業と、他の高級腕時計メーカーと比べて歴史が浅いのに、どういうわけか、世界的に人気が高いのです。サッカーのネイマールや日本代表の長友、元大リーガーで現・楽天の田中将大投手とスポーツ選手の愛好家が多いですが、異色なのは、明石家さんまや博多華丸、アンタッチャブルのザキヤマらお笑い界でも大人気なのです。

 さらには、トヨタの豊田章男社長まで愛用しているとか。

 あまりにもメカニックなゼンマイなどが見える機種(?)もありますが、落ち着いた普通の時計もあるので、人気なのかもしれません。 

銀座3丁目「タグホイヤー」1860年、スイス・サンティミエで創業

  銀座3丁目にある「タグホイヤー」は、1860年、スイス・サンティミエで創業。私でさえ、名前を知っていました(笑)。

 米元大統領のバラク・オバマさんもこの時計の愛用者だったんですね。話は少し飛びますが、米国で最も人気が高い大統領だった若きケネディは、「ファッション・アイコン」でした。彼が愛用したスーツは「ブルックス・ブラザーズ」、スニーカーは「ニューバランス」だったとか言うので、誰かさんも真似して買ったりしています(笑)。肝心のケネディが愛用した腕時計は、この後、御紹介します。

 タグホイヤーは、ハリウッド・スター御用達といった感じです。ブラッド・ピット、キャメロン・ディアスらが愛用しています。コマーシャルだけなのか、その辺りは不明ですが。

銀座2丁目「カルティエ」1847年、パリで創業

 最後は、銀座2丁目にある「カルティエ」です。1847年、パリで創業した時計店というより宝飾店です。 何故、カルティエかといいますと、1919年に発売された長方形の「タンク」(第一次世界大戦時の戦車のキャタピラーがモチーフだとか)がセレブの間で大流行したからです。

 先ほどのケネディ米大統領が、ジャクリーヌ夫人とともに愛用したのが、このカルティエ「タンク」でした。この他、アンディ・ウォホールやアラン・ドロン、カトリーヌ・ドヌーブ、イブ・モンタン、モハメド・アリらも愛用していたといいます。

 そうそう、忘れるところでした。私の大ファンであるジョン・レノンはどんな時計をはめていたのか?ーうーむ、今は簡単に調べられますね。やはり、そうでしたか。「Patek Philippe Chronograph」でした。

 「永久カレンダー」付きの時計で、何と、私が以前から一番欲しいと思っていたほぼ同じ腕時計でした! でも、1000万円近くはします(笑)。当たり前の話ながら、ジョン・レノン氏は超お金持ちだったんですね。(ちなみに、ポール・マッカートニーもエリック・クラプトンも違うタイプのパテック・フィリップを愛用しております)

 お後がよろしいようで。

【追記】

 ジョン・レノンのパテック・フィリップは、1000万円どころか、2500万円以上はするタイプかもしれません。ジョンと安田財閥出身の小野洋子さんの名誉のために訂正しておきます。

 また、パテック・フィリップは数千万円どころか、1億円以上のものもザラにありました!高級マンションが買えるでねえか。世の中、どうなっちまってるんだぁ。

 もう一つ、ケネディ米大統領が愛用した「タンク」は、夫人のジャクリーンから1957年に結婚4周年を記念して贈られたもの。63年に暗殺された時もその時計を着用していたともいわれています。

祝ジョン・レノン誕生日 if he was still alive80歳

 今日10月9日は、元ビートルズのジョン・レノンの誕生日です。生きていたら80歳。暗殺されたのが40歳の時でしたから、没後40年という節目の年になります。

 ということは、現在、45歳以上ぐらいじゃなければ、ジョン・レノンの現役時代を知らないということになりますか。えっ?教科書に載っていたから知っている? 英リヴァプールはジョン・レノン空港だから知っている? そうですか、そうですか。もう彼はすっかり歴史上の人物になりましたね。

 このブログに何度もジョン・レノンのことを書くのは、私の人生で最も影響を受けた人物の一人だからです。ミュージシャンとしてだけなく、英政府からMBE勲章を受けながら返還したり、反戦運動家(ジョン・シンクレアら)や黒人の人権運動家(アンジェラ・デイビスら)を支援したりして米CIAからマークされるほどの活動家だったからです。

 当時私は中学生か高校生だったので、お蔭で「お上にたてつく」ことを覚えてしまい、長じてもその習慣が身に着いてしまいました。ジョン・レノンを知らなければ、上司に反抗することなく、長い物に巻かれて今頃大出世して、世界を動かすインフルエンサーになっていたかもしれません(笑)。

 結局、左遷ばかりされて、インフルエンサーになれず、この40年間はインフルエンザに罹ってばかりいました(笑)。

 40年というのは、あっという間でしたね。ジョン・レノンが暗殺されたとき、40歳というのはかなりのおじさんにみえましたが、今では人生の半分以下でまだまだ若い。青年に近いと言ってもいいぐらいです。

 思えば、ジョンがビートルズとして活動したのは満21歳から28歳まで(1962年10月5日にデビュー、69年8月の「アビイ・ロード」のレコーディングまで)のたったの7年間ほどでした。早熟の天才だったと言えるでしょう。彼のつくった曲で好きな曲はあまりにも沢山ありますが、「ラバーソウル」の「ガール」と「ホワイトアルバム」の「ハッピネス・イズ・ウオームガン」と「イマジン」の「ギミー・サム・トゥルース」と「ダブルファンタジー」の「ウーマン」は外せないと思っています。

 ジョン・レノンが生まれたのは1940年ですから第2次世界大戦の真っ只中でした。セカンド・ネームのウィンストンは、チャーチル首相から取られたことが有名ですが、小野洋子と結婚した際、ジョン・オノ・レノンに改名したことも有名です。幼い時に、船員だった父親アルフレッドから離れて伯母のミミ夫婦に育てられ、産みの母親ジュリアは内縁関係の2人の男性との間に3人の娘をもうけ、ジョンが17歳の時に交通事故死するなど家庭的に恵まれなかったトラウマが結局、曲づくりや彼のその後の人生に反映されていました。

 巷では商魂たくましく、ジョン・レノン生誕80周年記念 ニューベストアルバム「ギミ・サム・トゥルース.」(ユニバーサ)が今日から発売されたようですね。CD2枚とブルーレイ付きのデラックス版で9350円ですか…。私ですか? いえ、もう買いませんよ。彼のCDはもう既に全て持っていますし、DVDも何枚かありますからね。

 ジョン以外のポール・マッカートニーやジョージ・ハリスンやリンゴ・スターは日本公演で見たことがありますが(リンゴだけは記者会見で同席したことがあります)、ジョンは早いうちに亡くなってしまったので、「会う」ことができず、本当に残念無念でした。

 ですから、1966年のビートルズの来日コンサートを見たという林さんや、70年代後半にジョンとヨーコを東京のホテル・オークラの近くの路地で歩いているところをすれ違ったという栗原さんには、何を差し置いても密かに尊敬しています。

腹立たしいジョン・レノン

公開日時: 2008年1月29日

 

先日会った日刊ゲンダイ敏腕記者林さんは、ビートルズの来日公演5回のうち、「俺は2回も行った。証拠のチケットの半券もまだ持っているよ」と聞かされ、驚き、羨ましくなり、ついには尊敬してしまいました。

 

私は自他共に認められているかどうか怪しいビートルズ・フリークだからです。

林さんは、団塊の世代で、若い頃、スウエーデンに留学し、そこで知り合ったスウエーデン人の女性と結婚しましたが、最初に彼女に掛けた言葉が

Do you like Beatles?

だったそうです。格好いいですね。

林さんは、今でも、ジョン・レノン・ミュージアムに年に数回は行くというジョン・レノン・ファンです。

 

ジョンといえば、先日、友人から「ジョン・レノン 120の言葉」(ディスカバー)を貸してもらいました。ジョン・レノンの歌詞やインタビューで語った際の言葉が収録されています。これまで、どこかで読んだり、聞いたりしたことばかりでしたが、一つだけ、知らなかった、気になる言葉がありました。ジョンの言葉ではなく、最初の妻シンシアとの間に生まれた息子ジュリアンの言葉です。

「悲しいけど、僕はジョン・レノンという人間をあまり知らなかったんだ。僕のことをほったらかしてにして平和や愛を熱心に説いている父親の姿を見ると、腹立たしかったよ。平和も愛も僕のもとへはやってこなかったからね」

10年周期

 

 

 

ジョン・レノンの話をしていたら、「10年周期」のことを思い出しました。

 

人間、それぞれ、転機があり、その人によって、3年おきだの、5年おきだのと決まっているそうなのです。ジョンの場合は「10年周期」です。1940年に生まれ、1960年、リバプールの美大生だった時、ミュージッシャンとしてプロになる決意をし、自分のバンドに「ビートルズ」という名前を付けます。70年は、その世界的に有名になったバンドが解散。そして、80年には暗殺されます。

 

 

 

何を隠そう。私も高名なSさんから「あなたもジョン・レノンと同じ『10年周期』ですよ」と言われたことがあります。振り返って見ると、確かにその通りでした。このブログは不特定多数向けのメディアなので、茲にあまり個人情報を披瀝できないのが残念なのですが、確かに1980年、90年、2000年と仕事が変わっています。

 

そう言えば、このブログを始めたのが2005年でした。その10年前の1995年は初めてインターネットを始めた年でした。マッキントッシュのノートパソコンを初めて買いました。その10年前の1985年は、初めてワープロを買った年でした。まだワードプロセッサーと言っていた頃です。よく覚えています。エプソンの「ワードバンク」というワープロでした。ディスプレイがホントに小さく、わずか、5行くらいしか提示されなかったと思います。今から思うと玩具みたいなツールでした。それでも10万円以上したかもしれません。

 

人生の転機が私の場合、10年おきだとすると、運勢は12年周期のようです。これは、私の尊敬するH師が見立ててくださいました。12年周期というと干支です。私の場合、そのピークは「子歳」です。来年はその子歳なので、大いに楽しみです。12年前の1996年はあまり大きなことがあったと思い出すことは少ないのですが、その12年前の1984年はロサンゼルス五輪のあった年で、本当に色んな良いことがあり、思い出深い年でした。確かに運がいい年でした。当時は若く、それが当たり前だと思っていましたが…。

 

H師は「来年は素晴らしい年になりますよ。あなたの人生の最大の年かもしれません」と予言してくださいました。「その前年から序々に良くなってきますよ」とおっしゃっていましたが、その通り、今年から本当にやっと運が向いてきました。運に恵まれて、物事がうまく運んでくれているのです。まさに、「雌伏12年」という感じです。この12年間、本当に碌な事がなく、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」といった苦難の人生でしたが、やっと雪が解けて、運が上向いている感じなんです。

 

それはすごく実感しています。バンザーイといった感じです。この12年、人生を辞めたくなるほどの苦悩の連続でしたが、途中で諦めなくて本当によかったと思います。

ジョン・レノン「PEACE BED」続き

(続き)

 

昨日の続きです。ジョンの映画のパンフレット(700円)を読んでいたら、昨日自分の書いたことの間違いや気が付いたことがあったので、書きます。(まあ、ほとんどの方は興味ないかもしれませんけど)

まず、ニール・ヤングが歌った「オハイオ」は、オハイオ州立大学でもオハイオ市立大学でもなく、ケント州立大学でした。事件は1970年5月4日。ニクソン大統領のカンボジア侵攻に抗議して大学構内でデモをしていた学生がオハイオ州兵によって発砲され、4人が死亡、9人が負傷した事件でした。単にデモしただけで、射殺されるとは!射殺された男子学生がうつぶせになっている横で、女子大生が跪いて両手を広げて嘆き悲しんでいる写真が世界に配信されて有名になりましたね。ミャンマーではなく、わずか37年前に天下のアメリカ合衆国でこんなことが起きていたんですよ。

ザ・ビートルズ・クラブの斉藤早苗代表が書いていましたが、当時、ジョンの名声を利用しようと彼に近づいた過激な反体制派のリーダー、ジェリー・ルービンは、ベトナム戦争が終わると、とっとと企業家に鞍替えして、ビジネスマンに転身していた。ジョンが最も嫌う狡猾さを持ち合わせていたというのです。まあ、芥川龍之介の「杜子春」と同じです。名声とお金を持った人の周りには絶えず胡散臭い人間が付きまとうものです。利用できなくなれば、ポイと捨てて、他の利用できる人間を探すだけです。

だから、思想信条だの政治運動だのというのは、私は信じられないのです。

話が脱線しましたが、このパンフレットには実に恐ろしいことが書いているのです。このパンフレットの編集者がどういう意図で掲載したのか分かりませんが、ニクソン大統領とエルヴィス・プレスリーががっち握手している写真の下にこんなキャプションが付いています。

「大統領、お気をつけてください。ビートルズはアンチ・アメリカ勢力に巨大な影響力を持っています。そして彼らはアメリカの若者に悪影響を及ぼします。~エルビス・プレスリー」

これが事実だとしたら、何だか、プレスリーって嫌な奴ですね。点数稼ぎのチクリ屋じゃないですか!嫌いになっちまいましたね。

ジョン・レノン「PEACE BED」

誰も遊んでくんないので、一人で、六本木ヒルズにまで遠征し、ジョン・レノンの映画「PEACE BED」を見に行ってきました。

ビートルズ・フリークを自称していますからね。見ないと話になりません。

TOHO CINEMASは、わずか、123席の小劇場が6個くらいある映画館でした。初めて行きました。月曜の昼間なので、さすがに空いていました。土日も仕事をしなければならない職業ですが、平日休めるので、「役得」「です。

「PEACE BED」は、原題を訳すと「アメリカ合衆国VSジョン・レノン」。決闘みたいなタイトルですが、こちらの方が映画の内容に近いです。何しろ、戦争をやっている国に対して、公然と「戦争するな」と反政府活動をするのですから。元FBIの捜査官が、当時を回想して「アメリカ人の若者がレコードを買ってくれるから、儲けているのに、アメリカにまで来て非合法活動するなんてもってのほかだ」と発言していました。

今は私も年取ったせいなのか、この体制維持派の発言も分かりますね。ジョンは目の上のタンコブでした。

当局は、徹底的にジョンをマークします。尾行、電話盗聴…挙句の果てには、過去の麻薬使用の前科をタテに、ビザを再発行せず、国外追放を画策します。

私は当時、高校生か大学生くらいでしたので、同時代人として、同時進行としてニュースに接してきましたが、このように映画化されて、過去の歴史のように扱われると、やはり感慨深いものがあります。もう30年以上昔の話ですからね!

面白かったのは、FBIかCIAの元捜査官が「ミック・ジャガーなら単なる不良の金持ちだが、ジョン・レノンは危険人物だ」と発言していたことです。ニューヨーク定住を決めたジョンは、ボビー・シールズやアンジェラ・デイヴイスといった当時、当局のブラックリストに載っていた極左活動家と親交を持ち、ヴェトナム戦争反対などのデモに積極的に参加します。

極左活動家といっても、まだ、生きているんですね。昔を回想してインタビューされていましたから。当然かもしれませんが…。今、米国は戦時体制なのですが、活動家による「イラク戦争反対」のデモなどのニュースは聞きません。大学生も保守的になったのか、ITで金儲けするのに必死なのか、あの60年代、70年代に盛り上がった反体制運動はほとんど聞こえてきません。

そういう時代だったのでしょうか。ニール・ヤングの「オハイオ」も、オハイオ州立か市立大学のデモで警官に射殺された学生のことを歌っていました。バッフィー・セントメリーの歌ったテーマソングで有名になった「いちご白書」も学生運動の話でした。
政治の季節だったのでしょうね。

とにかく、ジョン・レノンは信念の人でした。革命といっても、暴力には大反対でした。ガンジーの無抵抗主義の影響があったようです。「レボルーション」も「平和を我らに」もかなり政治的なアジテーションの意味が込められていたんですね。この映画で再確認しました。

ニューヨーク・タイムズの敏腕の女性記者から「あなたはアイドルだったのに、何で今、こんな政治活動するの?」と聞かれたジョンは「君はあの『ア・ハードデイズ・ナイト』の頃の僕のことを言っているのかもしれないが、今の僕は、もう違う。もう29歳になったしね。政治運動だろうが何だろうが、もう黙ってみてられないんだよ」と答える場面が出てきます。

29歳だなんて!何と老成した人だったのだろう。もっとも、わずか40年の生涯でしかなかったから、かなり生き急いだということは確かだと思います。

「ベッド・イン・ピース」や「」バッギズム」など、当時、私は子供で、何であんな気が違ったことをやるのか、ジョンのことを理解できなかったのですが、今では、よく分かります。

映画の中で胸にバッジを付けたジョンがいました。そこには「Not insane」と書かれていました。

もちろん、その意味は「気が狂っていないからね」。映画を見て、このバッジに気づいた人は、かなりの「通」です。今度会ったら、私が表彰します!

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