「神田みますや」は「東京で最古の居酒屋」なのか?

 ちょっと先の話になりますが、来月9月下旬に、「東京で最古の居酒屋」といわれる「神田みますや」に行くことになりました。旧い友人のA君に声を掛けたら、有難いことに応じてくれたのです。すっごい楽しみです。そのワケは後で縷々述べることにします(笑)。

 コロナのパンデミック以来、個人的にほとんど外で飲み歩かなくなりました。「家呑み」になりましたが、随分酒量も減って、缶ビールの小(350ミリリットル)で満足してしまう今日この頃です(笑)。

 昔は、飲み友達が20人も30人もおりましたが、亡くなった親友もおり、1人減り、2人減りで、気が付いたら、A君の他に2人ぐらいしかいなくなってしまいました。中にはメールをしても返事がなく、電話すると、留守電にしてしまう飲み友達もいました。何か悪いことでもしたのかなあ? と、一瞬、人間不信に陥ってしまいました。でも、もしかして、長期入院しているのかもしれません。最近、名古屋にお住まいの親友も長期入院からめでたく退院したばかりでしたし。

 ま、それはともかく、A君がみますやに付き合ってくれることは嬉しい限りです。彼は、既に、みますやには何度が行ったことがあるらしく、「お酒も料理も美味しいよ」と言うではありませんか。彼は日本酒の品評会の審査員もやったことがあるほどの「通」ですから、間違いありません。余計に楽しみが増し、今からワクワクしてしまったのです。

 「東京で最古の居酒屋」といわれる「神田みますや」は明治38年(1905年)創業です。あれっ? 私も以前、よく通い詰めた根岸の「鍵屋」は、安政3年(1856年)創業ですから、「最古」とは違うんじゃないかな、と思いましたら、同じ場所でずっとやり続けて来た居酒屋は「みますや」が一番古いようです。「鍵屋」は、もともと酒問屋で、その一角で呑み屋を始め、創業場所は現在地の根岸からちょっと離れた所だったらしいですしね。

 みますや創業の明治38年は、色んなことがありました。まず、前年から始まった日露戦争で、日本海大戦もあり、終結した年です。この年に製造された鉄砲が「三八式歩兵銃」です。何と、40年後の第2次世界大戦でも使われたといいますから、驚き以外何でもありません。お金と技術がふんだんにある米軍は自動小銃を開発してバリバリ撃ちまくっていたのですから、日本は負けるはずですよ。

 そして、今たまたま「相対性理論」の本を読んでいるので、熟知したのですが、1905年は、26歳のアインシュタインが特殊相対性理論を発表した年でした。さらには、私が最も尊敬する夏目漱石が「吾輩は猫である」を発表した年でもありました。もしかしたら、漱石先生も「みますや」に行ったことがあるのかしら?(漱石が通った神田の洋食店「松栄亭」は、私もよく行ったことがあります。勿論、漱石のために考案したという「洋風かきあげ」を食べに)

 1905年生まれの著名人には、哲学者サルトル、画家片岡球子、三岸節子、作家石川達三、伊藤整、俳優志村喬、女優グレタ・ガルボ、映画監督成瀬巳喜男、元首相福田赳夫らがおります。

 これだけ書き連ねると、みますやに行く楽しみがいや増します。多くの人は、飲食とは舌で味わうものだと誤解していますが、実際は脳で味わっているのです。脳で味わうということは、情報や蘊蓄が多ければ多いほどいいのです。「えっ?夏目漱石が通った店だったの!?」ー。それだけで、お味の評価も倍増するはずです。何も知らないで、ただパクパク食べるだけならピテカントロプスでもできます(笑)。

「徳川十六将」と阿茶の局のこと=恐るべき家康の人心掌握術

 またまたNHK大河ドラマの「便乗商法」と知りながら、「歴史人」8月号「徳川家康 天下人への決断」特集を購読してしまいました。いや、「タイアップ記事」かもしれませんが。

 2023年の大河ドラマは「どうする家康」が予定されています。戦国時代を終息させ、260年の太平の世をつくった徳川家康に関しては、私もある程度知識があるつもりでしたが、やはり、この本で初めて知ることが結構ありました。

 例えば、武田信玄との「三方ヶ原の戦い」で敗退した家康は、辛うじて命拾いをして浜松城にまで逃げ帰りますが、その途中で、家康の影武者になり、身代わりになって討ち死にしたのが夏目吉信という家臣でした。その彼の子孫に当たるのが、明治の文豪夏目漱石だったとは知りませんでした。ただ、夏目吉信の子孫はその後、旗本に取り立てられ、漱石の夏目家は代々、牛込の庄屋を務めていた家柄だったため、断定できないという説もあるようです。

 徳川家臣団のうち、「徳川四天王」と呼ばれた酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政は大体、履歴は分かっておりましたが、「徳川十六将」に関しては、整理できておりませんでした。というのも、徳川の家臣には、大久保や鳥居や松平や本多や酒井の名字が実に多いからです。

 徳川家臣団の中で、世間でも有名な「伊賀忍者」服部半蔵こと服部正成は、「徳川十六将」に入っておりました。でも、「三河物語」の著者でもある有名な大久保彦左衛門こと大久保忠教(ただたか)は、「十六将」に入っていません。その代わり、彦左衛門の兄で、家康の父の代から仕えていた大久保忠世(ただよ)と大久保忠佐(ただすけ)が「十六将」に選ばれています。

 大久保といえば、本多正信との権力争いで敗れた老中の大久保忠隣(ただちか)も有名です。彼は、大久保忠世の嫡男で、小田原藩主も務めました。忠隣は、「十六将」には入っておりません。

 本多正信も「十六将」に入っていませんが、江戸幕府草創期のブレーンの筆頭として活躍しました。三河の下級武士出身で、三河の一向一揆では一向宗門徒側に就きましたが、後に許されて大出世することになります。同じく一向宗側に就いて許され、その後、戦陣で活躍した武将として、渡辺守綱蜂屋貞次が「十六将」に選ばれています。このように、人質時代から苦労している家康は、家臣に対して寛大で、かつては敵だった今川や武田や織田氏の家臣を徳川家臣団に取り込んで拡大していきます。恐るべき家康の人心掌握術です。

 大久保忠隣を政争で追い落とした本多正信の嫡男正純は、逆に大久保家などからの恨みを買い、「宇都宮城釣天井事件」で二代将軍秀忠暗殺の嫌疑を掛けられ、改易させられます。

名古屋城

 徳川十六将の中で、私でもよく知っているのは鳥居元忠です(弟の忠広も十六将に選ばれています)。彼は、家康が今川の人質時代から過ごした古参の一人で、関ケ原の戦いの前哨戦と言われた伏見城の戦いで、西軍に敗れて自刃しています。その際の血染めの廊下が、京都の養源院(豊臣秀吉の側室淀殿が父浅井長政の二十一回忌に建立、火災で焼失したが、淀君の妹で二代将軍秀忠の正室お江により再建)の天井として使われています。私は以前にこの養源院を訪れたことがあるので、血染めの天井は、鳥居元忠の名前とともに強烈な印象として残っているのでした。

 家康は11男5女をもうけたと言われますから、正室と側室は、名家の娘から町娘に至るまで15人以上いたといいます。正室の築山殿は、母が今川義元の妹でしたが、武田氏に通じているという嫌疑で殺害されます。

 側室の中で注目したのは阿茶の局です。家康との間に子宝に恵まれませんでしたが、大変、聡明な人だったらしく、関ケ原の戦いで、西軍の小早川秀秋が東軍に寝返る仲介をしたとも言われ、大坂の陣では、家康の意向で、本多正純板倉重昌らとともに和議の交渉役を果たしたといいます。また、秀忠の五女和子が後水尾天皇に入内する際に母代わりに入洛し、天皇から従一位を賜りました。

【徳川十六将】

 酒井忠次(1527~96年)、本多忠勝(1548~1610年)、榊原康政(1548~1606年)、井伊直政(1561~1602年)=以上「徳川四天王」、米津常春(1524~1612年)、高木清秀(1526~1610年)、内藤正成(1528~1602年)、大久保忠世(1532~94年)、大久保忠佐(1537~1613年)、蜂屋貞次(1539~64年)、鳥居元忠(1539~1600年)、鳥居忠広(?~1573年)渡辺守綱(1542~1620年)、平岩親吉(1542~1611年)、服部正成(1542~96年)、松平康忠(1545~1618年)

茶番劇にはうんざり=鴎外と漱石の違い

  自民党総裁選は、「秋田県の貧農育ちで集団就職で上京した苦労人」、実は「父親は元満鉄エリート社員でカリスマ豪農。2人の姉は大卒の高校教師。本人は法大空手部副将出身の武闘派」という菅義偉官房長官(71)が昨日、総裁に選出されましたが、もうすでに8月31日に二階派、細田派、麻生派と主要派閥が雪崩を打って推薦したことで決まっていたようなものです。国家の最高権力者を選ぶというのに、投票できない国民は、黙って茶番劇を見ているしかありませんでした。いみじくも、14日付の朝日新聞社説は「苦労人?パンケーキ好き?だからなんだというんだろう。」と菅氏のことを思いっ切り批判していました。他の大新聞が「たたきあげの仕事人」とおべっかを使っているのとはえらい違いです。

 それにしても、勝馬に乗って美味い汁を吸いたいという権力志向の人間の性(さが)を見せつけられました。裏でどれくらいの金銭が動いたのか、動かなかったのか、知る由もありませんが、それにしても得票数を見る限り「石破つぶし」は凄まじかったですね。もう石破総裁の目はないことでしょう。菅氏は16日の臨時国会で第99代首相に指名されます。

 さて、今、竹内正浩著「『家系図』と『お屋敷』で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇」(実業之日本社)を読んでいますが、色んなエピソードが満載されています。特に、明治・大正時代の首相というのは、その地位と権力は今とはケタ違いで、愛妾を何人も囲い、広大な敷地の本宅と多くの別荘を持ち、その優雅さは現代人から見ると想像を絶します。

 ただし、「諸行無常、奢れるものも久しからず」で、広大な本宅や別荘は本人の手元から離れ、今では学校になっていたり、財閥の会社寮になってたりしているのがほとんどですが…。でも、この本を読むと、これまで知らなかった意外な事実が出てきて、読みだすと止まらなくなります。

 例えば、自民党総裁選で話題になった東京・永田町の一等地にある「自由民主党本部」。ここは明治になって「文部大臣官邸」があった所だったんですね。初代文部相森有礼が住み、後に首相になる西園寺公望も文部相時代にこの官邸に住んでいました。

 西園寺公望は、いわゆる京都のお公家さんです。実家の徳大寺家から西園寺家の養子になりますが、その家柄の良さは歴代首相の中でも皇族の東久邇宮稔彦王は別格として五摂家筆頭の近衛秀麿に次ぎます。西園寺の末弟徳大寺隆麿が住友本家の婿養子となって住友吉左衛門友純(ともいと)になったため、住友財閥から援助を受けた西園寺は生涯お金に困ることはありませんでした。大正8年(1919年)、首席全権として出席したパリ講和会議には愛妾(西園寺は生涯、正式に結婚をしなかった)と大阪の高級料亭「灘萬」(東京「なだ万」)の料理長まで同行させていたといいます。

 西園寺公望は、京都から新首都東京に来てから、本所、築地、銀座などさまざまな所に住みますが、その中に内幸町があります。「『家系図』と『お屋敷』で読み解く歴代総理大臣」の著者竹内氏は、それは明治29年、内幸町1丁目(現在、東京都千代田区内幸町の2丁目)で島津久光邸の跡地だったと書いております。しかし、その後で、「ここは最初の東京府庁があった所」と書いてあったので、どうも矛盾します。

 まず、島津薩摩藩の上屋敷があった所は現在の内幸町1丁目です(2丁目ではありません)。今は、みずほ銀行東京本部やNTT日比谷ビル(その隣に、あの「鹿鳴館」もありました)などがあります。

 現在の内幸町2丁目は、今は富国生命ビルやプレスセンタービルなどがある「日比谷シティ」です。確かに、ここは東京府庁がありました。ということは、著者は混同したようです。内幸町2丁目は、江戸時代は大和郡山藩の上屋敷があった所でした。明治になって東京府庁になり、1894年(明治27年)に東京府庁が有楽町の陸軍練兵場(今は国際フォーラム、江戸時代は土佐藩上屋敷)に移転した後、その跡地の詳細は分かりませんが、プレスセンタービルは戦前、満洲映画の東京支局でした。また、日比谷シティには昭和13年から昭和48年まで、渋谷に移転する前のNHKの東京放送会館があり、私もよく覚えています。

 ◇「文士の会」は今の「桜を見る会」?

 ところで、西園寺公望は首相在任中の明治40年6月17~19日に、東京・駿河台南甲賀町の本邸に文士を招いて宴を主宰しています。参加したのは、森鴎外、泉鏡花、大町桂月、幸田露伴、島崎藤村、田山花袋、国木田独歩(明治34年11月から翌年2月まで駿河邸内の長屋に寄宿していた)らです。その一方で、首相の招待を辞退した人もいました。それは、夏目漱石、坪内逍遥、二葉亭四迷です。漱石も二葉亭も、恐らく、権力に阿るようなことはしたくなかったのでしょう。

 文士の会は、現代版の「桜を見る会」といったところでしょうか?

 人はいつの時代でも、勝馬に乗って甘い汁を吸いたいという権力志向の持ち主です。そんな中でも反骨精神を持って、権力からなるべく遠ざかる人もいるわけです。作家というより、勲一等陸軍軍医総監にまで昇り詰めた森鴎外は前者に近く、帝大の文学博士号まで辞退した夏目漱石は後者だったのでしょう。文士ならそうこなくちゃ。この史実を知って嬉しくなってしまいました。

 

文豪・夏目漱石展

両国の江戸東京博物館に「文豪・夏目漱石」展を見に行きました。「閉店間際」だったため、随分、急かされて、駆け足での鑑賞でしたが、何しろ、漱石の本物の原稿(ほとんどが書き損じでしたが)や蔵書等を間近に見ることができて、感激しました。

漱石は、私の最も大好きな作家の一人です。もちろん、全集を持っています。大昔、全作品を一度、ざっと読んだきり、好きな作品は再読していますが、再々読はしていませんので、また、読みたくなりました。

今回、新たに発見、というか、忘れていたことを再発見したことは、漱石は、1歳で塩原家に養子に出されますが、夏目家に戻ったのは、何と、21歳の時だったのですね。49歳で亡くなっているので、生涯の半分近くは塩原金之助の名前だったことが分かりました。そして、北海道にも戸籍を異動している時期もあったようです。

蔵書の多さにも唖然としました。ロンドン留学で、買い込んだものが多かったようです。「ロビンソン・クルーソー」「ガリヴァー旅行記」「シェイクスピア全集」は当然のことながら、社会学や心理学や、ベルグソンンまで原書で読んでいたとは驚きました。当時の知識人の質量とも学識の幅の広さには感服致しました。

漱石は大変、几帳面な人で、弟子たちに貸したお金や蔵書について、すべてノートに記帳していました。返却してくれた人には棒線が引かれていまして、棒線が引かれていない人は「恐らく返却していないものと考えられる」と説明文にありました。苦笑してしまいました。

およそ、90年前に亡くなった漱石ですが、本人が着た着物などが展示されていると、どこか近しい感じを受けました。

文学は死んだ?

ご縁があって、最近、純文学系と呼ばれる文芸誌に目を通しています。十年ぶりぐらいです。最近、本は読んでいますが、いわゆるノンフィクション系のものばかりで、ほとんど小説は読んでいません。映画監督の篠田正浩さんが、いつかどこかの雑誌で「小説は読まない。作家の妄想に付き合っている暇はないから」といったような趣旨の発言をしていたことが頭の底にこびりついてしまったせいかもしれません。

それが、ちょっと、ご縁があって、昨日も文芸誌に目を通したのですが、正直、とても読める代物ではありませんでした。まあ、作者の唯我独尊、大いなる誤解で小説は始まるのでしょうが、第三者にとっては、どうも鼻白む話ばかり。10年前までは、熱心に小説を読んでいたのですが、驚いたことに、どの文芸誌にも巻末に作者のプロフィールが掲載されていますが、半数近くが初めて名前を知る人で、7割以上が私より若いのです。

小説は若者の特権なのでしょうか。そういえば、樋口一葉と北村透谷は24歳。芥川龍之介は35歳。太宰治は38歳。夏目漱石にしても49歳で亡くなっていますからね。

ある文学新人賞の審査委員である文芸評論家の斎藤美奈子氏が、応募してくる作家志望の若者に対して「あなたのことなんか誰も興味を持っていないんですよ」と、肥大化した自意識過剰を諌めておりました。うまいことを言うなあ、と思いました。

私のブログも通底にはそんな思想信条があふれています。何しろ、今、日本だけで800万ものブログが溢れているというではありませんか!調布先生などは「ブログなんて、そんなくだらないものは早く卒業、廃業した方がいいですよ」と忠告してくれていますが{調布先生は盗み見(笑)しているのでしょうか?}、所詮、「あなたのことなんか誰も興味を持っていないんですよ」。

天下国家を論じている大手マスコミの人は、自分のペンで無知蒙昧な国民を啓蒙して、世論を引っ張っていきたいという思いがあるのでしょうが…。

「漱石という生き方」

公開日時: 2006年4月15日 @ 14:13

昨晩は尊敬するN先輩と銀座の「炭家」で痛飲して午前様となってしまいました。

家に辿りついたら、またまた尊敬する秋山さんから本が届いていました。

「漱石という生き方」(トランスビュー)というタイトルです。

同出版社のホームページhttp://www.transview.co.jp/books/4901510398/top.htmにアクセスすると、本書について

 

「最も多くの自筆原稿に触れ、画期的な最新版『漱石全集』(1993年刊行開始)を編纂した元岩波書店編集者が、全作品はもとより、書簡・日記・談話などに残されたわずかな痕跡の意味を掘り起こし、漱石が考えたこと、表現しようとしたことの本質に迫る」とあります。

 

そうです。秋山さんとは『漱石全集』が刊行しはじめた1993年に取材でお会いしました。その後、年賀状を毎年やり取りする間柄でしたが、もう13年も交流が続いてきました。私は「漱石の大ファン」を自称していますので、それを知ってか、秋山さんは、漱石全集の別冊や地図なども送ってくださりました。

 

この度、待望の著書を出されたということで、私にもわざわざ送ってくださったのです。

 

まだ目を通していないのですが、これから楽しみです。

 

読了後、またお伝えしたいと思います。

夏目漱石「吾輩は猫である」100年

今年は夏目漱石が処女作「吾輩は猫である」を発表して丁度100年になります。
明治三十八年、漱石、時に三十八歳。

未完のまま絶筆となった最期の作品「明暗」は大正五年の作。漱石、時に49歳でした。
漱石の晩年の写真を見て、60歳か70歳くらいと勝手に想像していたのですが、随分若かったんですね。

私は、古今東西の作家の中で、漱石が最も好きで、尊敬しています。

全集を読破したのがもう四半世紀も昔なので、細かい所は覚えていないのですが、「三四郎」の中で、先生の口を借りて「日本は滅びるね」と漱石は予言していました。
そして、昭和二十年に、本当に日本は滅んでしまいました。
もし、漱石が生きていれば、78歳でした。

もっと書きたいのですが、今日はこの辺で。