文学は死んだ?

ご縁があって、最近、純文学系と呼ばれる文芸誌に目を通しています。十年ぶりぐらいです。最近、本は読んでいますが、いわゆるノンフィクション系のものばかりで、ほとんど小説は読んでいません。映画監督の篠田正浩さんが、いつかどこかの雑誌で「小説は読まない。作家の妄想に付き合っている暇はないから」といったような趣旨の発言をしていたことが頭の底にこびりついてしまったせいかもしれません。

それが、ちょっと、ご縁があって、昨日も文芸誌に目を通したのですが、正直、とても読める代物ではありませんでした。まあ、作者の唯我独尊、大いなる誤解で小説は始まるのでしょうが、第三者にとっては、どうも鼻白む話ばかり。10年前までは、熱心に小説を読んでいたのですが、驚いたことに、どの文芸誌にも巻末に作者のプロフィールが掲載されていますが、半数近くが初めて名前を知る人で、7割以上が私より若いのです。

小説は若者の特権なのでしょうか。そういえば、樋口一葉と北村透谷は24歳。芥川龍之介は35歳。太宰治は38歳。夏目漱石にしても49歳で亡くなっていますからね。

ある文学新人賞の審査委員である文芸評論家の斎藤美奈子氏が、応募してくる作家志望の若者に対して「あなたのことなんか誰も興味を持っていないんですよ」と、肥大化した自意識過剰を諌めておりました。うまいことを言うなあ、と思いました。

私のブログも通底にはそんな思想信条があふれています。何しろ、今、日本だけで800万ものブログが溢れているというではありませんか!調布先生などは「ブログなんて、そんなくだらないものは早く卒業、廃業した方がいいですよ」と忠告してくれていますが{調布先生は盗み見(笑)しているのでしょうか?}、所詮、「あなたのことなんか誰も興味を持っていないんですよ」。

天下国家を論じている大手マスコミの人は、自分のペンで無知蒙昧な国民を啓蒙して、世論を引っ張っていきたいという思いがあるのでしょうが…。

“文学は死んだ?” への6件の返信

  1. 舘守仁さま
    「がびーん」です。(このギャグを知っておられる方は、私の知っている世代です)

    「まことに失礼ながら」とおっしゃりますが、全然、失礼ではありませんよ。おっしゃる通りです。鋭いところを指摘されて「がびーん」です。

     枯渇ですかあ…

     同じ言葉を、ある文芸誌の編集者から聞きました。ある、名前を成した大作家に対してです。「Aは最近、小説を書かないんだよなあ。もう、○○歳だし、そろそろ枯渇したかなあ」

     幸か不幸か、小生はまだ枯渇するほど、活躍しておりませんのです。もう少し、渓流斎日乗におつきあいください。

    でも、「秘そかな愛読者」として、コメントして戴き、大感激です。

  2. 文学を必要とされていないのでは
    こんにちは。秘かな愛読者であります。
    ふと感じたのですが、渓流斎さんは、いま、文学や小説を、必要とされていないのではないでしょうか?
    年齢による成熟のなせることか、もしくは――まことに失礼ながら――枯渇?
     すばる、文学界、群像、新潮といった純文芸誌を一定期間、継続して読まれてみれば、ちがった印象をもたれるのではないか、と思います。

  3. ペンとキーボード
    欧州の人間が欧州語をタイプで打つのは、ローマ字であるがゆえに、さほど違和感を抱かず手書きから移行できると思いますが、日本語をパソコンで打ち込む場合、少なくとも漢字カタカナに変換しなければなりません。

    何度も紙にペンで書き、書き直す。それを繰り返し推敲を重ねる。そうして最終的にパソコンで入力するのであれば問題ないんですが、いきなりパソコンの入力をすると、安っぽい文章しか綴れないと思う。

  4. 文学は難しい
    聞いた話ですが、今の文学界、出版界の現状は、村上春樹の一人勝ちだそうです。村上春樹か、それ以外かで分類されるそうです。かれは、10月のノーベル文学賞の候補になっているようです。
    彼はインタビュー、マスコミ嫌いで有名で、居所も知らないマスコミもあるそうです。

    在日ヤクザで山口組系柳川組二代目の谷川康太郎こと康東華組長は、レーニン全集を読破するほどの読書家ですが、次のような名言を吐いています。
    「ドストエフスキーの『罪と罰』なんて所詮インテリの精神的遊戯だ。そんなことを書いてもらっても、飢えた人間は満たされない」(宮崎学「近代ヤクザ肯定論」269ページ)

  5. 文学は死んだ?
    私は村上春樹が好きですが、十分面白いと思っていますよ。村上氏は夢をみないそうです。心の奥の、そのまた奥まで降下していって書くことで、不思議な春樹ワールドが展開します。好きになれるかどうかは、読み手次第ですが・・・。つまるところは、「好悪で決まる」のでは。例えば私は、キースジャレットのピアノが好きですが、ある人は全く評価してくれない。「つまらない」と斬って棄ててしまうのです。その人はビルエバンスが最高だという。しかし、ビルエバンスのアドリブは、マンネリの展開が多いと言えなくもない。私はそこが好きになれない。芸術には、レベル差というものが存在する一方で、好悪による判断軸のほうが上回っていると思うのです。

  6. 誕生~成熟~死滅
    日本に小説という文学形式が輸入されたのは、19世紀の後半でした。このころ発展途上国のロシアでは「カラマーゾフ」や「戦争と平和」はすでに完成しており、この文学の一形式はフィナーレを迎えていたと考えることもできます。坪内逍遥が「小説真髄」を書き始めた時期が、遅すぎたのかもしれません。

    また文学にせよ、音楽美術にせよ、メディアが発達しすぎると民衆は「待機時間が長すぎる」と愚痴をこぼします。ゆっくりと待って、才能を熟成させる暇がなくなった現代社会に、真の芸術家を待望することは、チト無理ではありますまいか。

    儲かっている売れてる人間がエラク、そうでなきゃエラクない。鑑識眼を持った貴族(でも民衆でもかまいません)が「さあ書いてごらん」と呼びかけた社会なら、芸術家は途方もない集中力を示すことができたが、現代資本主義社会での文学創造は難しい。現代社会での価値判断は難しい。

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