飛鳥山散策記=渋沢栄一の「青天を衝け 大河ドラマ館」に行って来ました

 東京都北区王子の飛鳥山に急ごしらえした「青天を衝け 大河ドラマ館」に行って来ました(コロナ禍でネット予約が必要ですが、平日はもう空いていて当日券が買えると思います)。どういうわけか、ここ数年、浜松市の「おんな城主 直虎」や岐阜城の麓の「麒麟がくる」(明智光秀)などNHKの大河ドラマ館に行っており、微力ながら国営放送の営業に貢献しております。

「青天を衝け 大河ドラマ館」(東京都北区飛鳥山)

 渋沢栄一の生涯を辿る「青年を衝け」も面白く拝見しているので、結構身近にある飛鳥山に出掛けてみたわけです。

 そしたら、「あれー?こんだけえー?」てな感じで、とても狭くて直ぐ見終わってしまいました。正直、「直虎」や「麒麟」と比べると見劣りがしました。

「青天を衝け 大河ドラマ館」(東京都北区飛鳥山)

 ドラマ館は、即席で建てたものではなく、「北区飛鳥山博物館」の2階を「間借り」していたので、狭いはずでした。入場券800円で、1階の歴史博物館も観ることができたので、元が取れた感じでしたが(笑)。

 あまり貶しては怒られるので、感心したことを1点挙げます。その写真は撮れませんでしたが、幕末に万国博覧会が開催されたパリのロケシーンの「メイキング映像」です。コロナ禍もあって、何と、日本の俳優陣たちはパリに行ってなかったんですね!(バラしてしもうた)パリと日本で別々に撮って、コンピューターか何かで合成していたのです。あの徳川昭武さんも、直接、ナポレオン三世に謁見していなかったのです。そう考えると、俳優さんたちの「演技」には感心してしまったわけです。

「飛鳥山の碑」 碑銘を撰したのは成島錦江(成島家三代目道筑信遍=のぶゆき=)幕末の奥儒者成島柳北はその八代目。

 さて、わざわざ、飛鳥山に足を運んだのは、もう一つ目的がありました。皆さん御存知の通り、私は「天地間無用の人」成島柳北のファンなのですが、その五代前の先祖に当たる成島錦江 (成島家三代目道筑信遍=のぶゆき=) が碑銘を撰した「飛鳥山の碑」を見に行くことでした。どちらかと言えば、こちらの方が主目的でした。

「飛鳥山碑」碑文は成島錦江(元文二年)1737年

 前田愛著「成島柳北」(朝日新聞社、1976年)によると、この「飛鳥山碑」は元文2年(1737年)に建てられたものですから、もう判読が難しいのですが、上の写真の通り、東京都教育委員会が平成23年(2011年)に「解説」の看板を建ててくれております。

 飛鳥山は「桜の名所」として有名で、浮世絵などでも描かれていますが、これは八代将軍徳川吉宗が一般庶民にも開放して始まったものでした。吉宗の在位は、享保元年(1716年)から延享2年(1745)ですから、ちょうど、この石碑も、将軍吉宗在位中に建てられたことになります。

Asukayama no HI

 碑の日本語の解説を読んでもよく分からない方は、上の写真の英語の方が分かりやすいかもしれません。

 先程の前田愛著「成島柳北」によると、成島錦江は、荻生徂徠の門に学び、元文2年(1737年)に御同朋格奥勤に抜擢されて将軍吉宗の侍講を務めたといいます。奥儒者ということで、英語では、a confucian vassal of the shogunate となっています。錦江は道筑の雅号ですが、荻生徂徠の蘐園学派独特の命名法で、鳴鳳卿とも称しました。姓の鳴(なる)は、成島から転じたものです。昔の人はおつなもんです。

 錦江は享保16年(1731年)の冬、浅草御厩河岸の賜邸の一隅に「芙蓉楼」という書室をつくり、将軍吉宗から下賜された十三経二十一史など千数百巻の書物を収めました。将軍吉宗も相当な勉強家だったんですね。芙蓉とは、富士山のことですが、楼上から富士の山容を望見することができたからだといいます。

ちなみに、成島錦江は八代将軍吉宗の侍講でしたが、幕末の成島柳北は、十三代家定と十四代家茂の侍講を務めました。しかし、幕府風刺の漢詩文を書いたため解任されました。明治になって、幕臣出身ということで新政府には出仕せず、操觚之士となり朝野新聞社長も務めました。

飛鳥山の歴史

 この上の写真の「飛鳥山の歴史」には書かれていませんが、この地には、「日本資本主義の父」渋沢栄一が建てた邸宅跡「曖依村荘」と書庫「青淵文庫」、洋風茶室「晩香廬」などがあります。

 だから、ここにNHKが 「青天を衝け 大河ドラマ館」 を臨時につくったわけですから、この碑に渋沢栄一の名前が一言も出て来ないのは不思議でした。

渋沢栄一 守屋淳訳「現代語訳 論語と算盤」を読む

 雪の大谷 Copyright par Syakuseidou

 悪の道に走りかけた釈正道老師が心を入れ替えたらしく、彼から急に写真が送られてきました。キャプションは

天気には恵まれました。雪の大谷、今年は積雪量は14メートルとかで。多くは無いのかな。山の写真は剣岳などです。

 これだけです。

 またもや暗号です。場所は何処なのか?このコロナ禍で、緊急事態宣言が出掛かっているこの非常時に、まさか旅行にでも行かれたわけではないはず…。私が調べたところ、「雪の大谷」とは富山県の有名な観光スポットらしい。ということは、わざわざこの時期に東京からベンツにでも御乗車されて旅行ですかあ!?

剱岳 Copyright par Syakuseidou

 しかも、肝心の剱岳と思われる写真は、この通りピンボケです。(バランスも悪い。)こんな芸術作品を撮影できるのは、ロバート・キャパと釈正道老師以外考えられませんね(笑)。

 さて、今年(2021年)、NHK大河ドラマ「青天を衝け」が放送されていることから、主人公渋沢栄一が、この1年間、あらゆる媒体で引っ張りだこです。他の民放テレビで特集番組が放送されたり、雑誌で特集記事が組まれたりしています。嗚呼、NHK畏るべしです。

 私も本屋さんに行ったら、この渋沢の代表作「論語と算盤」(ちくま新書)が山積みになっていたので、思わず買ってしまいました。現代語訳ということで、類書の中で最も売れているらしく(新書売り上げナンバーワン)、私が先月買った時は42万部でしたが、4月17日の時点で既に60万部を超えているようでした。年内に100万部いくかもしれません。

 それだけ、読み易い本でした(いつぞや、このブログに書いた通り、他に読む本があって、しばらく「つん読」状態でしたが)。同書はもともと講演会の速記録を文字で起こしたもので、大正5年(1916年)に東亜堂書房から発行されました。ちょっと、ふと思ったのですが、「現代語訳」ということですから、速記録は文語文ということなのでしょう。でも、渋沢翁は、講演会でも文語調で講演していたということなんでしょうか?まあ、どちらでもいい話ですが。

雪の大谷 Copyright par Syakuseidou

 「論語と算盤」は、乱暴に一言で要約してしまうと、一見、人としての倫理観を説く「論語」と、金儲けの「算盤」とは矛盾するようだが、そんなことはない。商売するにしても、自分さえ良ければ良い、とか自分だけが儲かればそれで良いという考えでは商業資本主義は発達しないし、結局、損することになる。論語が説く倫理観が絶対に必要だ、といったところでしょうか。

 青年期に幕末、維新の激動時代を生き抜き、フランスへ徳川昭武の随行員に選ばれて、最先端の資本主義を見聞して、帰国後に500近い企業を起こした渋沢栄一だけに、確かに説得力があります。渋沢は1840年生まれですから、この本が出版された時は76歳ぐらいですか。功成り名を遂げた名士として、社会福祉活動にも力を入れていた時期です。渋沢栄一の思想哲学が凝縮され、「こういう考え方の人だったからこそ、大きな仕事を成し遂げることができ、偉人とも巨人とも言われたんだなあ」とよーく分かります。

 でも、はっきり言って、「成功物語」なので、誰もが渋沢栄一になれるわけではないので、この本を読めば出世できる、とか金持ちになれるなどと誤解しない方が良いです(笑)。

 渋沢もこう言ってます。

 世間には、冷酷無情で全く誠意がなく、行動も奇をてらって不真面目な人が、かえって世間から信用され、成功の栄冠に輝くことがある。これとは反対にくそ真面目で誠意にあつく、良心的で思いやりに溢れた人が、かえって世間からのけ者にされ、落ちこぼれとなる場合も少なくない。(75ページ)

 この一節を読んだだけでも、渋沢栄一という人は、人間観察に鋭敏な人だったことがよく分かります。

 落ちこぼれで、失敗と挫折ばかりしてきた私自身も、渋沢の説くこの後者だったので、よーく分かり過ぎるくらい分かるのです。

 【追記】「歴史人」によると、日本史上「子だくさん」の第1位は、本願寺の中興の祖、蓮如で男子13人、女子14人の計27人でしたが、渋沢栄一の場合、二人の正妻以外に妾や愛人もたくさんいて、同書によると、庶子を含めて30人の子どもをなしたといいます(50~100人の説も)。となると、蓮如さまどころではなく、明らかに渋沢栄一こそが、日本一の艶福家となりますね。(そう言えば、十一代将軍徳川家斉は、大奥制度もあり、53人の子をなしたといいます)

 東京・王子飛鳥山にある「渋沢栄一記念館」に行くと、展示パネルに、今も活躍する企業や子孫の系図も出てきて、どこまで行っても「渋沢栄一」の名前があらゆるところに出てくるので眩暈を覚えたことがありました。

橘木俊詔著「”フランスかぶれ”ニッポン」はどうも…

 世間では誰にも認められていませんが、私は、「フランス専門」を僭称していますので、橘木俊詔著「”フランスかぶれ”ニッポン」(藤原書店、2019年11月10日初版)は必読書として読みました。大変面白い本でしたが、途中で投げ出したくなることもありました(笑)。

 「凡例」がないので、最初は読み方に戸惑いました。

 例えば、「長与(専斎)に関しては西井(二〇一九)に依拠した」(53ページ)や「九鬼周造については橘木(二〇一一)に詳しい」(104ページ)などと唐突に出てくるのです。「えっ?何?どうゆうこと?」「どういう意味?」と呟きたくなります。

 (これは、後で分かったのですが、巻末に書かれている参考文献のことで、まるかっこの中の数字はその著書が発行された年号のことでした。学術論文の形式なのかもしれませんが、こういう書き方は初めてです)

 著者は、経済学の専門家なので、「フランスはケネー、サン=シモン、セイ、シスモンディ、ワルラス、クールノーなど傑出した経済学者を生んだ」(180ページ)と筆も滑らかで、スイスイと進み、それぞれの碩学を詳細してくれますが、専門外の分野となると途端にトーンがダウンしてしまいます。

 例えば、世界的な画家になった藤田嗣治の章で、「乳白色の裸婦」を取り上げた部分。「絵画の手法などについては素人の筆者がどのような絵具や顔料を用い、キャンバスにどのような布地を用いたのか、…などと述べる資格はないので、乳白色の技術についてはここでは触れない」。 えっ?

 「ドビュッシーは女性関係も華やかであったが、これまで述べてきたようにフランスの作家や画家の多くがそうであったし、別に驚くに値しないので、詳しいことは述べない」。 えっ?待ってください。また?

 「物理学に疎い筆者が湯浅(年子)の研究内容を書くと間違えるかもしれないし、読者の関心も高くないであろうから、ここでは述べない」。 もー、勘弁してください。少しは関心あるんですけど…。

 ーまあ、ざっとこんな感じで、読者を2階に上げておいて、「この先どうなるんだろう」と期待させておきながら、さっと階段を外すような書き方です。

 そして、画家の久米桂一郎(一八六六-一九三四)の次の行の記述では、

 「浅井忠(一九三五-九〇) 黒田清輝(日本西洋絵画の開拓者は、美術学校出身ではなく、東京外国語学校出身だったとは!←これは私の感想)や久米桂一郎よりも一〇年早く生誕している」と書かれているので、「おかしいなあ」と調べたら、浅井忠は(一八五六-一九〇七)の間違いでした。日本の出版界で最も信頼できる藤原書店がこんなミスをゆめゆめ見逃すとは!悲しくなります。

 文句ばかり並べましたが、幕末・明治以来「フランスかぶれ」した日本の学者(辰野隆、渡辺一夫ら)、作家詩人(永井荷風、木下杢太郎、萩原朔太郎、太宰治、大江健三郎ら)、画家(藤田嗣治ら)、政治家(西園寺公望ら)、財界人(渋沢栄一ら)、ファッション(森英恵、三宅一生、高田賢三ら)、料理人(内海藤太郎ら)ら歴史的著名人を挙げて、平易に解説してくれています。(私は大体知っていたので、高校生向きかもしれません)

 ほとんど網羅していると言っていいでしょうが、重要人物である中江兆民や評論家の小林秀雄についてはごく簡単か、ほとんど登場しないので、もっと詳しく解説してほしかったと思いました。

 それとも「私の専門外なので、ここでは詳しく触れない」と著者は抗弁されるかもしれませんが…。

 (6年前に「21世紀の資本」のトマ・ピケティ氏が、日仏会館で来日講演された際に、橘木氏も同席して、橘木氏の御尊顔を拝見したことがあります。「経済格差問題」の権威として凄い方だと実感したことは、余談ながら付け加えておきます。)

深谷城~渋沢栄一記念館への旅

 先ごろ、鹿島茂著「渋沢栄一」全2巻の大作を読んだ影響で、渋沢栄一の生まれ故郷を見たくなり、一躍「1万円札採用」で再度ブームになっている埼玉県深谷市にまで足を延ばしに行って来ました。

 この日、JR東海道線で人身事故があり、高崎線にも影響があり、当初の予定よりも深谷駅に着くのが遅れました。午前11時過ぎでした。

 観光案内所で聞いたところ、「渋沢栄一記念館」へのバスは、10時55分に行ってしまったばかりで、次のバスは2時間後の12時50分だというのです。「えー、2時間に1本しか出ていないんですか?」と聞いたところ、「(運転手が)お昼休みなんで、すみません」と謝られてしまいました。

 「いえいえ、謝られてもあなたのせいではありませんから…」と、こちらが却って恐縮してしまいました。

 あと2時間もあるので、駅近くにある深谷城址に先に行くことにしました。

 その前に駅周辺を散策。深谷駅の駅舎は、このように東京駅舎のように立派なレンガ造りです。東京駅と同じ辰野金吾博士の設計なのでしょうか。いや、違いました。今は簡単に調べられます。JR東日本建築設計事務所が東京駅をモチーフにして設計し、1996年7月に完成された、とありました。

 渋沢栄一は、日本初のレンガ工場をつくった人ですから、レンガ造りは、それにちなんだことでしょう。

 上写真にバス2台止まってますが、後方の小さいマイクロバスが、渋沢栄一記念館にまで行く「くるりん」ちゃんです。12人乗りです。深谷駅から記念館まで約30分。途中のバス停留所は市役所やスーパーやコンビニなどで、まさに市民の足になってます。

一日乗車券が200円。一日何回でも乗れるそうですが、私は往復の2回で十分でした(笑)。

 深谷駅北口前にある渋沢栄一像です。銅像は他に市内に何箇所もあります。

 まさに郷土が生んだ偉人です。

 駅から歩いて約10数分。城跡らしき風格が見えてきました。

 深谷城址公園です。

 深谷城は中世の平城ですから、このような石垣と塀だったわけではありません。

 深谷城は、戦国時代の深谷上杉氏の居城でした。

 深谷上杉氏は、関東管領の山内上杉憲顕が14世紀後半に六男憲英をこの地に派遣したことに始まり、約230年間、深谷を拠点とした氏族です。当初、初代憲英から四代憲信までは国済寺に庁鼻和(こばなわ)城 を構えておりましたが、五代房憲が深谷城を築き、その後九代氏憲までここを居城としました。

 今はこうして公園になっていて、市民の憩いの場になってます。

 深谷城の本丸は、今は深谷小学校の敷地内にあります。

 物騒な世の中になってしまい、昔なら簡単に部外者でも小学校の敷地に入れましたが、今は門扉が閉まり、不可能です。

 諦めかけたら、敷地の垣根の隙間から、本丸跡の石碑が見えました。少し望遠にして写真に収めることができました。

 ちなみに深谷城は、中世の城ですから渋沢栄一の時代は既に廃城となっており、江戸時代は岡部藩です。でも、この岡部城も維新後、廃城となり、今は跡形もないようです。しかも、天守はなく、陣屋だったようなので、今回はパスしました。

 バス発車時刻までまだ時間があるので、駅近くの老舗蕎麦「立花」で、きのこせいろ(700円)を食しました。美味い。名物深谷ネギもしっかり入ってました。女将さんがとても感じがよく、「またいらしてくださいね」と言われ、その気になってしまいました。

「くるりん」ちゃんに乗って、駅から30分。ついに渋沢栄一記念館に到着しました。建物はかなり立派です。

 有難いことに入場無料でした。(館内は撮影禁止でした)

 展示品に関しては、正直、東京・王子飛鳥山にある「渋沢史料館」の方が豊富で、充実していた感じでした。

 でも、この中で、渋沢栄一自身が書いた「孝経」( 中国の経書の一つ。曽子の門人が孔子の言動を記す )の写しが見事な達筆で、「字は体を表わす」と言いますか、渋沢栄一の律儀な性格がものの見事に表れている感じでした。

 また、渋沢栄一が幕末に、徳川昭武の渡仏団の一員としてフランスに滞在した際、その世話係が銀行家のブリュリ・エラールで、渋沢は彼の「サン・シモン主義」に大変影響受けたことが例の鹿島氏の著書に何度も出てきましたが、本には顔写真がありませんでした。

 この記念館では、ブリュリ・エラールの肖像写真が展示されていて初めて拝見することができました。銀行員だというので、もう少しヤワな感じかと思っていたら、髭もじゃで、かなり精悍な顔つきでした。

 記念館から渋沢栄一生誕の地、旧渋沢邸「中の家(なかんち)」に向かいました。

 清水川沿いは青淵公園になっており、上の写真のように「渋沢栄一の言葉」が立てかけられています。

 着きました。本当は、青淵公園から回ると「裏口」に到着したのですが、表玄関にまで回ってきました。平成29年には天皇皇后両陛下(当時)がこの地を訪れ、邸内では写真パネルが飾られてました。

 農家とはとても思えない。武士のような立派な門構えです。

 門をくぐると、このように、渋沢栄一像が出迎えてくれます。

  敷地は1000坪と広大です。蔵が四つもありました。ここに来て、渋沢家は豪農だったことを肌身で感じました。

 「中の家」を正面から見たところです。明治に再建された家ですが、江戸時代はこの2階で養蚕と藍玉づくりが行われていたそうです。

 いずれにせよ、大変失礼ながら、こんな辺鄙な不便なところから、「日本の資本主義の父」となる偉人を輩出したとは信じられませんでした。

 また、失礼ながら、今でも買い物にも不自由なところです。若き渋沢栄一の学問の師であった従兄の尾高惇忠(後に官営富岡製糸場の初代工場長)の家までここから歩くと30分ぐらい掛かります。

 昔の人は本当に偉かった。

渋沢栄一と土方歳三と彰義隊と日経と一橋大学と…

 鹿島茂著「渋沢栄一Ⅱ 論語篇」をやっと読了しました。Ⅰの「算盤篇」と合わせて、原稿用紙1700枚。長い。2巻通読するのに9日間かかりました。

 17年間にわたって雑誌に長期連載されたものを単行本にまとめたものらしいので、内容や引用に重複する部分が結構あり、もう少し短くできたのではないかと思いましたが、それだけ、渋沢栄一という人間が超人で巨人だった表れではないかとも思いました。

「Ⅱ 論語篇」は、明治になって渋沢が500以上の会社を設立したり、協力したりする奮闘記です。同時に、日清・日露戦争、第1次世界大戦という激動期でしたから、欧米との軋轢を解消するために、財界を中心に親善視察団を派遣したり、国内では教育施設の創立に尽力したりして、渋沢を通して、日本の近現代史が語られています。

 現在の米中貿易戦争にしろ、日米貿易摩擦にしろ、覇権争いという意味で世界は、渋沢の時代とほとんど変わっていないことが分かります。

 渋沢栄一(1840~1931、享年91)は、江戸時代の天保生まれで、幕末、明治、大正、昭和と生き抜きましたから、同時代の証言者にもなっています。幕末に一橋慶喜に仕えたため、京都では新撰組の近藤勇や土方歳三らと実際に会っていて、彼らの人物像を四男秀雄にも語っている辺りは非常に面白かったです。(渋沢が、薩摩に内通した幕府御書院番士大沢源次郎を捕縛した際、土方から「とかく理論の立つ人は勇気がなく、勇気がある人は理論を無視しがちだか、君は若いのに両方いける」と褒められた逸話を語っています)

 渋沢栄一が徳川昭武の随行団の一員としてパリに滞在中、一緒に慶喜に仕官した栄一の従兄である渋沢喜作は日本に残りますが、新参としては異例の出世を遂げて、慶喜の奥祐筆に抜擢されます。鳥羽伏見の戦いでは、軍目付役として出陣し、慶喜が江戸に逃げ帰ってからは、江戸で再起を誓い、彰義隊を結成するのです。最後まで上野で官軍に抵抗した彰義隊をつくったのが、渋沢栄一の従兄だったとは!しかし、喜作は内部分裂の結果、彰義隊を飛び出して、新たに振武軍を結成します。それが、官軍に知られて追撃され、武州田無の本拠地から飯能に逃れ、結局、喜作は、榎本武揚らとともに箱館にまで転戦するのです。箱館は土方歳三が戦死した地でしたが、喜作は生還し、明治には実業家になりますが、山っ気のある人で、投機に失敗して、栄一がかなり尻拭いしたらしいですね。

 著者は「牛乳・リボンから帝国劇場・東京會舘に至るまで」と書いてますが、渋沢栄一は生涯に500以上の会社を立ち上げています。意外と知られていないのがマスコミで、今の日本経済新聞(中外物価新報)も毎日新聞(東京日日新聞)もNHK(日本放送協会)も、共同通信・時事通信(国際通信)も、渋沢が設立したり、協力したり、資本参加したりしているのです。

 教育面では、今の一橋大学(東京商法講習所)、二松学舎大学、国学院大学(皇典講究所)、東京女学館大学、日本女子大学、東京経済大学(大倉商業学校)などの設立に関わっています。

 同書では多くの参考文献が登場してましたが、この中で、最後の将軍徳川慶喜が晩年になってやっと回顧談に応じた歴史的資料でもある「昔夢会筆記」(平凡社の東洋文庫)や、渋沢栄一の多くの愛人関係を暴いて「萬朝報」に連載されていたものをまとめた「弊風一斑 畜妾の実例」(社会思想社の現代教養文庫)辺りは読んでみたいと思いました。

 

井上馨はそれほど清廉潔白だったのか?

 鹿島茂著「渋沢栄一Ⅰ 算盤篇」(文藝春秋)を読了しまして、目下、続編の「渋沢栄一Ⅱ 論語篇」を読んでいるところです。

 渋沢栄一という超人がいなければ、明治の新国家が成立しなかったということが良く分かり、圧巻でした。が、一つだけ、天下無敵、博覧強記の著者鹿島茂教授の瑕疵めいたところが気になりました。鹿島教授の書くものは、完全無比の完璧かと思い込んでいましたが、粗を探せばあるもんですね(笑)。

 渋沢栄一の評伝ですから、「渋沢栄一伝記資料集」や「青淵百話」などから引用されていますが、ちょっと、あまりにも渋沢栄一に肩入れし過ぎて、「渋沢史観」的な読み物になっている嫌いがあるのです。

 幕末に万博視察などの名目でフランス滞在中だった渋沢は、幕府が瓦解ししため、仕方なく志半ばで帰朝します。渋沢は、最後の将軍徳川慶喜の家臣でしたが、しばらく慶喜が蟄居していた静岡藩で殖産興業に励みますが、半ば強制的に新政府の大蔵省に仕官します。明治2年から6年までの4年間です。その間、廃藩置県という一大事業があり、各藩の租税状況を調査したり、藩札と引き換えに公債証書を発行したり、これまでの「両・分・朱」だった貨幣単位を「円・銭・厘」の十進法に切り替えたり、さまざまな経済政策を八面六臂の活躍で実行します。これは、フランスで見聞したサン=シモン思想と銀行や株式会社のシステムに精通した渋沢しかできない大事業でした。

 そもそも、bankに「銀行」という訳語を定めたのも渋沢だったといいます。それまでは、「金行」や「銀舗」などさまざまな訳語が氾濫していたのを統一したのです。「銀行」は逆輸出されて、今でも漢字の本場の中国や台湾でもそのまま使われていることから、渋沢の偉大さが分かります。

 さて、渋沢は、明治6年に大蔵省を退官します。そのお蔭で、民間人としてさまざまな企業を起こすことになりますが、退官の理由については、本書では、大蔵卿(今の財務大臣)の井上馨が退官するため、大蔵大輔(次官)である自分も大蔵省に留まるわけにはいかないから、と書かれています。そこまではいいんですが、井上馨が辞任する理由が、「入るを計って出るを為す」という大蔵省の原則に江藤新平の司法省が反対し、前大蔵卿だった大隈重信参議も意見を聞き入れなかったため、としか書かれていません。

 これでは、渋沢の回想録に沿って、江藤新平が一方的に悪者だった印象を受ける書き方ですが、この時、井上馨は、秋田県の尾去沢鉱山払い下げ事件で、私腹を肥やしたのではないかという疑惑を司法省の江藤新平に追及されて嫌気がさしたともいわれます。そもそも、井上にしろ、山縣有朋にしろ、伊藤博文にしろ、長州の下級武士あがりの明治の元勲は豪邸と別荘(長者荘、椿山荘や無燐庵など)を構え、多くの妾を抱えていたといいますから(その財源はどこから調達したのでしょうか?)、井上馨が清廉潔白で、大蔵省の原則を守るためだけに退官したような表現は、誤解を招くと思ったわけです。

 博覧強記の鹿島教授ですから、当然、尾去沢事件は知っていたはずです。あえて書かなかったと推測されます。(退官したはずの井上馨は何の断りもなく、次々章で、いつのまにか。外務卿として登場するので、明治史に詳しくない人はあれっと思ってしまいます)

 気になったのはそれだけです。大隈重信と三菱(岩崎弥太郎)との癒着、それに対する井上馨と三井との癒着など、政変になると御用商人が暗躍する様が描かれる辺りは興味深かったでしたが。

  あと、「渋沢栄一Ⅰ 算盤篇」 で面白かった逸話は、サド侯爵などフランス文学者の澁澤龍彦が、本家渋沢栄一の分家である渋沢宗助の末裔だったということです。

 もう一つ、水戸学は、尊王攘夷の過激な国粋思想だったことを前回にも書きましたが、そのお蔭で、水戸藩内では、仏教寺院は異教だと排斥されたといいます。道理で、水戸に行っても神社は多くありましたが、名刹と呼ばれる仏教寺院が少なかったはずでした。

 また、水戸学の過激思想のため、内紛やら幕府側からの弾圧(安政の大獄など)やらで、多く優秀な人材が、明治になったら、いなくなってしまったといいます。そのため、「薩摩警部に水戸巡査」という逸話が残ったそうです。

 

 

近代資本主義の勃興を知る=鹿島茂著「渋沢栄一Ⅰ 算盤篇」

 まさに、ど真ん中の直球。見事ツボに嵌った本を今読んでいます。この本は、長年疑問に思っていたことを解明してくれ、知的好奇心を十二分に満足させてくれます。

 鹿島茂著「渋沢栄一Ⅰ 算盤篇」(文藝春秋・2011年1月30日初版)です。もう8年以上前に出た本です。前から読もう、読もうと思っていながら機会を逃していました。確か、2010年の10月に東京・飛鳥山の渋沢栄一記念館を初めて訪れて、500社近い企業をつくった渋沢栄一が、森羅万象、至る所に顔を出して、ここにも渋沢、あそこにも渋沢といった感じで夢にまで出てくるので、頭の中が「渋沢栄一漬け」になり、嫌になってしまったことを思い出します(笑)。

 渋沢栄一が今度、「1万円札の顔」になることから、この機会にやっと読んでみようかという気になったのです。

 鹿島氏といえば、博覧強記、天下無敵の仏文学者です。私も一度、講演会で目の前でお見かけしましたが、比類のない知識と教養の塊で、脳みそが詰まった頭がどでかくて、講演中は、照れも、衒いも全くなく、ひたすら自信に満ち満ち溢れ、言いよどみも、ど忘れもなく、これ以上聡明で賢い学者は見たことがないといった感じでした。

 最初は、仏文学者が何で、畑違いの、中国の「論語」に傾倒した、しかも財界人の渋沢栄一の評伝を書くのか不思議でした。でも渋沢とフランスとのあまりにも濃密な関係を本書で知り、もし、渋沢が1867年のパリ万博の日本代表団(徳川慶喜の実弟徳川昭武代表)の一員に加わらなければ、「日本の資本主義の父」は生まれなかったったことは確実だったことが分かりました。

 面白い、実に面白い。

 若い頃の渋沢らは、幕末動乱の中、水戸学の尊王攘夷思想に染まり、高崎城を襲撃して武器を奪い、横浜の外国人居留地を襲う計画を立てますが、寸前になって中止します。その後、渋沢は、一橋慶喜に仕官するに当たり、水戸藩に立ち寄っています。

 えっ?水戸?! 先日、水戸城跡に行って、この足で歩き、この目で見てきたばかりじゃありませんか。

 渋沢は若き頃の学問の師で、従兄弟に当たる尾高惇忠の影響を受けますが、尾高は、水戸学の藤田東湖や会沢正志に多大な影響を受けていました。後年、渋沢はこの水戸学にかぶれたことについて、「若気の至りだった」と反省しますが、それだけに、鹿島氏にかかると、この水戸学がコテンパンなのです。彼はこう書きます。

 水戸学は、学と呼べるような体系性も論理的整合性もそなえていない、ある種の過激な気質の純粋結晶のようなものにすぎないのだ。すなわち、その根源にあるのは「武士は食わねど高楊枝」というあの武士の痩せ我慢の思想をひたすら純化して、本来マイナスの価値でしかない「貧乏」に倫理的なプラスの価値を与え、劣等感を優越感に変えて、自分よりも少しでも恵まれた他者を攻撃するという一種の奇矯な「清貧の思想」である。

 わー、ここまで書かれると、水戸の人は怒るかもしれませんね。しかし、水戸藩では尊王攘夷思想が過激になり、仏教や寺も夷狄の宗教として排斥したといいます。

 とにかく、渋沢は国際情勢を実地で見て、過激な攘夷思想から脱却して、開明派に転向します。その最大のきっかけは、フランスで、サン=シモン思想にどっぷり漬かったことでした。

 サン=シモンといっても、私の浅薄な知識では、空想的社会主義者で、現実には通用しない絵空事を展開しただけという程度でしたが、これが全くの正反対でした。「空想的社会主義」と命名して批判したのはマルクス、エンゲルスらであって、実際には、サン=シモン思想に影響を受けた弟子たちによって、特に1851年からのナポレオン3世による第2帝政時代には、フランスを近代資本主義社会に発展させる礎がつくられたのでした。

 サン=シモン主義の骨子の第1が、「すべての社会は産業に基礎をおく。産業はあらゆる富の源泉である」だったからです。これにより、「株式会社」「銀行」「鉄道」が「三種の神器」となり、産業革命を成し遂げた英国に大きく遅れをとっていたフランスも、発展していきます。ペレール兄弟によるクレディ・モビリエ銀行の設立と鉄道網の拡張などがその例です。民間に退蔵していた貨幣を吸い上げて、血液のように循環・流通させて産業を興し、冨を獲得していったのです。そのために一番重要だったことは、「信用=クレディ」だったのです。ナポレオン3世自身もサン=シモン主義者で、セーヌ県のオスマン知事に命じて、上下水道を完備するなどパリ市街の大改造に着手します。

 渋沢栄一は1867年、そんな近代資本主義の勃興期のフランスを訪れて、株式会社や銀行などのシステムを目の当たりにして、ゼロから学び、知識を吸収することができたのです。

 同書にはそれらの仕組みが丁寧に説明されていますので、評伝というより経済書として読めなくもないのです。私のように資本主義の初期や初歩を知りたかった書生にとっては、この本は打ってつけだったわけです。

 

 

【補遺】「人間には3種類しかいない」「長谷川家住宅」「使うな、危険!」、そして渋沢栄一

 ■映画「バイス」を観て、後から思ったのですが、主人公のチェイニー米副大統領には、彼を支えてくれる家族が頻繁に登場しますが、本当に心を割って話せるような親友がいない感じでした。

 そこで思い出したのが、かつて外務大臣を務めた田中真紀子さんが言った言葉です。

 「人間には3種類しかいない。家族か、敵か、使用人だ」

 いやあ、これは名言ですね。勿論、皮肉ですが。

 使用人というのは、普通の人は決して使う言葉ではありませんが、恐らく彼女は父親角栄さんの会社経営を一部引き継いだことがあり、それで、会社法の役員ではない社員を指す「使用人」という言葉がすぐ出てきたのではないか、と同情してしまいました。

 映画を観終わって、チェイニーさんも、彼の頭の中には「家族」と「敵」と「使用人」しか存在しないのではないかと思ったわけです。

Copyright par Kyoraque-sensei

 ■渓流斎ブログ2019年4月7日付「 京都『長谷川家住宅』で松岡氏の『在満少国民望郷紀行』スライドショーが開催 」で触れた「長谷川家住宅」ですが、講演を終えて、京都から東京の自宅に帰宅した松岡將氏から、メールで詳しい情報を寄せて下さいました。

 まず、この長谷川家住宅は、有形文化財に登録されていますが、幕末は、何と、あの「蛤御門の変」の際に会津藩士の宿舎だったというのです。現在の当主の中川氏は、松岡氏の農林水産省時代の後輩に当たる人で、開催に当たって全面的に支援してくださったようです。

 開催案内のパンフレットも添付して送って頂きましたが、何と、後援として、農林水産省近畿農政局、京都府、 朝日新聞京都総局、京都新聞、古材文化の会と、錚々たる名前が連ねておりましたから、かなりの規模だったことが分かります。

 参加者の中には、「近畿満鉄会」の会員で、歌手の加藤登紀子さん(満洲・哈爾濱生まれ)の御令兄(元大手金属会社副社長で現在、ロシア料理店社長)や東京帝大の「新人会の研究」などの著作がある日本の近現代史専門のヘンリー・スミス・コロンビア大学名誉教授らも臨席されたそうです。

関宿城

■4月8日付では「関宿城址を巡る旅」を書きましたが、遠足だというのに、手を拭くウエットティッシュを持って行くのを忘れてしまい、難儀してしまいました。

 そしたら、昨日読んだ小岩順一著「使うな、危険!」(講談社)を読んでいたら、コンビニやドラッグストアなどで売っているウェットティッシュには、人体に影響を与える塩化ベンザルコニウムやパラベン、グルコン酸クロルヘキシジンなどが含まれているというのです。

 ウエットティッシュで拭いた手で握った寿司を口にしようものなら、食中毒になりかねないといった警告も書かれていました。

 あらまーー。それなら、ウエットティッシュを使わずにそのまま、おにぎりを食べたことは、よかったということになりますね。衛生的にどうかと思いましたが、免疫力がついたかもしれません(笑)何せ、現代人は「無菌」だの「無臭」だのと、やたらとうるさすぎます。ウエットティッシュで殺菌されたと勘違いして、もし食中毒になったりしたら、本末転倒です。これは、笑えませんよ。

 この本では、ウエットティッシュの代わりとして、20度の焼酎甲類ミニボトルを買い、ティッシュペーパーに濡らして使えばいい、と書かれていました。手の消毒になりそうですね。次回はその手を使ってみましょう。

 この本には、他にも色々書かれていますが、ご興味のある方は、古い本ですから、図書館でも借りてみてください。

Copyright 財務省のHPから引用

■昨日は新紙幣のデザインが正式発表されました。1万円が渋沢栄一、5000円が津田梅子、1000円が北里柴三郎になることは、皆さん、御案内の通り。

 でも、新紙幣の発行は5年後の2024年。5年も前に発表しますかねえ?何でこの時期? 何か政治的臭いを感じますねえ。。。

 さて、この中で一番の注目は、1万円の渋沢栄一でしょう。私も東京都北区王子の飛鳥山公園内にある記念館を訪れたことがありますが、この人、怪物みたいな偉人ですね。「日本の資本主義の父」で、500近い企業を創業したというのですからね。

 出身は、現在の埼玉県深谷市。映画「翔んで埼玉」が話題になっている今、埼玉県人は大いに喜んでいることでしょう。何しろ、映画では「埼玉県人はそこら辺の草でも喰っていろ!」と虐待された県民ですからね(笑)。

 昨晩、天下のNHKラヂオを聴いていたら、女性アナが大興奮していて、「私は埼玉県出身なんですが、小さい頃、郷土の歴史で、渋沢栄一が如何に偉い人なのか習いました。そんな郷土の英雄が選ばれるなんて感無量です」と、ずっと喋り続けていたら、隣の男性アナが「渋沢栄一は、埼玉県の英雄というより、日本の英雄ですよ」と、たしなめていたので可笑しかったですねえ。

 渋沢栄一が関係した会社として、王子製紙、みずほ銀行、キリンビール、三井物産、日本経済新聞など今でも大活躍している企業が名を連ねています。

 王子の渋沢栄一記念館に行った後、あまりにも色んな所に渋沢栄一の名前が出てきたので、その後、しばらくの間、どこに行っても渋沢栄一の名前が頭の中に出てきて、夢にまで出てきたので少し困りました。

 ここまで、彼の偉業ばかり書きましたが、ひねくれた見方も書き添えておきます。渋沢栄一は、2回結婚してますが、他にお妾さんが数多いらっしゃって、子どもが20人ぐらいいたそうです。

 当時は、普通のことだったかもしれませんが、20人とは凄い。「英雄色を好む」と言いますか、それでも、よほどの資産がないと沢山の子どもたちを養育できないでしょうから、偉人だったことは確かです。

 渋沢栄一の最初の結婚は、従妹の尾高千代でしたから、現在でも渋沢家と尾高家とは濃厚な縁戚関係になります。クラシック音楽通なら誰でも知っている「尾高賞」の作曲家・指揮者の尾高尚忠、その長男の尾高惇忠(作曲家)、次男の尾高忠明(指揮者)らも渋沢一族だったんですね。

 最後に、天保年間生まれの渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市の豪農出身ですから、身分は農民です。それでも、幕末は「徳川慶喜に取り立てられて幕臣になった」と何処の本にも書かれていますが、どうやって幕臣になれたのか何処にも書いていません。恐らく、豪農でしたから、お金で、武士の株券でも買ったのではないでしょうか。それに、幕末は身分制度が曖昧になり出したと言います。最も武士らしいと言われた新撰組の近藤勇も土方歳三らも、元々は、日野村の農民でしたからね。

 

「東京人」が「明治を支えた幕臣・賊軍人士たち」を特集してます

今年は「明治150年」。今秋、安倍晋三首相は、盛大な記念式典を行う予定のようですが、反骨精神の小生としましては、「いかがなものか」と冷ややかな目で見ております。

逆賊、賊軍と罵られた会津や親藩の立場はどうなのか?

そういえば、安倍首相のご先祖は、勝った官軍長州藩出身。今から50年前の「明治100年」記念式典を主催した佐藤栄作首相も長州出身。単なる偶然と思いたいところですが、明治維新からわずか150年。いまだに「薩長史観」が跋扈していることは否定できないでしょう。

薩長史観曰く、江戸幕府は無能で無知だった。碌な人材がいなかった。徳川政権が世の中を悪くした。身分制度の封建主義と差別主義で民百姓に圧政を強いた…等々。

確かにそういった面はなきにしもあらずでしょう。

しかし、江戸時代を「悪の権化」のように全面否定することは間違っています。

それでは、うまく、薩長史観にのせられたことになりまする。

そんな折、月刊誌「東京人」(都市出版)2月号が「明治を支えた幕臣・賊軍人士たち」を特集しているので、むさぼるように読んでいます(笑)。

表紙の写真に登場している渋沢栄一、福沢諭吉、勝海舟、後藤新平、高橋是清、由利公正らはいずれも、薩長以外の幕臣・賊軍に所属した藩の出身者で、彼らがいなければ、新政府といえども何もできなかったはず。何が藩閥政治ですか。

特集の中の座談会「明治政府も偉かったけど、幕府も捨てたものではない」はタイトルが素晴らしく良いのに、内容に見合ったものがないのが残念。出席者の顔ぶれがそうさせたのか?

しかし、明治で活躍した賊軍人士を「政治家・官僚」「経済・実業」「ジャーナリズム」「思想・学問」と分かりやすく分類してくれているので、実に面白く、「へーそうだったのかあ」という史実を教えてくれます。

三菱の岩崎は土佐藩出身なので、財閥はみんな新政府から優遇されていたと思っておりましたが、江戸時代から続く住友も古河も三井も結構、新政府のご機嫌を損ねないようかなり苦労したようですね。三井物産と今の日本経済新聞の元(中外商業新報)をつくった益田孝は佐渡藩(天領)出身。

生涯で500社以上の株式会社を起業したと言われる渋沢栄一は武蔵国岡部藩出身。どういうわけか、後に最後の将軍となる一橋慶喜に取り立てられて、幕臣になります。この人、確か関係した女性の数や子どもの数も半端でなく、スケールの大きさでは金田一、じゃなかった近代一じゃないでしょうか。

色んな人を全て取り上げられないのが残念ですが、例えば、ハヤシライスの語源になったという説が有力な早矢仕有的は美濃国岩村藩出身。洋書や文具や衣服などの舶来品を扱う商社「丸善」を創業した人として有名ですが、横浜正金銀行(東京銀行から今の三菱東京UFJ銀行)の設立者の一人だったとは知りませんでしたね。

日本橋の「西川」(今の西川ふとん)は、初代西川仁右衛門が元和元年(1615年)に、畳表や蚊帳を商う支店として開業します。江戸は城や武家屋敷が普請の真っ最中だったため、大繁盛したとか。本店は、近江八幡です。いわゆるひとつの近江商人ですね。

田中吉政のこと

話は全く勝手に飛びまくりますが(笑)、近江八幡の城下町を初めて築いたのは、豊臣秀吉の甥で後に関白になる豊臣秀次です。

秀吉は当初、秀次を跡継ぎにする予定でしたが、淀君が秀頼を産んだため、秀次は疎まれて、不実の罪を被せられ高野山で切腹を命じられます。

まあ、それは後の話として、実際に近江八幡の城下町建設を任されたのが、豊臣秀次の一番の宿老と言われた田中吉政でした。八幡城主秀次は、京都聚楽第にいることが多かったためです。

田中吉政は、近江長浜の出身で、もともとは、浅井長政の重臣宮部継潤(けいじゅん)の家臣でした。しかし、宮部が秀吉によって、浅井の小谷城攻略のために寝返らせられたため、それで、田中吉政も秀吉の家臣となり、秀次の一番の家臣になるわけです。

それが、「秀次事件」で、秀次が切腹させられてからは、田中吉政は、天下人秀吉に反感を持つようになり、秀吉死後の関ヶ原の戦いでは、徳川家康方につくわけですね。山内一豊蜂須賀小六といった秀吉子飼いの同郷の家臣たちも秀次派だったために秀吉から離れていきます。

 田中吉政は、関ヶ原では東軍側について、最後は、逃げ落ち延びようとする西軍大将の石田三成を捕縛する大功績を挙げて、家康から久留米32万石を与えられます。
 そうなのです。私の先祖は久留米藩出身なので、個人的に大変、田中吉政に興味があったのですが、近江出身で、近江八幡の城下町をつくった人だったことを最近知り驚いてしまったわけです。
 明治に活躍したジャーナリストの成島柳北(幕臣)らのことも書こうとしたのに、話が別方向に行ってしましました(笑)。
 また、次回書きますか。