クオリーメン 復活…

公開日時: 2005年4月13日

ビートルズの前身のクオリーメンなるバンドが「歴史として」存在することはわかっていましたが、まさか現在でも存在しているとは思いもよりませんでした。
クオリーメンは、ジョン・レノンが1956年、当時通っていたリバプールの高校の名前を取って学友たちと結成したスキッフル・バンドです。まさにビートルズの歴史が始まった最初のバンドなのです。

翌年の57年、セント・ピーターズ教会のパーティーでの演奏会で、ジョンとポール・マッカートニーが初めて出会います。この時、ポールはエディ・コクランの「トゥエンティ・フライト・ロック」を歌って聴かせ、ジョンが思わずポールを「スカウト」したことはあまりにも有名な話ですが、当時のメンバーの一人は「そんなことはなかった」と否定しているので、真実はわかりません。

正直言いますと、今までこの曲を聴いたことがなかったのですが、嬉しいことに、昨年、彼らがリリースしたCD「SONGS WE REMEMBER」(BMGファンハウス)で初めて聴くことができました。40年以上の歳月を経て、彼らはひょっこりと「再結成」していたのでした。もちろん、この40年の間、皆、音楽活動から離れ、中には家具職人になったり、名門ケンブリッジ大学を出て旅行業界で働いていたりした人もいたらしいのです。

40年以上の空白があるし、趣味や遊びの領域を出ないだろうと全く期待せずに聴いたのですが、正直その演奏とボーカルのうまさに驚いてしまいました。改めて彼らのレベルの高さに感服してしまいました。

ビートルズの最後のアルバム「レット・イット・ビー」の中に「マギー・メイ」という曲がありますが、このCDにも収録されており、クオリーメン時代のレパートリーだったことが分かりました。ロックンロールの初期の音楽形態とも言われるスキッフルがどういうものかこのCDを通して分かりますよ。(了)

追記…今年になってメンバーの一人が急死しましたので、最初で最期の再結成で終わってしまいました。

「ノルウェーの森」は間違い

公開日時: 2005年4月11日 

恥ずかしげもなく言いますが、私が人生で最も影響を受けたのが、ナポレオンでもゲーテでも松下幸之助でもなく、ビートルズだと言えば、人は笑うでしょうか?

ビートルズに関するレコードは、海賊盤を含め、かなりの枚数を揃えたものですね。50枚、100枚…。いや、数ではないですね。彼らに関する書籍や写真集もかなり集めました。だから、彼らについて知っている人で私の右に出るものはいない、と自負していました。左から出てきたら仕方がないが…。

高校時代からバンドを組み、彼らの曲をかなり演奏しました。歌詞についても、知り尽くしているつもりでした。

それが、この標題については、カルチャーショックに近いものを感じました。
実は、これは世紀の大誤訳だったのです。

ビートルズを知っている人には説明するまでもないでしょう。この曲は、1965年発売の彼らの6枚目のアルバム『ラバーソウル』の2曲目に入っています。ジョン・レノンが自分の私的生活を基にして作曲したもので、ジョージ・ハリスンが初めてインド楽器シタールを取り入れた曲としても知られています。

原曲名Norwegian Wood、邦題「ノルウェーの森」。
この曲に刺激されたわけではないでしょうが、村上春樹が、この題名を借用して同じタイトルで出した小説が大ベストセラーになったことは良く知られていますね。

だから、これは正しい、とずっと勝手に誤解していたのです。

間違いを指摘したのは、作家の林望氏。
Woodは「森」なんかじゃない。紙数がないので、結論を先に書くが、「森」ではなくて、単なる「木」。もっと正確に言えば「木製の家具」。

つまり、「ノルウェー製の家具」だったんですね。これには本当に驚きました。
嘘だと思った人は、もう一度、歌詞を聴いて確かめてください。

帯広礼賛

公開日時: 2005年4月10日

一昨年、「人間の住む所ではないが…」と言われて、東京から帯広に追放された身なれど、最初は確かにあまりにもの桁外れの寒さに閉口して、「やんぬる哉」と、咳をしても一人の生活に心寒き思いをしたものの、歳月経てば自ずと愛着も湧き、嫌なことは片目で見る所作法を身に着けたようです。

そこで十勝・帯広の長所…。

●河川敷のコースとはいえ、ゴルフコースが帯広駅から車で10分。平日3500円也。
●カラオケ・ルームが1時間、ドリンク1杯付きで100円。クレイジーキャッツとバーブ佐竹が歌い放題。もちろん、オレンジレンジやSMAPも。
●世界に2つしかないモール温泉が出る温泉が、300円で入り放題。ちなみに、もう1箇所、モール温泉が出るのはドイツのバーデンバーデンだとか。確か、モーツァルトの奥さんもそこへ湯治に行ったはず。
●杉がないので花粉症にならない!!内地の皆様、ご苦労さん!上士幌町では、「花粉症疎開ツアー」を企画したところ、全国から応募が殺到して、大盛況だった。
●自宅から会社まで歩いて3分。満員電車から解放された!
●街中で大酒飲んでも、終電を気にすることなく、タクシーに乗ることもなく、歩いて帰れる!
●これまで週に2,3冊買っていた週刊誌も、こちらでは発売が2日も遅れるので、馬鹿らしくて買わずに済む。電車に乗らないので読む暇がない。
●忘れるところでした。雄大な大自然。100㍍どころか数10㌔でも見渡せそうな視界。満天の星。怖いくらい降り注ぐ星屑の光。そして、ランプの光さえない漆黒の闇の世界。かと言えば、雲一つない澄み切った青空。羊や馬の大きな優しい瞳。身を切るような冷たい氷雨。五感をフル回転しても追いつけない自然の叫びと、食べ尽くせない大地の恵み。

浜田真理子

公開日時: 2005年4月9日

◎少女の感性と深遠なる宇宙観を持つ歌手

すっかり、はまってしまいました。浜田真理子。人はジャズシンガーというが、そんな一つのジャンルでは捉えきれない。深遠なる宇宙観を持つ類稀なる才能に溢れた歌手ーと言っても言い過ぎではないかもしれない。

きっかけは、深夜に放送されたドキュメンタリー番組でした。正直に言うと、彼女の名前すら知らなかった。だから、何の偏見も予備知識もなく、頭を空っぽの状態で見たから良かったのかもしれない。グイグイと引き込まれてしまいました。

彼女に一番共感したのは、その日常生活でした。普段は島根県の松江市に住み、OL生活を送っているシングルマザーです。東京の大手レコード会社が契約しようとしても断り続け、自分のペースを守っている。だから彼女のコンサートも年に6回程度だという。地方で仕事を持ちながら静かな生活を送ることによって初めて彼女の体の中から自分の音楽が生まれてくる、そういった感じなのです。東京発信の文化に慣れた私にとっては新鮮な驚きでした。

彼女は島根大学を卒業。学校の先生になるつもりだったのに、方向転換してしまいました。セミプロとして、松江市内のクラブなどでピアノの弾き語りを続け、地元島根のレーベルから1998年にアルバム「mariko」でデビューしました。これが宣伝もしない(できない?)のに、口コミであっという間に全国に広がっていきました。

デビューアルバムからすべてオリジナルで、英語の歌詞「AMERICA」なども作曲していますが、ネイティブが歌っているのではないかと間違うほど英語の発音がいいのです。余程彼女の耳がいいのでしょう。一転して2枚目のアルバム「あなたへ」は日本語の歌詞。特に5曲目の「月の記憶」がいい。少女のような彼女の感性にドキリとしてしまいます。

とにかく、彼女にはまってしまいました。最近では女優の宮沢りえさんもすっかりはまっているそうです。相変わらず彼女のコンサートも超満員。今が旬の歌手であることは間違いないでしょう。

平原綾香との浅からぬ縁

公開日時: 2005年4月1日

◎平原綾香とは浅からぬ縁あり!

本当に腰が抜けるほど驚いてしまった。その理由は追々明かしますので、このまま読み続けてください。
一昨年12月に「Jupiter」でデビューした平原綾香の歌声は実に衝撃的でした。何回も聴いているので、初めて耳にしたのは、いつだったのか忘れてしまいましたが、「何という才能。これは本物だ!」と思わず声をあげてしまったほどです。ホルストの有名な組曲「惑星」を編曲したものなので曲はすでにスタンダードなのですが、詞がいい。「私たちは誰もひとりじゃない」という箇所にはどんなに励まされたことか。

とにかくすっかり心酔してしまい、それから、まだ20歳という若い歌手の才能と歌唱力に注目してきたのです。そんなある日、彼女はFM放送の番組にゲスト出演していました。13歳からアルトサックスを吹いていたこと、お父さんもお祖父さんもサックス奏者だったことを話していました。

その時です。腰の辺りにビリビリと電流が走ったのは。「もしかして」。慌てて彼女のホームページを検索すると、「父はサックス奏者の平原まこと」と書いてあったのです。
「なんだ、平原さんの娘さんだったのか」と納得したわけです。平原さんはスタジオミュージシャンとして活躍する知る人ぞ知る存在。昨年プロ生活30年を迎えた彼とは、7年ほど前に彼が初のアルバム「月の癒し」出した時にインタビューし、すっかり意気投合し、毎年、年賀状をやり取りする仲だったのです。

昨年、彼からもらった年賀状を改めて読み返すと「綾香です。昨年Jupiterでデビューしました」と書いてあるではありませんか。すっかり忘れていました。「灯台下暗し」とはこのことかと思った次第です。(了)

ロバート・ジョンソン

公開日時: 2005年3月31日 

◎カレーにブルースはよく似合う
=ロバート・ジョンソンは渋い大人の味だ!=

帯広市東1条南5丁目にある「東印度会社」という名前のカレー屋さんは、恐らく帯広一、いや北海道で一番美味しいと思う。
ここのマスターの村井さんが、大の音楽好き。大正時代に作られた古い土蔵を改装したこの店では、色んなジャンルの音楽をかけているが、私が食事に行く夜の時間帯は決まってブルースが掛けられている。マスターの一番のお気に入りだ。ここでライトニング・ホプキンスやバディ・ガイといった数々のブルースマンの名盤を教えてもらい、聴かせてもらっている。

でも、ロバート・ジョンソンはあまりにも有名すぎて解説もいらないかもしれない。私も以前からその存在は耳にしていた。ローリング・ストーンズやエリック・クラプトンらが大変影響を受けていて、クリーム時代のクラプトンが取り上げた「クロスロード」やストーンズの名盤「レット・イット・ブリード」に収められた「ラブ・イン・ヴェイン」は彼の作品だということは知っていた。しかし、実は、オリジナルを聴くのは今回が初めてだった。

CD「コンプリート ロバート・ジョンソン」にはジョンソンが残した全29曲が収録されている。わずか?そう、彼は全盛期の27歳の時、毒殺されたのだ。女にだらしのなかったジョンソンは、旅の先々でちょっかいを出し、関係を持った女性の夫にミシシッピの酒場で毒入りのバーボンを飲まされたという。1938年のことだった。それでも、音楽面で後世に与えた影響は甚大だ。

何しろストーンズのキースが若い頃、ジョンソンの曲を初めて聴いた時、彼以外にもう一人がギターを弾いていると思っていたというし、クラプトンは全てジョンソンの曲をカバーしたアルバムを最近発表するぐらい心酔している。その超人的なギターテクニックも「悪魔に魂を売って身に着けた」という伝説の持ち主。初めは随分シンプルに聴こえるが、そのうちに、ジョンソンの魂の叫びが耳に付いて離れなくなる。カレーのように辛酸をなめた大人の味。そう、意外にもカレーにブルースはお似合いだ。(了)

エディット・ピアフを知っていますか?

公開日時: 2005年3月30日

今の若い人は「愛の讃歌」も「バラ色の人生」も知らないどころか、エディット・ピアフの名前すら知らない人が多いという。ピアフは1963年、今から42年も前に47歳の若さで生涯を閉じている。もう歴史上の存在といっていいのかもしれない。

そういう私も、若い頃はピアフはあまり好きではなかった。と言うより、あまり関心がなかった。正直、理解できなかった。それもそのはず。世間知らずのお坊ちゃんには彼女の苦悩が理解できるわけがない。世間にもまれて己の成熟を待つしかない。

ピアフは1915年、大道芸人の娘として生まれ、育児を放棄した両親に代わって、祖母に育てられ、3歳で失明し、6歳で視力を取り戻し、7歳で街頭で歌を歌い始め、17歳で娘を出産し、その娘も2歳半で脳膜炎で亡くし…、キリがないの端折るが、32歳でボクサーと激しい恋に落ち、彼はミドル級の世界チャンピオンになるが、その栄光の絶頂で飛行機事故で死亡…。人はこれらを不幸と呼ぶが、ピアフに限って、その不幸の数は枚挙に暇が無い。歌手として大成功した幸運の代償にしてはあまりにも大きすぎる。

シモーヌ・ベルトー著『愛の讃歌ーエディット・ピアフの生涯』によると、彼女は1951年から1963年にかけて、自動車事故4回、自殺未遂1回、麻薬中毒療法4回、睡眠療法1回、肝臓病の昏睡3回、狂気の発作1回、アル中の発作2回、手術7回、気管支肺炎2回、肺水腫1回を経験したという。何ですか、この有様は!

神様は、その人が耐え切れないほどの苦悩や不幸は与えないと言われるが、彼女ならずとも「これは、あんまりではありませんか」と、天を怨みたくなってしまう。

ピアフの生涯を思えば…。どんな辛いことがあっても乗り切れそうな気持ちになれる。

カエターノ・ヴェローゾ

公開日時: 2005年3月28日

◎日曜日はサウダージな世界に浸ろう
=カエターノ・ヴェローゾを知らなかった私=

北海道帯広市にある地元紙「十勝毎日新聞」の栗田記者から「日曜日の昼下がりに聴くのでしたら、ピッタリですよ」と言って薦められたのがカエターノ・ヴェローゾの「ドミンゴ」というCDでした。どこか1960年代のフラワームーブメントの世代を思わせるカバージャケット。それもそのはず、このCDは1967年に発表されていたのでした。
栗田記者はまだ20代後半だというのに、やたらとジャズやワールドミュージックに詳しい。何しろ私と音楽談義をしても一歩も引けをとらないからだ(笑)。
「渓流斎先生、カエターノ・ヴェローゾも知らないなんてもぐりですよ」。ありゃあ、一本取られた。ということで、インターネット通して密かに買い求めてしまいました。
調べてみると、カエターノはMPB(ブラジル・ポピュラー音楽)の第一人者で、トロピカリズモの創始者。まあ、簡単に言えば、同郷のバイア州出身のジョアン・ジルベルトに憧れて音楽を始め、ボサノヴァにロックを取り入れた革命児らしい。今年、63歳になるからあのポール・マッカートニーと同い年。音楽活動暦も40年にも及ぶ。
正直、知らなかったですね、彼のこと。日本のマスコミも欧米偏重だったからブラジル音楽といえば、「セルジオ・メンデスとブラジル66」ぐらいだったのです。
このCD。私もやはり文句なしにお奨めです。ジャケットの中央のカエターノの右隣が当時22歳のガル・コスタ。彼女のヴォーカルがまたいい。カエターノのメランコリックでサウダージ(哀愁)な世界によく似合う。カエターノの抑制の効いた囁くような声もしびれる。驚くことに、この時、まだ25歳の若さだ。
このCDの1曲目の「コラサォン・ヴァガブンド」がカエターノの芸歴で最も重要な曲の1つらしいが、私のように最初は何の偏見も持たず、聞き流したらどうでしょうか。好きな1曲が必ず見つかるはずです。それにしても栗田記者は何で「日曜の昼下がり」なんて言ったのだろう。そうかあ、タイトル曲の「ドミンゴ」が「日曜日」という意味だったのですね。

夏川りみ讃

公開日時: 2005年3月23日 

確かにブログを毎日書き続けることは大変ですね。
本日は再び、過去に書いた音楽エッセイで誤魔化します。

◎南国の潮の香りにあこがれて
=北国には夏川りみの歌声が似合う=

私は目下、北海道に住んでいます。4月に入っても本当に寒いですよ、こちらは。人間、特に私のような天邪鬼は正反対なものに憧れるようで、雪深い中、毎日毎日、南国の椰子の木陰と潮の香りを渇望しているわけです。そんな時、ラジオから流れる夏川りみちゃんの澄んだ歌声とゆったりとした三線(さんしん)の音色が、故郷でもないのに、一度だけ行ったことがある沖縄への「望郷の念」を掻き立てるのです。

迷わず、徒歩10分のCDショップに駆け込みました。目指すは彼女の最新アルバム「沖縄の風」。やはり期待を裏切りませんでした。これまで何度もCD化されている「涙そうそう」(ついに100万枚突破!)と「童神」も収められているので初めて買う人にはお得かもしれません。この2曲は何度聴いても飽きないし、本当に名曲ですね。世界に誇ってもいいくらいです。

石垣島出身の夏川りみは、子供の時に「のど自慢大会」で優勝するなど「天才歌手」として誉れ高かったのですが、何と一度「星美里」の芸名でデビューして全く売れず、一旦、歌手を廃業していたんですね。

「涙そうそう」は、同じ石垣島出身のビギンが、森山良子のために作った曲で、森山は22歳の時に死別した兄のことを詞にしたそうです。この曲をりみちゃんがビギンから「もらった」というエピソードは彼女のファンの人なら誰でも知っているでしょうが、私は正直知らなかったなあ。何しろ「なみだそうそう」と読んでいたくらいですから。本当は「なだそうそう」。沖縄の方言で「涙ぽろぽろ」という意味だそうです。あ、これも彼女のファンにとっては常識でしたね。

チェット・ベイカー

公開日時: 2005年3月21日

渓流斎がブログを始めた理由の1つに、これまで8年間、ある雑誌に連載していた音楽エッセーが終了したことが原因にあります。おかげで世間様に署名で発表する機会が1つ減ってしまったわけです。「それなら、自分で手間暇掛けずに発信してしまおう」というのがこのブログに挑戦したきっかけになったのです。これから、数日間に渡って、これまで連載してきたその音楽エッセーの一部をご紹介致します。

◎ジャズの歴史的名盤をついに発掘!
=チェット・ベイカーにみる人生の悦びと辛さ=

チェット・ベイカーと聞いて「おー」と声を上げた人はかなりの音楽通かジャズファンですね。チェット・ベイカーには「シングス」という歴史に残る名盤中の名盤があります。と、書きながら、小生は知らなかったのですね。恥ずかしながら。帯広の地元FM局の一つである「FM-WING」でこのアーティストを教えてもらいました。これでもジャズについてはかなり通になったつもりでした。十年程にビル・エバンスを聴いてすっかりはまって、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーンを中心にCDも百枚以上買ったと思う。六本木の「ピット・イン」や南青山の「ブルーノート」にも足繁く通ったものです。CDは持っていなくても大抵のジャズマンの名前と曲ぐらいは知っているつもりでした。
しかし、正直、彼のことは知らなかですね。最初、聴いた時、女性の黒人ヴォーカリストだと思ったくらいですから。早速、自宅から歩いて10分のCDショップ「玉光堂」に行ってきました。まさか、売っているとは思はなかったのに何と彼のCDが20枚くらいもあるのです。おかげで何を買ったらいいのか分からず、結局「えい、やあ」と選んで買ったのがこのCD「シングス」でした。
「歴史的名盤」というのも別に私が決めたわけではありません。このCDを知らないジャズファンは「もぐり」なんだそうです。そんな「もぐり」が講釈するとは片腹痛いのですが、まあ、聞いてくんなせい。
ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンとミュージシャンの中には、不幸な最期を遂げる人が多いが、彼もご多分に漏れず、かなり波乱万丈の生涯を送ったようです。1929年に米国のオクラホマ州に生まれ、トランペッターとしてデビューし、20代で早くもウエストコースト・ジャズの旗手としてマイルスを凌ぐ人気者に。しかし、このCDは、トランペット奏者としてではなく、彼のヴォーカルにスポットを当てたもので、54年と56年に録音されている。まさにジャズの黄金時代。ヘレン・メリルの名盤「ウイズ・クロフォード・ブラウン」がリリースされたのもこの頃なんですね。
「シングス」のジャケット写真を見ると、髪型といい、白いTシャツにジーンズ姿といい、同世代のジェームス・ディーンにそっくりだ。その端正な顔つきも、麻薬中毒のおかげで、40代にして早くも老醜を晒し、58歳にしてホテルから転落するという、自殺か事故かわからない非業な死を遂げるのです。
もっと色々書きたいのだが、残念、紙数が尽きた。とにかく、一度聴いて彼の魅力に浸ってほしい。彼の囁くような中性的な歌声には、大人であることの苦しみ、辛さ、悦びがすべて詰まっているような気がする。
おっと、忘れるところだった。彼から最も影響を受けたのが、あのボサノヴァの創始者、ジョアン・ジルベルトだったんですって!道理で…。