731部隊の切れ者二木秀雄という男=加藤哲郎著「『飽食した悪魔』の戦後」

 コロナ禍で、ただでさえ気分が落ち込んでいるというのに、さらに輪を掛けて気分が落ち込む?本を読んでいます。とはいえ、推理小説を読むような感じで、結果が分かっていても、「次はどうなってしまうのか」とページが進みます。

 私淑する加藤哲郎一橋大学名誉教授が書かれた「『飽食した悪魔』の戦後 七三一部隊と二木秀雄『政界ジープ』」(花伝社)という本です。2017年5月25日に初版が出たので、もう4年前の本です。

 3850円というちょっと高価な本でしたし、内容に関しては既に加藤先生の講演会やセミナーなどで聴いていたので、「いつか買おう」と思っていたら、今になってしまいました(スミマセン)。私が購入した本は、2018年3月20日発行の第2刷で、少しは売れているというということなので大変嬉しくなりました。図書館で借りるにせよ、どんな形でも良いですから、多くの人に読んでもらいたいと思ったからです。

 実は、この本の258ページに、何と私の名前が出てきます!(笑)。私が「ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集」35号(2012年12月)に寄稿した「70年間誰も知らなかった謎の人物ー石島栄」という論文を引用してくださったのです。加藤先生の御自宅は「汗牛充棟」の比喩がピッタリで、市販本からこのような研究会の論文集までありとあらゆる文献を所有されて目を通しておられます。まさに博覧強記です。

銀座「山笑ふ」ランチA 1650円

 今ではよく知られるようになりましたが、731部隊とは、旧満洲(現中国東北部)ハルビン郊外に設置された関東軍防疫給水部本部が正式名称で、最高責任者の部隊長が、京都帝大医学部出身の石井四郎陸軍軍医中将だったことから石井(細菌)部隊などとも言われます。中国人の捕虜らを「マルタ」と呼んでおぞましい人体実験や生体解剖を行っていたと言われますが、資料や実験データを米軍に引き渡す条件で免責されて戦犯にもなりませんでした。しかも、戦後も731の残存部隊は鉄の結束で秘密を守り通したため、真相はヴェールに包まれていました。

 しかし、著名な推理作家森村誠一が1981年に出版した「悪魔の飽食 『関東軍細菌戦部隊』恐怖の全貌! 長編ドキュメント」(光文社)がベストセラーになり、多くの研究者、ジャーナリスト(常石敬一、近藤昭二、青木冨貴子各氏ら)によって関連本が(先行して)出版されるようになり、賛否両論も含め多くの人に認知されるようになりました。

 加藤氏の本は、これら先行研究書の成果を踏まえた上で、新たに、二木秀雄という731部隊第1部第11課(結核班長)の技師(高等文官の最高位で、武官の将校に相当)だった人物を主人公(とはいってもダーティーヒーローですが)にしています。

 この人は複雑怪奇な人で、金沢医科大学(現金沢大学医学部)で博士号を取得して731部隊に所属したエリート高官でした。この人、部隊では、結核菌だけでなく、捕虜に強制的に性行為をさせて梅毒に感染させる(抵抗した男女は射殺)など、この本ではちょっと読むに堪えない場面が出てきます。戦後は、郷里の金沢に戻り、優先的に早々と帰国して生き残り、後に大学教授や研究所所長や開業医などになった731の残存部隊の仮本部設立を任され、東京に出てからは右派大衆時局雑誌「政界ジープ」を発行したりします。(どういうわけか、この雑誌の第2号に「尾崎ゾルゲ赤色スパイ事件の真相」なる記事が掲載されます)1950年には、輸血用の血を確保する日本ブラッドバンク設立発起人となり重役に就任。当時の朝鮮戦争での需要で急成長し、1964年には商号をミドリ十字に変更しますが、同社は薬害エイズ事件で業績が悪化し、今の田辺三菱製薬に吸収合併されたことは皆さんも御存知の通りです。

江戸城 桜田門 (本文とは関係ありません)

 確かに凄惨な場面は、読むと気分が落ち込みますが、皆さんも勇気を出して目を塞がず、読んでほしいと思います。編注が巻末にではなく、同じページに出てくるので大変読みやすい本です。

 731部隊は、終わった過去の出来事で現代人には何ら関係ないという考え方は間違っています。コロナ禍で、ウイルスや感染症については、今は一番関心がもたれていることではありませんか。皮肉にも彼らは、最先端の病毒や感染症を人体実験した部隊だったのですから…。例えば、76ページにはこんな記述が引用されています。

 七三一部隊へは当時大正製薬より莫大な寄附金が投じられており、その見返りとして、サルバルサン六〇六号という梅毒治療薬の製造権が同製薬に与えられた。同製薬は戦後もサルバルサンを製造し続け、主要医薬品メーカーへと成長した。(山口研一郎「医学の歴史的犯罪」)

 大正製薬といえば、リポビタンDとかパブロンの風邪薬を出している会社でクリーンなイメージがありましたから、731部隊に関わっていた過去があったとは全く知りませんでした。

天皇陛下、いまだ接種せず

 銀座「ル・ヴァン・エ・ラ・ヴィアンド」 (LE VIN ET LA VIANDE)ランチ1250円(ドリンク、珈琲付)

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 本日は、「これぞ」といった書く題材が見つかりません。

 こういう日に限って、大体、独断的な説教臭い話になってしまうんですよね(笑)。どうか、御勘弁をー。

江戸城 蛤壕 Copyright par Keiryusai

 例えば、新型コロナウイルスの変異株について、世界保健機関(WHO)は「もう特定の発生国の名前を冠して呼ぶのはやめます。『英国株』はアルファ株、『南アフリカ株』はベータ株、ブラジル株は『ガンマ株』、インド株は『デルタ株』と、ギリシャ文字を当てます」と主張し出しました。「偏見と誤解を生む」というのが理由で、日本政府もこれに追随するらしいのですが、「何か、なあ…」といった感じです。

 そもそも、WHOは何か、最初から胡散臭い感じです。エジプト出身のテドロス事務局長は、発生源とされている中国(武漢)を大した批判もせず、「世界一効果的な感染対策を実行して成功した国」とべた褒めで、「WHOに対する分担金が多い中国に遠慮したのではないか」との疑惑があったではありませんか。定かではありませんが、当時は、テドロス氏個人の疑惑さえ浮上していました。

 100年前にスペイン風邪(1918~20年)が世界的に大流行しましたが、本来は、第1次世界大戦に参戦した米国の兵士から欧州に広まったのが最初でした。となると、「アメリカ風邪」というのが正しいはずです。たまたま、他の欧米諸国が感染をひた隠しにしていたのに対し、中立国だったスペインが感染を最初に報告してしまったので、スペインの名前が病名に付けられてしまったのは、もう既に周知の事実です。

 新型コロナウイルスの発生源について、米国だけでなく、英情報機関(007のMI6か?)までもが中国・武漢のウイルス研究所から流出した可能性があると考えていると伝えています(5月30日付英サンデー・タイムズ紙)。もし、これが事実だとしたら、WHOは最初のウイルス株を何と命名するんでしょうか?まさか、トランプ前米大統領のように、「中国株」と呼ぶわけがなく、「オリジン株」とでも命名するのかしら?

江戸城 富士見櫓 copyright par Keiryusai

 それにしても変異株は恐ろしい。これまで、水際対策で封じ込めて、「優等生」と世界的に大絶賛された台湾やベトナムまでもが今では感染拡大しているようです。

 となると、もうあと1カ月半ぐらいで開幕が迫った東京オリンピック開催は、どう考えても無理です。たとえ無観客で開催しようと目論んでも、世界各国から集まる選手、役員、関係者だけでも9万人いるとされており、いくら検査を徹底しても、変異株の温床場、もしくは培養場と化してしまうんじゃないでしょうか。(いまだに、感染経路が判明していない!)それでも、IOCと日本の為政者たちは強行するつもりなんでしょうか? それに、IOCも為政者たちも、五輪開催後の感染拡大については絶対責任を取るつもりはないんじゃないでしょうか。

 ここ1カ月以上、毎日、ワクチン、ワクチンのニュースをうんざりするほど読み聞かされます。当然ながら、日本の象徴、天皇皇后両陛下は既にワクチンを接種されていたのかと思いましたら、今朝の読売新聞朝刊によると、上皇さま、上皇后さまら御高齢の皇室6人は接種されましたが、65歳未満の天皇皇后両陛下ら皇室の方々については、国民と同じ接種順位で進め、国民に一定程度行き渡った段階で接種する方針(宮内庁)だというのです。

 へー、天皇陛下でさえ「特別扱いしない」ということなんでしょうね。吃驚。戦前でしたら、全く考えられません。何処かの市長さんは、自分のお抱え運転手さんまで接種させたケースがあったといいますから、このニュースを聞いてどう思うのでしょうか?

 嗚呼、やっぱり、説教臭い話になってしまいました(笑)。

笑いには世代間ギャップがある

江戸城 巽櫓

  アンリ・ベルクソンの「笑い」を例証するまでもなく、古今東西、笑いは哲学的考察の主題として俎上に載せられてきました。

 人を怒らすのは簡単だが、人を笑わすことは難しい。

 と、誰が言ったか知りませんが、この昔から言われてきたことは真実でしょう。それだけ、喜劇役者や落語家、お笑い芸人は大変なお仕事だということです。下手をすれば、差別問題や人権問題にもなりかねないですからね。

 それはともかく、最近では、笑いには、古典落語は除いて、世代間ギャップがあるのではないか、と痛感しています。

 昨晩、どういうわけか、このブログのSNSサイトで、ひょんなことで、「シャボン玉ホリデー」の話題で盛り上がりました。私がこのブログの写真に名前の知らない花をアップすると、いつもYさんが、わざわざその花の名前をお知らせしてくれるので、「いつも、いつも、済まねえなあ…」とハナ肇の名セリフを真似したところ、どうも、Yさんは「シャボン玉ホリデー」を知らない世代で、通じなかったのです。

 「シャボン玉ホリデー」は主に1961~72年に日本テレビで放送されていた音楽バラエティ番組で、レギュラーは双子姉妹のザ・ピーナッツとクレージーキャッツです。渡辺プロダクション制作でしたから、ナベプロ系のタレントが多く出演していました。

 先ほどの「いつも、済まねえなあ」のコントは、正式?には「おかゆコント」というらしく、障子が破れた貧乏長屋の一室で、せんべい布団に病気で臥せった白髪の親父(ハナ肇)のところに、娘役のザ・ピーナッツが「おとっつあん、おかゆが出来たわよ」と運んできます。

 咳をしながら起き上がって、中気で手をブルブル震わせながらハナ肇が「いつも、いつも、済まねえなあ…」と呟くと、娘たちは「おとっつあん、それは言わない約束でしょ」と応えるのです。(この場面で、小生の父親はいつも涙を流して見ていました)

 ここまでが歌舞伎の様式美のようなワンパターンで、毎回同じ寂しいメロディーが流れて、この後に、いろんな変奏パターンが出てきます。グレて勘当させられた息子がカネをせびりに来たり、おまわりさん役の植木等が何の関係もないのに出てきて、座を乱したりして、「お呼びでない、これまた失礼しました!」というと、出演者全員が「ハラホロヒレハレ」といって踊りだして終わる、というこれまた御馴染みのパターンで終わります。

 こうして文章で説明してしまうと、可笑しさが伝わらず残念ですが、毎回、大笑いしたものです。まあ、私の世代はクレージーキャッツとドリフターズで育った世代でしょうね。

江戸城 蛤壕

 1980年代の漫才ブームのツービートやB&Bや紳助竜介あたりがギリギリで、私だけかもしれませんが、今や大ベテランの大御所になっているダウンタウン辺りになると、残念ながら、その笑い(の質)に全くついていけなくなりました。笑いたくなるより、怒りたくなるのです。

 やはり、笑いには世代間ギャップが大いにあるんじゃないでしょうか?

 私の親や祖父母の世代は、エンタツ・アチャコやあきれたぼういずなどに夢中になっていたことでしょう。世の中良くなったもので、今では彼らを動画で見ることができます。確かに今見ても面白いのですが、「歴史的文化遺産」と構えてしまうので、自然な笑いまでは出てきません(笑)。

 文章というものは、一度書いてしまうと、あとは読者に委ねられ、書いた本人が全く予期していなかったことまで斟酌してくれる方もおられます。本日の記事も、色んな御意見が出てくるのではないかと愚察しております(笑)。

「ナイルレストラン」とパール判事

東銀座「ナイルレストラン」 真ん中中央に創業者アヤッパン・M・ナイルの写真が

 ランチは、東銀座の有名なカレー店「ナイルレストラン」に行って来ました。この店は、何度も行ったことがあります。初めて行ったのは、25年ぐらい昔、今や歌舞伎評論の大家になられた毎日新聞の小玉先生に連れて行ってもらった時、と記憶しています。この店は、歌舞伎座の近くにあります。

 本日出かけたのは、例の阿古真理著「日本外食全史」(亜紀書房)の中で、この店の創業者のアヤッパン・M・ナイル(実際は日本人妻の由久子さんが1949年に料理人として開業)が、極東国際軍事裁判(東京裁判)で被告人全員の無罪を主張したインドのパール判事の通訳を務めた人だったことを知ったからでした。

 このことに関しては、印度料理専門店「ナイルレストラン」の公式ホームページにも書かれていました。アヤッパンは、インド南部ケララ州出身のインド独立運動家(戦前、インドは大英帝国の植民地だった)で、京都帝大にも入学したインテリでした。戦後は在日インド人会会長を務めるなど日本とインドの親善に貢献した人でもありました。

 一方、東京裁判でパール判事がA級戦犯の被告人を無罪としたのは、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は戦勝国によって後から作られた「事後法」であり、事後法をもって裁くことは近代の国際法に反するといった理由でした。

  しかしながら、結局、東京裁判(1946年5月3日~48年11月12日)では25人が有罪判決となり、このうち東條英機(64)ら7人が死刑となりました。日本は、この東京裁判の判決を受け入れることによって、やっと占領(1945年9月2日~1952年4月28日の6年7カ月間)から独立することができたので、今さら何をかいわんや、ですが、パール判事の主張は尤もなことだと私も同調します。彼の裁判官としての信念だったことでしょうが、当時としては大変勇気がいることだったと思います。

1949年創業以来味が変わらないという「ムルギーランチ」1500円

 さて、ランチはナイルの名物「ムルギーランチ」を食しました。本当に久しぶりでしたが、「本場の味」は相変わらずでした。スパイスが他店とは違うんでしょうね。

 店は、以前と比べて随分従業員の方が増えたような感じがしました。インドの人と思われる人が多かったでしたが。

 テレビによく出演してすっかり有名人になった二代目のG・M・ナイルさんは、奥にいるのか、お見かけしませんでしたが、三代目の善巳ナイルさんらしき人はいらっしゃったようでした。マスクをしていたので、よく分かりませんでしたが(笑)。

 勿論、お店の若いインド人従業員さんに「ナイルの創業者はパール判事の通訳をしていたんですよね?」と尋ねるわけにはいきません。多分、パール判事のことを知らないかもしれません。まあ、江戸っ子の言葉で言えば、聞くのは「野暮」ってなところでしょうか(笑)。

和食、洋食、中華、何でもござれ=「日本外食全史」(亜紀書房)

 ここ数週間、ずっと阿古真理著「日本外食全史」(亜紀書房、2021年3月22日初版)を読んでいました。3080円と、私にとってはちょっと高めの本でしたが、ちょうど銀座の資生堂パーラーや煉瓦亭など「銀座ランチ」を食べ歩いていたので、参考になるかと思い、思い切って購入したわけです。

 まあ、色んなことが書かれています。「買った者の特権」と誤解されたくはないのですが、ちょっと「ごった煮」状態で、引用が多いカタログ雑誌のような感じでした。見たことも聞いたこともないテレビドラマや漫画やアニメ、映画で使われた「グルメ」を書かれても、あまり漫画やドラマは見ない者にとってはピンと来ませんでしたし、「えっ?」と思うぐらいネット記事からの引用も多く、「今の時代の本って、ブログみたいになってしまったなあ」というのが正直な感想です。勿論、この書物の価値を貶めるつもりは毛頭ありませんし、こんな個人の感想を遥かに越えた労作です。

 戦後の外食ブームは、1970年の大阪万博がきっかけらしいのですが、とにかくよく調べています。和食、中華、洋食、何でもござれ、といった感じです。何しろ、本文、索引を入れて659ページという長尺ですから、ほんの一部、印象に残ったものだけご紹介致します。

 タチアオイ Copyright par Keiryusai

 その一つが「伝説の総料理長サリー・ワイル」です。スイス人のワイルは1927年、関東大震災復興のシンボルとして開業した横浜のホテルニューグランドの外国人シェフとして招聘された調理師でした。20世紀初頭にフランス料理を確立したエスコフィエの正統料理のほか、ドイツの地方料理も得意としたといいます。日本料理界の伝統だった、後輩に教えない悪弊を廃止し、料理人の服装や態度、飲酒、喫煙まで細かく指導して近代的システムを導入したといいます。(この本では、後に帝国ホテル第11代料理長になる村上信夫が、若き修行の皿洗い時代、鍋底に残ったスープやタレの味を隠れて覚えようとすると、先輩から、塩を掛けられたり、洗剤に浸けられてしまう逸話などが出てきます)

 ワイルは多くの弟子を育て、ナポリタンやプリン・アラモードなどを考案したホテルニューグランド二代目料理長入江茂忠、ホテルオークラの総料理長を務めた小野正吉、帝国ホテルの第四代料理長内海藤太郎、アラスカの飯田進三郎、レストランエスコフィエのオーナーシェフ平田醇、レストランピアジェの水口多喜男、東京プリンスホテルの木沢武男、札幌パークホテルの本堂正己、そして1964年東京五輪選手村の総料理長を務めた馬場久らがいます。

 先程の、若い頃に相当苦労して修行を積んだ帝国ホテル料理長の村上信夫は、NHKの「きょうの料理」で有名になった人で、私でもお名前だけは知っていました。1921年生まれの戦争世代ですから、先輩から「お前はどうせ戦争で死ぬんだから秘密は漏れない」と、やっと料理のコツを教えてもらったそうです。1942年に召集されて中国戦線へ。戦後、シベリアに抑留され、帰国できたのが1947年ということですから、恐らく満洲だったのでしょう。前線で4回も負傷し、体に残った銃弾と地雷の破片を取り出したのは1988年のことだったとは驚きでした。

◇巨人・辻静雄

 もう一人、この本で章立てて紹介されているのが、辻調理師専門学校を創立した辻静雄です。著者は「日本の特にフランス料理現代史を考える上で彼の存在は大きい」巨人と紹介しています。もともと大阪読売新聞の記者でしたが、結婚した辻勝子の父辻徳光が経営していた人気料理学校の後継ぎとして見込まれ、新聞社を退職します。早稲田大学で仏文学を専攻したので、仏語文献の翻訳を手掛け、フランスに料理修行にも行った関係でポール・ボキューズらと知り合い、1950年代末のヌーベル・キュイジーヌの勃興に立ち合うことになります。逸話に事欠かない人でしたが、1993年に60歳の若さで亡くなっています。

 でも、特に平成以降になると「辻調理師専門学校卒」の有名料理人が続出します。ミシュラン三ツ星を取った大阪HAJIMEのオーナーシェフ米田肇、「里山料理」で世界的評価も高いNARISAWAの成澤由浩、大阪の名店で「きょうの料理」でおなじみのポンテ・ベッキオの山根大助、志摩観光ホテル総料理長の樋口宏江らです。

 あ、料理そのものの話から外れて、人物論の話になってしまいましたね(笑)。勿論、北大路魯山人も登場しますが、彼はあまりにも有名なので省略します。

Copyright par Keiryusai

 私自身は、この本に出てくる高級料理よりも、ラーメン、カレー、餃子といった大衆料理の歴史の方が興味があり、面白かったです。例えば、東京・蒲田の有名な羽根つきギョウザを作り出した(1983年)のは「你好(ニーハオ)」の八木功(1934~)で、この方は旧満州旅順生まれの日本人で、苦労して引き揚げてきた中国残留者だったんですね。この人の波乱万丈の生涯は一冊の本になりそうです。(失礼!実際に本が出版されていました)

 もうキリがないので、この辺でやめておきますが、166ページの「佐多啓二」(佐田啓二のこと?)と212ページの「JR埼京線の赤羽」(間違いではないのですが、赤羽は他に高崎線や宇都宮線なども通り、一つだけ線路を書くとしたら「JR京浜東北線の赤羽」というのが関東育ちにはしっくりいく)はちょっと気になりました。あと、中華料理の歴史で、長崎、神戸、横浜の中華街の話は出てきますが、周恩来ら中国からの留学生目当てに中華料理店街になった神田神保町のことももう少し詳しく触れてほしかった。もう一つ、ファミレスの「すかいらーく」の名前は、1962年に横川兄弟が東京・保谷町のひばりが丘団地前に開いた乾物屋「ことぶき食品」が原点なので、その場所のひばり(スカイラーク)から取ったものだと聞いたことがあります。それも触れてほしかった。私が不良の中学生だった頃、よく、ひばりが丘をフラフラしていたので、個人的な理由です(笑)。

 何か、自分が「あら捜し」の小舅になったような気がしましたが、この本が「永久保存版」になってほしいので、敢えて書きました。よくぞ茲まで書いてくださいました。

(一部敬称略)

ワクチンで85人が死亡?=何を信じていいのやら…

Mt Fuji Copyright par Duc de Matsuoqua

 不可解なる孝之進の変節の背後に毬ありき。友情より毬を取りし孝之進の行為は人倫に悖り両者諸共別次に堕ちなんと覚ゆ。今生どころか来世でもゆめ相まみえまじ。

Copyright par keiryusai

 相変わらず、毎日、ワクチン報道のオンパレードです。東京と大阪で大規模接種会場が特設されて、テレビや新聞は「やっと打てて、これで一安心です」といった声ばかり拾ってます。まるで、「バスに乗り遅れるな!」といった感じで煽っています。でも、本当に安心なのでしょうかー?

 というのも、「医療従事者」ということで私の娘が一昨日ワクチン接種したところ、発熱し、自宅の階段も昇れないほどフラフラで、昨日は仕事を休んだという話を聞いたからです。

 そこで、本日発売の「週刊現代」の「日本人ワクチン死85人『自分は打たない』と決めた医師たちの意見」という記事を読んでみました。いきなり、鹿児島県のひらやまのクリニックの森田洋之院長が「私はワクチンを打たない」と宣言しています。

  厚生労働省は26日に開いた専門家部会で、3月の接種開始から5月21日までの約3カ月間で、ファイザーのワクチンの接種を受けた601万6200人余のうち25歳から102歳の男女85人の死亡を確認したことが報告されたというのです。ただし、政府は、ワクチンと死亡との因果関係が認めていません。

 週刊現代では、69歳の妻を亡くした夫が「基礎疾患もなくあんな元気だったのに…。死因はワクチン以外考えられない」と悲痛なコメントを寄せています。

躑躅 Copyright par keiryusai

 同誌によると、インフルエンザワクチンによる一般人の死亡例は100万回に0.08人ですが、新型コロナワクチンの場合は、100万回に9.9人(5月21日時点)もいるというのです。

 「接種後に亡くなった人を解剖していない。だから、因果関係が分からない」と言う医師もいるので、上に挙げた数字の信憑性まで分かりません。が、普通、ワクチン開発には10年、20年単位の治験が必要だという話を聞いたことがあります。今回のコロナはわずか1年です。やはり「大丈夫なのかなあ」という疑念は払しょくできません。

 かなりの接種が進んでいる米国や欧州での死亡例がほとんど報道されていないことも疑念に拍車が掛かります。米国では「ワクチン接種した人に100万ドル(1億1000万円)が当たるクジをプレゼント」などという州(オハイオ州など)もありましたが、何か、怪しいなあ~。

坂下門と桜田門めぐり=江戸城址散策はひとまずこれまで

江戸城 坂下門

 ここ数日、何か、すっかり江戸城づいてしまい、今回は、締めを飾る「ここだけは見逃せない」という所に絞って行って参りました。

 昼休みを利用したので、会社から歩いて行ける距離ではありますが、時間の節約のため、今回は、JRと地下鉄を利用しました。

 「ここだけは見逃せない」というのは、坂下門です。幕末史関係の雑誌を読んでいて、年表を見ていたら、「坂下門外の変」が出てきました。「あれっ?何だっけ?」と昔覚えた記憶の糸を辿っても思い出せません。しかも、京都の事件と誤解していました。何か、「禁門の変」とごっちゃになってしまっていたようです(苦笑)。

「坂下門外の変」の説明がない?

 言うまでもなく、「坂下門外の変」とは、文久2年(1862年)、公武合体論を推進し、和宮降嫁を実現させた老中安藤信正が、尊王攘夷派の水戸浪士らに襲撃された事件です。

 片や、「禁門の変」は、元治元年(1864年)、「八月十八日の政変」で京都を追われた長州藩が勢力奪還を図って入京し、薩摩・会津・桑名の藩兵に敗れた事件で、蛤御門(はまぐりごもん)の変とも言います。(この事件と池田屋事件で被害を蒙った長州藩=特に桂小五郎=の怨念が、戊辰戦争での会津に対する復讐と殲滅につながったと思われます)

 江戸城では、坂下門外の変が起きる2年前の安政7年(1860年)に、井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」が起き、こちらの方があまりにも有名で、多くの小説や映画やドラマになったりしたので、まず日本人で知らない人はいません。

 それに比べて、「坂下門外の変」を知っている人は、あまり映画にもドラマにもなっていないので、少ないですね。となると、老中安藤信正もそれほど知る人は多くない…。彼は、陸奥国磐城平藩主でした。現在の福島県いわき市です。安藤信正は、登城途中の坂下門外で浪士に襲撃されて背中に傷を負うものの一命を取り留めました。しかし、老中職を罷免されて隠居、謹慎を命じられます。それでも、戊辰戦争では、奥州越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦います。結局、敗北、降伏し、蟄居を命じられましたが、最後まで、徳川譜代大名としての意地を見せたのではないでしょうか。

江戸城 坂下門

 今の坂下門は、宮内庁の通用門になっているらしく、警備が厳重であまり近くには立ち寄れませんでした。私の風体が怪しく見えるのか、皇宮警察官と思われる人から睨まれてしまいました。

 私はただ、「嗚呼、ここで、わずか150年前に、襲撃事件があった現場だったのだなあ」という感慨に浸りたかっただけなんですけどね。

江戸城 桜田門

 勿論、坂下門の後、有名な桜田門にも足を運びました。

 桜田門には何度も行ったことがありますが、途中で、二重橋があったので、「なあんだ、坂下門と桜田門はこんな近くだったのかあ」と驚きました。歩いて10分かそこらです。

 この桜田門は、上の看板の説明にある通り、正式には「外桜田門」と言っていたそうですね。

 「桜田門外の変」で暗殺された大老井伊直弼の彦根藩上屋敷は、この桜田門からほんの目と鼻の先だったといいます。上屋敷の場所も確かめたかったのですが、時間がなくて残念。

桜田門 この近くで井伊直弼は襲撃されたのか?

 それより、マスコミ業界では常識ですが、現代では、「桜田門」といえば、警視庁の隠語となっています。

 勿論、この桜田門の近くに警視庁の庁舎があるからです。

二重橋、伏見櫓…江戸城跡めぐり

 中公ムック「歴史と人物」創刊記念プレゼントに応募したところ、上の写真の通り、「オリジナルA4クリアファイル」が当選しました。

 今年1月末締め切りだったので、すっかり忘れていました(笑)。買った雑誌を見返したら、クリアファイルは、「W賞」で当選者は300人でした。本当は「B賞」の「トートバックと中公新書5冊」狙いでしたが、それでも、「W賞」に当たったのですから、凄い。良しとしなければなりませんね。ついている!

 まあ、原価10円か20円ぐらいのファイルに見えましたが(失礼!)、会社の後輩から「メルカリで売れば、500円でも売れるんじゃないですか」と言うのです。そっかー。でも私は、メルカリなんかやってないし、あまり、好きではないので、このクリアファイルは、その後輩にあげてしまいました。彼から、テレビで放送された「大戦国史」をDVDに録画したものをもらってしまいましたから、その御礼です(笑)。

二重橋

 さて、昨日の昼休みは、またまた江戸城にまで足を延ばし、いわゆる一つの「二重橋」まで行って来ました。1時間の昼休みではそこまでが限度でした。

 何と言っても江戸城は広い!細かく史跡を全てを隅々回れば数日掛かるでしょう。

 今は皇居ですから、普段は「宮殿」にまで一般人は入れませんが、個人的には2017年18年に、元ナロードニキで今や優しい右翼の友人栗林氏と一緒に2年連続、お正月の「一般参賀」に参列し、禁断の皇居内に入ったことがあります。

 2018年は、平成最後ということで、参列した日は、最多の12万6720人が参賀したということでしたから、人、人、そのまた人で身動きが取れない状態でした。(1時間半ほど並びましたが、勿論、無料です)

 でも、昨日はコロナ禍で緊急事態宣言が発令され、平日の昼間ということもあり、皇居外苑は人が少なく、ガラガラでした。

 いやはや、目的は皇居参賀ではなく、江戸城址巡りでした。

 看板には「江戸城は長禄元年(1457年)に太田道灌が創築し。天正18年(1590年)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。…」とあっさりした書き方ですが、本当は凄い所なんですけどね(だから、特別史跡か!)。

 上の写真は、伊達政宗の仙台藩上屋敷にほど近いところにある日比谷濠の石垣です。まだ素人なので間違っているかもしれませんが、この石垣は「打込接の亀甲積」に見えます。この辺りに、今は、皇居外苑管理事務所が建っていますが、江戸時代は陸奥泉藩(福島県いわき市)の上屋敷でした。

 何で分かるかと言うと、「大江戸今昔めぐり」というアプリがあるからです。これは、現代地図と古地図を一瞬にして転換できる優れものです。このアプリは、渓流斎ブログのサイトの立ち上げやサーバーなどでお世話になっている松長哲聖氏から紹介されたもので、彼も寺社仏閣に関して協力しているようです。「七福神めぐり」や「江戸歌舞伎ゆかりの地めぐり」などもあり、結構楽しく遊べる(?)アプリです。

 この二重橋は、普段は入れませんが、「一般参賀」の時に渡ることができます。

 向こうに見えるのが伏見櫓です。

 詳しくは上の説明文をお読みください。

 現在、皇居の宮殿がある所は、先ほどの「大江戸今昔めぐり」によると、「西御丸」「西御丸大奥」だったんですね。

 私も以前、何度か訪れている本丸と天守台、二の丸、三の丸などがある江戸城址は、現在、「皇居東御苑」として整備され一般公開されています。(目下、コロナ禍で休園中のようですが)

 ちなみに、天皇陛下がお住まいになる吹上御所がある所は、江戸城時代は(変な表現)、「吹上御庭」と呼ばれ、馬場や梅林や森林もあったようです。普段は一般人は誰も入れませんから、そこは、今でも、古代中世・近世から手つかずの自然が残っているそうです。

 私自身は、二重橋よりも、手前の石垣の方に興味があります(笑)。

 上部は、打込積の亀甲積に見えますが、下の方は布積というんでしょうか?お濠には忍者が潜伏していたのかしら?石垣は、関東大震災でも崩れなかったんでしょうか?

 いやはや、まだまだ勉強が足りません。

「伊達政宗 終焉の地」と江戸城跡

銀座「ごだいご」 ランチごだいご御膳 1100円

 昨日、伊達政宗(1567~1636年)のことを書いたら、ふと、「政宗終焉の地」を再訪したくなり、昼休みに日比谷公園にまで走って行きました。しかも、5月24日(太陰暦)は、政宗公の命日(386年遠忌)だったのです。是非ともお参りもしなければなりません。

(会社から歩いて20分ほど)

 場所は、皇居寄りの日比谷交差点近くの公園入り口(交番がある)から入るとすぐあります。

 上の写真の木々の間から微かに見える建物は、戦後、GHQ本部が置かれた第一生命ビルです。

 ここが「伊達政宗 終焉の地」です。

 初めて、ここが「伊達政宗 終焉の地」だと知ったのは、ほんの5,6年前です。ですから、この立て看板が出来て、まだ10年も経っていないのではないかと思います。

 私の会社は、2003年まで日比谷公園内にありましたから、日比谷公園に関しては隅から隅まで歩き尽くし、熟知していたつもりでしたから、この看板を見つけた時は本当に吃驚しました。

 「えっ?ここに伊達仙台藩の上屋敷があったの?」聞いてないよ、といった感じです。先日、この渓流斎ブログにも書きましたが、伊達仙台藩の上屋敷は当初、ここにあり、寛永18年(1641年)になって浜屋敷(今の汐留の日本テレビ本社)に移転(幕末まで)したのでした。

 ちなみに、以前、会社があった場所は、盛岡南部藩の上屋敷跡だった所でした。

心字池 右後方は帝国ホテル

「伊達政宗 終焉の地」の目の前は、今は心字池になっています。

 かつてはお濠だったらしいのです。

 石垣は、江戸時代のものですが、よくぞ残ったものです。

米軍は東京を空襲する際、既に、戦後の占領統治を考えており、第一生命ビルをGHQ本部にし、日比谷界隈の宝塚劇場や映画館等は兵士の慰問のために残すことを決定し、この辺りを爆撃しなかったと言われています。だから、石垣も残ったのでしょう。

 この石垣の上にベンチがあり、よく、ランチ気分でサンドイッチやおにぎりを食べたり、本を読んだりしたものです。

この石垣は、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部とのこと。

案内板では、慶長19年(1614年)に熊本藩主加藤忠広によって石垣が築造され、寛永5年(1628年)には仙台藩主伊達政宗によって門の石垣が構築された、とあります。

日比谷公園を出て、日比谷交差点を渡ると、もうそこは江戸城です。勿論、今の皇居です。

 以前、テレビで、ある女性タレントが「皇居が江戸城だったの?知らなかったあー!」と叫んでいたのを見て、腰が抜けるほど驚きました。世の中にこういう人もいるとは…。戦前、宮城(みやぎ、ではなく、きゅうじょう)と呼ばれていたことも知らないことでしょう。

 それはさておき、伊達藩の上屋敷が江戸城からこんな近いとは驚きです。目と鼻の先。まさに「スープが冷めない距離」です。家康公が、よっぽど伊達政宗を警戒したのか、逆に、よほど近くに置いておきたかったのかのどちらかでしょう。伊達藩は外様ですが、家康は案外、政宗公を気に入っていたんじゃないかと私なんか思うんですけど、理論的な裏付けはありません(笑)。

 仙台藩は「伊達騒動」を始め、お家騒動が極端に多く激しかった藩で、幕末も佐幕派と新政府側と壮絶な争いがありました。あの仙台藩から遣米使節に選ばれた玉蟲左太夫も、奥州越列藩同盟の推進に活躍したため、最後は詰め腹を切らされました。大変惜しい人材でしたが、玉蟲左太夫は、言わば、伊達政宗公の遺訓を守って、徳川方に忠誠を尽くしたような気がします。これも想像ですが。

 江戸城は、天守こそ再建されませんでしたが、広大な敷地といい、天下普請の石垣といい、日本全国見渡しても、江戸城に優るお城はありません。私なんか、外から石垣を眺めるだけでも大満足です。石垣は諸藩から献上されたので、藩の家紋が彫られたりしています。

 コロナ禍で遠出ができない人には、江戸城跡はお薦めです。(あ、これは関東圏にお住まい向けの発言でした。全世界の愛読者の皆様、大変失礼仕りました)

「明治維新」は必ずしも「正義」ではない?

 昨日は是非とも書きたいことがあったのですが、「自己検閲」で書くのはやめにすることにしました。どうやら、この渓流斎ブログを毎日、熱心にチェックされている方がいらっしゃるようで、もし何かあれば、その方は「殿に御注進」を図るらしいのです。もし書いたら、完璧に人間関係が崩壊するので、やめた方がいいですね。こちらには全く落ち度がないので、冒険してもいいのですが、やはり、大人げないのでやめました(笑)。

◇渋沢栄一は幕末の志士

 さて、今、NHKの大河ドラマは、渋沢栄一が主人公の「青天を衝け」をやってます。渋沢と言えば、「近代日本資本主義の父」と言われ、500もの会社を起業した実業家として名を残しましたが、もともとは幕末の動乱期を生き抜いた志士だったことがドラマでは描かれています。

 何しろ、運命の巡り合わせで、今の埼玉県深谷市の豪農の生まれながら、最後の将軍徳川慶喜の幕臣として取り立てられるんですからね。その関係で、西郷隆盛にも、新撰組の土方歳三にも幅広く直接会っているのですから、まさに「歴史の証人」です。(栄一と一緒に行動した渋沢喜作こと栄一郎は、後に彰義隊の頭取になります)

 NHKの大河ドラマは、(大袈裟ですが)、やはり日本を動かします(笑)。便乗商法で、民放の番組や雑誌で渋沢栄一が取り上げられたり、観光資源(深谷市、東京都北区飛鳥山など)になったりするからです。

 この週刊朝日MOOK「歴史道」Vol.15もその便乗商法の一つかもしれませんが(笑)、「明治維新と戊辰戦争の真実」を特集しています。第1部「1年5カ月におよぶ激闘の軌跡をすべて追う!戊辰戦争 全史」、第2部「『文明開化』&『富国強兵』を目指した新政府の改革の軌跡を追う!明治維新と近代日本の幕開け」といった内容で、時間を掛けて通読しましたが、正直、あまり、スッと頭に入って来ませんでしたね。

 執筆者が複数いるので、重複する箇所もあり、内容が整理されて頭に入って来なかったのです。勿論、こちらの頭の悪さのせいでしょう。でも、表や図版や写真等が多く採用されているので、幕末通史としては大変参考になりました。

 それにしても、歴史の「解釈」は、日進月歩で変わっていくものです。例えば、巻頭の「明治維新が後世に遺した『功』と『罪』を読み解く」で一坂太郎氏は明治維新について、こんなことを書いております。

 先年、政府は「明治百五十年」をイベント化して盛り上げようとしたが、民間ではアンチ本が多数出版された。国が押し付ける「明治維新」は、必ずしも「正義」ではないとの思いが、多くの国民の胸底にあるのだろう。

 その通りですね。明治150年は2018年でしたが、「え、そうだったの?」と言う国民の方が多いと思われます。私が子どもだった1968年は「明治百年」の記念式典が政府主催で日本武道館で開催されましたが、それはそれは大盛り上がりだったことを覚えています。えらい違いです。

躑躅 Copyright par Keiryusai

 上で一坂太郎氏が書かれた「アンチ本」というのは、私もこの渓流斎ブログで取り上げた武田鏡村著「歴史の偽装を暴き、真実を取り戻す 薩長史観の正体」(東洋経済新報社)もその一つかもしれません。このブログを長年愛読されている方にはバレてますが、私は、圧倒的に会津派であり、幕臣派です(笑)。明治維新は「維新」などではなく、薩長土肥による暴力革命であり、薩長対徳川の内戦であるという見方でいいと思います。

 関ケ原の戦いで勝利を収めた徳川家康がつくった幕藩体制と幕末を比較するととても面白いですね。家康が最も警戒した毛利(長州)と島津(薩摩)に、結局やられてしまうんですからね。最後まで徳川方として戦った会津藩は保科正之(家康の孫)以来の伝統で、桑名藩は、徳川四天王の一人・本多忠勝の立藩ということで分かりやすいのですが、家康が警戒していた伊達政宗の仙台藩が奥州越列藩同盟の雄となってしまったのは、歴史の皮肉か?

 何と言っても、鳥羽伏見の戦いで、徳川慶喜が「敵前逃亡」で大坂城から江戸に逃げ帰ったことで勝敗は決まったようなものでした。革命軍は、「錦の御旗」を掲げたお蔭で、官軍となり、あれだけ家康から恩顧を受けた藤堂高虎の流れを汲む津藩までもが寝返って、徳川を裏切ってしまうのですからね。歴史は、勝ち馬に乗りたがる「日和見主義」によってつくられる、と私なんか確信してしまいました。

◇暗殺が多い幕末から明治

 明治になって新政府が出来ますが、権力闘争そのものです。征韓論を巡る明治6年の政変、不平武士による反革命武力闘争の大団円となった明治10年の西南戦争、そして明治14年の政変で薩長土肥の土佐と肥前が脱落し(自由民権運動に走り)、陸軍は長州、海軍は薩摩という棲み分けで「軍事政権」が確立し、それが昭和の敗戦まで続く、というのが私の大雑把な見方です。

 それにしても、幕末から明治にかけて、坂本龍馬、中岡慎太郎、佐久間象山、横井小楠、大村益次郎、そして渋沢栄一を幕臣に取り立てた平岡円四郎、大久保利通…と暗殺が多過ぎます。