老人力がつき始めました

有楽町「魚や旬」の魚づくしランチ980円=刺身(鯛、マグロ)、煮魚(鯖味噌)、焼き魚(鮭)、揚げ物(白身魚フライ)という豪華メニュー(焼き魚が写ってません)

私はあまりテレビは見ませんが、テレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」は結構見てます。

これでも、大学の卒論は「印象派」でしたし、長じてからは美術担当記者も仕ったこともあり、芸術に関する見る眼と教養はかなりのものと勝手に自負しております(笑)。それでも、この番組の鑑定士は半端じゃない知識と経験の持ち主で、私の知らない作家が出たりして、大変勉強になります。

大体欠かさず見てはいるのですが、たまに、見逃すこともあり、再放送を見たりします。我ながら随分熱心ですねえ(笑)。再放送は、大体、5~6カ月前に既に放送されていたものです。ですから、一度見たかどうか、忘れてしまっているのです。部分部分で、「あ、確か前に見たな」と分かるのですが、まだらボケ状態で、他の部分は全く初めて見たような気がするのです。

これは実に悲しいものがありますね。あれだけ、夢中になって見て、半年経って忘れて、また初めて見るように見ているのですから、あの時の半年前の時間は何だったのか、今消費している時間は何なのか、と空しくなってしまいます。

また、フランス語も英語も、単語は覚えて半年も経つと全く雲散霧消して脳裏から消え去ってしまうのです。哀しい。

◇◇◇◇◇

そこで、思い出したのが、赤瀬川源平さん(1937~2014)の「老人力」です。ご説明するまでもないでしょうが、これは「物忘れが激しくなった」と否定的に考えずに、「老人力がついてきた」と前向きに考えようと逆転の発想を提唱したものです。「老人力」(1998年)はベストセラーになりました。あれから、もう20年も経つんですね。

提唱したのが1997年といいますから、ちょうど彼が還暦の60歳のときだったんですね。

個人的ながら、「老人力」がベストセラーになる前に、私も老人力がついて何の著作か忘れてしまいましたが(笑)、一度、彼にインタビューしたことがあります。かなり和気藹々とした会話が続き、彼の偉ぶらない飾らないところに感銘を受けたものです。その3カ月後ぐらいに、ある文壇パーティーで再会したので、「この間は、大変お世話になりました」とご挨拶すると、「…どちら様でしたっけ…」と怪訝そうな表情を浮かべるのです。その時、彼は50代でしたが、既に老人力がつき始めていたということなのでしょうか。

勿論、私以上に毎日のように色んな人と会っているので、一度だけ会っただけの三文記者などいちいち覚えていないでしょうが、当時はかなりショックでした。(当時の私は、取材で年間500人ぐらいの人と名刺交換してましたが)

優秀で才能がある人でさえそうなんですから、まして凡人をやですね。

旧制中学・高校の学制を並べたくなりました

神戸にお住まいの山口先生のお勧めで、氏家斉一郎(1926~2001)談・塩野米松聞き書き「昭和という時代を生きて」(岩波書店・2012年11月15日初版)を読み始めております。

氏家氏といえば、読売新聞の副社長から系列の日本テレビの会長にまで登り詰めた人で、ナベツネこと渡辺恒雄・読売新聞主筆の「片腕」ぐらいの知識しかありませんでしたが、この本を読むと、これまで全く知らなかったことのオンパレードで「へー、そうだったのかあ」と感心しきり、という凡俗な新聞用語が飛び出してくるほどです。

氏家さんは、大正15年(1926年)5月17日、東京生まれ。小生の亡父と同い年でした。(渡辺恒雄さんも同年5月30日生まれ。同い年ながら、氏家さんとは同窓の東京高等学校の1年上だったようです。)この本を読んで、父親の世代が青春時代にどんな時代の空気を吸っていたのかよく分かりました。

まだ、読売新聞社に入社する前の学生時代の話のところを読んでいますが、どうも、旧制の学制が戦後と随分様変わりしたため、読みながら、ここでちょっと整理したい欲望に駆られました。

その前に、「氏家」という名前は非常に変わった名前で、どこかの武将か由緒ある名家と思ってましたが、やはり、「信長公記」に出てくる「美濃の三人衆」の一人・氏家直元(大垣城主)がご先祖さまだったようです。

彼の祖父氏家広雄は帝大を出て弁護士になった人。父貞一郎も東京帝大法学部を出て、財閥「古河合名」の理事を務めた人。彼の従兄弟に当たる氏家純一は、野村ホールディングスの会長と経団連副会長も務めた人で、いわば、華麗なる一族だったんですね。

さて、彼の小学校は、昭和8年に入学した桃園第三尋常小学校(昭和16年から国民学校に名称変更)という公立学校でした。当時は、私立より公立の方が有名中学への進学率が高かったそうです。(他に、本郷の誠之小学校、青山師範附属小学校、番町小学校など)ちなみに、桃園第三小学校の出身者には、津島雄二氏(自民党元津島派会長、作家太宰治の女婿)や私も以前親しくさせて頂いた女優の三田佳子さんもそうなんだそうです。

当時の有名中学とは、旧制の府立中学です。(実は、早稲田中、武蔵中、麻布中、成城中など名門私立中学も既にありました)氏家さんが旧制中学に入学するのは昭和14年(1939年)4月ですが、その年までにあった11の旧制府立中学を並べてみますとー。

・府立一中→都立日比谷高校

・府立二中→都立立川高校

・府立三中→都立両国高校

・府立四中→都立戸山高校

・府立五中→都立小石川高校

・府立六中→都立新宿高校

・府立七中→都立墨田川高校

・府立八中→都立小山台高校

・府立九中→都立北園高校

・府立十中→都立西高校

・府立十一中→都立江北高校

氏家さんが入学した中学は上記のナンバースクールではなく、今は無き東京高等学校尋常科でした。これは、日本初の七年制の官立高校で、東京帝国大学の附属中学・高校の位置付けだったそうです。(90%近くが東大進学)旧制中学は5年制で、成績がよければ4年で卒業。旧制高校は3年制(ところが、戦時体制の昭和18年から2年制)。つまり、普通なら8年で大学(3年制)進学するところを、7年で大学進学するので、相当なエリート校だったのでしょう。

同期に歴史学者になる網野善彦(1928~2004)らがいました。同い年ながら一学年上に渡辺恒雄氏。氏家さんは昭和19年に、そのまま東京高校に進学。渡辺氏は高校を2年で繰上げ卒業し、入隊しますが、昭和20年の敗戦で、氏家さんは召集を免れます。戦後は、旧制高校を2年制にしていたのを3年制に戻す運動にも加わります。

ちなみに、氏家さんの父親は、自分と同じように第一高等学校に行ってほしかったようです。旧制高校の名門ナンバースクールは一高から八高まで8校ありました。

一高(東京)、二高(仙台)、三高(京都)、四高(金沢)、五高(熊本)、六高(岡山)、七高(鹿児島)、八高(名古屋)

このほか、ナンバースクール以外で全国に創設された高校で、浦和水戸東京静岡松本福岡広島新潟高校などが東京帝大進学の上位校でした。

何か、今もあまり変わっていないような気がします。

おさらいですが、戦前は、小学校6年~中学5年~高校3年~大学3年(計17年)ということになり、新制の6~3~3~4年(計16年)より1年長いですね。飛び級があったからでしょうか。(他に専門学校や陸軍士官学校、海軍兵学校などのコースもあり)

旧制高校出身者は、もう90歳以上でしょう。できれば、もっとお話が聞きたいと思いました。

「太田耐造文書研究のご案内」

先月7月18日に加藤哲郎一橋大学名誉教授から、「太田耐造文書研究のご案内」なる長いメールを頂きました。

「日本社会主義・共産主義運動、労働運動・国家主義運動、日中戦争・朝鮮・満州国支配、新聞言論出版・思想統制・メディア史、対ソ対中諜報、ゾルゲ事件等に関心のある友人の皆さんへ」ということで、現代史に興味がある人に一斉にメールを発信されたようでした。

内容は、昨年2月から国立国会図書館憲政資料室で公開されている「太田耐造関係文書」研究のススメでした。「若い研究者の皆さんに、ぜひ拡散して下さい」ということでしたので、非力ながら、加藤先生を応援したい一心でこの《渓流斎日乗》にも掲載することに致しました。

太田耐造(おおた・たいぞう、1903~56年)という人は私自身は不勉強で名前も知らなかったのですが、司法省刑事局第六課長等を歴任するなど主に検事畑で活躍された人でした。戦後は公職追放され、52歳で亡くなっております。「文書」は、神兵隊事件やゾルゲ事件に関わる訊問調書など彼が業務上で取得した資料が多くを占めているようです。現代史の資料として極めて価値が高いと言えます。国立国会図書館のホームページには以下の通り公開されております。

https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/ootataizou.php

加藤先生によると、太田耐造は、敗戦時大審院検事、司法官僚の「思想検事」の代表格で、「太田文書」は全1104点、書架にして4.5メートル分の膨大な原資料があるといいます。問題別に整理され、1927-46年占領開始期分まで、時系列で入っており、目録は、以下のリンクをクリックすれば、自由に簡単にダウンロードできます。

https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/tmp/index_ootataizou.pdf

また、加藤先生によると、司法省「思想検事」としての太田耐造の資料収集は多岐にわたり、社会主義・共産主義・労働運動、右翼国家主義運動取締、朝鮮・中国・満州抵抗運動、メディア史、新聞出版言論統制検閲資料、世論等各種調査資料、治安法制検討資料、「日本法」構想、治安維持法・予防拘禁・国防保安法立法資料、対ソ対中諜報など、日本現代史の膨大な基本資料・公文書・部内資料・草稿類が、手書き・謄写版刷りなど、現物で入っているとのことです。

加藤先生は「これらの資料は、ゾルゲ事件研究にとどまらない膨大な現代史資料ですから、本格的研究は、若い研究者にも、広く活用さるべきです。添付の目録ファイルもデジタルですから、世界中にどんどん拡散し、学術的に検証されていくべきと考えます。よろしく、ご活用ください」と呼び掛けております。

加藤先生は、私も何度もお世話になったことがありますが、私心のない方で、御自分で世界各国で苦労して収集した資料でも惜しみなく後進に与えてくださる方です。

もし、ご興味のある方は、研究されてみては如何でしょうか。加藤先生のホームページは以下の通りです。

加藤哲郎のネチズン・カレッジ

縄文土器と土偶さまには圧倒されました

今日は斎藤君のお誕生日でしたが、猛暑の中、上野の東京国立博物館で開催中の「特別展 1万年の美の鼓動 縄文」を見に行って来ました。

暑かったので、戸外で並びたくなかったのですが、流石にこの暑さでは通常の週末にしては空いていました。

今は夏休みですから、子どもさんも多く訪れ、母親と小学校3年生ぐらいの男の子が仲良く見学していて、男の子は土偶を見ながら、「おちんちん付いているね」「おっぱいあるね」と感動してお母さんに大声で話しかけていました。将来が楽しみです(笑)。

大きくなってもこの感動を忘れないでほしいものです。私自身は、最近、日ごろの生きているだけでシンドイ、数々の、諸々の、生まれいずる悩みに振り回されていたことから、1万年前の日本人のご先祖さまたちが作った作品に癒しを求めにいったというのが正直なところでしょうか。

何しろ、5000年も1万年も前の大昔の人たちがつくった土器や土偶や飾りなどが目の前で見られるわけですから、たかだか、100年も生きられるか分からない人間の悩みなんて、ちっぽけに感じてしまうわけです。

フラッシュなしの撮影コーナーがありました

土器1点、土偶5点の「国宝コーナー」もありました。比較的新しい1992年ごろに指定されたようです。もっと早く認定されてもおかしくなかったことでしょう。今のところ、縄文作品の国宝は、この6点だけらしいのですが、それが、一堂に会して見られるのですからこんな贅沢な至福の時はありません。

国宝の「火焔型土器」(新潟県十日町市笹山遺跡出土)は意外と小さかったですね。でも、あの文様は誰が考案したんでしょうか。現代人やAIではとても作れませんね。果たして人間は進歩しているのかしら?

有名な土偶「仮面のビーナス」(長野県茅野市棚畑遺跡出土)や「縄文の女神」(山形県舟形町西ノ前遺跡出土)などは、まるで、宇宙人がつくったような造形でした。私が気に入った国宝は「合掌土偶」(青森県八戸市風張1遺跡出土)で、30センチもない本当に小さな土偶で、若い男性が這いつくばるようにして、蹲って手を前で合掌している姿をしていました。一度目にしただけで、ぐっと胸に迫ってくる感動がありました。

細かい技巧には圧倒されます。赤ちゃんを産んでいる母親の壺まであるんですよ。土偶などは祭祀に使われたのでしょう。縄文時代は、まだまだ未解明なところが多く、さらに研究が進んでほしい分野です。日本列島、南は九州から、北は函館まで、あちらこちらに縄文時代の遺跡が分散していたことには驚かされました。

せっかく、上野まで来ましたので、上野山の激戦地に建てられた彰義隊の墓をお参りして、国営放送の大河ドラマの主人公「西郷どん」の銅像にも会いに行ってきました。

やはり暑くて、とてもじっとしていられませんでした。

昼時を過ぎていたので、明治の文豪森鴎外もよく通っていたという「上野 蓮玉庵」に久しぶりに入り、かき揚げそば1000円とビール中700円を注文し、一人で縄文土器の感動に再び浸っておりました。

ご案内の通り、稲作の伝わった弥生時代の土器は、機能重視で、芸術性に欠けることは確かです。

縄文土器は、柳宗悦、河井寛次郎(文化勲章、人間国宝などは辞退)、濱田庄司といった民藝派をはじめ、「芸術は爆発だ」の岡本太郎らがこよなく愛し、多大な芸術的影響を受けたと言われています。

確かに見ているだけで、生きる勇気が湧いてきて、会場では思わず手を合わせて感謝してしまいました。

うまいめん食い村通信 ごちそうさまでした            2拍手

大師号と法然上人

銀座「保志乃」鯖味噌煮定食980円

昨日の続きですが、「大師は弘法に、太閣は秀吉に、黄門は光圀に取られたり」という言い伝えがあるそうです。出展は分かりません。他に様々な言い方もあります。

まず、太閣は、大辞林によると、摂政または太政大臣の敬称。のちには、関白を辞して内覧の宣旨をこうむった人。または関白をその子に譲った人を指します。関白職を養子秀次に譲った豊臣秀吉が最も有名ですが、平安時代の藤原頼通を始め、太閣と称した人は日本の歴史上たくさんおりました。しかし、いつの間にか、太閣と言えば、豊臣秀吉のことを指すようになったのです。

黄門は、「中納言」職の唐名です。 それが、徳川光圀の通称(水戸黄門)となり、今では名前と勘違いされるほどです。

京都・建仁寺 copyright par Kyoraquesensei

さて、肝心なのが、大師号です。

大師号とは、もともと中国で、徳の高い高僧に朝廷から贈られる名のことでした。日本では、866年(貞観8年)7月、清和天皇より天台宗の開祖最澄に「伝教大師」、円仁に「慈覚大師」を贈られたのが初めと言われます。

それが、いつの間にか、大師様と言えば、真言宗の開祖空海に贈られた「弘法大師」のことを指すようになったのです。

実は、太子号を最も多く持つ高僧は、浄土宗の開祖法然房源空上人なのです。1697年(元禄10年)に東山天皇から円光大師を贈られ、その後、500年遠忌から50年ごとに加謚され、最近では2011年(平成23年)の800回忌で、今上天皇から法爾(ほうに)大師を贈られました。

何と、お一人で八つの大師号をお持ちなのです。

◇大師号の一覧

大師号 僧名 宗派 西暦・元号 勅賜(天皇) 備考
円光(えんこう)大師 法然房源空(1133~1212) 浄土宗 1697年(元禄10年) 東山天皇
東漸(とうぜん)大師 法然房源空 浄土宗 1711年(宝永8年) 中御門天皇 500回忌
慧成(えじょう)大師 法然房源空 浄土宗 1761年(宝暦11年) 桃園天皇 550回忌
弘覚(こうかく)大師 法然房源空 浄土宗 1811年(文化8年) 光格天皇 600回忌
慈教(じきょう)大師 法然房源空 浄土宗 1861年(万延2年) 孝明天皇 650回忌
明照(めいしょう)大師 法然房源空 浄土宗 1911年(明治44年) 明治天皇 700回忌
和順(わじゅん)大師 法然房源空 浄土宗 1961年(昭和36年) 昭和天皇 750回忌
法爾(ほうに)大師 法然房源空 浄土宗 2011年(平成23年) 今上天皇 800回忌
弘法大師 空海(774~835) 真言宗 921年(延喜21年) 醍醐天皇 真言宗開祖
道興大師 実慧(じつえ) 真言宗 空海の高弟
法光大師 真雅(しんが) 真言宗 1828年(文政11年) 空海の弟、貞観寺建立
本覚大師 益信(やくしん) 真言宗 1308年(延慶元年) 花園天皇 円城寺開山
理源大師 聖宝(しょうぼう) 真言宗 1707年(宝永4年) 東山天皇 醍醐寺、東大寺東南院建立。東密小野流の祖
興教大師 覚鑁(かくばん) 真言宗 江戸時代 新義真言宗祖、伝法院流の祖
月輪(がちりん)大師 俊芿(しゅんじょう) 真言宗 泉涌寺の開基
伝教大師 最澄(767~822) 天台宗 866年(貞観8年) 清和天皇 天台宗開祖
慈覚大師 円仁 天台宗 866年(貞観8年) 清和天皇 恐山開基
慈慧大師 良源 天台宗 第18代天台座主。「厄除け大師」
智証大師 円珍 天台宗 寺門派開祖
慈摂大師 真盛 天台宗 天台真盛宗の祖
慈眼大師 天海 天台宗 1648年(正保5・慶安元年) 後光明天皇 徳川家の参謀
無相大師 関山慧玄 臨済宗 明治天皇 妙心寺の開基
微妙大師 授翁宗弼 臨済宗 妙心寺2世
円明大師 無文元選 臨済宗 後醍醐天皇皇子
承陽大師 道元(1200~1253) 曹洞宗 1879年(明治12年) 明治天皇 曹洞宗高祖
常済大師 瑩山 曹洞宗 1909年(明治42年) 明治天皇 曹洞宗太祖
真空大師 隠元(1592~1673) 黄檗宗 1917年(大正6年) 大正天皇 黄檗宗の祖
華光大師 隠元 黄檗宗 1972年(昭和47年) 昭和天皇
見眞大師 親鸞(1173~1263) 浄土真宗 1876年(明治9年) 明治天皇 浄土真宗開祖
慧燈大師 蓮如 浄土真宗 1882年(明治15年) 明治天皇 中興の祖
聖応大師 良忍 融通念仏宗 1773年(安永2年) 後桃園天皇 融通念仏宗の祖
証誠大師 一遍(1234~1289) 時宗 1940年(昭和15年) 昭和天皇 時宗開祖
立正大師 日蓮(1222~1282) 日蓮宗 1922年(大正11年) 大正天皇 日蓮宗開祖

(表はbukkyo.netを基に引用作成しました)

こうして見ていきますと、日本の伝統仏教は13宗56派と言われておりますが、天台宗より古い奈良の南都六宗の法相宗、華厳宗、律宗の開祖には大師号はなく、意外にも臨済宗の開祖栄西(1141~1215)には大師が贈られていないようです。

明治時代は「廃仏毀釈」の嵐で、かなり寺院が荒廃したと伝えられていますが、これまた意外なことに道元や親鸞らが大師号を贈られたのは、明治天皇だったんですね。

なかなか奥が深いものです。

「守」「介」「掾」「目」の四等官

火星接近2018・7.31

今、加藤廣さんの遺作「秘録 島原の乱」(新潮社、2018年7月20日初版)を少しずつ読んでいます。

大坂夏の陣で自害したはずの豊臣秀頼が、九州にまで逃げ延びていたという歴史小説ですが、さすが、手馴れた作家だけあって、時代考証が生半可じゃありませんね。フィクションとはいえ、徹頭徹尾調べ上げた挙句の創作ですから、「もしかしてありえたかもしれない」と読者に思わせます。

歴史小説を読むに当たって、官位の知識があるととても便利です。私もこのブログで、何度か倉本一宏氏の「藤原氏」(中公新書)などを取り上げてきましたが、戦国時代になっても、明治になっても、これら官位が日本の歴史ではずっと続いております。今でも、小学校から高校の元校長先生、大学名誉教授らに「正五位」や「従五位」などと叙位叙勲しており、いまだに日本は古代の律令制が残っているわけですねえ(笑)。

官位の最高峰、関白になったのは、藤原氏以外では豊臣秀吉と秀次ぐらいです。

石田三成が「治部少」と呼ばれていたのは、三成が治部少輔という官位だったからです。治部少輔とは、治部省長官である治部卿、次官である大輔に次ぐ官位で、従五位下に当たるようです。治部省は、氏姓や戸籍に関する訴訟や仏事に対する監督などを行っていましたが、戦国時代ともなれば、有名無実化していたことでしょう。

火星接近2018・7・31

これら、長官、次官…といった官位は「四等官」と呼ばれ、諸官司で、色んな漢字が当てられています。

官司 長官(かみ) 次官(すけ) 判官(じょう) 主典(さかん)
神祇官
大夫
国司

出典 小学館デジタル大辞泉

源義経は「判官義経」と呼ばれていましたが、義経は「検非違使の尉」だったからでした。

私自身は、四等官の中で、地方官に過ぎない「国司」の「守(かみ)」「介(すけ)」「掾(じょう)」「目(さかん)」が一番馴染みがあります。「目」と書いて「さがん」や「さかん」「さつか」などと読むとても珍しい名字を持つ人が大阪と山口県にいらっしゃるようですが、まさにこの官位から付けられたことでしょう。

江戸時代、大岡越前守忠相が南町奉行でありながら「越前守」と名乗ったのは、既に国司が有名無実化していたからでした。幕府に許可が得られれば通称として名乗ることができたようです。ただし、江戸城のある武蔵国の武蔵守だけは、さすがに畏れ多くて誰も名乗ることができませんでした。

明治の大隈重信大蔵卿は、今で言えば、財務相ということになるんですね。

官位などは、今は簡単に調べられます。知識が広がった上で、歴史小説を読むと面白さが倍増します。

文芸評論家雨宮さんのこと

先月23日(月)に東京・帝国ホテルで開催された歴史小説家の「加藤廣さんお別れ会」のことを書きましたが、その時、会場でスピーチされた文芸評論家の雨宮由希夫さんが、何と吃驚、かの著名なロシア文学者内村剛介(1920~2009)の甥っ子さんだっということが、関係者への取材で明らかになりました。

おっと、どこか、国営放送のニュース風の口調になってしまいましたね(笑)。

いやあ、これは本当の話です。

当日、かなり多くの方々のスピーチがありましたが、雨宮さんのお話はとても印象的でしたので、よく覚えております。

2005年、加藤さんの本格デビュー作「信長の棺」が発表されたとき、 同氏は東京の三省堂書店に勤務されており、同書店のメール・マガジン「ブック・クーリエ」に「書評」を連載されておりました。

そこに、「本来歴史学者がやらなければならない事件の解明を物書きの罪業を背負った新人作家が代わってやってのけた。驚異の新人の旅立ちと、新たな『信長もの』の傑作の誕生に心より拍手喝采したい」と書いた記事を、加藤さんが目にして感動し、本能寺3部作の「明智左馬助の恋」の「あとがき」の中で、「雨宮氏の温かい言葉には、あやうく涙腺まで切れそうになったことを告白しておきたい」と書いてくださったというのです。

雨宮さんは、スピーチの中で「『あやうく涙腺まで切れそうになった』のは私の方です。駆け出しの書評家で、実績らしい実績のなかった私にはこれ以上の光栄なことはないと感涙にむせばずにはおられませんでした」と応じておられました。このくだりが、とても印象的だったのです。

銀座「保志乃」いわし定食 980円

その後、関係者への取材で、雨宮さんは「参列者が懇談している中でスピーチなどふつうは誰も聞いていないものですが、しわぶき一つなく、雑談もなく、皆様が聞き入ってくれたことには恐れ入りました」と感想を述べられていたそうです。

雨宮さんの本名は敢えて秘しますが、内村剛介の甥っ子ということで、シンポジウムや哈爾濱学院の同窓記念式典にも必ず出席されていたようです。

鉄道系カード会社からの「脅迫」にお応えします

鉄道系のクレジットカード会社から「あなたの個人情報は相当古くなっているので、更新してください」との通告が来ました。

住所、職業、世帯の家族構成から年収まで、「どうせお前はもう碌な稼ぎはないだろうから、正直に申告しろ」と、暗に言うわけです。年収によって、1カ月に使えるクレジットの金額の上限が決まるようです。

「もし申告しなければ、上限枠を下げる可能性があります」という脅し文句もありました。

実は、私はこのクレジット会社には不信感を持っています。このブログで何度も書きましたが、私は、以前使っていたApple ID が、中国語で乗っ取られてしまいました。このIDに登録していたクレジットカードの会社がここだったので、電話で、「もし不審な多額の金額が使われたときに、事前に知らせてもらえないだろうか」とお願いしたことがあります。

そしたら、電話口に出てきた男は、ケンモホロロで、はっきりとこちらの要望に応じてくれなかったのです。(結果的に、登録していたクレジットカードの期限が切れていたので被害に遭わずにすみましたが)

ということで、この会社のカードは使うのはやめようと思ったのです。鉄道系なので、高額になる(笑)通勤定期などをこのカードで支払うとポイントが溜まるので、使うとしたらそれぐらいです。あ、プリペイドカードとしても使っています。生意気にも年会費が取られますが、ポイントでその分は賄える感じだからです。

◇◇◇◇◇

一方、他に私が持っている通販のクレジットカードは、その会社は人間的に大嫌いなのですが(笑)、登録費も年会費も無料。しかも、自分は忘れていたのに、何か、通販や店舗で使うたびに、しつこいくらい丁寧に「貴方は今回○○○○円使いました」と「使用報告」をメールで通知してくれます。他人がカードを拾って使ったり、サイバー攻撃でカード情報を盗んで使われたりした場合、「身に覚えがない」金額が請求されるわけですから、これならすぐ分かります。

ですから、クレジットを使う場合、専ら、こちらの通販系のカードを利用しています。

しかし、それにしても、鉄道系のクレジット会社の「情報更新」通告は、強制ではないとはいえ、「法令に基づき」とか偉そうなことを言って、上限枠を下げる魂胆が丸見えです。

どうせ、もう頻繁にクレジットは使いませんし、悪いですが、あんたんとこの会社、信用してませんから。

「宝くじで1億円当たった人の末路」は意外と、いや結構面白い

富山城

鈴木信行著「宝くじで1億円当たった人の末路」(日経BP社、2017年3月28日初版)は、昨年のベストセラーらしいですが、読んでみると意外と面白い。猛暑で読書する気力がなくても、サクサクと読めます(笑)。

まあ、悩み相談みたいなものです。大学教授や評論家らその筋の専門家がズバリ答えてくれるのです。

ですから、自分の興味があるとこだけ読めばいいのです。

内容は、表題のほか、

「事故物件を借りちゃった人の末路」

「『友達ゼロ』の人の末路」

「留学に逃げた人(学歴ロンダリング)の末路」

「外国人観光客が嫌いな人の末路」

「8時間以上寝る人の末路」

「禁煙にしない店の末路」

などなどです。

表題の「宝くじで1億円当たった人の末路」は、以前に色んな本を読んでいたので、答えはほとんど同じでした。

1億円にしろ、7億円にしろ、当選確率は交通事故に遭う確率よりかなり低い1000万部の1ですし、「宝くじとは、愚か者に課せられた税金」という「格言」は確かにその通りです。たとえ当たっても、トラブルに巻き込まれるのが必定で、かえって貧困になるというのは、ほぼ正解でしょう。

「事故物件を借りちゃった人の末路」は、あの相川探訪記者お勧めの事故物件公示サイト「大島てる」の運営者本人が登場して、サイトを立ち上げた経緯から、自殺した人の部屋は不思議と、また自殺者が出るような霊が霊を呼ぶ不思議な話まで飛び出します。本当に嘘みたいな話ですが、真実なので、科学では証明できない人間の心理や闇が働くということなんでしょう。ご興味ある方は、この章を読むだけでも価値があると思います(笑)。

私自身は、「『友達ゼロ』の人の末路」を興味深く拝読しました。回答者は、諸富祥彦明治大学教授。

個人的ながら、最近、どうも学生時代の旧友と次々と疎遠になってしまい、「昔はあんなに仲が良くて月に一回は飲みに行ったのに」「こちらに何か非でもあったのかなあ」などと勘繰りたくなり、長い付き合いだったため、かえって修復がうまくいかない状況が続いておりました。

しかし、この章を読んで少し救われました。人間には「群れることが好きなタイプ」と「苦手なタイプ」がいるそうです。(私は、圧倒的に後者=笑)

群れる、要するに、つるむことが好きな人は、「心を麻痺させて楽になれる」(幻想)、「友達が増えることで『自分には価値がある』と自信が持てる」(根拠なき自信)半面、「人間として成長できない」(孤独力を磨けない)、「同調圧力によるストレスで精神的に追い込まれる」、「年を取っても自分が何をどう感じていて、何を欲しているのか分からなくなる」といったデメリットがあるというのです。

ですから、諸富教授は「無理につるむ選択をする必要はない」とキッパリ宣言するのです。

「友達がいないと困った時に助けてくれる人がいない」という悩みも、「そもそも、広く浅くの表面的な関係で結ばれた友達が、いざという時に、本気であなたを助けてくれると思いますか。相手が苦しい時に自分の身を投げ出してでも何とかしようとする。そうした深い人間関係は『孤独を知った者同士』の間にこそ生まれる」という言葉は非常に説得力がありますね。

この本は何処からでも読めます。勿論、人生に正解があるわけではないので、正しい回答はないのかもしれませんが、貴方にもきっと参考になるアドバイスがあると思います。

同盟通信の異能の記者大屋久寿雄

鳥居英晴著「国策通信社『同盟』の興亡ー通信記者と戦争」(花伝社、2014年7月25日初版)は、著者が5年以上の歳月をかけて執筆した800ページ以上にも及ぶ大変な労作でした。

大変歴史的、資料的価値が高い本で、明治時代の通信社の勃興期(中小さまざま100社以上の通信社が創立されては消えていったらしい)から、先の大戦の敗戦により、同盟通信が、社団法人共同通信社と株式会社時事通信社と広告会社電通の3社に分かれて再出発を果たすところまで、綿密に追っています。

著者は、元共同通信出身の記者らしいですが、比較的、公平に冷静に文献を掘り起こして分析しています。多くのガサツな学術書やネット情報では、「戦前の同盟通信は、現在の共同通信のこと」の一言で済まされる場合が多いですからね。

確かに、同盟通信の遺産のほとんどが共同通信に受け継がれました。時事通信の古いOBから言わせると「かまどの灰まで共同は持って行った」そうで、それでいて、大陸や南方など海外に派遣された何百人もの特派員ら「引揚者」を引き取る役目を時事通信は背負わされました。

同書の第17章には「共同は、同盟の総務、報道、連絡の3局と写真部から選んだ約1000人で発足。…これに対して時事は報道(主として旧海外局系)、経済、調査の3局から約250人で発足。外地からの引き揚げ社員で3年後には1000人を超えた。同盟の資産の中の通信社の生命ともいうべき国内専用線は共同に引き継がれた」と書かれています。

また、同盟通信の異能の記者で、戦後は時事通信に入社した大屋久寿雄は「将来のはっきりしない時事よりは、大磐石かに見える共同の方へ行くのは、人情であり、当然すぎるほど当然だった。かくて、時事は、共同に拒まれたノコリモノだけの救済収容機関と化したわけでした」と書き残しています。

この本では、この同盟通信の大屋記者にかなりのページを割いています。著者も、この大屋久寿雄の遺稿を入手できたことから、「いつかぜひとも出版したい」と「あとがき」に書いております。

大屋久寿雄とはどういう人物なのか?

フランス文学者の高橋治男というが方が1989年に、パリでフランスのプロレタリア作家アンリ・プーライユ(1896~1980)の書簡を調べていたところ、「オオヤ・クスオ」という日本人の書いた15通の書簡を発見し、1930年代の日本人が書いたものにしてはなかなかよく出来ていたことから、興味を持ち、2008年に「プーライユと文通した日本人ー大屋久寿雄」というブックレットを出版しています。

それによると、大屋久寿雄は1909年7月5日、福岡県生まれ。13歳の頃に医者だった父が病死したため、母親は3人の子供を連れて上京。大屋は成城第二中学に入ります。この時の同級生が大岡昇平です。(ちなみに、同じ1909年生まれの作家に太宰治と松本清張らがいます)。早熟な左翼の文学青年で、小説、戯曲、短歌までつくります。(大屋は書いた小説を当時小説家だった犬養健が住む東中野の自宅にまで見せにいったようです。のちに、大屋はハノイで軍属になっていた犬養と再会します。犬養健は、暗殺された犬養毅の子息で、ゾルゲ事件で連座。戦後法相)

高卒後、フランスのリヨン大学に留学し、パリでは作家の林芙美子の案内役を務めたりします。帰国後の33年に聯合通信にコネ入社します。(大赤字だった聯合は、36年に、反対する電報通信社を吸収合併して同盟通信を設立します)38年6月、29歳で仏領インドシナのハノイ特派を命じられ、同年12月に、重慶を脱出して昆明からハノイに潜入した汪兆銘の居所を突きとめようと手に汗を握る取材合戦に巻き込まれます。

汪兆銘の滞在先は分かったものの、中国から派遣された刺客によって、汪兆銘の側近の曽仲鳴が暗殺されるなど混迷状態となり、結局、世界的スクープになる汪兆銘との会見記事をものにすることはできません。それどころか、影佐禎昭大佐(引退した自民党の谷垣さんの祖父)率いる梅機関などによる「和平工作」に協力し、汪兆銘がハノイから上海に脱出する手助けをしたり、汪兆銘の脱出先に関する虚報記事を書いたりして、軍部に協力したりするのです。

大屋は「仏印進駐記」「戦争巡歴」などの著作を残しています。(大屋の後任の香港兼ハノイ特派員は前田雄二で、彼は東京帝大仏文科の学生時代、後のゾルゲ事件で連座して処刑されたアバス通信(今のAFP)記者ブーケリッチの牛込の自宅で会話のレッスンを受けていたそうです!)

大屋は、戦争末期は、日本放送協会(今のNHK)に出向し、「玉音放送」の後、海外編成部長としてマイクの前に立ち、「敗れはしたが、これは一時的なものです」と発言したことから、報道された米国で大変な物議を醸したりしたそうです。

前述しました通り、大屋は戦後、時事通信に入り、48年にカリエスを発症し、51年に42歳の若さでこの世を去ります。

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この本の著者鳥居英晴さんは、このブログで以前ご紹介した「北多摩通信所の傍受者たち」(けやき出版)の著者でもあり、傍受・通信所関係にはかなりご興味あるようで、今のラジオプレス(RP)の前身に当たる「蔽之館(へいしかん)」のことに触れたり、「極秘扱い」で当時ほとんど存在が秘匿されていた同盟通信の川越分室(埼玉県)の場所を突き止めたりします。

同盟川越分室は、当時、川越商業学校があったところでした。日本の運命を決めたポツダム宣言、トルーマン大統領の原爆投下声明、ソ連の対日宣戦布告などをここで傍受して政府に伝えたといわれます。

【追記】この本を読了するのに3週間半、この拙文を書くのに3時間半かかりました。