出雲に製鉄を伝えたのはヒッタイト人だった??

 最近、どうも乱読気味で、渋沢栄一から古代の神話に至るまで、何の脈絡もない感じでしたが、どういうわけか、フッと偶然にも導線が繋がったりしまして、自分でも面白くなってしまいます。

 今、佐藤健太郎著「世界史を変えた新素材」(新潮社、2018年10月25日初版)を読んでいます。文明をもたらす要因として「材料」に注目し、それらが世界史を変革するほどの起爆剤になったことを素材ごとに詳細しています。人類が発見、または発明、開発した新素材とは、金とか陶磁器とかアルミニウムのことです。

 この中で、「鉄」の章を読んでいたら、先日読んだばかりの瀧音能之著「風土記と古代の神々」(平凡社)に出てきた八岐大蛇を退治したスサノオ神(須佐之男命)が製鉄技術を伝えた朝鮮半島からの渡来人によってもたらされた神だったことをこのブログで何度か書きましたが、この章でも出雲の製鉄の話が出てきたので、その偶然の一致に驚いてしまったのです。

 この本によると、鉄は、小アジアに興ったヒッタイト人が紀元前15世紀頃に初めて使ったと言われています。著者はサイエンスライターなので、学者以上の知識で正確を期します。つまり、正確に言いますと、鉄器を使った人類は以前からいましたが、武器として使える硬くて強靭な鋼鉄を作る技術をヒッタイト人は開発したというのです。これら鋼鉄をつくるには、鉄を溶かす高温の炎が必要で、膨大な木材が必要となります。酸素を絶えず送り込んで高火力を保持するだけでなく、炭素の含有量も微妙に調節しなければなりません。炭素含有量が多過ぎると、鉄はもろくなって叩くと割れてしまうからです。

 ヒッタイト人は、これら鋼鉄製の刃物や戦車で、今のシリアやエジプト方面まで勢力を拡大し、鋼鉄の製法をひた隠ししますが、その帝国は長続きせず、紀元前1190年頃までに滅亡します。反乱や異民族の侵入も原因の一つですが、彼らが必要な木炭確保のために森林を破壊し尽してしまったことも要因と言われています。

 そして、ヒッタイト人の生き残りは、森林を求めて東進し、やがて東アジアではタタール(韃靼=だったん)人と呼ばれるようになり、彼らの製鉄技術が4~5世紀に日本にもたらされたというのです。やっと、日本が出てきましたね(笑)。タタールの名前を取って「たたら製鉄」という言葉ができたという説もあります。著者の佐藤氏はこう書きます。

 製鉄に必要な木材の確保は深刻な問題で、日本のたたら製鉄も一つの炉に対して1800町歩(約1800ヘクタール)という広大な森林が必要とされていた。背後に中国山地の豊かな森林を控えた出雲地方で、たたら製鉄が盛んに行われたのは偶然ではない。

 うーん、見事に繋がりましたね(笑)。出雲に製鉄技術を伝えた渡来人は、タタール人、つまりヒッタイト人だったのかもしれませんね。(勿論、タタール人から製法を習った朝鮮半島の新羅人が伝えた可能性が高いでしょうが、韃靼人は交易を求めて度々、日本に渡って来てます)

 ただ、著者の佐藤氏は、ヒッタイト人が人類で初めて鋼鉄の製法を開発して世界に拡散した、という説は最近疑問が呈されていることも書いています。ヒッタイト以前の遺跡からも発掘されはじめ、異民族による戦乱の形跡も見られないからです。「初めて製鉄を行ったのは誰であったか、もう少し研究の進展を待つ必要がありそうだ」と佐藤氏も書いております。

 でも、「古代のロマン」とよく言われるように、色々と想像するのも面白いのではないでしょうか。出雲に製鉄を伝えた渡来人がかつてのヒッタイト人ではなかったにせよ、広大な森林が必要だったという事実は変わりませんからね。

 こうした脈絡のない読書でも、偶然にもつながりが出てくと、面白みが増します。

古代から朝鮮半島との深い関係

 先日読了した瀧音能之著「風土記と古代の神々」(平凡社)には多くのことを学ばせて頂きました。有難う御座いました。

 特に、八岐大蛇を退治した須佐之男命は、製鉄神で、出雲で産出した砂鉄を精製して鉄をつくる技術を持った朝鮮半島からの渡来人によってもたらせれた神だという著者の説には大いに納得したことは以前書きました。今日はそれ以外で、是非覚えておきたいことをメモ書きします。

 ・天平5年(733年)にまとめられた「出雲風土記」によると、「神々の国」出雲には399の神社があり、そのうち184社が神祇官社、残りの215社は非官社。あまたの神々のうち、熊野大神と佐太大神と野城大神と大穴持命(=天の下造らしし大神→オオクニヌシ神)が四大神と呼ばれ、このうち熊野大神を祀る熊野大社と大穴持命を祀る杵築大社(出雲大社)だけが別格で、「大社」と呼ばれている。

 熊野大神は、意宇郡に拠点を構えた出雲国造の祖によって祀られていた神と推測され、大穴持命は、出雲西部に信仰の拠点を持つ開拓神・農耕神だったのが、出雲全域の神の存在が必要となり、天の下造らしし大神とされたと考えられる。

 ・生野銀山などで知られる生野は、「播磨国風土記」によると、荒ぶる神が往来する人の半数を殺したので最初は死野という地名がつけられたという。しかし、応神天皇の勅により、死野は悪い名なので、生野と改められたという。こうした地名変更は、水辺の植物である葦が「あし」では「悪し」に通じるので「よし」と読み替えるのと同じ発想で興味深い。

 ⇒荒ぶる神が通行人を半数殺すという行為について、著者は、神には荒魂(あらたま)と和魂(にぎたま)の二つの側面があり、荒ぶる神の持つ荒魂が人に害を与えたり、祟りをなしたりすると考えていたからではないかという説を提唱する。だから、半数を殺すとは、荒魂が行い、残りの半数は和魂によって救われるということ。

・全国でも出雲の国だけにカラクニイタテ神社が6社あり、これらはいずれも「延喜式」に記載された官社だが、あまり知られておらず、由来についても謎が多い。カラクニイタテは、「韓国伊大氐」などと書かれるが、著者によると、韓国とは新羅のことで、伊大氐は射楯と考えられ、つまり、新羅から出雲国を、ひいては日本を守るために建立された神社ということができるのではないかという。

 ⇒それだけ、新羅と日本との交流は濃密で、技術など職人たちの交流など良い面があれば、唐朝における朝賀で、日本の遣唐使と新羅使が席次を争ったり(遣唐使が上席を占めた)、日本の遣新羅使を無礼により新羅王が引見しなかったりしたこともあった(753年)。また、新羅調伏のために朝廷は、伯耆、出雲、石見、隠岐、長門の五国に四天王像を安置させたり(867年)、武蔵国に移した新羅人が逃亡(879年)したり、良くないことも色々あったようでした。

現代の日韓、日朝関係とあまり変わらないみたいですね(苦笑)。

 

国有林が売られる=キーパースンの竹中平蔵氏を何故報道しないのか?

 改正国有林野管理経営法なるものが、6月5日の参院本会議で、自民、公明の与党と国民民主党、日本維新の会などの賛成多数で可決、成立しました。

  これは「全国の国有林を最長50年間、大規模に伐採し、販売する権利を民間業者に与える」という法律ですが、ほとんどの国民は知らないでしょう。大手マスコミで大きく報道していたのは、毎日新聞ぐらいです。あとは無視。私も知りませんでした。昨日の朝のTBSラジオを聴いていて初めて知りました。

 「販売する権利を民間業者に与える」というのは、いわゆるコンセッション方式といわれるもので、それは外資でもあり得ます。このブログの2018年12月4日付の「国民の無知につけこんで『日本が売られる』」にも書きましたが、「日本が売られる」の著者の堤未果さんは、この中で、 国民の資産である水の運営権を巧みにフランスの世界最大の水企業ヴェオリア社(の日本法人)に少しずつ売り渡していた事実を暴露していましたね。覚えていますか?

 また、この本の中では、水道だけでなく、国有財産である森林や材木までもが「民営化」の美名の下に売られることも少し書かれておりましたが、私自身はすっかり忘れておりました。

 6月6日付の毎日新聞朝刊「改正国有林法成立 外資進出警戒も」の記事では、九州・五島列島の町に2011年ごろ、大陸から中国系の企業が、地元の民有林を狙って突然進出して来て、町民を驚かせたという話から始まっています。

 水道の民営化に続いて、国有林の民営化も音頭を取って法制化を推進した人物は、安倍首相が議長を務める未来投資会議で、「民間議員」を務める竹中平蔵東洋大教授だということを毎日新聞は書いておりますが、極めて上品な書き方です。

 一方、ニュースに敏感なネットの住人の中には、「国有林払い下げでぼろ儲けを企む竹中平蔵氏」「国の財産、国有林を金融商品化し民間業者に売り払う」「売国の先兵たる竹中平蔵氏がまた絡んだ事案」といった過激であまり上品ではない文章が並んでおります。

 とは言っても、一連の悪名高い規制緩和のキーパースンは、竹中平蔵氏であることは間違いありません。が、毎日新聞以外の大手マスコミは、テレビも新聞もそれすら目立って報道しません。

 報道しないということは、国民に公にしたくはなく、隠したいのでしょうが、TBSラジオで、森本毅郎キャスターは、はっきりと「竹中平蔵東洋大教授はおかしい」と批判しておりました。

 

山里亮太さん蒼井優さん、ご結婚おめでとうございます!

 最近は、衝撃的な無差別殺人事件や高齢者ドライバーによる交通死亡事故や幼児虐待のニュースばかり聞かされていたので、心がささくれだっておりました。そのせいか、昨日電撃的に発表されたお笑い芸人と美人女優との結婚ニュースは久しぶりに明るい話題を提供してくれました。大変失礼ながら、もてない世の男性諸君に勇気を与えてくれたんじゃないでしょうか(笑)。

  結婚を発表した山ちゃんこと南海キャンディーズ山里亮太(42)さんと女優の蒼井優(33)さんのことです。

 最初このニュースを聞いたとき、多くの人と同じように「えーー!」と思いました。「ありえない」というのが正直な感想です。

 でも、今朝のワイドショーでの2人の会見を仕事として(笑)見ていたら、「お似合いのカップルじゃないかな」と妙に納得しました。芸能界は虚像と実像が複雑に交じり合った世界ですから、実際のところは分かりませんが、派手好きな芸能人とは違って2人とも堅実で、飾らない性格同士だったことには感心しました。

 特に、蒼井さんは、山ちゃんから結婚指輪を贈られようとしたら断って、「それよりいい思い出をつくってください」と頼んだことには驚きました。2人で色んな所を旅行したり、食事したりする方がいいというのです。女優さんなら派手にネックレスや指輪で飾りたがるものですが、感心感心です。もっとも、本当の理由は、彼女は大切な物はすぐなくしてしまうから、ということらしいですが。

 私もしっかり研修してますね。芸能リポーターみたいです(笑)。

 とはいえ、2人は6月3日に入籍しながら、同居していないというのも気になります。(その必要はないか?)蒼井さんも「恋多き女優」として噂が絶えなかった過去があります。男性42歳、女性33歳は「厄年」ですからね。所属事務所は、山ちゃんが「よしもと」、蒼井さんは、ともさかりえでブレイクしたイトーカンパニーですか。よしもとはともかく、イトーカンパニーの沢山の所属タレントは、ともさかさんと蒼井さん以外、私は知りませんけど…。

 いやいや、せっかくの明るいニュースなのに水を差す必要はないですかあ…(笑)。末永くお幸せに。

スサノオ神は渡来人の神

いやあ、魂消ました。

 日本人なら誰でも知っている八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治したスサノオ神(須佐之男命=すさのおのみこと)が、朝鮮半島からの渡来人が崇めた神だったというのです。

 神話の世界の話ですが、私は神話が、単なる机上の空論でも、荒唐無稽だとも、そして、牽強付会だとも思っていません。何らかの形で何代も何代にも渡って伝承されてきた話が「形」になったものだと思っております。その証拠に、神々が活躍した舞台が現在でも地名などとして残っているのです。

 今、瀧音能之著「風土記と古代の神々 もうひとつの日本神話」(平凡社、2019年1月16日初版)を読んでおりますが、1ページ、1ページ、感心しながら勉強させて頂いております。著者は、日本古代史専門の駒沢大学教授です。

 瀧音教授は、「古事記」「日本書紀」だけでなく、「風土記」に注目して古代の神話を実証的に解明されております。風土記の中でも特に「出雲風土記」を取り上げています。(奈良時代、朝廷は全国60余りあった国々に「風土記」を提出するように命じましたが、現在残っているのは、 出雲、常陸、播磨、肥前、豊後の5国分だけ。 このうち出雲だけが完本です)

 出雲は、大和朝廷が成立する以前は最も勢力があった豪族で、文化も技術も際立て進んでいた国だったと思われます。何故なら、日本海をはさんで、大陸や朝鮮半島からの最新技術を逸早く取り入れていたからです。勿論、人的交流もあったでしょう。だから、大和朝廷としては全国平定に当たって、出雲に攻め入り、それが「国譲り」の物語になったのではないかと私は推測しています。

 さて、瀧音教授によると、スサノオ神に関連する地名が「出雲風土記」の中で4カ所出てくるといいます。意宇郡の「安来郷」(いずこから来たスサノオ神がここに来て、「気持ちが落ち着いた」と語った)、飯石郡の「須佐郷」(スサノオ神は、ここは小さい国だが良い国だと語り、大須佐田と小須佐田という田を定めた)、大原郡の御室山(みむろやま=ここにスサノオ神が御室を造って宿った)、最後は大原郡の「佐世郷」(スサノオ神が佐世の木の葉を頭にかざして踊ったところ、地面にその木の葉が落ちた)です。この4カ所は、地図で見ると同じ緯度で東西に一直線に並びます。

 この中で、安来郷は今の島根県安来市で、安来節や陶芸家河井寛次郎の出身地として知られていますが、最も重要なのが「須佐郷」です。現在、島根県出雲市にある須佐神社辺りです。瀧音教授はこう書きます。

 それでは、スサノオ神の性格はというと、結論的には製鉄神であったと考えられる。その理由は、まず何よりも須佐郷(中略)は産鉄地域であることがあげられる。…「出雲風土記」の中にも鉄関係の記載をみることができる。こうした地域的な特徴やスサノオ神がもっている呪術的性格などから、スサノオ神は須佐郷を本拠地とする製鉄神であったと考えられる。そして、製鉄という技術をふまえるならば、そもそも朝鮮半島からの渡来人集団によってもたらされた神であるということができるであろう。

 いかがでしょうか?私は納得してこの学説を受け入れました。

  文字や五経や仏教、土木工学、建築、画、仏像、織物、手工芸、馬と馬具、須恵器など思想や技術を持った渡来人は5世紀の頃から、大和の政権中枢に受け入れられ、大活躍したことは以前、このブログの「今来の才伎」(2016年5月24日)で書いたことがあります。

 ここから私の推測ですが、スサノオ神が退治したヤマタノオロチは八つの頭と胴を持った龍のような怪物と言われてますが、実際は、たびたび水害を及ぼして地域住民を困らせていた八つの河川だったのではないかという説があります。

 ということは、ヤマタノオロチを退治したということは、土着の地域住民ができなかった治水の技術を持った渡来人が行ったということにならないでしょうか。つまり、須佐郷に居た渡来人は製鉄技術だけでなく、治水技術にも秀でていたのではないかと私は思っています。

 

 

「創価学会 秘史」を読んで

 大分にお住まいの野依先生の強いお薦めで、高橋篤史著「創価学会 秘史」(講談社、2018年2月27日初版)を読了しました。秘史ですからね、凄い本で、著者はかなり詳細に取材、情報収集、分析されており、知らないことばかりで読み応えがありました。

 著者の高橋氏は、現在の創価学会でさえ、そして信者に対してでさえ公開していない教団の資料である創刊当時の「聖教新聞」と「大白蓮華」の縮刷版を何と、かつて創価学会が「邪宗」と断定し、徹底的な攻撃を仕掛けた宗教団体、立正佼成会の附属図書館から発見し(12ページ)、長い間秘蔵されていた学会の戦前の活動が詳細に分かる1930年代半ばに出された最初の機関紙「新教」(後に「教育改造」と改題)と太平洋戦争突入前後に刊行された「価値創造」のコピーなどを独自のルートで辛うじて入手して、この本を書き上げたといいます。

 と、ここまで書いたところで、この本を薦めてくださった野依先生から電話があり、「面白かったですね」と感想を述べたところ、野依先生は「あまりブログに書かない方がいいですよ」と忠告されてしまいました。

 残念ですね(苦笑)。ご興味のある方はお読みください。でも、これで書き終わってしまうと、ブーイングが聞こえてきそうなので、ちょとメモ書きしておきます。

 ・創価学会の前身である「創価教育学会」を創設し、初代会長となった牧口常三郎(幼名・渡辺長七)は、明治4年(1871年)、現在の新潟県柏崎市生まれで、北海道師範学校附属小の訓導や東京・白金小校長などを歴任した。昭和5年(1930年)11月18日、「創価教育学体系」を上梓。1944年7月、治安維持法違反と不敬罪の容疑で逮捕され、同年11月18日、巣鴨拘置所で獄死。

・二代目会長の戸田城聖は明治33年(1900年)、現在の石川県加賀市生まれで牧口とは29歳違い、親子ほど年が離れていた。本業は、受験補修塾・時習学館(東京府大崎町、現東京都品川区)や出版社、金融業などを営む実業家だった。

・昭和8年(1933年)、長野県で「赤化」した小学校教員(世界恐慌の影響で就職難から京都帝大卒もいた)が大量に検挙される「二・四事件」が発生。創価教育会は、出獄後の転向した彼らの受け入れ先となった。思想犯を取り締まる内務省警保局が協力したフシがあった。しかし、その後、ほとんどが脱会。内務省もその後一転して、学会を弾圧することになる。(50ページ~)

・創価教育の思想は満洲にも及んだ。その拠点支部が国士舘が母体となる満洲鏡泊学園だった(学園はその後、武装勢力による急襲で悲劇的な末路を辿る)。国士舘は、福岡県出身で早稲田大学専門部在学中だった柴田徳次郎が大正2年(1913年)に結成した社会教化団体、大民団が母体となり、同郷の玄洋社の頭目、頭山満を顧問に迎えて17年に私塾国士舘を創立、その後、渋沢栄一らの支援も得て、専門学校として認可された。(131ページ~)

・人気作家だった直木三十五は1932年1月8日の読売新聞紙上で、突然、「ファシズム宣言」なる文章を発表。「左翼に対し、ここに闘争を開始する。…12月31日までは、ファシストだ。矢でも、金でも、持って来い」(145ページ)

・1952年4月27日、狸祭り事件が起きる。(248ページ~)

登戸事件、農林水産省元事務次官事件で考える

  内緒ということになってますが、私は今でもあるマスコミで仕事をしております。(しがみついているといった表現の方が正しいでしょう=笑)

 私とは違って、会社で偉くなった先輩や後輩の中には、同業他社であるテレビやラジオに出演している方もおります。いわゆるニュースのコメンテーターってなところでしょうか。

 私自身は、彼らとは同じ会社だったので、本人についてはよく知っており、話もしたこともあるというだけで、何の関係も利害関係もないのですが、どういうわけか彼らが出演するテレビやラジオは、気恥ずかしくなって、チャンネルを変えるか、消したりしてしまいます。

 偉そうですが、「お里が知れる」といいますか、「育ち」が分かってしまっているからです。落ち着かないのです。特に、政治経済から事件事故に至るまで幅広く「解説」したりしていると、正直、「専門でもないことをよくここまでしゃべれるものだ」と違和感を覚えてしまうのです。政府広報的な政権擁護の発言をしても、低音の魅力にほだされて、視聴者は信じ切ってしまっているんだろうなあ、と思ってしまうのです。

 それはともかく、先月5月28日に川崎市登戸で起きた20人殺傷事件では、テレビやラジオでは見たことも聞いたこともない多くの犯罪心理学者の方が出演されて、ああでもない、こうでもない、推定されておりました。でも、本当にその通りなんでしょうか?「拡大自殺」なるキーワードも初めて知りましたが、推測の域を出ていません。もしかして、鬱屈した犯人自身すら明確な理由は分からなかったのかもしれません。(ただし、自分が進学できなかったのに、同居していた従姉が通っていた名門学園に対する恨みや羨望があったことは推測できますが)

 「自殺するなら一人でどこかでやってくれ」とテレビで発言した落語家らに対して賛否両論で、人権擁護団体から非難が集中したらしいですが、私も最初はそう思ってしまいました。私の卒業した大学の後輩に当たる外務省の職員や幼い無抵抗の小学生を殺害する権利なぞ誰にもあるわけありません。でも、あまり強調すれば、このブログは炎上するでしょうね。

 登戸の犯人は伯父夫婦に育てられた複雑な環境で、51歳ながら、「引きこもり」だったと言われています。

 登戸事件の4日後の6月1日には、東京・練馬区で、農林水産省の元事務次官が、44歳の息子を刺殺する事件がありました。亡くなった息子さんは、定職につかず、引きこもりがちで、ネットゲームにお金を注ぎ込み、親子の間で口論が絶えなかったと言われてます。元事務次官は76歳。子どもが親を介護するのではなく、高齢の親が働かない成人の子どもの生活の面倒を見ていたことになります。犯人を一方的に指弾したくなくなるような情状を感じてしまいます。

 今日のニュースでは、元事務次官は、川崎登戸事件を見て、「隣の小学校の児童がうるさい、ぶっ殺すと言っていた。息子を加害者にさせたくなかった」と供述したそうですね。(それとは無関係に、元事務次官は年収2300万円で、退職金は8800万円だったらしく、私の周囲では「税金なのに貰いすぎ」とのやっかみの声が)

 加害者と被害者の事件が続けてあったせいか、「引きこもり」が再び注目されています。厚生労働省の調査では全国で約60万人が引きこもりになっていると言われてますが、ある精神科医は「その数は実際100万人以上で、50代、60代と高齢化している」と推定しています。勿論、99.99%の引きこもりの本人たちはそんな事件とは無関係なので、はた迷惑であり、注目されること自体は人権侵害なことは確かなのでしょう。

 世の中が格差社会、貧困社会になったせいなのか、私は専門家ではないので分かりませんが、いつ暴発するか分からない不満分子が増えればいつ事件に巻き込まれるか分からず、安心して公道も歩けません。

 先月31日には米バージニア州の市庁舎で銃乱射事件があり、少なくとも12人が死亡したと言われます。 またか、です。民間統計によると、米国で今年起きた銃乱射事件は、これで150件目になるとみられる、とBBCは報じています。いやはや、どこの世界でも、現代は安心安全に暮らしていけないものなんでしょうか?

京都・醍醐寺と仏高級レース「ドニヤン」とのコラボ

 おはようございます。京洛先生です。

 昨夜(6月1日)は、貴人もご存知の加藤力之輔画伯のお導きで、世界遺産「醍醐寺」境内の「霊宝館」で開かれた、フランスの高級バックの「ドニヤン(DOGNIN)」社の商品披露を兼ねたカクテルパーティーに行って来ました。

フランス語が喋れる貴人が見えていたら、フランス人関係者とさぞ会話も弾んだでしょう(笑)。

そう言えば、その昔、というか、30数年前、東京・大手町の旧経団連会館で開かれた日仏経済交流のパーティーで、貴人が、ポンセ外相と流暢に仏語で雑談を交わされたの思い出しましたね(笑)。

 今回のカクテルパーティーを主催した「ドニヤン」のデザインを手掛けているリュツク・ドニヤン氏(上の写真、通訳の女性の右隣の白ワイシャツの男性です)の実家は、フランスで1805年創業のシルクの高級レースを手掛けている老舗だそうです。「ドニヤン」製のレースは品質が良いことから、パリのオートクチュールの有名ブランドは「ドニヤン」製の超高級レースをこぞって使用、自らのブランドを高めてきたそうです。英国のエリザベス女王の戴冠式の時も、衣装のレースはすべてドニヤン製だったそうです。

 しかし、どの世界も、業界も、時代の変遷があり、レースも、ファッションの世界から、徐々に、その位置づけが後退して、ドニヤンも、レースだけでなく、多様性が求められてきたようです。

 当主のリュック・ドニヤンさんは、手技が器用なこともあって、繊維だけでなく、バックのデザインも手がけられたということです。伝統、歴史に胡坐をかいてはいられないのですね。業態、業容の変転、変容です。

 今回、醍醐寺とコラボレーションして、「霊宝館」の展示スペースには、ドニヤンさんが自らデザインした、こうしたファッション性の豊かな、最高級バッグが並び、鞄にうるさい、ご婦人連が見られれば「一つ、欲しくなるわね」と、ため息が出そうな光景です。

もっとも、お値段もそれなりにするようで、近々、三越・日本橋店でも、取り扱うことが決まっているということです。

 醍醐寺の仲田順栄総務部長は「我々、お寺も、国際交流をさらに積極的に進めていきます。今回、ドニヤンさんとコラボレーションしましたが、こうした工芸品だけでなく、食べ物や料理などあらゆる分野との交流を深めたいと思っています。フランス人2人を採用し、フランス語の接遇にも力を入れています」と日仏交流に意欲を見せていました。

カクテルパーティは霊宝館に隣接するフレンチカフェであり、このように「仏果」仕立ての、マカロン、ポムフリット(フライドポテトのことですね)、ワインなどのご馳走がふるまわれました。いずれもパリで長年修業したフレンチシェフの料理で、これまた大満足出来ました。

 おフランスも京都のお寺も“ブランド”ですが(笑)、上の写真のレースは200年以上の歴史のある「ドニヤン」が作った超高級の手織りレースです。

 今回、醍醐寺が「霊宝館」を会場に提供されたことから、同寺にリュック・ドニヤン氏が、お礼に寄贈されました。

関係者によると「このレースは、古い、年代もので、極めて貴重で、今では熟練の職人もいないので作れません」ということです。

「手織り」の技術は、世界中、どこでも、熟練した織工、職人が支えているわけですね。各国とも「無形文化財」、「人間国宝」のような形で認定、指定しているわけですが、人間の「眼力」が劣化してしまい、それも先細りしています。

 既存の大手マスコミは、単純に“人工知能”(AI)などによる“技術革新”を絶賛、肯定するだけでなく、人間の持つ、希少、貴重な手技(てわざ)の絶滅危機を、もっと大きく取り上げるべきですね。

 以上

 あらまあ、総務部長さんにまで、随分深く取材されましたね。京都の大手有力寺院もフランスのブランドと提携する時代になったとは驚きでした。いつもながら有難う御座いました。

All photos copyright by Kyoraque sensei


高野山奥の院と青龍山安養寺とトランプ大統領来日の真の目的

 早いもので、もう6月ですか。。。うーん、ネガティブなことを書くのはやめておきましょう。泣こうが、喚こうが、時間は経ち、人生は過ぎていきます。泰然自若の境地でいるしかありません。

 そこで、明るい気持ちになろうと、早くも夏休みの計画を立ててみました。一応、いまだに会社組織にしがみついている身なので、自由はききませんけど、休みが取れればということで、二つの大きな計画を立ててみました。本当は昨年のスペイン旅行に続いて、ポーンと、また海外旅行に行きたかったのですが、お代官様の目が厳しくて今年は無理そうです(苦笑)。

 ということで、国内に絞りました。一つは、7月に弘法大師空海の高野山に行くことです。一生に一度は行きたいと思っていたからです。NHKの「ブラタモリ」の影響もあるかもしれませんが、是非とも「奥の院」に行って、織田信長や明智光秀ら戦国武将のお墓(供養塔?)をお参りしたいと思います。

 もう一つは、京都です。皆様ご案内の通り、このブログのおかげで、作家村上春樹氏の従弟である村上純一御住職と不思議なご縁ができましたが、その村上住職が預かる左京区の青龍山安養寺にお詫び行脚に行こうかと思っているのです。村上おっさん(和尚様のことを京都ではそう呼びます。「お」にアクセント)は、とても怖そうなお方で、お会いするなり、「喝!」を入れられそうですが、お許しを戴ければ、8月の「送り火」辺りにお伺いしようかと思っています。ただ、8月はお盆ですから、1年で一番忙しい月ですからね。一番混む時期なので、また、京洛先生に御厄介をお掛けしてしまうと思います。

◇F35が1兆2000億円

今日書くことはこの辺にしておこうかと思いましたが、先日、国賓として来日したトランプ米大統領のことを書いておこうと思います。

 トランプさんは一体、日本に何しに来たのでしょうか?「新天皇陛下に面会することはスーパーボール観戦の100倍も凄いこと」と安倍首相に説き伏せられたから?それとも、ゴルフをして相撲を観戦して、優勝力士に米大統領杯を授与するために?

 ほとんどのマスコミはそんなお祭りムードめいた報道一色だったので、多くの日本国民もそう思い込んだことでしょう。

 でも、実際は、「ディール(取引)」に来たのでしょう。その辺りの事情をうまくまとめていたのが、5月28日付東京新聞の「こちら特報部」だけでした。見出しだけ見ても、血の気を引いてしまいそうです。「安倍爆買い外交の数々」「農産品関税削減 参院選後の譲歩を確約?」「米の顔色うかがい、国益にならず」…。これでは、ゴルフをしながら、トランプさんが「ちゃんと約束を果たしてくれるかどうか確かめに来たんだよ」と言えば、安倍首相も「おっしゃる通りです」「はい、その通りに致します」と、まるで植民地か属国のように、宗主国に対してペコペコしている感じに見えてしまいます。

 その取引の金額が半端じゃないのです。米国製最新鋭ステルス戦闘機F35、105機の追加費用が何と1兆2000億円。地上配備型迎撃システム「イージス・ショア」2基の取得関連費2404億円、維持運用費を含めて計4389億円。垂直離着陸輸送機オスプレイ1機100億円、17機導入で1700億円。これらは全て、国民の税金ですからね。でも、この桁違いの金額については、国民のほとんどは知らないでしょう。

 極め付きが、カジノを含む統合型リゾート施設(IR)。カジノ運営のノウハウは日本にはないので、米国の業者が中心に請け負い、その額はプライスレスだとか。つまり、天井知らずの日本人のお金が、米国に吸い取られることになります。

 東京新聞は「金で米国の歓心を買う安倍政権。『貢ぎ物』は軍事に限らない」と、大丈夫かなと思うくらい、露骨にあからさまに書いてますから、これでは、安倍政権に嫌われるはずです。菅官房長官が東京新聞女性記者の質問を受け付けない理由が分かりました。

深谷城~渋沢栄一記念館への旅

 先ごろ、鹿島茂著「渋沢栄一」全2巻の大作を読んだ影響で、渋沢栄一の生まれ故郷を見たくなり、一躍「1万円札採用」で再度ブームになっている埼玉県深谷市にまで足を延ばしに行って来ました。

 この日、JR東海道線で人身事故があり、高崎線にも影響があり、当初の予定よりも深谷駅に着くのが遅れました。午前11時過ぎでした。

 観光案内所で聞いたところ、「渋沢栄一記念館」へのバスは、10時55分に行ってしまったばかりで、次のバスは2時間後の12時50分だというのです。「えー、2時間に1本しか出ていないんですか?」と聞いたところ、「(運転手が)お昼休みなんで、すみません」と謝られてしまいました。

 「いえいえ、謝られてもあなたのせいではありませんから…」と、こちらが却って恐縮してしまいました。

 あと2時間もあるので、駅近くにある深谷城址に先に行くことにしました。

 その前に駅周辺を散策。深谷駅の駅舎は、このように東京駅舎のように立派なレンガ造りです。東京駅と同じ辰野金吾博士の設計なのでしょうか。いや、違いました。今は簡単に調べられます。JR東日本建築設計事務所が東京駅をモチーフにして設計し、1996年7月に完成された、とありました。

 渋沢栄一は、日本初のレンガ工場をつくった人ですから、レンガ造りは、それにちなんだことでしょう。

 上写真にバス2台止まってますが、後方の小さいマイクロバスが、渋沢栄一記念館にまで行く「くるりん」ちゃんです。12人乗りです。深谷駅から記念館まで約30分。途中のバス停留所は市役所やスーパーやコンビニなどで、まさに市民の足になってます。

一日乗車券が200円。一日何回でも乗れるそうですが、私は往復の2回で十分でした(笑)。

 深谷駅北口前にある渋沢栄一像です。銅像は他に市内に何箇所もあります。

 まさに郷土が生んだ偉人です。

 駅から歩いて約10数分。城跡らしき風格が見えてきました。

 深谷城址公園です。

 深谷城は中世の平城ですから、このような石垣と塀だったわけではありません。

 深谷城は、戦国時代の深谷上杉氏の居城でした。

 深谷上杉氏は、関東管領の山内上杉憲顕が14世紀後半に六男憲英をこの地に派遣したことに始まり、約230年間、深谷を拠点とした氏族です。当初、初代憲英から四代憲信までは国済寺に庁鼻和(こばなわ)城 を構えておりましたが、五代房憲が深谷城を築き、その後九代氏憲までここを居城としました。

 今はこうして公園になっていて、市民の憩いの場になってます。

 深谷城の本丸は、今は深谷小学校の敷地内にあります。

 物騒な世の中になってしまい、昔なら簡単に部外者でも小学校の敷地に入れましたが、今は門扉が閉まり、不可能です。

 諦めかけたら、敷地の垣根の隙間から、本丸跡の石碑が見えました。少し望遠にして写真に収めることができました。

 ちなみに深谷城は、中世の城ですから渋沢栄一の時代は既に廃城となっており、江戸時代は岡部藩です。でも、この岡部城も維新後、廃城となり、今は跡形もないようです。しかも、天守はなく、陣屋だったようなので、今回はパスしました。

 バス発車時刻までまだ時間があるので、駅近くの老舗蕎麦「立花」で、きのこせいろ(700円)を食しました。美味い。名物深谷ネギもしっかり入ってました。女将さんがとても感じがよく、「またいらしてくださいね」と言われ、その気になってしまいました。

「くるりん」ちゃんに乗って、駅から30分。ついに渋沢栄一記念館に到着しました。建物はかなり立派です。

 有難いことに入場無料でした。(館内は撮影禁止でした)

 展示品に関しては、正直、東京・王子飛鳥山にある「渋沢史料館」の方が豊富で、充実していた感じでした。

 でも、この中で、渋沢栄一自身が書いた「孝経」( 中国の経書の一つ。曽子の門人が孔子の言動を記す )の写しが見事な達筆で、「字は体を表わす」と言いますか、渋沢栄一の律儀な性格がものの見事に表れている感じでした。

 また、渋沢栄一が幕末に、徳川昭武の渡仏団の一員としてフランスに滞在した際、その世話係が銀行家のブリュリ・エラールで、渋沢は彼の「サン・シモン主義」に大変影響受けたことが例の鹿島氏の著書に何度も出てきましたが、本には顔写真がありませんでした。

 この記念館では、ブリュリ・エラールの肖像写真が展示されていて初めて拝見することができました。銀行員だというので、もう少しヤワな感じかと思っていたら、髭もじゃで、かなり精悍な顔つきでした。

 記念館から渋沢栄一生誕の地、旧渋沢邸「中の家(なかんち)」に向かいました。

 清水川沿いは青淵公園になっており、上の写真のように「渋沢栄一の言葉」が立てかけられています。

 着きました。本当は、青淵公園から回ると「裏口」に到着したのですが、表玄関にまで回ってきました。平成29年には天皇皇后両陛下(当時)がこの地を訪れ、邸内では写真パネルが飾られてました。

 農家とはとても思えない。武士のような立派な門構えです。

 門をくぐると、このように、渋沢栄一像が出迎えてくれます。

  敷地は1000坪と広大です。蔵が四つもありました。ここに来て、渋沢家は豪農だったことを肌身で感じました。

 「中の家」を正面から見たところです。明治に再建された家ですが、江戸時代はこの2階で養蚕と藍玉づくりが行われていたそうです。

 いずれにせよ、大変失礼ながら、こんな辺鄙な不便なところから、「日本の資本主義の父」となる偉人を輩出したとは信じられませんでした。

 また、失礼ながら、今でも買い物にも不自由なところです。若き渋沢栄一の学問の師であった従兄の尾高惇忠(後に官営富岡製糸場の初代工場長)の家までここから歩くと30分ぐらい掛かります。

 昔の人は本当に偉かった。