IT起業家の人物相関図が分かる「ネット興亡記」

 極東日本列島では、毎日、Covid-19感染者が「過去最多」を更新しています。そこで、私は、このところ、書斎に引き籠って、古代や戦国時代や江戸時代にタイムスリップして、「現実逃避」しておりましたが、それだけではマズイので、たまには現代に返ることにしております。

 まさに、今読んでいる杉本貴司著「ネット興亡記」(日経BP、2020年8月25日初版)が現代そのものです。著者の杉本氏は1975年生まれ。京都大学修士号を持つ日本経済新聞社編集委員で、文章は読み易いのですが、多少、自己の文才に溺れた奇をてらった、勿体ぶった書き方をするので、数行読まないと意味が分からない箇所が散見されます。でも、100人以上にインタビューして書き上げたといいますから、登場人物の「告白」は熾烈で鮮烈です。本書に従って敬称を略しますが、楽天の三木谷浩史、動画配信U-NEXTの宇野康秀、「パチンコの釘師から這い上がった」ネットインフラGMOの熊谷正寿、ライブドアの堀江貴文、サイバーエージェントの藤田晋ら錚々たる名士が登場します。今では綺羅星の如く輝くネット業界の起業家とも風雲児とも言われたりする一方、「IT長者」とか「IT成り金」とか「ヒルズ族」とか揶揄された人物の一代記でもあります。

  彼らは1960年代~70年代生まれで、「ウインドウズ95」日本版が発売され、「インターネット時代」到来という大ブームを巻き起こした1995年以降に起業しています。(私もこの年に生まれて初めてパソコンMac bookを買い、ネットも始めました。当時は電話回線の呼び出しみたいなネットで、画像を出すだけで時間が掛かり、パソコン通信に毛が生えたようなものでした。IT業界は日進月歩の世界ですから、四半世紀=25年も経つと全くパラダイムが変わっていて、既に歴史になってしまっています。)彼らの全く無名時代から筆を起こしているので、「人物相関図」がよーく分かり、意外にも、というか、私だけが知らなかったのでしょうが、ほぼ全員お互いに面識があり、盟友だったり、師弟関係だったり、憎きライバルだったりします。そして、一見華やかな世界に見られながら、裏切りあり、抜け駆け、出し抜きあり、破産倒産、再起あり、中には自殺未遂やホリエモンのように塀の中に収監されたりで、一様に若くしてとてつもない波乱万丈の戦国時代みたいな生涯を送っています。

 そうなのです。コンピューターは「0」と「1」の世界で、勝ち負けがはっきりしている世界なので、その覇権争いは、刀剣や弓矢は使わなくてとも生死を賭けた戦国時代とそう変わりません。名を残した一人の勝者の陰に何百万人もの敗れて業界を立ち去った無名の人々がいるわけです。運があったのか、才覚があったのか、分かりませんが、成功者は、どん底に突き落とされた時も「最後まで諦めなかった」というのが共通しています。ネット業界のキーパースンの群像に焦点を当てたこれ以上の書物はないと思われるので、もはやこの本は「ネット興亡記」というより、「ネット興亡史」と言っても良いかもしれません。

 何故なら、ネット業界人だけでなく、あの「物言う株主」”村上ファンド”の村上世彰や元弁護士で経営コンサルタントの井上智治(楽天によるDLJ証券買収、タカラとトミーの合併、USENのエイベックスへの出資など手掛ける)ら、知る人ぞ知る多士済々の人物も登場し、物語に彩りを添えているからです。

 何しろ757ページの百科事典のような大著ですから、この本の内容を一言ではとても言えません。現代日本人は、生活の上でグーグルやアマゾンやLINEやヤフーなどを日頃、当たり前のように使っていますが、その陰にどんな「物語」があったのか、私を含めてほとんど知りません。それがこの本にはバッチリ書いてあるんですよ。

本文とは関係ない現代の風物詩

 一橋大学を卒業し、日本興業銀行時代に米ハーバード大でMBAを取得してエリート街道を進みながら、興銀を退職してネット通販「楽天」を起業した三木谷氏の動機の一つが、1995年の阪神・淡路大震災で叔母夫婦を亡くしたことがあったことも初めて知りました。

 もう一つ、LINEは、韓国の検索エンジン最大手のNAVERが、米グーグルに対抗するために、ネット検索しても出て来ない人間関係をつなぐメディアをつくったという話です。つまり逆転の発想で「検索会社が検索を棄てて」初めて、とても太刀打ちできない巨大ガリバー企業グーグルに打ち勝つことができたというのです。その立役者の中には、1990年から来日してゲーム会社の日本法人代表になって人脈を広げた千良鉉(チョン・ヤンヒョン)や開発の総責任者・慎重扈(シン・ジュンホ)のほかに、ソニーから転職した森川亮、中国最大手検索会社、百度の日本法人元幹部で、「LINEの軍師」と呼ばれた舛田淳、ライブドア事件で壊滅状態だった会社を復興して社長になった出澤剛らライブドア残党組も「合流」してLINE開発を担当していたことまでは知りませんでした。

 とにかく、IT業界、ネット社会といっても、無機的ではなく、とても人間臭い凄まじい世界です。最初にちょっと嫌味を書いてしまいましたが、そんな魑魅魍魎の世界を活写したこの本が面白くないわけがありません。この本の主人公を一人挙げるとしたら、リクルートを退社して人材紹介・派遣会社インテリジェンスを仲間と創立し、父親が創業した大阪有線を再起させた(その後買収され、再び買い戻した)動画配信U-NEXTの会長・宇野康秀氏かもしれませんが、これ以上書くと長くなるので、ブーイングが聞こえてきそうです(笑)。

 ということで、宣伝ではありませんが、この本の一読をお薦め致します。今のネット社会の原点が分かり、視野が広がると思います。

 

「本能寺の変」の謎が解明した?

 古代史に回帰したと思ったら、もう戦国時代に戻ってしまいました(笑)。

 また、例の週刊朝日ムック「歴史道」最新号が「本能寺の変」を特集していたので、迷わず買ってしまったのです。

 この本の発売日が1月6日。その2日前の1月4日の朝日新聞の朝刊一面に大スクープが掲載されました。何と、「明智光秀は、本能寺に行っていなかった?」という衝撃的な新事実が発見されたのです。明智光秀が最も信頼していた家臣の斎藤利三(としみつ、1534~82年、春日局の父、山崎の戦いの後、捕縛され処刑、絵師海北友松の親友)と明智秀満(左馬助、1536~82年)率いる先発隊2000余騎が本能寺を襲撃し、光秀本人は、本能寺から南約8キロの鳥羽に控えていたというのです。

 えっ? それなら、「敵は本能寺にあり!」と、軍配を寺に向けて突進した明智光秀の姿は、講談のつくり話だったんですか? 講談師、見てきたような嘘を言う、とは昔から言われてきました(笑)。

 「明智光秀が本能寺に行かなかった」と証言したのは、実際に本能寺の変に参戦した斎藤利三の三男利宗(としむね、1567~1647年、当時数えで16歳)だったということですから、かなり信憑性があります。(加賀藩の兵学者関屋政春著「乙夜之書物(いつやのかきもの)」上巻(1669年)の中で、斎藤利宗が甥で加賀藩士の井上清左衛門に語ったというもの)

 この「歴史道」では、本能寺の変に関する歴史的史料を「一次史料」「二次史料」と区別して列挙していますが、勿論、この「乙夜之書物」は、雑誌の締め切りの関係で入っていません。が、後世に書かれた「二次史料」とはいえ、信憑性は高いでしょう。斎藤利宗が、江戸の平和な時代になって甥に嘘や出鱈目を語って何の得になるのでしょうか。

 織田信長に関する評伝で最も有名な歴史的史料は、太田牛一著「信長公記」ですが、これは後世になって一次史料を参考にして書かれたもので、二次史料に分類されていました。一次史料で重要なものの一つに、光秀と深い親交のあった吉田神社の祀官だった吉田兼見が残した「兼見卿記(かねみきょうき)」があり、そこに光秀本人が本能寺を急襲したように書かれていたため、後世に影響を与えたようです。

 しかし、吉田兼見自身が本能寺近くに行って見たわけではなく、あくまでも伝聞で書いたといいます。となると、実際に本能寺の変に参戦した人物である斎藤利宗の証言の方が真実ではないでしょうか?

 この本でも、小和田泰経氏は「たかだか1町(約109メートル)四方の寺院を取り囲むのに大軍は必要ない。(明智光秀は)全軍(1万3000~2万兵)で本能寺を攻めたのではなく、残りは七口と称される京都の出入り口を押さえていたのであろう」と書いてあるので、光秀本人が「現場」に行かなかったことは、十分あり得る話なのです。

本能寺跡

 光秀は、直接、主君信長に手を掛けたくなくて本能寺に行かなかったとしたら、彼の性格が伺えます。この本では、本能寺の変を起こした光秀の動機について、「怨恨説」「黒幕説」「野望説」など色々書かれていますが、私は、一つじゃない「複合説」を取ります。信長の古くからの重臣である宿老の佐久間信盛が追放され、滝川一益は伊勢長島(三重県桑名市)から上野厩橋(群馬県前橋市)に国替えさせられるなど、信長は世代交代を始めた。光秀も、せっかく坂本城、丹波亀山城を苦労して治めることができたのに、次は俺の番か、と危機感を持ったこと。四国長宗我部元親との交渉役を外されたこと。それに、中国毛利軍と戦っていた羽柴秀吉の与力(配下、つまり格下げ)になることを命令されたことなどから、将来を悲観して、中国地方に向かわず、変を起こす4日前(1582年5月28日、本能寺の変は6月2日早朝、当時陰暦で5月は30日まで)に急に決断して、緻密な完璧主義者の性格の光秀には似合わず、無計画に性急に、そして杜撰に事を進めていったのではないかと思います。

 考えてみれば、本能寺の変は、わずか439年前の出来事です。古代史と比べれば、つい最近のことです。これからも、信頼できる史料が出てくれば、どんどん謎も解明していくのではないでしょうか。

【追記】

 本能寺の変の第一次史料「兼見卿記」を書いた吉田神社の祀官吉田兼見(兼和)は単なる神官ではなく、公家であり、朝廷(正親町天皇)と光秀との仲介役だったんですね。光秀は、本能寺の変の後、大津に向かい、粟田口で吉田兼見と対面しているといいます。それどころか、変から5日後の1582年6月7日、吉田兼見は、光秀が占拠した信長の居城安土城に派遣され、光秀を信長に代わる権力者として認める朝廷の意向を光秀に伝えたといいます。

 これだけ、光秀に直接会っているなら、吉田兼見は本能寺の変の真相を本人から聞いていたはずなのに、具体的に書かなかったのは、光秀から口止めされていたのか? 態と書かなかったのか? やはり、謎は深まるばかり…。

大王の外戚、葛城氏と和邇氏は意外と知られていない

群馬県高崎市の保渡田古墳群 Copyright par O,T

 週刊朝日ムック「歴史道」の「古代史の謎を解き明かす!」を読了しました。この本については、既に色々書きましたが、最後に一つだけ備忘録のため、付け加えておきたいと存じます。

 倭王権(大和朝廷)の大王が、たった一人で強大な権力を獲得して独裁的な政治を行っていたと考えるのは誤りで、地方豪族と協同の連合王国みたいなものだったことがよく分かりました。何と言っても、後の江戸時代の参勤交代のような上番制度(地方豪族が上京して当番勤務に就くこと)があったことを知ったのは大収穫でした。以前にも書きましたが、地方豪族の人身管理と、彼らの勢力を削ぐことが目的だったのでしょう。

 日本史を見ると、どうも一人の独裁者が莫大な権力を振るっていたというのは、藤原道長や平清盛や織田信長や豊臣秀吉らを除けば例外で、天皇は、独裁者とは言い難いのです。何しろ、大王から初めて天皇の呼称を使うようになった天武天皇から大臣、大連ら数人の有力豪族らによる「合議制」になったので、天皇一人だけで物事を決められなかったようです。(勿論、巨大な古墳を作るほど大王に権力が集中していたことは確かですが)

 平安時代になると、天皇以上に権力を振るうようになったのは摂関家の藤原家で、段々、天皇はお飾りのような存在になっていくことは皆様もご案内の通りですが、それ以前にもっと古代から外戚関係の有力豪族が権力を振るっていたんですね。

 藤原氏の前は、蘇我氏であることは教科書にも出てくるのでよく知られていますが、その前に葛城(かずらき)氏がいて、5世紀に葛城襲津彦(おつひこ)が大王家の外戚として大きな力を持ち、その娘の磐之媛(いわのひめ)は、大王仁徳の正妻となり、履中、反正、允恭の3人の大王を生みます。しかし、5世紀後半の大王雄略の御世に、葛城円(つぶら)が大王安康を暗殺した眉輪王(まゆわのおおきみ)を匿ったかどで焼き殺されて、これを機に葛城氏は没落します。とはいえ、その後に大王以上の権力を振るった蘇我氏は、実は葛城氏から分立した氏族だったいう説が近年注目されているというのです。

 蘇我氏本家は乙巳の変で滅亡しますが、分家の蘇我石川麻呂の子孫は石川氏と改名して後代にも残ります。また、藤原氏の祖である中臣鎌足の嫡男藤原不比等の正妻娼子(しょうし)は蘇我馬子の曾孫に当たり、2人の子息房前の子孫から摂関政治の最盛期を築いた藤原道長が出ています。

 となると、何らかの形で、葛城氏の血統は、蘇我氏、藤原氏を経て、少なからず、ずーと続いてきたことになりませんか?

 私も知らなかったのですが、葛城氏と並んで大王と外戚関係を結んでいた豪族に和珥(和邇、丸邇=わに)氏がいます。5世紀から6世紀後半にかけて、応神、反正、雄略、仁賢、継体、欽明、敏達の7大王に対して、9人の后妃を入れたといいます。和邇氏は後に北方の春日に拠点を移して、姓を春日と改めたといいます。

 大王家が続くためには子孫が必要で、そのためには女性の外戚が必要なのは当然な話ですが、古代の研究には、大王家だけでなく、葛城氏や和邇氏などの豪族の知識も必要なことがよく分かりました。

築地「魚河岸三代目 千秋」の「おすすめ丼」のお薦め

 昨日は、行きつけのランチの店、築地の「魚河岸三代目 千秋」に行き、いつもの「おすすめ丼」を食して、帰ろうとしたら、上の写真の「お年賀」を頂いてしまいました。

 手ぬぐいか何かかなあ、と思ったら、中身は焼きのりでした。でも、こんな気が利くお店は初めてです。夜の馴染み客なら分かりますが、私はランチしか行ったことがありませんからね。

 この店は知る人ぞ知る店で、わずか11席しかない狭い店なので、いつも超満員です。いや、知る人ぞ知る店ではなく、漫画「魚河岸三代目」か何かのモデルになった人気店らしいのです。私は漫画は読まないので、よく分かりませんが、店内にそれらしき漫画が置いてありました。

 ここは、恐らく、築地で、いや、東京で、いや、関東で、いや東日本で、いや日本で一番美味しくて安い海鮮丼を出す店だと思います。3~4年前に会社の同僚から教えてもらい、月に数回行くほど気に入っています。

 でも、この店の角刈りの大将(主人や店長というより、大将が一番相応しい)が、いつもテンパっている感じで、威勢が良いというべきでしょうが、ちょっと怖いところがあり、店が満員だと、「ちょっと外で待っててください」と怒られるし、コロナ禍の前は、席の間隔を空けて座ると、「順番に詰めてお座りください」と怒られたりしました。そこで、我々は、この店に行くとき、「今日は『緊張丼』に行くか」といった符丁を使ったりするのでした。(本人は怒っていない、と思いますが、この店に行くには覚悟がいります)

 繰り返しますが、大将の腕は確かで、お味はピカイチです。ここの海鮮丼を食べたら、他の店では食べられないくらいです。お吸い物も、大将は出すときに、いつも「熱いのでお気をつけてください」と同じセリフを使いますが、これも抜群に旨い。それに、何と言っても日替わりの「おすすめ丼」なんか1000円ですからね。

 あまり教えたくない店だったのですが、立派な「千秋」のホームページがあったので、皆さんも御自分で場所を見つけて行ってみれば、絶対に後悔しないと思いますよ。

 えっ?肝心の「おすすめ丼」の写真がない?

 まさか、撮れるわけないでしょう。「緊張丼」というぐらいですから、大将の目の前で写真なんか撮ったりしたら、どんなにどやされることやら…。できるわけないでしょう(笑)。

古代史の魅力を再発見=古墳巡りもライフワークになるかもしれません

 近年、戦国時代と江戸幕藩体制にハマっておりましたが、最近ではまた古代史への興味が復活してきました。”罪作り”なのが、週刊朝日ムック12号「古代史の謎を解き明かす!」です。考古学の最新の研究成果が反映されていて、私が中学高校時代に習った古代史とは「飛躍的」に違うので、「ああ おまえはなにをして来たのだ」と中原中也のように呟きたくなります。

 一番大きな成果は、断定してはいけませんが、奈良県桜井市で1971年から本格的な発掘調査が始まり、大宮殿の遺構などが発見された纏向(まきむく)遺跡でしょう。3世紀の弥生時代末期から6世紀の古墳時代前期にかけての遺跡で、ここを邪馬台国の拠点で、同遺跡内の箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墳墓だったとする学説もありますが、私自身は形勢不利の「邪馬台国=九州説」派なので、そうは取りません。でも、考古学者の間ではほぼ一致している、天皇家につながる大王(おおきみ)の都だったのではないかという説には与します。

 もし、大王の都だとしたら、第15代応神天皇(在位270~310年)か、その前の実在が実証されていない神功皇后(同201~269年)辺りから、第28代宣化天皇(535~539年)辺りが想定されますが、これはあくまでも素人の私の想定です。倭は古代から地方豪族の群雄割拠の時代だったので、纏向遺跡はこれら全国の首都のような王都だったという説もありますが、確かにその可能性の方が高いでしょう。同遺跡では、出雲や吉備で生産された土器なども多数見つかっているそうです。そもそも古墳の前方後円墳も、もともとは吉備から始まったという説があり、言ってみれば、この王宮も奈良県人だけではなかったということなのでしょう。考古学の権威・武光誠氏は「私は吉備から来た移住者が奈良盆地の纏向に王権を開いたと考えている」と書いているほどです。現代人が想像する以上に古代では、今の九州や関東甲信越、東北から大和に集まって来ていたのでしょうし、大陸や半島からの渡来人がかなり多かったとも言われてます。

 この大和の王権は、私の学生時代は「大和朝廷」と習っていましたが、今の教科書では「ヤマト王権」というのが大半だそうですね。奈良県桜井市に大王の都があったということはほぼ確実でしょう。他の本で読んだのですが、その大王(おおきみ)が天皇と呼ばれるようになったのは、第40代天武天皇(在位673~686年)が初めてだと言われています。(他に諸説あり)それでも、天皇を漢字二文字の漢風謚号(かんぷうしごう)の呼称となったのは、それから100年後の8世紀後半で、淡海三船(おおみのみふね)という学者が一括して付けるまでなかったといいます。つまり、例えば第16代仁徳天皇は、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)、第21代雄略天皇は、大泊瀬幼武尊 (おおはつせわかたけるのみこと)と呼ばれていたわけです。8世紀後半といえば、奈良時代後半か平安遷都の頃です。そんな最近の(笑)時代まで天皇の漢風二文字の呼称がなかったとは全く知りませんでした。

 言わずもがなですが、縄文時代、弥生時代は、日本語があったかもしれませんが、文字はありませんでした。日本で文字が広まったのは、古墳時代の第15代応神天皇(在位270~310年)が百済王に対して、中国の学問に通じた漢文が使いこなせる学者の招聘を要請し、これに応じて王仁が来日して以来だと言われています。となると、文字がなかった縄文、弥生時代は、遺跡から発掘された土器や装飾品や祭祀品や武器などからその生活や精神性や風習を想像するしかありません。が、縄文土器や土偶などを見ても、彼らはかなり知的水準が高く、巧みな職人技を持ち、現代人と全く遜色ない精神性を持っていたことが伺われます。知識はなくても知能は高かったということです。(縄文人の脳の容量は現代人より多かったそうです。威張っている現代人は、ろくでもない下らない知識しか脳に詰め込んでいないのかもしれませんよ)

 先日、NHKテレビの「英雄たちの選択」という番組で、「古代人のこころを発掘せよ!」を特集しておりましたが、縄文人、弥生人、古墳の魅力を十分に伝えてくれました。特に、北九州にある古墳の玄室が実物大で復元している博物館があり、天井には星座が散りばめられ、壁面には三角や渦巻の抽象的な幾何学模様がぎっしり描かれていました。こうした煌びやかな不可思議な模様は近畿地方の古墳には見られず、九州だけだと番組では言っていましたが、天皇陵は学術調査さえ禁止されているので、もしかしたら、あのような模様が描かれた玄室が近畿でも発掘されるんじゃないかと私なんか思ってしまいました。

保渡田古墳群 Copyright par O,T

 私は関東地方に住んでいるので、番組に出てきた群馬県高崎市にある保渡田古墳群(5世紀後半から6世紀にかけて築造)に行ってみたくなりました。実に見事な前方後円墳です。UFOに乗った宇宙人が空から全景を見たら腰を抜かすかもしれません。そんなこんなで色々調べていたら、「古墳マップ」という素晴らしいサイトが見つかりました。どなたがお作りになったサイトか分かりませんが、精緻、詳細を極めて、全国の古墳をカバーしています。これで関東地方を検索してみたら、意外にも私の自宅近くと言えば近い距離に古代の古墳があるというので吃驚してしまいました。古墳といえば、九州と近畿が中心かと思ったら、関東にもかなり多くの古墳が点在しています。地方豪族社会だったという証明なのかもしれません。

 何しろ、全国には大小合わせて15万基もの古代古墳があると言われてますから、その多さに、これまた驚きです。お城(跡)やコンビニよりもあるんじゃないでしょうか?こうなったら、ライフワークの「全国城巡り」に、「全国古墳巡り」も趣味として加えようかなあ、と思った次第です。

【参照】

サイト:「歴代天皇データ

【追記】

 倉本一宏国際日本文化研究センター教授によると、ヤマト王権(継体天皇)に対抗し、新羅と結びついて磐井の乱を起こした筑紫磐井(今の福岡県八女市、久留米市などを支配し、岩戸山古墳が磐井の墓だと言われてます)は、若年期に上番(じょうばん)に就いた可能性が高いといいます。上番というのは、上京して当番勤務に就くことで、九州の八女市から奈良県にまで上京して、警護勤務か文書管理勤務か分かりませんが、何かの当番勤務に就いていたことになります。まるで江戸時代の参勤交代みたいじゃありませんか(笑)。古代のヤマト王権も、地方豪族を上京させて人身を管理したり、その勢力を削いだりしていたということなのでしょうね。

邪馬台国は何処にあったのか?=「永遠に謎」でもいいのでは?

 富岳 Copyright par Duc de Mtsuoqua

  年末年始は、コロナ禍で自宅待機を半ば強制され、朝から酒を呑んでいるので活字が頭に入らず、となると、テレビを見ることになります。しかし、現代人なのに最先端の流行ものに興味を持てず、というか、全く付いていけず(苦笑)、恒例の紅白歌合戦も5分見てギブアップしてしまいました。

 以前はよく見ていたお笑い番組も、流行の笑いに付いていけず、むしろ、馬鹿らしさと空虚さと怒りを感じてしまう始末でした。いけませんね。

 でも、その代わり、大収穫がありました。正月の夜にNHKで放送された「邪馬台国サミット2021」です。女王・卑弥呼の都「邪馬台国」の所在地を巡り、江戸時代から続く「九州説」と「近畿説」の大論争で、侃侃諤諤の議論はひじょーに面白かったでした。恐らく、多くの方もご覧になったかと思いますが、御覧になっていなかった皆さんは、「九州と近畿、どっちなんだあ」とせっかちに身を乗り出すと思われます。(戦前は、東京帝大の白鳥庫吉教授の「九州説」と京都帝大の内藤湖南教授の「近畿説」が有名ですが、エジプト説もあったりして吃驚しました)

 結論を先に言いますと、有力な「九州説」も「近畿説」も決定的な「証拠」に欠けて、まだ「分からない」というのが正解でした。でも、九州説では、例えば、佐賀県神埼市・吉野ケ里町で発掘された有名な吉野ケ里遺跡には、「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記された楼観(ろうかん)跡と推定される物見やぐらや大壕などがあったことから、北九州に邪馬台国があったという有力説になってます。(近畿には物見やぐらや大壕などの古代遺跡がない!ただし、吉野ケ里は邪馬台国に先立つ50~100年前の大集落だったらしいので、ここが邪馬台国跡ではないようです)

 近畿説は、奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡が有力のようでした。纏向遺跡内の箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓ではないか、とも言われていますが、古墳は宮内庁が管理して学術調査もできないので、まだ決定的証拠が見つかっていません。纏向遺跡には柱跡からかなり大きな宮殿のような巨大建築物が見つかり、ここで卑弥呼が「鬼道」(呪術)を使っていたのではないかと推測されていますが、魏志倭人伝の記述にあるような物見やぐら大壕などは発掘されていません。少なくとも、これだけ広大な宮殿跡は、初期天皇である大王の都跡、もしくは、出雲や吉備などの地方豪族の集合体の王都ではないかという説には私は惹かれました。(卑弥呼は、天照大神だった、卑弥呼は神功皇后だった、という説もあります)

 しかし、私もその御著書を愛読している倉本一宏・国際日本文化研究センター教授は「(正史である)『日本書紀』に邪馬台国も卑弥呼も出て来ない。天皇家とは別の政権だからではないか。となると近畿というより九州ではないか」といった趣旨の発言をしておられましたが、私もどちらかと言えば、分が悪い「九州説」派です。(魏志倭人伝には、「倭人は鉄の矢じりを使っている」と書かれていて、これまで福岡で1740点、熊本で1891点の鉄の矢じりが発掘されていますが、大阪では153点、奈良では13点しか出土していないそうです。おっ!九州説、有利か?)

番組はきこしめながら見たので、このムックで捕捉しました。最新研究成果の書かれた良書です。

 話は脱線しますが、纏向遺跡も箸墓古墳も1970年代から発掘が始まり、その成果は20世紀末から21世紀になって徐々に明らかになったということですから、私の世代の学生時代は全く習いませんでした。古代史は日進月歩、新たな発掘で書き換えられているということですね。

 近畿説を取る福永伸哉・大阪大学文学部研究科教授は「自虐的九州説」と一刀両断しておられました。同教授は、魏志倭人伝に邪馬台国には7万戸あったということは人口は30万人いたことになる。しかし、927年の「延喜式」によると、筑後の人口は7万3300人、肥前は8万1400人しかいない。とても、九州とは思えない、といった論陣を張っておられました。

 これに対して、中国古代史が専門の渡辺義浩・早稲田大学文学学術院教授は「中国の場合、人口などの数字は正確ではありません」と説明していました。さすが「白髪三千丈」と、数字は桁違いにオーバーに言うお国柄です。こちらの分が高いようです。もっとも、渡辺教授は、邪馬台国が九州にあろうが、近畿にあろうが、どっちでもいい、三国志に興味があっても、そんなもん興味ない、というスタンスだったので笑ってしまいました。

 渡辺教授によると、邪馬台国の第一次資料である陳寿著「魏志倭人伝」は、日本人のために書かれたものではないことをもっと注目すべきだと強調していました。魏呉蜀の三国が覇権を争っていた時代に、天下国家を取るために、自国に都合の良いように脚色した部分もあり、全面的に信用できないといいます。だから、魏志倭人伝に書いた通りに邪馬台国の場所を探して辿っていくと九州の南の海の中になければならなくなってしまいます。

 これは、他の本で読んだのですが、卑弥呼に「卑しい」を使い、、邪馬台国に「邪(よこしま)」の文字を当てたこと自体が、明らかに中国側から見た倭人に対する蔑称です。(日本では、卑弥呼は、姫子と呼んでいたという説もあり)

 邪馬台国は何処にあったのか?-は確かに「古代のロマン」として好奇心をくすぐられます。でも、なぜ、明智光秀が、主君織田信長を裏切って本能寺の変を起こしたのか、諸説あって理由が定かでないように、「よく分からない」「ミステリー」が、日本史の魅力にもなっているのではないでしょうか。

 また、新たな発掘調査で真相が明らかになるかもしれませんが、「永遠に謎」でも私は構わないと思ってます(笑)。

 【後記】

 写説に書いた通り、きこしめながら、番組を見ていたので、書いた数字は正確ではないかもしれません。もし、事実誤認がありましたら、訂正致します。また、番組と同じぐらい週刊朝日ムック「歴史道」(「古代史の謎を解き明かす!」特集号)を参照しました。

 ところで、今朝(1月4日付)朝日新聞によると、本能寺の変の際、明智光秀が直接、本能寺を急襲したのではなく、家臣の斎藤利三(としみつ=春日局の父)に任せて、自分は京都市南部の鳥羽にいた、という説には驚きました。これだから歴史は面白いのです。

令和三年 明けましておめでとう御座います

令和三年 正月 初富士 Copyright par Duc de Matsuoqua

2021年、明けましておめでとう御座います。

この渓流斎ブログ、旧年中、皆さまにおかれましては御愛読賜りまして、洵に有難う御座いました。

 お正月は、下賀茂茶寮と姉上殿の御節料理の御相伴に預かりました。

 お酒は、九州の叔母からの差し入れの唐津の地酒「聚楽太閤 原酒生酒初しぼり」と、ナポレオンも愛したブルゴーニュ・ワインですが、10万円もするシャンベルタンではなく、ゼロが少ない市販のブルゴーニュ・ワイン。そして辛口の「久保田」の純米大吟醸です。

 寄る年波か、すっかり弱くなってしまい、全部は呑めませんでしたが…(笑)。

都心から見る初日の出 Copyright par Duc de Matsuoqua

本年も、恐らく、ブログを書き続けると思いますので、皆さまからの投稿、御意見、叱咤激励等宜しくお願い申し上げます。

 一刻も早い新型コロナの終息を願っています。

 今年こそは、東京五輪・パラリンピックは開催されるのでしょうか? 総選挙の年、政局はどうなるのか? コロナ禍で甚大な影響受けた世界経済、景気はどうなるのか?-ま、そんな辺りが今年の注目株でしょうが、私は相変わらず、お城巡りや寺社仏閣巡り(寺院は全国に7万5000カ寺、御住職は6万人いらっしゃるそうです)に勤しむことでしょう。無理強いながら、お付き合いの程を、隅から隅まで、ずずいっと、宜しくお願い申し上げます。

恐惶謹言

 令和三年 一月二日

 高田渓流斎

株価高騰は異常なのでは?来年も城巡りが楽しみ=大晦日所感

 今日は大つごもり。まずは、この1年、読者の皆様には御愛読賜り、洵に有難う御座いました。先程、このブログのページヴューを見たら、何と総計40万アクセスを超えておりました。新しいサイトに独立・移転してカウントを始めたのが、2017年9月15日のことです。3年で40万を超えるなんて、誰も知らない秘密結社のような無名のブログにしては我ながら大したもんだと自負しております(笑)。

 もともと、「渓流斎日乗」を始めたのは2005年3月15日のことでした。来年で16周年ということになります。こんなに続くとは!です。今年は15周年の記念で、簡単な飲み会でもやろうかと図っておりましたが、豈はからんや、新型コロナ禍で、あえなく中止を余儀なくされてしまいました。

 ブログはもともと、遠く離れた異国に住んでいる友人への手紙のつもりも含めて書き始めたのですが、思想信条や趣味嗜好が合わなかったのか、彼からの音信も途絶えてしまいました。ブログを書くと、どうも「ソリが合わない」と思われるのか、それとも、「こんな奴と付き合っていられない。時間の無駄だ」と思われるのか、2020年も離れて行ってしまった特別な方もおり、個人的にはかなり落ち込みました。

 でも、新しい読者の方も増えましたし、こうして、長らくいまだに読み続けてくださる方もいらっしゃるわけですから、気を取り直して、来年も続けていきたいと思います。

福知山城

 いつも「長い」と言われているので、これで終わりにしても良いのですが(笑)、またマスクを買ってしまった話をします。通販で「100枚900円」を見つけて、まだ沢山マスクは残っているのに、つい誘惑に負けてしまったのです。1枚、何と9円ですよ!本当かなあ。…忘れもしない、今年5月3日、マスクがどこの店に行っても品切れ状態だった頃です。自宅近くで売っていたマスクは、50枚3300円もしたのです。1枚66円です。それが7カ月後に7分の1近くも値段が急降下したのです。信じられませんね。

 信じられないと言えば、株価です。昨日の大納会で、日経平均の終値が2万7444円と年末の株価としてはバブル経済で史上最高値を付けた1989年以来31年ぶりの高値だったというのです。年間の値幅は1万1015円という乱高下です。コロナ禍で、倒産や雇い止めや失業という最悪の景気の御時世で、異常ですよ。まさに逆現象が起きてます。「日銀がETFを買って、せっせと株価を釣り上げている」とか「外国人投資家が、割安の日本株を物色して買いに邁進している」とか専門家は色々言ってますが、説明つきませんね。そのうちバブルが弾けて、暴落するのではないでしょうか。まあ、私の予想は当たらないでしょうが、投資に向いてないと悟った私は、大半の自己資産は今年、損切りで市場から回収したことを告白しておきます。

 今年は相変わらず「城巡り」をし、坂本城や丹波亀山城、福知山城など明智光秀ゆかりのお城(跡)や関ヶ原などに行けたことは収穫でした。また、本で戦国時代の合戦や武将関係、江戸五百藩などの知識も得ることができ、来年もお城巡りが楽しみです。温泉付きを望んでますので、一刻も早いコロナの終息を願っています。

 私自身、お酒は呑みますが、煙草は吸わず、夜鷹も博打も賭博もやらないので、エンゲル係数90%でもいいですから、貯金を取り崩しながら残された人生を牛の歩みで過ごしていきたいと思います。来年は丑年ですからね。

 皆様も良いお年をお迎えください。

藩は公称にあらず、改易逃れの支藩づくり、信濃町の由来=「江戸五百藩」の実態を知る

この「江戸五百藩」(中央公論新社)は、驚くべきほど情報と知識が満載されていて、非常に勉強になりました。

 特に私自身が不明を恥じたことは、江戸時代、藩は国と呼ばれていて、藩が公称として使われ始めたのは、明治時代に入ってからだということでした。明治元年(1868年)、明治新政府が旧幕僚に府と県を置き、旧大名領を藩と呼んだといいます。ですから、作家浅田次郎氏によると、例えば、南部盛岡藩ではなく、盛岡南部家とするのが正解なんだそうです。(それでも、この本では通説通り、藩とか藩主とかいう名称を使ってますが)

 色んな史実や逸話がこの本には書かれていますので、何かに絞って書かなければなりませんが、筆の赴くまま進めていきたいと思います(笑)。

 そうですね。現代人は幕末史に関心が深いので、幕末の話から始めましょう。幕末の改革派の有力大名として、例えば、宇和島藩の伊達宗城とか福井藩の松平春嶽らが出てきます。宇和島は愛媛県なのに、何で、仙台の伊達家がお殿さまなんだろう?北陸の福井が、何で徳川親藩で、松平家のお殿さまなんだろう?と私なんか疑問に思ったものでした。それは、藩の成り立ちを見ればすぐ分かるのです。

 宇和島藩は、仙台の伊達政宗が大坂冬の陣で功を上げ、その庶子秀宗が、藤堂高虎が築いた宇和島城に入城して立藩し、途中で廃藩になるものの、幕末まで伊達家が続いたわけです。

 福井藩は、徳川家康の次男結城秀康が立藩し、二代目忠直から松平姓に改め、越前松平家が幕末まで藩主を務めるわけです。江戸時代は、後嗣(嫡男)がいないと、藩はすぐ改易(お取りつぶし)になるため、有力藩はその対策として分藩や支藩をつくるようになります。特に、福井藩はその数が多かったといいます。途中で代わったりしますが、松江藩(松江城は国宝ですね)、岡山の津山藩(幕末に箕作阮甫、津田真道ら一流学者を輩出)、新潟の糸魚川藩と高田藩、兵庫の明石藩などがあります。随分、広い範囲に渡るので驚くほどです。他に香川の高松藩は御三家水戸藩の分家、井伊彦根藩の支藩として新潟県長岡市の与板藩などがあります。

 こうして、有力大名の子息の後嗣がいなくなった藩に「派遣」されることが多くありましたが、最も有名なのは、「高須四兄弟」でしょう。美濃(岐阜県)の高須藩は、御三家尾張藩の支藩ですから親藩です。幕末の十代松平義建(よしたつ)の四人の息子が、一橋徳川家、尾張藩、桑名藩、会津藩の当主になります。この中で最も有名な人は会津藩主の松平容保(かたもり=幕末に京都守護職を任じられ、新選組を指揮下に)でしょう。この時、岐阜県から福島県へ大勢のお伴を連れて引っ越ししたと考えがちですが、実際は江戸の高須藩邸から会津藩邸に移っただけの話だったといいます(大石学東京学芸大学名誉教授)。

 幕末の動乱で、何故、御三家の尾張藩や、徳川四天王の一人井伊直政直系の彦根藩が早々と佐幕派から脱退して討幕派に傾いたのか不思議でしたが、尾張藩の場合、八代将軍の跡目争いで「格下」と思っていた紀州藩の吉宗に取られてしまったという江戸中央政府に対する「怨念」があったようですね。彦根藩の場合、安政の大獄を断行した井伊直弼のお蔭で、藩士が処刑されたり、京都守護職を罷免されたり、減封までされたため、幕府を見限ったのでしょう。

 江戸幕府は、「元和偃武」以降、天下太平の平和な時代が260年間続いたように思われがちですが、どこの藩でも財政は逼迫し、後嗣を巡ってお家騒動が何度も勃発したり、百姓一揆が頻発したり、権力争いで改易された藩も多くあります。その中で、以前、栗原先生のお導きで行った宇都宮城にまつわる城主本多正純の改易・流罪の話を取り上げます。本多正純は、もともと豊臣秀吉の重臣だった福島正則を密略によって改易させ、その功で小山藩3万3000石から宇都宮藩15万5000石に出世します。しかし、正純は元和8年(1622年)、宇都宮城で釣り天井を落として二代将軍秀忠を殺害しようとした罪で改易され、出羽横手に配流され不遇のうちに亡くなりました。

 この事件の背後に、前の宇都宮藩主・奥平忠昌の祖母加納殿がいました。彼女は、家康の娘で秀忠の異母姉に当たり、その娘は大久保忠隣(ただちか=有名な大久保彦左衛門の甥)の子・忠常に嫁いでいました。大久保忠隣は、三河以来の家康の重臣でしたが、同じライバルの本多正信の密訴により、小田原藩主の座を改易されていたのです。本多正信の嫡男が正純で、大久保家と本多家との間で確執があったと言われています。加納殿は、正純を陥れることで、大久保家の復讐を遂げたということになります。

 もっと書きたいことがありますが、後は一つだけ(笑)。いずれの藩も、江戸には上屋敷、中屋敷、下屋敷があると思っていましたが、家康と秀忠の時代は、屋敷は一つしかなかった、ということをこの本で知りました。これら屋敷跡は、紀尾井町(紀伊、尾張、井伊)など今でも地名になっていますが、知らなかったのは、新宿区の信濃町でした。これは、山城国淀藩の藩主永井信濃守尚政の下屋敷があったからなんだそうですね。もともと信濃殿町と言われていたようです。信州信濃とは関係なかったとは…色々と勉強になりました。(ちなみに、私が以前読んだ本によると、大岡越前守とか永井信濃守といった名称は、領地に関係なく、江戸城がある武蔵守以外なら大体、その石高次第で幕府に認められたようです。勿論、賄賂もからんでるでしょうが)

幸田文「流れる」と法輪寺三重塔再建=江戸しりとり唄「牡丹に唐獅子」

 昨日は、NHKラジオの「聴き逃しサービス」の11月に放送された「語り継がれる”幸田家”のことば」のことを書きましたが、私はギリギリながら全5回を聴き通すことができました。お話は、幸田露伴の曾孫で、幸田文の孫に当たる青木奈緒さん。第2回放送分以降も、来月4日からだんだん聴けなくなってしまいますから、聴くのは今のうちで御座います。

 面白いので、2回、3回、繰り返して聴いた回もありましたが、このままでは、私の右の耳から左の耳を通過しただけなので、必ず、忘れていくことでしょう。それでは惜しいので、印象深かった「幸田家の言葉」を少しだけ書いてみたいと思います。語り手の青木さんは、「小石川の家」を書いた露伴の孫の青木玉さんの娘です。露伴から4代続く、文筆家ですが、話し方もとても魅力的で、ずっとお話を聴いてみたい気にさせてくれます。

 「幸田家の言葉」を書き並べる前に、青木奈緒さんの祖母に当たる幸田文さんのことをまず書いておきます。私が、彼女の名前を知ったのは、確か、小学校の教科書に載っていた「あか」という作品でした。内容はすっかり忘れてしまいましたが(笑)、主人公のお父さん(つまり露伴ということになるでしょう)が、「犬殺し」(明治大正時代は、ブン屋=新聞記者と犬殺しには嫁は出せないと言われていた!)から処分されそうになっていた赤毛の野良犬をもらって来て、彼女は「あか」と名付けて飼うことにしました。でも、家には既に血統書付きのしっかりした犬がいて、主に彼女の弟が面倒をみていましたが、その犬と比べるどうみても見劣りする。それでも、あかは主人公になつき、子どもたちの間でも段々人気者になっていく、といった話だったと思います。

 何と言っても、幸田文と言えば、私の大好きな映画監督・成瀬巳喜男の代表作の一つ「流れる」(田中絹代, 山田五十鈴, 高峰秀子, 杉村春子のオールスターが出演)の原作者。実は、私自身、この小説を読んでいませんが、実際に幸田文が「断筆宣言」した後、柳橋の芸者置屋で働いた経験を元に書いたようですね。

 そして、青木奈緒さんのお話(自身の随筆朗読)の中にも出てきますが、幸田文さんは、奈良のお寺の塔を再建する作業のお手伝いをするために、1960年代後半から70年代にかけて、奈良に移り住んだりしています。ここは何処かと思ったら、先日、テレビで「聖徳太子と法隆寺」の番組をやっていて見ていたら、法隆寺の近くにある奈良・斑鳩の法輪寺が出てきて、「作家の幸田文らの尽力で、焼失した三重塔が再建されました」とナレーションでやっていたので、吃驚してしまいました。何というシンクロニシティ!

 さて、幸田家に4代に渡って日常生活の営みの中で伝わってきた「言葉」の中に、

 人には運命を踏んで立つ力がある。

 というものがありました。これは説明はいらないでしょう。

 もう一つ、印象に残った言葉は、

  心ここに在らざれば 見えども見えず 聞けども聞こえず 食らえどもその味を知らず

 これは、青木さんが幼い子どもの頃、食事するのが遅く、食べるとき、遊んでしまっている時に親や祖母から諭された言葉だったそうです。半世紀過ぎても覚えているところが凄い。青木さんは、当然、露伴の言葉かと思っていたら、実は中国の四書五経の「大学」の中の言葉だったことを結婚をし何年も経ってから知ったという逸話を話していました。

 もう一つ、

 一寸伸びれば 尋伸びる

 もう日本では尺貫法は廃止されてしまったので、現代人はさっぱり分からなくなりましたが、一寸とは、3センチちょっと、尋(ひろ)とは両手を広げた長さのことで約1.8メートル。これは、当座の困難を切り抜けていけば、または、やり過ごしていけば、時間が経てば楽になる、収まっていくといったような意味で、”幸田家”ではよく使われたそうです。生活の中ではよく針仕事もするので、それに関連した言葉でもありました。

 他にも心に響く幸田家の言い伝えがありましたが、面白かったのは

 世の中に寝るより楽はなかりけり 浮世の馬鹿は起きて働く

 これは江戸時代の狂歌が原点にあり、地方によって色んな言い方があるようです。これは、今でも使われるので私も知っていました。毎日休まずブログを書いているので、座右の銘にしたいです。

 最後に、青木さんが子どもの頃に、祖母の幸田文さんと遊んでもらった時にやった言葉遊びの一つを取り上げます。幕末から明治にかけて流行った「しりとり唄」で「牡丹に唐獅子」というものです。私は全く知らなかったので、全文掲載しておきます。特に意味があるわけではなく、当時流行った、と言うか、当時の人なら誰でも知っている常識みたいなものを尻取りで並べたようです。が、現代人にはその「常識」がもはや通用しないですね。伝統は守らなければ、消滅してしまうという良い見本です。今では狩野永徳の描く絵画や歌舞伎の芝居などに少し残っているぐらいですから。

牡丹に唐獅子 竹に虎 虎を踏んまえ 和藤内
内藤様は 下がり藤 富士見西行 後ろ向き
むき身蛤 ばかはしら 柱は二階と 縁の下
下谷上野の 山かずら 桂文治は 噺家で

でんでん太鼓に 笙の笛 閻魔はお盆と お正月 
勝頼様は 武田菱 菱餅 三月 雛祭
祭 万燈 山車 屋台 鯛に鰹に 蛸 鮪
ロンドンは異国の 大港 登山駿河の お富士山

三べん回って 煙草にしょ 正直正太夫 伊勢のこと
琴に三味線 笛太鼓 太閤様は 関白じゃ
白蛇の出るのは 柳島 縞の財布に 五十両
五郎十郎 曽我兄弟 鏡台針箱 煙草盆

坊やはいいこだ ねんねしな 品川女郎衆は 十匁
十匁の鉄砲 二つ玉 玉屋は花火の 大元祖
宗匠のでるのは 芭蕉庵 あんかけ豆腐に 夜鷹そば
相場のお金が どんちゃんちゃん ちゃんやおっかあ 四文おくれ

お暮れが過ぎたら お正月 お正月の 宝船
宝船には 七福神 神功皇后 武内
内田は剣菱 七つ梅 梅松桜は 菅原で
藁でたばねた 投げ島田 島田金谷は 大井川

かわいけりゃこそ 神田から通う 通う深草 百夜の情
酒と肴は 六百出しゃ気まま ままよ三度笠 横ちょにかぶり
かぶりたてに振る 相模の女 女やもめに 花が咲く
咲いた桜に なぜ駒つなぐ つなぐかもじに 大象とめる