「近代文学の終り」

柄谷行人著「近代文学の終り」(インスクリプト)を読みました。

深い溜息が出ました。柄谷氏は、いわば、文学を主体フィールドとして活躍されてきた評論家ですが、その氏が、いわゆる職場であり、食い扶持でもある文学が「もう終わった」と宣言しているからです。

氏によると、近代文学とは、概ね小説の形式を指し、その小説は、最近まで、政治よりも政治的影響があり(例えばサルトルのアンガージュマンなど)、宗教より宗教的(例えば、司馬遼太郎の「空海の風景」など一連の小説等もそうかもしれません)で、哲学より哲学的であった(思い当たるのは「ソフィーの選択」ですかね)時代があったが、最早、その役目は終わったというのです。

それは、1980年代で、いわゆるポストモダンと言われた時期で、若者は小説よりも「現代思想」を読み、文学の地位や影響力が著しく低下していったというのです。柄谷氏の友人でもあった中上健次が亡くなって、「文学が死んだ」と、氏は痛感したようです。

こういった現象は、日本だけが特異ではなく、欧米先進国では、もう少し早くから始まったというのです。韓国でも、氏が1990年代に知り合った韓国人の文藝評論家が、今世紀に入って、皆、文学から手を引いてしまったというのです。それでは、彼らが何をしているかというと、エコロジーや環境問題の運動に携わっていったのです。それは、かつては「文学」が担っていたことです。(例えば、労働運動や社会運動などもプロレタリア文学をはじめ、担っていました)

広い意味でかつて文学が担っていた役目が終わり、新しい傾向や潮流にはもう文学・小説の枠では収まりきれないか、対処できなくなり、新しい形式、スタイルが生まれざるを得なくなったという時代的背景を、氏は説明したかったと思います。ですから、読んで頂ければ分かるのですが、非常に刺激的な論考で説得力があります。

この論考の中で、面白い言葉が出てきました。「他人指向」です。ヘーゲルの言葉らしいのですが、「他人に承認されたいという欲望によって動くこと」なのだそうです。全く個人の主体性がなく、他人のことばかり気にしながら、あちらこちらに浮動する大衆がその典型です。それは、アメリカの自由主義経済と消費社会が頂点を極めて、テレビが中心だった1990年代までのエートスらしいのですが、今の21世紀の時代になっても、かなり続いている面があると思います。

今は、マルチメディアの時代に入り、このように、個人が情報を発することができる高度情報化時代になりました。柄谷氏は、今の時代のエートスまで、分析してはいませんが、またまた、新たな「新人類」が発生し、文学とは違った何かが幅を利かせるようになる、ことでしょう。

ただ、柄谷氏の締めの言葉は悲観的です。「私はもう文学には何も期待していません」と結ぶのです。

壮絶です。

“「近代文学の終り」” への3件の返信

  1. 失礼しました
    40年前でなく、60年前の誤りでした。

    ギボンの「ローマ帝国」は中野好夫の訳ではじまり、
    途中から朱牟田夏雄に代わり、最終的には(息子の)中
    野好之でゴール・インしたそうです。読んでませんけ
    ど(笑)。人生は長いようで短い。

  2. 文学はどこへ?
    およそ40年前に、英文学者の中野好夫によって
    同じような指摘がありました。
    タイトルは「近代文学の運命」でした。初出はたぶん雑誌『世界』だったような気がします。

    現代日本文学大系第74巻(筑摩書房 1972)
    「文学・人間・社会」(文芸春秋社 1976)
    に掲載されています。

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