「私家版・ユダヤ文化論」3

公開日時: 2007年11月9日

内田樹氏の「私家版・ユダヤ文化論」では、まだまだ書き足りないと思っていたところ、変な小沢劇場があったので、伸び伸びになっていましたが、再開します。

内田氏は、この本の中で、以下のように述べます。恐らく、引用というより、盗用に近い長すぎる引用なのですが、この引用文を全部読んで頂かなければ、私の考えを展開できないので、致し方なく引用します。(ただし、原文のままではありません)

●「ユダヤ人とは何か」という問題ついて、フランスの哲学者サルトルはこう言う。

「ユダヤ人とは他の人々が『ユダヤ人』だと思っている人間のことである。この単純な真理から出発しなければならない。その点で反ユダヤ主義者に反対して、『ユダヤ人を作り出したのは反ユダヤ主義者である』と主張する民主主義者の言い分は正しいのである」

●陰謀の「張本人」のことを英語でauthor と言う。オーサーは、通常「著者」という意味で使われ、作家がその作品の「オーサー」であるという時、それは作家が作品の「創造主」であり、「統御者」であり、そのテクストの意味をすみずみまで熟知している「全知者」であるということを含蓄している。従って「単一の出力に対しては単一の入力が対応している」という信憑を抱いている人は、どれほど善意であっても、どれほど博識であっても、こういう陰謀史観から免れない。

●ユダヤ人問題について語るということはほぼ100パーセントの確率で現実のユダヤ人に不愉快な思いをさせることである。だから、ノーマン・コーンは言う。「ユダヤ人は彼らのためだけに取っておかれた特別の憎しみによって借りたてられたのだ」と。

●反ユダヤ主義者たちは、きっぱりとユダヤ人には「特別の憎しみ」を向けなければならないと主張してきた。なぜなら、ユダヤ人が社会を損なう仕方はその他のどのような社会集団が社会を損なう仕方とも違っているからである。

●「ユダヤ人たちは多くの領域でイノベーションを担ってきた」。この言明に異議を差し挟むことのできる人はいないだろう。「イノベーション」というのは普通、集団内の少数派が受け持つ仕事である。「イノベーター」というのは、少数者、ないし異端者というのとほとんど同義である。

●「ユダヤ人はどうしてこれほど知性的なのか?」

ユダヤ人の「例外的知性」なるものは、民族に固有の状況がユダヤ人に強いた思考習慣、つまり、歴史的に構築された特性である。
ユダヤ人に何らかの知的耐熱性があるとすれば、それはこの「普通ではないこと」を己の聖史的宿命として主体的に引き受けた事実に求めるべきであろう。

●反ユダヤ主義者はどうして「特別の憎しみ」をユダヤ人に向けたのか?それは「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりにも激しく欲望していたから」というものである。反ユダヤ主義者がユダヤ人を欲望するのは、ユダヤ人が人間になしうる限りもっとも効率的な知性の使い方を知っていると信じているからである。

●ユダヤ教、ユダヤ人について語ることは、端的にその人が「他者」とどのようにかかわるかを語ることである。

よくぞ、ここまで読んでくださいました。

要するに私がいいたいことは、
●ユダヤ人というのは、人間の差別意識と嫉妬心から生まれたものである。

●何かが起きて、例えば、「サブプライムローンの破綻」でも、「第2次世界大戦」でも何でもいいのですが、人間は、すぐ、ユダヤ人の「陰謀」などとこじつけたがる。しかし、そもそも「陰謀」などというものはこの世に存在しないのだ。

●陰謀説を信じる人たちは、「そうしないと気が済まない」人たちなのだ。

●たまたまユダヤ人だと、その首謀者として血祭りに上げやすい。

●しかし、差別心と陰謀説を信じることは全くコインの裏表で、根は同じなのだ。

●人間は、いつ、どんな時代でも、自己証明と、優越感と安心感に浸りたいがために、常に差別する対象を求めるものだ。

●差別とは、自己と他者との関係性の中で不可避的に生まれるものである。

…そんなことを考えました。

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