こんばんは、京洛先生です。
紫陽花が綺麗に咲いているでしょう。此処は京都、南禅寺にある徳川家康を祀る「東照宮」です。
歴史通の渓流齋先生ですが、恐らく、「え!京都に東照宮ですか?」と瞬きされるでしょうが、京都の東照宮ですよ。
徳川家康は元和2年(1616年6月1日)に駿府城で亡くなりますが、亡くなる間際に、自分の亡骸、遺体は「久能山」、法要は「増上寺」、そして、法要後は下野・日光山と京都・金地院の小さなお堂を建てるように、と側近、ブレーンの崇伝、天海、本多正純に伝えていた、と言われています。
だから、京都にも「東照宮」があるのです。皇室からも「正一位」が贈られ、死後は「東照宮権現」の神様にまでなったわけですね。
ですから、亡くなった後は、徳川家は勿論、その臣下の全国の大名は「東照宮」をつくって、家康を奉ったわけです。明治の廃仏毀釈で、全国の「東照宮」の数は百余に減った、と言われていますが、最盛期は五百以上の「東照宮」があったという事です。
いわば「家康神社」です。そのうち、日光、久能山、そして南禅寺の東照宮が「三大東照宮」と称されていて、京都の「東照宮」には家康の遺髪、持念仏が伝わています。
しかし、そんな徳川時代に権威があった京都「東照宮」も、今では、余程の「家康ファン」か、研究家でもない限り、ほとんどの人は「そうだったのか」で終わるでしょう。
京都の東照宮は「金地院」(臨済宗南禅寺派)の境内にあります。金地院は南禅寺の塔頭の一つで、徳川幕府の”黒衣の宰相”と呼ばれたあの崇伝が住み、十万石を貰って権勢謳歌したわけです。
「金地院」もここ南禅寺だけでなく、駿府城、江戸城にもあったという事で、崇伝は新幹線もない時代に京都、静岡、東京を行ったり来たり、往来していたわけで、大名の参勤交代よりも凄まじい活動をしていた、という事でしょう。
安倍政権の”御用学者”、”安倍ブレーン”なんかと、比べようもない、スケール感がありますね(笑)。
金地院にはまた、小堀遠州の作った庭もあります。遠州の作庭と言われるものはかなりありますが、正真正銘、「遠州が手がけた」と記録に残っている庭は、この金地院の庭だそうですよ。
ジメジメした梅雨時に可憐な紫陽花をご覧になり目の保養にしてください。
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