我が青春の、いや少年のひばりが丘

広島、岡山、愛媛など西日本を襲った記録的な豪雨で甚大な被害を及ぼし、200人以上の方が亡くなったり、行方不明になったりする大災害だったようで、心を痛めております。ご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆さまにはお見舞い申し上げます。

そんなことも知らずに週末は、東京都下のひばりが丘で、中学時代の友人A君と痛飲してしまいました。ひばりが丘は、西東京市(かつての田無市)と東久留米市と埼玉県新座市が複雑に入り組んだ所で、昭和34年に大規模な公団「ひばりケ丘団地」が出来たことから、西武線の駅が「田無町」から「ひばりヶ丘」に変更されたそうです。ひばりヶ丘団地には、文芸評論家の秋山駿(1930~2013)が長らく住んでいましたね。

急行が止まり、池袋からわずか15分という便利な穴場です。

ひばりが丘で有名なのは「自由学園」(東久留米市学園町)でしょう。昭和9年に目白から移転してきました。小学校の同級生のGさんもここに転校しました。

もう一つはファミレスの「スカイラーク」。ひばりヶ丘団地の商店街で「食料品店」として創業したことから、ひばりのスカイラークから命名したとか。

ひばりヶ丘「はせがわ」=50年以上やってる酒屋さんが居酒屋を

で、私の場合、中学時代の思い出の地なのです。悪友のB君と、駅前のボウリング場の2階のビリヤードに入り浸って、遊んでいました。私の中学時代は、まるでジェットコースターに乗っている感じでした。神童だった私は(まさかあ=笑)1年生の時は学年トップでしたが、B君のような悪友と付き合ったお蔭で、成績は急降下。おまけに、B君らと藪の中で、タバコを吹いている(吸うことを知らず)のを警察官に見つかり、補導されたこともありました。悪ガキだったですねえ。

中学時代は今思い出しても恥ずかしい。頭の中に蜘蛛の巣が張ったような感じで、将来像が全く描けなくなり、金縛りのような状態でした。勉強や宿題はほったらかしで、悪いことばかりして、よく、わけもなくひばりが丘を彷徨しました。

でも、それは半世紀も昔の話なんですよね。そのせいか、何年ぶりかか何十年ぶりかに行ってみたひばりが丘は、すっかり変わり果てていました。北口が再開発され、よく行っていた正育堂書店はなくなり、地下の喫茶店「杉」もありませんでした。

B君と入り浸った駅前のボウリング場はとっくになくなっていました。よく、レコードを買いに行った「ひばり堂」は倒産して、居酒屋になっていました。50年前のお店は、今はほとんど残っていませんでした。悲しいもんです。

兵どもが夢のあと…

ひばりヶ丘「ばんべーる」A君は右端に写ってます。

で、A君が連れてってくれたお店は、パルコの裏手筋にある彼がよく行く立ち飲みの居酒屋で、座る席もありました。ポテトサラダが300円。お酒も一合400円ぐらいの安い気軽なお店です。都心から離れるとこんなに安いのです。

A君は、御尊父が東京芸大を出た美術教師で、私やB君とは違って、中学時代は真面目な秀才でしたから、当時の学区の中の最難関の都立国立高校に進学し、有名私大を出て出版社に入り、今は、独立して出版社の社長を務めています。

その後、不良のB君とは音信不通となり、今は生きているのか、何をしているのか分かりませんが、恐らく、真面目な社会人として勤め上げたことでしょう。中学時代の不良は、大抵、更生してすぐ結婚して家庭をつくってましたから(笑)。小学校時代に一番仲が良かったC君も中学で警察沙汰になるほどグレてましたが、高校卒業して警察官になってました。

魚魚魚みたいな字を書いた居酒屋でした(笑)ここも安い!

その点、A君のようなインテリは、年を取っても熟成せず、反骨精神旺盛で、麻布高出の官僚のようにお上に逆らい、大酒飲みのインテリやくざですね(笑)。

人生は面白いもんです。歳を取れば、いい学校を出ようが、いい会社に入ろうが、もう関係なくなるものですよ。

その日は、2軒はしごして、地震があったことも分からず、どうやって自宅に帰ったか覚えていません。

鳥居英晴著「日本陸軍の通信諜報戦ー北多摩通信所の傍受者たちー」

2018年7月1日付「蔽之館~陸軍中野学校跡巡り」で書きましたインテリジェンス研究所の山本武利理事長ご推薦の参考文献を早速手に入れて読んでみました。

鳥居英晴著「日本陸軍の通信諜報戦ー北多摩通信所の傍受者たちー」(けやき出版)です。2011年3月14日初版なので、もう書店には置いてないだろうと思い、あまり好きでないアマゾンで探したところ、やはり中古本でしたが、見つかりました。

送料・手数料込みで2257円です。正直「ちと高いなあ」と思いましたが、どうしても知りたかったことがあったので、背に腹は代えられません(あ、表現が間違いかも?=笑)

3日ほどして、汚い手書きの字で郵便小包が自宅に届きました。「誰だろう?」送り主の名前を見ると「鳥居英晴」とありました。「うーん、どこかで聞いたことがあるなあ」と、思いつつ思い出せません。そのまま、夕食を摂ってくつろいだ後、先程の小包を開けると何と薄っぺらいブックレットが出てきたのです。

注文した本でした。「えーー、こんなんで2000円?」後を見たら、定価が980円(税別)でした。てっきり、浩瀚の専門書だと思っていたので、「やっぱり、ぼられたかなあ」とがっかりしてしまいました。

そして、驚いたことに送り主は、鳥居英晴さん。著者、ご本人だったのです。著者自身が、アマゾンと契約していたんでしょうか?

またまた、前置きが長くなりましたが、著者の名誉のために弁護しますと、中身を読みますと、値段だけの価値がありました。著者は、1949年生まれの元共同通信社記者で、2002年に退社、と略歴にありましたから、定年まで社に残らず、52,3歳で退職してフリーランスになったようです。そりゃ、取材費も出ないので大変だったことでしょう。

で、中身ですが、陸軍の北多摩通信所は、東京市北多摩郡久留米村(現東久留米市)にあったということで、かつて父が勤めていた東久留米市上の原の運輸省航空交通管制本部にあったのかと思いましたら、西武池袋線東久留米駅から小金井街道を南下して西武新宿線花小金井駅に行く途中の前沢を越えた滝山東交差点付近にあったというのです。当時の住所は、久留米村前沢1470番地。今は住宅街になっているようです。

ここに陸軍参謀本部が昭和8年(1933年)10月10日、北多摩通信所を隠密裏に完成させるのです。受信室には、高速度用の短波受信機が5台設置されていたなどと記録されていますが、昭和12年(1937年)7月7日に支那事変(日中戦争)が勃発すると、100人に増強されます。通信手の勤務は、日勤、前夜勤、後夜勤、明けの4交代制で、外国の電波を傍受した信号をいったん紙テープに記録し、それを読み取りながらタイプライターで打つのが任務でした。

通信は暗号ではない普通文のことを「平文」ということをこの書で知りました。昭和16年12月8日の真珠湾攻撃の日に当直だった小泉重之(大正11年生まれ)の手記「流転の人生行路に思う」(平成12年)によると、米軍による対日戦争開始命令の電文は、暗号ではない平文だったといいます。

北多摩通信所は昭和18年8月1日、陸軍中央特種情報部(特情部)通信隊と改称され、松岡隆中佐(関東軍特種情報部)が隊長として着任します。松岡中佐は終戦の日、「傍受という仕事をしていたことが分かると戦犯になる恐れがあり、危ない。所属は明らかにしないこと。東京を離れ、山の中に隠れているように」と指示して姿を消したそうです。

これについて、先程の手記を残した小泉重之通信手は「先程まで所長であった男は臆面もなく我々を放置して早々にその姿を消してしまった。…職業軍人のこの無責任極まる恥さらし行為は誰にも咎められることもなく、旧官舎に居座ったまま生活を続ける図々しさであった」と批判してます。

インパール作戦を断行して兵士が餓死する最中、自分だけは早々と飛行機で逃げ帰った牟田口廉也の例を思い起こさせるものがあります。

戦局が悪化すると、特情部は、東京都杉並区高井戸の老人ホーム「浴風園」に疎開したり、国際電気通信社や逓信省の施設を借りて、兵庫県小野、埼玉県上福岡、同岩槻、北海道北広島、福岡県二日市(現筑紫野市)、千葉県白浜などにも受信所を設置します。

広島の原爆投下については、米軍は事前に予告していたことをこの書で初めて知りました。昭和20年5月、先に紹介した小泉通信手が二世の女性傍受員から「特殊爆弾によって広島を攻撃するから非戦闘員は至急退去せよ」といった警告をVOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)が放送したことを聞かされるのです。小泉は情報部に報告しますが、当時は原爆の「げ」の字も理解できるわけもなく、徒に混乱を招くばかりだろうから、周知することなく恐らく握りつぶされたのだろうと推測しています。

全体的に読みにくい箇所もありましたが、貴重な資料となる本でした。

私が子どもの頃(小学生から高校生にかけて)、よく行った「外人プール」と呼んでいたプールは、東久留米のすぐ隣の埼玉県新座市西堀の米軍施設大和田通信所内にありました。

私はその水深2メートル近い深いプールで、ガブガブ水を飲みながら、水泳を習得し、プールサイドでは、FEN(極東軍事放送)が流れ、ドアーズやクリームやジミ・ヘンドリックスらの曲を覚えました。よく考えれば、ベトナム戦争真っ只中だったんですね。

この大和田通信所は、もともと大日本帝国海軍の傍受施設だったことがこの本で初めて知りました。

実姉のシンデレラ物語?

「渓流斎日乗」は、個人のブログではありますが、あまり身内のことは恥ずかしいので書きたくないというのが正直なところです。

でも、題材に事欠きますとそんなことを言ってられなくなります(笑)。

昨日、私の実姉が突然、長文をラインで送ってきました。内容は、学生時代に付き合っていた人が急に気になって、ネットで検索したところ、某製薬会社の常務か何か偉くなっているらしく、もし、フェイスブックやツイッターなどに載っていたら、情報を教えてほしい。自分は一切、ソーシャルネット(SNS)はやっていないものでよろしく、といった依頼でした。

どうやら、その方とは、当時はいいところまで行っていたらしく、21歳の誕生日は、東京・西麻布の高級レストラン「P」を貸し切って、友人を集めて誕生会を開いてくれたというのです。

まあ、別に知りたくもない情報でしたが(笑)、姉の要望でもあるので、その人をSNSで調べてみました。私自身、気持ち的には(笑)SNSはほとんど利用していませんが、この「渓流斎日乗」を拡散するためだけに、IT実業家の松長社長の至上命令で、仕方なく嫌いなフェイスブックとツイッターをやっております。主に送信として(笑)。

で、調べてみましたら、その方は、フェイスブックもツイッターもやっていないことが分かりました。でも、会社広報の報道資料が出てきて、それによると、当人は、常務どころか、社長どころか、今年4月には会長にまで出世されていたのです。名前を聞けば、日本人なら誰でも知っている有名な製薬会社のです。

浅草・雷門

姉は別の人と結婚しておりますし、その方とは「別に会うつもりはない」というので安心しましたが、「世が世なら、今頃、会長夫人だったんだあぁぁ…」と変な喜びようです。

そう言えば、思い出すと、姉は子どもの時から妙な幸運に恵まれた人でした。クジ運が良いといいますか、雑誌やラジオ(テレビじゃないでーす)番組などの懸賞に出すと、必ずと言っていいくらいよく当たるのです。

もう半世紀ぐらいの昔の話ですが、何かのラジオ番組で、1万円が当たったことがあります。今の1万円は、銀座に行かなくても、一晩飲んだらすぐなくなってしまうような金額ですが、半世紀前の1万円は、今の10万円近い価値がありました。

今、50年前、1968年の大学卒の初任給を調べたら、3万0600円でした。2018年、大卒一部上場企業の初任給の平均が21万1039円ですから、50年前の1万円は、現在の7~8万円てとこでしょうか。

その当選金の1万円で、家族5人で新宿にあった「中国飯店」(今はないと思います。グルメ王の辻下さんなら御存知かもしれませんが)でお腹いっぱい食事してまだ余り、残りで真冬用の毛布を買ったことを覚えております。

姉は、1万円以外にも、数千円ぐらいの商品もボンボン当たっていました。

あ、付け加えておきますと、彼女の人生最高の「当選」は、今の旦那さんじゃないでしょうか。職業は秘密ですが、都内一等地に一戸建てを持ち、毎年、海外旅行するなど庶民の私から見ると実に羨ましい暮らしを送っていますからね(笑)。

世界最小の双方向性メディア「渓流斎日乗」がお役に立つことができた日

この「渓流斎日乗」は2005年3月15日から13年間、ほぼ毎日書き続けてきたブログですが、(ただし、2008年8月から2015年10月までの7年間の記事は消滅してしまいました)、自分勝手に「世界最小の双方向性メディア」を自称しております。えっ?知らなかったんすか?(笑)

もうこの年になりますと、自分のことより、社会のため、地域のため、周囲のため、皆さんのため、何かお役に立つことをしてから、この世を身まかりたいという気持ちが強くなってくるものです。

もちろん、ブログですから、自分の好奇心が赴くまま、新聞や本を読んだり、歴史散歩したり、名所旧跡を歩いたり、好き勝手なことを書いているだけなのですが、たまに、「同好の士」がいるもので、私が書いたことに共感してくださったりするので、大変嬉しくなります。

築地「千里浜」煮魚ランチ 900円

さて、前置きが長くなりましたが、恐らく、皆さんはあまり、このサイトの右端下の「comment」欄はお読みにならないと思いますが、2017年10月1日に書いた「関東軍情報本部ハルビン陸軍特務機関」の記事について、今年1月4日付で、三浦宣秀さんという方から「私の叔母は軍属として、ハルビン特務機関情報部教育隊に所属していたようです。ハルビン特務機関長は、土居明夫特務機関長(秋草特務機関長の前任)でした。叔母は、恐らく情報部教育隊(471部隊)に所属し、21歳でハルビンで殉職しましたが、もし御存知なら叔母の消息を知りたい」といった趣旨のコメントをお寄せくださいました。

三浦さんは東北地方にお住まいですが、わざわざ上京され、公文書館や国会図書館などで資料漁り、過日、山本武利・一橋・早大名誉教授が理事長を務めるインテリジェンス研究所主催の諜報ツアーなどで直接面識を得ることができました。

その後、山本和英さんという方から、このブログに、今年6月23日付で、「私の父も471部隊に所属していました。93歳ですが、終戦時のこと、鮮明に記憶しています、三浦様、何らかの情報があるかもしれません」とのコメントをお寄せくださったのです。

このことを私が、三浦氏にお伝えして、山本和英氏にコンタクトを取るようお勧めしたら、このほど、うまくメールで繋がり、三浦氏は、その93歳の山本氏のご尊父と来月、彼がお住まいの中部東海地方でお会いすることになったというのです。そんな嬉しいメールが昨晩、飛び込んできました。

こんな嬉しいことはありませんよね?

まさに、世界最小の双方向性メディア、つまり、仲介役を務めることができたのですから。本当に我が事のように嬉しくなりました。

あとは、三浦氏の叔母さんの消息が少しでも確かめることができたら万々歳です。

最近はネット上でのサイバー攻撃やら、おためごかしや詐欺師の横行でろくなことありませんよね?

ですから、自画自賛かもしれませんが、こんなちっぽけなブログでも、今まで知らなかった皆さんでも、少しでもお役に立てたのではないかと思うと嬉しいのです。いや、こんな嬉しいことはありません。

だから、早速、ブログに書き留めておくつもりです(笑)。

【追記】

先日参加したインテリジェンス研究所主催のツアーのブログが、「NPO法人 インテリジェンス研究所」のホームページに転載されました!(クリックしましたら、HPに飛びます)あら!古い記事まで転載されてます。サイトの下の方です(笑)。

Apple ID奮闘記 一難去ってまた一難

今年6月8日付「やられたあ…Apple ID 乗っ取りか?パニック」、同6月19日付「Apple ID にはまた参った! 犯人が実力行使か?」で書きました通り、偽Apple IDメールとの奮闘、私に言わせれば「格闘」はまだ終わっていませんでした。

あれから、

お客様各位、

あなたのApple IDは、異常な場所からアクセスされているため、ロックされています。ログインの詳細 :

日付: 2018年6月30日
ブラウザ:Safari Browser
オペレーティングシステム: iOS
国:Morocco

24時間以内にこのメッセージが確認されるまで、お客様のアカウントは保護されます。

指定した期限内にこのメッセージを確認しないと、アカウントは永久にロックされます。 確認ボタンを押して、アカウントが完全に安全になるまで提供する手順を完了してください。

検証

Apple サポート。

Apple ID サポート 個人情報保護方針
Copyright © 2018 Apple Inc.
One Apple Park Way, Cupertino, CA 95014, United States.
すべての権利予約。

といったメールが立て続けに来るようになったのです。

最後の「すべての権利予約」という変な日本語でも分かるように、冷静になれば、偽メールだということが分かります。でも、「検証」をクリックすると、偽のApple ID アカウントのホームページに移動します。

全く瓜二つで、本物と区別できませんが、恐らく偽者サイトでしょう。

あれから、Appleのサポートセンターに連絡したのですが、3週間以上経ってもなしのつぶて。無視、黙殺されました。「48時間以内に折り返し連絡します」というのは大嘘つきで、Appleは酷い会社です。前回は、親身になって応えてくれた、と書きましたが、取り消します。本当に無責任な酷い会社です。

言い過ぎだとしたら、無能な会社と言った方が適切でしょう。なぜなら、普通に、顧客の対応ができないからです。

私自身は、どうしても、この中国語で乗っ取られた気持ち悪いApple IDは削除したいので、またまたITとパソコンに詳しい石田先生に相談したところ、新たなアクセスサイトを紹介してくれました。それは、Apple store にログインするサイトでした。

そこから、IDとパスワードを入れて進入したところ、ついに自分の住所氏名、電話番号、それにクレジットカード番号まで出てきたのです。

実は、古い手帳で確認したところ、この中国語で乗っ取られたApple IDは、かつて、音楽のiTuneをダウンロードした際、自分自身で登録していたことが分かりました。随分昔なので、自分で登録していたことさえも忘れていたのです。

そして、やっとのことで、自分のサイトに到達したところ、住所氏名等は正式でしたが、電話番号は既に解約したものでした(笑)。しかも、大変嬉しいことに、クレジットカードの有効期限が「2011年3月」だったのです。

やはり、7年以上昔に登録していたんですね。

有効期限が切れたクレジットカードなら乱用されずに済みます。これで、一安心です。

本当に疲れました。

悔しいので、このApple IDの住所氏名を架空のものに変え、クレジットカードも出鱈目な番号を登録しました(笑)。

そして、いつか、何とか極悪非道で阿漕なサポートセンターに頼らずに、IDを削除してみようかと思ってます。

もう執念です。またいつか、朗報を皆さまにお伝えしたいと切望しております。

日本、惜敗でベスト16止まり

今朝の明け方は、頑張って起床して、もちろん、ワールドカップ(W杯)サッカー・ロシア大会、決勝トーナメント、日本対ベルギー戦を声を枯らして応援しましたよ。モロ、俄か極右国粋主義者ですね(笑)。

惜敗でした。原口、乾の得点で2-0になったとき、いけると思ったですがね。勿論、このまま、零封にできるわけがなく、2-2の同点になって、引き分けに持ち込んで最後はPK戦で勝つという望みに懸けていたんですが、まさか、アディッショナルタイムで、勝ち越し点を奪われるとは思いませんでした。

大健闘した最年少25歳のセンターバックの昌子(鹿島アントラーズ)が立ち上がることができず、ピッチに土下座するように号泣している姿を見て、こちらも思わずウルッとしてしまいました。

こんなドラマは、どんな優れた脚本家も書けないことでしょう。

土佐の濁酒(どぶろく)先生は「フン、何で日本人までもが、あんな球蹴りに夢中になれるんでしょうかねえ。終わって清々した」と、白け切っておりましたので、「サッカー観戦の楽しみを知らないなんて、人生の楽しみの半分を放棄しているようなもんですよ」と言ってやりました。日本だって、蹴鞠以来の長い伝統があるんです(笑)。

何と言っても、相手のベルギーは世界第3位の強豪。「赤い悪魔」ですからね。悪魔相手に、61位の日本は健闘したと思います。このまま、ベルギーが、次の2回戦でブラジルに勝てば、日本の強さもフロックではないことが証明されることでしょう。

ヤブカンゾウ

ベスト16で終わったとはいえ、ここ数週間、日本中、いや、世界中がワールドカップで盛り上がり、時の最高権力者までもがコメントするぐらいですから、ワールドカップ関連のニュースでいっぱいでした。そのお蔭で、報道されなかったか、影に隠れてしまったニュースも多くあったことでしょう。

トランプ米大統領が仕掛けた貿易戦争の行方が気になります。株が下がってますしね。

富山県の交番で警察官から拳銃を奪って、警官と警備員を殺害した若い犯人の動機が気になります。

あと、落語家の桂歌丸(落語芸術協会長)が2日に亡くなりましたね。享年81。何度か彼の寄席を聴いたことがありましたが、円朝の怪談「真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)」などですから、お笑いじゃないですよね。テレビのイメージは全くなし。まさに、噺家でした。

大変な勉強家で、一人でハンチング帽を深くかぶって歌舞伎を見に来ていた姿を何度かお見かけしたこともありました。とても痩せていて、かなり小柄な人でした。

歌丸師匠のご冥福をお祈り申し上げます。合掌。

蔽之館~陸軍中野学校跡巡り

昨日は、梅雨明けの暑い最中、インテリジェンス研究所主催のツアーに参加してきました。34人も参加しました。

JR総武線東中野駅集合で、東中野には本当に久しぶりに行きましたが、西口はすっかり変わっていて、地下鉄大江戸線ともつながっていて、別世界のようでした。

東中野「ジャスミン」中華定食B 670円

ここから歩いて、7~8分ぐらいの所、総武線・中央線路沿いの住宅街のど真ん中に「蔽之館(へいしかん)」跡がありました。地下架線路を挟んだ真向かいに名門明大中野高校の校舎が見えました。今は、まだ入居されていない新築住宅が数件建っており、道を通る人が「こんな所に一体何があるの?」と我々を不思議な表情で眺めながら通り過ぎておりました(笑)。

ここは、昭和16年12月の真珠湾攻撃の直前、日系米国人2世の俊英が密かに外務省によって日本に呼び寄せられて、VOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)や中波など対日ラヂオ放送などを傍受して、翻訳してインテリジェンス活動をしたところだったというのです。

1939年12月1日の第1期生から45年4月1日の第5期生まで数十人の卒業者を輩出し、名簿では、彼らの出身地である桑港(サンフランシスコ)、羅府(ロサンゼルス)、晩香坡(加奈陀=カナダ=バンクーバー)などと明記されています。

上記写真は、その蔽之館前で撮影されたもので、山本武利インテリジェンス研究所理事長(早稲田大学名誉教授)の話によると、これは、日系2世の坂本勢一という人の出征記念写真だというのです。日系2世は、日米二重国籍ですが、20歳を過ぎたらどちらかを選べるらしく、この坂本さんという人は日本国籍を選び、一等兵として出征し、満州ハルビン関東軍の諜報部に配属されたといいます。

彼は、ソ連軍侵攻で捕虜としてシベリア抑留されましたが、昭和25年に帰国したようです。その後、彼はどうなったか説明がありませんでしたが、蔽之館は戦後、どういうわけか、GHQの認可を受けて、外務省ラジオ室から「ラジオプレス」に転身します。

ラジオプレスは、今でも北朝鮮を始め、世界各国のラジオ放送などを傍受してニュースを配信しております。【RP=東京】などのクレジットがあれば、それはラジオプレスのニュースだということになります。

実は、このラジオプレスは、私は子どもの時から大変馴染みのある組織でした。亡父が一時期働いていたからです。当時、1960年代半ば頃は、東京・新宿区河田町のフジテレビ内にあったらしく、このテレビ局内の食堂で、当時人気絶頂だったクレージーキャッツの面々が近くで食事をしていたといった他愛のない話を聞いたこともありました。(そんな話を聞いて育ったため、将来、マスコミで働きたいと思ったのかもしれません=笑)

東中野の蔽之館の後、電車で1駅の中野まで行き、陸軍中野学校跡などを見学しました。

そのあまりにも敷地の広大さに驚いてしまいました。JR中野駅からほんの目と鼻の先の超一等地ですよ。中野サンプラザの西隣りは中野区役所になっていて、道路を挟んだ西隣りに中野税務署があり、その奥に広大な「中野四季の森公園」が広がっていましたが、ここに中野学校を始めとした陸軍関係の施設があったというのです。

今の平和の時代、家族連れがバーベキューを楽しむ公園になっていましたが、ここが中野学校だったのかと思うと感無量でした。

陸軍中野学校跡の碑

ちなみに、江戸時代は、あの五代将軍綱吉が発した生類憐みの令によって、犬の保護施設が作られた所だったというのです。また、戦後には警察庁警察学校がつくられ、今では学校は移転しましたが、警察学校の付属病院だけが残っています。

また、中野区の戦略らしいのですが、この広大な公園の西隣りに大学の出先機関を誘致し、早稲田大学のほか、明治大学や平成帝京大学などが超高層ビルを構えていました。

ツアー後の講演会は、この早稲田大学中野国際コミュニティプラザで行われましたが、ここは、講義室のほか、主に留学生の滞在宿舎として利用されているということでした。

講演会では(1)村上勝彦東京経済大学名誉教授「明治前期の陸軍参謀本部のインテリジェンス活動ー主に中国、朝鮮での活動と地図作成」(2)山本武利理事長「蔽之館の開校とラジオ傍受活動」(3)岸俊光毎日新聞オピニオングループ部長「内閣調査室の知識人人脈」-の3碩学が登壇され、いずれも興味があるので大変面白かったです。

(1)の村上先生のお話は、「参謀本部歴史草案」(防衛研修戦史室所蔵)を軸に、明治新政府になって、日本が如何に参謀組織を築きあげていったのか、その変遷がよく分かりました。日清・日露戦争の前に、偵察将校と言われる人たちが中国、朝鮮に渡り、密かに地図を製作していたということですが、それは基本中の基本で、地図がなければ戦えませんからね。武市熊吉(土佐・1840~74)、益満邦介(薩摩・1849~99)、酒匂景信(日向・1850~91、好太王碑文改ざんか?)、荒尾義行(精)(尾張・1859~96)といった情報将校の名前を初めて聞きました。これから自分でも調べてみたいと思います。

(2)の山本先生のお話の中で、鳥居英晴著「日本陸軍の通信諜報戦ー北多摩通信所の傍受者たち」(けやき出版、2011年)を引用し、北多摩陸軍通信所は陸軍の傍受機関で、東京都東久留米市にあったという話を聞いて、腰を抜かすほど驚いてしまいました。なぜなら、東久留米は私が少年から青年時代にかけて20年間も住んだ所であり、鳥居氏の本を読まないと確認できませんが、恐らく、この北多摩陸軍通信所の跡地に建設されたであろう運輸省航空交通管制本部(現在、埼玉県所沢市に移転)に亡父が長らく勤務していたからです。

(3)の岸先生のお話は内閣調査室の略史でした。現在進行形の企画もあるので、このブログで詳細には触れられませんが、ジャーナリスト吉原公一郎という人が、内閣調査室の内部文書を入手して、1963年に「小説 日本列島」を発表し、松本清張も、吉原氏から内部文書を入手して「深層海流」を発表し、65年には熊井啓監督により映画「日本列島」が製作され話題を呼んだという話は大変興味深かったです。

この吉原さんというジャーナリストは、どこかの新聞社出身かと思ったら、石川達三の小説「金環食」でもモデルになった高利金融業者森脇将光がやっていた森脇出版が発行する「週刊スリラー」にいた人だというので、驚きました。

「金環食」は山本薩夫監督により映画化(1975年)され、森脇将光をモデルにした石原参吉役を宇野重吉が演じてましたが、あまりにも強烈な演技力に圧倒され、いつまでも忘れることができませんでした。久しぶりに森脇の名前を聞いて小躍りしてしまいました(笑)。

国民はなめられている

 東京の調布先生です。
 ワールドカップ・サッカーの観戦で、皆さん、また寝不足のことでしょう。チャップリンが生きていたら、「サッカー狂時代」とかいうタイトルで、面白い風刺映画をつくっことでしょう。
 「渓流斎日乗」の読者の皆さんのようなインテリさんまで、「サッカー汚染」されるのですから、時の為政者安倍首相は「世の中は、チョロい。チョロいもんだよ」と一昨日は、二代目猿翁の稽古場跡の居酒屋「赤坂 うまや」で「忖度部下」と一緒にニンマリと酒を飲んでいるのです。
 そして、昨晩は、東京・赤坂のイタリア料理店「キッチャーノ」で、曽我豪(朝日新聞編集委員)、山田孝男(毎日新聞特別編集委員)、小田尚(読売新聞東京本社調査研究本部客員研究員)、石川一郎(BSジャパン社長)、島田敏男(NHK名古屋放送局長)、粕谷賢之(日本テレビ取締役報道解説委員長)、政治ジャーナリスト田崎史郎(元時事通信)と優雅にも食事しているのです。
 まさか、官房機密費から食事代が出ていないでしょうね。納税者として、曽我、山田、小田、石川、島田、粕谷、田崎の名前は覚えておくことです。特に、国営放送の島田局長は、わざわざ、名古屋から飛んできたんですか。。。国民から視聴料を簒奪している公共放送の幹部が、現場をほっぽり出したりしていいんですかねえ?誰も批判しないので、迂生が指摘しておきます。
 もう一回、まさか、と言いますが、「国民はバカだから新聞を読まない。これで、自民党も安泰、万々歳だ」「ごもっとも、ごもっとも」と茶坊主のような会話を交歓しなかったでしょうね?
 マスコミがスクランブルを組んで、時の最高権力者にこびへつらったのか、為政者が下々の生活を知りたくて昵懇のメディア関係者を呼びつけたのか、どちらか分かりませんが、さぞかし、藤原道長も催したことがないほど和気藹々とした懇親会だったことでしょう。いずれにせよ、国民はなめられているということですよ。
 そういえば、赤坂の居酒屋「うまや」には、昔、貴人と御一緒しませんでしたか? 亡くなった藤間紫さんと市川猿之助(猿翁)の稽古場を改造したお店で、迂生は何度も行きました。

でも、総理大臣が行くには、聊か不釣り合いですよ。若いミーちゃん、ハーちゃんが行って喜ぶような雰囲気です。

 

それから、「昭和シェル」との合併問題で「出光一族」が、賛否で内部対立しているようですね。数年前あった「大塚家具」の親と娘の家族対立みたいな構図です。創業者の出光佐三も、泉下で泣いていると思いますよ。それに、「村上ファンド」やインチキ弁護士、コンサルタント屋、周旋屋なども入り込み、内実は漫画みたいな展開になっていると思います。取材するには面白いと思います。

追河探訪記者がワクワクする素材です(笑)。

生身の人間に興味がない近未来人

最近はなるべくテレビを見るようにしています。ちょっと前までは、テレビはほとんど全く見ませんでした。お蔭で、さっぱりタレントさんの顔と名前が分からなくなりました。テレビはやはり、時代を写す鏡です。

これでも、20年前は(笑)、バリバリのテレビ担当記者でしたから、朝から晩までテレビを見て、何十人、何百人ものタレントさん、歌手、俳優、役者さんらにインタビューしたものでした。

まあ、芸能界は大変な世界ですから、10年持てば良い方でしょう。あのビートルズでさえ、現役で活動したのはわずか7年間でしたからね。

で、今日は何を言いたいのかといいますと、先日見たバラエティー番組で衝撃を受けたからです。いわゆる男子系アイドル(グループ)を量産する誰もが知っている有名大手芸能事務所に所属するタレントさん(24)で、自室に籠もってゲームをしたり、漫画を読んだりすることが大好きなようで、他のメンバーと一緒にどこかに行ったり、飲みに行ったりもしないというのです。ということは、議論もしないのでしょう。

それはともかく、一番驚いたのは、その年頃なら異性(成人つかまえて、異性というのも変ですが)に興味があるはずなのに、デートをしたり、彼女をつくったりするのが面倒くさいらしく、お笑いの大御所タレントさんが「何で?」と質問すると、「何のメリットがありますか!?」と逆切れするのです。

メリット??? メリットとは損得勘定じゃないですか!若い時にそんなこと斟酌したら、とても男女交際なんかできませんよ(笑)。

彼は「そもそも、僕はあまり人間に興味がないんです。特に3次元は駄目。漫画なんかの2次元だったら大丈夫ですけど…」とまで言い放つのです。

唖然、呆然としてしまいました。

大昔、「新人類」という言葉が流行りました。「何を考えているのさっぱりか分からない」「新しいタイプの人間」という蔑称を込めて、確か、高校野球PL学園の桑田と清原らに対してのレッテル貼りが始まりだったと思いますが、彼らは今や既にもう50歳を過ぎています。

そんな新人類の息子ほどの年齢が今の若者です。またまた、昔は「おたく」とか「草食系男子」とかいう言い得て妙な言葉が流行りましたが、今の若者(の一部)は、さらに、さらに、進化したのか退化したのか、その上のまた上を行く感じなのです。

同じ番組に出ていた中年タレントさんは「もう草食系じゃなくて、単なる草」と彼のことを比喩してましたが、うまいこと言うものです。

異性の関心を引くために、オスのカエルはお腹を大きく膨らませたり、オス鳥は綺麗な声で鳴いたり、華麗なダンスを踊ったりします。人間だって、虚勢を張って頑張りますよ。女の子にもてたいがために、ギターなんか始める男の子もいます(笑)。

番組に出ていたティーンエージャーの女性タレントさんは「男の子にデートに誘われたことなんかない。今、7割ぐらいの女の子は誘われたことがないと言っている」などと暴露していました。

男の子が生身の女の子と付き合うことを拒絶して、ゲームやアニメなどの虚構の世界にしか興味がないなんて、まるで、SFの近未来の世界かと思っていたら、時代はもう既にそこまで来ていたんですね。

戦前は、政府もマスコミも、男は戦う兵士になれるよう養成する機関や風潮を全体主義国家として構築していました。

今の日本、平和の時代が70年以上も続き、徴兵される心配もないということで、男は、生物学的に中性化してきたということなんでしょうか。

とにかく、若い男性タレントさんの「女の子と付き合っても何のメリットもない」という発言にはカルチャーショックを受けました。まあ、アニメやゲームなら何とか自分の思い通りにできますし、恋愛しなけりゃ、ふられたりしなくて済みます。心に傷を負うこともないので健康的。確かに、打算的といえば打算的にしろ、あり得る話です。

しかし、「時代はここまで来てしまっていたのか」というのが正直な感想でした。

京都・南禅寺金地院の東照宮は意外と…

こんばんは、京洛先生です。

紫陽花が綺麗に咲いているでしょう。此処は京都、南禅寺にある徳川家康を祀る「東照宮」です。

 歴史通の渓流齋先生ですが、恐らく、「え!京都に東照宮ですか?」と瞬きされるでしょうが、京都の東照宮ですよ。

 徳川家康は元和2年(1616年6月1日)に駿府城で亡くなりますが、亡くなる間際に、自分の亡骸、遺体は「久能山」、法要は「増上寺」、そして、法要後は下野・日光山と京都・金地院の小さなお堂を建てるように、と側近、ブレーンの崇伝、天海、本多正純に伝えていた、と言われています。

 だから、京都にも「東照宮」があるのです。皇室からも「正一位」が贈られ、死後は「東照宮権現」の神様にまでなったわけですね。

 ですから、亡くなった後は、徳川家は勿論、その臣下の全国の大名は「東照宮」をつくって、家康を奉ったわけです。明治の廃仏毀釈で、全国の「東照宮」の数は百余に減った、と言われていますが、最盛期は五百以上の「東照宮」があったという事です。

 いわば「家康神社」です。そのうち、日光、久能山、そして南禅寺の東照宮が「三大東照宮」と称されていて、京都の「東照宮」には家康の遺髪、持念仏が伝わています。

 しかし、そんな徳川時代に権威があった京都「東照宮」も、今では、余程の「家康ファン」か、研究家でもない限り、ほとんどの人は「そうだったのか」で終わるでしょう。

 京都の東照宮は「金地院」(臨済宗南禅寺派)の境内にあります。金地院は南禅寺の塔頭の一つで、徳川幕府の”黒衣の宰相”と呼ばれたあの崇伝が住み、十万石を貰って権勢謳歌したわけです。

 「金地院」もここ南禅寺だけでなく、駿府城、江戸城にもあったという事で、崇伝は新幹線もない時代に京都、静岡、東京を行ったり来たり、往来していたわけで、大名の参勤交代よりも凄まじい活動をしていた、という事でしょう。

 安倍政権の”御用学者”、”安倍ブレーン”なんかと、比べようもない、スケール感がありますね(笑)。

 金地院にはまた、小堀遠州の作った庭もあります。遠州の作庭と言われるものはかなりありますが、正真正銘、「遠州が手がけた」と記録に残っている庭は、この金地院の庭だそうですよ。

 ジメジメした梅雨時に可憐な紫陽花をご覧になり目の保養にしてください。

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