これから何回かに分けて、この2年半の帯広生活で私が得た教訓めいたたことを書いていきたいと思います。
第1回は、「世界は自分が作っている」
ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の有名な言葉に「人は見たいものしか見ない」という箴言があります。そうです。人は自分が見たいものしか見ないし、聞きたいことしか聞かないのです。
「嫁姑戦争」の真っ最中の人は、それぞれ嫁や姑の欠点や荒しか目に付かないのです。ヨンさまに夢中なおばさまたちは寝ても覚めてもヨンさまのことばかり考えています。生意気な部下を持った上司は、その部下の言動がいちいち気になってしょうがないのです。問題児を抱えた教師は、その子をどうやって改悛させたらいいか悩んでしまうのです。
皆、皆、自分で自分の世界を作っているのです。それが、お互いに影響しあって、見えないところで火花を散らしているのです。例えば、ある部下が「嫌な上司」と思えば、上司もその部下のことをかわいいと思うわけがありません。動物的カンで、何となく煙ったい気分になります。ただ程度の差があります。部下はその上司を殺したいほど憎悪の炎を燃やしたとしても、上司の方は蚊がとまったほどの痒さしか感じないかもしれません。そうしたいからでしょう。上司は相手にしたくないからでしょう。部下は上司をそう見たいからでしょう。お互いにそういう世界を作っているのです。
随分、つまらないたとえ話になってしまいました。
世界は自分が作っている、という話でした。
同じ景色でも、その人に何かが起きたとき全く違ったものに見えることがあります。例えば、失恋や大病をした時などです。不幸に見舞われると、人は、世の中や他人のせいにしたがります。神さえ恨みます。世界は異様に歪みます。
大病すると、また、世の中の見方が変わります。そよ吹く風さえ、違ったものに感じます。野に咲く雑草でさえ、いとおしく感じます。
帯広では、北海道の広大な大地と自然の素晴らしさに触れることが出来ました。特に、東京生活では、仕事にせよ家庭にせよ、人間としか触れ合うことがなかったので、悩みも人間だけに関するものでした。失恋も裏切りも嫉妬も不信も、人間によってもたらされたら、それらから癒されるには、人間によってしか解決できません。人間不信に陥れば、それを乗り越えるには、ほかの素晴らしい人間が登場するまでは心の傷は癒されることはありませんでした。その時初めて「あんな人間なんてほんの一部だった。人は捨てたものではない」と自分自身で納得することができるのです。
岐阜県ほどの広大な広さを持つ帯広十勝には、人口がわずか36万人しかいません。牛さんは38万頭いるそうですから、人間より牛さんの方が多いのです。そういう土地で暮らしてみると、人間だけに心を煩わされることはないのです。これまでの「人間がこの世で一番偉いんだから、人間とだけと付き合っていればいい」といった考えは実に傲慢でした。
このブログでも何度も登場している羊さんには、本当に本当に心が癒されました。
これまでの私は、牛さんや羊さんと戯れている暇があったら、本を読んだ方がためになると思っていた人間でした。ですから、ペンより重いものを持ったことがない、本しか読むことができない頭でっかちの人間でした。料理どころかお皿一枚さえ洗ったことがないほどでした。もちろん、ゴミ捨ても。月曜と木曜が「燃えるゴミ」。火曜が「燃えないゴミ」の日というのも帯広で学びました。トイレ掃除も洗濯も、自慢ではありませんが一人前にしていませんでした。
そういう「生活能力ゼロ」の人間の口から吐く思想だの哲学だの信念だの志だの、ナンボのもんでしょうか?―全く取るに足らない浅薄なものでしょう。
私は帯広で生活に苦しみ、そして楽しみました。生活することが、生きることだという単純な定理に生まれて初めて気が付きました。
そして、見える世界が今までは全く違ったものになってきました。(続)