大晦日と「京都学派酔故伝」

鎌倉街道

◇1年間御愛読有難う御座いました

今日はもう大晦日です。今年も本当に色んなことがありましたが、1年間はアッという間でした。年を取ると、年々幾何学級数的に歳月の流れが早くなりますね。

今年も一年間、わざわざ検索して、この《渓流斎日乗》を御愛読して頂きました皆々様方には感謝申し上げる次第で御座います。

今年は何と言っても、《渓流斎日乗》が新規独立して、オフィシャルサイトが開通したことが最大のイベントとなりました。これには、東京・神保町にあるIT企業の松長社長には、大変お世話になりました。改めて御礼申し上げます。

◇戦勝国史観だけでは世の中分からない

日々のことは、毎日この《日乗》に書いた通りですが、 個人的な今年の最大の収穫は、数々の書籍を通して、物事も、歴史も、色々と多面的に眺めることができたということでしょうか。世の中は、数学のようにスッキリと数字と割り切れるわけではなく、スポーツのように勝ち負けで勝負がつくわけでもなく、哲学のように論理的でもなく、小説や映画の世界のように善悪で割り切れるわけでもなく、社会倫理のように正義と不正義に峻別されるわけでもないことがよおーく分かりました。

来年のことを言えば、鬼も笑うかもしれませんが、個人的な抱負としましては、引き続き、健康には気をつけますが、「何があっても気にしない」(笑)をモットーにやって行きたいと存じます。

あと、毎日電車の中でスマホでこの《渓流斎日乗》を更新し続けてきましたら、今年9月下旬に急に体調を崩してしまい、「これはいけない」ということで、「スマホ中毒」からの脱出を図ることに致しました。

以前のように、毎日更新できないかもしれませんが、今後とも御愛読の程、宜しく御願い奉ります。

京都にお住まいの京洛先生のお薦めで、櫻井正一郎著「京都学派 酔故伝」(京都大学学術出版会、2017年9月15日初版)を読んでいます。著者は英文学者の京大名誉教授。残念ながら、あまり読みやすい文章ではありませんが、「京都学派」という知的山脈の系譜が「酔っ払い」先生をキーワードに描かれています。

京都学派というと、私のような素人は、湯川秀樹博士のような物理学者を思い浮かべましたが、著者によると、初めて京都学派という言葉が使われたのは1932年で、戸坂潤が「西田=田辺の哲学ー京都学派の哲学」という著書の中で使ったもので、哲学の分野が最初だったといいます。

そこから、京都学派の第1期は、哲学者の西田幾多郎、田邊元、九鬼周造、東洋学者の内藤湖南、中国学者の狩野直喜らが代表となります。第2期では、中国文学の吉川幸次郎、仏文学の桑原武夫(実父は第1期の東洋学者桑原じつ蔵)、生物学の今西錦司、梅棹忠夫、作家の富士正晴、高橋和巳らとなり、本書では彼らを取り上げて詳述しています。

京洛先生は、三高と京大の名物教授だった英文学者の深瀬基博(織田作之助も三高生のとき習った)が贔屓にしていた祇園ではなく「場末」の中立売通のおでん屋「熊鷹」(今はなき)が、お近くのせいか、えらくお気に入りになって、「現場」まで足を運んだそうです。

この本の中で、赤線を引いたところはー。

・仏文学者の桑原武夫は、小林秀雄に対して厳しく、「小林君というたら無学でっせ」と言ったとか。同じ仏文学者の生島遼一も小林には厳しく、後輩の杉本秀太郎が生島の家で小林を褒めると、生島は「君たちは小林小林と言うけど、彼は僕や桑原君みたいにはフランス文学は知りませんよ」と言うなり、杉本に出していたカステラを取り上げて、窓を開けてカステラを犬に食わせたとか。

・「海潮音」の翻訳で知られる上田敏は、京大英文科の初代主任教授だった。

・中国文学者の吉川幸次郎が、東京・銀座の金春通りにあった料亭「大隈」に飾ってあった、客として来た画家の岸田劉生が書き残した画賛が読めなかった。生真面目な吉川は「これは語法に合うとらん」と言った。そこに書かれていたのは、

鶯鳴曠野寒更新

金玉瓶茶瓶茶当天下

後日店を訪れた中野好夫は、吉川とは三高時代の同期だったので「吉川はこういうもんは読めんよ」と素っ気なく言ったとか。

これは、謎かけや隠し言葉を楽しんでいた江戸文化がまだ残っていたもので、「長らくご無沙汰していた年増女の懇願する内容」ということで、後は皆様御自由に解釈くだされ(笑)。

・古代ローマで一般教育「リベラルアーツ」の習得は自由民だけに限られ、奴隷、職人はタテ社会の一員として親方から専門教育だけを伝授された。リベラルアーツの初級は、「文法」「修辞学」「論理学」の3科目。上級は、「算術」「天文学」「地理学」「音楽」の4科目だった。

・筑摩書房の創業者古田晃は、東大出だったが、国文学の唐木順三、独文学の大山定一ら京都学派の本をよく出版した。かなりの酒豪で、最期は東京・神保町の「ラドリオ」で酔い潰れ、帰りのタクシーの中で帰らぬ人となった。

「マネー戦争としての第二次世界大戦 なぜヒトラーはノーベル平和賞候補になったのか」にもかなりの記述あり

◇戦争を始めるのは誰か

先日、「国際金融アナリスト」を自認している浜本君とランチをした時、読了したばかりの渡辺惣樹著「戦争を始めるのは誰か」(文春新書)の受けおりで、「君は知っているかい?今の国際情勢を知るには第一次世界大戦と戦後のヴェルサイユ体制を知らなければならない。あの時、ドイツが如何に天文学的賠償金を押し付けられたことか。あのケインズが卒倒して精神に異常をきたしたほどなんだよ。あのヴェルサイユ体制のお陰で、その後の世界金融恐慌も、第二次世界大戦も起きた遠因になったんだよ。ルーズベルト米大統領は、ニューディール政策を失敗したから、戦争したくてしょうがなかった。チャーチル英首相も戦争によって、大英帝国の権益を守りたかったんだよ。満洲事変だって、世界史的視野で見なければ、本質が分からないんだよ」などと、受けおりの「歴史修正」史観を開陳したのでした。

すると、彼は、国際金融アナリストらしく「そんなこと今頃知ったの?(笑)ヒトラーがズデーテンやポーランドに侵攻したのは、単なる侵略だけではなくて、第一次大戦前のドイツ民族が多く住む元領土の失地回復だったし、ドイツが第一次大戦後にハイパーインフレに襲われて、リヤカーいっぱいにマルク紙幣を積んで行っても、パン1斤しか買えなかった逸話があるくらい。そんな時に賢いユダヤ人だけは、先を見込んでマルク紙幣ではなく他の通貨に代えたり、ダイヤや金などに投資したりしていたので、大儲けした。これが、ドイツではユダヤ人が恨まれて、ヒトラーのホロコーストにも繋がった、という説もあるんだよ」など言うではありませんか。

「随分よく知っているなあ」と私も感心してしまったところ、翌日、彼はある本を貸してくれました。「なあんだ」。彼の説も受けおりでした。この本に全部書いてありました。

それは、武田知弘著「マネー戦争としての第二次世界大戦 なぜヒトラーはノーベル平和賞候補になったのか」(ビジネス社、2015年8月18日初版)という本です。

ヒトラーは「侵略者」であり、「大量虐殺者」だということで歴史的評価は既に決定していますが、今でも、ヒトラーについては振り返る事さえ忌み嫌われ、タブーになっており、ヒトラーに触れただけで「トンデモ本」の範疇に括られてしまいがちです。

◇英米戦勝国史観を否定

しかし、この本は違いますね。著者の武田氏は1967年生まれで、大蔵省に入省しながら退官して作家になった経歴の持ち主らしいですが、かなりの書籍を渉猟し、これまで書かれた英米戦勝国史観を徹底的に洗い流しております。

彼は、戦争について、政治やイデオロギーからではなく、もしくは侵略とか自衛とかいう範疇でもなく、行き着くところの原因は「経済だ」と、元大蔵官僚らしい冷静な目で分析しております。彼は、その辺りを色んな統計を引用して説得力を持たせようとしております。

例によって、換骨奪胎で引用させて頂くとー。

・第二次世界大戦の原因はさまざまあるが、もし最大の原因を一つ挙げろと言われれば、ドイツの経済問題にあると言える。…第一次大戦の敗戦国ドイツは、ヴェルサイユ体制で、植民地は全て取り上げられ、人口の10%を失い、領土の13.5%、農耕地の15%、鉄鉱石の鉱床の75%を失った。この結果、ドイツ鉄鋼生産量は戦前の37.5%まで落ち込んだ。

・英国の経済学者ケインズは、仏ヴェルサイユ講話条約交渉の英国代表として参加したが、あまりにもの理不尽さに精神を病み、帰国後、「平和の経済的帰結」を発表する。この中でケインズは「ドイツの賠償金は実行不可能な額で、…それはいずれ欧州の将来に必ずよくない結果をもたらす。ドイツは近いうちに深刻なインフレに陥るだろう」などと予測、もしくは警告していた。

・ドイツ賠償金については当初、「ドーズ案」により、マルクで支払うことができるように「トランスファー保護規定」が決められていた。それが1929年の「ヤング案」によりこの規定が廃止され、ドイツ経済が破綻する原因となった。これが結局、米国の株式市場暴落をもたらす。

・ナチスは合法的に台頭し、ドイツ国民は選挙でヒトラーを選んだ。ドイツ財界も、ロシア革命が起きて間もない時でもあり、共産党への恐怖と強い警戒感があったため、ナチスを容認した。

・ナチスは、1933年に政権についたが、600万人いた失業者をその3年後に100万人程度に減少させた。36年には、実質国民総生産を28年より15%も上昇させた。

・1930年代は、日米対立の前に日本は英国と熾烈な経済戦争を繰り広げていた。貿易戦争の要因は、これまでの日本の主力輸出品だった生糸や絹に陰りが見え、綿製品だった。世界大恐慌の前の1928年、日本の綿輸出は英国の37%だったのが、1932年には92%となり、33年にはついに英国を追い抜いた。これに対して、英国は輸入規制を行い、特に植民地だったインドへの綿製品への関税は法外になる。インド政庁に働きかけ、英国製品は25%に据え置くが、日本製品には75%もの高関税を課した。このほか、当時の日本の主力輸出製品だった自転車にも高関税を課して日本をいじめた。

・欧米の植民地市場から締め出された格好となった日本は、勢い満洲や中国大陸に向かうことになった。有り体に言えば、満洲国の建国も南満州鉄道の利権争いが発端になっている。

・格差社会が軍部の暴走を招いた。昭和6年の山形県最上郡西小国村の調査では、村内の15歳〜24歳の未婚女性467人のうち23%に当たる110人が家族によって身売りを強いられた。警視庁の調べでは、昭和4年の1年間だけで、東京に売られてきた少女は6130人だった。2.26事件などを起こした青年将校らは農村の荒廃を動機に挙げている。

・昭和2年度の長者番付では1位から8位まで三井、三菱の一族で占めた。三菱財閥三代目総帥の岩崎久彌の年収は430万円。大学出の初任給が50円前後、労働者の日給が1〜2円の頃なので、普通の人の1万倍近い。現在のサラリーマンの平均年収が500万円前後なので、1万倍となると、岩崎は500億円近い年収だったことになる。2004年度の長者番付1位は約30億円。戦前の財閥が如何に金持ちだったことが分かる。(昭和初期は血盟団事件など財閥人へのテロが相次ぐ)

・1923年末、世界の金の4割を米国が保有。その後、第二次大戦まで増え続け、最終的に世界の金の7割を保有するに至る。

・1929年の大恐慌により、米国は、米国への輸入品2万品目の関税を大幅に引き上げる「スムート・ホーリー法」を成立させる。これにより、各国も関税を引き上げ、世界貿易は大きく縮小し、世界経済は混乱、疲弊していく。英国はカナダ、豪州などイギリス連邦以外には高い関税をかける。こうしたブロック経済化により、新興国日本は、中国全土に兵を進め始め、ドイツではナチスが台頭することになる。

・第二次大戦前まで、日本の最大の輸出相手国は米国だった。しかし、1938年に日本が「東亜新秩序」を発表すると、米国は日本に対して強硬策を取ることになり、翌年、米国は日本との通商条約破棄を通告。1941年の日本の仏印侵攻後は、米国は日本に対して「在米資産の凍結」を実行し、横浜正金銀行ニューヨーク支店を破綻に追い込んだ。これは日本の国際貿易が終わることを意味し、この時、日本は「日米開戦」を決断する。


まあ、凄いお話でしたこと!

ムック「江戸三百藩 全史」を衝動買い

藤沢周平の小説に登場する海坂藩は、架空の藩ながら、藤沢の出身地である鶴岡の庄内藩がモデルになっていると言われています。

こんなことは藤沢周平のファンとしては常識中の常識でしょうが、この庄内藩は、「徳川四天王」の一人と言われた筆頭家老酒井忠次の子孫が代々治めていたことは、不勉強な小生は最近知ったのでした。嗚呼、恥ずかしい。

(大河ドラマ「おんな城主直虎」では、この酒井忠次役としてみのすけという俳優が演じておりました。)

どうも、我ながら「藩」の知識がなさ過ぎます。

最近、テレビで、佐々木蔵之介主演の映画「参勤交代」と「参勤交代リターン」を続けて放送していたので見たのですが、あまりにも荒唐無稽で、お子ちゃま向けの時代劇で、「嗚呼、劇場公開で見なくて良かった」と思ってしまいました。失礼ながら。

あまりにも、漫画チックな内容で、舞台になっている湯長谷(ゆながや)藩だとか、磐城平(いわきたいら)藩など、聞いたこともないし、どうせ勝手に考えたもんだろう。どうせ作り話なら、もう少し、格好良い藩の名前にすればよかったのに、と観終わって思ったわけです。

そしたら、ギッチョンチョンの大吃驚。湯長谷藩も磐城平藩も、ほんまもんの実在した藩だったんですね!

本屋さんで、何気なく立ち読みしたムック「江戸三百藩全史」(スタンダーズ社)をパラパラ捲っていたら、湯長谷藩が出てきたので、思わず衝動買いしてしまいました。本当に百姓一揆があったらしく、藩主が、映画のお話ほど民百姓思いで、善政を敷いていたのかどうか疑わしくなってしまいました。

いや、実は、前々から藩についてもっと知りたいと思っていたので、このムックはちょうどよかったと言えばちょうどよかったでした。

このムックは、家紋から居城、石高に至るまで簡潔にまとまって読みやすいことは確かですが、残念なことに、庄内藩の藩主は「酒井家」なのに、見出しが「酒田家」に誤記されてます。本文に地名の酒田が出てくるのでそれで間違ったのか。しかし、こんな初歩的ミスは編集か校正段階ですぐチェックできるはず。他にも間違いがあるのかもしれません。最近の出版物は、どうも編集者のレベルが低下しているなあ、と残念な気持ちになってしまいます。

「増補改訂版」とあるので、よく売れている本なのでしょう。このムックの発行日は、まだ先の2018年1月1日となっておりますが(笑)、次回の「改訂版」ではしっかり間違いは直してくださいね。

「三流の維新 一流の江戸」を読んで考えさせられて…

最近、どうゆうわけか、「歴史修正主義」的な著書に巡り合っております。

先日読了した原田伊織著「三流の維新 一流の江戸 『官賊』薩長も知らなかった驚きの『江戸システム』」(ダイヤモンド社・2016年12月8日初版)もそうでした。かなりの「修正主義」が入っておりました。

◇維新の英傑は本当に英雄だったのか?

来年は「明治維新150年」で、NHKの大河ドラマ「西郷どん」が始まるというタイムリーな時期ですが、著者は、維新の英傑と言われた西郷吉之助(隆盛)も大久保一蔵(利通)も桂小五郎(木戸孝允)も、伊藤俊輔(博文)も山縣狂介(有朋)も井上聞多(馨)もコテンパンに批判し、斬りまくります。

残念ながら、あら捜しをすると、「伊達正宗」と誤記したり、「記紀が史実としたら、神武天皇以下、日本開闢初期の天皇は、二百歳、三百歳という長寿の天皇が何人も存在したことになる」などと事実誤認したりしており、同書の質と信頼性を損なってしまう恐れがありますが、本書で展開された著者の主張するある部分は、私も納得し、賛成したいと思っております。

(伊達正宗は、⇒伊達政宗。初代神武天皇は127歳、最長は第十二代景行天皇の147歳で、200歳以上はおりません。この神話の世界の天皇は当時、二毛作で1年に2回年を重ねて勘定していたという説があり、127歳と言っても63.5歳となる、と唱える識者もいる)

◇司馬史観を乗り越えて

われわれは、いわゆる「司馬史観」と呼ばれる作家司馬遼太郎が書いた小説を、フィクションなのに、歴史的事実として捉え過ぎているのではないか、と著者は主張します。例えば、幕末史最大のヒーローである坂本竜馬については、こんなことを書きます。

「我が国最初の株式会社といえば、坂本竜馬の『亀山社中』という全く根拠のない俗説が根深く生きているが、典型的な”死の商人”として幕末日本の殺し合いを演出したグラバー商会の単なる下請けとして薩摩と長州の間を、密輸入した武器を中心とした物品を運んでいただけの亀山社中の実態については、拙著『大西郷という虚像』で述べた通りである」(76ページ)と、司馬先生が怒るほど竜馬をコテンパンに虚仮おろします。

著者によると、築地ホテルの建設や兵庫商会設立など日本で最初の株式会社のシステムを導入したのは、幕僚の小栗上野介忠順(ただまさ)だったといいます。幕末の小説の中では無能扱いされている徳川幕府の官僚の中には、他に岩瀬忠震(ただなり)、川路聖謨(としあきら)ら「一流の」人間が綺羅星の如くいたというのが著者のスタンスです。

◇維新の英傑はテロリストだった!

一方の、明治新政府によって書かれた歴史で「英傑」になっている西郷や大久保や桂や岩倉具視らは、徳川慶喜が「大政奉還」をして、朝廷に恭順の態度を示したにも関わらず、テロで社会に混乱を巻き起こして、暴力革命で政権を奪取した「三流の」テロリストだったと断罪するのです。特に、西郷は「赤報隊」(隊長の相楽総三は、後に「偽官軍」として処刑される)というテロ組織を動かして、江戸市中を攪乱し、幕府を挑発したことになっていますが、来年の大河ドラマは、英雄物語なので、そこまで触れることはないでしょうね。

まあ、この本を読むと、我々が学生時代に習った「江戸時代=封建的=因襲的身分社会=悪」「明治維新=英雄=正義=善」という図式がまるっきり崩れ去ってしまうのです。

【追記】

・江戸時代、世界に先駆けて、幕府は定期的に人口調査をしており、享保6年(1721年)の総人口は3100万人。幕末の総人口は3200万人とほとんど変わっていない。(飢饉や疫病なども影響か)(184ページなど)

・寛政4年(1992年)、長州藩の総人口は約47万7000人、会津藩の総人口は、その4分の1の約11万8000人だった。(191ページなど)(幕末もそれだけの差があって、両者は戦ったのだ)

・16世紀の安土桃山、戦国時代、戦場で略奪された人間は、東南アジアに人身売買された。その数は10万人を超えるという。彼らを東南アジアに運んだのは主にポルトガルの黒船だった。初期の頃は、イエズス会が神の名をかたり、奴隷売買に加担したことが判明している。この事実が、日本人に、時の日本の政権に、ポルトガル人=切支丹の恐ろしさを焼き付けることになった。(227ページなど)

・薩摩長州は、徳川政権を倒すために、天皇を道具として利用したに過ぎない。(95ページ)

・明治政府が行った廃仏棄釈は、醜い仏教文化の殲滅運動で、奈良興福寺では、2000体以上の仏像が破壊されたり、焼かれたりしたことが分かっている。五重塔は25円(一説には10円)で薪にするために売りに出された。我が国四大寺の一つと言われた内山永久寺は、徹底的に破壊され尽くし、今やその痕跡すら見られない。姿を残していないのだ。(96ページ)

石橋正和さんって誰?「白いばら」が閉店とは!

新聞の片隅に出ていた石橋正和さんがどんな人なのか気になりました。

田村正和に似たいい男?それとも、ブリヂストン財閥の親戚の方?

正解は、寿司職人さんのようです。

昨晩、日本の国家最高権力者で、御自身のことを「リベラル」と自称されている安倍首相が、アッキー夫人同伴で大物国会議員夫妻らとディナーに訪れたのがこの東京・銀座のお店だったのです。

「銀座通」を自称する私も知らなかったので、気になって少し調べてみました。

クリスマスイブ

所は銀座三丁目。正式名称は「鮨一 石橋正和」。あの地方別出身のホステスさんを取り揃えて、「貴方のご出身の女性を御指名下さい」と看板に書かれているグランドキャバレー「白いばら」の真向かいにあるそうです。

あたしは、東京生まれの東京育ちなもんで、この店に行ったことはありませんが、京都にお住まいの「地獄耳」の京洛先生から、「『白いばら』はもうすぐ閉店してしまいますよ」という極秘情報を先日聞かされたばかりでした。

こちらも調べてみますと、「白いばら」は何と昭和6年創業。満洲事変があった年ではありませんか!(ちなみに、同じ年に、松屋浅草店と新宿ムーランルージュが開業してます)来年1月10日に87年の歴史の幕を閉じるそうなのです。

何とまあ、歴史と伝統があるキャバレーだったんですね。昭和初期ですから、ミルクホールの流行ったモボモガの時代です。太宰治(青森)や檀一雄(福岡)、坂口安吾(新潟)ら地方出身の無頼派も通ったかもしれません。恐らく、全盛期は昭和30年代、石原裕次郎や浅丘ルリ子を気取ったナウいヤングが、ごゆるりと集ったことでせう(笑)。

あ、石橋正和さんのことでした。この鮨一という店は、ミシュランの星を取ったり、外されたりしたそうで、高いようで、そうでもないようで、美味いという人もいれば、それほどでもないという人もあり、「白いばら」の凄さと比較したら、何かどうでもよくなってしまいましたよ…(笑)。

?「花筐」は★★★

東京新聞の二社面の片隅に「編集日誌」がありまして、先日、(石)さんというよく知らない方の署名が入ったそのコラムの中で、病を押して最新映画の公開にこぎ着けた大林宣彦監督のことについて触れられていました。(その日の東京新聞の一面片に大林監督の最新作「花筐」についてのインタビュー記事が載っておりました)

あ、一つ、大訂正です(笑)。実は、この(石)さんという方はよく存じ上げておりました。長年の友人です。失礼致しました。(しっかり訂正しないと怒る人がいるもんで=笑)

その(石)さんに刺激されて、わざわざ東京は有楽町のスバル座まで決死の覚悟と遠出しまして、この「花筐」を観に行って来ました。

◇昭和初期の唐津が舞台の映画

あ、また、二つ目の訂正です。この作品は、原作が私も大ファンの檀一雄先生。時代は昭和初期で、舞台は小生の母方の出身地で、今年亡くなった、大好きだった幸夫叔父さんも長年暮らしていた佐賀県唐津市ですから、見逃がすわけにはいきませんでした。

物語は、昭和12年の支那事変辺りから始まって、16年12月8日の真珠湾攻撃を経て、戦後に主人公の榊山俊彦(窪塚俊介)が青春時代を回想する場面で終わります。

日本は戦争にまっしぐらに進む軍国主義の暗い世相の中、その当時なりに若者はピクニックに行ったり、お酒を呑んだり、タバコを吸ったり、淡い恋愛をしたり、青春を謳歌したりします。

設定がかなり庶民とはかけ離れた裕福な豪邸が舞台ですから、映画の中では昭和初期に一世風靡したアール・デコ風の調度品がふんだんに出てきます。

唐津には私も何度か行っておりますので、懐かしい「虹の松原」も映画では頻繁に出てきて、唐津くんちの山車も全て揃って登場してました。(いわゆる町おこしのための、映画ロケのタイアップ製作作品)

長浜城跡(後北条氏の海城)Copyright par Osamoutakata (映画とは関係ありましぇん)

◇思い切って作品批判

で、肝心の映画ですが、巨匠大林監督の作品ですから、プロの映画記者や評論家は誰も批判しないので(日経の映画評は、何と五つ星でした!)、私は敢えて挑戦しますが、まず第一に長過ぎる!映画館では予告編も見せられて拘束されますから、それを入れて実に3時間の長丁場。私なんか、途中で我慢できず、御不浄に行ってしまいました。編集で30分はカットできたと思います。

も一つ、カメラワークが異様で感動の連鎖が途中で切れてしまいました。映画は、カット割りの継ぎ接ぎだらけだということは、昔、小生が学生の頃、アルバイトで映画のエキストラに出たことがあるので、よく分かっておりますが、あの撮影方法が目についてしまい、要するに自然の流れになっていないので興醒めしてしまうのです。

そして、これは巨匠大林監督の手法なのかもしれませんが、映画というより映像芸術として表現しがちで、美学としてはいいかもしれませんが、あまり行き過ぎると、物語世界にのめりこんでいけない嫌いがありました。

最後に何と言っても、40歳過ぎた中年というか、おじさん俳優が、10代の旧制高校というか予備門の学生役をやるのは、あまりにも無理があり過ぎる!キャスティングのミスでしょう。

以上、少し言い掛かりめいたことばかり述べてしまいました(苦笑)。

◇矢作穂香に大注目

ヒロイン江馬美那役の矢作穂香は、初めて観る女優さんでしたが、異様に可愛らしく、世界に誇れる女優さんですね。子役でデビューし芸歴は長いらしく、あの研音に所属し、まだ20歳なので将来が楽しみです。

映画の会話の中では、中原中也、山中貞雄の「人情紙風船」、満洲、名護屋城など私が関心がある人や場所が登場するので嬉しい限りでした。

今は便利な世の中で、出演者の顔を見て、「あの人誰だっけなあ」と思って、見終わって調べてみると直ぐ出てくるので有り難い。私の場合、「もどかしかった」人は、美那の友達あきな役と酒場の老娼婦役の俳優でした。前者は、全く映画の出演作は見たことがありませんが、映画館で本編が始まる前の予告編の紹介者としてちょくちょく登場していた「東宝シンデレラ」特別賞の山崎紘菜でした。後者は、何と池畑慎之介、つまりピーターだったんですね。長い台詞をスラスラとこなして出演場面も多かったので、誰方(どなた)かと思ってしまいました。

【特別エッセイ】男のサガについて

三島市「山中城」障子堀 Copyright par Osamoutakata

先日、テレビで、ある女性の心理学者さんが男と女の面白い違いを指摘してました。

テーブルの前に何枚かカードを伏せて並べて、一瞬だけ見せてからまた直ぐ伏せて、「何が描かれていましたか?」と質問すると、女性が「バナナがありましたね」などと答えるのに、男性の場合、あったカードではなくて、「葡萄がなかったですね」などと、なかったカードについて言及するというのです。

この話を聞いて、私なんか「はっはー」と思いましたね。

男という生物は、「ないものねだり」と言いますか、なくなったものに対して、妙に執着心があると思ってしまうのです。女性は、「ある」ものにしか興味がない、とも言えます。

だから、男は「失われた時を求めて」のような長編小説が書けるし、今はない幻想を追い求めたり、まあ、過去の歴史が好きだったりするんでしょうね。

男は、もう別れてしまった恋人や愛人やガールフレンドだけでなく、交際が絶えてしまった同性の友人たちについても、時々、ふと思い出したりします。

ところが、女は違うんですよね。

築地・イタリア食堂「のら」

女は、今、現前にあるものにしか相手にしません。「歳月日々に疎し」とよく言われます。英語では、Out of sight, out of mind. つまり、目の前から消えたら、はい、さようならです(笑)。

ある友人の話ですが、彼が遠く離れてしまった昔の女性に、誕生日が近いので久し振りに連絡したところ、電話も通じず、メールもラインのアドレスも変更されていたというのです。それは、それは、誠にお見事なものだったそうです。つい2〜3カ月前までは通じていたのに、一切、予告なしにプッツリ切れてしまったというのですからね。

昔、山本リンダの唄の中の歌詞に「ボヤボヤしてたら、あたしは誰かのいい娘になっちゃうよぉ〜♪」というものがありましたが、今の時代からすると、凄い歌詞で魂消てしまいますが、一理ある歌詞だったんですね(笑)。

いなくなってしまった人やモノのことでウジウジ悩んでいる男性諸君!貴方のせいではありません。単なる男のサガだったのです!

【教訓】

これからは、「ない」ものに執着することはやめて、今「ある」もの(明日飢えない程度のお金と、雨風を避けられる住む家、優しく声を掛けてくれる友人たち等)に感謝の気持ちを持って生きていけば宜しいのではないでしょうか。

【書評】「戦争を始めるのは誰か」を読む

万巻の書を読み尽くす博覧強記の栗原先生から、もう半年近い昔の今年7月に勧めて頂いた本2冊をやっと読了しました。

1冊の対談集は、事実の間違いが多いトンデモ本で、茲で取り上げる価値はありませんが、2冊目の渡辺惣樹著「戦争を始めるのは誰か 歴史修正主義の真実」(文春新書、2017年1月20日初版)は、さすが、栗原先生が「知的興奮の渦に巻き込まれる」とご指摘されたように、非常に面白かった。今年1年間で読んだ本の中でも、ベスト3に入ると言ってもいいです。

◇歴史は勝者が書く

私は元来、「歴史修正主義者」に対しては懐疑的、批判的立場を堅持しておりますが、渡辺氏のような「修正」は、大賛成です。

歴史というものは、いつの世でも「勝者」の眼や立場から書かれがちです。渡辺氏の場合、このような勝者からの歴史ではなく、いわば敗者から見た歴史を主張し、正史を修正して描いているのです。

人間はどうしても、物事や歴史を「善か悪か」や「正義か不正義か」の二元論で捉えがちです。それは、究極的には「勝ったか負けたか」の違いで、結局は、勝った者が正義であり、善になるわけです。

勝者によって歴史は書かれ、子どもたちも教育で教えられます。同書に沿って言えば、第一次世界大戦で負けたドイツは悪者で残酷で極悪非道、勝ったフランスや英国やロシアや米国は正しかったという「自明の理」です。

それをひっくり返して見てみると、真逆な真実が浮かび上がります。まさに、コペルニクス的転回です。例えば、この第一次世界大戦。セルビアの首都サラエボでの一発の銃声から始まったのに、ほとんど無関係な英国は、世界中に散らばる「大英帝国」の利権を守りたいがためだけに参戦。そして、ドイツの大西洋ケーブルを切断してドイツからの反論を封じ、米国に参戦してもらいたいために、ドイツの悪辣を非難するプロパガンダを米国に垂れ流します。フランスは単なる(といっては語弊がありますが)40年前に痛い目を遭わされた普仏戦争の復讐戦でしょう。

そして、大西洋を隔てたまさに全く無関係の米国は、欧州に武器を輸出してぼろ儲けして参戦し、JPモルガン銀行などが暗躍して、英国の戦費調達やドイツの莫大な賠償金の手数料の獲得に暗躍します。(その結果、世界の金融の中心地はロンドンのシティーからニューヨークのウォール街に移ります)

第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約で、連合国は、とても返すことができない天文学的数字の賠償金をドイツに課し(交渉の途中で英国代表の経済学者ケインズは、戦勝国ながら、ドイツへのあまりにもの理不尽な金額に精神状態がおかしくなってしまう!)、ドイツ国民の不満はやがて、ヒトラー政権を産む温床となっていくのです。

こんなことは、何処の歴史の教科書にも書かれたことはありませんから、私なんか目から鱗が落ちてしまいました。

Verona

◇経済的側面からのアプローチ

本書が面白いのは、これまでの歴史書には不足しがちだった経済的側面からアプローチしていることです。

著者は、どこのアカデミズムにも属さない民間の近現代史研究家のようですが、東大経済学部を卒業されている経歴から、かなりの経済学知識が豊富です。(ルーズベルト米大統領は、ハーバード大学では歴史学を専攻し、成績は「C+」(平均以下)で経済財政知識がほとんどなかった、と断定してます)

これまでの史書は、ほとんど権力者や大統領が何をしてどうなったのたか、戦争があって、その戦略がどうで、戦死者はどれくらいだったのか、といった記述が多いのですが、渡辺氏の著作では、戦費の調達方法や賠償金の額や物価や失業率など基礎的な経済指標などにも触れているので、読んでいても新鮮で、数字が具体的なので目を見開かせられるんですよね。

◇ニューディール政策は失敗?

例えば、米ルーズベルト大統領によるニューディール政策は、教科書では、テネシー川流域開発など公共事業によって失業者が減り、金融恐慌から立ち直ったと教えられたのですが、本書によると、失業率は、前フーバー政権と変わらず1000万人を超える高止まりで、国民総生産(GNP)もほとんど伸びず、具体的な数字を上げて、「失敗だった」と断定するのです。

もちろん、同書に書かれていることについて全面的に賛成するわけではありませんが、一読の価値があると思いました。

【追記】

著書の最も言いたいことは、最後の「おわりに」の中で集約されています。日本の歴史書のほとんどが日本国内の事情や中国満洲の状況だけを語って、太平洋戦争を読み解こうとしますが、それだけでは日中戦争の原因ぐらいしか分からない。米国が欧州や日中の戦いに非干渉だったら、世界大戦ではなく、局地戦で終わっていたはずだ、と言います。

日本の敗戦の原因を知るには、開戦した原因を知らなければならない。日本の開戦の原因を知るには世界史を知る必要があり、第2次大戦の原因を知らなければならない。その原因を知るには、第1次大戦に敗戦したドイツに天文学的数字の賠償金を押し付けられたヴェルサイユ体制にまで遡らなければならない、と著者は主張するわけです。

第2次世界大戦は1939年9月1日、ナチス・ドイツのポーランド侵攻によって火蓋が切られますが、その根本的な原因は、英国チェンバレン首相の「ポーランド独立保障」と間違ったポーランド外交だったと著書は考えます。ドイツが侵攻したポーランド回廊は、第1次大戦に負けて不当に押し付けられたヴェルサイユ体制で、ドイツ人が多く住む「人工的」に作られた地域だったことも明らかにします。

以下、目に付いたことを箇条書きで引用します。

・ルーズベルト米大統領が非常に好戦的で、なぜあれほど欧州の戦争に参入したかったのか。その原因は複合的だが、ニューディール政策の失敗を隠すために戦争経済を望んだのではないかという説が有力。(316ページなど)

・第2次世界大戦は、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相がその外交を間違えなければ、極端に言えばこの二人の政治家がいなければ起こらなかった。あの戦いは不必要な戦争だった。(8ページなど)

・ヴェルサイユ体制で、チェコスロヴァキアは世界第10位の工業大国となった。人口約1400万人。その3分の2はチェコ・スロバク民族系だったが、300万人のドイツ系、70万人のハンガリー系、さらに少数のポーランド系を抱え込み、どの国も領土を奪われた恨みの気持ちを持ち続けた。(71ページ)

・英政府の第一次大戦の資金調達を引き受けて巨利を得たのが米JPモルガンだった。30億ドルという天文学的数字の1%をモルガンは手数料とした。買い付け実務に辣腕を振るったのがエドワード・スティティニアス・シニアで、後にルーズベルト、トルーマン両政権で国務長官となったエドワード・スティティニアス・ジュニアの実父。(110ページなど)

・1925年12月2日、世界的な特許を多く保有するドイツを代表する化学会社(BASF、バイエル、アグファなど)が、独占企業体IGファーベン社を設立。英米大手化学会社(英シェル石油、米デュポン、スタンダード石油など)がこれと提携し、米国で禁じられたカルテル法に違反しない形で特許を利用できた。第一次大戦で敗れ、多額の賠償金を課せられたドイツが復興できたのは、このように英米の企業家、金融資本家、国際法務事務所の支援があったからこそ実現できた。(120ページなど)

・1936年に始まったスペイン内戦で、共産主義勢力が西ヨーロッパにも拡大することを恐れたイタリア、ドイツなどが介入した。ソ連からの軍事支援に失敗し、劣勢になった共和国左翼のアサーニャ政権は、政府機能をバルセロナに移した。共和国政府は、バルセロナのカタロニア州やバスク州にも自治権を認めていたので、この地方政府は共和国に協力的だった。(現在にも、カタロニア独立は、脈々と流れている!)1937年11月、英国は、結局、反共和国のフランコ政権を承認した。(182ページなど)

・1937年10月5日、ルーズベルト米大統領は、シカゴで講演し、具体的な名指しは避けたが、日独伊の3国によって世界の和平が乱されている。その是正のために米国は国際政治に積極的に関与しなければならないと訴えた。ルーズベルトは3国を伝染病患者に例えた。これが「隔離演説」と呼ばれる所以だ。(225ページなど)

・ニューディール政策の陰りは1937年8月から12月にかけての数字にはっきり現れた。鉱工業指数は27%低下し、株価も37%値を下げた。11月、12月だけで85万人が職を失った。(229ページなど)

・チャーチルは米国滞在中、ニューヨークで株式投資し、一時、6000ポンド(42万ドル)の利益を出すなどしたが、1929年10月24日の「暗黒の木曜日」で7万5000ドル(今の価値で100万ドル)を損失。ユダヤ系米国人バーナード・バルークが7200ドル(今の10万ドル)を補填したが、借金の肩代わりをしたのは、エコノミスト誌の共同経営者ヘンリー・ストラコッシュだった。彼はオーストリア生まれのユダヤ人で、南アフリカ金鉱山で財をなした大富豪だった。(ストラコッシュはユダヤ人ではないと主張する論文もある)チャーチル家は、父ランドルフの時代からロスチャイルド家と深い交流があり、ユダヤ系の友人が多く、同情的だった。(259ページなど)

・「第2次世界大戦でチェコ人はわずか10万人が戦死しただけだった。一方で英国に救われたはずのポーランドは650万人が死んでいった。裏切られたチェコが幸せだったのか、それとも救われたポーランドが幸せだったのか。(それは言わずもがなではないか)」歴史家A・J・Pテイラー(300ページなど)

佃島渡船場跡〜再び、勝鬨橋【動画】

佃島渡船場跡

奮発して、佃大橋まで足を延ばしてみました。

風情があると思ったら、ガッカリ。車両優先で空気も悪く、行かなければよかったと思いました。

佃大橋は、東京五輪が開催された年、つまり昭和39年8月にできました。

この橋ができる前は、佃島は島(自然の寄州)でしたから、「本土」と島を結ぶ交通手段は、隅田川の渡し船しかありませんでした。(ちなみに、佃島は、徳川家康が大阪の佃村から漁民を移住させて漁業権を与えた。佃煮の発祥地)

◇嗚呼、懐かしやの「ポンポン大将」

渡し船は、俗称ポンポン船。昔、桂小金治が主演した「ポンポン大将」というテレビドラマがありましたが、今では誰も知らないでしょう。

私は「船長さんは朗らか〜ポンポン大将〜」という主題歌は、今でも諳んじることができますが(笑)。

佃大橋は、車両優先で風情も何もありませんでしたが、橋のたもとに「佃島渡船跡」の碑がありました。

全盛期は昭和30年で、「一日70往復もあった」と書かれていました。そして、繰り返しになりますが、昭和39年8に佃大橋ができて、300年もの歴史があった渡し船は廃止されるのです。

今は便利な世の中で、データベースによると、「ポンポン大将」は、NHKのドラマで、昭和35年9月4日から昭和39年4月5日まで、日曜日夜6時から、実に3年半も当時としてはロングランで放送されていたようです。

ちょうど渡し船の全盛期から廃止直前までの同時代が描かれていたわけですね。

内容は覚えていなかったのですが、またまたデータベースによると、子どもの時、浮浪児だった桂小金治扮する船長さんが、施設から三人の子どもを預かって育てる話だったようです。駄菓子屋のおばちゃん役が飯田蝶子だったとは!

昭和35年は、まだ戦後15年しか経っていないので、戦争孤児らは、まだまだ身近な問題だったことでしょう。

佃大橋があまりにも風情がなかったので、お口直しに、再び、勝鬨橋へ。

カモメが飛んでいました。

【書評】「永六輔」を読んで

畏友隈元信一さんの書いた「永六輔 時代を旅した言葉の職人」(平凡社新書)を読了しました。

今、ネット通販アマソンの何とか売上ランキングで第1位を獲得してベストセラーになっているようで、嬉しい限りです。

私が著者の隈元さんとお見知り置きになったのはもう30年近く昔ですが、彼の著作を読むと同時に彼の息遣いと声を聴こえてきます。不思議なもんですねえ。

この本は、放送作家、作詞家、放送タレント、芸能史研究家、ラジオパーソナリティーという戦後のマルチタレントの魁を行った多面体の天才的な人物の評伝ですが、著者の隈元さんが、永六輔という人を心底敬愛し、少なからず私淑していたんだなあ、という気持ちが伝わってきます。

何しろ、彼は永六輔が出版した200冊以上の本を読破し、「読書案内」まで載せる念の入れようです。

私は彼と同世代ですので、ほとんど同時代人として、テレビやラジオを通してですが、同じような体験してますので、話の内容はよく分かりますが、永六輔を全く知らない若い世代でも分かるように、安倍首相のように丁寧に説明文を付記する心の配慮があります(笑)。

ジュリエット像=イタリア・ヴェローナ

私の知らないことも結構ありました。

永六輔の師匠に当たる三木鶏郎(1914~94)の本名は繁田裕司(しげた・ひろし)。東大法学部卒のインテリで、筆名はミッキーマウスから無断拝借して、ミッキー・トリオから文字ったんだそうですね。(三木鶏郎がつくった「冗談工房」からは野坂昭如や五木寛之らが巣立ちます)

早熟の永六輔は、早稲田の高校生の時から、ラジオの放送作家として活躍しますが、初期の頃の今で言うラジオのプロデューサーが、NHK音楽部副部長の丸山鉄雄で、この方、ジャーナリスト丸山幹治(白虹事件で大朝を退社し、後に大毎に入社)の長男で、政治学者の丸山真男の兄に当たる人だったんですね。

永六輔の「仕事」として、「上を向いて歩こう」や「こんにちは赤ちゃん」などの作詞家として芸能史に名を残すでしょうが、作詞家は若い頃の10年ほどで、その後は、諸般の事情(シンガーソングライターの登場など)で、断筆してしまうんですね。これも知りませんでした。

それでも、私の世代ではよく聴いた「えっ?あの曲もそうだったの?」という歌が結構多いです。

「黒い花びら」「夢であいましょう」「誰かと誰かが」「見上げてごらん夜の星を」「女ひとり」「いい湯だな」「筑波山麓合唱団」「二人の銀座」…キリがないのでやめておきます。

著者の隈元さんは、永六輔のことを「古典的なジャーナリストの原点を体現するような人物だった」と評し、メディア史が専門の山本武利氏(一橋大・早大名誉教授)の「新聞記者の誕生」(新曜社、1990年)から引用して、その理論的裏づけとしていたので驚いてしまいました。

山本武利氏は、先日、この《渓流斎日乗》で「陸軍中野学校」の書評で取り上げさせて頂いたばかりでしたから。

巻末には「参考文献」のほか、「関連年表」も掲載され、昭和と平成の日本の芸能史と社会の動きが分かるようになっています。

1963年を見ると、この年に、永六輔作詞、中村八大作曲、坂本九唄の「上を向いて歩こう」が全米で第1位に輝き、その年末は、梓みちよ唄の「こんにちは赤ちゃん」が、レコード大賞を獲得します。彼が作詞した曲がレコード大賞に輝くのは1959年の「黒い花びら」(水原弘唄)に続き、2度目です。永六輔、この時まだ30歳ですからね。やはり、早熟の天才だったということでしょう。

放送作家、タレントとして、テレビ草創期の「夢で逢いましょう」をつくった永六輔も、晩年はラジオ中心の仕事に重心を置く経緯などが本書に詳しく書かれています。

「顔は長いが、気は短い」と自称し、意にそぐわない仕事はすぐ辞めてしまい(大橋巨泉らがその後釜に入った)、若い頃は相当生意気だったようで、大先輩作家の柴田錬三郎に批判されて、凹んでしまう逸話なんかは、本人に直接取材しなければ聞けない話でした。

永六輔は2016年7月7日に永眠。享年83。最後まで「現役」に拘って、走り抜けた生き方には感銘を覚えました。