映画「禅と骨」所感

東銀座・イタリア「ダ・フェリーチェ」ランチ1000円

京都の京洛先生です。私の書いた記事が《渓流斎日乗》で大変好評だと聞きまして、これは横井英樹さんに倣って乗っ取るしかないと確信し(笑)、一筆啓上仕ります。

◇禅僧ミトワの半生

帝都は東中野の「ポレポレ東中野」で12月11日まで上映している「禅と骨」はご覧になりましたか?

迂生は京都の”小芝居”ならぬ”小映画劇場”の京都シネマで見てきました。ドキュメンタリータッチで、禅宗の周辺には、こういう人士が多士済々なのだ、と再認識しました。

青い目のミトワという生臭い「禅僧」の戦前、戦後の一代記を評伝風に作ってあります。ミトワは日系アメリカ人ですから、戦前はスパイとして特高からマークされ、父親の母国に行っても、今度は敵国から来たという扱いを受けたり、何処の国でも、ハーフ、混血というのは苦労が多く、生き方も大変だと、思い至ります。

”グローバリズム”は、体裁の良い事ばかりが、強調されますが、「日本の近未来」の前触れというか、歴史は同じことの繰り返しです。

◇男を迷わせるもの

また、ミトワ自身も、家族をほったらかしにして、思うように生きたわけです。親しかった作家の水上勉の臨終直前には、お互いの◯◯を握り合って「これが男を迷わせるので、困ったものだ」と言ったり、「ワシは未来に興味、関心はない。過去に興味があるのだ」と言ったりします。

天龍寺の老師は「風流人だった」と言っていますが、家族は迷惑だったことでしょう。面白い生き方の一つだ、と思いますが…。

◇千玄室大宗匠の迫力
ミトワの末娘が父親の生き方を批判的で、反発しますが、あれは本当は父親のミトワが大好きだった、と思いますね。
映画には「裏千家」の千玄室大宗匠も出てきます。もう、93歳なんですね。この人も、生臭くて、ミトワと相通じるものがありますが(笑)、久しぶりに映像で見ました。風格が出て、何とも言えない雰囲気が出ています。底の浅い映画俳優より迫力をにじませています。

予告編は「禅と骨」で検索されるとみられます。 野口雨情作詞の「赤い靴」の謂れも紹介されたり、「映画製作はカネが無いと踏んでかかると、サッと皆んなが引いていく」とか、新たな人生勉強になりましたよ。

海城高校の同窓生と早めの忘年会 社長談義

東銀座「西邑」ひれかつ定食1100円

昨晩は、海城高校時代の友人と早めの忘年会を開いて、タイムマシンに乗って一気に高校生の悪ガキになってきました。

場所は、自著も多数出版している株式評論家の岡本君の行きつけの高田馬場の「梵天」という居酒屋。ここに行くのは3回目ぐらいですが、小生は方向音痴なので、またまた迷ってしまいました(笑)。

JR、西武線、地下鉄東西線の高田馬場駅から5分ぐらいというすぐ近くですが、途中の店前で長い行列があり、「何じゃらほいな」と思っていたら、今や某グルメサイトで、都内のナンバーワンに輝いたとんかつ屋さんの「成蔵」とかいうお店だということが後で分かりました。

私が通りかかったとき、50メールぐらいの行列がありましたが、甘く見ても「2時間待ち」なんだそうです。

何でこのお店のことが分かったかと言いますと、同窓会に参加した田中君の本職が宝石商で、日本全国を越中富山の薬売りのように歩き廻って行商し、数年前に出掛けた広島県福山市で知り合った人から「今度、ウチの息子が東京の高田馬場にとんかつ屋を出しますので宜しくお願いします」と頼まれていたというのです。凄い偶然ですね。

今や、ネットでの評判を見て、海外から観光客も訪れており、長い行列につながっているようです。

高校時代のクラスメートは、男ばっかし50人もいましたが、今回集まったのは8人。いやあ、皆、同級生ですが、年も年ですから、私以外は皆さん、随分と立派になったこと。芸能人が1人、会社社長が2人、会社役員1人、都心にある有名女子学園副校長1人…といった具合です。

銀座「岩戸」 いわしの天麩羅定食890円(いわしの天麩羅は写ってませんが、ボリュームがあって安くて美味しい)

昨日の話で一番驚いたのは、今回参加した3人だけが高校1年5組、担任福島先生の時に同じクラスメートだった木本君が大手百貨店の高島屋の社長になっていたということです。

えっ?あの木本が?

彼はおとなしくて、控えめで目立たず、いるかいないのか分からず、彼と会話した内容も覚えておらず、かすかに名前を記憶しているくらいだったからです。

大変失礼ながら、高校生の彼は、大企業の社長タイプに見えませんでしたねえ。

すると、磯君が「俺なんか、中学時代の同級生が社長になったよ」と言うではありませんか。彼はわざわざ学芸大附属中学から海城高校に進学した変わり種でした(笑)。

「誰なの?」と私。

「読売の山口」

「読売の山口って、あの読売新聞社の山口寿一社長のこと?」

「そうだよ」

ゲッ! これでも、私も業界の端くれの人間ですからね。驚きましたよ。

「猫の足あと」と武蔵国の歴史

埼玉県秩父郡長瀞町の宝登山神社

IT青年実業家の松長社長にはもう一つ顔がありまして、東京・首都圏の寺社仏閣の来歴などを網羅したサイト「猫の足あと」https://tesshow.jp/ を主宰・運営していることです。

主宰・運営とは、ご自分で週末になると、一人で野山を駆け巡って、手当たり次第に神社仏閣を訪れて、バチバチと生の写真を撮影したり、沿革を調べたり、要するに取材、執筆活動もされているということなのです。ですから、異様に首都圏の神社仏閣の歴史から現代に至るまで詳しいのです。

例えば、赤坂にある日枝神社の日枝(ひえ)は比叡山の比叡から来ているので、この神社はいわば天台宗系の神社だというのです。

千葉県習志野市などにある丹生神社は紀伊国(現和歌山県)の丹生都比売神社の祭神丹生比売命を勧請して創建されたことから、真言宗の高野山系の神社だというのです。

◇氷川神社は足立郡だけ

私が驚いたのは「氷川神社」(さいたま市大宮区)です。「武蔵一宮」と頭に付きますから、武蔵国(東京、埼玉、神奈川、茨城、千葉の一部)のナンバーワンの神社ですから、武蔵国内ならどこにでもあると思っていたら、「そうではありません。埼玉県内の昔の足立郡にしか氷川神社はありませんよ」と彼は自信満々に言うではありませんか。足で稼いだ情報ですからね。(ちなみに、彼の説によると氷川神社は、出雲からの移住者が創建したらしく、出雲の斐川から名前を取ったそうです。)

おっかしいなあ。私の実家は東京都東久留米市ですが、市内に確か二,三カ所は氷川神社と名の付く神社があり、実家の近くにもありました。ですから、埼玉、東京ならどこにでもあると思っていたのです。

それが、足立郡だけだったとは!

足立郡とは、武蔵国を南北に貫く領域で、今の京浜東北線が走る区域に近いと言われています。ですから、大宮や浦和や、東京都足立区や豊島区、練馬区辺りも入ります。この辺りに氷川神社が多いというのです。

足立郡の右隣りというと東側の南北連なる領域は埼玉郡で、埼玉の名前の由来になった行田市や越谷、春日部、岩槻が含まれ、この辺りは、久伊豆神社の系列が圧倒的に多いそうです。

武蔵国埼玉郡の右隣りの葛飾郡は、北の松伏町、三郷から、南は東京都葛飾区、千葉県浦安に至るまでカバーし、この辺りは圧倒的に香取神社の勢力下にあったといいます。昔の川の交易権なんかも香取神社が抑えていたそうです。

◇高麗郡は高句麗人、新座郡は新羅人の街だった

このほか、武蔵国高麗郡(後に入間郡、今の日高市など)は、716年に大和朝廷が高句麗からの渡来人を移住させたから、そう命名されたことは歴史的事実として知ってましたが、実家の東久留米に隣接する埼玉県新座市(平林寺で有名)は、昔は新座郡(和光市、志木市なども含む)と呼ばれ、758年に朝鮮半島の新羅からの渡来人を移住させたので、最初は新羅郡と言われていたんですね。

へー、全然知りませんでした。

古代は、どうしても、九州か、大和や京都、滋賀が中心ですから、学校では関東の古代や中世の歴史は全く教えてくれないので、自分で勉強するしかありません。

この年になって、まだまだ学ぶべきことが多いということです。

【追記】

これは、いつも電車の中で記憶でスマホで書いております。そのため、よく間違えることがあります。早速、「猫の足あと」の松長主宰から、御指摘がありました。

(引用)正確性を期しますと、
>>足立郡とは、(中略)ですから、大宮や浦和や、東京都足立区や豊島区、練馬区辺りも入ります。この辺りに氷川神社が多いというのです。
「ですから」以降は誤りではありますが..
豊島区は豊島郡、練馬区は豊島郡と多摩郡に編入されています。
豊島郡及び、多摩郡の北側は、「足立氏」の勢力が及んでいたということでしょうね。
当然ながら、多摩郡の南側には氷川神社がありません。
(豊島郡とは、北区・豊島区・文京区・板橋区・練馬区の右半分・新宿区・渋谷区あたりです)
ついでに付け足すと、葛飾郡は、江戸時代前期までは下総国です。(武蔵国ではありません)
江戸城下が人が密集して、江東区・墨田区近辺に人が住み着いてしまったから、武蔵国に編入されたのです。
その証拠に墨田川(昔はこちらが荒川だった)に架かっている橋はJR両国駅の両国橋です。武蔵と下総に架かる橋ですね。(引用終わり)

東京・西早稲田の戸山〜諜報研究会第一回見学ツアー

東京・西早稲田の穴八幡宮

昨日は、晴天に恵まれ、小春日和の中、インテリジェンス研究所主催の見学ツアーに参加して来ました。

東京都新宿区西早稲田の早稲田大学近くにある戸山は、戦前、陸軍の機密軍用地で、一般人どころか、軍人でも許可を得なければ足を踏み入れることができない場所で、731細菌部隊で有名になった石井四郎が教官を務めた陸軍軍医学校や、石井が亡くなった東京第一陸軍病院や、諜報部員も養成したであろう陸軍戸山学校などもあり、大変見がいのある充実したツアーでした。

穴八幡宮(集合時間にかなり早めに着いたの集合場所近くの穴八幡宮を参拝しました)

とにかく、山手線の内側の都心地区にこれだけ広大な森や公園(都立戸山公園)があるとは知りませんでした。

まあ、今や閑静な住宅街になっておりました。

国立感染症研究所(陸軍軍医学校跡)

最初に訪れた国立感染症研究所は、かつて陸軍軍医学校があった所です。1929年に麹町(現東京逓信病院)から移転してきました。

陸軍軍医学校(現国立感染症研究所)行幸記念碑

移転した年に、昭和天皇が行幸し、今でも、その記念碑を見ることができます。

この軍医学校で、後に731部隊を率いる石井四郎が教官を務めていました。

1989年には、ここで大量の人骨が発見され、慰霊祭が行われたようです。

人骨は、1890〜1940年頃のもので100体以上。戦死したものとみられる損傷した骸骨などもあったそうで、石井部隊との関連性(つまり人体実験など)も疑われましたが、依然として憶測の域を出ず、真相不明のようです。

国立国際医療研究センター(東京第一陸軍病院跡)

続いて訪れたのが国立国際医療研究センターで、ここは、かつて東京第一陸軍病院があった所。やはり、1929年に千代田区隼町にあった陸軍本病院が移転してきたという話です。

現病院の資料室には、陸軍軍医学校の校長を務めた森鴎外の執務机が保存、展示されているそうですが、今回は週末ということで見られませんでした。

戦後の昭和34年に、この病院の近くに自宅があった石井四郎がこの病院で亡くなっています。享年67。

箱根山(尾張徳川家下屋敷跡⇨陸軍戸山学校・防疫研究室・軍楽隊野外音楽堂跡)

この後、都立戸山公園内にある箱根山を訪れました。江戸時代は、尾張徳川家下屋敷だった所で、殿様の所望で、屋敷内の庭園にわざわざ土を運んで箱根に見立てた山を作ったそうです。今でも、この山は山手線内で一番標高が高いそうですよ。

箱根山と呼ばれるようになったのは、陸軍の軍用地になってからで、戦時中は、ここに陸軍戸山学校や防疫研究室、軍楽隊野外音楽堂が建てられたということです。

見学ツアーが終わってから、近くの早稲田大学に行き、早大名誉教授の山本武利氏の新刊「陸軍中野学校」(筑摩選書)を巡る書評会のようなものが開催されました。

私は、この本を会場で買ってまだ読んでいなかったので、内容について行けず、少し残念でしたが、大変興味深い話のオンパレードでした。(本については、いつか感想を書くつもりです)

この中で、元共同通信論説副委員長の春名幹男氏が、中野学校の教官に意外な人物がいたことを挙げていました。例えば、明治の元勲西郷隆盛の実弟で海相などを務めた西郷従道の孫従吾や、トルコ事情は、元NHKのキャスター磯村尚徳氏の父磯村武亮(最終階級陸軍中将)、フランス事情は作曲家の山田耕筰、他に衆院議員宇都宮徳馬の実父太郎(最終陸軍大将)らもいたそうです。

「陸軍中野学校」の著者山本氏は、公文書を渉猟して、この機密諜報機関が1938年設立の防諜研究所に遡ることを突き止め、この研究所は翌39年に後方勤務要員養成所と変わり、さらに翌40年に陸軍中野学校に名称を変更しますが、日本の敗戦で、わずか7年間しか存続しなかったことも明らかにし、重要人物として、プランナーが石井四郎と岩畔豪雄と秋草俊の3人、実践者として石井四郎、村上隆、香川義雄、飯島良雄の4人を挙げていました。

特に、村上隆は、石井四郎の片腕として最重要人物ながら、あまり詳細についてはよく分かっていないらしいのですが、関東軍参謀長も務めシベリアに抑留された秦彦三郎の回顧録「苦難に堪えて」の中で、ソ連が最も敵愾心を持った3人として、関東軍情報部長土居明夫と石井四郎、それに村上隆を挙げていたことを明らかにして、「歴史家として、彼についての追跡は不可欠です」と発言してました。

早く、山本氏の著作を読みたくなりました。

青野画伯のパステル画個展

東京・銀座「澁谷画廊」青野平パステル画個展で熱心に鑑賞される辰澤殿下

昨晩は、赤羽先生からのお導きで東京・銀座の澁谷画廊で開催中の「青野平パステル画個展」に行って来ました。

何の予備知識もなく、ただ単に「澁谷画廊の瀬戸内支配人さんが、皆んなで集まって飲み会をやりますので、参加しませんか」と誘われ、待ち合わせ場所が、澁谷画廊だと聞いて、ホイホイ出掛けただけだったのでした。

そしたら驚きましたね。

色鮮やかなパステル画で、風景画や静物画が多く、北海道の美瑛や中国の蘇州や興福寺の阿修羅や薔薇の絵などデッサンもしっかりしていて玄人はだし。

いや、青野画伯はもともと裁判官だった方だというお話を聞いていただけでしたので、まさか、絵までお描きになるなんて知らなかったもので、失礼なことをしてしまったなあと思ったわけです。

消息筋によりますと、青野画伯は愛媛県で、本当は東京芸大に進学したかったらしいですが、県下一の大秀才という誉れ高く、教師らから猛反対されて、渋々、東京大学法学部を受けたところ首席で合格。愛媛県の同世代にノーベル賞作家の大江健三郎がおりますが、彼より頭が良かったそうです。

司法試験にもトップで合格し、裁判官の道に進みますが、少年時代からの夢を捨てがたく、札幌家裁の所長として赴任した際に本格的にほぼ独学でパステル画を始めたそうです。

パステル画の絵の具は、世界的に有名なドイツ製のシュミンケを使っているそうですが、色彩が豊富で、プロが使うような720種になると15万円ぐらいするそうですね。

ですから、青野画伯に対して「玄人はだし」なぞという言葉は大変失礼で、今は正真正銘のプロの作家です。これまた、噂ながら、青野画伯の絵は、1号当たり、ウン万円もするらしく、もう数点、売約済みなんだそうです。

東京・銀座8丁目「八丈島 ゆうき丸」いも焼酎「島流し」

この後、瀬戸内支配人のお導きで、彼女の行きつけの銀座8丁目「八丈島 ゆうき丸」に行きました。青野画伯も同席されるのかと思ったら、そうではなく、本当に予備知識なく、言われるまんまついて行きました(笑)。

そこは、超が付くくらい高級の八丈島料理店でした。銀座ですからね。

そこで、瀬戸内支配人おススメの芋焼酎「島流し」や明日葉と烏賊の天ぷら、お刺身盛り合わせなどに舌鼓を打ちました。(そいえば、関ケ原の合戦で敗れた秀吉五大老の宇喜多秀家は、八丈島に島流しされましたね。島流しをブランド名にするとは!)

画廊の瀬戸内支配人の話で驚いたことは、中国人観光客のマナーの悪さです。画廊ですから、確かに誰でも出入り自由ですが、彼らは団体で押し寄せ、大きな声でお喋りして奥のソファに居座って絵なんか見やしない。その反対に、断りもなく勝手にバチバチ写真を撮り始める。厚かましいことに勝手にトイレまで使ってそのまま休憩して出て行くというのです。

考えられませんね。我々が海外に行ってトイレを使えば、チップを払いますからね。

意外なことに、と書くと怒られてしまいますが、韓国人観光客は礼儀正しく、勝手に写真を撮ったりしないというのです。

へーと思ってしまいました。

ところで、同席した圧力団体職員幹部の辰澤殿下は「渓流斎日乗って、最近、つまんないですね。いつも、ITの松長社長と痛飲した話ばかり。面白いのは、京洛先生の京都のお話ぐらいですよ」と、何を血迷ったのか、日馬富士のようにリモコン片手に絡んでくるのです。

しかも、私、本人がいる前、まさに面罵ですからね。

ちったあ手加減してくれい!

「憲法の涙」を読んで

井上達夫「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください」の第2弾「憲法の涙」(毎日新聞出版、2016年3月20日初版)を先日から読んでおり、もうすぐ読み終わります。

同書では、井上東大大学院教授は、一気に持論を展開し、改憲派も護憲派も両方とも「欺瞞」だとバッサリ切り捨てます。

◇憲法9条削除を主張

何しろ、井上教授の持論は、憲法9条を改正するのでも、修正するのでも、護持するのでもなく、「削除」ですからね。しかも、自衛隊を「戦力」として認めるならば、「徴兵制」を復活させよ、といいますからね。最初は眩暈がするほど圧倒されましたが、よく聞けば、というより、読み進めていけば、全く突拍子でもなく、理がないこともない気がしてきます。

なぜ、憲法9条を削除するのかといいますと、井上教授は、「日本の安全保障の基本戦略を憲法に書き込むべきではなく、通常の民主的な立法過程で絶えず討議され、決定・試行され、批判的に再検討され続けるべきだ」という考えの持ち主だからです。

つまり、「今の憲法9条では、安全保障の基本を『非武装中立』と凍結してしまっている。それが容易に変えられないから、右も左も解釈改憲で対応し、結果として9条を死文化させている」と主張するのです。

井上氏によると、憲法9条第2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記されているのに、現実は、自衛隊という世界第5位の「戦力」を保持している。これはいかなる「解釈」をしても、自衛隊は違憲となり、護憲派のように「見て見ぬふりをする」ような解釈は、欺瞞だと切り捨てます。

また、井上教授が、「もし戦力を持つなら」ば、その条件として「徴兵制導入」を提言していることについては、国民が無責任な好戦感情にあおられないための歯止め策であり、同時に「良心的兵役拒否権」を認める、といいます。(徴兵は、権力者や国会議員の息子も貧乏人も差別なく公平に行い、拒否すれば、国民の責務を果たさず、逃れることになり、代わりに消防士など危険な業務が義務付けられることも付加しておりました)

あと詳細については、本書を手に取って読んでみて、皆さんも考えてみてください。

私自身は、井上教授の意見、と言ったら怒られるかもしれないので、学説について全面的に賛成することはありませんが、一読の価値はありました。

ただ、日本の国民の1人1人が井上教授が思っているほど、思慮深く、理念や定見や信念を持った人ばかりではなく、丁か半かのどちらでもなく、そしてどちらでもある、極めて曖昧でどっちつかずで、考え方も1年ではなく1日で何度も何度もコロコロと変わってしまうというのが人間の性(さが)じゃないのか、と私のような日和見で、中途半端なぬるま湯人間の平和主義者なんかは、そう思ってしまうんですがね。

近鉄を日本の超一流会社にして「中興の祖」呼ばれた佐伯勇(1903~89年)は、こんな名言を残しているそうです。

学者は現実を知らない。

経営者は情報を知らない。

政治家は両方知ってても喋らない。

ついに特賞当選!めでたいめでたい

◇笑いを求めて三千里

《渓流斎日乗》は、基本的に読者の皆様のお笑いを目標に毎日せっせと作成しております。

笑いにも色々ありまして、爆笑、苦笑、微苦笑、嘲笑、大笑、哄笑、談笑、一笑、冷笑、失笑、含笑…

笑いは、権力者に立ち向かう庶民の最後の砦ー。そう生真面目に捉えておりまする(笑)。

で、昨日の勤労感謝の日。天気が良いので散歩に出掛け、駅近くのお茶屋さんで、美味すぎると評判の海苔3帖×2を買ったところ、「『福引き』を引いてください」と美人の女将さんが仰るではありませんか。

私は、日頃の行いが悪いですから、クジ運も悪く、これまで大したものに当たったことはありません。なので、あんまし期待しないでガラガラを回したところ、何と、金玉の特賞が当たり、現金500円が当たったのです。

これは春から縁起が良い(笑)。

500円もあれば、文藝春秋の社長さんが図書館に猛然と抗議した文庫本が一冊買えますし、駄菓子屋さんに行けば、飴玉が何十個も買えますねえ。

嬉しい、嬉しいですね。

小躍りして、スキップして家路に着きました。

神保町で渓流斎日乗プラットフォーム完成記念祝賀会開催

東京・神保町「上海庭」飲み放題・食べ放題コース 3300円

読者の皆様方は、《渓流斎日乗》の表紙の写真が変わったので、さぞかし驚かれたことでしょう。前の「壺」の写真は、このサイトのソフト会社の「無料サンプル版」だったため、世界各国で、全く同じ壺の表紙写真を使ったサイトがあることが分かったからです(笑)。急遽、バチカン市国のサン・ピエトロ寺院の「屋上」から小生が撮影した写真を採用することに致しました。

昨晩は、《渓流斎日乗》独立復活プラットフォーム完成を記念して、お世話になった青年IT実業家の松長社長と、彼の事務所近くの東京・神保町の中華料理店「上海庭」で祝賀会を行いました。

松長社長の行きつけのお店らしく、飲み放題、食べ放題で一人たったの3300円!2人で、ビールジョッキ4杯と紹興酒のボトルを3本も日馬富士のように自由闊達に空けてしまい、すっかり酔って松長社長に御馳走になってしまい、どうやって家に帰ったのか覚えていません(笑)。

◇なぜ産経は「密偵」を批判しない?

祝賀会が始まる前に名古屋の篠田先生から電話があり、「さっき、渓流斎日乗が薦める韓国映画『密偵』を見ってい来たよ。酷いねえ。韓国では750万人が観たらしいけど、反日映画だねえ。何で、産経新聞は黙ってるのかねえ?あれだけ、慰安婦や竹島問題は批判しても、この映画は何の批判もしない。何か裏があるのかね?おっかしいねえ」と一気にまくし立てた後、「でも、それだけ日本人は、植民地時代、彼らに悪いことしたんだろうなあ」とも付け加えていました。

私は、別に「密偵」をお薦めしたわけでなはく、「荒唐無稽な場面があり、ガッカリした」とはっきりと書いてますけどね(笑)。

築地「唐がらし」 帯広豚丼定食コーヒー付 1080円

◇「途中解約事件」

「飲み放題・食べ放題」コースは2時間の制限でしたが、松長社長が顔が効くらしく、3時間以上も居座って色んな話をしました。

彼の本職には、IT関係のソフト開発やホームページの作成などがありますが、彼はかなり、昔気質の頑固な職人肌の人だということが今回、初めて知りました。

あまり詳しくは書けませんが、某企業から会社のホームページ作成を受注し、完成すればかなり高額な契約だったのですが、先方の対応があまりにも酷かったので、彼の方から違約金を支払って、途中で解約してしまったというのです。

その理由は、先方の担当者がコロコロと変わり、その度に前任者とは全く違うことを依頼してきて、収拾がつかなくなり、すっかり嫌気が差してしまったというのです。

しかし、それはそうだとしても、受注した側はクライアントの身勝手な要望はある程度聞かなくてはなりませんよね。つまり、普通なら妥協するもんです。

そんな妥協知らずの職人気質の彼が、私のような身勝手な人間の要望を色々と聞いてくれて、《渓流斎日乗》のプラットフォームをよくぞ完成させてくれたもんです。感謝の言葉しかありませんね。

彼からは「渓流斎さんの真面目な態度が気に入ったからですよ」と言ってもらえましたが、「途中解約事件」の話を聞いて、まさに奇跡的だと感じました。

リベラリズム再考

新富町「ブロッサム」 ハンバーグ定食750円

井上達夫の法哲学入門「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください」(毎日新聞出版)。第1部の「リベラルの危機」では、憲法九条の解釈や慰安婦問題、靖国問題など、国論を二分するようなホットイッシューについて、井上教授は火を吹くように話していましたが、第2部の「正義の行方」になると、ガラリと変わって、法哲学とは何なのか、井上教授がなぜ法哲学者の道に進むことになったのか、今、法哲学では何が問題になっているのか、分かりやすく、冷静に講義の形で述べています。

その法哲学ですが、ソクラテスやプラトンに始まり、英国経験論の父ジョン・ロックや「リヴァイアサン」のトマス・ホッブスらの哲学思想も易しく解説され、現代のリベラリズムに多大な影響を与えたジョン・ロールズによる「政治的リアリズム」に対する批判、共同体論者からリベラリストに変容した「ハーバード白熱教室」でブームになったマイケル・サンデルに対する賛意と所見などが述べられています。

◇悪法でも法は法

法哲学は難しいですが、最終的には「正義概念」に行きつくようです。

(引用)社会の政治的決定と、その産物である法が、自分の正義の構想から見たら間違っているにもかかわらず、自分たちの社会の公共的決定の産物として尊重することがいかにして可能なのか。この問いが悪法問題です。

…ここで法を自分たちの社会の公共的決定の産物として尊重するとき、法の正しさを見ている。これは正当性(ライトネス)ではなく正統性(レジティマシー)を問うている。

…「法の支配」、つまり法が「勝者の正義」であってはいけない。政治闘争で勝ったやつが、自分たちの決定を「法」として押しつける。それだけのことであれば、、その法に正統性がない。

正統性というのは、負けた方から見て間違っているけれど、自分たちは次の闘争で勝てるまでは尊重できる。そういう法には正統性があると言える。つまり、敗者の視点から見なければならない。(引用終わり)

という感じて、お話が進むわけです。

このほかに、毎年、1800万人が貧困死し、それを減らすのに年間60億ドルしかかからないのに、米国はイラク戦争で、月間50億ドルもの戦費を使っていたなどと批判したりして、大変、知的好奇心を満足させてくれる記述をあちこちで読むことができます。

ただ、惜しむらくは、159ページで「マハティールのインドネシア」と間違って語ったことをそのまま活字にしてしまっていることです。明らかにマレーシアの間違いであり、編集者も校正者も気が付くべきでした。そうでないと、著者はASEAN(東南アジア諸国連合)にほとんど関心も知識もないのではないかと勘ぐられたり、この本全体の信頼性、というか、井上先生の仰る正統性に欠けてしまう嫌いがあるからです。

永源寺 滋賀紅葉狩りの旅

滋賀・永源寺 ©️Ohtsu–tsushinin

滋賀の大津農林水産通信員です。

最近、奈良の西大寺先生や京都の京洛先生が世界的にも有名になられ、盛んに紅葉狩りのレポートを投稿されております。

わたしも同じ関西の人間として、これは負けじと、日本の歴史の故郷の魅力は、奈良や京都だけではない。滋賀にこそある、と孤軍奮闘でこれまで頑張ってきたわけです。

滋賀・永源寺 ©️Ohtsu–tsushinin

西大寺先生や京洛先生だけに、”紅葉便り”を任せるわけにはいきませんからね(笑)。

◇意外に知られていない湖東古刹の紅葉

関西で意外に知られていないのが、湖東(琵琶湖の東側)の古刹の紅葉です。
東近江市には、「永源寺(えいげんじ、臨済宗永源寺派大本山)」や「西明寺(さいみょうじ)」「金剛輪寺(こんごうりんじ)」「百濟寺(ひゃくさいじ)」といった本堂が「国宝」で、千五百年前に建てられた古刹があります。今の時季、紅葉、楓の色合いが、実に鮮やか、綺麗ですね。

滋賀・永源寺 ©️Ohtsu–tsushinin

また、湖東あたりに来ると、京都、奈良、大阪のような「インバウンド」なんて、無粋で、俗臭ぷんぷんな行儀の悪い異国の観光客は、まだ訪れていませんね(笑)。

しかも、どのお寺も、「本堂」に上がるまでの、静寂で、石段の数がそれなりにあり、足腰の鍛錬にもなります。
今回は、”乗合バスツアー”で、急いで、ぐるっと一巡してきましたので、《渓流斎日乗》農林水産通信員として、まず、「永源寺」の紅葉を御報せ致します。 

滋賀・永源寺 ©️Ohtsu–tsushinin

永源寺は紅葉、楓の樹木が多く、総門から山門に向かって、頭の上に広がる紅葉は実に見事です。また、この界隈は、水が豊かで、豆腐、こんにやくなどが名産品で、水は信仰にも深くかかわっています。

◇近江守護職佐々木六角が創建

永源寺の専門道場(僧堂)に参禅する禅僧も多く、こうした地下から湧き出る水を使って修行に勤しんでいる、という事です。
同寺の歴史は興安元年(1361年)、近江の守護職、佐々木六角が入唐求法の寂室元光禅師に帰依して、創建されました。
応仁の乱では、京都の兵火から避けた洛中の有名な僧侶が永源寺にも続々やって来て修行に打ち込み、寺勢は活気づいたそうです。

◇別峰紹印禅師が尽力
しかし、その後の相次ぐ戦乱は、永源寺にも及び、同寺も荒廃しました。江戸時代中期になりようやく、妙心寺から来た別峰紹印禅師が尽力し、後水尾天皇はじめ、東福門院、彦根藩(井伊家)ら有力者のバックアップを得て、興隆してきました。
明治になり、それまでの「臨済宗東福寺派」から離れて、新たに「永源寺派」として独立し、臨済宗の総本山の一つになり、今では末寺が全国に100カ寺もあるそうです。

滋賀・永源寺 ©️Ohtsu–tsushinin

◇臨済宗の総本山はいくつ?

ところで、《渓流斎日乗》御愛読の皆さんに質問ですが、日本に伝えられた「臨済宗」の総本山は今いくつあると思いますか?

答えは、下記の通りで14です。たくさんありますね。

(1)臨済宗妙心寺派 大本山妙心寺(京都市右京区)
(2)臨済宗建長寺派 大本山建長寺(鎌倉市)
(3)臨済宗円覚寺派 大本山円覚寺(鎌倉市)
(4)臨済宗南禅寺派 大本山南禅寺(京都市左京区)
(5)臨済宗方広寺派 大本山方広寺(静岡県浜松市引佐町)
(6)臨済宗永源寺派 大本山永源寺(滋賀県東近江市)
(7)臨済宗佛通寺派 大本山佛通寺(広島県三原市)
(8)臨済宗東福寺派 大本山東福寺(京都市東山区)
(9)臨済宗相国寺派 大本山相国寺(京都市上京区)
(10)臨済宗建仁寺派 大本山建仁寺(京都市東山区)
(11)臨済宗天龍寺派 大本山天龍寺(京都市右京区)
(12)臨済宗向嶽寺派 大本山向嶽寺(山梨県甲州市)
(13)臨済宗大徳寺派 大本山大徳寺(京都市北区)
(14)臨済宗國泰寺派 大本山國泰寺(富山県高岡市)