昨晩は、雪が降り始める中、日比谷カレッジ主催の講演会「太田道灌と江戸」を聴講に行ってきました。
日比谷カレッジなんて、聞いたことないでしょう。何処の大学?―正解は、東京・日比谷図書館の地下の「文化館」で、月に数回開催されている文化芸術、政治経済、科学の講演会のことです。私も初参加です。
日比谷図書館は、都立から千代田区立に移管した途端、随分きれいになり、立派になりました。赤絨毯で敷き詰めらたような超高級感が漂うようになりました。地下のテナントの飲食店も一流半クラスです(笑)。
京都二条城
講演会は、500円~1000円程度ですから、皆さんにもお勧め。日本国憲法が保障してくれる「文化的生活」を送ることができます。
「太田道灌と江戸」の講師は、国立公文書館上席公文書専門官の小宮山敏和氏。小宮山氏は最初に「国立公文書館」の説明をしてくれたので、私も初めてこのような組織が日本国に存在することを知りました(大袈裟な)。
◇徳川将軍の紅葉山文庫にまで遡る
何と、この国立公文書館の母体は、江戸城内の紅葉山文庫だというのです。徳川家康、八大将軍吉宗は「本好き」で知られていますが、この紅葉山文庫というのは、歴代将軍の書庫ということになります。家康は、「吾妻鏡」が愛読書だったと言われていますが、秀吉による小田原城攻めで降伏した北条氏の所蔵していた「吾妻鏡」が黒田官兵衛に寄贈され、これが家康に献上されて、紅葉山文庫に収蔵されたと言われてます。これは、「北条本」の異名を持ち、重要文化財に指定されてます。
紅葉山文庫は、明治維新後、「内閣文庫」となり、これが、1971年に国立公文書館となったのです。所蔵資料は実に140万冊。このうち、毎年膨大に増える行政文書関係が94万冊。内閣文庫から引き継いだ歴史的資料が48万冊(不変)あるといいます。私も含めて多くの国民は知らなかったと思いますが、資料は展示だけでなく、利用もできるということです。これは、是非、時間をつくって茲に行ってみなければなりませんね。竹橋の東京国立近代美術館のお隣りにあるようです。
京都二条城
さて、肝心の講演会ですが、国立公文書館で所蔵する太田道灌(1432~86)関連の古文書(「太田家記」「寛永緒家系図」「武江年表」「禁制」書状=寺社仏閣が戦乱に巻き込まれないように戦国武将に保障してもらうために、賄賂などを贈る)の説明といった感じでした。
小宮山氏は、有名な「山吹伝説」の話(道灌が旅の途中で雨に遭い、農家で蓑笠を借りようと訪ねると、少女が、後拾遺和歌集の兼明親王の歌「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」を引用して、家が貧乏で、お貸しする蓑笠もない、と暗喩した)で、その農家の場所が、今の埼玉県の越生や東京都新宿区、豊島区の面影橋近くなど数ヶ所ある逸話を披露しておりました。
◇太田道灌の実像とは
講師の見解で面白かったのは、江戸に幕府を築いた家康とその後の歴代将軍は、いかに太田道灌が幼少から聡明で、偉大な武将だったかという逸話をつくって、徳川家をその偉大な道灌の後継者として箔を付けようとしたのではないかという推測です。
もう一つ、江戸の城下町は、1590年の小田原攻めの後、移封された家康が一人で、ゼロから築き上げたと思っていましたが、家康移封直前の古地図には「江戸宿」が掲載されていて、既にある程度の宿場町があったことも教えられました。
さらに、おまけですが、日比谷は、もともと海で、家康が神田駿河台辺りの山を削って埋め立てたという話は知っておりましたが、資料として配られた古地図では、日比谷は海ではなく、入り江だったんですね。そして、今の東京駅や有楽町や新橋は埋立地ではなくて、ぎりぎり「江戸前島」という陸地だったんですね。勉強になりました。
最終的に、扇谷上杉氏の家宰だった道灌は暗殺されてしまいますが、黒幕は、主君より力を持った道灌からの下克上を恐れた扇谷上杉家や、関東管領の山内上杉家など諸説あります。この辺りの古文書で、「永享記」では「道灌は山内上杉家に不義を働いたため、成敗した」という記述がある一方、北条氏の前に小田原城主だった大森氏文書では、「扇谷上杉氏は、小さいので、道灌でもっているようなものだ」といった道灌に好意的な記述も見られるそうです。
過去の出来事とはいえ、評価が真っ二つに分かれる古文書が存在することで、歴史の醍醐味を感じます。