「荘子」の凄さを痛感しました

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 中国の思想「荘子」(岸陽子訳、徳間書店)を先日、読了しましたが、もうちょっと凄い本かと思っていたので、ほんの少しだけ期待外れでした。

 同じ老荘思想でも、「老子」は、いささか形式的な道徳臭があり、「荘子」は少し皮肉が効き過ぎ。むしろ、「列子」が教訓的な逸話が多くて、読み応えがあり、一番面白かったでした。

 中国の古典には、現代でも使われる色々な言葉の「語源」になっていますが、「包丁」が、この「荘子」の出典だったとは、初めて知りました。「包」とは料理人のことで、「丁」は人名。「荘子」の「養生主(ようせいしゅ)」の中に出てきますが、本来は、「名コックの丁さん」という意味。刃物使いの名人ということから、いつしか日本では刃物の代名詞ホウチョウになったといいます。

 「荘子」では、「無用の有用」や「胡蝶の夢」、「無心の境地」、「無知の知」などひと捻りもふた捻りもある有名な思想が展開されますが、意外にも孔子に対する批判に溢れています。

 孔丘、つまり孔子について、「博識ぶって聖人を気どり、尊大な身振りで世の人々を幻惑し、やたらに悲壮がって名を売り歩く手合いだ。道というのはそんなさかしらを捨て、外形を忘れてしまわなければ体得できるものではない。天下国家を論じる暇に、少しは我が身を振り返ってみたらどうだ」(「外篇」)と、野良で働く老人に語らせ、「雑篇」では、盗賊の頭、盗せきに「あの魯の国の偽君子か。…奇妙な言葉をあやつって、文王、武王を担ぎまわる。飾り立てた冠と、牛革の帯という勿体ぶった服装で、有害な無益な饒舌をもてあそぶ。働きもせず飲み食いする。自分勝手な規準で是非善悪を論じたてて、諸国の君主をたぶらかし、学者たちを脇道に引っ張り込む。孝行などと下らんことを唱導する。それもこれも、あわよくば自分が王侯貴族になりすまそうという魂胆だからだ」と語らせています。

 「論語」を人生の指針にした渋沢栄一が聞いたら、さぞかし怒りまくるでしょうね。

とはいえ、これが中国思想の懐の深さかもしれません。許容の深さというか、「権威」をあざ笑う庶民の蟷螂の斧のようなささやかな抵抗といえるかもしれません。

 荘子を書いたとされる荘周は、仕官を断り続けて、襤褸を着て、食事にも困る極貧生活を送っていたとされますから、特にそう感じます。

 やはり、最初に書いたことを訂正して「凄い本」だと言わざるを得ませんね。