「仏像でめぐる日本のお寺名鑑」で巡る日本のお寺

 この本は本当にためになりました。これまで、自分が如何に無手勝流に、気儘に、散漫に仏像を鑑賞していたかよく分かりました。

 まず、仏像には「尊格」というものがあって、 「如来」「菩薩」「明王」「天部」「その他」があります。

如来」=釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来など

菩薩」=観音菩薩、弥勒菩薩、地蔵菩薩など

明王」=不動明王、軍荼利明王、愛染明王など

天部」=四天王(広目天など)、梵天、毘沙門天、弁財天、鬼子母神、二十八部衆(迦楼羅王など)、十王(閻魔王など)

「その他」=十大弟子(舎利弗など)、役小角など

如来とは、菩薩が六波羅蜜の修行と艱難辛苦の末に、悟りを開いた最高の格でしたね。阿弥陀如来は、法蔵菩薩が正覚(しょうがく)したお姿でした。

この本の「如来」の中に、弥勒如来があったので、弥勒菩薩の間違いではないかと思いました。私は、個人的ながら、京都・広隆寺の弥勒菩薩像が大のお気に入りで、苦しい時に、よく写真を見て心を落ち着かせていたことがありました。奈良・中宮寺の弥勒菩薩像もよくお参りしました。

 そしたら、弥勒如来とは、釈迦が入定されて56億7000万年後に、弥勒菩薩が如来になることが約束された救済主のことだったんですね。その間に、一切衆生を救済するのが地蔵菩薩でした。あたしなんか、お地蔵さんなんて、道端によくある道祖神かと思っていましたら、地獄に堕ちた者どもさえも極楽浄土に導いてくださる偉い偉い菩薩さまだったのです。

 種類が多いのは、衆生が「観音様」と気軽に読んでいる観音菩薩です。聖観音菩薩(地獄)、千手観音菩薩(餓鬼)、 馬頭観音菩薩(畜生)、十一面観音菩薩(修羅)、不空羂索観音菩薩准胝観音菩薩(人間)、如意輪観音菩薩(天)と六道に沿って救済してくれます。このうち、如意輪観音菩薩の如意とは、「如意宝珠」のことで、苦しみを取り除く働きをし、輪は、「法輪」のことで煩悩を打ち砕く働きを持ちます。仏様の持ち物に注目すると、これまた興味深いです。

 脇侍(わきじ、または、きょうじ)とは如来の右左に侍る菩薩のことで、三尊像としてパターンが決まってます。釈迦如来なら普賢・文殊菩薩、阿弥陀如来なら聖観音・勢至菩薩、薬師如来なら日光・月光菩薩といった具合です。

 そういえば、京都・泉涌寺即成院では、毎年10月第3日曜日に「二十五菩薩お練り供養」がありましたね。文字通り、25もの菩薩様が壇上でお練りします。 仏像に関する知識があれば、より有難みが分かります。

 明王とは、五大明王(不動明王=中央、降三世明王=東、大威徳明王=西、軍荼利明=南、金剛夜叉明=北)がその代表で、仏様の教えに目覚めない衆生に対して、怒りの炎を光背にして、憤怒の表情で諫めるお姿になってます。

 天部は、この本では「ガードマン」と分かりやすく書かれていました。その代表的は四天王は、持国天(東)、広目天(西)、 増長天(南) 、多聞天(北)です。この本は大変素晴らしいのですが、80ページで、増長天を西、広目天を南と誤記されていました。間違って覚えてしまうところでした。たまたま、京都・東寺で買った伽藍の写真を照合したら間違いを発見しました。良い本なので、速やかに訂正してほしいものです。

 北を護衛する多聞天は、単独ですと、毘沙門天となります。梵天は、バラモン教の最高神ブラフマンのことですが、インドでは仏教が衰退して密教化した中で、インドの古代の神々を取り入れていったことが分かります。

 沖浦和光説によると、仏教を開いた釈迦は、その人の生まれや種姓とは関係なく、誰でも真理に目覚めれば覚者(ブッダ)になれると、「四姓平等」「万人成仏」の道を明らかにし、カースト制差別の永遠性と合理性を根拠づけようとするバラモン教に対して根底的に批判したと言われます。

 それが、釈迦入滅後、500年も1000年も経つと、翳りが出て、平等主義を唱える釈迦の教えとは似ても似つかない色々なインドの神々を取り入れて延命策を図ったのではないか、釈迦如来より上位に置く大日如来もバラモン教の影響ではないか、というのが沖浦説でした。

 お釈迦様自身も偶然崇拝には反対だったとも言われ、そう言われてしまうと、仏像好きの私としては立つ瀬がなくなってしまいます。

 それでも、この本の本文や巻末には、全国の寺院や博物館が収蔵する重要文化財や国宝の仏像リストが掲載されているので、極楽浄土に行く前に、一度は巡ってみたいと思っています。