土浦城郭内の浄真寺に高野長英の墓

 真冬だというのに気温15度。しかも花粉症患者にとっては大の苦手の風もない。

 ということで、2月24日(月)の祝日(天皇誕生日振替休日)は、新型コロナウイルスの影響で「不要不急の外出は控えよ」との国家からの通達も、ものかは。

 思い切って、久しぶりにお城巡りに出かけてきました。

創業140年超の老舗蕎麦「吾妻庵本店」

 目指すは、「続 日本の名城百選」に選ばれている常陸国にある土浦城。都心のJR上野駅から常磐線で土浦駅までちょうど1時間。そこから歩いて15分ほどで、土浦城に到着します。 石垣もなく、土塁に囲まれた平城ですから高低差もなく、 まさに初心者の中の初心者向きの城歩きです。

 生まれて初めて、JR常磐線の土浦駅を降りましたが、駅近には有名、無名の予備校や進学塾が軒を連ねていました。

 土浦には茨城県下一の進学校土浦第一高等学校(旧制土浦中学)がありますからね。どうやら、土浦は教育産業が一番盛んではないかと私なんか睨みました(笑)。

 駅に昼過ぎに着いたら、観光案内所は閉まってました。正午から午後1時まで「昼休み」だとか。しょうがないので、ラックにあった市内案内地図を無断で拝借致しました!

吾妻庵の「天ざる」1650円。ビール中瓶700円。〆て2350円!

 その地図に載っていたわけではありませんが、ちょうど昼時だったので、中城通りにある140年を超える老舗蕎麦「吾妻庵本店」に行ってみました。何をさしおいても地元名産が優先です(笑)。今から140年前というと、明治13年になりますね。

 滅多に来ることはないので思い切って注文したのが、天ざる。1650円とちょっと東京・銀座並みの値段でしたが、清水の舞台を飛び降りてみました。ま、蕎麦は随分コシがあり、天ぷらは海老がそのまま入っていて、値段なりの旨さでした。

 城歩きのため、栄養をつけなければならないので、ビールも注文したら、中瓶で700円。後で請求書を見て吃驚でした。でも、禁足令が出ているのにも関わらず、土浦の地元経済に貢献できて誇らしく感じました(笑)。

 吾妻庵がある中城通りは、城下町の面影が色濃く残った蔵の街でした。訪れた価値はありました。蔵は店舗や資料館になっていましたが、その中に「土浦ツェッペリン伯号展示館」がありました。昭和4年(1929年)に、あの飛行船ツェッペリン号が世界一周の旅の途中、ここ霞ケ浦に立ち寄ったというのです。知りませんでしたね。

私はレッド・ツェッペリンなら詳しいのですが、「へー」と思ってしまいました。

土浦城址の東櫓(復元)

 中城通りから5、6分で、土浦城址に着きました。いつもながら、遠くから櫓が見えた時、感動で打ち震えました。大袈裟ですね。たとえ、それが後世の復元だとしても、何か、興奮しちゃうんですね。

 土浦城は、永享年間(1429~41年)に、小田城主の小田氏の被官、今泉三郎が築城したのが始まりだと言われ、この後、城主は色々変わっていますので、ご興味のある方は、上の写真の看板をお読みください。

 この辺りの中世は、小田城が中心で、土浦城は、その支城だったわけです。

 小田城は、南北朝時代に、戦乱から逃れて船で常陸国に渡った北畠親房が「神皇正統記」を執筆した城としても有名なので、今度行ってみようかと思っています。

西櫓(復元)

 看板には「織豊期に、結城秀康の支配下に入った」とありますね。結城秀康は、徳川家康の次男ですから、土浦城はかなり重要視されていたことが分かります。江戸時代に入り、三代将軍家光に仕えて若年寄に栄進した土屋数直の流れを汲む土屋家が、明治維新まで200年も土浦藩主を務めました。

譜代九万五千石ですから、結構、家格は高かったですね。

 西櫓の近くに建つ土浦市民博物館(105円)にも行きましたが、土屋家は、かつては武田信玄の家臣でもあったらしく、遠く甲斐国に飛び地(領地)を持ち、寺社仏閣を甲斐に創建していました。

  また、土浦は、水戸街道の日本橋と水戸の中継地であることから、宿場町としても大いに栄えました。

東櫓(復元)

 ここが本丸跡ですが、碑を探すのに少し苦労しました。

 土浦城址は現在、亀城(かめしろ、ではなく、きじょう)公園になっていますが、大変失礼な言い方ですが、本当に狭い。猫の額ほど、と言えば、怒られるでしょうが、それほど狭い。

 思わず、「これだけ~?」と叫んでしまいました(笑)。

 上の看板の地図でお分かりの通り、本丸と二の丸だけが現在でも残されて、亀城公園になったわけです。「これだけ~」のはずです。

 周囲は今、住宅やら裁判所なんかになっています。

 土浦城のシンボルになっているのが、上の写真の「太鼓櫓門」です。慶安年間に朽木氏の時代に建てられたと言われています。これだけは現存の遺物らしいですね。

 二階に「時」を知らせる太鼓があったとか。

浄真寺

 先ほどの土浦城郭の地図でも描かれていますが、本丸の北北西にあるのが浄土宗の浄真寺です。城主だった松平信一が慶長6年(1601年)に菩提寺として創建しました。それで、寺には葵の御紋があるわけでした。

 この浄真寺にある説明文を読んで初めて知ったのですが、この寺には、「蛮社の獄」で追われて、江戸青山百人町で捕縛の際に絶命したという蘭学者の高野長英の墓があるんですね。えっ?何で?高野長英は、仙台藩の水沢出身だったはず…。

 境内には誰もいなかったので、結局、場所は分かりませんでしたが、後で、調べたら 、日本橋の薬問屋「神崎屋」を営む片岡家が高野長英の遺体を引き取り、この寺の片岡家の墓地に埋葬したといわれています。片岡家の主人は、水沢出身で、高野長英の養父の知人だったそうです。医者を志して18歳で上京した高野長英は、薬問屋の「神崎屋」でお世話になっていました。

 高野家ではなく、片岡家の墓を探せばよかったんですね。また行く機会があれば、今度こそ探し当ててみせます。

 墓地の奥には、土浦城の土塁が残っておりました。

(市立博物館の見学を入れても所要時間は2時間ほどでした)