「渡来系移住民」とは何か少し分かりました

 吉村武彦ほか編著「渡来系移住民」(岩波書店)を読破しました。考古学と古代史が専門の5人の学者の論文です。中には大学の紀要論文を読んでいるような趣もあり、一般向けにしては結構難しかったでしたが、「古代史の現代最新知識」がよく分かりました。

 半年も経てば、内容はすっかり忘れてしまうことでしょうから(笑)、加筆しながら備忘録として書いておきます。

 ・5世紀の「宋書」倭国伝に「讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)」の倭五王の名前が見られる。彼らは宋に方物を献ずる代わりに皇帝から称号を得る。例えば、この五王最後の武王ことワカタケルは雄略天皇のことだが、彼は478年に「使持節(しじせつ)、都督倭(ととくわ)、新羅、任那、加羅、秦韓(しんかん)、慕韓(ぼかん)六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に任じられた。(吉村武彦氏、33ページ)☞これは、宋にとって朝鮮半島は勢力範囲ではないため、倭に、朝鮮半島の支配を黙認していたということなのか?

 ・朝鮮半島の人たちが日本列島に渡ってくる大きな要因には、その時代の半島での政治的情勢があった。例えば、475年に百済が高句麗との戦いに敗れ、漢城(今のソウル)が陥落した時。532年に金官(任那)加耶、562年に大加耶、660年に百済がそれそれ滅亡した時。さらに、663年の白村江の戦い(倭・百済復興軍が唐・新羅連合軍に敗れる)、668年の高句麗滅亡、そこから676年にかけての唐と新羅との戦いなど。(亀田修一氏、320ページなど)

出雲大社

・遣外使節のメンバーには渡来系の者が多く見られる。例えば、608年の遣隋使で名前の分かる使節員や通訳、留学生など11人をみると、大使の小野妹子を除く実に10人が渡来系氏族出身者だった。ところが、時代が下ると渡来系の割合が減少する。608年の遣隋使から約200年後の804年の遣唐使は、実名の分かる20人近くの入唐者のうち渡来系はわずか4人しかいない。(田中史生氏、239ページ)

 ・越前三国(みくに)にいた男大迹王(をほどおう)は、武烈天皇の後の皇位継承者として迎えられたが、すぐには承知しないで、渡来系の河内首馬飼荒籠(かわちのおびと うまかい あらこ)の使者を通じで情勢を確認し、507年、樟葉(くずは)宮(現大阪府枚方市楠葉)で即位(継体天皇)し、荒籠を重用した。(千賀久氏、128ページなど)

 ・「日本書記」継体天皇21年(527年)条に大規模な反乱を起こした人物として「筑紫国造磐井」が登場する(磐井の乱)。福岡県八女市にある前方後円墳「岩戸山古墳」が磐井の墓と推測される。磐井は新羅人を勢力につけてヤマト王権を倒そうと目論んだ。(亀田修一氏、154ページなど)

 ・542年に百済に派遣された紀臣奈率弥麻沙(きの おみ なそつ みまさ)と物部連奈率用奇多(もののべの むらじ なそつ ようがた)は、「奈率(なそつ)」という百済第6位の官位を持っていた。(紀臣奈率弥麻沙は、倭系官人と現地の女性との間に生まれた二世だったといわれる)このほか、543年に派遣された物部施徳麻奇牟(もののべの せとく まがむ)は「施徳(せとく)」(第8位)、553年の上部徳率科野次酒(しょうほう とくそつ しなのの ししゅ)が「徳率(とくそつ)」(第4位)である。明らかに倭国の氏と姓を称しながら、百済の官位を使っていた。冠位十二階は604年だから、まだ実施されていない。(吉村武彦、55ページ)

 ・武蔵国高麗郡(現埼玉県日高市、飯能市)は「続日本紀」によると、716年(霊亀2年)5月、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7国の高句麗人1799人を移して建郡された。758年(天平宝字2年)には新羅人をうつして武蔵国新羅郡(現埼玉県新座市、志木市、和光市)が建郡された。(田中史生氏、260ページなど)

・これまでの古代史は、遣唐使史観が中心だった。そこであまり注目されてこなかった飛鳥・奈良時代における統一新羅との活発な交流を見直すべきではないか。例えば、672年から701年まで唐と日本の間で外交交渉すら全くなかった一方、新羅と日本の間には高句麗が滅亡する668年から最後の新羅使が派遣される779年まで、新羅から47回、日本から25回の使節が往来した。それに対して、遣唐使は260年間で長安に到達できたのはわずか13回で、全員が帰国できたのはただ1回しかない。(朴天秀氏、283ページなど)

 ・「帰化」とは古代においては、華夷・中華思想(漢民族の華夏が世界の中心で、周囲諸国は遅れた夷狄=東夷、西戎、南蛮、北狄=である)と密接な関係にあった。古代中国では、皇帝の教化が直接行き届く範囲を「化内(けない)」の文明世界とみなし、その外側には「化外(けがい)」の野蛮世界が広がるとして、国家の内と外を区別した。そして文明世界の頂点に君臨する中華皇帝のもとに、その威徳を慕って「化外」から未開の諸民族が集い来ると考えた。彼らが皇帝の民となることを望むと、これを「帰化」と呼び、皇帝は儒教的精神のもと哀れみをもってこれを受け入れ「化内」に編入した。(田中史生氏、205ページなど)

 キリがないのでこの辺で。