東京渡辺銀行のルーツはお江戸日本橋の鮮魚商「明石屋」だったとは

 本日は1週間ぶりに都心の会社に出勤。例の「ギックリ脚」で、歩くと右太ももと右膝の後ろ辺りが痛く、ヤバイと思いましたが、何とか会社に辿り着きました。

 脚をいたわりつつ、軽く足を引きずって歩いていると、どんどん追い越されます。小さな子どもより遅いかもしれません。気が付きませんでしたが、世の中には杖をついてゆっくり歩いている人がこんなにいたとは! 彼らのスピードで歩いてみて、初めて存在が分かりました。駄目ですね、ヒトは。

 先週は外出禁止令で自宅に引きこもっていたら、パソコンのやり過ぎで、相当ギガを食ってしまいました。私の場合は、N社のモバイルWi-Fiを契約しているのですが、毎月3GB程度(何と月額968円)で済んでいたのですが、1週間で既に5GBも使用してしまいました。仕方ないので、1GBを追加(550円)し、来月は、10GBに変更(月額2508円)しました。容量は毎月変更することができ、使わなかったGBはそのまま翌月に持ち越されますので、まあまあの値段かな、と思っています。

明治元年(1868年)創業。152年の歴史を本日20日で閉じた東京・東銀座の歌舞伎座前にある弁当・仕出し屋「木挽町 弁松」。雨の中、マスコミが押しかけてました

 ところで、このブログの「コメント」欄まで御覧になっている方はいらっしゃらないと思いますが、最近、大論争になっています(笑)。いや、大袈裟でした。この《渓流斎日乗》は、相当、悔しいけど、私より遥かに頭脳明晰な方々が読者でいらしゃるので、コメントも非常に丁寧で、ハイブローなのです。

 当該ブログ記事は、小生が2017年5月31日に書いた「東京渡辺銀行が破綻しました」です。タイトルは、記事を引用しますと「東京渡辺銀行は、昭和金融恐慌の引き金となったそれこそ由緒ある銀行でした。実際は優良経営だったのに、何を血迷ったのか、片岡直温大蔵大臣が、昭和2年(1927年)3月14日の衆院予算委員会で、『渡辺銀行がとうとう破綻を致しました。誠に遺憾です』などと発言し、預金者の取り付け騒ぎが起きて、本当に破綻してしまったのです。」から取ったものでした。

 そして、この渡辺財閥の御曹司が著名な歌舞伎評論家の渡辺保氏で、「歌舞伎は庶民の物見遊山ではなく、財閥の御曹司でなければ観られないような高価な芸術だったわけです。」と私は結論づけていたのです。

 これに対して、本人が書いたことも忘れてしまっている3年も経った今年4月16日に旗森さんという恐らく小生とは面識がないと思われる方から「歌舞伎見物が財閥御曹司でなければ見られなかった、というのは過大評価です。渡辺氏自身、自分が歌舞伎を見始めたころは家も小市民生活だったと書いていますし、事実、私事にわたって恐縮ですが同年の私もサラリーマン家庭で育った芝居好きです。歌舞伎座でも下町の人々は旦那から若者まで幅広く、『今でも』見ることができます。かぶきは市民が育てた舞台芸術です。玉稿は楽しませていただいていますが折角のことですので投稿しました」とのコメントが御座いました。いやあ、こんなに熟読して頂き、誠に有難いことです。

 これに対して、私は「江戸時代の歌舞伎も決して庶民の娯楽ではなく、最上席は、今の金額に換算しても2~3万円で、今とほとんど変わらなかったいいます。大奥が忍びで繰り出した江島生島事件があったように、これでお取りつぶしなる山村座を含む江戸四座は、かなり敷居が高かったと思います。つまり、お上が許した櫓座の大歌舞伎以外に小芝居があっちこっちにあり、庶民はそちらに行ったことでしょう。」などと反論しています。生意気ですね。

 これを書いた時点では出典を明記しませんでしたが、本箱を探したら片隅にありました!山本博文監修「江戸の銭勘定」(洋泉社、2017年)という本でした。それによると、歌舞伎の一枡席は銀12匁5分(3万7500円)から35匁(10万5000円)。庶民の大衆席は100文(3000円)。「大向こう」と呼ばれる2階の立見席なら10文(300円)程度で見られたそうです。むふふふ、小生も旗森氏も正しかったわけで、「痛み分け」といった感じでしょうか。小生も、学生時代歌舞伎座の3階の「一幕見席」で2000円ぐらいで見た記憶がありますが、もう少し安かったかもしれません。(現在の歌舞伎座の1等席は1万8000円)

 話はこれで終わりではなく、京洛先生の門下生を自称するAsウーノさんという方から、実に濃厚な情報が寄せられました。「歌舞伎と東京渡邊銀行・破綻では、『ぼつちやんと紙手巾』という拙稿短編(未完^_^)を書く際、暖簾分け横浜渡邊銀行の末裔渡邊俊郎氏より、初代頭取富太郎の長男和太郎についてご教示あり。和太郎は不遇とされるロンドン時代の夏目金之助に可愛がられた若者で、下宿を世話し酒を呑み雑煮を喰らい、帰国後も和太郎が早世するまで漱石と愉快な親交を結んだ由。
 東京渡邊銀行ルーツはお江戸日本橋の鮮魚商明石屋にあり、吉原花魁の如く永らく歌舞伎座は高嶺の花、大衆化した今とは大分赴きを異にしてたようですね。」などと大変ディープな情報を御教授して頂きました。

 いやはや、東京渡辺銀行のルーツが日本橋の鮮魚商だったとか、暖簾分けに横浜渡辺銀行があったことなど知りませんでした。勉強になりますね。(既に、コメントをお読みの方はダブってます。これでは木戸銭返せ!と怒鳴られそうですね=苦笑)