ものの判断は時によって移り変わる

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

昨年の今頃の に、この渓流斎ブログに書いた「村上春樹が初めて語る自身の父親」記事に対して、1年経った昨日になって、sohzohさんという方から以下のコメントを頂きました。

「安養寺」違いもそうですが、父親の名前も15ページに記載されています。正しい記載をお願いします。

 上のコメントは何を意味するのか、昨年の記事をリンクしていますので、そちらをご参照して頂くとしまして、正直、「何で今ごろになって?」という感慨に襲われました。でも、その理由はすぐ推測できました。先月4月末に村上春樹氏の「猫を棄てる」が単行本として発行され、ベストセラーの1位になっていることを新聞の書評欄で読んだからです。さすが「国民的作家」です。私のブログの「人気記事」の上位にも、この関連記事が急に多く読まれるようになりました。恐らく、検索して引っ掛かって、たまたま目にしたのでしょう。

 コメントして頂いたsohzohさんにしても、「父親の名前も15ページに記載されています」と書かれているように、単行本を読んで、そのページを書かれたのでしょう。なぜなら、月刊文藝春秋」に連載時は240~267ページに掲載されていたからです。何を言いたいのかと言いますと、雑誌連載を単行本化するに当たって、著者は、必ず、加筆修正するということです。私はまだ単行本の方を読んでいないので、断定できませんが、単行本化するに当たって、名前を入れた可能性があるかもしれないということです。(勿論、小生が見落としていた可能性の方が大きいでしょうが)

 そして、さらに、何を言いたいのかと言いますと、ブログは、その日の感情で書いているだけで、しばしば筆が走り過ぎて、友達をなくすこともあり(Oh! No)、年月が経てば、時代も価値観も変わるだろうし、自分自身の思想信条も変化するということです。

緊急事態宣言下の金曜日夜の東京・有楽町駅前

 何でこんなことを書いたかと言いますと、(そして、私のような無名の「無用の人間」の言動など何の頭の足しにならないと自覚した上で言いますと)、ある有名になった作家が、20年前に作家デビューする前に「若気の至り」で書いたことが、20年も経って非難され、ついに謝罪に追い込まれたという新聞記事を読んだからでした。

 デジタル記事は恐ろしいですね。活字は劣化しませんし、他人のミスは、自己の欲求不満の吐け口として拡散されます。この渓流斎ブログも、2005年に始めましたが、15年前に書いた記事を批判されても、…というか、ボロボロに叩かれても、「はあ?」と思うしかないし、もっと謙虚になれ、と言われれば、「そういう貴方は?お互いさまでしょ」と言いたくもなります。こんなことを書いては炎上しますね(苦笑)。勿論、明らかな間違いは、安倍首相のように躊躇なく速やかに訂正致しますが。

 でも、フェイスブックにしろ、ツイッターにしろ、SNSは、個人情報を収集して、選挙キャンペーンに利用したり、製品の売り込み手段に使ったりしている実態の新聞記事を読んだりすると、正直、嫌になりますね。Facebookなんぞやめたくなります。ある個人が、あるニュースを何分間かけて読んだか、とか、いやらしい画像や動画を何分見たかまで収集して、その人の趣味趣向、性癖を分析しているようです。監視社会丸出しですね。

さて、話は変わって、今読んでいる立花隆著「天皇と東大」(文春文庫)は、やっと第2巻「激突と右翼と左翼」に入りました。第1巻が幕末から明治、大正初期の話だとすると、第2巻は大正から昭和初期の話です。やはり、立花氏は凄いですね。この本を書くために生まれてきたんじゃないかと思えるぐらい、精魂を傾けています。

 第2巻のことを書く前に、第1巻で興味深かったことを追記しておきます。

・日本の大学の歴史を語る上で最も欠かせない人物である山川健次郎は、会津白虎隊の生き残りだった。日露戦争を煽った戸水寛人教授事件で明治38年に東京帝大総長を辞任すると、5年半は官職につかなかった。明治44年に九州帝国大学が設立されると、その総長になり、その2年後の大正2年(1913年)に東京帝大総長としてカムバック。さらに翌年には京都帝大総長を併任することとなり、一人で三帝大の総長を歴任するという空前絶後のキャリアを積む。その間に、京大沢柳事件、東大森戸事件などが起きる。

・大正8年、大学令の施行で、東京帝大は、それまでの法科大学、理科大学などの分科制から学部制となり、この年になって初めて経済学部が創設された。そのため、当初は、先行する慶應義塾や東京高商(一橋大学)にはとてもかなわなかった。官吏養成学校だった東大もこの頃からようやく民間企業に卒業生が入るようになった。…実は、明治10年にできた東大では、経済学は、当初は、文学部で教えられていた。明治12年に、文学部第1科が「哲学政治学及理財学科」となり、ここで初めて経済学の授業が行われた。文学部第2科は「和漢文学科」で、政治学や経済学は文学部の片隅に仮住まいしていたかのように見えるが、実態はその逆で、文学部の本流が政治学、経済学の側にあった。最初に経済学を教えたのは「日本美術の父」と言われる米人フェノロサだった。

・東大経済学部の蔵書は、関東大震災でほとんど焼失してしまったが、その中で、最も重要な蔵書である「アダム・スミス文庫」を外に持ち出して救ったのが、永峰という60歳ぐらいの名物小使いさんだった。この文庫は「経済学の父」アダム・スミスの蔵書で、国際連盟事務局の副総裁になって東大を休職していた新渡戸稲造がロンドンの古書店で買い付けて、東大に寄贈していたもので、これを受け取った高野岩三郎教授が「貴重本」として保管し、イザというとき最初に持ち出せと命じていたものだった。

・東大の森戸辰男助教授が、経済学部機関誌「経済学研究」に「クロポトキンの社会思想研究」を書いて森戸事件(1920年)を引き起こすに至ったそもそもの発端は、大逆事件(1910年)だった。当時、第一高等学校生だった森戸は、徳富蘆花による講演「謀叛論」を聴講して多大な影響を受ける。その要旨は「ものの判断というものは、時によって移り変わる。現在、例えば『逆徒』と呼ばれようとも、新しい時代になれば、別の判断が下されるということがあり得る。従って、幸徳秋水氏らの(大逆)事件についても、私たちは冷静に考えなければならない。思想は時代と深い関係がある。若い人々は常に新しいものを求めて、たえず『謀叛』しなければならない。…吉田松陰は、徳川幕府により逆賊として死刑に処せられたが、現代では神として祀られているではないか。そのように世の中は変わるものである。そして、それにつれて正義とか忠誠とかも、その基準とか内容が変わっていくものである」

ムフフ、今日初めに書いたことに戻りましたね。私が今日言いたいことを、全て徳富蘆花氏が代弁してくれました。

新型コロナの真相が分からないのに煽動している人たち

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言は、1カ月ほど延長されるようです。仕方ないですね。経済活動より人の命の方が大切ですから。

 でも、「コロナ以前」と「コロナ以後」では、世界は激変することでしょうね。一番激変するのは雇用形態です。大手企業の大半は、自宅待機でテレワークなんぞをやってますが、出社する人間は、コロナ以前と比べ、半分以下でも済んでしまったことが分かってしまったのです。余剰人員であることがバレてしまったんですね。

 旅行は、所詮、メーテルリンクの「青い鳥」探しですが、国内の鄙びた温泉に行こうが、海外の秘境に行こうが、「ここでない何処か」も「どこでもない此処」も何処に行っても同じで変わらないことがバレてしまったのです。

 世界中の人間が、グローバリズムという世界経済システムに組み込まれていて、都市封鎖をして経済活動を止めたら、どうなってしまうのかバレてしまったのです。そして、その阿漕な搾取構造もバレてしまったのです。

 飲んで浮かれて騒がなくても、生き延びることができることがバレてしまったのです。

健康重視のためフィンランドのスポーツシューズ「カルフ」買っちゃいました(笑)

 全ての話題とニュースが「コロナ漬け」になり、それが3カ月以上も続くと、さすがに、人々の苛立ちが募るようです。中には「武漢ウイルスは人工的につくられた」とか、「ワクチンの独占販売権を握った製薬会社の陰謀だ」とか、「陰謀論」が噴出し出しました。でも、私自身は、正直、あまり与したくありませんね。恐らく、真相は10年後か、20年後か、かなり年月が経たないと分からないと思っているからです。

 今、「日本人の必読書」として立花隆著「天皇と東大」第1巻(文春文庫)を私が一生懸命に読んでいることは、世間の皆様にバレていることでしょうが、この中で、「戸水寛人教授の『日露戦争継続論』」という章があります。戸水教授というのは、東京帝国大学法科大学教授のことで、当時の日本の知性を代表する頭脳明晰な人物と言えます。そんな人が、取り付かれたように狂信的な超国家主義者となり、戦争前は、盛んに「ロシアと戦争すべきだ」と新聞や雑誌に投稿し、帝大の七博士と連名で、元老の山縣有朋らに建白書を送り付け、戦争になれば、満洲はおろか、バイカル湖まで占領しろ、と煽り、戦争が終結し、講和条約締結(ポーツマス)の際には、「もっと戦争を継続しろ。何で勝ったのに賠償金が取れないんだ。樺太の半分なんてとんでもない。戦病死した10万人に何と言えばいいのか」と煽動し、何も知らない一般市民を日比谷焼き討ち事件を起こすように煽動し尽くした人でした。

 後世の人間から見たら、日本最高の知性が、何とも誇大妄想是に極まり、ピエロのような間抜け(失礼!)に思えますが、実は、当時は、日露戦争の実態を軍事機密として政府が公表しなかったので、日本はほとんど兵力も武器弾薬も尽き、負け戦寸前で、続行すれば、ナポレオンのモスクワ攻防の二の舞になるところだったことを臣民(東京帝大の教授陣も含めて)は誰も知らなかったのが真相だったのです。(このことは、講和条約を仲介した米国のセオドア・ルーズベルト大統領は情報機関を通じて、先に熟知していました!)

 そして、さらに驚くべきことに、この真相が初めて日本国民に明らかにされたのが、「機密日露戦史」(原書房)の形で公刊された戦後の1966年以降だったというのです。日露戦争は、1904(明治37)年から翌年にかけてのことですから、何と、60年以上も経って初めて真相が明るみに出たということになります。

 ということは、現在、テレビやメディアで、侃侃諤諤と医療専門家もコメンテーターと称する人間も、あることないことしゃべったりしていますが、これまた失礼ですが、真相が分からないのに主張している可能性があります。もしかして、60年も経てば、今回の新型コロナウイルスは、大手製薬会社の陰謀だったという証拠が出てくるかもしれませんが、少なくとも、渦中の今は、真相も分からない人間が、推測で物を言ったり、書いたりしているのではないのでしょうか。

◇偽情報には振り回されないこと

 100年前のスペイン風邪流行時とは違い、現在は、情報量は膨大です。しかし、その情報も玉石混交で、フェイクニュースがかなり混じっています。今の段階は、冷静になって、あまり情報に振り回されることなく、歴史的教訓にも学ぶべきではないでしょうか。

 少なくとも、私自身はそう確信しています。