検察庁法改正で「暴政」を見てみたい

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

フランス語で「自爆テロ」のことを Attentat-kamikaze と言うんだそうです。kamikazeとは勿論、「神風」のこと、特攻隊のことです。欧米人は日本語を取り入れる際、karoshi(過労死)だとかhentaiだとか、あまりいい言葉を採用したがりませんね。嫌な性格だなあ…(苦笑)。

 付け焼き刃の知識で言えば、神風特攻隊は、大西瀧治郎少将(終戦時自決)らの発案によるものですが、東京帝大の平泉澄教授の「皇国史観」と筧克彦教授の「神ながらの道」思想により、天皇は現人神であり、御国のために散華することは臣民の務めであるということを尋常小学校の時から教育させられ、それがニッポン男子の誉れだと賛美されました。私自身、歴史を勉強する際、いつも、自分がその時代に生まれていたらどんな行動をするのか想像しますが、もし、戦時下の若者だったら特攻隊に志願していたんじゃないかなと思っています。

 聞いた話ですが、私の父親は大学受験に失敗して、18歳で陸軍に志願して一兵卒となりました。所沢の航空少年隊に配属されましたが、幸か不幸か、先天的色覚障害だったため、パイロットになれず、整備兵に回され、戦地に向かう航空機を見送っていたそうです。もし、父親がパイロットになっていたら、当然ながら、自分はこの世に存在していなかったろうなあ、と機会あるごとに考えたりしています。

さて、今、検察庁法改正案を安倍政権が今国会で強行採決しようとして、国民的関心を呼んでいます。野党は「このコロナ禍の最中、まるで火事場泥棒だ」と猛反発し、芸能人の皆様までツイッターで「#検察庁法改正案に抗議します」と投稿し、470万件以上のツイートに発展しました。

 中でも「身内」の元検事総長松尾邦弘氏までもが15日に記者会見して定年延長を目論む検察庁法改正案に検事OB連名で反対を表明し、17世紀の政治思想家ジョン・ロックまで持ち出して、「ロックは、その著書『政治二論』(岩波文庫)の中で『法が終わるところ、暴政が始まる』と警告している。心すべき言葉である」と主張していました。流石ですね。箴言です。

 私自身は、今年1月31日の閣議で、東京高検の黒川弘務検事長の定年を8月7日まで半年間延長する決定をした翌日からこのブログで反対表明をしてきましたが、少し気持ちが変わってきました。どうせ「多勢に無勢」ですから、民主主義の原理で自民党と公明党による強行採決で法案は通ってしまうことでしょう。これで、安倍政権に近いと言われる黒川氏が検察庁トップの検事総長になるわけですから、ジョン・ロックの言うところの「暴政」なるものが見られるわけです。

 安倍首相のからむ森友・加計学園問題や、「桜を見る会」の前夜の後援会員優遇パーティーが公職選挙法と政治資金規正法の違反容疑ではないかという弁護士有志による刑事告発も、そして今、公選法違反に問われている河井克行・前法相と妻の案里参院議員の件も、63歳の黒川氏が検事総長になれば、本当に鶴の一声で、捜査が中止されたり、不起訴になったりして、有耶無耶になたりするのか、「暴政」を見届けたくなりました。

 とはいえ、安倍一強独裁政権になってから、特定秘密保護法、共謀罪法、カジノ法などを成立させるなど既に暴政は始まっているというのに、どこのメディアも政治評論家も誰もそんなこと指摘しません。御用記者、御雇評論家ばかりです。

 いえいえ、安倍首相は、我々が選挙で選んだ合法、合憲の誇るべき首相です。-確かにそうかもしれません。ただし、小選挙区制度のお蔭で、候補者は40%の票を獲得すれば、60%は死票になってくれて当選しますからね。つまり、国民の半分以下の支持でも十分、国家の最高権力者に登り詰めることができるのです。

 18日付読売新聞1面トップは、「検察庁法案 見送り検討 今国会 世論反発に配慮」です。読売は機関紙と言われるほど安倍首相ご愛読の新聞ですから、情報は確かなんでしょう。なあんだ、「暴政」が見られないのか、と思いきや、ほとぼりが醒めた秋の臨時国会で採決するようです。

 やれやれ。

庶民の歴史は「歴史」にならない

昭和30年代、あるメーカーの「コロナ」という名前の車が人気で、街中でよく見かけました。今の御時世、この名前での販売はとても難しいでしょうが、当時はコロナにネガティブな意味は全くありませんでした。むしろ、高度経済成長の象徴的な良い響きがあり、「サニー」や「カローラ」といった大衆車よりちょっと上のレベルといった感じでした。

 それが、昭和40年代になると、「コロナ マークⅡ」という名称になりバージョンアップされて、スポーティーな中級車になりました。今では知っている人は少ないでしょうが、スマイリー小原という踊りながら楽団を指揮するタレントさんがCMに出ていたことを思い出します。平成近くになると、コロナの名前が取れて、単に「マークⅡ」だけとなり、グレードアップした高級車になり、今でも続いていると思います。

 私は、何か不思議な符丁の一致を感じました。今世界中を災禍に陥れている新型コロナは、夏場に一旦、収束すると言われますが、また今秋から冬にかけて「第2波」がやって来ると言われています。初期の「武漢ウイルス」から突然ではなく、当然変異して、より強力になって、殺傷力の強いウイルスに変身すると言う専門家もいます。疫病と自動車の話とは全く関係ないのですが、何で、コロナがマークⅡに変身したのか、まるで未来を予言したかのような奇妙な符牒の適合を、私自身、無理やり感じてしまったわけです(笑)。恐らくそんなことを発見した人は私一人だけだと思いますが(爆笑)。

 さて、ここ1カ月間は、立花隆著「天皇と東大」(文春文庫・全4巻)のことばかり書いて来ました。このブログを愛読して頂いている横浜にお住まいのMさんから「圧倒的分量で流石でした。私も読んでみるつもりです」との感想をメールで頂きました。私自身は、このブログを暗中模索で書いていますから、このような反応があると本当に嬉しく感じます。

 あまりよく知らなかったのですが、Mさんの御尊父の父親(つまり彼にとっての祖父)は、終戦近くに予備役ながら召集され、小笠原の母島で戦死されたといいます。そのため、御尊父は母子家庭となり、大変な貧困の中で育つことになりますが、その母親も17歳の時に亡くし、本人は自殺すら考えましたが、周囲に助けられ、借金をしてようやく高校を卒業したといいます。当時は同じような境遇の家庭が多かったことでしょう。私の両親の父親、つまり私にとっての祖父は、2人とも戦死ではなく40歳そこそこで病死したため、両親2人とも10代で母子家庭になり、相当苦労して戦後の混乱期を切り抜けて、貧しいながら家庭をつくり我々子どもたちを大学に行かせるなど一生懸命に育ててくれました。

 「天皇と東大」は、エスタブリッシュメント階級の歴史が書かれ、読み応えがありましたが、我々のような庶民はいくら苦労しても「歴史」にもなりません。学校で教える歴史は、いつも特権階級や勝者から見た歴史だからです。

 話は変わって、先日から山岸良二監修「戦況図鑑 古代争乱」(サンエイ新書)を読んでいますが、古代は、本当に驚くほど多くの争乱があったことが分かります。その争乱の大半は「皇位継承」にからむクーデタ(未遂も)と内乱です。九州筑紫の豪族が新羅と結託して大和朝廷転覆を図った古代史最大の反乱である527年の「磐井の乱」、蘇我氏が物部氏を排斥して政権を掌握した587年の「丁未の変」(物部氏は、娘を大王に嫁がせて外戚を誇った例は見られないそうで意外でした)、中大兄皇子と中臣鎌足らによる蘇我氏を打倒したクーデタ、645年の「乙巳の変」(1970年代までに学校教育を受けた世代は、「大化の改新」としか習わず、私自身はこの名称は10年ぐらい前に初めて知りました!)、天智天皇の後継を巡る叔父と甥による骨肉争いである「壬申の乱」、奈良時代になると「長屋王の変」「藤原広嗣の乱」「橘奈良麻呂の変」「藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱」、平安時代になると「伊予親王謀反事件」「平城太上天皇の変」(従来は「薬子の変」と習いましたが、最近は名称が変わったそうです。歴史は刷新して学んでいかないと駄目ですね)「承和の変」「応天門の変」(応天門とは平安京の朝堂院に入る門だったんですね。図解で初めて確認しました=笑)…と本当にキリがないのでこの辺でやめておきます。

 古代史関係の本を読んでいて、心地良いというか、面白いというか、興味深いのは、古代人の名前です。現代人のキラキラ・ネームも吃驚です。有名な蘇我馬子とか入鹿なども随分変わった珍しい名前ですが、人口に膾炙し過ぎています。663年の有名な「白村江の戦い」(中国や韓国の史料では「白村江」ではなく「白江」なので、そのうち「白江の戦い」に変更されるかもしれません。何で日本で白村江と言い続けてきたのか理由があるのでしょうから、不思議)に出陣した将軍の名前が残っています。

 第1陣の前将軍大花下(だいけげ)・阿曇比羅夫(あずみのひらふ)、小花下・河辺百枝(かわべのももえ)、大山下(だいさんげ)・狭井檳榔(さいのあじまさ)。第2陣の前将軍・上毛野稚子(かみつけののわかこ)、間人大蓋(はしひとのおおふた)、中将軍・巨勢神前訳語(こせのかむさきのおさ)、三輪根麻呂(みわのねまろ)、後将軍・阿倍比羅夫、大宅鎌柄(おおやけのかまつら)…。「あじまさ」とか「かまつら」とか、戦国武将にも劣らない強そうな名前じゃありませんか(笑)。

 この本を読むと、丁未の変(587年)で物部氏が没落し、乙巳の変(645年)で蘇我氏が没落し、伊予親王謀反事件(807年)で藤原南家が没落し、承和の変(842年)で藤原北家(良房)の政権が台頭し、応天門の変(866年)で大伴氏と紀氏といった古代豪族が没落して、藤原北家が独占状態となり、阿衡の紛議(887~8年)で橘氏、昌泰の変(901年)菅原氏が排斥される、といった具合で、なるほど、「権力闘争」というものは、こういう流れがあったのかということが整理されていて分かりました。

支配階級にとって好都合な庶民大衆の皆様

 近現代史の深層を解剖した大作「天皇と東大」(立花隆著・文春文庫全4巻)を読了したので、再び、古代史関係の本に戻って渉猟しています。

 今読んでいるのは、山岸良二監修「戦況図解 古代争乱」(サンエイ新書)という本ですが、紀元前4世紀頃の弥生時代の戦い(狩猟・採取生活が中心の縄文時代の遺跡からは、何と、戦争の痕跡は見つかっていないとか!)から磐井の乱、乙巳の変、白村江の戦、壬申の乱など図解と系譜入りで説明してくれるので分かりやすい。たまたま本屋さんで見つけて重宝しています。

 で、今日はその話ではなく、近現代史と古代史を中心に勉強していると共通点といいますか、古代と近代とほとんど変わっていないことに気が付きます。ズバリ言って、天皇制とそれに付随する政治、経済、社会、教育制度です。何しろ、明治維新そのものが、古代の王政復古でしたから、当たり前と言えば当たり前の話なのです。(明治政府は太政官や神祁官などを復活させたりして、中世、近世の武家社会を否定してすっ飛ばしてしまいました)

 そして、今日一番強調したいことは、日本という国家は、古代から現代に至るまで、1500年間とも2000年間とも2600年間とでも言っていいのですが、エスタブリッシュメント(支配階級)は少しも変わっていないということでした。

 例えば、「天皇と東大」で多くの紙数が費やされている天皇機関説の美濃部達吉は、蓑田胸喜ら右翼国家主義者たちから反国体主義者として糾弾され、書籍も発禁処分されたりしましたが、本人は決して反体制派、つまり反天皇制主義者ではなく、立憲天皇制主義者だったことがあの本にも書かれていました。それどころか、東京帝大教授という超エリート階級で、鳩山一郎(首相など歴任)とは縁戚関係(美濃部の妻多美と鳩山の弟秀夫の妻千代子が姉妹)で、息子の美濃部亮吉(元都知事)を、信州の小坂財閥である小坂善太郎(外相など歴任)、徳三郎(運輸相、信越化学・信濃毎日新聞社長など)の妹の百合子に嫁がせて、華麗なる閨閥づくりに勤しんでいました。美濃部達吉はエスタブリッシュメントに他ならないでしょう。

 また、「天皇と東大」の2巻には、東大新人会の初期リーダーだった宮崎龍介が出てきます。この人は、孫文の友人で中国革命の支援者として有名な宮崎滔天の息子です。新人会は東京・目白にあった13室もある大邸宅を拠点に活動していましたが、それは中国人革命家の黄興という人が所有していたものでした。この邸宅を宮崎滔天が預かり、息子の龍介に活動の場として提供していたのでした。そこに柳原白蓮事件(大正10年)が起こります。若い帝大生の宮崎龍介と炭鉱王の妻との不倫事件ということで、当時は最大のスキャンダルとなって、大衆の恰好の餌食となり、新聞も大騒ぎします。

 このおかげで、宮崎龍介は、東大新人会を除名され、新人会の連中も黄興邸を出たため、活動拠点を失う羽目になります。

 この柳原白蓮は、歌人としても有名ですが、何と、柳原前光伯爵の娘で、柳原家といえば、名門中の名門です。何しろ、大正天皇の生母で、明治天皇の女官だった柳原愛子(なるこ)は、白蓮の叔母に当たる人だったのです。そこで、手元にあった古代から現代につながる藤原氏の系譜を図解した洋泉社MOOKの「藤原氏」を参照したところ、柳原家とは、藤原氏の分家で、五摂家(近衛、鷹司、九条、一条、二条)、清華家(せいがけ=三条、西園寺など)などに続く名家(めいか)と呼ばれていました。名家とは、文官の家筋で、大納言まで進むことができる家柄です。そして、柳原家は、同じ名家の日野家(儒道・和歌の家。室町将軍足利義政の室・富子は当主勝光の妹)の庶流で、文筆の家だったのです。

 まさに、柳原白蓮は歌人でしたから、藤原氏の血筋を受け継ぎ、「文筆の家」を守り抜いたことになります。いやあ、何百年経っても全く変わらないということですね。

 大正天皇の生母が柳原愛子だったことで色々気になり始めて調べてみたところ、明治天皇の昭憲皇后だった一条美子(はるこ)さまは、藤原氏の五摂家の一条家出身。大正天皇の貞明皇后だった九条節子(さだこ)さまも同じく五摂家の九条家出身。昭和天皇の皇淳皇后だった久邇宮良子(ながこ)さまは、伏見宮朝彦の孫。昭和天皇の弟宮である秩父宮妃の勢津子さまは、幕末に新選組をつくった会津藩主松平容保の孫。同じく高松宮妃の喜久子さまは、最後の将軍徳川慶喜の孫。同じく三笠宮妃の百合子さまは、河内丹南藩の最後の藩主高木正善の孫だったことが分かりました。

 なるほど、これが日本の伝統ということなのでしょうか。

 「天皇と東大」に登場する何千人という人物は、考えてみれば、右翼も左翼もほとんどがエスタブリッシュメント階級に属する人たちでした。庶民から見れば、雲の上のそのまた雲の上の殿上人たちです。そういう人たちは、自分の子どもたちには十分な教育費をかけて、最高級の教育を与えて、東大にでも入れて、そのまた子供たちが、またその子どもも東大に入れて、官僚や政治家や学者の道に進ませていくのです。(世の中、そんな単純じゃありませんが、戦前の軍人も華族も政治家も法曹界も、古代の葛城氏や蘇我氏や藤原氏と同じように、エスタブリッシュメント同士で縁戚関係をつくるのに必死でした)

 そして、いつの時代でも犠牲になるのは、無学な庶民たちで、防人(さきもり)になったり、赤紙一枚で激戦地に送られたりして、ハイ、さようならです。それが日本社会のカラクリでしょう。

 幸運なことに、と言うべきか、こうした高等教育を受けられない庶民の皆様は、渓流斎ブログを読まないし(笑)、社会のカラクリにも気づかず、有事の際は、唯々諾々と大人しい羊の群れのように為政者の命令に従うわけです。お疲れさまでした。(政府による非常事態宣言下にこのブログを書きました)

※歴史上の人物は敬称略しています。

ブラームス交響曲第1番から原節子まで

 上の写真は、すべてブラームスの「交響曲第1番」です。カラヤン、バースタインからトスカニーニ、ブルーノ・ワルター、小澤征爾まであります。クラシックの中で、この曲だけは特別に好きなのです。「あ、この音とは違う」「この音じゃない」と、一度、FM放送か何かで聴いたことがある「失われた音を求めて」色んな指揮者の演奏CDを集めたらこんなになりましたが、まだまだあることでしょう。

 ブラームスの交響曲第1番ハ短調は、皆さまご案内の通り、恩師シューマンの「マンフレッド序曲」を聴いて感激した1855年に着手し、21年もの長きの歳月を経て、1876年にやっと完成した作品です。22歳の若者が43歳の中年になっていました(ブラームスは64歳で死去)。何でこの曲が好きなのかは、最初の重苦しいテーマが、ゆっくりとだんだんと高まっていき、最終楽章では、ついに「生の躍動 elan vital」を感じさせてくれるからです。我慢して最後まで聴いた価値があるわけです(笑)。クラシックを聴いて、あまり涙を流したりしませんが、この曲とワーグナーの「マインスタージンガー序曲」だけは別格ですね。感情が高まりカタルシスを感じます。

 ということで、私は、ブラームスの1番を聴きながら、ブログを書いています。昨日なんかも書くのに4時間は掛かりましたからね。4時間も、5時間もかけて書いたブログにあまり反応がないのに、20分~30分でさっと書いたブログに注目されたりすると、「あれま」とガクっときます。だって、人間なんだもん。

 この1カ月ばかしは、立花隆著「天皇と東大」(文春文庫)ばかり読み、昨日でやっと完読したことを書きましたが、その間、浮気して月刊文藝春秋も読んでいました。

 さすがに日本で最も売れている雑誌とあって目の付け所が大衆誘導的です。私も洗脳されて買ってしまいました。ざっと主な記事を読みましたが、どうせ忘れてしまうので、備忘録をー。

・巻頭のノーベル賞学者山中伸弥教授と橋下弁護士(呑み友達らしい)との対談「ウイルス vs 日本人」ー。山中教授の仮説では、日本人は欧米人より感染による死者が少ないことから、日本人には「ファクターX」なるものがあるのではないか。それは、日本人は、マスクや入浴など清潔意識が高く、ハグや握手、大声で話すことが欧米人より少ないこと、そしてBCGワクチンにも相関関係あるかもしれないこと等々…。あくまでも仮説なので、楽観視できませんが。

・奥村康・順天堂大医学部免疫学特任教授の「最後は『集団免疫』しかない」は、刺激的、絶望的な論説ではありましたが、最も説得力がありました。直視しなければならないことは、ウイルスは消えたり無くなったりしないということです。共生するしかない。でも、発症しても軽症で済む人や症状が出ない人も大勢いるので、彼らに免疫ができ、免疫を持つ人が一定の割合を占めた時にウイルスの流行は収束に向かう、という話です。そして、軽症で済ますには、個人の免疫力を高めることが大事で、それには(1)不規則な生活(2)激しい運動(3)精神的ストレスーを避けることが最も肝心だといいます。やはり、一番参考になりました。

・村中璃子医師「WHOはなぜ中国の味方なのか」-WHOのテドロス事務局長が「中国寄り」との批判が多いが、テドロス氏はエジプトの保健相、外務相を経て、WHO事務局長選挙で、中国によるプッシュで当選した人。エチオピアは2019年、国全体の直接投資額の60%も中国に頼っている。だから、テドロスさんは中国寄りになっているーという話。あれ?この話は新聞でも報道されていて皆知っている話。村中医師はWHOで勤務した経験があるらしいので、もっと奥深い裏情報を知りたかったので残念。

・峯村健司・朝日新聞編集委員「CIAと武漢病毒研究所の暗躍」は、米中コロナ戦争の内幕を描いたルポ。でも、何で、朝日新聞を蛇蝎の如く嫌って、機会があれば貶めようとしている文藝春秋が朝日の記者やOB(船橋洋一)を採用するのかしら。文春記者でもこれぐらい書けるはず。もしかして、朝日と文春は、表向き「敵対関係」を装っておきながら、テーブルの下ではちゃっかり握手して相互利益を図っているのかしら?

・芝山幹郎×石井妙子対談「『原節子』生誕100年 映画ベスト10」-。1963年に42歳で引退して本名の會田昌江に戻り、2015年に95歳で亡くなった大女優を振り返っています(52年間も隠遁していたとは!)。この人、テレビも舞台にも出ず、映画一筋の女優だったんですね。原節子といえば、小津安二郎の「東京物語」や「麦秋」が代表作かと思っていました(小津の「晩春」「麦秋」「東京物語」で演じる原節子の役は全て紀子なので「紀子三部作」という)が、戦時下では「ハワイ・マレー沖海戦」(1942年、山本嘉次郎)、「熱風」(1943年、山本薩夫)など結構出ていたんですね。小生、観ていません。戦後直後の黒澤明の「わが青春に悔なし」(1946年)は観てますが、これはあの京大・滝川事件をモデルにしたものでした。何とタイムリーな(笑)。私は(世界の溝口健二から「成瀬君のシャシンはうまいことはうまいが、キン〇〇が有りませんね」と批判された)成瀬巳喜男のファンですから「めし」(1951年)と「山の音」(1954年)は是非観たい。いつか、神保町に行って、成瀬巳喜男のDVDが売っていたら購入するつもりです。

 ※文中敬称略あり。

歴史上の人物は善悪二元論で断罪できない=「天皇と東大」第4巻「大日本帝国の死と再生」を読みついに全巻完読

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 立花隆著「天皇と東大」(文春文庫)はついに全4巻完読できました。最後の第4巻「大日本帝国の死と再生」は、2日間で一気に読破してしまいました。

 巻末に参考文献が載っていましたが、ざっと1200冊以上。これだけ読むのに10年以上掛かりそうですが、著者は読んだだけでなく、こうして単行本2冊(文庫版で4冊)の大作にまとめてくれました。

 当時の文献からの引用が多いので、「曩(さき)に」とか、「抑々(そもそも)」「洵(まこと)に」「啻(ただ)に」「仮令(たとい)」「聊(いささ)かも」「赫々(かっかく)たる」といった接頭辞や、「辱(かたじけな)さ」「恐懼(もしくは欣快)に堪えず」「意思に悖(もと)る」「雖(いえど)も」「抛擲(ほうてき)」「芟除(さんじょ)」「万斛(ばんこく)の恨み」「宸襟(しんきん=天子の心)を安んじ」「拝呈 先ず以って御清福、奉賀候(がしたてまつりそうろう)」「護国の力尠(すく)なきを慚愧し」「上御一人(かみごいちにん)の世界」といった現代では使われなくなった言い回しが、最初は読みにくかったのに、慣れると心地良くなってきました(笑)。こういう言い回しで、極右国家主義者勢から「朝憲紊乱(ちょうけんびんらん)」だの「国体(天皇絶対中心主義)破壊を企む不逞の輩を殲滅する」などと言われれば、言葉の魔術に罹ったかのように思考停止してしまいそうです。

 昭和初期には多くの思想弾圧事件(美濃部達吉の天皇機関説事件森戸事件京大・滝川事件河合栄治郎事件人民戦線事件のほか、日本共産党を壊滅させた三・一五事件四・一六事件など)があり、主に弾圧された側(ということは左翼)から語られる(つまり、教科書や書籍で)ことが多かったので、戦後民主主義教育を受けた者は、ほんの少ししか右翼側の動向について学んだことはありませんでした。ですから、血盟団の井上日召や四元義隆や五・一五事件の海軍青年将校らに多大な影響を与えた権藤成卿や、むやみな「言あげ」はしない「神ながらの道」を唱えた筧(かけい)克彦や、皇国史観をつくった平泉澄(きよし)といった国粋主義者に関する話は本当に勉強になりました。

 第4巻の「大日本帝国の死と再生」では、昭和初期の東京帝大経済学部の三つ巴の内紛が嫌になるくらい詳細に描かれています。三つ巴というのは、大内兵衛有沢広巳といったマルクス主義の「大内グループ」と土方成美本位田(ほんいでん)祥男ら国家主義の「土方グループ」と河合栄治郎、大河内一男ら自由主義(反マルクス主義で欧州の社会民主主義に近い)の「河合グループ」のことです。この3者が、教授会で多数派になるために、くっついたり離反したり、手を結んだり、裏切ったりするわけです。

 マルクス主義の大内グループは最初にパージされて消えますが、戦後復活して、日本経済の復興を支えるので、大内兵衛や有沢広巳なら誰でも知っています。河合栄治郎は、多くの経済書を執筆(多くは日本評論から出版し、担当編集者は石堂清倫だった)し、戦時中、ただ一人、軍部と戦った教授として名を残しています。(同じく筆禍事件を起こして東大を追放された矢内原忠雄=戦後復帰し、東大学長。私自身はこの人ではなく、その息子で哲学者の矢内原伊作の方が著作を通して馴染みがありました=と河合との関係には驚きましたが…)

 私自身は、むしろ、土方グループの土方成美については何も知らず、この本で初めて知りました。彼ら国家主義者は「革新派」と呼ばれていました。戦後民主主義教育を受けた者にとって、何で右翼なのに革新派なのか理解できませんが、当時は、土方のような戦争経済協力派を革新派と呼んでいました。国家主義者の岸信介が商工省の若手官僚の頃、「革新官僚」と呼ばれたのと一緒です。今でこそ、国家主義や国粋主義、それにファシズムと言えば、悪の権化のように思う人が多いのですが、戦前の当時は、それほどネガティブな意味がなかったといいます。(そう言えば、作家の直木三十五も「ファシスト宣言」したりしていました)

 国粋主義(絶対的天皇中心主義)「原理日本」の蓑田胸喜や菊池武夫らが、東京帝大から共産主義思想の教授追放を目的とした「帝大粛清期成同盟」を結成すると、意外にも野口雨情や萩原朔太郎、片岡鉄平ら童謡詩人や作家までもが賛同していたのです。戦前の皇民教育や軍国少年教育を受けた者にとっては、国威発揚や愛国心は至極当然の話で、臣民の税金で国家の官僚を養成する帝大の教授が反国家的で、コミンテルン支配の共産主義思想を研究したり、学生に教えたりするのはとんでもない話だったのでしょう。

 著者の立花氏は、文庫版のあとがきで「なぜ日本人は、あのバカげたとしかいいようがない戦争を行ったのか。国家のすべてを賭けてあの戦争を行い、国家のすべてを失うほどの大敗北を喫することなったのか。…私がこの本を書いた最大の理由は、子供のときから持っていたこの疑問に答えるためだった。7年間かけてこの本を書くことで、やっとその答えが見えてきたと思った」と書いています。

 私も、通読させて頂いて、今まで知っていた知識と知識がつながって、線状から面体として浮かび上がり、この異様に複雑な日本の近現代史が少し分かった気がしました。

 マルクス主義一つをとっても、戦前の弾圧から、戦後直ぐは、「救世主」のように日本復興のよすがになるかに見えながら、強制収容所の恐怖政治のスターリズムやハンガリー動乱、そしてソ連邦崩壊が決定的となり、威力も魅力も失いました。その一方、東京帝大の「平賀粛学」で、土方グループ追放に成功し辞任した田中耕太郎・経済学部長は、戦後は最高裁判所長官や国際司法裁判所判事などを歴任。この本に書かれていませんでしたが、クロポトキンを紹介するなど進歩的言動で東京帝大を追放された森戸辰男助教授(森戸事件)も戦後は、宗旨替えしたのか、文部大臣や中教審会長を務めるなどすっかり体制派側の反動的な政治家になったりしています。人間的な、あまりにも人間的なです。

 戦後は、国家主義や国粋主義についてはアレルギーが出来てしまったので、今さら極右の超国家主義が日本で復活し、再び戦争を始めようとすることはないでしょうが、戦前は、多くの一般市民も皇民教育を受けていたせいか、戦争協力し支援していたことを忘れてはいけないでしょう。このブログで何度も書いていますが、世の中は左翼と右翼で出来ているわけではなく、左翼が善で右翼が悪で、そのまた逆で、左翼が悪で右翼が善だという単純な二元論で分けたり区別できるようなものではありません。自由主義だって胡散臭いところがあるし、タブー視される国粋主義だって、掛け替えのない価値観があると考えてもいいのです。

 ですから、この本を読んで、蓑田胸喜や平泉澄といった狂信的な超国家主義者のお蔭で、日本は道を誤り、戦争を起こして惨敗したなどと単純な答えを導くのは間違いでしょう。彼らのような怪物(と呼んでしまいますが)を生み出す内外情勢と教育こそが元凶で、教育如何でどんな人間でもできてしまうことを胸に刻むべきではないでしょうか。その意味でも、私自身は、歴史を勉強し、歴史から学ばなければならないと思っています。これはあくまでも個人的な意見なので、多くの人にはこの本を読んで頂き、色々考えてほしいと思っています。

【本文に書けなかったこの他のキーパースン】

一木喜徳郎(内大臣から宮内大臣で昭和天皇の信頼が篤かった)・湯浅倉平(内務省警保局長から宮内大臣、内大臣。反平泉派)・富田健治(近衛内閣の書記官長、平泉の門下生)・畑中健二少佐(宮中事件で、森赳近衛師団長を射殺、「日本のいちばん長い日」)・大西瀧治郎(特攻隊の生みの親、終戦後自刃)・高野岩三郎(東京帝大経済学部創設⇒大原社会科学研究所へ)・大森義太郎、脇村義太郎、山田盛太郎、舞出長五郎(大内グループ)・橋爪明男(東京帝大経済学部助教授で内務省警保局嘱託。大内グループの動静を密告するスパイだった!)

本土決戦は弥生時代の戦だったのでは?=「天皇と東大」第3巻「特攻と玉砕」

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 昨日は、道端で怪しげなマスクを3300円(50枚入り)で買ったことを書きました(しかも2箱。1箱は村民4号にあげました)が、ネットではどれくらいで売っているのか今朝、調べたら、何と、「大幅値下げ」と称して1339円(51枚入り)で売っていたのです。つい、先日までネットでは4000円とか5000円とかしたのに、ナンタルチーヤです。良心的な中国政府の「マスク外交」が功を奏したのでしょうか、なんて喜んでいる場合じゃありませんよね。商売は、需要と供給の世界ですから、生産ラインが復活した中国製品のマスクが余剰になれば、当然、価格は暴落していくことでしょう。もう、道端で3300円で買う馬鹿いませんよ。あ、ワイのことやないけ!

 さて、立花隆著「天皇と東大」(文春文庫)第3巻「特攻と玉砕」をやっと読了しました。単行本化は2005年12月、文庫本化は2013年1月ですが、初出の雑誌連載は、2002年10月号から2004年3月号となってます。ですから、18年近くも昔に発表された作品を何で今さら取り上げるのか、と糾弾されそうですが、読んでなかったから仕方ありません。その理由については、この本を最初に取り上げた時に書きましたので、茲では繰り返しません。それでも、今読んでも古びていないし、未来永劫、この本だけは読み継がれていってほしいと思っています。必読書です。

 第3巻の前半の主役は狂信的な国粋主義者の蓑田胸喜でしたが、後半は、「皇国史観」を広め、特攻と玉砕を煽動した東京帝大国史科教授の平泉澄(きよし)でした。この方は、正直言ってよく知らなかったのですが、とてつもない人でした。教科書に特筆大書して、生徒に教えなきゃ駄目ですよ。平泉教授は、帝国陸海軍の幹部将校らにも絶大なる影響を与えた学者で、2・26事件などのクーデタに関与せずとも決行する理論的支柱となり(平泉は、昭和天皇の弟君である秩父宮の御進講係を務めて親しかったため、事件の黒幕と目されていた)、また、楠木正成や吉田松蔭に代表される忠君愛国の精神主義を戦場の兵士たちに感化した人(元寇を持ち出すくらいのアナクロニズム!)で、さらには近衛文麿首相らの演説原稿を書いた人でもありました。著者の立花氏は「何よりも私が不思議に思うのは、平泉があれほど特攻と玉砕を煽りに煽って、多くの若者を死に追いやったというのに、本人はそのことに何の責任も感じていなかったらしいことである」とまで書いています。

 終戦直後の昭和20年8月17日の教授会で、平泉は辞表を提出して東大を去り、福井県の実家に引き籠ります。この態度に潔さやあっぱれさを感じる人もいましたが、実は、その福井の実家とは、一般には平泉寺(神仏習合のため)と呼ばれている白山神社(伊弉冉尊を祀り、本地が十一面観音)で、これはかつては「大社」と呼ばれていたほど格式が高く、歴史と由緒がある桁違いに壮大な神社で、平泉家は代々そこの神職を務めていたのです。

 開社は、養老元年(717年)といいますから奈良時代。中世期、朝倉氏から寺領9万石を拝領され、境内には48社、36堂があり、僧兵だけでも7000人も抱えていたといいます。明治維新以降は廃仏毀釈で寺領は没収されたりしましたが、それでも、終戦後の農地改革等でさらなる没収を経ても4万5000坪もの広大な敷地があるといいます。平泉澄はそこの神主ですから、生活は裕福であり、なおも執筆活動を続け、最後まで思想信条と言動は変わらず、昭和59年に89歳の生涯を終えました。つい最近の現代人だったんですよ。

 他にまだまだ書きたいことが沢山あるのですが、あと一つだけ書きます。太平洋戦争末期の昭和20年6月10日、義勇兵役法案が貴衆両院で通過し、日本国民全員(男子15歳から60歳、女子17歳から40歳まで)が義勇兵役に服して、本土決戦の際には武器を取ることになりました。法案を通過させたときの内閣の首相は鈴木貫太郎、書記官長(今の官房長官)は迫水久常でした。この迫水が戦後に書いた「機関銃下の首相官邸」(恒文社)の中で、国民義勇兵隊の問題を話し合った閣議の後、陸軍の係官から、「国民義勇兵が使用する兵器を別室で展示しているからみてほしい」ということで、鈴木首相を先頭に閣僚が見に行ったことを明かしています。

 そしたら、そこに並べてあったのは、手榴弾はよしとして、銃は単発で、まず火薬を包んだ小さな袋を棒で押し込んで、その上に弾丸を押し込んで射撃するものだったといいます。正規の軍隊の兵士でさえ、「三八式歩兵銃」といって、明治38年の日露戦争で使われた銃を第2次世界大戦で使っていた話を聞いたことがありますが、それ以上の驚きです。私なんか、思わず「火縄銃か!」と突っ込みたくなりました。種子島に伝来した火縄銃とほとんど変わらない武器で、明治の三八式より遥かに古い「室町時代か!」とまた突っ込みたくなりました。ここまでは、大笑いでしたが、迫水ら閣僚が見たこのほかの義勇兵の兵器として、弓矢があったといいます。相手の米兵は装甲車や戦車に乗って、マシンガンやら火焔銃やらバズーカ砲やらでやって来るんですよ。それを弓矢で立ち向かうとは、これでは弥生時代じゃありませんか!大笑いして突っ込もうとしたら、逆に涙が出てきて、泣き笑いになりました。

 軍部は、「平泉史観」の影響で、「1億総玉砕」を真剣に考えていたことでしょう(あわよくば自分たちだけは生き残って)。近代戦なのに、国民全員を強制的に徴兵して、弓矢で戦えとは、あまりにも不条理で、時代錯誤が甚だしく、無計画で、無責任過ぎます。国民に死ねと言っているようなものです。そもそも、陸士、海兵のエリートと政権中枢の特権階級らは、米国との国力の莫大な違いを知っていたわけですから、最初から負け戦になることは分かっていたはず。それなのに、何万人の兵士を犠牲にしておきながら、少しも反省することなく、責任を部下に押し付けて、戦後ものうのうと生き残り、天寿を全うした将軍もいました。

 泣き笑いから、今度は怒りに変わってきました。

狂信的な極右国粋主義者の信条と心情はその時代の空気を吸わないと分からない気がしました=立花隆著「天皇と東大」第3巻「特攻と玉砕」から

※アブチロン(「草花図鑑」に載っていなかったので、このブログで公開質問させて頂いたら、御親切な読者の方から御教授頂きました。有難う御座いました)

 さて、いまだに、我が家には「アベノマスク」も「10万円給付」も届いていません。マスクは、既に、御宅に届いていらっしゃる方もいて、SNSにその写真をアップしている方もかなりおられました。でも、最初に配っているのは、東京の世田谷区とか港区とか、高級住宅街にお住まいの皆様方だったんですね。私の住む所は、全国でもベスト5に入るぐらい感染者が多い地域なんですけど…。仕方がないので、道端で売っていた怪しげな中国製のマスクを買ってしまいましたよ。50枚入り3300円。昨年は、60枚入りで500円ぐらいで売っていましたからえらい違いです。都心に出勤するので、仕方ないかあ、てな感じです。

 ところで、いまだに、立花隆著「天皇と東大」を読んでいます。第3巻の「特攻と玉砕」に入り3日目ですが、まだ半分近く残っています。533ページの本ですが、昔なら2~3日あれば軽く読めたのですが、さすがに衰えました。読む速度が遅くなったのは、昭和初期の話になり、関連本が自宅書斎に結構あるので、引っ張り出して参照しながら読んでいるせいかもしません。

 この本(全4巻)は、このブログに以前も書きましたが、国際金融ジャーナリストの矢元君から借りて読んでいます。「えっ? 君は蓑田胸喜も知らないのか?」という私の諫言にいきり立った彼が、ネットで定価の2倍ぐらいのお金を奮発して買った古本で、それを私に貸してくれたのです。(この本は今では手に入りにくくなっていることは以前書いた通り。文春社長、増刷してくれたら定価で買いますよ!)

 矢元君は、経済関係にはやたらと詳しいのですが、近現代史関係の知識には疎かったのです。昭和史関連の書籍を少しでも齧った人間なら、蓑田胸喜を知らない人はあり得ないのですが、彼は知らなかったのです。

 この第3巻の「特攻と玉砕」の前半は、ほとんどこの蓑田胸喜(1894~1946)を軸として当時の世相と社会事件が描かれています。「みのだ・むねき」と読みますが、文字って、「蓑田狂気」と呼ばれたほど、狂信的な右翼の思想家でした。東京帝大時代から上杉慎吉に私淑して上杉のつくった「木曜会」「興国同志会」「七生会」に全て参加し、卒業後は雑誌「原理日本」を発行し、慶應義塾予科の教授も務めながら、国粋主義を信奉し、国体に反するあらゆる学者らを糾弾する煽動活動を行った人でした。何しろ、民本主義の吉野作造攻撃から、京大の滝川事件、美濃部達吉の天皇機関説事件、津田左右吉事件、大内兵衛、有沢広巳らの人民戦線事件、河合栄治郎事件など昭和思想史上全ての思想事件の黒幕になった人でした。(実際、内務省に働きかけて、アカ学者の著書を発禁処分にするよう圧力をかけました)

 蓑田は戦後まもなく郷里熊本で自死します。主宰した「原理日本」の大袈裟な強調点の多い活字組や、目の敵にする無政府共産主義者に対しては「不徹底無原理無信念無気力思想」などいう魔術師的造語でレッテルを貼ったりするのを見ると、かなり常軌を逸した人のように見えます。著者の立花氏はそのことをもっとストレートに書いたため、雑誌に連載時に蓑田胸喜の遺族から抗議を受けます。文庫に所収された文章でも「この人は〇〇〇〇〇なのではあるまいか」とし、なぜ、伏字のままにしているのか、266ページの「一部訂正と釈明」で説明しています。

 確かに、立花氏は、当時の時代の空気を吸っていない後世の安全地帯にいる人間が、高見から蓑田胸喜らをコテンパンにやっつけ過ぎている嫌いもありますが、戦後民主主義を受けた者の大半はその痛快さに拍手喝采することでしょう。(ただし、立花氏は、89ページで、「電通社(立花注・日本電報通信社。後の同盟通信社すなわち現在の共同通信社)」とだけ書いてますが、明らかに間違い。「後の同盟通信社すなわち現在の共同通信社、時事通信社、電通」が正しいのです。光永星郎や長谷川才次らが怒りますよ。これで、初めて立花氏の限界を感じ、彼が書いた全てを盲目的に信じるのではなく、もっと冷静に客観的に読まなければいけないことを悟りました)

 難癖つけましたが、この本の価値を貶めるつもりは毛頭なく、日本人の必読書で、私自身が生涯に読んだベスト10に入ると確信しています。

 明治以来の日本の右翼の潮流として、玄洋社を率いた頭山満や黒龍会の内田良平らの九州閥の流れと、上杉慎吉と蓑田胸喜の東京帝大の流れがあり、これだけ知っていたら十分かと思っていましたら、この本ではまだまだ沢山、重要人物が登場します。その代表が「神(かん)ながらの道」を唱えた東京帝大行政法の筧(かけい)克彦と、東大帝大国史科の平泉澄(きよし)の両教授です。

 「神ながらの道」は何なのか、具体的には説明できないといいます。何故なら、「神ながら」の対極にある概念が「言あげ」で、本質的に言語による説明を拒むからだといいます。これは、あまりにも日本語的で、英語や仏語、独語などではあり得ないことですね。だからこそ、神ながらの道は、あまりにも日本的な実践学で、天皇を現人神とした神格化の権威付けと先導する役目を果たしました。


もう一人の平泉澄は、いわゆる「皇国史観」をつくり、広めた人でした。「大日本は神国なり」と書き出す北畠親房の「神皇正統記」を日本最高の史書と崇め、全国に忠君・楠木正成の像を造らしめた国史学者でした。彼に一番心酔したのが、陸軍士官学校の幹事だった東条英機少将で、「平泉史観」は軍部に熱狂的に受け入れられて浸透し、ついには現人神である天皇陛下のためには自己犠牲を厭わない人間魚雷などの特攻の精神的裏付けや理論付けとしてもてはやされるのです。(多くの若者たちが特攻で亡くなった戦後も、平泉は生き抜き、何と昭和48年になっても、またしても少しも懲りることもなく、「楠公 その忠烈と余香」を出版します。外交官から経済企画庁長官などを歴任した平泉の三男渉=わたる=が鹿島守之助の三女を妻とした人だったため、鹿島出版社から刊行されました) 

この本の前半で、多く記述されている「天皇機関説事件」とは、右翼が主張する「絶対君主制」(天皇親政)を採るか、美濃部達吉、そして明治憲法をつくった伊藤博文らが主張する「立憲君主制」を採るか、の違いでした。天皇親政となると、軍隊の統帥権から外国との条約締結、財政政策に至るまで、すべて天皇の思うがままにできますが、その代わり、全ての責任を持つことになります。一方の立憲君主制となると、重臣たちが輔弼し、天皇が裁可する形になるので、天皇の思い通りにならないことが多くありますが、責任は、重臣たちに及ぶことになります。昭和天皇はその立憲君主制である「天皇機関説で良い」と認めていました。そして、何と、スパイのゾルゲまでが、その情報を、当時の人はほとんど誰も知らなかったのに、政権中枢にいた西園寺公一や犬養健らの情報を尾崎秀実を通して入手し、見事な分析記事「日本の軍部」(1935年「地政学雑誌」8号)の中で書いているのです。一部の重臣しか知らない超機密情報を入手したゾルゲ博士の手腕には驚くほかありませんが、それなのに、2・26事件を起こした陸軍の青年将校らは、天皇の真意を全く知らず、そして理論的支柱の北一輝までもが「天皇機関説」支持者だったことも理解せず、天皇親政のクーデタを起こして重臣を殺戮し、昭和天皇の怒りを買い、「逆賊」として処刑されます。この辺りの複雑な構造を、かなり詳しく、そして易しくかみ砕いて描いてくれるので、感謝したいほど分かりやすかったです。

 ということで、今日はこの辺で。

 実は、あまりブログを書くのも考えものだな、と最近思うようになりました。正直、「露悪趣味」に思えてきたからです。この辺りの心境の変化はそのうち、おいおい書いていきます(笑)。

「不経済波及効果」(私の造語)

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

新型コロナの感染は収束せず、5月末まで緊急事態宣言が延長されました。

 一番困っているのは、小さな商店主でしょう。中でも飲食店、遊戯店、居酒屋、バー、クラブ…。いや、百貨店も、街の惣菜屋さんも、玩具店も、本屋さんも、大っぴろげに営業できるスーパー以外はどこもかしこも営業自粛で困っています。

 何処かの国のように確実に休業補償でもしてくれれば、何の心配もないのですが。

上の写真は、東京・銀座の歌舞伎座の横にある小さな商店街にあるイタリア料理店の看板です。

今日、昼休みにランチをしに行く途中で見つけました。

2020年の春は、東京五輪を控え、世界中からの観光客で溢れ、店はてんやわんやで、予約で順番待ちになるはずだった…。しかし、現実はあまりにも過酷。雇用を失った彼らは何処に行って、これから何をしていくのでしょうか?

 ランチは、いつも行く昼はランチ定食をやっている馴染みの居酒屋のW。若い、とは言っても40歳前後のご主人は「今月いっぱいなら、ギリギリ何とかって感じですかねえ。家賃や電気ガス水道代もありますが、精神的な疲れの方が大きいですね。我々だけでなく、銀座の酒屋さんは、バー、クラブなどの業務用相手に商売してるので、今は売上が激減して危ないところもあるみたいですよ」と、そっと教えてくれました。

「不経済波及効果」といったところでしょうか。

「政府は財閥の出張所たる商事会社」とは血盟団事件の池袋被告もよく言ったものでした=立花隆著「天皇と東大」

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 相変わらず、立花隆著「天皇と東大」(文春文庫)第2巻「激突する右翼と左翼」を読んでいます。

 後半の大部分は、血盟団事件に記述が割かれています。私自身は、これまで昭和史に関する書籍だけは読み込んできたので、特に驚くような、自分自身が知らなかった新事実はなかったのですが、色々な繋がりが分かり、点と点がつながって線になった感じです。

 例えば、戦前に「右翼」と呼ばれた国家主義者たちは、玄洋社の頭山満と東京帝大教授の上杉慎吉を軸につながりがあった、つまり、面識があったり、話し合う機会があったり、結社をつくったりしていたということです。当たり前と言えば、当たり前の話なのですが。

 血盟団事件の首魁井上日召は、前橋中学時代に、あの高畠素之と同級生だったことから、中学時代(とは言っても旧制中学ですよ)にマルクスやエンゲルを読んでいたといいます。高畠素之は、前回も書きましたが、日本で初めてマルクスの「資本論」を完訳した人で、後に「右翼」の国家社会主義者に転向して上杉慎吉と経綸学盟を結成しています。

 井上日召自身も大正15年に、上杉慎吉、赤尾敏、頭山満らがつくった国家主義団体「建国会」(建国祭を提唱し、共産党撲滅、天皇政治の確立を叫ぶ)に参加しています。この運動には、井上は、建国祭のお祭り騒ぎに嫌気がさして、ほどなくして離れ、仏道の修行を深めるために沼津の松陰寺に入り、禅宗の高僧山本玄峰に師事したというのです。これはすっかり忘れていたことで、聊か興味深かったです。

  山本玄峰といえば、東大新人会から日本共産党再建書記長になった田中清玄(1906〜93年)を、逮捕されて11年間の入獄後に「保証人」のように引き受けた臨済宗の怪僧です。大須賀瑞夫インタビュー「田中清玄自伝」によると、山本玄峰は、共産主義から天皇主義に転向して下獄した田中清玄をつかって、昭和天皇と極秘に面会させたり、鈴木貫太郎首相に無条件降伏を進言させたりしたといいます。

 昭和初期には、浜口雄幸首相狙撃事件、三月事件、十月事件、血盟団事件、五.一五事件、二.二六事件など右翼や軍部によるテロやクーデタ未遂事件が相次ぎます。その社会的背景には、ロシア革命に影響を受けた左翼による政府転覆の恐れ、それに反発する「国体護持」が大命題の右翼の台頭がありますが、金融恐慌による不景気や東北冷害などによる娘の身売り、そして何よりも地主や資本家ら特権階級による搾取に対する反感反発がありました。右翼も左翼も、華族や高級軍人や財閥や政党政治を批判していました。(立花氏は「当時の極右と極左は、天皇をかつぐかどうかの一点を除くと、心情的にはかなり近いところにいたのである」(416ページ)と断言しています)

 私は不勉強ですから、地主や資本家批判なら分かりますが、つい数年前まで、何で昭和初期の右翼も左翼もこぞって政党政治を糾弾するのかよく分かっていませんでした。でも、当時のインテリにとっては、全く自明の理だったんですね。

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 血盟団事件の学生リーダー池袋正釟郎(東京帝大文学部東洋史科)は公判で次のようなことを供述しています。

 厳密に言へば、(元老の)西園寺公望が首相を任命するに非ず、実は政党の消長の鍵を握る三井三菱の財閥が任命するやうなものであります。されば現代の政治家は三井三菱の番頭であり、政府は財閥の出張所たる商事会社であり、国策は商策であり、政治は商売であります、…西園寺はじめ、牧野(伸顕)や鈴木(貫太郎)侍従長の元老重臣は財閥政党に結託して一身の利害のみを顧慮して、右の措置を敢えて取らず、常に腐敗堕落したる政党政治家のみを推薦して、上聖明を覆い奉り、下人民を失望せしめて居るのであります、ここに於いて此れ等元老重臣を除き、君側を清める必要があります。

 このように、当時のインテリ学生にとっては、憲政会が三菱と政友会が三井と結託していることは公然の秘密ではなく、自明の理だったんですね。それにしても、「政府は商事会社」とはうまいこと言ったものです。

 そして、明治時代から、政界での汚職や疑獄事件は絶えることなく、血盟団は、昭和初期に起きたさまざまな疑獄事件を糾弾しています。室伏哲郎著「実録 日本汚職史」(ちくま文庫)にもあまり出てこなかったので、ここに再録しますが、小川平吉・前鉄道相による五私鉄疑獄、小橋一太・文部相による越後鉄道疑獄、山梨半造・朝鮮総督による朝鮮総督府疑獄、天岡直嘉・前賞勲局総裁による売勲疑獄。そして何よりも、池袋らが糾弾したのは、田中義一・陸軍大将(後の首相)が政界進出する当たり、神戸の億万長者・乾(いぬい)新兵衛から300万円の政治資金を受けた疑獄事件です。田中は、自分が政権を握ったら乾を男爵にするとともに、満洲に利権を与え、仲介者に300万円の1割を報酬として与える約束をします。ところが、田中は政権獲得後も仲介者に一銭も払わなかったので、怒った仲介者が訴訟を起こしたことからコトが明るみに出たといいます。漫才みたいな話ですが、当時はそれほど政界は腐敗していたのですね。

 とはいえ、現代日本人の中で、政党政治を批判する人は皆無でしょう。誰一人、自民党と大財閥との結託を糾弾する人はおりません。その代わり、血気盛んな青年将校も、テロに走る若者もいなくなりましたが…。何と言っても、海の向こうの大国では、「政府が商事会社」どころか、不動産王を大統領に選出するぐらいですからね。昭和初期の事件に関与した人たちが今の社会を見たら驚いて腰を抜かすことでしょう。

【追記】

・昭和7年(1932年)2月〜3月に起きた血盟団事件とそれに続く5月の五・一五事件で、日本の政党内閣の時代は終わり、これ以後、軍人内閣ないし軍部と妥協した内閣が続く。

・五・一五事件で無期懲役の判決を受けた農本主義者の橘孝三郎・愛郷塾塾長は、立花隆氏(本名橘隆志)の父の従兄に当たり、立花氏が子どもの頃会ったことがあるが、本に埋もれるようにして生活していた白髪の老人という記憶しかないという。

・血盟団グループと五・一五事件の海軍青年将校らに最も影響を与えた精神的支柱ともいうべき理論家は権藤成卿だった。権藤は、日本ファシズムの急進的指導者というより、農本主義の反国家・反資本主義、反都会中心主義、郷土主義者だった。黒竜会にも参加し、日本の政財官界だけでなく、中国革命の孫文ら中国人や朝鮮独立運動家らとも親しく幅広い人脈もあった。主著「自治民範」「南淵書」。

権藤家は、代々久留米藩の藩医を務めた家系。権藤成卿の実弟震二は、東京日日新聞、二六新報記者を務め、日本電報通信社を設立した。

以上 第2巻を読了。

日本の右翼思想は左翼的ではないか?=立花隆著「天皇と東大」第2巻「激突する右翼と左翼」

長い連休の自宅自粛の中、相変わらず立花隆著「天皇と東大」(文春文庫)を読んでいます。著者が「文庫版のためのはしがき」にも書いていますが、著者が考える昭和初期の最大の問題点として、どのようにして右翼超国家主義者たちが、日本全体を乗っ取ってしまようようなところまで一挙に行けたか、ということでした。それなのに、これまで日本の多くの左翼歴史家たちは、右翼をただの悪者として描き、その心情まで描かなかったので、あの時代になぜあそこまで天皇中心主義に支配されることになったかよく分からなかったといいます。

 それなら、ということで、著者が7年間かけて調べ上げて書いたのがこの本で、確かに、歴史に埋もれていた右翼の系譜が事細かく描かれ、私も初めて知ることが多かったです。

 私が今読んでいるのは、第2巻の「激突する右翼と左翼」ですが、語弊を怖れず簡単な図式にすれば、「左翼」大正デモクラシーの旗手、吉野作造教授(東大新人会)対「右翼」天皇中心の国家主義者上杉慎吉教授(東大・興国同志会)との激突です。

 吉野作造の有名な民本主義は、天皇制に手を付けず、できる限り議会中心の政治制度に近づけていこうというもので、憲政護憲運動や普選獲得運動に結び付きます。吉野の指導の下で生まれた東京帝大の「新人会」は、過激な社会主義や武闘派田中清玄のような暴力的な共産主義のイメージが強かったのですが、実は、設立当初は、何ら激烈ではない穏健な運動だったことがこの本で知りました。

 新人会が生まれた社会的背景には、労働争議や小作争議が激化し、クロポトキン(無政府共産主義)を紹介した森戸事件があり、米騒動があり、その全国規模の騒動に関連して寺内内閣の責任を追及した関西記者大会での朝日新聞による「白虹事件」があり、それに怒った右翼団体浪人会による村山龍平・朝日新聞社長への暴行襲撃事件があり、そして、この襲撃した浪人会と吉野作造との公開対決討論会があり…と全部つながっていたことには驚かされました。民本主義も米騒動も白虹事件も個別にはそれぞれ熟知しているつもりでしたが、こんな繋がりがあったことまでは知りませんでしたね。

 一方の興国同志会(1919年)は、この新人会に対抗する形で、危機意識を持った国家主義者上杉慎吉によって結成されたものでした。(その前に「木曜会」=1916年があり、同志会解体分裂後は、七生会などに発展)。この上杉慎吉は伝説的な大秀才で、福井県生まれで、金沢の四高を経て、東京帝大法科大学では成績抜群で首席特待生。明治36年に卒業するとすぐ助教授任命という前代未聞の大抜擢で、独ハイデルベルク大学に3年間留学帰国後は、憲法講座の担当教授を昭和4年に52歳で死去するまで20年間務めた人でした。(上杉教授は、象牙の塔にとじ込まらない「行動する学者」で、明治天皇崩御後、日本最大の天下無敵の最高権力者となった山縣有朋に接近し、森戸事件の処分を進言した可能性が高いことが、「原敬日記」などを通して明らかになります)

 上杉博士の指導を受けた興国同志会の主要メンバーには、後に神兵隊事件(昭和8年のクーデタ未遂事件)の総帥・天野辰夫や滝川事件や天皇機関説問題の火付け役の急先鋒となった蓑田胸喜がいたことは有名ですが、私も知りませんでしたが、安倍首相の祖父に当たる岸信介元首相(学生時代は成績優秀で、後の民法学者我妻栄といつもトップを争い、上杉教授から後継者として大学に残るよう言われたが、政官界に出るつもりだったので断った。岸は上杉を離れて北一輝に接近)もメンバーだったことがあり、陽明学者で年号「平成」の名付け親として知られる安岡正篤も上杉の教え子だったといいます。

緊急事態宣言下の有楽町駅近

 私は、左翼とか右翼とかいう、フランス革命後の議会で占めた席に過ぎないイデオロギー区別は適切ではない、と常々思っていたのですが、この本を読むとその思いを強くしました。

 例えば、日本で初めてマルクスの「資本論」を完訳(1924年)した高畠素之は、もともと堺利彦の売文社によっていた「左翼」の社会主義者でしたが、堺と袂を分かち、「右翼」の上杉慎吉と手を組み、国家社会主義の指導者になるのです。

 立花氏はこう書きます。

 天皇中心の国粋的国家主義者である上杉慎吉と高畠素之が組んだことによって、日本の国家社会主義は天皇中心主義になり、日本の国家主義は社会主義の色彩を帯びたものが主流になっていくのである。…北一輝の「日本改造法案大綱」も、改造内容は独特の社会主義なのである。つまり、日本の国家革新運動は「二つの源流」ともども天皇中心主義で、しかも同時に社会主義的内容を持っているという世界でも独特な右翼思想だったのである。それは、当時の国民的欲求不満の対象であった特権階級的権力者全体(元老、顕官、政党政治家、財閥、華族)を打倒して、万民平等の公平公正な社会を実現したいという革命思想だった。天皇中心主義者のいう「一視同仁」とは、天皇の目からすれば全ての国民(華族も軍人も含めて)がひとしなみに見えるということで、究極の平等思想(天皇以外は全て平等。天皇は神だから別格)なのである。(120ページ)

 これでは、フランス人から見れば、日本の右翼は、左翼思想になってしまいますね。

 「右翼」の興国同志会の分裂後の流れに「国本社」があります。これは、森戸事件で森戸を激しく非難した弁護士の竹内賀久治(後に法政大学学長)と興国同志会の太田耕造(後に弁護士、平沼内閣書記官長などを歴任し、戦後は亜細亜大学初代学長)が1921年1月に発行した機関誌「国本」が発展し、1924年に平沼騏一郎(検事総長、司法大臣などを歴任。その後首相も)を会長として設立した財団法人です。最盛期は全国に数十カ所の支部と11万人の会員を擁し、「日本のファッショの総本山」とも言われました。

 国本社の副会長は、日清・日露戦争の英雄・東郷平八郎と元東京帝大総長の山川健次郎、理事には、宇垣一成、荒木貞夫、小磯国昭といった軍人から、「思想検察のドン」として恐れられた塩野季彦や当時の日本の検察界を代表する小原直(後に内務相や法相など歴任)、三井の「総帥」で、後に日銀総裁、大蔵相なども歴任した池田成彬まで名前を連ねていたということですから、政財官界から支持され、かなりの影響力を持っていたことが分かります。

 まだ、書きたいことがあるのですが、今日は茲まで。

 ただ、一つ、我ながら「嫌な性格」ですが、133ページで間違いを発見してしまいました。上の写真の左下の和服の男性が「上杉慎吉」となっていますが、明らかに、血盟団事件を起こした東京帝大生だった「四元義隆」です。この本は、2012年12月10日の初版ですから、その後の増刷で、恐らく、差し替え訂正されていることでしょうが、あの偉大な立花隆先生でもこんな間違いをされるとは驚きです。この本は、鋳造に失敗した貨幣や印刷ミスした紙幣のように高価で売買されるかもしれません。(四元義隆氏は戦後、中曽根首相、細川首相らのブレーンとなり、政界のフィクサーとしても知られます)

 いや、自分のブログの古い記事のミスを指摘されれば、色をなすというのに、この違いは何なんでしょうかねえ。我ながら…。