「慶喜が敵前逃亡しなければ」「孝明天皇が急死しなければ」「錦の御旗が偽造されなければ」=松田修一著「斗南藩ー泣血の記ー」

(7月13日のつづき)

 松田修一著「斗南藩ー泣血の記ー」(東奥日報社)が異色の幕末史となっているのは、これまで「薩長史観」で洗脳に近い形で教え込まれていた常識や史実が、百八十度、ひっくり返ってしまうことです。

 例えば、「松下村塾」を開き、維新の原動力となり、精神的支柱になった長州藩の吉田松陰のことです。偉人です。神格化され、明治になって本当に神になって松陰神社(東京都世田谷区)に祀られた人です。吉田松陰は安政の大獄で刑死となりましたが、文久3年に高杉晋作、伊藤俊輔(博文)らによって、毛利藩主の別邸に改葬され、明治15年になって、そこにそのまま松陰神社が建てられたのです。

 同神社の由緒では、「吉田松陰先生は、世界の中の日本の歩むべき道を自分自身が先頭となり、至誠、真心が人間を動かす世界を夢見て弟子たちと共に学び教えていきました。新しい時代の息吹が松下村塾の中に渦巻き、次の時代を背負う多くの俊才、逸材を生み出したことは、広く世界の人々が讃える所であります」などと稀に見る立派な教育者で、思想家となっております。しかし、松田氏の「斗南藩」では、彼は、黒船のペリー提督や南紀派中心人物である水野忠央(ただなか=紀州藩江戸定府家老)、老中間部詮勝(まなべ・あきかつ=越前鯖江藩主)ら要人暗殺を企てて若者を煽動したテロリストだったと書かれています。

 松田氏は「神社の創建以降、松陰の顕彰に最も熱心だったのは、山縣(有朋)だった。…軍拡にまい進した『日本陸軍』の父である。対外戦争の時代、国家が『愛国』『殉国』の権化としての松陰像を称揚していったが、まさか、暗殺、テロで政権に歯向かおうとした人を子どもに修身で教えるわけにはいかない。松陰の負の横顔は隠され、軍国主義に都合のいい側面だけを利用したのである」と書いていますが、彼が参考にした文献は、萩博物館特別学芸員・一坂太郎著「吉田松陰ー久坂玄瑞が祭り上げた『英雄』」という本でした。萩の人が、地元の英雄を批判していたのです。松田氏は「松陰のお膝元の人が刊行したので、一坂氏に有形無形の圧力がかかるようになったという」ことまで明かしています。

 ということで、この「斗南藩」を読了しましたが、やはり、敗者からの視点で描かれているとはいえ、読んでいて、腹立たしくなったりして「切歯扼腕」状態でした。歴史に「イフ」はない、とはよく言われますが、(1)「鳥羽伏見の戦いの最中、もし徳川慶喜が、大坂城からわずかな側近だけを連れて逃げ出さなかったら」(2)「もし、孝明天皇が急死しなければ」(3)「もし、岩倉具視らが『錦の御旗』を偽造しなかったら」歴史は全く違ったものになっていたことでしょう。

 (1)については、「徳川慶喜が大坂城を脱走したのは慶応4年1月6日の夜9時ごろ。随行は松平容保(会津藩主)とその実弟松平定敬(桑名藩主)、老中板倉勝清ら数人。慶喜に『一緒に来い』と命じられた容保は、庭でも散歩するのかと思い、ちり紙も持たずに従ったという」。総大将が敵前逃亡してしまえば、前線の兵士は梯子を外された格好で、これで敗戦が決まったようなものです。

 (2)の35歳の若さで崩御された孝明天皇については、著者は岩倉具視を黒幕としたヒ素による毒殺説を支持しています。孝明天皇は、会津藩に対する信任が厚く、その証拠として本書では宸翰(しんかん=天皇の直筆の文書)まで掲載しています。反幕府の公家や薩長にとって、会津シンパの孝明天皇が邪魔だったのかもしれません。

(3)の「錦の御旗」が偽造だと知らずに、「賊軍」には与したくはないと、戊辰戦争の最中、土佐藩、淀藩(初代藩主稲葉正成の妻は三大将軍家光の乳母春日局)、津藩、彦根藩…と次々と官軍、実は薩長軍に寝返ってしまいます。畏るべし。

 その後、「朝敵」「賊軍」となって孤軍奮闘とした会津藩は、最期は有名な白虎隊の悲劇などがあり壊滅し、明治になって23万石の領地を没収されます。作物も碌に育たない火山灰地の北僻陸奥の極寒地3万石の斗南藩に追放されます。会津藩の表向きの石高は23万石ですが、幕府預け領などを合わせ、一説には67万9000石だったといいます。当然のことながら、多くの餓死者を出し、漁業や林業、そして酪農業などで活路を見出していくのです。

 いずれにせよ、「維新の英傑」と言われている西郷隆盛も大久保利通も木戸孝允も「五百円札になった」岩倉具視も本書では「善人」として描かれていません。歴史にイフがなく、敗者側からの歴史では、どうしても、「たら」「れば」の話になってしまいますが、これまで、「定説」となっていた誤謬を多くの史料・資料から訂正していることは本書の功績でしょう。

蛇足ながら、著者の松田氏が特別論説編集委員を務める東奥日報社につながる青森県初の言論機関「北斗新聞」を明治10年に創刊したのは、小川渉という斗南藩士だった人でした。

また、秋篠宮紀子妃は、会津藩士で斗南藩に移植し、大阪市長などを歴任した池上四郎の曾孫に当たるといいます。となると、将来、天皇になられる悠仁さまも、会津・斗南(藩士)の子孫になります、と著者は最後に結んでいました。

 この本を贈ってくれた畏友小島君には感謝申し上げます。

「四馬路」のロールキャベツは本当に旨かった

 テレビのグルメドラマでやっていた東京・銀座のお店にランチに行って来ました。「銀座は私の庭」と日頃から自称していますからね(笑)。

 お店と言っても、バーで、お昼に「昼食堂」と称してランチをやっている「四馬路」という店です。しかも、ランチと言っても、「ロールキャベツ定食」ぐらい。そして、銀座の泰明小学校の近くにありますが、とても分かりにくい場所で、狭い分かりにくい路地を入って、古い旧いビルの地下にやっとそのお店はありました。

 青髭の館のようなしっかりとして分厚い出入口の木扉なので、普段はとても入りにくいでしょうが、コロナ禍で、この扉は開いていたのですんなり入れました。

 「本当にあったんだあ…」とカウンター席に座ると、私も思わず安堵して本音を漏らしてしまいました。

 グルメドラマでは、ママさん役を室井滋さんが演っていて、とても、大袈裟な演技で、「そんな人いるわけない」と思っていたら、本物のママさんは、室井さん以上に大袈裟な方で、底抜けに明るい方でした。

 店は6人ぐらいが座れるカウンターと二つのテーブル席があるこじんまりとした感じで、奥にはピアノがありました。夜はジャズの生演奏でもあるのかもしれません。結構堅い本が沢山置いてあり、聞いてみると「お客さんが置いていってくれるので、1冊は自分で買って置いてます」とママさんは応えてくれました。常連客が結構いるらしく、壁に掛かった絵や版画は、お客さんが置いてくださったものだとか。

 肝心のロールキャベツは、ドラマでは主役の松重豊さんが、異常なほど大袈裟な素振りで、美味しそうに食べていましたから、「…んなわけ…」と心の中で呟いて見てましたが、実際に賞味してみると、本当に「美味い!」。ヨーグルトを隠し味にした絶品でした。豆腐とワカメのお味噌汁と大根と人参のなますも付いています。1000円也。

 でも、毎日は食べられませんから、月に1回ぐらいは食べに来ようかなあと思いました。銀座なのに庶民的な店なので、夜、飲みに来てもいいかもしれません。

「斗南藩ー泣血の記ー」(東奥日報社)を読んで

  高校時代、クラスで一番の人気者の小島君が本を贈ってくれました。松田修一著「斗南藩ー泣血の記ー」(東奥日報社、2020年3月20日初版)という本です。彼は現在、青森県で医療関係の仕事に従事しています。関東出身だと思いますが、すっかり「東北人」になりきり、愛郷心も半端じゃありません。

 高校時代の彼は、休み時間になると、いつも周囲から可愛がられ、口を尖らして「やめろよ、やめろよ」と大声を出していたことから、「タコ」と綽名を付けられていました。森崎君が付けたと思います。

 そんな彼も今では大先生です。彼とは、(仕方なく始めた)フェイスブックで数十年ぶりにつながり、FBを通じて、小生のブログを彼は愛読してくれているらしく、今回も「本を差し上げます。何もブログにアップしてもらうつもりはありません。売り上げに貢献したいだけです」とのメッセージ付きで送ってくれました。彼はジャーナリストと同じように、いやそれ以上に日々のニュースや歴史に関心があるようです。青森県を代表する県紙東奥日報を応援する気持ちが大きいのです。

 彼がこの本を贈ってくれたのは、恐らく、私が2018年2月25日にこのブログで書いた「『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』は人類必読書ではないでせうか」を読んでくれたせいかもしれません。実は、私もこの本で初めて「斗南藩」の存在を知りました。

 幕末、「朝敵」「賊軍」となった会津藩は、23万石の会津の地を没収され、作物も碌に育たない北僻の陸奥の極寒地3万石の斗南藩に追放されるのです。会津藩士で、後に陸軍大将になる柴五郎について書かれた前掲の「ある明治人の記録」の中で、

「柴家は300石の家禄であったが、斗南では藩からわずかな米が支給されるだけで、到底足りない。…馬に食べさせる雑穀など食べられるものは何でも口にした。…塩漬けにした野良犬を20日間も食べ続けたこともあった。最初は喉を通らなかったが、父親から『武士は戦場で何でも食べるものだ。会津の武士が餓死したとなれば、薩長の下郎どもに笑われるぞ』と言われて我慢して口にした。住まいの小屋に畳はなく、板敷きに稾を積んで筵を敷いた。破れた障子には、米俵を縄で縛って風を防ぐ。陸奥湾から吹き付ける寒風で、炉辺でも食べ物は凍りつく。炉辺で稾に潜って寝るが、五郎は熱病にかかって40日も立つことができず、髪の毛が抜けて、一時はどうなるか分からない状態になった。…」

 とまで書いておりました。そこまで悲惨な生活を強いられたのでした。

 藩祖保科正之(二代将軍秀忠の嫡外子で、三代将軍家光の異母弟)以来、天皇に対する尊崇の念が篤かった会津藩が、何故に「朝敵」の汚名を着せられなければならなかったのかー。そんな不条理を少しでも解明して、名誉を回復したい、といった義憤が、東北人である著者にこの本を書かかせるきっかけになったようです。藩祖保科正之は、四代将軍家綱の「将軍補佐役」として幕政の中心に就き、特に、明暦の大火で江戸市中が灰燼に帰した際、江戸城天守を再建せず、町の復興を最優先したことで名を馳せた人物でもあります。

 歴史のほとんどは「勝者」側から描かれたものです。となると、この本は、「敗者」側から描かれた歴史ということになります。そして、歴史というものは、往々にして、敗者側から描かれた方が誇張や虚栄心から離れた真実に近いものが描かれるものです。

 2年前のブログにも書きましたが、これほど会津藩が賊軍の汚名を着せられたのは、藩主松平容保(かたもり)が京都守護職に就き、新撰組などを誕生させ、「池田屋事件」や禁門の変などで、長州藩士や浪士を数多く殺害したことが遠因だと言われています。長州藩士桂小五郎はその復讐心に燃えた急先鋒で、宿敵会津藩の抹殺を目論んでいたといわれます。

 となると、会津藩が京都守護職に就かなければ、これほど長州からの恨みを買わなかったことになりますが、本書では、若き藩主容保が、何度もかたくなに固辞していた京都守護職を「押し付けた」のは、越前藩主で、政事総裁として幕政に参加していた松平春嶽だったことを明かしています。

 会津藩主松平容保は、もともと美濃の高須藩主松平義建の六男(庶子)でした。高須藩は、御三家尾張藩の支藩だったということもあり、容保の兄慶勝は尾張藩主、茂徳(もちなが)は高須藩主、尾張藩主、一橋家当主、弟の定敬(さだあき)は桑名藩主となり、「高須四兄弟」と呼ばれました。特に、末弟定敬は、京都所司代に任命され、京都守護職の兄・容保とともに京都の治安維持役を任されます。これが後に、薩長土肥の志士たちから「会津、桑名憎し」との怨嗟につながるのです。

 桑名藩は、徳川家康譜代の重臣で、四天王の一人と呼ばれた本多忠勝が立藩したので、徳川政権に最も近い藩の一つだと知っていましたが、幕末になって、会津と桑名にこのような関係があったとは…。色々と勉強になりました。

 幕末は、日本史の中でも人気が高く関連書も多く出版されています。しかし、殆どが勝者側の勤王の志士が主人公で、会津、桑名など時代遅れの先見の明のない無学な田舎侍扱いです。

 本書を読めば、そうでなかったことがよく分かります(つづく)。

他人から嫌われたい人は天才かもしれない

日米のプロ野球で大活躍したイチロー元選手が出演しているユーチューブの動画が大好評で、6月23日に公開されて2週間余りで再生回数が1800万回を超えたそうです。

 見てみると、半端じゃない生活信条と人生哲学の持ち主で、一芸に秀でた天才というのは、こういうものかと思わせます。

 私はかつてプロ野球担当記者をやったことがありますが、幸か不幸か、彼を取材したことはありません。阪急が身売りしたばかりのオリックス球団(上田利治監督)を担当したことがありますが、イチロー選手がまだ入団する前の話でしたからね。その後、彼がとてつもない記録を打ち立てるようになり、米大リーグに渡っても、全米記録を更新するなど日々、彼の活躍ぶりが報道されました。

 ただ、彼の評判に反比例して、「取材しにくい」とか「生意気で高飛車だ」とかいった話を後輩のスポーツ記者から聞くようになりました。中でも大リーグ時代は、仲の良いお気に入りの記者としか口をきかず、試合が終われば、ロッカールームにはそのお気に入りの共同通信の記者だけが入って話を聞き、ライバル記者は、彼の話をまた聞きするしかなかったという話も聞いたことがあります。ライバル記者たちは屈辱的だったことでしょう。ですから、少なからずの記者たちは彼を嫌っていたか、反感を抱いていたと思われます。相手にしないで済めばいいのですが、実力を伴っているのでどうしても追いかけなければなりません。仕方がない。仕事ですから。

 私も彼の担当記者でなくてよかったと神に感謝したい気持ちになりましたが、先程の動画で、「他人から嫌われるのは怖くないですか?」との質問に、46歳のイチロー氏は「僕は他人から嫌われるの大好きなんです。その人たち僕に対するエネルギー半端じゃないでしょう。興味がないことが一番辛いですよ、僕にとって。無関心が一番辛いですね。大嫌いと言われればゾクゾクしますよ」などと応えていました。

 なるほど、ほとんどの人は、まあ、99.99%の人は、他人から好かれようとして生きているはずです。いや、家族でも友人知人でも、仕事関係でも、他人から好かれるために生きているといっても過言ではないでしょう。そのために、嘘をついたり、おべっかを使ったり、心にもないことをしゃべったりします。どこかの元大臣さんなんかは、党から貰ったお金まで渡したりしますからね。

 イチロー氏は、他人から嫌われることが分かっていて、現役時代、あのような行動を取っていたのかもしれません。他人からの邪気をエネルギーに代えていたのかもしれません。いや、確信的に好きでやっていたのかもしれません。でも、そういうことが出来る人はほとんどいません。第一、実力を伴っていなければなりません。他人から嫌われれば、皆離れていきすから、単なる変人で終わってしまいますからね。となると、イチロー元選手のような人間は、先程の確率で言えば、残りの0.01%ぐらいでしょう。ちょうど、天才と呼ばれる人たちの比率に合うんじゃないでしょうか(笑)。

  30年以上昔のプロ野球担当記者時代を振り返ると、私にも色んな思い出があります。阪神タイガースの担当になった時、大阪の会社の先輩デスク(故人)から「阪神の悪口書いたら、ワシがしょーちせーへんからな」と真顔で恫喝された時は、背筋が凍りそうになりました。そう言われてもねえ…。試合中に怠慢行為をしたり、采配ミスしたりしたら書かざるを得ないでしょう。「こっちは仕事なので仕方なくやっているだけで、勝敗なんぞ興味ないわい」と心の中で反発しましたけどね。(その後、仕事を離れてからはプロ野球は一切見なくなりました)

 そして、とても取材しやすく、非常に好感が持てる選手に限って、1軍と2軍を行ったり来たりして、一流選手になれませんでした。逆に、大変、言ってみれば傲岸不遜で、記者など「人でなし」などと心の中で思っているような選手で、あまり取材に応じない選手に限って超一流で良い記録を残していました。誰とは言いませんけど、これはプロ野球の世界だけでなく、あらゆるスポーツ、いや、あらゆる業界にも言えることでしょう。

 私も、せめて、「他人から嫌われるのは大好き」と公言できるくらい神経が図太くなりたいと思っていますが、煩悩具足の凡夫ですから、所詮、無理でしょうね。

マツタケも人類も絶滅危惧種?

 今朝の朝刊各紙で、「マツタケが絶滅危惧種として初めて指定された」という記事を読み、何か、「偶然の一致」の既視感を味わいました。

 私自身、高級食材マツタケとは、「縁なき衆生」(誤用)ではありますが、絶滅してしまう、というニュアンスにビクッと反応してしまったのです。

 というのも、昨日の日経夕刊の記事で、生物学者の池田清彦氏が人類の滅亡を予想していたからです。池田氏によると、これまで地球上に存在した生物の99%は絶滅したといいます。実に99%ですよ!! ほとんど全部じゃないですか。絶滅種といえば、すぐアンモナイトとか恐竜とか思い浮かびます。人類も700万年前に誕生し多くの種類がいましたが、ほとんど絶滅し、我々ホモサピエンスは人類最後の一種だといいます。記事には書いていませんでしたが、絶滅した人類とは北京原人とかネアンデルタール人とかのことでしょう。いずれにせよ、池田氏は「我々ホモサピエンスが遠からず絶滅するのは自明だと思います」と発言しています。

 マツタケどころの話ではありませんね。

 人類が滅亡したらどうなるんでしょうか?

 人類が生み出したあらゆるものー理性も知性も、科学も、歴史も、文明も芸術もなくなるということでしょうか?なくなることはないでしょうね。せめて化石として残るでしょう。書物やDVDとして残っても、それを理解する人類がいなくなったらどうなるか?といった方が問題です。池田氏は、一部の金持ちが自分の脳のシステムをAIにコピーして、不老不死のAI人間が取って代わると「予言」していますが、それって、人類なんでしょうか?

 遠からず、人類滅亡の日、その時は、老若男女、富裕層も貧困層も区別なく、権力者も弱者も分け隔てなく一様に滅びて、財産も名誉も勲章も、そして名声も全く意味がなくなると私なんか思っています。それじゃあ、生きている意味あるの? と皆さんは訝しがることでしょう。

 人生は無意味と言えば無意味だし、宗教や哲学で意味付けしようとすれば、それもできる、としか言いようがありません。

 不安や恐怖に駆られるのも人間だし、死亡率100%と「達観」できるのも人間です。

 でも、絶滅ともなると、それすら越えてしまいますね。はっきり言って、人類もマツタケと同じように、「絶滅危惧種」に指定してもおかしくないでしょう。これだけパンデミックが蔓延り、地球環境が悪化すれば。(40億年以上前から生存しているウイルスは、コウモリでもハクビシンでも生物に取りつくわけですから、絶滅することなく不滅なんでしょうか?)

 別に皆さんを不安や恐怖に陥れる目的で、こんな一文を書いたわけではありません。これだけ壮大な話になると、小さな、細々(こまごま)とした日々の悩みなんか吹き飛びませんか?

 人智を遥かに超え、私なんか、微苦笑さえ浮かびます。厭世観や不条理観に浸っていても、意味もないし、報われることもないからです。

 「だけども問題は今日の雨 傘がない」(井上陽水)

必要でないのかもしれない=コロナ後を見つめてーマイナンバーカードが怪しい

 昨日、大型書店に行ったところ、会計の際に「袋は有料ですが…」と言われてしまいました。えっ!?です。7月1日からスーパーやコンビニで、レジ袋が有料になるという話は聞いてましたが、本屋さんまで有料ですか…。3冊、締めて5000円以上もの「お買い上げ」でしたのに…。

 でも、考えてみれば、袋なんて必要なかったのかもしれません。欧米の書店なんか、丁寧に包装してくれたり、袋に入れたりしてくれるところは滅多にありませんでした。日本だけがバカ丁寧だったのかもしれません。

 昨日はこのブログで、経路依存性(偶然に起こったことについて、因果関係を見い出して必然だと思い込んでしまう人間の性)のことを書きましたが、考えてみれば、何でも習慣的に必要だと思い込んでいただけで、本来は必要でなかったのかもしれません。

 特にコロナ禍で自粛を余儀なくされたりすると、今まで絶対に必要だと思っていたことは、大して必要ではなく、単なる商業資本主義に洗脳されていただけだったことに気付かされます。

銀座のスペイン料理店

 例えば、こんなことを書けば、アパレル業界やファッション業界や出版業界の人に怒られ、「商売妨害」と訴えられるかもしれませんが、流行などいうものは、業界人が「今年のトレンドは紫」とか「今年はセシルカット(古い!)が流行の兆し」などと、作為的につくるもので、「流行に遅れたら大変だ」と焦る若者には必要かもしれませんが、それ以外の人には全く必要ではありません。(例えが悪くてすみません。コロナ禍で、リモートになり、たまたま、リンカーン大統領も愛用したブルックス・ブラザーズ破綻のニュースを聞いたもので)

 そう言えば、先日、「マイナンバーカード」の更新のお知らせが届きました。5年経過したから、カードは使い物にならなくなるぞ、というのです。更新するには、市役所、区役所の担当窓口に会社を休んで平日に行かなければならないというのです。「マイナンバー」は、会社から半ば強制的に登録させられましたが、カードとなると現在、全国の普及率はわずか16%だというのです。

 私の周囲に聞いても、カードまで申請している人はほとんどいなく、「カードは下請けの下請けに作らせて、中国の子会社で製作したりしているから、個人情報が中国当局に筒抜け。お前みたい奴は、中国に入国できなくなるだろう」なぞと脅す奴までいました。もちろん、その人はマイナンバー登録してもカードまで作っていません。

 今、マイナンバーカードを作れば、「5000円ポイント還元」のキャンペーンをやっているようですが、そこまでやるとは! 実に怪しいですねえ。個人情報を根こそぎ採取して、他人の財産を監視するのにこんな簡単な手段はありませんからね。カードのメリットはパスポートを取る際の本人証明になる、とか書いてますが、そんなもんなくたって、自動車免許証や保険証があれば取れますからね。だから16%しか普及しないんですよ。しかも、「隗より始めよ」であるはずの国家公務員のカード取得率でさえ25%(2019年10月末時点)なんですからね!国家公務員は日本で一番賢い人たちですから、彼らが取得しない、ということは、何か裏があるということなのでしょう。

 マイナンバーカードも必要ないのかもしれません。

ランチ1250円

 経路依存性を突き詰めていくと、本当に、衣食住の最低限と病院と薬局さえあれば、他のものは必要ではないのかもしれません。それだけでなく、これまでの人生経験も教養も今後、何ら役に立たず、必要でないのかもしれません。

 さらには、家族も友人も必要でないのかもしれません。宗教も科学も経済学も必要ではないかもしれません。当然、SNSもブログも必要ないということになります。うーん、いやこの辺で止めておきましょう。このままでは、地獄への恐れも、極楽への願いまでも捨てた「捨聖」の一遍上人になってしまいそうですからね。

 ただ、コロナ禍で自粛を余儀なくされた芸術もスポーツもギャンブルも酒も、本来なければないで済んでしまうものかもしれません。でも、必要ないからこそ、逆に、人々は熱狂したり熱中したり、アイドルに貴重な時間やお金を捧げたりするのでしょう。ーということだけは付け加えておきます。

セレンディピティは経路依存性なのかなあ?

 先日、このブログで、お医者さんは、色んな症状や病気に名前を付ける名人だ、という話を書きましたが、お医者さんだけでなく、経済学者もそうですね。

 過日、テレビのドキュメント番組「シリーズ コロナ危機『グローバル経済 回復力の攻防戦』」を見ていたら、「経路依存性」なる用語が出てきました。ネットのウイキペディアでは、

 経路依存性(けいろいぞんせい)path dependenceとは、人々が任意の状況で直面する決定の集合が、過去の状況がもう関係なくなっているとしても、人々が過去にした決定や経験した出来事にどのように制限されているかについての説明である。

 ーなぞと小難しく書かれていますが、番組では「偶然に起こったことについて、因果関係を見い出して必然だと思い込んでしまう人間の性(さが)のこと」と説明してくれて、非常に納得しました。

 この用語が、どんな話の流れで出てきたかと言いますと、新型コロナの世界的蔓延で、不況となり、失業者が増大(米国では4000万人だとか)しているというのに、株価が値を取り戻し、わずか2カ月で昨年並みに回復し、今でも値上がりを続けている。それは、何故なのか?といった話の中で出てきたのです。

 結論的には、株価は実体経済を反映していない、といったものでしたが、新型コロナで需要が落ち込み、人々も消費を控えることになったことから、余ったお金は、将来の不安に備える意味でも貯蓄に回ることになった。米国では、FRBの政策で金利はゼロになり、銀行に預けても利子が付かないのなら、株でも買うか、といった動きが、株価上昇の原因の一つではないか、といった見方でした。(番組に出演していたノーベル経済賞受賞の米スティングリッツ氏も「私もゼロ金利なら、株に投資するね」と発言していました。また、独経済ジャーナリストのヘルマン氏は「実体経済で得られない利益を株に投資した」と発言していました。)

 人々が株に投資すれば、株価が上がる。上がれば、もっと株を買っておこうか、という心理が働く…。しかし、実体経済が伴わない株価上昇であることから、米大手投資銀行日本人初の部門トップである居松秀浩氏の口から「経路依存性」という言葉が飛び出してきたのです。つまり、今の株価は、偶然の重なりで値上がっているのに、そこに因果関係を見つけて、必然だと思い込んでいるという意味なのでしょう。

 なるほど。ケインズが言った「株価は美人投票みたいなものだ」といった言葉を思い出しました。(番組では、「経済学とは道徳学であり、自然科学ではない」というケインズの言葉も紹介していました)

 経路依存性の話を聞いて、10年以上前に日本でも一時期、爆破的に流行ったセレンディピティという言葉を思い出しました。「予測もしていなかった偶然によってもたらされた幸運」とか「幸運な偶然を手に入れる力」などという意味があるようですが、私の場合、「偶然によってもたらされた小さな幸せ」はあったかもしれませんが、どでかい幸運に恵まれることはありませんでしたね(笑)。

 セレンディピティも経路依存性なのかしら?

【お断り】

 記憶で書いたので、テレビ番組の内容を正確に反映したものではありません。悪しからず。番組では、トマス・セドラチェクさんという髭を生やしたチェコの銀行家が登場し、「考えてみれば、仕事なんて人為的につくられているんですよ」「あなたが生きていくためには私なんか必要がないでしょう」といった皮肉を込めた発言が、一番脳髄に残りました。

 このブログの読者の皆様も、生きていくためには、私なんか必要ないのです(笑)。

仏像とお経で仏教思想に触れる

高徳院阿弥陀如来坐像

 残りの人生、お城とともに、寺社仏閣巡りをすることを楽しみにして生きています。足腰がしっかりしているうちにあちこち回りたいのですが、段々しっかりしなくなってきたのが残念です(苦笑)。

 ところで、仏像を鑑賞すると仏さまの思想がよく分かりますーというのは、誰もが間違いやすいパラドックスです。

 その逆で、お経に書かれた仏さまの教えを忠実に再現したのが仏像だというのが正しいのです。とはいえ、我々は、仏像を通して、仏教を知り、救いを求めてお参りすれば、自然と頭(こうべ)が下がり、心が洗われます。これは、理知的ではなく、どちらかと言えば不可知的です。

 いずれにせよ、仏像は仏典を忠実に再現したものですから、「お決まり」があることを知っておかなければなりません。それさえ会得すれば、鑑賞の際に深みが増します。

 仏像には、大きく分けて4種類あります。

(1)如来=真理を得て悟りを開いた存在(釈迦如来など)

(2)菩薩=悟りを求めて修行の身(観音菩薩など)

(3)明王=如来の教えに従わない者を救済(不動明王など)

(4)=仏教に帰依した神々、守護神(梵天、四天王など)

また、仏教寺院に安置される「三尊像」にもお決まりがあります。三尊像とは、中央に如来を配置し、左右に脇侍と呼ばれる菩薩で固めます。

 釈迦如来像の場合、「陀羅尼集経(だらにじっきょう)」に従って、脇侍として、左に文殊菩薩(騎獅)像、右に普賢菩薩(騎象)像を配置します。そして、眷属(けんぞく=主尊に従って教えを広める手助けをする)として、阿修羅などの八部衆が控えます。

 「華厳経」最終章「入法界品」にはこの文殊と普賢が登場します。善財童子が、「智慧第一」の文殊菩薩の勧めに従って、延べ53人、全53カ所の善知識(仏道へと導いてくれる指導者)を訪ね歩き、最後に出会った普賢菩薩によってようやく悟りを得る話です。江戸時代の東海道は、この物語に因んで「五十三次」つくられたといいます。

 薬師如来像は、左に日光菩薩、右に月光(がっこう)菩薩を脇侍として配します。眷属は、伐折羅(ばさら)などの十二神将です。

 浄土教の阿弥陀如来像は、左に観音菩薩、右に勢至菩薩が脇侍です。日本人に最も馴染みが深い観音さまは、阿弥陀如来の脇侍だったんですね。来迎図でも描かれます。観音さまは、六道にも対応して、如意輪観音菩薩=天道、准胝(じゅんでい)観音菩薩、もしくは不空羂索観音菩薩=人間道、十一面観音菩薩=修羅道、馬頭観音菩薩=畜生道、千手観音菩薩=餓鬼道、聖観音菩薩=地獄道に当たります。

 華厳思想から生まれた毘盧遮那如来像には、左に虚空蔵菩薩、右に如意輪観音菩薩が脇侍として控えています。東大寺大仏殿もそういう配置になっていますが、私は、そこまで知らずにお参りしていました。

 と、ここまで読まれても、字面だけではよく分からないでしょう。私の場合、たまたま本屋さんで、釈徹宗監修「お経と仏像でわかる仏教入門」(宝島新書、2020年6月24日初版)を見つけて購入し、大変重宝しています。仏像などカラー写真が豊富に掲載され、色々と勉強になります。例えばー。

 極楽浄土と言えば、西方にあることは知っていましたが、それは阿弥陀さまの世界で、東方には浄瑠璃浄土があり、ここには病を癒してくれる薬師如来がおわします。人形浄瑠璃の浄瑠璃は、この浄瑠璃浄土からとったのでしょうか?

 56億7000万年後の未来に現れる弥勒如来は、兜率天浄土におられ、智慧を具現化し、物事に動じず迷いに打ち勝つ強い心を授けるといわれる阿閦(あしゅく)如来妙喜浄土におられるということです。浄土とは清浄国土、または清浄仏土の略で、ほかに、霊山浄土や十方浄土、天竺浄土、そして観音菩薩が降臨する補陀落(ふだらく)浄土などもありますが、浄土といえば、だんだん阿弥陀如来の西方浄土のことを指すようになったといいます。

 さて、私自身は、恐らく特定の教団の信徒や門徒や信者にはならないと思いますが、実は、寺社仏閣巡りをしながら、どの教団宗派が自分と阿吽の呼吸が合うか調べることも楽しみにしているのです。そのせいか、仏像や仏画を鑑賞するのも大好きです。西洋美術を鑑賞する際も、キリスト教の知識がないとさっぱり分からなかったので、そのために聖書をよく読んだものでした。

 仏教は何も、特定の信者のためだけにあるわけではなく、万人に開かれているはずです。私自身も煩悩具足の凡夫ですから、個人として、今後も寺院を参拝したり、仏教書に目を通すことは続けていきたいと思っています。

HSPとは何ぞや?神経過敏症?=そのうち和らぎますよ

ラファエロ WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 新聞や雑誌で、医療関係の記事を読んでいると、本当に色んな病名が出てきます。日常のわずかな刺激がきっかけで、顔面に激痛が生じる「三叉(さんさ)神経痛」、加齢により食事でむせたり食べこぼしたり、滑舌が悪くなったりする「オーラルフレイル」…等々。そんな時、「医者はちょっとしたことでも名前を付けることが好きだなあ」と傲慢にも思ってしまいます。

 しかし、病名が付くことによって、患者のモヤモヤが解決することがあります。原因不明の腰痛や腹痛、肩こり、眼痛、手足のしびれに襲われ、検査しても何も分からない時、医者から「それは、フレイルですよ」と言われれば、分かったような分からないような気分ですが、「嗚呼、俺はフレイルなんだ」と病名が分かっただけでも安心します。実際、「もう年なので、治しようがありませんよ」という意味なのかもしれませんけどね(笑)。

 そんな中、最近、「へー」と思ったのが、HSPという病気です。いや、病気や障害ではありません。HSPとは、Highly Sensitive Person(過度に繊細な人)の略でそういう体質、気質の人のことです。精神病理用語ではなく、心理学用語で、1990年代に米国のエレイン・アーロン博士が提唱したもので、人口の20%、つまり5人に1人の割合で見られるといいます。こういう人たちは、生まれつきストレスを処理する「扁桃体」が普通の人より活発で、不安や恐怖を感じ取りやすい性質を持ちます。

 つまり、異様に感受性が鋭く敏感な気質を持った人ということになります。昔言っていた神経質とか神経過敏症に近いかもしれません。

ヤブカンゾウ

 アーロン博士によると、HSPには四つの特性があります。

(1)行動処理の深さ Depth of processing=その場限りの快楽よりも真面目な生き方や哲学的ものに惹かれる、など。

(2)刺激に敏感で疲れやすい Overstimulation=人の些細な態度や言葉に傷つき忘れられない、など。

(3)人の気持ちに振り回されやすく共感しやすい Empathy and emotional responsiveness=人のちょっとした仕草や声音などに敏感で相手の機嫌が分かる、など。

(4)あらゆることに敏感 sensitivity to subtleties=寝る時、時計の音が気になり、強い光が苦手など。

 いやはや、確かにこういう人たちは、単に生きているだけでつらいし、疲れますよね。HSPは病気ではありませんが、こういう気質の人は、鬱病や双極性障害、統合失調症などの精神障害になりやすいと言われます。

 可哀そうですね。と言っても我が身にはね返ってきます。

 特に若い頃の私は、これら四つの特性に全て当てはまりました。(1)→とにかく、誠実に正直に生きたいという願望がありました。(2)→相手を気遣うのですぐ「人疲れ」してしまい、家に帰るとどっと疲れが出てきました。(3)→人の気持ちに作用されやすい。(4)→感受性が鋭く、ゴッホの「アイリス」を見ては感情が高ぶって涙がでてきて、ワグナーの「ニュンルンベルクのマイスタージンガー」を聴いただけで感動でむせび泣いたりしました。あまりにも繊細で感受性が激しいので、「自分の神経はピアノ線より細い!」と絶叫したことがあります。

 こんなんでは、行きつく先は、知れたものです。事実、私もそうなりました。

 でも、加齢のおかげで神経も摩耗し、大分穏やかになりました(笑)。歳を取るのも悪くはないですね。ちょっとしたことがきっかけで、神経が壊れてしまうことが分かったので、落ち込まなくなりました。気にしてもキリがないので、物事に執着しなくなりました。

 何と言っても症状が和らぎ、薬なしで夜、眠ることができるようになったことは、本当に有難いことでした。

 HSPの確率は5人に1人の20%だということは、残りの80%、つまりほとんどの人はHSPではないということになります。人の気持ちに振り回されることはなく、些細な言葉に傷つくこともなく、うるさくてもぐっすり眠られるということでしょうか?羨ましいですねえ。そう言えば、暴露本で叩かれても馬耳東風で、週刊誌に悪口を書かれても全く気にすることなく堂々とメディアに出続ける人も世の中にはいます。神経が図太くみえますが、単に「偏桃体」が正常だということなのでしょう。医学的に割り切れば何でもない話です。

 HSPだからと言っても、特別でも何でもない。歳を取れば、神経も少しは和らぎますよ、と若い人には伝えておきたいと思い、こんなことを書きました。

松岡將写真・文「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景ー美の殿堂へのいざない」(同時代社)

 「有言実行の人」です。

 まさかこんなに早く企画が実現するとは思ってもみませんでした。

 私のブログが本になりました。いや、間違いました。言葉足らずでした。屡々、私のブログに掲載させて頂いている写真(WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua)が本になりました、というのが正確です。

 7月7日に同時代社から刊行される「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景ー美の殿堂へのいざない」(4800円+税)という美術書のことです。

 写真と文は、近現代史・満洲研究家の松岡將氏です。1970年代初頭といいますから、もう今から半世紀近い昔。30歳代後半の農水省のエリート官僚だった松岡氏は在ワシントン日本国大使館勤務を命じられました。丸4年間の滞米生活を送った折、まさに公私ともに通い詰めた所がワシントン・ナショナル・ギャラリーでした。自宅から車でわずか20分という近距離だったこともあり、週末のプライベートの時だけでなく、日米農産物貿易交渉に関わる日本の国会議員や政府関係者、米国の上下両院議員、米農務省高官らとの接遇場所や空いた時間に案内するなど訪問回数は、幾何学級数的(多いという意味です)。ついでに撮った写真も何百枚、何千枚だったようです。詳しくは分かりませんが、そのカメラ装備も、ライカのようなプロ仕様だったと思われます。欧米の美術館のほとんどでは写真撮影は問題はないのですが、フラッシュ撮影は禁止でしょう。恐らくプロカメラマンのように照明まで配備できなかったかもしれませんが、驚くほど画像が鮮明で、画素数もかなり高感度です。

 実は、この有り余るほどのギャラリーの写真を松岡氏は最初、持て余していたようです。彼は、有難いことに、このブログの愛読者でして、私が適当に選んだ写真とブログの記事とのあまりにもの乖離(つまり合っていないこと)を嘆かわしく思われたらしく、ある日、「この写真をブログに御自由に使ってください」と、小生に添付メールで送ってくださったのです。

 そのうち、「ギャラリーの写真をまとめた本をいつか出したい」という話を伺ったのが、1年半ほど前でしたか。それが、「ある出版社に企画を持ちかけています」と聞いたのが、昨年の今ごろ。「著作権は大丈夫かなあ」と心配しつつ、その後、コロナ禍もあり、「企画の実現は随分先のこと」とこちらで勝手に思っていたところ、予告もなく、この本が「贈呈」として送られてきたのです。もう吃驚です。

 表紙の写真は、レオナルド・ダビンチ作「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」(1474~78)です。ダビンチの作品が欧州の美術館以外で所蔵されているのは、ここしかないそうです。この名作は、ワシントン・ナショナル・ギャラリーの創設者アンドリュー・メロンの長女エルサ・メロン・ブルースAilsa Mellon Bruce (1901~1969)が1967年に購入したといいます。長い美術史から見れば、つい最近のことではありませんか。

 ワシントン・ナショナル・ギャラリーは、世界の有名美術館の中でもごく新しい美術館で、実業家・銀行家で米財務長官などを歴任したアンドリュー・メロン(カーネギー・メロン大学に名を遺す)が1931年に個人でエルミタージュ美術館などから取得した収集品を米国民に寄贈する形で、当時のルーズベルト大統領と米議会の同意で1937年にワシントンDCの地で着工し、1941年に開館した美術館だったのです。近現代史、昭和史のど真ん中じゃありませんか。

 松岡氏はさすが近現代史研究家ですから、「あとがき」の中で、1931(昭和6)年は満洲事変が勃発した年、1937(昭和12)年は支那事変(日中戦争)が開始した年、ギャラリー開館2カ月前の1941(昭和16)年1月は、陸相東条英機大将が「生キテ虜囚ノ辱メヲ受クルナカレ」とする「戦陣訓」を全軍に示達した、などと書いておられます。

 そして、「ナショナル・ギャラリーは全長238メートル、戦艦大和は全長256メートルで、大きさはほぼ同じだった」などと過去の御自身の著作からも引用しています。日本が軍国主義に邁進している時に、米国は着々と文化を育成していたのです。

 本書では、肝心の美術作品については13世紀末の宗教画辺りから、ルネサンスを経て、近世、近代の写実主義、印象派辺りまで網羅しています。ダビンチ、ラファエロ、レンブラント、モネ、ゴッホら巨匠の名前は、表紙写真の帯に出ている通りです。

オランダの聖ルチア伝説のマスター「天上の聖母マリア」(1485/1500年)WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 私はかなりの面倒臭がり屋ですから、松岡氏からお借りした写真をブログに掲載する際、わざと(笑)キャプションを掲載しませんでしたが、この本ではしっかりと、作品名、年代、作者まで明記されていますので、長年、渓流斎ブログを見て「この写真の作品は何だっけ?」と悩んでおられた方々は、一気に解消されます。(松岡氏は、特別に思い入れのある作品については、個人的なコメントを添えています。例えば、上の写真の「天上の聖母マリア」については「ワシントン駐在となる数年前に母を失ったばかりの私の心を、仏画にも似て癒してくれるものだった」などと…)

 かつては王侯貴族ぐらいしかこのような美術作品に触れることができなかった時代と比べれば現代人は本当に恵まれています。しかも、ワシントン・ナショナル・ギャラリーは、米国民のために設立された美術館なのに、「文化は人類共通の財産」として、異邦人(しかも設立当時は敵性国人!)にも自由に開放しているところが本当に素晴らしい。松岡氏もあとがきで、「(写真を)このまま自分一人のものとしておくのは、いかにも勿体ない。出来れば何とかこれを多くの人々と共有することができないか、と思うようになった」ことが、出版の動機だったことを明かしています。

 この「世界初」の書評(?)を読まれて御興味を持たれた方は、是非手に取って御覧になって頂ければ私も嬉しいです。