お経の意味が分かると知らなければ恥だが役に立つ

 私が、次期総裁選びとか、今の皮相的な世間の喧騒よりも、人類にとって相も変わらぬ苦難の克服を目指す仏教哲学思想に特に最近惹かれていることは、皆さまご案内の通りです。

 先月、新聞の広告で法華経の新解釈による現代語訳の本が出ていて興味を持ちましたが、著者は個人的に嫌いな作家さん。この方、現役政治家時代に「文明がもたらした悪しき有害なものはババアだ」と生殖能力のなくなった女性を蔑視するなど舌禍事件が絶えない「無意識過剰」な人だからです。しかも、版元の社長さんがこれまた問題の人で、気に食わない売れない著者の実売部数をネットでバラしたり、何かと裏社会とのつながりが噂されたりする出版社ですからね。購買することはやめました。また、いつも派手に新聞に広告する出版社で目立ちますが、今後、広告内容を読むのをやめることにしています。

 でも、法華経の現代語訳が気になっていたところ、たまたま会社の近くの書店で、適当な本が見つかりました。鈴木永城著「お経の意味がやさしくわかる本」(KAWADE夢新書、2020年7月30日初版)という本です。先日このブログで御紹介したフランス語原文と対訳が並べられている「ランボー詩集」と同じように、般若心経や法華経など中国語訳の原文の下に現代語訳が書かれていて、とても分かりやすいのです。(お釈迦様の説かれたお経は、本来サンスクリットで書かれていたのですが、日本に伝わった仏教は、鳩摩羅什や玄奘らによって漢訳されたお経です。ということは、日本仏教とは、結局、中国仏教ではないでしょうか?日本仏教の開祖が師事したり影響受けたりした天台智顗も恵果も善導も臨済義玄も洞山良价も中国人です。現代の中国では共産党政権によって仏教は弾圧されていますが、三蔵法師らに感謝しなければなりませんね)

 日本の仏教には色んな宗派がありますが、例えば、天台宗では「朝題目夕念仏」と言われるように、朝は法華経を読経し、夕方は念仏を唱えるといいます。ですから、数あるお経の中でも法華経の寿量品や普門品(観音経)、般若心経、阿弥陀経などを特に重視するわけです。

 個人的には私の子ども時代に、父親の影響で法華経の方便品第二と如来寿量品第十六を意味も分からないまま、そのまま読まされたことがありましたが、この本を読んで「そういう意味だったのかあ」という新たな発見と驚きがありました。今さら遅すぎますね(笑)。

 お経を熱心に勉強したのは、人生に疲れた三十代初めにNHKラジオ講座の「こころをよむ」で金岡秀友東洋大教授が講師を務めた「般若心経」でした。よく写経に使われるあのお経です。わずか262文字の中に、仏様の思想哲学が集約されていて、苦しい時にたまにこのお経の文句が出てくることがあります。この本によると、天台宗と真言宗と浄土宗と臨済宗と曹洞宗と幅広く重用されているようです。逆に言えば、浄土真宗と日蓮宗ではあまり重んじられていないということになるのでしょうか?

 この本の著者鈴木永城氏は、曹洞宗の僧侶で、埼玉県と茨城県の寺院の住職を務めているようですが、お経とは何かについて、興味深いことを書かれています。

 まず、仏教の究極とは、自分自身に備わっている仏性に目覚めて、悩みや苦しみを乗り越えて生き生きとした生き方をすることだ、と説きます。そして、お経は、死者に対する回向(供養)という意味があるが、お経に説かれていることは、人間としての本当の在り方、生き方の指針だといいます。つまり、この世に人間として生を受け、その生をどうやって全うするか教示してくれる、とまでいうのです。

 なるほど、となると、お経というと敷居が高い気がしていましたが、もっと気軽に、偏見を捨てて接しても良さそうです。あまり言うと、苦行に堪えている聖道門の皆様から怒られるかもしれませんが…。でも、お経は、宗教家や信者や信徒や門徒だけの独占物であるわけではなく、在家の煩悩凡夫が接しても罰が当たるわけありませんよね?

◇旧友の御尊父の御冥福を祈り読経す

 ということで、この本を読んでいたら、先日、たまたま、旧い友人の御尊父の訃報に接しました。著者の鈴木氏は、お経は死者に対する供養だけでなく、現代人が生きる指針になる、と書かれていましたが、本来の供養の意味で、友人の御尊父の御冥福をお祈りして、本書の中の「般若心経」と「法華経」を一人自室で読経させて頂きました。自分にできることはこれぐらいしかありませんからね。

 実は、旧友の御尊父T・K氏は、九州の久留米藩主の御小姓を務めた高い家柄の子孫らしく、私の先祖は同じ久留米藩の下級武士(御舟手役)だったので、世が世なら、頭が上がらない雲の上の上司だったわけです。御尊父は、九州(帝国)大学から大蔵省に入省した人でしたが、三島由紀夫こと平岡公威と同い年なので、もしかしたら、大蔵省の同期入省だったのかもしれません。

 生前、もっとお話を伺う機会があればよかったなあ、と今では悔やまれます。

安倍首相の功罪とどうでもいい話

安倍晋三首相が28日に首相辞任を発表しました。最側近の稲田朋美幹事長代理が「予想もしていなかったので本当に驚愕した」と言えば、橋本聖子五輪相も、秘書から差し出された辞任の意向を伝えるスマホの画面を見せられて「え、うっそー」と叫んだらしいので、記者も評論家も誰も予想しなかったことでしょう。何しろ、本人は、党総裁の任期を3期9年に延長し、それどころか4期12年に意欲満々だったと言われていましたからね。

 病気を理由にした突然の辞任は2007年9月の第1次安倍内閣の再来を思わせます。7年8カ月という長期政権を樹立したとはいえ、任期1年を残し、本人としてはさぞかし無念だったことでしょう。何と言っても、最重要課題と位置付けていた拉致問題も北方領土問題も全くといって進展せず、むしろ後退した感があります。コロナ対策に失敗し、一部メディアが集計した支持率も29%に落ち込んでいました。

 安倍首相の功績は、集団的自衛権行使につながる安全保障法制と特定秘密保護法と共謀罪法を公明党の力も借りて「数の論理」で成立させたことでしょう。将来どのような国際情勢になるか分かりませんが、為政者は安倍氏の功績を讃え、国民はそのつけの代償を支払うことになるでしょう。「嗚呼、あれがターニングポイントだったのか」と気付いた時はもう手遅れになっています。

 そして、「一強独裁」の下で内閣人事局を創設して官僚の人事まで全て掌握して、森友・加計学園問題に象徴される忖度や公文書偽造や廃棄という憲政史上稀にみる暴挙を黙認し、自責に駆られた善良な公務員を死にまで追い込んでいったのです。「桜を見る会」は税金を使って地元有権者を優遇したのではないかという疑惑の説明責任を彼はまだ果たしていません。

 といった総括は、歴史学者や政治学者がやることでしょうが、それらはちゃんと新聞各紙が、1970代、80年代生まれの30代〜50代の気鋭の学者を捕まえて語らせ、分析させています。彼らは私より若いのですが、しっかりしてるなあ、と思いました(当たり前!)。もう古い世代の出る幕じゃありませんかね?

 一方、NHKの報道は偏向していて、安倍首相の功績ばかり強調し、政権擁護の官報を見せつけられる感じでうんざりします。国民はNHKを見せられるから自民党に投票するのではないかと思わせます。

 話は変わりますが、先日テレビのバラエティー番組で、清原果耶さんという若い女優さんが出演していました。まだ18歳という若さなのに、ひどく落ち着いていて、趣味は昭和レトロのものとか盆栽とかで、はっきり言って老成していました(笑)。平成14年生まれですから、昭和のことは全く知らず、我々の世代からすれば、明治や大正を見るみたいなものでしょう。

 まあ、どうでもいい話ですけど、その若い彼女が、「テレビもネットも見ない」と発言していたことには驚きました。恐らくゲームもあまりやらない感じでした。

 官報みたいなテレビや、フェイクニュースの溢れたネットを見ないのは良いことだと思いますが、今時の若い人で、そんな奇特な人がいるのかしら?と思いました。そしたら、彼女は大里さんとこのアミューズ所属で、しっかりLINEもインスタグラムもやってるじゃありませんか。

 事務所の人が代理でやっているのかもしれませんが、何だかよく分かりませんね。古い世代の出る幕じゃありません。そしてまた、どうでもいい話でした(笑)。

 それより今日の35度の猛暑。熱中症が心配され、「日帰り歴史散歩」もできません。それに、コロナ禍で市民プールが閉鎖され、今夏は泳ぎにも行けません。

 「プールがない ♪」。庶民にとって、安倍首相辞任よりプールの方が大事だ、とブログには書いておこう。

投げる不動産屋、学問もする広告塔

 晩夏だというのに、日中の暑さは相変わらず。関東地方も34度の暑さで、コロナと熱中症の二重苦、三重苦です。

 こんな、よりによって最悪な季節にオリンピックだなんて、やってる選手だけでなく、役員や審判も、そして何よりも観客もその場に居るだけで、大変なことです。何よりもメディアがスポンサーになっているので、どこも批判するところはなく、その危険すら知らせてくれません。真夏開催は、バスケットや野球やアメフトなどのドル箱試合との重複を避けるための米放送業界の策略だなんて口が裂けても言えない。莫大な放送権料という「不労所得」目当てのIOC貴族による陰謀だなどと大手メディアは知っていても書けない。

 そのせいか、五輪開催反対の世論が全く形成されませんが、賛成する人も、利権にたかる人たちまでも、心の中で、来年コロナが終息するわけがなく、開催は無理ではないか、と危ぶんでいます。

夏はお寿司がいい

 と、書きながら、どこか他人事です。またまたアパシーapathy(興味・意欲喪失)状態がここ1~2カ月続いています。IR汚職も、自民党公費(国民の税金?)1億5000万円も買収資金に使った河井夫妻についても、どこか「どうでもいい」と冷めています。こんなブログに「許せない!」などと書いても事態が好転するわけがなく、単なる蟷螂の斧。粋がっている自分が恥ずかしいだけです。

 個人的ながら、6月下旬に羅針盤を失くしてしまってから迷走が続いています。このブログではなるべくジャーナリスティックな話題を追いかけてきたつもりですが、アパシーになっては筆鋒が鈍ります。世の中で何が起きても、所詮どうでも良いのです。ジャーナリズムのいい加減さにも自戒を込めて痛感しています。

 例えば、憲法改正問題について、賛成か反対か、ジャーナリストは著名な評論家の下に通い、何か一筆書いてほしいと依頼します。先生曰く「賛成?反対?どっちでも書けるよ」。「そうですか、では、今日のところは賛成の立場で論陣を張ってください」-そんなことがジャーナリズムの世界ではまかり通っているわけです。

握りもいいけどバラ寿司も

 今朝(27日付)の朝日新聞朝刊トップで、人口減少問題を取り上げています。題して「限界先進国 エイジング ニッポン」。2020年1月1日時点の日本の総人口は約1億1472万人と総務省から8月5日に発表されましたが、約100年後の2115年には5055万人に半減するというシュミレーションも描かれていました。少子高齢化で1年間に約50万人の日本人が減っていきます。また、総務省の調査では、10年以内に全国で3197もの集落が消滅する、とはじき出しています。

 集落衰退の理由の一つとして、15年前の「平成の大合併」が挙げられていました。大合併により村役場が閉鎖され、職員もその家族もいなくなり、また、住民サービスが行き届かなくなって不便になった集落の人口減に拍車が掛かったといいます。

 今から15年前というと平成17年(2005年)ですか。私は当時、北海道の帯広にいて、ちょうどこの平成の大合併を取材していました。住民投票による賛成、反対票確認と結果の報道が精いっぱいで、15年後に合併させられた小さな町村が限界集落になって消滅の危機になることなど考えてもいませんでした。全く浅はかでしたね。

 それでいて、自分を棚に上げて、ジャーナリズムの浅はかさに日々、不満を感じています。

 テレビを見ると、スキャンダルを起こした夫に代わって美人タレントの妻が出演していました。健気な糟糠の妻?感心している場合じゃありませんよね。民放もNHKまでも番宣(番組宣伝)だらけです。民放の夕方のニュース番組で、ジャニーズ系のタレントが講師に復帰する、とかやっているので、てっきりニュースかと思ったら、時の最高権力者とも関係が深い森永製菓のコマーシャルの講師役にそのタレントが復活するという話でした。報道にかこつけた番宣じゃないですか!

 1本8000万円とも1億円とも言われるCM出演のため、タレントも俳優も監督もスポーツ選手も学者までも、浮気な視聴者からの人気を勝ち得ようと「露出」に余念がありません。露出こそがすべて。いつも同じ顔触れです。正直、見たくもない。

 昔、バブル華やかりし頃、某有名球団のピッチャーが、不動産投資をしてぼろ儲けしていたことから、先鋭な夕刊紙から「投げる不動産屋」と命名されたことがありました。投手が本業でなく、不動産が本業で、その片手間で野球もやっているという揶揄です。その伝で今の状況をなぞれば、「歌って踊れる宣伝屋」「足の速い宣撫員」「学問もできる広告塔」じゃありませんか。テレビが駄目ならユーチューブ? そんなに楽して金儲けしたいの? 日本人に恥の精神はなくなったのかい?

 見ていて苛立たしいのですが、私はここ最近、アパシーなものですから、「どうでもいいや」という感想の方が優ってしまうのです。

 嗚呼、残念。

「親鸞聖人伝絵」と大原問答と平等思想について

 このブログは、毎日書くことを自分に課しておりましたが、ここ1~2週間の連日の35度に及ぶ猛暑で、さすがに体力、気力、知力ともに衰え、書き続けることができませんでした。

 ということで、ブログは4日ぶりです。熱中症とコロナに苛まれる現代人は、生きているだけでも大変ですね。

 さて、難解な「ランボー詩集」は相変わらず牛の歩みで読み進んでいますので、その傍らに読んでいたのが沙加戸弘編著「はじめてふれる 親鸞聖人伝絵」(東本願寺出版、2020年3月28日初版)でした。

 今年6月21日付のこのブログで、浄土真宗の親鸞聖人(1173~1262年)が「教行信証」を執筆し、関東布教の拠点とした茨城県笠間市の稲田禅房西念寺をお参りしたことを書きましたが、その後、本屋さんでこの本をたまたま見つけて購入したのでした。法然上人や一遍上人の絵伝(いずれも国宝)は知っておりましたが、親鸞聖人伝絵があることは知りませんでした。

 この伝絵は、親鸞聖人の生涯で起きた画期的な出来事を絵巻にし、それに解説を加えたものです。四幅二十図あるようです。本願寺三代門首覚如が生涯をかけて康永2年(1343年)に完成したものです。「御絵伝」の絵を描いたのが浄賀法眼とされ、解説に当たる「御伝鈔」は覚如本人が書いたと言われています。普段は非公開だと思われます。

 御絵伝第2図「出家学道」では、親鸞聖人が9歳の時に出家得度される場面が描かれています。得度を依頼された慈円僧正は「15歳までは出家できません。これは規則です」と頑なに断ったものの、親鸞聖人がこれに応えて、あの後世になって有名になった歌を詠みます。

 明日ありと

 思う心のあだ桜

 夜半に嵐の 吹かぬものかは

 歌人でもあり「愚管抄」などの著書もある慈円は心の中で唸り、得度の式を行ったといいます。

 親鸞聖人自身は自ら教団をつくる意思はなかったと言われています。本願寺教団はつくったのは親鸞の曾孫に当たる覚如上人であり、その覚如がこの御伝鈔を書いているということは、この「親鸞聖人伝絵」には、結果的には本願寺教団の思想が色濃く反映されることになったようです。例えば、第6図「選択付属」では親鸞聖人が師の法然から著書「選択本願念仏集」の書写などを許される場面を取り上げる一方、晩年になって、親鸞が長男善鸞を義絶せざるを得なかった「事件」を「伝絵」として取り上げることはありません。

 また、承元元年(1207年)に、専修念仏停止(せんじゅねんぶつちょうじ)により、法然は讃岐に、親鸞は越後に流罪、その他4人が死罪となる「承元の法難」が起きます。この模様は、御絵伝第12図「法然上人配流」で描かれています。ただこの図の右端に「不機嫌な善恵房」が描かれています。解説によると、この善恵房が、配流される法然上人に対して「念仏をやめたら罪も軽くなりますよ」言ったので、師の法然から大いに叱責されたといいます。そういう史実があったのかどうか、あったとしても何故そのような不機嫌な善恵房を書かなければならなかったのか、については何らかの作者の意図が感じられます。

 法然には380余人という多くの弟子がいたと言われますが、「七箇条制誡」によると、初期の法然門弟190人の中で、綽空(後の親鸞)は86番目に名前が確認されるに過ぎなかったと言われます。一方の善恵房証空の方は、14歳から法然の側に仕え、「七箇条制誡」では法然門弟中、四番目に署名され、後に浄土宗の中の本派本流の鎮西派とは違う西山派を確立します。善恵房は、承元の法難の際には慈円の庇護により、かろうじて流罪を免れます。

 また、善恵房証空の孫弟子に当たるのが時宗の開祖一遍上人です。ということは、本願寺教団を設立して、この御伝鈔を書いた当時の覚如上人にとって、証空も一遍も同じ法然浄土宗の流れを汲むライバルではなかったかと思われます。わざわざ「不機嫌な善恵房」を描かせたのは、「法然の教えを忠実に守っている正統派は、我が教団だ」とアピールしたかったかのようにも見えます。別に誹謗する意図は全くありませんし、理解はできます。

親鸞が「教行信証」を執筆した稲田の西念寺

 話は変わって、先日22日に放送されたNHK「歴史発掘ミステリー」で「京都 千年蔵『大原 勝林院』」を取り上げていました。とても面白い番組でした。ただ、1点だけ気になったのは、大原三千院の北にあるこの勝林院を長和2年(1013年)に創建(復興)した寂源のことです。寂源は、19歳で出家する前は源時叙(みなもとのときのぶ)という右近衛少将でした。しかも、後に権力の最高位を手にする藤原道長の室倫子は時叙の姉。つまり、寂源は、道長の義弟に当たるのです(寂源の出家には諸説あり不明)。

 番組では、寂源が比叡山の僧侶を集めて論談し、比叡山の僧侶が、仏教は厳しい修行と苦行を経た我々僧侶だけが御教えを伝授する役目があると主張したのに対して、寂源は、信仰には優劣がなく、貴賤もなく、男と女の区別もなく、善人も悪人もなく、仏様は救ってくださる、と反駁したところ、その証拠として暗がりの阿弥陀如来坐像がパッと輝いたという逸話をやっておりました。その論壇の場には、最高権力者に昇り詰めながら、疫病などで荒廃する都の惨状を見て己の無力さと将来、自分自身が地獄に堕ちるのではないかと不安を抱いていた寂源の義兄の藤原道長が、影で見ていたとなっていました。

 この場面を見て「あれっ?」と思いました。

 浄土宗の開祖法然上人の生涯の初期の頃に、有名な「大原問答」というものがありました。文治2年(1186年)に、法然が顕真法印の要請により浄土宗の教義について、比叡山・南都の学僧と問答し信服させ、法然を一躍有名にした出来事でした。この大原問答が行われた所が、この大原・勝林院だったのです。私が「あれっ?」と思ったのは、これまでの皇族や貴族らを中心にした南都六宗の旧仏教に対して、法然が異議申し立てをして、老若男女、貴賤も善人も悪人も関係なく、念仏を唱えれば、皆平等に誰でも極楽浄土に往生することができるという非常に革命的な、ある意味では危険な思想を法然が初めて主張していたと思っていたからです。

 NHKの番組がもし史実だとしたら、法然よりも150年以上も昔に、寂源が革命的な「平等仏教」を説いていたことになります。しかも、道長政権という貴族政治が頂点を極めた時代で、いわば「貴族仏教」が頂点を極めていた時代です。法然が、寂源の思想を知っていたかどうか分かりませんが、場合によっては特筆もので、歴史を書き換えなければならないのではないかと思った次第です。

35年ぶりのランボー詩集

 最近、文学しています。残った夏休みの宿題を慌てて仕上げようとしている感じもします。

 文学ですから、儲かりません。はっきり言って、なくても困りません。といいますか、なくても生活に支障はきたしません。そういうものに、学生時代の一時期、命を懸けるほど熱中したことがありました。

 今でこそ堕落して、他人のこしらえたフィクションには目もくれずに、ビジネス書やブロックチェーンやMMT関連の書物にまで首を突っ込んで、不安な将来に備えていますが、かつては、経済に左右されない人生こそが美徳であると信じていた時期がありました。

 文学には社会を変革する力があると信じていたこともありました。

 それは新聞広告で目にした一冊の文庫本でした。

  中地義和編「対訳 ランボー詩集」(岩波文庫、2020年7月14日初版)です。何か見てはいけない広告を見てしまった感じでしたが、ずっと心の奥底に引っかかっていました。フランス象徴派詩人アルチュール・ランボー(1854~91)は、学生時代にかなりはまったことがありましたから尚更です。フランス語の原書は、文庫版では飽き足らず、高いプレイヤード版の全集も買いました。日本語は、小林秀雄訳、中原中也訳、鈴村和成訳などを経て、平井啓之ら共訳の「ランボー全集」(青土社)まで買い揃えました。それでも、難解過ぎて途中で挫折してしまいました。

 わざわざ、この本を買ったのは「対訳」としてフランス語の原文と和訳が並列していたからでした。

 しかし、正直に告白すると、途中で挫折したように、20代の頭ではさっぱり分かりませんでした。意味はどうにか取れても、作者の意図する本意や時代的背景などを熟知していなかったせいもありました。ランボーは15歳頃から詩作をはじめ、20歳で早くも筆を折りました。ということは作品の大半は、10代の少年が書いたものです。歴史に残る大天才を前にして、異国の軽輩が何か言うのも烏滸がましいのですが、極東に住む凡夫の若者はランボーの作品を理解することを諦めました。そして、邪道ながら、彼にまつわる逸話(ファンタン・ラトゥールの絵画など)を追いかけました。

 詩作をやめたランボーは、オランダ軍傭兵としてジャカルタに行ったり(後に脱走)、キプロスの採石場の現場監督をしたりしましたが、地元シャルルヴィル高等中学校時代の級友エルネスト・ドラエー(1853~1930)から文学への関心を問われると「あんなもの、もう考えもしないさ!」と答えたといいます(1879年)。

 その後、ランボーはイエメンのアデンにあるバルデー商会に雇われ、アビシニア(現エチオピア)のハラールの代理店に勤め、交易商人になります。主に象牙やコーヒーの取引やフランスからの工業製品や武器まで扱ったようです。しかし、アデンで膝の腫瘍が悪化します。風土病だったとも性病だったとも色んな説がありますが、フランスのマルセイユに戻り、コンセプション病院で右脚を切断し、1891年11月10日に同病院で死去します。まだ37歳という若さでした。

 若い頃のランボーと言えば、詩人ポール・ヴェルレーヌ(1844~96)との不適切な関係を始め、ふしだらで酔いどれの破天荒な私生活が有名ですが、詩作を断ち切り、武器商人になった晩年の孤独で悲惨な生活とその早すぎる死が、彼の書いた難解な作品(「地獄の一季節」など)と見事に、結果的に「言行一致」してしまったことが、何百年経っても彼に惹き付けられる魅力になっていると言えるでしょう。

比類なき超天才児とその後の「没落人生」(本人は認めないでしょうが)とのギャップがあまりにも大き過ぎるので、謎が謎を呼ぶことになったのです。

プレイヤード版の「ランボー全集」。40年近い昔に買った本だが、当時7760円もした

 ということで、35年ぶりに改めて「ランボー詩集」の文庫本(1122円)を読み始めています。

 原文と対訳を熟読すると、何と1篇の詩を読むのに2~3日も掛かります。本当です。読書は主に通勤電車の中でしているので、48時間~72時間掛かるという意味ではありません。電車の中で、1篇の詩作品を読むと1日で読み切れず、2~3日掛かるという意味です。

 15~16歳の時に書かれた初期韻文詩は、見事な12音綴のアレクサンドランの定型詩になっていて、しっかり脚韻が踏まれています。アレクサンドランは、日本の短歌や俳句と同じようなものかもしれません。脚韻は、aabbだったり、 ababだったり色々ですが、韻を踏むために、主語と述語が倒置されたり、名詞と形容詞が入れ替わったり、形式を優先するために、意味は後回しで、かなりこじつけになったりして、外国人にとって理解するのに難儀することがあります。

 何と言ってもフランス語の語彙力には全く歯が立ちません。相手は15歳の少年でも、記憶力抜群の比類なき超天才ですから、異邦人の凡夫が勝てるわけがありません。

 ただ、年を取って、人生経験も豊富になり、既に世界各地を旅行し、分別も付き、大きな病気も体験し、他人からの裏切りや嘲笑も味わい、辛酸を舐めてきたお蔭で、人生経験の少ない少年には負けませんね(笑)。それに、自分で言うのも何なんですが、不断の努力による膨大な読書量で、ランボーには負けない教養なるものも身に着きましたから、怖れることはありません。

 そんな中で興味深かったことは、15歳の少年だというのに世の中の動きや時事問題にかなり関心があって、当時、普仏戦争(1870年)の最中で、スダンでプロシャ軍に降伏したナポレオン三世を揶揄、批判する詩まで書いていたことです。(15歳の自分はビリヤード場で遊び惚けていましたからえらい違いです。)この詩は、私も学生の頃に読んでいたはずですが、すっかり忘れています(苦笑)。当時のフランスは、世の中の動きや情報を知る手段として新聞ぐらいしかなかったでしょうが、15歳のランボーは「皇帝の憤激」という詩の中で、ナポレオン三世のことを「遊蕩に明け暮れた20年に酔いしれている」といった反帝政派のキャンペーンを文字ったり、「彼(ナポレオン三世)は、眼鏡をかけた協力者を思い出している」と書き、共和派から帝政派に鞍替えして首相になったエミール・オリビエのことを示唆したりしています。

 ランボーの10代は、普仏戦争とパリ・コミューンが起きた歴史的な激動期でした。当時のフランス人たちは、「遊蕩に明け暮れた」(遊蕩orgieには乱交パーティーという意味もある)だけでナポレオン三世のことを思い浮かび、「眼鏡をかけた協力者」だけで、オリビエ首相のことが何ら説明もなく分かったことでしょう。これでは、詩人というより、ジャーナリストですね。(そう言えば、19世紀のバルザックやフロベールらの小説は、例えば二月革命など当時の時代背景を忠実に再現したもので、フィクションというより、ジャーナリスティックでした)

学生時代の畏友と横浜でランボー詩集の「読書会」を開いて勉強していた20代後半の頃。1ページ読むのに1週間掛かった

 私が20代の頃に読んでさっぱり分からなかったことは、今ではネットのお蔭で、簡単に分かります。オリビエ首相だって検索すれは略歴とともに、眼鏡をかけた彼自身の肖像写真まで出てきますからね。今の若い人は羨ましい。

 文学していると、コロナ禍の現代を忘れて19世紀に逃避行できます。何と言っても、ヴェルレーヌはともかく(二人の直接の交際はわずか4年だったとは!ランボー17歳から21歳まで。ランボーの死後、無名だった彼を蘇らせたのはヴェルレーヌの尽力によるものだった)、学生時代に親しんだジョルジュ・イザンバール(ランボーの高等中学校の教師)とかポール・デメニー(イザンバールの友人で詩人)やジェルマン・ヌーヴォー(「イルミナシオン」の清書も手伝った詩人)らの名前がこの本にも出てきて、あまりにもの懐かしさに心が動揺し、涙が出てくるほどでした。

 恐らく分かってもらえないでしょうけど、私は、彼らのことを現代人より近しく感じてしまうのです。

 20代の私は純真無垢で、純粋芸術である(と思い込んでいた)文学に憧れを抱いていたことも思い出しました。

 でも、文学の実体は、なくても支障がない絵空事です。一人の人生を変えるほどの文学に出合えた人には「おめでとう御座います」と言うしかありません。

 文学だけでなく、生活も哲学も宗教も経済学も政治学も無意味かもしれません。パスカルがいみじくも言ったように、結局、「人生は大いなる暇つぶし」だと最近とみに感じています。

Amazonプライム解約運動の影に三浦瑠璃氏あり

 世界最大のネット通販「Amazon」のプライム会員の解約運動がSNSを通して国内で広がっているという記事を読みました。

 私はアマゾンのプライム会員でも何でもないので、正直、関心がなかったのですが、今朝(8月18日付)の毎日新聞朝刊の記事を読んで興味を持ちました。

 Amazonプライムのテレビコマーシャルに国際政治学者三浦瑠璃氏とタレントの松本人志氏を起用していることに対する抗議、だったのです。この二人が何をしたのか、私は二人に関心がないので全く知りませんでした。

 この記事によると、タレントの松本氏は昨年、民放テレビの番組内で、川崎市の児童殺傷事件の容疑者について「不良品」などと発言して批判を浴びたこと。国際政治学者の三浦氏については、著書で徴兵制導入を論じたり、民放番組で「スリーパーセル(潜伏中の工作員)」という言葉を使って、「今結構大阪は(北朝鮮工作員が活動していて)やばいと言われて」などと発言したとされています。(スリーパーセルは、3パセールparcel なのかと思ったら、スリーパーsleeper・セルcellだったんですね。駄目ですねえ=笑)

 度々、舌禍事件を起こしているお笑いタレントの松本氏は、ソフトバンク携帯のCMなどにも大々的に出演していますが、ソフトバンクに対するボイコットが聞かれないことから、恐らく、標的になった中心人物は三浦氏だと思われます。

 彼女は、若くて容姿端麗で頭が良く、髪の毛も長く、弁も立つことから、メディアに引っ張りだこで、東京のM氏を含めて特に中高年のインテリおじさんたちからの受けがいいという評判を聞いたことがあります。中高年のインテリと言えば、テレビのディレクターやプロデューサーも入りますからね。彼女は、著書やテレビなどで自身の少女時代の「悲惨な体験」を告白して大いに同情を買っているという話も聞いたことがあります。(関心がない割には、よく知っていること!)

 でも、彼女の思想信条はかなり過激で、テレビ番組で「戦争したくないならお年寄りと女性に徴兵制を導入すべき」と発言して大きなテロップになっている画面をネットで発見して、思わずのけぞってしまいました。これでは、中高年の瑠璃ちゃんファンも目が覚めてしまいますね。三浦氏は1980年生まれということですから、両親は「戦争を知らない子供たち」である団塊の世代なので「戦争を知らない子供たちの子供」です。

 8月15日の終戦記念日を前後して、国内では戦争もののテレビ番組が多く放送されますが、私も結構見て、色々と考えさせられました。例えば、ノモンハン事件を起こした関東軍参謀の辻政信(陸軍少佐)、インパール作戦を指揮した牟田口廉也中将…。彼らは、陸士、陸大を卒業した超エリートで、ずば抜けて頭脳明晰のインテリです。最高学府の東京帝大生より賢かったことでしょう。でも、彼らは血の雨が降り、内臓がもがれた戦死者も見ることなく、安全地帯の作戦室で図面を引いたりしている軍人というより高級公務員なので、現場の苦しみや悲惨さを知りませんでした。もしくは、見て見ぬふりをしました。

 NHK映像の世紀「独裁者 3人の狂気」では、イタリアのファシスト党を率いてヒトラーにも多大な影響を与えたムッソリーニは、師範学校を首席で卒業し、英語、ドイツ語など数カ国語を自由に操る超インテリだったと紹介されていました。そう、先の大戦の指導者は全て聡明なインテリですが、学業成績の良い点数主義に勝ち残った賢いインテリこそが、結果的に国家を誤らせたわけです。記憶力抜群の頭の良い人間が、天衣無縫で理論的にすべて正しく、指導力があるという考えは偏見であって、結果的に頭の良い人間が、自己責任を放棄し、多くの民衆を犠牲にして国を亡ぼしていたのです。

 三浦瑠璃氏を見てても、容姿端麗の美しさを隠れ蓑にして、現場の悲惨さを知ろうとしない点数主義で勝ち残ったインテリの傲慢さを垣間見てしまいます。彼女は自分だけは「特別」だと思っているでしょうから、自ら徴兵制を敷いても、自分だけは一兵卒として最前線には行くことはないでしょう。

「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」は★★★★★

 久しぶりに映画館で映画を観て来ました。

 調べてみたら、2月11日に東京・恵比寿の日仏会館で観たアルノー・デプレシャン監督作品「あの頃エッフェル塔の下で」以来でしたが、封切映画なら2月8日に有楽町で観た第1次大戦のAIカラー映像化した「彼らは生きていた」以来で、いずれにせよ半年ぶりでした。

 小生、皆さまご案内の通り映画好きですが、こんなにブランクが開いたのは初めてぐらいです。コロナ禍の影響で、映画館の席は間隔が開けられ普段の半分しか入れない状況でした。

 観たのは「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」(ポーランドのアグニェシカ・ホランド監督作品)です。先週、たまたま新聞の広告でその存在を知り、私の”興味津々”範疇の「スパイもの」だというので飛びついたわけです。子どもの頃から、「007」シリーズ(特にショーン・コネリー)を観て育ちましたからね。

 でも、この作品は全くのフィクションではなく、主人公ガレス・ジョーンズ(1905~35)は英国ウエールズ出身の実在の人物で、スターリン政権のソ連に潜り込んでその実体をスクープしたフリーのジャーナリストでした。彼は、ロイド・ジョージ首相の外交顧問も務めたことがあり、日本にも取材で6週間滞在したことがあるらしく、最期は満洲でソ連の秘密警察の手によって暗殺されたようでした。30歳の誕生日を迎える1日前のことでした。ジョーンズ記者が、潜入したウクライナ地方の凄惨な飢餓状況を初めて西側に発表したことから、ソ連側から「要注意人物」として恨みを買っていたためでした。

 この作品には、「動物農場」などでスターリンの恐怖政治を痛烈に批判した、私も大好きな作家のジョージ・オーウェル(1903~50)が準主役として登場する一方、スターリニズムを称賛するニューヨーク・タイムズのモスクワ支局長ウォルター・デュランティ(1884~1957)が、ジョーンズのスクープはデマだと否定したりして「悪役」として活躍します。何しろ、デュランテイは1922年から36年まで14年間も支局長としてモスクワに滞在し、その間にピュリッツァー賞も受賞した大物ジャーナリストでした。

 そのデュランテイは、モスクワから一歩も出ず、地方の飢餓や窮乏を見て見ぬふりをし、夜ごと裸になって変な麻薬パーティーを開いたりします。麻薬パーティーが事実だったかどうか知りませんが、ホランド監督の彼に対する痛烈な皮肉と批判の現れでしょう。フェイクニュースが跋扈する現代と状況はほとんど変わっていないことを再認識させられます。

 若きジョーンズ記者は無鉄砲で、ソ連の官憲から逃れて、凍てつく吹雪が荒む凍土のウクライナを彷徨います。そこでは、あちらこちらで餓死した遺体が無造作に転がり、…いやあ、これ以上書けませんが、大変衝撃的な場面も出てきます。

 今ではすっかり忘れられたジョーンズ記者を掘り起こしたホランド監督は、ポーランド出身ということもあり、征服されたソ連の無情と残忍さは骨身に染みるように親から伝えられたことでしょう。1930年代の「ウクライナ大飢饉」(実に300万人の人が餓死したと言われる)は史実として知っておりましたが、この作品で、スターリン粛清主義の恐ろしさをまざまざと見せつけられました。

何とも不可解な「スパイ関三次郎事件 戦後最北端謀略戦」

Photo Copyright par Duc de Matsuoqua

 足利と鎌倉の旅行中、電車の中でずっと読んでいたのが、佐藤哲朗著「スパイ関三次郎事件 戦後最北端謀略戦」(河出書房新社、2020年4月30日初版)でした。

 この本は、2カ月前の6月13日に京都にお住まいの京洛先生からメールを頂き、その存在を知りましたが、最近になってようやく入手できたわけです。実は、「スパイ関三次郎事件」と言っても、小生にとっては初耳で全く知らず、著者もどういう人か分からず、メールを頂いただけでは、他の書物を差し置いて、万難を排してでもすぐさま読みたいという興味が湧かなかったのでした。ーというのが正直な気持ちでした。

 しかし、読み始めてみて、いきなり脳天をどつかれたような衝撃で、推理小説やサスペンスを読むよりも断然面白い。というより、読んでも読んでも、謎が深まり、何が真実なのかさっぱり分からず迷路にはまったまんま、読了してしまったのです。

 事件が起きたのは、戦後まもない昭和28年(1953年)7月29日。関三次郎(当時51歳)という北海道余市生まれで利尻島育ち。漁師をしていましたが漁船の転覆事故で行方不明となり、どうやら戦前は樺太(現サハリン)で暮らしていて戦後のどさくさで帰国せず、無国籍だった男が、北海道の宗谷岬から南へ約10キロ離れた海岸にずぶぬれになって上陸し、濡れた多額の紙幣を焚火で乾かしているところを地元民に見つかり、逮捕されたのが始まりです。

 当時は、米ソ冷戦の真っ只中。関は、ソ連のスパイなのか、それとも占領中の米軍のCIC(アメリカ合衆国陸軍防諜部隊)の工作員なのかー? 二転三転するどころか、四転も五転もして、結局、最後まで真相が分からない…。

 著者の佐藤哲朗氏は、元毎日新聞編集委員。社会部で公安や検察関係の取材が長いベテラン記者でした。1939年生まれといいますから今年で81歳。奇しくも樺太豊原(現ユジノサハリンスク)生まれの北海道育ち。中学生の時に、このスパイ関三次郎の公判を「社会科見学」(授業)の一環として傍聴した経験もある人でした。

 1972年の正月、当時、札幌で毎日新聞の司法担当記者をしていた筆者は、札幌地検の塚谷悟検事正らも出席する記者クラブとの新年会に参加します。塚谷検事正は、旭川地検次席検事時代の一番の思い出として、関三次郎という国際スパイ事件を取り上げ、「何せ、この事件には証拠というものが何一つなかった。頼りになるのは本人の供述だけ。しかも、それが法廷で二転三転。あまりの矛盾の多さに弁護側から『被告は少しおかしい』と精神鑑定請求まで出される始末だった。紆余曲折したが、関三次郎とソ連人船長の被告二人に有罪判決が出て一見落着した」と振り返ります。

 他社の記者たちは、そのまま聞き過ごしますが、佐藤記者だけは、裁判を傍聴した経験もあるこのスパイ関三次郎事件にのめり込み、翌日から社の資料室に入り浸ってこの事件を調べ始めます。

 1972年ということは今から48年も昔のことです。この本の「はじめに」よると、著者の佐藤記者が、それ以降に取材した関係者は数百人を超え、当然、関三次郎本人には延べ6回、長時間のインタビューをし、取材走行距離は延べ4万キロに及んだといいます。

 今から67年前の1953年に起きたこの事件は、当時はセンセーショナルな事件として、毎日のように大々的に報道されましたが、今ではこの事件のことを知る人は私を含めてほとんどいないのではないでしょうか。

◇問題三法が執筆継続の動機

 80歳を超えた老記者にこのような本を執筆して出版にまで漕ぎつけるような原動力になったのは、安倍政権の「数の力」によって、「特定機密保護法」(2013年12月、いわゆる「スパイ防止法」)、「安全保障関連法」(2014年7月、集団的自衛権の行使容認)、「共謀罪法」(2017年6月)の問題三法の成立があったからだ、と著者は「終章」で書きます。「スパイ防止法には、国家の『機密情報の漏洩防止』に狙いがあり、集団的自衛権行使には『戦争のできる国家体制』の確立、そして『共謀罪』法には『国民の言論封じ込め』と相互に関連があり、いずれも体制側にとって都合のいい法律であることは論を俟たない」と。

 そのために、67年も昔に起きた過去の事件を通して、現代の状況を見つめ直してほしいという著者の願望があったと思われます。

 とにかく、この本には、色々と問題を抱えた関三次郎の親族、知人、友人から司法・海上保安庁関係者、CIC関係者、ソ連巡回艇「ラズエズノイ号」関係者、それに、暴力団関係者、鹿地亘失踪事件関係者、公安関係者、元軍人、通訳らさまざまな人たちが登場し、何らかの関三次郎とのつながりや関連性があったことが分かってきます。

 数百人に及ぶ取材の末、最後に著者は、関三次郎とは、ソ連KGBと米CICのダブルエージェントだったのではないか、と推測しますが、関本人は最後までのらりくらりと記者の質問をはぐらかし、検事正だった塚谷悟も、この事件は「国家機密」だったことから、「公務員の守秘義務」を楯に最後まで真相を語ることなく亡くなったといいます。

 推理小説のように最後は謎解きで終わって爽快感があるような内容ではありませんが、半世紀にわたって真相を追い求めた著者の情熱と信念が伝わってくる良書、意欲作、歴史に残る好著だと言えます。

Photo Copyright par Duc de Matsuoqua

いざ鎌倉への歴史散歩=覚園寺、鎌倉宮、永福寺跡、大蔵幕府跡、法華堂跡、浄妙寺、報国寺

鎌倉「覚園寺」

 8月9日に栃木県足利市の「足利氏館」(日本の100名城)に行ったお話を書きましたが、その時、「こりゃあ、しっかり鎌倉幕府のことを勉強して、鎌倉に行って実地調査しなければ、日本の歴史なんか少しも分からないなあ」と実感しました。

 足利氏は室町幕府を開くほど天下一の氏族となりましたが、もともとは、鎌倉幕府を開いた源頼朝の有力御家人として出世街道を昇り始めたからです。武家社会700年の最初を切り開いた鎌倉幕府を知らなければ、日本史は分からないと悟ったわけです。

 そこで、「いざ、鎌倉」ですが、見るべきところがあまりにも多過ぎます。歴史散歩にしても、寺社仏閣巡りにしても、掃苔趣味(偉人のお墓参り)にしても、全部回るとなると数年掛かるかもしれません。何しろ、中世の日本の首都だったわけですからね。

 そこで、今回は「歴史散歩」に絞ることにしましたが、最初に目指したのは、覚園寺(かくおんじ)です。お出掛けしたのは、熱中症危険情報が発令された8月11日(火)の夏休みです。

 この寺は、いつぞや、鎌倉の画廊で個展を開催されていた加藤力之輔画伯から、是非行くように勧められていたからです。(加藤画伯は現在、京都泉涌寺の宿坊にお住まいですが、鎌倉出身です)

 真言宗泉涌寺派鷲峰山(じゅぶさん)覚園寺は、二代執権北条義時が1218年に建てた薬師堂が前身になっている、と上の看板にも書かれていますね。

覚園寺 愛染堂

 再来年2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、この北条義時が主人公らしいので、ブームになる前に一度お参りしたかったのです。でも、何で、北条義時が主人公なんでしょうかね? 北条氏なら、御成敗式目を制定した北条泰時や二度の元寇を食い止めた北条時宗の方が有名なような気がしたからです。

 でも、義時も源頼朝の挙兵以来絶えず傍に仕え、頼朝の死後も将軍を補佐して屋台骨を支え、承久の乱でも後鳥羽上皇軍を破ったりしてます。ま、いずれにせよ、世間でまた鎌倉幕府が注目されることは大いに楽しみです。

覚園寺 本堂 薬師堂

 で、肝心の覚園寺ですが、普段は案内人の方が境内を色々と御紹介してくださるようでしたが、コロナ禍で、この薬師堂だけ辛うじてお参りすることができました。恐らく地蔵堂と思われるお堂は工事中で、間違えてお堂の前をうろついていたら、「ここには入らないでください」と関係者に怒られてしまいましたよ。入口に紐の柵でもしてあれば入らなかったんですけどね。多分、大河ドラマのロケ撮影のために綺麗にしているのかもしれません。でも、覚園寺の印象が悪くなりました。

 ただ、1354年に再建された本堂薬師堂の薬師如来像と日光、月光菩薩の薬師三尊は、国宝級でした。そして、その周囲に配置された十二神将も…。撮影できないのが残念でしたが、やはり、茲はお参りの価値はあります。

 実は、覚園寺に参る際、JR鎌倉駅東口から「大塔宮」行きのバスに乗りました。

 親譲りの無鉄砲で旅の計画を立てるのが苦手で、大雑把な予定しか組んでいなかったおかげで、随分と時間をロスしてしまいました。鎌倉駅には午前10時15分頃には着いていて、10時25分のバスに簡単に乗れていたのですが、駅でふらふらしたり、ちゃんと停留所の場所を調べていなかったので、目の前で発車してしまいました。次のバスまで20分、炎天下で待ちましたよ。

 大塔宮とは、鎌倉宮のことで、由緒は上の看板の通りです。

 学生時代の畏友刀根君は、20代から30代の大半を北鎌倉に住んでいて、鎌倉博士の異名を取っていたので、彼に、事前に、鎌倉のお薦めを聞いていたのですが、この鎌倉宮も入っていました。他に妙法寺、海蔵寺、杉本寺などもありましたが、今回は「歴史散歩」なので、残念、次回に回すことにしました。

永福寺跡

 鎌倉宮をお参りした後、是非とも、訪れたかったのが茲でした。永福寺と書いて「ようふくじ」と読みます。鎌倉宮の北、歩いて10分ほどにあります。途中で、けもの道みたいな狭い草茫々の道を歩きます。

 源頼朝は1189年、敵対する平泉の奥州藤原氏を攻め落とし、ようやく「全国統一」を果たします。

 奥州から鎌倉に帰ってきた頼朝は、自分たち幕府の政庁(大蔵幕府)の東に、この永福寺を建てます。前庭に池を張り巡らせ、攻め落とした平泉の毛越寺に大変良く似た設計だったと言われています。

永福寺跡

 建物は、薬師堂と二階堂と阿弥陀堂があり、迎賓館として使われた可能性もあるようです。

 識者によると、滅ぼした奥州藤原氏に対する霊の鎮魂の意味も込めていたと言われます。

 最近、発掘が進み、こうして整備されています。観光客は一人もいませんでした。鎌倉駅には多くの人がいましたが、恐らく、彼らは鶴岡八幡宮や小町通りに行くのでしょう。

 変わり者と言われようが、私は一人だけ、永福寺の遺構を眺めて色々と往時を偲び、感動で打ち震えておりました。やっぱり、変わってるかなあ…(笑)。

雪ノ下「八重寿し」 生バラちらし丼 1150円

 正午を過ぎたところで、早くもお腹が空いてきました。

 「岐れ道」交差点の近くにあった「八重寿し」に入りました。実は、この店は、ガイドブックに出ていて、事前にチェックしていたお店の一つだったのです。このガイドブックには地図が満載され、歩き回るのにもってこいです。しかし、やたらとレストランや土産物店も載っています。もしかしたら、こういうガイドブックというのは、お店から広告料をとって掲載しているのかしら、と疑ってみたくなりました。そう言えば、ネットの「グーグルマップ」なんて、お店情報だらけですよね。とても、タダで掲載しているとは思えない。クライアントになったことがないので裏の事情は分かりませんが、もしお分かりの関係者の皆様からの匿名情報があれば、お待ちしております(笑)。

 で、ここの「生バラちらし丼」ですが、実に美味、旨かったでした。鎌倉は観光地なので、銀座並みの値段でしたが、釣り合いは取れていました。ただ、ご飯の量があまりにも少ない、底が見えるくらいです(まさか)。一言、皮肉でも言いたかったのですが、店の50代後半に見える大将が機嫌悪く、ムスッとして話しかける雰囲気もなし。細かいことで、店の若いもん(とは言っても40代か?)を叱ったりしていたので、食べ終わるとそくさと出ました。「このガイドブックに出ていたのですが、掲載料を払ったんですか?」と聞いてみたかったなあ(笑)。

大蔵幕府旧跡

 お昼を食べて、少しは元気を回復したので、また、炎天下を歩きました。しっかりイタリア製の高級帽子ブガッティは被ってます。

 目指すは「大蔵幕府跡」です。

 ここに、源頼朝以来三代将軍と政子が46年間、政務を行った政庁社と住まいや寝殿などがあったのです。

 鎌倉幕府の政庁社の敷地のほとんどは、今や、清泉小学校になっています。ちょっと調べたら、この清泉小学校の創立母体とは、スペインの「聖心侍女修道会」なんですね。ということは、カトリックの私立学園ということになります。まあ、まあ、驚くばかりです。まさか、平城京跡に私立学校は建てられないでしょう?

 上の写真にあるように、大蔵幕府跡の碑は大正6年に鎌倉町青年会によって建立され、その解説を清泉小の子供たちの「自主研究」と思われる「成果」が貼られています。読みにくいですが、是非お目をお通しください。

 鎌倉に来て、そして、その前に鎌倉のガイドブックや資料を読んだりして、鎌倉幕府なのに、何で、薩摩藩の島津氏や長州藩の毛利氏が当たり前のように出てくるのかと思っていたら、勉強不足でした!

 まず、薩摩藩(鹿児島県)の島津氏。本姓は惟宗(これむね)氏で、始祖忠久は近衛家の家司(けいし)出身で、源頼朝の有力御家人になった人でした。島津氏は、後に薩摩・大隅・日向三国の守護になるわけです。

 そして、長州藩(山口県)の毛利氏。始祖は、何と大江広元(学者出身の鎌倉官僚)の四男季光(すえみつ=鎌倉幕府御家人)だったのです。大江氏一族は季光の四男経光のみ残りますが、毛利氏は安芸国の国人になるわけです。

 ということは、薩長という幕末の雄藩の藩主は、武家社会の始祖である鎌倉幕府からほとんど変わっていない名門の氏族だったということになりますね。ですから、これも、鎌倉幕府を知らなければ、日本史をよく理解できないという一つの例になります。

 この後、法華堂跡を訪れました。

 源頼朝、北条義時、大江広元、島津忠久のお墓があるからです。

 彼らがいなければ、鎌倉幕府は成立しなかったわけであり、逆に言えば、彼らのお墓参りすることによって、鎌倉幕府の存在を実感することができるわけです。

源頼朝墓

 源頼朝の墓は、小高い山の中腹にあります。

 年を取ると、長い階段を昇って、ここまで辿り着くのが結構大変で、息が早くなりました。

 お墓の近くで、若いアベック(死語)がイチャイチャしていたので、「何でこんな所で?」と、嫌あな気持ちになりました。

 下に降りて、白旗神社の近くにある小さな公園に日陰になったベンチがあったので、ここでペットボトルのお水を飲んで少し休憩。さ、これから何処に行こうか?とガイドブックと睨めっこしました。無計画ですからね(笑)。

 9日に「足利氏館」に行ったばかりなので、足利氏所縁のお寺に行くしかない!ということで浄妙寺を目指しました。臨済宗建長寺派。鎌倉五山の第5位です。

 熱中症になりかねないほどの炎熱下を、車の通りが異様に多い金沢街道の狭い歩道を歩きましたが、しっかりとした道しるべがないではありませんか!!

 あまりにも遠いのでおかしいなあ、と思い、途中でガイドブックの地図で確かめたら、そこは青砥橋で、10分近く余分に歩いてました。また引き返したら、浄明寺バス停近くに浄妙寺の駐車場があり、申し訳程度に表示がありました。でも、これじゃあ、後ろを振り向かなければ分かりません。「不親切だなあ」と確信した次第。

浄妙寺 本堂 拝観料100円

 この上の写真の浄妙寺本堂の空の青さと影の濃さをご覧頂ければ、少しは炎天下の暑さが分かってもらえるかもしれません。

 浄妙寺は、足利義兼(よしかね)が1188年に創建しました。足利義兼は、「八幡太郎義家」こと源義家のひ孫で足利氏二代目。9日に行ったあの栃木県足利市の足利氏館をつくった人と言われておりますから、また会いに来た感じです。義兼は頼朝の忠臣で鎌倉幕府御家人でしたから、地元の足利市よりも鎌倉にいる方が多かったことでしょう。それとも、「いざ、鎌倉」で、あの足利からかこまで駆け付けたのでしょうか?

 本堂の裏手には、室町幕府を開いた足利尊氏の父貞氏(さだうじ)のお墓があるので、お参りしてきました。このブログの「足利氏館の巻」でも書きましたが、足利貞氏は、上杉重房の孫の清子と結婚して尊氏らをもうけ、上杉氏と縁者になるのでしたね。

 最後に訪れたのが浄妙寺の向かいにある報国寺でした。浄妙寺と同じ臨済宗建長寺派でした。

 看板にある通り、足利尊氏の祖父家時が1334年に創建し、足利、上杉両氏の菩提寺として栄えたとあります。

報国寺 孟宗竹の竹庭 拝観料300円

 本日お参りしたお寺の中で、一番、広く、落ち着いて、京都の寺院と同じような雰囲気があり、大変気に入りました。

「いざ鎌倉への歴史散歩」は、無計画だったとはいえ、大変充実したものになりました。また、鎌倉には行きます。何回も行くことでしょう。次回も楽しみです。

足利学校~「日本100名城」足利氏館・鑁阿寺漫遊記

鑁阿寺(ばんなじ)本堂(国宝)

相も変わらず、コロナ感染者は増え続けていますが、本日(8月9日)は意を決して、城巡りの旅に出掛けてきました。家の中で本ばかし読んでいては駄目ですからね。

 鎌倉幕府の有力御家人で、尊氏の時代に室町幕府を開いた足利氏館(あしかがしやかた=栃木県足利市)が「日本の100名城」だということを知り、34度の暑さもものかは。是が非でも行きたくなってしまったのです。

 自宅の最寄り駅から片道2時間ちょっとで行けるのも魅力的でした。

JR両毛線足利駅は、生まれて初めて降りました。

 駅の時刻表を見たら、何と、1時間に1本しか運行していませんでした。北口と南口があり、どちらを降りたら目的地に行けるか確認したかったのですが、構内には目立つ看板は何処にもありませんでした。

 改札口の駅員さんに聞いて、北口で降りました。「小京都」と呼ばれているわりには、駅前商店街もなく、哀しい哉、寂れていました。

 最初に目指したのは、「日本最古の学校」と言われている足利学校です。

 駅から徒歩10分ほどで行けます。

 足利学校といえば、この写真が教科書などにも載っているし、一番有名でしょう。

 いいですねえ。

 私の世代の言葉で言えば「いけてます」。

 足利学校の創設については、諸説あります。

 奈良時代に、郡司や地方豪族の子弟の役人養成学校のためにつくられたとか、平安時代に小野篁(おのの・たかむら)によって創設されたとか、鎌倉時代に足利氏二代目の足利義兼がつくったとか(足利義兼は、この後に出てくる「足利氏館」を創建したという説もあり)色々ありますが、歴史的に明らかになっているのは、室町時代、関東管領上杉憲実(のりざね)が再興したことです。

 憲実は、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、鎌倉五山派の僧快元を初代の痒主(しょうしゅ=学長)として招聘します。

孔子像

 天文18年(1549年)、フランシスコ・ザビエルによって「日本国中最大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され、「学徒三千」とまで言われたそうです。

 ついでながら、足利学校を再興した上杉憲実は、室町時代の関東支配トップの「鎌倉公方」を補佐する「関東管領」でした。それが、将軍足利義教(よしのり)と鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)が対立するようになり、当初は憲実は調停に努力しますが、結局、幕命により持氏を討伐します(永享の乱、1438~39年)。その後、憲実は出家し、足利学校を再興します。もともと、学問を好む人で、諸国行脚して西国で没したと言われます。

 また、ついでながら、上杉氏が何で関東支配のナンバー2になれるほどの権力者になれたかというと、室町幕府を開いた足利尊氏の生母清子が上杉重房の孫だったからでした。

 この上杉重房という人は、もともと藤原氏の分家である観修寺家でしたが、丹後の上杉荘(現在の京都府綾部市)を支配していたことから、上杉氏を称することになります。

 観修寺重房から上杉重房になった彼は、1252年に、当時の都・鎌倉に移り住みます。そして、重房の孫清子が足利貞氏に嫁ぎ、尊氏を生むわけです。

 関東管領になった上杉氏はその後、山内(やまのうち)、扇谷(おおぎがやつ)など四家に分裂し、先日、このブログの「川越城の巻」で取り上げた河越合戦(1545年)で、小田原の北条氏康によって扇谷上杉氏は滅亡し、越後に逃れた山内上杉氏も長尾景虎(後の上杉謙信)に上杉姓と関東管領を譲り、滅亡してしまうのです。

足利学校 南庭園

 滅亡させられた上杉氏にとっては皮肉なことに、火災などによって荒廃した足利学校は、この北条氏康によって、また再興されるわけです。でも、弱肉強食の戦国時代ですから、私なんか、もっと小田原の北条氏康は再評価されるべきだと思っています。

 江戸時代になると、全国から青雲の志を持った心ある多くの若者が足利学校を訪れます。主な著名人は、林羅山、谷文晁、渡辺崋山、吉田松陰、高杉晋作らです。

 足利学校から今回の主目的である「足利氏館」に向かいました。

 途中で、いわゆる茶店や有名蕎麦店(長い行列が並ぶ相田みつをゆかりの「なか川」)などが並び、ほんの少し観光地らしい雰囲気です。

 戦前の皇国史観では、足利尊氏は賊軍の象徴のような悪者扱いでしたが、戦後になってようやく、次第に、中立に歴史的にも判断されるようになりました。良いことだと思っています。

 大変失礼ながら、よくぞこのような寂れた所から全国を統一する野心家というか偉人が出現したものだと感心してしまいました。言い過ぎでした。当時は栄えて華やかだったことでしょう。地元の皆様ゴメンナサイ!

 そもそも、足利氏は、「八幡太郎義家」で知られる清和源氏、源義家の孫義康が足利に本拠地を置いたと言われますから、血統は申し分ないのです。(山川出版「日本史小辞典」)

 さあ、いよいよ、その足利氏が本拠地を置いた「足利氏館」です。

 でも、あれっ?お寺みたいですね。

 金剛山鑁阿寺ですか…。鑁阿寺? 「ばんなじ」なんてとても読めませんね。

 案内の看板には、「平安後期、八幡太郎義家の子、義国、その子足利義康(足利氏祖)の二代にわたって堀と土手を築いて邸宅としました」と書かれています。

 が、私の持っている「日本100名城 公式ガイドブック」では「創築者は、足利氏二代目義兼説が有力である」と書かれています。

 何だか分からない。。。

 建久7年(1196年)、義兼が館内に持仏堂をつくり、これが鑁阿寺という足利氏一門の氏寺となって現在に至るわけです。

 真言宗大日派なので、弘法大師空海像が館内にありました。

 はい、この通り、本堂は国宝でした。

 こちらに足を運んでお参りしないと、実物にお目にかかることはできません。

 御本尊様は大日如来のようですが、残念ながら、特別な人しか本堂の内部に入れないので、よく見えませんでした。

 真言宗なので、「南無大師遍照金剛」と唱え、コロナの逸早い終息をお祈りしました。

 本堂の西にある経堂です。重要文化財に指定。万巻のお経が収められていると思われます。

 こちらは、多宝塔です。

 2年前に、真言宗の総本山、高野山金剛峰寺の根本中堂をお参りした時、このような多宝塔を多く拝見したので、少し懐かしくなりました。

 上の看板をよくお読みください。

 「徳川氏は新田氏の後裔と称し」たとありますね。武家社会の始まりである鎌倉幕府と足利氏や新田氏らを含めた東国武士団とも呼ばれた鎌倉の御家人のことをもっと勉強しなければ、日本史は何も分からないと思いました。

 いざ、鎌倉に行かなければ、と気がせきました。夏休みになったので、後日、鎌倉巡りを計画しています。

 鑁阿寺の鐘楼。建久7年(1196年)建立とありますが、本当ですかね?一度も火災に遭っていなければ、重文でなく、国宝でなければおかしい気がします。

 まあ、何処から見ても、ここは「弘法大師御霊場」であるお寺ですね。城巡りに来たつもりなんですが…。

 東門にありました、ありました。「史蹟 足利氏宅址」ですか…。館(やかた)でなくて宅でいいんでしょうか…(笑)。

 やはり、こちらも足利氏宅跡ですね。何か、足利さんちのお家って感じなんですが…。

 ひ、ひ、控えよ、何と心得ておる。天下の征夷大将軍足利氏の館であるぞよ、と怒られそうです。

 最後にやっと、城址らしい雰囲気を見つけました。

 お堀と土塀…中世の城らしい雰囲気です。石垣は後世になってつくられたような気がしますが、あまり自分の意見を勝手に言うと専門家に怒られるのでやめておきます(笑)。

 旅の途中で、有名な釈正道和尚から「無事帰還」を案ずるメールを頂戴仕りました。有難いことです。熱暑の中、無事に帰宅でき、こうしてブログを書くこともできました。