エイコ・マルコ・シナワ著「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」を読む

 新聞の書評で、エイコ・マルコ・シナワ著、藤田美菜子訳「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」(朝日選書、2020年6月25日初版)の存在を知り、早速購入してこの本を読んでいます。「その筋」の本は、どういうわけか、小生のライフワークになっていますからね(笑)。きっかけは30年も昔ですが、芸能担当の記者になり、芸能界とその筋との濃厚な関係を初めて知り、裏社会のことを知らなければ芸能界のことが分からないことに気が付き、その筋関係の本をやたらと読みまくったからでした。

 この本は、副題にある通り、芸能界ではなく、政治の世界と暴力団との密接な関係を抉りだすように描かれています。暴力というか武力で政治を動かしてきた史実は戦国時代どころか古代にまで遡り、その例は枚挙に暇がありません。この本では、その中でも幕末の1860年(桜田門外の変があった年)から昭和の1960年(安保闘争、三池争議、浅沼社会党委員長暗殺事件があった年)までの100年間に絞って、多種多様な資料と史料を駆使して分析しています。それらは、幕末の志士(彼らは今で言うテロリストでもあった)に始まり、明治の壮士(暴力で敵対する政治家の演説を妨害した)、大正・昭和の院外団(大野伴睦が有名)、そして本物のヤクザの衆院議員(吉田磯吉、保良浅之助ら)を取り上げ、日本人でさえ知らなかった負の歴史を教えてくれます。

 著者のエイコ・マルコ・シナワ氏は1975年、米加州生まれで、米ウイリアムズ大学歴史学部教授という略歴が巻末に載っていますが、著者がどうしてこれほどまでに日本の近現代史に興味を持ち、その専門家になったのか、読者が知りたいそれ以上の情報は、何処にも、ネットにも掲載されていませんでした。名前から日系米国人と推測されるのですが、故意なのか、その点については全く触れていません。幕末明治の史料も相当読み込んでいると思われ、旧漢字も読めなければならないので、かなり日本語に精通した米国人であることは確かのはずです。

 この本の原著は、2003年に著者がハーバード大学の博士号を取得した論文だといいます。最初から一般読者向けに書かれなかったせいか、堅く、読みにくい部分もありますが、外国人から見る日本史は容赦がないので、そういう見方があったのか、と新鮮な気持ちにさえさせてくれます。日本人の学者が、これまであまり真摯に取り上げて来なかった暴力団と政治との濃厚接触関係という視点も外国人の学者だからこそできたのかもしれません。

 巻末の「謝辞」では、実に多くの日米両国の偉大な専門の歴史家にお世話になったか、実名を挙げて御礼の言葉を述べています。が、最初のイントロダクションで、「徳川幕府(1600~1868年)」と出てきたのには驚かされました。1600年は関ケ原の戦いの年で、まだ、徳川家康は全国統一を果たしていたとは言えない年。家康が征夷大将軍に任官された1603年が徳川幕府の始まりと日本では教えられています。また徳川幕府が終わったのも大政奉還の年の1867年でいいんじゃないでしょうか?

 最初から少しケチを付けてしまいましたが、この本から学んだことは大いにあったと断言できます。

 特に、政友会の衆院議員だった暴力団の親分、保良浅之助(1883~1975)については勉強になりました。その前に、この本の表紙にもなっている憲政会の吉田磯吉(1867〜1936)に触れなければなりません。

 吉田は、火野葦平の「花と竜」のモデルにもなった侠客です。荒くれ男が多い遠賀川沿いの北九州若松を根城に賭博場を経営し、筑豊炭坑の石炭を大阪に運ぶ若松港の発展に寄与するなど地元の大親分として一目置かれていました。反政友会候補として政界に打って出て初当選したのが1915年、以後32年まで衆院議員を務めます。労働争議では経営者側に有利なように介入したと言われます。この本には書かれていませんでしたが、彼の葬儀にはわざわざ東京から元首相の若槻礼次郎や民政党総裁の町田忠治までもが参列したことを、猪野健治著「侠客の条件―吉田磯吉伝」 (ちくま文庫) で読んだことがあります。

 一方の保良は、憲政会の吉田磯吉に対抗するために政友会から三顧の礼を持って迎え入れられた人物(衆院議員に当選)でした。勿論、吉田と同じ侠客です。賭場を開帳するヤクザの親分でしたが、山口県下関で身を落ち着けて、魚の運搬に使う竹籠の製造業を大きくし、朝鮮にまで進出して木箱の製造を始め、終いには山口、鳥取、熊本などに製材所や建設会社、製氷会社、下関駅前には山陽百貨店を開業し、兵庫、広島、大阪には数十の劇場まで経営するほどの実業家になります。そして、裏街道では「籠寅組」を率いていたといいますから、驚いてしまいました。この本は政治の話が中心なので、書いていませんでしたが、下関の籠寅組と言えば、その筋では名門中の名門。浪曲師広沢虎造の興行を巡って、神戸の山口組と敵対し、東京浅草で、籠寅組が山口組二代目の山口登組長を襲撃して重傷を負わせた(後にこの傷が元で死亡)武闘派だったからです。

 著者は、政友会が保良をスカウトする際、長州出身の田中義一首相が直々に説得し、その際に、恐らく国家機密を明かしたのではないかと推測しています。その機密事項とは、山東出兵失敗や張作霖爆殺事件の話だと思われるとまで書いています。仮初めにも籠寅組を率いるヤクザの親分と政界トップがここまで親しげな仲だったとは、同時代の日本人はともかく、後世の日本人はすっかり忘れているか、もしくは知らないことでしょう。

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 ついでながら、色々と政党が出てきたので、この本に沿って乱暴に整理してみます。

 明治維新の原動力になったのが、薩長土肥の四藩。それが自由民権運動が高まる中、明治一四年の政変が起こり、権力が薩長二藩に独占されます。薩摩が海軍、長州が陸軍を仕切るわけです。野に下った土佐高知の板垣退助は自由党を結党し、肥前佐賀の大隈重信は改進党(後の進歩党)を結党します。この両者は、一時期、隈板内閣をつくり、1898年に合併して憲政党を結党するなど密月があったものの、間もなく分裂します。1900年、旧自由党に、伊藤博文、星亨らが合流して結党したのが、政友会です。一方の反政友会の流れは、1913年、桂太郎による立憲同志会が結成され、16年には中正会などと合流して憲政会(27年に民政党に改称)となるわけです。憲政会の初代総裁加藤高明は、岩崎弥太郎の女婿となったことから「三菱の大番頭」と皮肉られ、後に首相になった人です。

 昭和初期に青年将校らによって「財閥と結託した腐敗政党」と糾弾されたのが、この政友会と民政党の二大政党のことです。政友会には三井財閥、民政党には三菱財閥がバックにいたことは周知の事実だったことから、血盟団事件では三井の総帥団琢磨らがテロで暗殺されたりするのです。(つづく)